盛和塾 読後感想文 第八十五号

人生の目的を求める 

人生の目的を見失っている若者が増えています。会社に入っても、生活の手段として給料をもらうだけで、趣味やレジャーに生きがいを求める人が少なくなっています。自分の生活や家庭を守ることに生きがいを見つけ、現状維持を計り、保守的な生活をする人が増えています。日本国内にばかり目が移り、海外から遠ざかるような風潮が見られます。これでは個人も国も孤立してしまいます。

人生経験を積んだはずの三十代後半から上の人たちが自信を失い、世の中が変わったとか、古い話は通じないなどと思い込み、自分の歩むべき道を失うことも多いようです。 

しかし、周囲が急速に変化していきますから、これではダメだと皆がもっと高いレベルの目的を求めるようになると思います。 

仕事に打ち込み、世の中、人のために役に立ち、自分が他人から頼りにされる存在でありたいと皆が考えるようになるだろうと思います。時代がどう変わろうと、自分の存在意義を真剣に考える人も多くおられます。 

こうした人生の意義や目的を若い人たちに語り掛けますと、若い人たちも共鳴してくれるはずだと思います。 

いかに生きるべきか -ベトナム社会科学院シンポジウム基調講演― 

ベトナムの未来を担う人たちへ 

鹿児島大学に留学されておられた日本文化学院副学長のフアム・フー・ロイさんが、塾長の著書 “君の思いは必ず実現する” に心を動かされ、ベトナム語に翻訳出版されました。 

このことがきっかけとなり、この講演が開催されることとなりました。ベトナムの未来を担う人たちが、この講演から何かしら得られるものがあればと願って、講演させていただきますと塾長は述べておられます。 

全身全霊で仕事に打ち込むことで、人生に好循環が生まれる 

日本敗戦の後、ほかの日本人の家庭と同様、稲盛家も困窮したのでした。大学を卒業した後、就職難の中やっとの思いで京都にある、送電線用の碍子 (がいし) を生産する会社に就職しました。しかし、この会社は給料の遅配が続くような赤字会社でした。同時入社した人たちは口を揃えて不平不満を述べていました。

一人辞め、また一人辞め、同時入社した人たちは誰もいなくなりました。そして、稲盛和夫だけが取り残されてしまいました。しかし、他に行くところのなかった塾長は、このオンボロ会社から与えられたファインセラミックスの研究に力を注ぐようになったのでした。

実験室に泊まり込み、一心不乱に仕事をするようになりました。そのように全身全霊で研究に打ち込み始めると、次から次へと素晴らしい研究成果が現れてきたのです。 

すると、上司から褒められ、さらに役員からも声を掛けられるようになり、仕事が面白くなってきました。今まで挫折続きであった塾長の人生に好循環が生まれ出したのです。

そして、研究を始めて一年半ほど経った頃、塾長はフォルステライトという新しい高周波絶縁材料の合成に成功しました。劣悪な研究環境の中にあっても、アメリカのGE社に次ぐ、世界で二番目の合成の成功でした。 

さらに、この新しいファンセラミックス材料を、日本の大手電機メーカーが、当時急速に普及していったテレビの重要部品として採用したいと申し入れてきました。技術者としての苦労が報われただけでなく、赤字を続けていた会社にとっても起死回生となるような受注となりました。 

塾長はファインセラミックスの開発のみならず、量産までも担当するようになりました。

さらに今度は新たにセラミックス真空管部品の開発依頼を受け、塾長が開発したフォルステライトを使って取り組んだものの、開発は難航しました。 

しかし、新生の技術部長はセラミックスについては門外漢で、見当違いの指示を出すだけではなく、技術者の苦労を理解しようとしませんでした。そして、塾長は退社を決意したのでした。ところが、私の退社に私の部下も上司もついていきたいと言ってくれ、さらには新会社の設立を支援してくださる方々もあり、1959年に塾長は京セラを創業していただいたのでした。 

こうして、全身全霊で仕事に打ち込んでいくことで、塾長の人生に好循環が生まれることとなったのです。 

一つのことを継続して努力し続けることが、成功への唯一確実な道 

京セラは半世紀にわたってファインセラミックスの研究開発と応用、その事業化に携わってきました。耐摩耗性、耐熱性、耐熱衝撃性、さらには耐食性など様々な優れた特性を持つセラミックス材料を開発し、各種産業用部品として、その製品化を図ってきました。 

セラミックスの電気特性を活かしたコンデンサなど、各種電子部品の開発量産を幅広く進め、携帯電話、プリンタなどの開発量産を行ってきました。今日の京セラの発展や自分の人生があるのは社会人になって以来、ファインセラミックスの開発や会社経営に一筋に打ち込んできたからにほかなりません。一意専心、ただ一つのことを誰よりも懸命かつ誠実に実践してきたことが、その要因であると塾長は語っておられます。 

最初からファインセラミックスの開発に打ち込むことができたわけではありません。気持ちを切り替えて、ファインセラミックスの研究に打ち込もうとしてからも、実際には毎日地味な作業の連続で、決心が揺らぐこともありました。 

ファインセラミックスの材料開発は原料を乳鉢に入れ、日がな一日捏ね続けたり、ホットミルという器具に原料を入れ、一日中回して粉砕調合を繰り返すことから始まります。これらの作業は他の原料が混じると正確な実験結果が出ないものですから、実験が終わるたびに器具をきれいに洗浄しておかなければなりません。 

来る日も来る日もそのような実験を繰り返していますと、毎日こんな地味なことばかりしていていいのだろうかと考え込んでしまうのでした。しかし塾長は、この尺取虫のような地味な一歩一歩の積み重ねが、やがては成功という道に通じていることを信じ、ただひたすらにファインセラミックスの研究開発に邁進したのでした。 

ただ一つのことを継続して努力を重ねるということが、人生において偉大なことを成し遂げる唯一の方法であるということを確信したのでした。 

継続を可能にする五つの実践項目 

一つのことを継続していくということは、大変難しい事です。年月が経過して、周りの状況が変わりますと、人の心自体が変節してしまい、志半ばで断念してしまうことが多いようです。 

そうならない為に、次の五つの実践項目が重要だと考えました。 

  1. 仕事を好きになる

最初から自分の好きな仕事に就けるような人は稀です。大半の人はたまたまその仕事に携わることになったに過ぎないのです。嫌々ながら仕事に取り組むといった姿勢で時間を過ごすことは、人生を無為に過ごすことになってしまいます。 

自分の仕事が好きだという人々のほとんどは、好きではなかった仕事を、気持ちを切り替えることにより、懸命に努力をして好きになっていった人たちなのです。

人生や仕事において偉大な業績を成し遂げた人はやはり心から仕事を愛しています。 

  1. 仕事に打ち込む

仕事に打ち込むとは、だれにも負けない努力をするということです。

京セラの場合、京セラはマラソンでいうならば、素人集団のようなものでした。それも後発の参入だけに、遅れてスタートを切ったのです。

つまり、先頭集団はコース半ばに差し掛かろうとしているのです。ならば京セラは百メートルダッシュで追いかけなければ、勝負にはなりません。それで42.195キロメートル走り切れるわけがないと人は言います。しかし、素人ランナーが自分のペースで走っても勝負にはならないではないか。倒れるまで全力で走ろう。と塾長は社員に呼び掛けました。 

百メートル走のスピードでマラソンを走ったのでは、途中で落伍すると誰しもが思ったのでしたが、それが習い性になってスピードを持続しながら今日まで走り続けることができました。すると、先行ランナーが意外と速くない事に気がついたのです。そうしますと、さらにスピードが増し、第二集団を抜き去り、先頭集団が視野に見えてきました。

こうして京セラは株式上場を果たしたのでした。 

百メートル走のスピードとは “誰にも負けない努力” のことです。強い意志を持って、誰にも負けない努力を続けることで、どんな障害も乗り越えることができ、想像もできないほど素晴らしい実り豊かな人生を歩むことができるのです。 

  1. 喜びや楽しみを見出す

苦しい局面ばかりでは長続きしません。仕事の要所要所で一歩ずつ前進する、積極的に働き甲斐を見つけていく工夫が大切です。 

ささやかなこと、前進を素直に喜ぶことができる、同僚とその喜びを共有することが必要です。そのような心の素直さや純粋さこそが地味な仕事を生涯継続し、成功する為の最大の活力源なのです。 

  1. 日々創意工夫をする

今日よりは明日、明日よりは明後日と創意工夫をする。同じ研究、同じ仕事をするにしても、今日より明日、明日より明後日と京セラは創意工夫をしてきました。実験の場合でも、昨日はこういう実験をしたけれども、今日の実験では工夫をしてもっと結果を出そうと、創意工夫を怠らないように京セラではやってきました。 

塾長は語っています “次にやりたいことは私たちには決してできないと他人から言われたものだ” いかなる世の偉業も実はこのような地味な創意工夫の積み重ねなのです。 

  1. 今日一日を一生懸命生きる

経営をする場合、長期プランを立て、それを忠実に守ることが大切だと言われています。しかしほとんどの場合、長期の経営計画を立案しても、なかなか達成できるものではありません。予想を超えた市場の変動や不測の事態が発生し、下方修正が必要になったり、ついには計画を放棄せざるを得ないような事態が起こったりします。 

また、長期経営計画の多くが、売上や生産の目標が達成できていないにも関わらず、経費や人件費は計画通りに消化され、それが売上の減少や経費の増大を招き、長期経営計画が達成できないことが多いのです。 

今日一日を一生懸命に働くことにより、明日が見えてくる。今月を一生懸命に働くことによって、来月が見えてくる。今年一年を一生懸命働くことによって、来年が見えてくるという考えのもと、京セラは運営されてきました。 

人生の目的は、世のため人のために善きことを実践し、心を高めること 

人間は何のために生まれてきたのか。

人間は自らの意志で誕生するわけではありません。両親から生を授かり、気が付けばこの世に存在しているだけの事です。この世に生を受けたことは偶然であり、人生には目的などなく、存在意義がないと考える方もおられるかもしれません。

人間の存在は必然であり、人生には明確な目的と意義が存在すると塾長は考えておられます。 

生物の世界では、食物連鎖があります。炭酸同化作用で成長した植物を草食動物が食べ、その草食動物を肉食動物が食べ、さらに肉食動物は土に返ります。そして、土は植物の成長を促すという一連の食物連鎖があります。このように、自然の世界とは絶妙なバランスのもとにあり、不必要なものは何一つとしてありません。 

この宇宙にあるものには全て必然性があり、存在することに意義が、価値があると考えられるのです。路傍の方にさえ存在意義があるとするならば、人間には高次元の存在意義があると考えてよいと思います。 

人間は他の宇宙にある全てのものと協働していかなければ、生き抜くことは出来ません。他のものが生き延びられるように協働することが、自分自身を生き延びさせることだと人間は学んできたのです。例えば、自己犠牲を払ってでも家族や友人の為に尽くす。身寄りのない老人や、恵まれない子どもたちの為に何かをあげる。または企業経営を通し、多くの従業員の物心両面の幸福に努め、さらに雇用や納税、科学技術の進歩に寄与することで、国や社会の発展に貢献するというようなことです。 

しかし、ともすれば人間は、目先の自分の欲望を達成する為に周囲の人達のことを忘れ、利己的になり、自分の欲望を優先してしまうことが多いのです。一流大学を出て出世して、高級官僚や政治家になり、または経営者として成功し、 “功成り名遂げる” ことを人生の目的としてしまうことがあります。 

しかし、いくら立身出世を遂げ、高い地位と豊かな財産、社会的な名誉を獲得したとしても、やがて死を迎える時にそれらを死出の旅路に携行することは出来ないのです。唯一残るのは魂だけなのです。

魂しか残せないのなら、豊かな魂を残したいと考えてはどうだろうと思います。財産を増やしたとか、名誉を勝ち得たなどということも大切なことです。しかしそれが人生の目的ではないはずです。 

年を重ね、人生の最期を迎える時に “あの人は若い頃に比べると人格が善くなり、大変立派な人になられた” と言われることが人生における真の功績だと塾長は語っておられます。 

人生を生きる中では “心を高める” “心を浄化する” “心を純化する” “心を磨く” ということに努め、魂を美しく気高いものに昇華させていくべきです。それは、もともと原石 (赤ん坊) のような魂を、その生涯をかけて磨き上げていくことで、素晴らしい人格者になることこそが人生の意義だと塾長は述べておられます。 

苦難のみならず成功という試練を通じて人格が磨かれる 

自分を磨いていくのには試練が必要なのです。偉大なことを成し遂げた人で、試練に遭遇したことがないという人はいないようです。 

西郷南洲は若い時に、志を同じくした友人が身を海に投じた時、自分も同じく身を海に投じたのですが、自分だけが蘇生してしまったのでした。

また、二度にわたり南海の孤島に流され、長く幽閉されました。しかし、こうした逆境の中で西郷は古典を紐解き、自分を高める努力を怠ることはなかったのです。苦難に耐え、苦難を糧として人格を磨く努力をひたむきに続けました。 

遠島の刑を終え、高潔な人格と見識を備えた人物として、人々の人望を集めて明治維新革命の立役者となっていったのです。

西郷は遺訓として、 “幾たびか辛酸を歴 (へ) て志始めて堅し” と述べています。人間はいくつかの試練を経て、ようやく人格が磨かれていくということを西郷は身をもって経験したのでした。 

しかしその一方で、輝かしい成功も試練なのです。

仕事で成功を収め、地位も名誉も財産も獲得したとします。人は尊敬もし、羨望の眼差しで見上げることでしょう。しかし、それさえも厳しい試練なのです。 

成功した結果、地位に驕り (おごり) 、名声に酔い、財産に溺れ、精進を怠るようになれば、人間は瞬く間に堕落し、没落を遂げ、その人生を台無しにしてしまいます。しかし、成功を糧に更なる高い目標に向け、謙虚に努力を重ねていくなら、人生はさらに輝きを増していくのです。 

つまり人生とは、大小様々な苦難や成功の連続で成り立っていますが、そのいずれもが人を試す、心を磨く試練なのです。人間にとっては試練がある意味で、人生を豊かにする為に自然が与えてくれた機会ではないかと思われるのです。人生とは “魂の修業の場” なのです。

盛和塾 読後感想文 第八十四号

心は心を呼ぶ

稲盛塾長は“人の心をベースとした経営を行うよう努めてきました。強固で信頼のできる心の結びつきを社員と作り、それを保ち続けることに焦点を絞り、経営をしてきたのです”と語っています。 

愛されるためには愛さなければならないように、心をベースにした強い人間関係を築くためには、経営者自らが純粋な心を持ち、純粋な心の持ち主に集まってもらわなければならない。 

純粋な心とは、自己的な本能を極力抑えていくことが重要です。社員が心を寄せてくれる為には、強い意志でもって、私利私欲を捨てるように努めていく。それを社員が理解し、受け入れてくれるように努力します。 

一生懸命努力をし、思いやりに満ちた利他的な心がもたらした立派な企業は、枚挙にいとまがありません。しかし、人心の荒廃が、立派な企業を虫ばみ、集団の崩壊をもたらし、多くの社員を不幸に陥れた例も数多くあります。 

人心の荒廃は、トップの心に謙虚さがなくなり、利己の心が虫ばむことから始まるのです。心が心を呼ぶのです。 

西郷南洲に学ぶリーダーのあるべき姿 

成功を持続させるためには、リーダーが欲望を抑えなければならない 

  1. 創業より守成のほうが難しい

戦後六十年以上が経ちました。敗戦により、日本は焦土(しょうど)と化しましたが、国民一人ひとりが日本の経済を立ち直そうと必死の努力を重ね、日本を世界有数の経済大国に蘇(よみがえ)させることができました。ところがその中で、多くの企業の盛衰が発生しています。最近の企業の不祥事を見ていますと、立派な会社を作るよりも、立派になった会社を守っていくことのほうがはるかに難しいのだと思います。 

  1. 欲望が成功を没落に導く

立派な経営者として人々から尊敬され、賞賛されていた方が、晩年には没落をしていかれます。なかには会社が倒産し、自らも悲惨な状態に陥られる方もおられます。多くの場合、成功が転落のきっかけになっていきます。 

会社を作り上げ、社内で絶大な権力を持ってしまいますと、社長に反対するような社員はいなくなってしまいます。反対する人がいなくなりますと、ついつい正しいことを行うことを忘れてしまい、私ごとに流れていくようになり、公私混同が起きてしまいます。そうした人でももちろん、公私混同をしてはならない、または経営に私情をはさんではいけないということは知識としては知っています。“知っている”ということは“実行する”と同意ではありません。“実行する”ことが難しいのです。実行する努力をし、“全うする”実際に行い、その結果まで確認することが難しいのです。 

会社設立した頃は、苦労しながらも会社を立派にしようと思って一生懸命に頑張ります。しかし会社が立派になりますと、成功から没落への引き金になることが多いのです。そうならない為に、欲望を抑え、節度を保つということを全うすることが、トップの人間としての責任です。 

会社が成功してもなお謙虚に地道に経営を続けていかなければなりません。倹約に努めつつ、ひた向きに努力するような地味な生き方をすることでしか、成功した企業を守り続けていくことはできないのです。 

中国の古典の中に“一国は一人を以って興り、一人を以って亡ぶ”(北宋の文人、蘇洵(そじゅん)の言葉)というのがあります。組織・集団の成否はリーダーによって決まるということが言われています。 

敬天愛人の精神に基づいて京セラを経営 

  1. 人間として正しいことを貫く

稲盛塾長は京都の硝子メーカーに大学卒業後就職しました。赤字が続く会社で、給料遅配がよくある会社でした。同期入社の仲間が次々とやめていき、塾長ひとりが取り残されました。そうした中で、愚痴を言っているのでは何もならないと考え、ファインセラミックスの研究に没頭しました。その結果、日本で初めてファインセラミックスの新材料の合成に成功するなど、多くの成果を上げることができました。 

27歳で周囲の方々の支援によって京セラを作っていただき、研究開発が始まりました。経営者としての道が始まりました。仕事の中で、従業員からいろいろな提案があり、その都度意志決定をする必要に迫られたのでした。 

そうした中で会社を作って頂いた方が“敬天愛人”という一幅の書を持って来て下さいました。西郷南洲は、稲盛塾長の郷土の大先輩でした。 

会社を始めて以来、様々な経営判断を迫られ、一つひとつ、“それをやってもいい、それはダメです”という判断を下すことが、トップの責務なのだということがわかったのでした。 

経営の経験もなく、基準をもたない塾長は困り果て、子供の頃に両親や先生から教わった“やっていいことと悪いこと”を判断の基準にしようと決めたのでした。会社経営の判断基準として“人間として何が正しいのか”という一点に絞ることになりました。 

西郷南洲の“敬天”、つまり天を敬うということは、“人間として正しいこと”と同じ意味であると理解したのです。“人間として正しいこと”とは、天が指し示す正しい道を実践していくこと、と理解したのでした。 

しかし、昨今の産業界における不祥事の続発を見るにつけ、“人間として正しいことを貫く”という原理原則の大切さは、言葉で言い尽くせるものではありません。 

アメリカの証券取引委員会(SEC)では企業統治、コーポレートガバナンスはいかにあるべきかという観点から、不祥事が起きないようにする為に膨大なルールを定めたSOX法をつくり、ニューヨーク証券取引所に上場しているすべての企業に適用しています。現在は、法や制度の整備を進めることによって、不祥事を防止しようという方策がとられています。しかし、リーダーが自分の利益を増大させるためには、何をしても構わないという思いを少しでも持っている限り、不祥事は根絶することはできないと思います。 

“敬天”、天に恥じない経営をするという考えが実践されることによってしか、不祥事を未然に防ぐことはできないのではないでしょうか。 

  1. 従業員の物心両面の幸福を追求する

敬天愛人の愛人についてですが、下記のような従業員との話し合いの中で、人々を愛することの大切さを理解するきっかけとなりました。 

京セラ設立三年目の時でした。前年採用した高卒の社員たちが、“将来が不安だから、昇給や賞与など、将来にわたる待遇を保証してくれ”と要求してきました。京セラはできたばかりで、みんなで力を合わせて立派な会社にしていこうと思っています。しかし“将来を保証してくれなければ、今日限りで辞める”とゆずりませんでした。この話し合いは、市営住宅の塾長の家で、三日三晩続いたそうです。“ボーナスはこうする、昇給はこうするという約束はできない。私にも会社の将来はわからない。約束することは嘘をつくことになる。しかし私は誰よりも必死になって会社を守っていこうと思う。そして君たちの生活がうまくいくようにしてあげたいと強く願っている。私の誠意を信じてほしい” 

三日三晩の話し合いで、全員が納得しました。京セラはもともと“稲盛和夫の技術を世に問う”ために作っていただいた会社だったのです。以前に勤めていた会社では、稲盛塾長の研究や技術を認めてくれなかったが、京セラでは誰に遠慮することなく、自分の技術を世に問うことができる。技術者として私的な願望が京セラ設立の目的だったのでした。

ところが社員の反乱で、私的な技術を世に問う場としての京セラは、吹っ飛んでしまいました。技術者としての理想を追求する会社から、社員達の生活を守るという目的に変貌してしまったのでした。 

会社というものはその中に住む従業員に喜んでもらうことこそが目的であり、最も大切なことだと理解することができました。“全従業員の物心両面の幸福を追求する。そして人類・社会の進歩・発展に貢献する”という経営理念が生まれたのでした。 

これは“敬天愛人”の愛人、人々を愛するということなのだと、改めて西郷南洲の思想の真髄(しんずい)を理解した気がしたと塾長は謙虚に語っています。

“南洲翁遺訓”に出会い“無私”の大切さを知る 

山形県の庄内にお住いの方がある日訪ねてこられ、“南洲翁遺訓”をくださいました。この遺訓は鹿児島県ではなく山形県庄内で西郷南洲の思想をまとめたものでした。そして西郷南洲の思想哲学のすばらしさに感動しました。それが企業経営上、リーダーとしてあるべき姿を描いており、リーダーとしての重要な要諦だと気付いたのでした。 

“政府の中心となり、国の政(まつりごと)をするということは、天道を踏み行うということだ。だから少しでも私心を差しはさんではならない。徹底的に心を公平にして正しい道を踏み、広く賢明な人を選び、その職務をちゃんと果たして行ける人をあげて政治を執り行わせる。これが天の意である。だから賢明で適任だと認める人がいたのなら、すぐにその人に自分の職を譲るべきなのである。官職というものは、その人を選び、それに適任の人に授けるもの。功績のあった人にはお金をあげて大切にすればよいのだ。” 

トップに立つ者は天道を踏み行うものであって、少しでも自分を大切にする思いを差しはさんではならないと西郷は述べているのです。 

企業はいつ何時、危機に遭遇するかも知れません。従業員を路頭に迷わせることがあってはなりません。その為、トップは必死に仕事に励んでいくことが必要です。“個人の時間などは一切ない”と思います。 

素子飯野ドアに立つ人はその組織に自分の意思、いわば生命を注ぎ込むことにより、組織は生物のように活動し始めるのです。すなわち、社長が四六時中会社のことを考えている間は、会社は活動しています。しかし、一旦会社のことを考えない時は、会社は生きていないのです。経営者たる者、四六時中会社のことを考えていかなければ、会社が機能しなくなるとすると、個人というものは一切あり得ないのです。 

なるべく私人としての自分が個人にかかる時間を少なくし、社長としての公人としての意識を働かせている時間を多く取るようにする。自分自身のことは犠牲にしてでも会社のことに集中する。これがトップの責任なのです。いわば自己犠牲を厭(いと)わないでできるような人でなければトップになってはならない。更に一歩進んで、自己犠牲よりは、むしろトップとしての仕事に楽しみを見出すぐらいでなければトップとなってはいけないのです。 

リーダーは苦楽を共にしてきた人を大切にしなければならない 

西郷南洲の遺訓集の最初には以下のことが語られています。

“国に対してどれほどの手柄のあった人でも、その職をうまく勤めることのできない人に官職を与えて賞するのは一番よくないことだ。官職というものはその人を選び、それに適任の人に授けるもの。功績のあった人にはお金をあげて大切にすればよいのだ。” 

これは人の処遇にあたっての要諦であります。中小零細企業のときには、その企業規模に合ったような人材しか集まりません。しかし会社が大きくなれば、もっと頭のいい、優秀な人が欲しいと思います。しかし会社が大きくなってきたにもかかわらず、自分と一緒に苦楽を共にしてきた創業時からの功労者を、そのことだけで役員にしてしまうことが多くあります。 

たしかに過去には功績はあった。共に苦労して会社を作るのに役立ってくれた。しかし売上が一千億円となった今、大企業を守っていくのに能力の乏しい人を役員につけてしまったばかりに、会社が傾いてしまうことがあります。 

もう一方では、会社が大きくなるにつれ、新しい人を求めることもあります。古くからの部下の能力がないことが見えて、一緒に苦労したけれども、こういう人たちでは会社をこれ以上立派にできないと思い、次から次へと新しい人を迎え入れるのです。例えば一流大学MBA卒業の社員を迎えたり、高度な技術を身につけた人を投入し、要職につけ、会社発展を図ろうとすることがあります。しかし一方では、創業時から苦楽を共にしてきた番頭さん達が寂しく去って行くこともあり得ます。会社の精神的な支柱であった番頭さん達が去ることで、会社は大きく変質し、やがて没落してしまうこともあります。 

優秀な人を採用していくことは必要ですが、苦楽を共にしてきた人たちも大事にしなければならないのです。苦楽を共にして、今もなおあなたについていこうという古い人たちがたくさん社内にいます。そのような人たちを大事にしてあげなければなりません。二十年、三十年と不平不満も漏らさず、努力を重ねた人ならば、きっと素晴らしい人間に成長しているはずです。堂々と努力を継続していくことを通じて、凡人が非凡人に変わっていくのです。元々才能のなかった人が、三十年、ひとつのことに没頭することで非凡な人へと生まれ変わるのです。こうした人たちが、会社の基礎をつくるのです。基礎を蔑(ないがし)ろにして立派な会社をつくることは出来ないのです。 

大家族主義をベースにした経営/社員の物心両面の幸福を目指すとすれば、苦楽を共にした人たち、新しい才能のある人たちも楽しく働け、しかも拡大発展するように会社を導くことがトップの責任です。 

謙虚にして驕らず 

京セラでは、どんな弾(はず)みで会社が潰れてしまうかもわからないと心配だったそうです。危機感がむしろエンジンとなって一生懸命に仕事をさせるようになっていきます。危機感を失ってしまった時に、経営者は会社をダメにしてしまいます。 

京セラが株式を上場した時のことです。塾長は株主でしたので、自分の保有する株式を放出すれば、キャピタルゲインを得ることができました。資金は自分個人のものとなります。しかし塾長は一株も売却しませんでした。京セラはすべて新株発行により資金を得ました。その資金をもとに新たな投資を行い、事業を拡大発展させてきました。 

会社がうまくいきますと、多くの経営者がすぐに有頂天になり、自分の力で成功したのだと驕(おご)り、やがて没落していきます。成功は没落への道に通じているのです。成功した時こそ、“謙虚にして驕らず”ということが大切になるのです。 

西郷南洲遺訓二十六に、次のように述べられています。

“自分を愛することは、よくないことの筆頭だ。修行ができないのも、事業が成功しないのも、間違いを改めることができないのも、自分の手柄を誇(ほこ)って生意気になるのも、すべて自分を愛するがためである。だから決して自分を愛してはならない。” 

“自分が一生懸命に働いた、自分の才覚によって会社を発展させた、上場させた。全ては自分の才覚のたまものだ。報酬は自分が受けてすべて当然だ。”と経営者が自分を誇りに思ってしまうから、会社がだめになっていくのです。 

企業経営者、政治家、官僚でも、偉くなればなるほど、率先して自己犠牲を払うべきです。自分のことはさておき、自分が最も損を引き受けるという勇気がなければ、上に立ってはなりません。上に立つ資格はないのです。この“私心”をなくすることがリーダにとって最も重要な要諦だと西郷南洲は述べています。 

西郷南洲遺訓三十.

“命もいらず名もいらず、官位も金も要らないという人は始末に困る。しかしその始末に困るような人でなければ、苦労を共にして大きな仕事はなしえない” 

これが現在の混迷する世相を救う、究極のリーダーの姿です。西郷南洲の言っているような“無私”の精神を心に秘め、さらに世のため、人のために尽すということを自ら実践している人がいないことが不祥事の原因となっているのではないでしょうか。 

立派な人格、立派な人間性を持った人、自分というものを捨ててでも、世のため、人のために尽せるような人がリーダーとして求められています。 

策略を用いてはならない 

西郷南洲遺訓七.

“どんな大きなことでも、またどんな小さなことでも、いつも正道を踏んで誠を尽し、決していつわりの策略や策謀を用いてはならない。人は多くの場合、ある事柄に問題が起きたときに策略を用いる。そしてその策略を通しておけば、あとは何とかなるだろう。何とか工夫ができるだろうとつい思いがちになる。しかし策略というものは、必ずそのツケが生じて失敗をするものである。一方正道を踏んでいけば、一見回り道をしているような感じがするけれども、かえって成功は早くなるものだ。” 

京セラが第二電電を設立し、通信事業に参入したときのことでした。明治以来、電電公社(NTT)が独占して来た通信料金は世界各国に比べてたいへん高いものでした。日本政府が通信事業の民営化をはかることとなったのです。新規参入が可能となりました。ところが、誰一人として参入に名乗りをあげませんでした。それは膨大な投資を要し、高度な技術が必要であり、通信事業に経験のある人材が簡単に確保できそうになかったからでした。NTTは巨大で、どの企業も一向に名乗りをあげませんでした。 

京セラは電気通信事業については全くの素人であるにもかかわらず、第二電電を立ち上げることを決めました。これは世のためひとのために絶対に必要なことだという思いで、名乗りをあげたのです。 

塾長は自問しました。第二電電という会社を起こし、通信事業に参入しようとしているが、その考え、動機は善なのか、私心はないのか。金儲けの為ではないのか。“動機善なりや、私心なかりしか”と半年考えた後の決断でした。日本が情報化時代を迎えるに当たり、通信料金を安くしてあげたい、ただその一心だけだったわけです。 

その後、国鉄を中心とした日本テレコム、建設省と道路公団を中心とした日本高速通信という2社が参入してきました。どちらも既にインフラが出来ていました。しかし京セラの第二電電は、インフラを持っておりません。第二電電はやむなく無線でのネットワーク構築に取り掛かったのでした。“世のため人のため”を旗印に一生懸命努力した第二電電は、売上でNTTに次いで第二位の企業に成長しています。 

みんなが逡巡(しゅんじゅん)しているときに“世のため人のため”という思いで懸命に努力を続けた企業だけが成功したのです。策をめぐらして戦略戦術を練って成功したというより、純粋で気高い思いによって、成功したのだと言えます。 

イギリスの哲学者ジェームス・アレンがその著書“原因と結果の法則”の中で述べています。

“汚れた人間が敗北を恐れて踏み込もうとしない場所にも、清らかな人間は平気で足を踏み入れ、いとも簡単に勝利を手にしてしまうことが少なくありません。なぜならば、清らかな人間は、いつも自分のエネルギーをより穏やかな心と、より明確で、より強力な目的意識によって、導いているからです。” 

西郷南洲は“策を弄(ろう)してはならない、正道を踏んでいくことは一見、迂遠(うえん)であるかのようにみえるけれども、それが成功するための近道なのだ”と説いています。

 第二電電が株式を公開した時、創業時から塾長と一緒に歩んできた人たちは、みな第二電電の株式を持ってもらいました。しかし塾長は一株も第二電電の株式を持ちませんでした。 

成功することは間違いがないと言われた企業が消え去る中で、第二電電だけが生き残り、さらなる成長・発展を目指しているのです。 

試練を通じて志を揺るぎないものに高める 

“知っている”ことと“実行できる”ことはまったく違います。知っていること、知識として得たものは、それが見識となり、それが魂の叫び、胆識、にまで高まっていなければ決して使えないのです。 

人間には欲望がありますが、それをできるだけ抑えて、公平無私な人でありたいと思うのです。理屈では知っています。聞いたこともあります。けれども実行することはできないということが多いのです。それは知識を魂にまで落とし込み、使命として刻み込んでいないからです。 

人は、一旦成功しますと、今までの使命を忘れ、傲慢(ごうまん)になり、驕(おご)ることになりやすいのです。自分自身を日頃から、戒める、謙虚に日々反省する習慣が必要だと思います。 

西郷南洲は遺訓集第五で“幾たびか辛酸を歴(へ)て志はじめて堅し”と述べています。試練や辛酸を幾度もなめ、そのたびに克服していくというプロセスを経験しなければ、その人の持つ哲学や思想、また志というものは、決して堅いものとはならないとも語っています。 

我々は西郷南洲のような辛酸をなめる経験を持つことはできません。しかし、その志を固く魂にまで落とし込む毎日の努力はできます。

盛和塾 読後感想文 第八十三号

エネルギーを注入する 

いいテーマを部下に与えても、当人が燃えてくれなければ仕事が成功しないのは言うまでもありません。お金や時間を与えられても、部下がヤル気を持ってくれなければ、プロジェクトは成功しません。私共経営者は、これだけ経営者として部下に話をしているのに、部下が燃えないとついつい間違った結果を出し、“アイツはどうしようもないヤツだ”と思いがちです。もしそうであるならば、部下に話しかける内容もよく考える。それだけではなく、部下が現在与えられている仕事、また、部下の私生活もある程度理解して、何度も機会ある毎に話していく。継続して繰り返し話をしていくようにすべきです。物的な条件が不十分でも、リーダーの夢を部下に一生懸命話し、自分と同じレベルまで部下の士気を高めることができれば、仕事は成功します。 

部下の返事が、

  1. “分かりました”では三割ぐらい成功する確率
  2. “頑張ります”と言ってくれれば成功する確率は五割
  3. “私がリーダーとしてやります”と言ってくれれば成功する確率は九割

ということではないかと思います。 

経営者は部下に対してどれくらいの情熱をもってもらえるか判断し、もっていないとすれば、それを注入することがリーダーの仕事なのです。経営者がうちの会社の従業員は仕事に情熱がないと感じた時、それは経営者自身の情熱が充分でない為にそうなのだと考えるべきです。 

信念と意志 利他と利己が同居するこころの構図 

不祥事が相次ぐ中、こころのありようが問われている

企業不祥事が相次いでおります。親が子を殺す、子が親を殺すという凄惨(せいさん)極まりない事件が多発しています。政治家の世界でも、公約した公約していないという人間を信用できなくなってしまいそうなやり取りが、日常的に発生しております。 

どの経営者も経営が軌道に乗るまでは、頑張って成功に導いて行きます。従業員が安心して働けるような企業にしていきたいと必死に頑張ります。そして上場を果すほどになります。ところが会社がうまく行き始めますと、周囲にチヤホヤされるために心が緩んでいき、傲岸不遜(ごうがんふそん)になっていき、不祥事を起こしてしまう。そして会社を潰してしまい、従業員を路頭に迷わせてしまうわけです。 

会社経営を一生懸命に頑張ったにも関わらず、せっかく築き上げた自分の会社を没落させるようなことをしてしまうのです。人間のこころはコントロールすることが難しいものです。 

心の中心-真我

こころというものを考えるとき、我々人間のこころは、どのように出来ているのだろうと考えます。こころの構造は、真我という(仏様が、すべてのものに宿っています)心の中心があり、それを取り巻くようにして、利他/利己、感情、感性、知性が取り囲んでいます。

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  1. 真我 / 仏
  2. 利他(良心、理性)と利己(本能、煩悩)
  3. 感情-利他の心、利己の心から感情が生ずる
  4. 感性-目、耳、鼻、舌、皮膚、接触(感覚)
  5. 知性-考える 

仏様は “宇宙に存在する森羅万象すべてのものに仏が宿る。あらゆるものは仏の化身である” とおっしゃっておられます。 

哲学者、中村天風さんは “研心抄” (天風会刊)の中で、次のように表現しておられます。

“およそ人間の生命の中には、心及び肉体よりも一段超越した、然も巌として存在する実在のものが一つある筈である。それがすなわち“真我”なのである”  

ヨガや瞑想などに練達された人たちは “大我にいたる” と表現されます。悟りを開いた修行者はこころの一番奥底を “真の智慧(ちえ)” とも表現されています。 

イスラム学者でありヨガの達人である井筒俊彦さんは、こころの奥底にあるものについて“存在としかいいようのないもの”といっております。井筒俊彦先生によりますと、瞑想をしていくと、五感も感情も次第に精妙になり、ついには感覚、感情が失われたようになっていきます。周囲の音も光もあらゆるものが消えてなくなり、感情も働かなくなっている状態に到達します。しかし、自分の意識は巌としてある。より鮮明に自分の意識が存在する。そのとき、自分自身が“存在としかいいようのないもの”となっていると感じられる。 

河合隼雄先生(京都大学教授、文化庁長官)は井筒先生の本を読まれ、その著書の中で “あんた花してはりますの? わて河合隼雄してまんねん” 全く同じ存在のものが河合隼雄となり、花を演じ、また井筒俊彦を演じているということです。 

“存在としかいいようのないもの”はこころの中心にあります。こころの中心は、仏、真我、大我、真の智慧と呼ばれるものと言えます。こころの中心は真・善・美、あるいは愛と誠と調和に満ちたとてつもないほどに純粋で美しく、宇宙を宇宙たらしめているものなのです。 

この人生とは、あたかも芝居のようなものです。人生の舞台には裏方、脇役、主役、いろいろな役があります。会社の社長は主役かも知れません;あるいは工員さんが主役かも知れません。興行が延びれば、“君、主役を変わってくれ。他の人に主役を変わってもらうから” ということもあります。 

このように、すべては “存在としかいいようのないもの” が姿を変えてこの宇宙に現れたにすぎない、みんな同じなのだと考えれば、決して傲慢に振る舞うことはないはずです。いつでも謙虚に振る舞えるはずです。 

真我の外側には 利他 利己二つのこころが同居している 

  1. よいことを思い、よいことを行えば、運命はよい方向に行く

中国の明時代に袁了凡という官僚が書かれた本、“陰騭録(いんしつろく) ”  があります。 

袁了凡さんが袁学海という名前だった頃、白髪の老人が訪ねて来ました。老人はお母さんに語りました。“お母さんはこの子を医者にしようとお考えかも知れませんが、この子は医者にはなりません。高級官僚の道を歩いていきます” “高級官僚になるための難しい試験を順調に突破し、若くして高級官僚となり、長官となって地方に赴任していきます。結婚はしますが、残念ながら子供は生まれません。そして五十三歳で天寿をまっとうする運命になっています” 

学海少年は白髪の老人が言った通りの道を歩んでいきます。何段階にも分かれた高級官僚の試験を次から次へと受けて合格し、高級官僚となり、若くして地方長官に任ぜられました。赴任地にすばらしい禅寺があり、雲谷禅師という有名な老師がおられることを聞き、禅寺に雲谷禅師を訪ねます。雲谷禅師と共に座禅を組みます。学海長官はすばらしい座禅を組みます。 

雲谷禅師は尋ねました。“どこで修行したのですか” 学海長官は答えます。“私は修行はしていない。自分の運命は幼い頃に占ってもらった通りのものなので、雑念がないのです”  雲谷禅師はあきれて言いました。“たしかに運命は決まっているが、よいことを思い、よいことを行えば運命はよい方向に変わっていくという因果の法則というものがあるのですよ” 

学海長官は驚き、名を了凡(りょうぼん)と改め、よいことを思い、よいことを行いました。その結果、了凡は長生きし、生まれないと言われた子供を持つことが出来たのでした。 

人間には生まれながらにして、どういう人生をたどっていくかという運命が決まっています。しかし、それは買えられない宿命ではないのです。よいことを思い、よいことを実行すれば、運命はよい方向に変わっていくし、悪いことを思い、悪いことを実行すれば、運命は悪い方向へと変わっていくという因果の法則があるのです。“陰騭録(いんしつろく) ”  という本がこのことを述べています。 

  1. こころのなかで利他の占めるスペースを大きくするように努めなければなりません

こころの中心にある真我の外側には、よいことを思うこころ-利他のこころと、悪いことを思うこころ-利己のこころがあるようです。 

ノーベル賞を受賞したインドの詩人、タゴールが書いた詩があります。

“私がただひとり、神の下にやってきました。

しかし、そこにはもうひとりの私がいました。

この暗闇にいる私は誰なのでしょう。

その人を避けようとして私は脇道にそれるのですが、

彼から逃れることはできません。

彼は大道を歩きながら、地面から砂塵(さじん)を巻き上げ、

私が慎ましやかにささやいたことを大声で復唱します。

彼は私のなかにいる卑小なる我(われ)。

つまりエゴなのです。

主よ、彼は恥を知りません。

しかし私自身は恥じ入ります。

このような卑小なる我を伴って、あなたの扉の前にくることを。 

“私がただひとり神の下にやってきました” とは、よき私です。一方 “砂塵を巻き上げながら大道を練り歩く彼” “私が慎ましやかにささやいたことを大声で復唱する彼” は私のなかにあるエゴです。彼とは悪い私なのです。自分はよきこころと悪しきこころの二つの心を持っているとタゴールは表現しています。 

利他的、良心的、理性的なこころは卑しい自分から逃れようと “おまえあっちへ行ってくれ”というのだけれども、なかなか向こうに行ってくれません。よい自分も卑しい自分も同じ自分なのです。良心・理性に基づく利他の心と本能・煩悩にまみれた利己の心という二つの心が同居していると言えます。 

“よい人” とは明るく、親切な人です。感謝を忘れず、思いやりに満ち、愛に包まれ、謙虚で、努力家で、勇気があり、自己犠牲を厭(いと)わず正直で誠実な人です。

“悪い人” とは常に自分自身にとって都合がよいか、悪いかを考え、自己の欲望を満たすために、妬み、怒り、嘘をつき、隠し、苦労を嫌って、楽をしたがり、暗く、不親切な人です。 

よい心と悪い心が同居しているのは、しかたのないことです。我々人間は利己的な心なくしては生きていけないからです。生きていくためにある程度の利己的な心を持つように、自然、神が我々をつくっているのです。しかし、利己的な心はあくまでも生きていくために必要なだけにとどめるべきであって、よい心を押しのけてしまってはなりません。よい心は主人であるべきです。 

ブッダは “足るを知る” 知足という言葉を述べています。

利他・利己の外側には感情・感性、知性が存在している 

  1. 真我、利他・利己、感情から湧き上がる思いが知性の働く方向を決める

経営者が会社を発展させようとする時、経営戦略、経営戦術を練り、それを実行しています。経営戦略、経営戦術はこころの構造の図の中の一番外側にある知性で練ります。営業はどうすればうまくいくか、製造工場の運営は、安全に効率よくするのにはどうすればよいか、販売費・一般管理費は、どのように仕事を効率化して削減していくか等を知性で考えるのです。そのもとになっているのは経営者の“思い”です。“思い” が先に来ます。 

“思い”  は真我、利他・利己、感情から湧き上がってきます。その “思い” が我々の行動の方向を定め、それに従い知性を発揮して、創意工夫をして、その “思い” が実現できるようにしていきます。“思い” がその人の生きていく方向を決めているのです。 

“思い” が利己的であり、こころに占める比率が大きくなりますと、常に欲にまみれた思いを抱いてしまいます。“思い”が利他のこころを抱けるよう、こころの持ち方を、真剣に考える必要があるのです。 

知性にすぐれた頭の良い人が悪い “思い” を持った場合、すなわち欲にまみれた “思い” を持った場合は、とんでもない不祥事に発展してしまいます。 

  1. こころの構造、図で生まれてから死ぬまでのプロセスが理解できる

人間の感性はその内側の利他・利己の心から刺激を受けます。利己の心が優(まさ)り、欲にまみれ、欲が充足できない時は不愉快な悪い感情になり、顔が曇ります。利他の心が優(まさ)り、他によかれとするような行いをすれば、気持ちが明るくなり、よい感情に満たされ、明るい笑顔になります。 

感情は外側にある感性・五感からも刺激を受けます。怖いものを見れば、感情が怖さを感じます。明るく楽しい場面に遭遇しますと、感情が明るく、笑顔が芽生えます。 

人間が生まれた時は、真我、利他・利己の心を持って、この世に出て来ます。感情も感性も知性も未発達です。そのあと感情、感性、知性が序々(じょじょ)に発展して来ます。 

年をとって来ますと、外側の知性が失われ、感性だけが出て来ます。感性が無くなりますと、感情だけで生活するようになります。このようにして人間は死を迎えます。 

善因善果を検証した Steven Post 教授 

ケース ウエスターン リザーブ大学の Steven Post教授が善因善果の法則の検証をしました。“よいことを思いよいことをすれば、よいことが起こるのは本当だろうか” という研究をされました。全米の四十四の大学の教授たちにアンケート調査を実施しました。その成果を彼は5年かけて書籍にしました。”WHY GOOD THINGS HAPPEN TO GOOD PEOPLE” “UNLIMITED LOVE” “THE HIDDEN GIFTS OF HELPING: HOW THE POWER OF GIVING, COMPASSION, AND HOPE CAN GET US THROUGH HARD TIMES” 等の著書です。

“人に与えたはずが自分に与えられ、人の幸せが自分の幸せになった瞬間を私はまぶしいほど鮮やかに思い出すことができます” 日本でも “いい人” には “いいこと” が起こる(幸福の科学出版刊)という本として出版されています。 

このSteven Post 教授は述べています。

“幸せ、健康、満足、長続きする成功の本質や特徴を明らかにしました。科学者達は思いやりの行為が精神と肉体の健康にどれだけ関係しているかを今なお検証し続けています。 “よいことをしてあげれば、その人にはよいことが返ってくる。自分自身の幸せも健康も満足も、そして長続きする成功も相手にしてあげたことへのお返しとして返ってくるのだ” と、Steven Post 教授は、見事に検証しておられるのです。Steven Post 教授は次のようにも述べておられます。

“あなたの人生は優しい行為によって光り輝き、そして守られるでしょう”

“愛ある行為は病気のリスクを減らし、死亡率を下げ、うつ病の可能性を少なくする働きを持っているのです”

“愛は癒(いや)しです。愛はそれを与える人と受け取る人の双方を癒します” 

Steven Post 教授の愛とは、思いやりであり、利他の心であり、与える心であり、感謝する心です。常に感謝をする心を持ち、相手を思いやる利他の心を持って、それを優しい行為として実行できる人は、いつも健康で、幸せな人生を送ることができると、Steven Post 教授は語っておられます。そういう心を持ったときには “怒り、恨み、やっかみのようなストレスを誘発して心身の病の原因になる否定的な感情を脇に追いやることが可能になり、ストレスを受けることが少ない” とも教授は言っておられます。 

愛の心の対象は、まず自分の家族に向け、次に友人、地域社会、そして人類社会へと向けられる、とも教授は語っておられます。 

こころを手入れしなければならないという 知識 胆識にまで高めよ 

哲学者 James Allenは語る。

“人間の心は庭のようなものです。それを知的に耕されることもあれば、野放しにされることもありますが、そこからはどちらの場合にも必ず何かが生えてきます。

もしあなたが自分の庭に美しい草花の種を蒔かなかったなら、そこにはやがて雑草の種が無数に舞い落ち、雑草のみが生い茂ることになります。優れた園芸家は庭を耕し、雑草を取り除き、美しい草花の種を蒔き、それを育(いつく)しみ続けます。

同様に私達も、もし素晴らしい人生を生きたいのならば、自分の心の庭を掘り起こし、そこから不純な誤った思いを一掃し、その後に清らかな正しい思いを植え付け、それを育しみ続けなければなりません。 

雑草とは利己の心です。つまり自己を抑えて利他の心を大きくするようにしなければならないと、James Allenは言っています。 

重要なのは、これからです。どのようにすれば雑草を取り除き、美しい草花を咲かせることができるのか。抽象的には、こころという庭の手入れをし、雑草を取り除き、美しい草花を咲かせる、利他の花を咲かせようと思うならば、足るを知るということを知らなければなりません。同時に知性でもって利己を抑えなければなりません、と言うことができます。 

知性は、こころの庭の手入れが必要であることを知らせてくれるだけで、それを実行させる力は持っていません。知性には実行力はないのです。我々は知性でもって、様々な知識を身につけます。知識がいくらであっても知っているだけでは使えないのです。哲学者、安岡正篤(まさひろ)さんは、次のように言っています。

“知識を見識にまで高め、さらには見識を胆識にまで高めなければ、実行することはできない” 

知識を見識にまで高めるためには、“信念” が必要です。知識に信念が伴(ともな)った時、はじめて知識は見識になります。その見識を実行できる為には、強力な意思の力 “胆力” が必要なのです。 

自分のこころの中によい自分と悪い自分がいて、悪い自分を少し抑え、よい自分が多くを占めるようにしていこうと思えば、足るを知り、“いい加減にせんか” と自分を叱り付ける必要があります。悪い自分を抑えていく為には、その人の信念の力、意志の力が必要なのです。信念、意志は、真我が発現して出てくるものです。真我から出てくる信念、意志の力を使って、こころの底を手入れすることはできません。 

昨今、多くの立派な有名企業が、経営者の怠慢、傲慢(ごうまん)、堕落(だらく)によって存続すら危(あや)うい状態に陥っています。それは経営者のこころの中に住む悪い自分がのさばってきた結果です。しかし、経営者自身、まさか自分のこころのなかで、悪い自分が引き金を引いた結果だとは思っていないのです。 

大企業の経営者に、足るを知る、知足のこころで、その傲慢な自分を抑えていきなさいと言いますと、“わかっています” と返事をしてきます。これは悪い自分を抑えなくてはならないと知識として知っているだけで、実行する力は何もないのです。 

自分の会社を立派にし、立派に守っていこうとするならば、足るを知り、利己的な自分を抑えて、邪(よこしま)な自分を協力な意思の力で抑えようとしていかなければなりません。 

毎日の生活の中に、少なくとも三十分、自分を反省する時間を配分する。一日の反省、立派な哲学者、経営者の著作を毎日読むこと、ただ読むだけではなく、何度も繰り返し読み、ノートに手書きでまとめていく方法も、悪い自分を抑える、足るを知るのに有効な方法だと思います。

盛和塾 読後感想文 第八十二号

採算の向上を支える 

企業の会計にとって自社の採算向上を支えることは、最も重要な使命である。採算を向上させていくためには、売上を増やしていくこと。それと同時に、製品やサービスの付加価値を高めていかなければならない。付加価値を向上させるということは市場において価値の高いものをより少ない資源/経費でつくり出すことである。 

市場において価値の高いものとは、市場が価値を認めてくれ、より高い価値で受け入れる。工夫してつくり出した製品やサービスのことである。こうした付加価値の高い製品やサービスは、企業がより多額の給与を支払うことができる源泉であり、またお客様に役立つ、すなわち社会の発展に貢献するための前提条件となるものである。 

一般的には “採算の向上” は経営管理をするための管理会計の役割であり、企業の業績と財務状態を正しく外部に報告する “財務会計” とは、性格は異にしている。しかし “管理会計” も “財務会計” も経営者にとっては著しく経営に必要な会計なのである。 

 稲盛和夫の実学を紐解く -会計学と経営- 

 経営における二つの要諦

  1. 売上を最大に経費を最小に

経営者は誰でも利益を追求するのだが、多くの経営者が売上を増加させようとすると、当然経費も増えるものと思っている、これが経営の常識なのです。

しかし “売上を最大に経費を最小に” ということを経営の原点とするならば、売上を増やしていきながら経費を増やすのではなく、経費は同じかできれば減少させるべきだとなります。その為には、知恵と創意工夫と努力が必要となる。利益とは、その結果生まれるものです。

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損益計算書は、経営がどのくらいうまくいっているかを表しています。どのくらいうまくいっているかは、どのくらいの利益を出しているかで決まります。

営業損益を見ますと :

売上高は四八二八億円、売上原価は三七四二億円です。販売費一般管理費は六六二億円、営業利益は四二四億円です。

営業外損益 :

営業外収益は受取利息・配当金が一三四億円入っています。

雑収入は六一億円がありました。合計一九五億円の営業外収益がありました。

営業外費用 :

支払利息が一千九百万円、為替差損が四六憶五千万円、雑損失が二六憶三千百万円発生しました。合計七三億円の営業外費用が発生しました。 

営業利益に営業外収益を加え、営業外費用を差し引きますと、経常利益五四六億円となりました。 

特別利益は七二憶三千万円。特別損失は百三十三憶三千九百万円が発生しました。 

経常利益五四六億円に特別利益七二億三千万円を加え、特別損失百三十三憶三千九百万円を差し引きますと、法人税前当期利益四八五憶七千六百万円となりました。 

法人税等が百三十憶円、法人税調整額七六憶円、これらを差し引きますと、当期純利益二七九億円がでます。しかし二七九億円の現金が増加し、この資金を使うことは出来ません。棚卸資産の購入や設備投資に既にお金を使っているからです。

当期純利益を多く出すためには、まず本業で得る利益、営業利益をたくさん出せなければならないのです。この損益計算書では、営業利益率は八.八%しか出ていませんが、売上を最大にして売上原価、販売費及び一般管理費を小さくする努力をすれば、営業利益率を十%にすることもできます。 

営業外損益や特別損益の部では、費用をなるべく少なく抑えることに努力します。売上を上げて、費用を最小に抑えれば、経常利益も税引き前利益も大きくなります。 

“売上を最大に経費を最小に” は単純なことではありません。一般的に売上を増やす為には製造費用、販売費・一般管理費も増やさないと売上は達成できないと考えてしまいます。そうならない為には、創意工夫が必要なのです。 

ある会社が月に百万円の売上があったとします。その時に仕入れに八十万円かかったとしますと、売上総利益が二十万円でます。営業二人で人件費が十万円だとしますと、利益は十万円です。

売上が二百万円になったとします。仕入れコストは二倍になりますから、百六十万円かかっているはずです。今までは二人の営業マンを雇っていましたが、倍の量を売るわけですから営業マンは四人となり、人件費は二十万円となります。利益は二十万円と二倍になると考えています。 

しかし、仕入れが二倍になるわけですから、仕入れ先と交渉して少し安くしてください、五%安くしてもらえませんかと交渉します。仕入れ先も二倍の量を買ってくれるというので、同意してくれました。そして、人件費も見直します。さらには、業務を効率化して営業マンを三人にします。

こうしますと、仕入れで八万円、人件費で五万円の合計十三万円利益が増え、合計三三万円となります。利益率は十六.五%になります。売上が伸びる時こそ高収益企業へと変貌を遂げていくチャンスなのです。 

  1. 値決めは経営である

値決めは単に売る為、注文をとる為という営業の問題ではなく、経営の死命を決する問題であり、売り手にも買い手にも満足を与える値でなければなく、最終的には経営者が判断すべき大変重要な仕事なのです。 

京セラは新規参入の多い競争の激しい業界からスタートしました。無名の京セラに対して、いつも非常に厳しい値下げの要求がありました。毎年毎年、値段を下げられました。そうしますと、営業は注文をとるために、いくらでも値段を下げてくるのです。 

しかし、商売というものは値段を安くすれば誰でも売れる。それでは経営はできない。お客様が納得し、喜んで買ってくれる最大限の値段、それよりも低かったらいくらでも注文をとれるが、それ以上高ければ注文が逃げるというギリギリの一点で注文をとるようにしなければならない。売上を最大にするには、単価と販売量の積を最大にすれば良い。利幅を多めにして少なく売って商売をするのか、利幅を抑えて大量に売って商売をするのか、値決めで経営は大きく変わってくるのです。 

値決めで失敗しますと、取り返しのつかないこともあります。あまりにも安い値段を設定してしまい、経費を削減しても採算を出せない。高い値段を付けた為、山のような在庫を抱えて資金繰りに行き詰まるケースもあります。 

従って値決めは経営と直結する重要な仕事であり、それを決定するのは経営者の仕事なのです。 

二つの要諦の重要性をシンプルな商売を通じて理解する

  1. 夜なきうどんの経営が経営の原点

夜なきうどんの屋台をひいて商売に乗り出しました。資本金は五万円です。

一番最初に直面するのはうどん玉の仕入れです。製麺所まで行って買う、スーパーで生麺を買う、乾麺を買う等、いくつかの仕入れ方法を考えなくてはなりません。

出汁はいい味を出す為の大切なポイントです。高い鰹節を買ってくる者もあれば、袋入りの削り節を買ってくる者、いろいろな創意工夫が必要です。

かまぼこ、揚げ、ネギにしてもスーパーマーケットで買ってくるだけではなく、工場や農家から直接仕入れることもあります。このように材料の仕入れにしても、色々なやり方があります。 

美味しいうどんを提供するためには、どういう屋台にするのか、水、出汁、うどんの食器、お箸、うどん玉の大きさ等、屋台車の場所や時間等にも創意工夫が必要です。 

肝心なのは値段です。五百円にするのか四百円にするのか。安ければ売れるだろうが、利益を得ることは出来ない。しかし、お客様が満足する値段を決めなければなりません。 

屋台から大きなフランチャイズに発展した経営者も、十何年も屋台を引いて何も財産を残せない人もいます。いい商売があるかないかではなく、それを成功に導くことができるかどうかなのです。

売上を最大にするように正しい値決めができれば、あとは経費を最小に を徹底して行っていけばよいのです。 

  1. いかなる事業も才覚、工夫次第で成功する

商売自体に良い商売、悪い商売があるのではありません。どんな地味な商売でもそれを成功に結び付けていく才覚があるかないか、経営の要諦を押さえて創意工夫をするかしないかによって、成功するかしないかが決まります。 

ホテル経営では、値決めは競争の為、自由に行えません。ホテルが乱立気味のため、同業者との競争の中で値段が決まることが多いのです。そうすると、売上を最大に経費を最小にするしか方法がありません。売上を伸ばす為に客室利用率を上げるしか方法はありません。営業は旅行業者、大企業の出張旅行担当部に接触する、送迎者を用意する、リピーターのお客様を獲得する為の努力をします。経費の面では食材、タオル、シーツ、シャンプー、コンディショナー、石鹸等の購入、ホテル内の清掃道具、カートの改良、清掃要員が効率良く仕事が出来るように創意工夫をします。 

経営者の問題は “売上はこんなものだ。経費はこんなものだ” と決めてしまっていることです。そこには創意工夫が欠けているのです。 

会計が分からなければ真の経営者に離れない

  1. 損益計算書の科目の明細にまでリアルタイムで目を通さなければならない

経営は飛行機の操縦に例えることができます。会計データは経営のコックピットにある計器盤に表れる数字に相当する。計器は経営者たる機長が刻々と代わる機体の高度、速度、姿勢、方向を正確に即時に示すことができなくてはならない。そのような計器盤からの情報がなければ、今どこを飛んでいるのかわからないわけだから、まともな操縦などできるはずがない。 

企業経営において飛行機の計器盤は会計システム、その操縦に必要な情報は会計情報・財務諸表です。会社の経営状況を会計情報は具体的な数字で表しています。 

会計というものは、経営の結果を後から追いかける為だけのものではありません。いかに正確な決算処理がなされたとしても、遅すぎては何の手も打てなくなります。会計データは現在の経営状態をシンプルにまた、リアルタイムで伝えるものでなければ、経営者にとっては何の意味もないのです。 

中小企業が健全に成長していく為には、経営の状態を一目瞭然に示し且つ、経営者の意志を徹底できる会計システムを構築しなければならない。その為には経営者自身が会計というものをよく理解しなければならない。計器盤に表示される数字を意味するところを手に取るように理解できるようにならなければならない。経理が準備した決算書を見て、収益状況や財務状況(自己資本、負債の状況)を理解し、対策が頭に浮かぶようにならなければなりません。決算書を読むとは、数字が何を意味するのか、どうしてこのような数字になっているのかを理解することです。 

経営者は決算資料をできるだけ早く読み、経営状態をリアルタイムで知っておく必要があります。細かい部門別の資料についても、目を通すようにします。そうすると工場へ行き、問題があった現場を見つけた時、現場の責任者に指示することができます。 

会計が分からなければ、真の経営者にはなれません。会社経営の実務を表すのが会計上の数字だからです。

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財務諸表(貸借対照表、損益計算書、資金繰り表、脚注)は外部に公開するための書類です。これだけでは、いくら見ていても経営にはなりません。売上、売上原価、製造原価報告書、販売・一般管理費といった項目の明細を見ていかなければなりません。 

経費明細表の例を見てみます。この製造部門経費明細書は各項目に細かく分かれています。

原材料費                 3項目

労務費                    3項目

労務関連費             4項目

諸経費                  36項目 

このように、これらの項目は各工場毎に毎月明細表があります。

鹿児島の工場、滋賀の工場、北海道の工場、長野の工場、三重の工場、福島の工場を合計したものが、上記の経費明細表です。一つの工場の中でも原材料、労務費、経費は部門別に把握されており、その明細表も入手可能なのです。 

普通の会社ですと、これだけの数字をまとめていくのには二~三ヶ月はかかります。数字は概算でもいい。経営に役立てる経理資料はリアルタイムに上がってくるものでなければなりません。 

普通の経営者は損益計算書を見る程度で経営しておられます。しかしそれでは、売上高、利益は分かるのですが、どのような手を打つべきかは分かりません。細かい部門、細かい経費項目までブレイクダウンした経費明細表を月次で作って、それを見ながら手を打っていくことができなければなりません。 

  1. 貸借対照表を見て企業の健康状態を感じ取る

貸借対照表は企業の体格、健康状態を示すものです。経営者は会社の健康状態をあたかも自分の身体の状態のように感じられなければなりません。経営者は貸借対照表を見たときに、会社の財務状況-流動資産、固定資産、流動負債、固定負債、自己資本-がどうなっているかを即座に理解し、会社の健康状態を判断できるようになっていなければならないのです。

経営者は利益を多く上げ、利益剰余金を増やしていくことで自己資本比率を高め、ますます会社を健康体にしていかなければなりません。

 

盛和塾 読後感想文 第八十一号

人生について思うこと 

今回は “人生について思うこと” として “いかに生きるべきか” について話します。人間が生きていく上では、健康管理知的管理、そして心の管理の三つの管理が必要です。 

心の管理がおろそかにされている

昨今、健康管理に留意される方がたいへん多くなっています。健康診断や人間ドックの検査により、自分の健康状態を把握するように努め、その診断結果によって自分の肉体を健全に維持することに多くの人が留意されています。更にアスレティックジムに通ったり、健康器具を購入したり、ジョギングをしたり、体力・健康の維持にとどまらず、ウエイトリフティングにより体力の増強に励んでおられる方も多くなっています。 

又、肉体の維持管理に努め、体を健康に保つだけでは意味がないと、頭/知の管理をすることにも努めておられる方が多くなっています。成人学校で受講したり、本を読んだり、講演を聴講するなど、知性のレベルを維持する方も多くおられます。 

ところが、その肉体や知性と同じように、人間に備わっている心の管理については、それほど注意を使用とされない方がいるようです。この心の管理というものが人間にとって最も大事なことであるにも関わらず、多くの人はそのことにあまり関心を払おうとはしないのです。 

現代人は心労を患うことが多く、悩み、心配事、不平不満というものを常に心の中に持っており、それに苦しんだり、そのはけ口の為に、お酒にはけ口を見出したり、ストレスからくる胃潰瘍、高血圧病、心筋梗塞などの病気になったりしています。そうした不平不満、怒り、妬(ねた)みなどが高じて、うつ病などの精神病に陥る可能性があります。こうした心の荒廃が進みますと、家庭内暴力や児童虐待が横行し、自殺する人も出て来ます。                       

本当の健康管理は、私達の肉体、頭脳の知的活動、心の動き、すべてを含んだものでなくてはならないのです。その中で最も重要なことは、心の動きの管理なのです。 

この心がもたらす影響は、肉体のみならず、私達の日常生活のみならず、我々の人生そのものにも大きな影響を与えます。心の中で何を考えているかは、外部の人には解かりません。しかし、実は思った通りのことが現象として現れてきます。ですから、心をどのように維持するのかということがたいへん大切なことなのです。 

仏教の世界では、心を維持することにたいへん意を用いています。仏様の説かれた6つの修行の中に“禅定”という教えがあります。禅定とは、一回一回心を鎮めること、とあります。座禅は平穏で静かな心の状態を維持するための修行です。 

イギリスの哲学者ジェームズ・アレンは、その著書 “原因と結果の法則” という本の中で、心の管理について述べています。 

“人間の心は庭のようなものです。それは知的に耕されることもあれば、野放しにされることもありますが、そこからはどちらの場合にも必ず何かが生えてきます。もし、あなたが自分の庭に美しい草花の種を蒔かなかったら、そこにはやがて雑草の種が無数に舞い落ち、雑草のみが生い茂ることになります” 

“優れた園芸科は庭を耕し、雑草を取り除き、美しい草花の種を蒔き、それを育(はぐく)みつづけます。同様に私達も、もし素晴らしい人生を生きたいのなら、自分の心の底を掘り起こし、そこから不純な誤った思いを一掃し、その後に清らかな正しい思いを植え付け、それを育みつづけなければなりません” 

心を管理し、正しい思いを持つようにするのか、それとも心の手入れをせず、野放しにしておくのかによって、心という庭に自分が思ったような草花が咲くのか、それとも思わぬ雑草が生い茂るのか決まってくるのです。美しい草花とは人生の結果に他なりません。自分が思い描いた、すばらしい人生を実現していくためには、心の管理が必要だとジェームズ・アレンは説いているのです。 

ジェームズ・アレンは結んでいます。

“正しい思いを選んでめぐらしつづけることで、私達は気高い、崇高な人間へと上昇することができます。と同時に、誤った思いを選んでめぐらしつづけることで、獣のような人間へと落下することもできるのです” 

“心の中にまかれた思いという種のすべてが、それ自身と同種類のものを生み出します。良い思いは良い実を結び、悪い思いは悪い実を結びます” 

ほとんどの方が、心の管理が重要だとは思っておられません。体の健康管理には一生懸命につとめるのですが、心の管理ということに真剣に取り組もうとする人は少ないようです。 

人間の心の中では 真我 自我が葛藤している

ジェームズ・アレンは説いています。“自分の心という庭の雑草を抜き、耕し、そして自分が望む美しい草花の種を蒔き、丹念に水をやり、肥料をやって、管理をしていきなさい” 

それでは具体的にどのようにして、毎日の生活・仕事の中で、自分の心を管理していけばよいのでしょうか。 

人間の心の中には、真我というものと自我というものが同居しているのです。人間の心というものは図のように多重構造になっているようです。

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しかし中心に真我と自我が同居し、葛藤していると考えた方が、心は理解しやすいと思われています。 

真我とは、愛と誠と調和に満ちたもので、真善美という言葉で表される、すばらしい美しいものです。仏教では山も川も草も木も、森羅万象この世にあるものすべてに仏が宿っている、仏のように優しく慈悲に満ちた、他を思いやる高次元の心が、この世の生物・無生物を問わず、全てのものに備わっていると考えられています。 

自我とは、本能に基づくもので、いわば自分だけ良ければよいというものです。例えば、増悪(ぞうお)、嫉妬(しっと)、強欲(ごうよく)、虚栄(きょえい)、猜疑心(さいぎしん)、さらに自己愛などと表現されるものです。 

真我=利他の心、自我=利己の心。利他、つまり人を慈しみ、人を助けてあげようという心と、利己つまり自分だけよければいいという自分勝手な心が1人の人間の中に同居をしている、それが我々の心なのです。 

インドのタガールという詩人が書いています。 

“私がただひとり神の下にやってきました。 しかし、そこにはもうひとりの私がいました。 この暗闇にいる私は誰なのでしょうか。 その人を避けようとして私は脇道にそれるのですが、彼から逃れることはできません。 彼は大道を練り歩きながら 地面から砂塵を巻き上げ 私が慎(つつ)ましやかに囁(ささや)いたことを大声で復唱します 主よ彼は恥を知りません しかし私自身は恥じ入ります このように卑しく小さな我を伴(ともな)って あなたの扉の前にくることを” 

タガールはこの詩の中で、人間はみなエゴというみっともなく卑しい私と純粋で素晴らしい私が同居していることを詠んでいます。 

  1. 心の管理とは 自我を抑え、真我を前面に押し出すこと

我々は、自分の中に棲(す)む、このエゴという存在をコントロールできないばかりに、せっかくの人生を台無しにしてしまうのです。しかし、そのようなエゴ-低次元の自我を、単純に、雑草を根こそぎにするようにはいかないのです。 

我々は “自我” があるからこそ生きていくことができるのです。純粋で美しい “真我” だけでは人間は生きていけません。生きるために、自分がもっともっと得ようとする貪欲(どんよく)、自分を守ろうとして相手を打ち負かすのも、人間が生き長らえていくために、自然が与えた本能なのです。そのような本能がなければ、生物としての人間は、その生命を維持することはできません。名誉欲(めいよよく)、権勢欲、恨みつらみなど心に棲む低次元の自我が、人の生きるエネルギー、活力となっているのです。 

しかし、生きていく為には、自我が必要なのですが、自我が過剰になってはならないのです。卑しいエゴが我々の心の主人公になってはいけないのです。そうしますと、我々の人生は必ずつまずき、失敗してしまうのです。 

一時的に成功して、時代の寵児となり、“金さえあれば何でもできる” と傲竿不遜(ごうかんふそん)に陥り、いつのまにか表舞台から去っていく人々がおります。それは一時の成功に酔いしれ、謙虚さを忘れ、自分のエゴのままに振る舞うからです。 

人間の心というものは “真我” と “自我”、その二つが同居しています。ともすれば、自我、つまり利己がのさばろうとするのです。放っておけば、真我である利他の心は、隅っこに追いやられてしまうのです。 

キリストには右の頬(ほお)をたたかれれば、左の頬を出しなさいと説きました。仏様は恨みに対して微笑(ほほえ)みで返しなさいと諭(さと)しました。我々はキリストや仏様のようなことはできません。我々は生きていくためには、最低限の “自我”、利己が必要ですから、“自我”が多少は要るとすれば、心の大部分を “真我” が占めるようにしていかなければならないのです。 

自我を抑えていくことが大切です。自分の心の状態に注意を払い、もし自分だけが良ければいいというエゴが頭をもたげたときには、その都度その頭を押さえつけていく。自我の台頭(たいとう)を抑えていくのです。ところが、自分だけが良ければいいと思っている、又は行動している時には、“自分が良ければいい” ということに気がつかないのが人間なのです。それではどうしたらよいかということですが、ひとつは自分を批判してくれる、自分の側にいて、注意をしてくれる人、友人を持つこと、もうひとつは毎晩ベッドに入る前に謙虚に一日の出来事を反省すること、この二つが最も効果的だと思われます。 

そのようにして心の中に占める “真我” の割合を増やしていく。そのプロセスこそが人格を高めていくのです。つまり、日々、自分を戒めることによって “自我” の占める比率を減らし、“真我” の比率を増やしていく。それが “心を高める” ということなのです。 

“真我” が占める割合が大きくなってきますと、利他という美しい思いやりに満ちた心で判断できるようになります。一方、自我の占める割合が大きければ、“自分が自分が” という利己的な心、つまり自分の損得や自分のメンツだけで判断をしてしまうのです。 

人は判断する時、知性だけで判断しているのではありません。確かに知性を使い、判断をしているのですが、その時ベースになるものが心の状態であり、それが利他的であるのか利己的であるのかによって、判断の結果は全く異なってしまうのです。利他の心をベースに判断したときには、物事の確信が見え、間違うことが少ないのですが、利己をベースに考えたときには、判断が曇ったり歪(いびつ)なものになったりして、結果を誤ってしまうことが、往々にしてあります。 

我々は自分の心の中に、自我という悪い私と真我という良い私が同居していることを知り、あくまでも良い私を主人公に押し立て、悪い私を補助的な役割に留め、人生という舞台を演じていかなければなりません。 

無私の人 西郷南洲に学ぶ 

  1. 西郷南洲も真我の大切さを説いていた

西郷南洲は“無私”つまり私を無くすということを説き、自ら実践しました。無私とは“悪い私を抑える”ということです。西郷南洲が残した遺訓の中に“人間としてどうあるべきか”ということが、言葉を尽して書かれています。それは、悪い私をいかに抑えるのか、良い私をいかに育んでいくか、自己を抑えて真我を伸ばすということに尽きます。西郷南洲は実際に自分の心を管理することができたればこそ、明治維新という偉業を成し遂げることができたのです。 

遺訓第二十六条

己れを愛するは善からぬことの第一也。修行の出来ぬのも、事のならぬも、過ちを改むることの出来ぬのも、功に伐(ほこ)驕慢(きょうまん)の生ずるも。皆自ら愛するが為なれば、決して己を愛せぬもの也。 

自分を愛すること、即ち自分さえよければ人はどうでもいいというような心は最もよくないことである。修行が出来ないのも、事業に成功しないのも、過ちを改めることのできないのも、自分の功績を誇り高ぶるのも、皆自分を愛することから生ずるものであり、そういう利己的なことをしてはいけない。 

西郷南洲は“己を愛するは善からぬことの第一也”というように、その生涯を通じて “無私”ということを説き続けました。戒めるべきは自分だけを大切にする自己愛、低次元の “自我”なのですと説いている愛とは、すべてのものに慈(いつく)しみと愛の心を持って接する他者への愛。つまり真我を指示しています。広く優しい、天と同じような心を持って行きなさい、そうすれば必ず、それはあなたにも返ってくると西郷は説くのです。 

事業に成功しないのも、自己愛、利己を前面に立てて商いをする為である。江戸時代の商道徳を説いた石田梅岩が“商いは先も立ち、我も立つものなり”といっています。相手も儲かるようにするのが商売の鉄則であり、極意なのです。 

  1. 心を高め続けるため、心の管理を絶えず続けなければならない

遺訓第二十二条

己に克(か)つには、重々物々、時に臨(のぞ)みて克つ様にては克ち得られぬなり。兼(か)ねて気象(きしょう)を以って克ち居れよ也 

己にうち克つには、全ての事をその時その場あたりに克とうとするからなかなかうまくいかぬのである。兼ねて精神を奮(ふる)い起こして自分に克つ修行をしていなくてはならない。 

人は己に克つことが大切だなどと諭されると “よしわかった。今後はそう心がけるようにしよう” しかしいざその時になっても急にできるものではありません。“己に克つには兼ねて気象をもって克ちあれ” というのです。気象とは、日頃からの鍛錬により、性格になってしまうほどでなければならないということです。自分を抑えるということは頭でわかっているだけでなく、常日頃から、己の欲望や邪念を抑える訓練をして、性分にまでなっていなければ、いざその時になっても己に克つことはできないのです。 

自分の性格、いわば自らの血肉となっていなければ、気象にまでなっていなければ、いざという時に自分を抑えようと思っても、抑えられるものではありません。つまり日頃から謙虚に反省することを通じて、欲望を抑え、心を高める努力を絶えず積んでいかなければならないのです。 

経営はトップの器で決まります。“蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘る” といいます。経営者の人間性、人としての器の大きさにしか企業は大きくならないのです。 

企業を大きくしたいならば、知識や技術のみならず、経営者としての器、自分の人間性、哲学、考え方、人格というものを絶えず向上させていくよう努力をしていくことが求められています。 

経営者の人格と企業の業績がパラレルになるということを “心を高める、経営を伸ばす” と稲盛塾長は表現しています。経営を伸ばしたいと思うならば、まず経営者である自分自身の心を高めることが先決であり、そうすれば業績は必ずついてくるのです。 

心を高めることを怠った経営者は、いったん大成功を収めたとしても没落を遂げていくのです。当初は立派そうに見えた人でも、三十年もたてば衰退の道をたどり始める。当初仕事に打ち込み、一時的に人格を高めることが出来たとしても、事業成功の後、いつの間にか謙虚さを忘れ、努力を怠るようになり、その人格を高く維持していくことができなくなったからです。 

特に多くの従業員を雇用し、その人生を預かっている経営者は、大きい責任を負っています。生涯(しょうがい)をかけ、弛(たゆ)まぬ研鑽(けんさん)の日々を送り、人格を高め続けることが経営者として身を立てた者の努めなのです。 

“心を高める” とはどうするのでしょうか。

稲盛塾長は六つの精神を述べています。

  1. 誰にも負けない努力をする
  2. 謙虚にして奢(おご)らず
  3. 反省ある毎日を送る
  4. 生きていることに感謝する
  5. 善行・利他行を積む
  6. 感性的な悩みをしない 

こうした教えを学び、実践することに関して、哲学者、安岡正篤(まさひろ)さんの述べられた、知識、見識(けんしき)、胆識(たんしき)という “心を高める” 為の指針と実践についての考えがあります。人間は生きていくのに色々な知識を身につける必要があります。しかし知識を持つだけでは実際にはほとんど役に立ちません。知識をこうしなければならないという信念にまで高めることで、見識にしていかなければなりません。 

しかし見識だけでは不十分です。見識を何が何でも絶対に実行するという強い決意に裏打ちされた、何ごとにも動じない胆識にまで高めることが必要なのだと、安岡さんは述べています。万難を排し、何としてもやり抜くという勇気が必要です。多くの人が、こうした方が良いと思っても実行できないのは、勇気がないからです。勇気がないのは自分の利害で考え、自分を大事にしようとするからです。 

人から謗(そし)られはしないか、人から嫌われはしないか、自分を守ろうとするから実行できないのです。“馬鹿にされようが、軽蔑されようが、何とも思わない” となれば、どんな困難なことでも実行できるのです。 

知っているだけでは何にもなりません。それが見識となり、更に勇気を身につけ、胆識となってはじめて実行できるようになるのです。 

  1. 試練も心の管理を行うチャンス

遺訓第五条

幾たびか辛酸(しんさん)を歴(へ)て、志(こころざし)始めて堅し、大夫玉砕(たいふぎょくさい)して甎全(せんぜん)を恥(は)ず。一家の遺事(いじ)人知るや否や、児孫(じそん)の為に美田(びでん)を買わず。 

人の志というものは、幾度も幾度も辛(つら)いことや苦しい目に遭(あ)って後、初めて固く定まるものである。真の男子たる者は玉となって砕けることを本懐とし、志をまげて瓦となっていたずらに生き長らえることを恥とする。それについて我が家に残しておくべき訓としていることがあるが、世間の人は知っているであろうか。それは子孫(しそん)のために良い田を買わない。すなわち財産を残さないということだ。もしこの言葉に違うようなことがあったら、西郷は言うことと実行することが反していると言って見限りたまえと言われた。 

辛酸を舐めるような困難に耐え、努力を重ねて試練を乗り越えたとき、初めて人の志は定まるとは西郷自身の壮絶な実体験がいわしめた珠玉(しゅぎょく)の言葉です。 

西郷は明治維新に向けての政治活動の中で、京都の清水寺の僧だった月照と友人になりました。江戸幕府は尊王攘夷(そんのうじょうい)派への弾圧を強め、月照を捕えようとしていました。月照を助ける為に薩摩藩(さつまはん)に連れ帰り、島津久光の保護を得ようとしました。しかし久光は江戸幕府との摩擦を恐れ、月照を国外追放にしました。困り果てた西郷は、月照と共に身を錦江湾に投じました。しかし日照は死にましたが、西郷は助けられ、生き延びました。生き延びた西郷は、志を同じくするものを死なせ、自分ひとりが生き残ったことを後悔します。武士として死よりも辛く耐え難い恥辱(ちじょく)でした。西郷は辱(はずかし)めを忍び生きる決意をしました。 

西郷は久光公の怒りに触れ、沖永良島(おきながらべじま)へ島流しとなり過酷な虜囚(りょうしゅう)生活を送りました。四方に格子が入っただけの狭く粗末な牢に収容され、過酷な環境で、西郷は一日二回のおかゆだけしか与えられませんでした。 

島の役人の好意で座敷牢に移されてから、中国の古典を牢に持ち込み、来る日も来る日も書物を読み、瞑想(めいそう)に耽(ふけ)ったそうです。西郷は何事にも揺らぐことのない堅い信念を持つ人間に成長していきました。 

逆境とは自分自身を見つめ直し、成長させてくれるまたとないチャンスなのです。逆境や試練を否定的にとらえて悲嘆(ひたん)に暮れるのではなく、志を堅固にしてくれる格好(かっこう)の機会ととらえて敢然(かんぜん)と立ち向かうのです。試練を通してこそ志は成就(じょうじゅ)するのです。 

西郷は児孫の為に美田を買わず、子供達や孫達にも財産は残さないと言っています。これは無私の心です。肉親の情を超えた非情なまでの無私の心だったのです。 

我々は西郷のように辛酸を舐めることはできません。しかし自分はこういう生き方をしたいと、繰り返し、自分に言い聞かせ、魂にその思いを染み込ませることはできます。 

遺訓第二十五条

人を相手にせず天を相手にせよ。天を相手にして己を尽し人を咎(とが)めず、我が誠の足らざるを尋(たず)ぬべし。 

人を相手にせず、天を相手にせよ。人を相手にせず、自分の心の中にある誠を尽し、決して人の非をとがめるようなことをせず、自分の心の中にある真っ直ぐな心、すなわち正道をもって対すべきという意味です。 

バブル経済の最盛期には、不動産業者をはじめ銀行が不動産を買いなさいといろいろな会社にすすめました。日本中がバブルで、土地を買えば値上りする、株を買えば値上りする、銀行も土地や株やホテルを買う為に100パーセント融資し、できるだけ貸付金を増やし、金利でたくさん儲けようとしました。 

バブル崩壊で、不動産価格や株価がものの見事に暴落し、多くの人が損失をこうむりました。それはみんな人を相手にする、つまり道理に合っているかを判断の基準にしなかったからなのです。額に汗もせず、苦労もせず、右から左へとまわしていくだけでボロ儲けができるとしたら、そんなことをして正しいのかと、道理に照らして考えてみる。こうした道理に照らして考えるという人は少なかったと思われます。 

不動産、株式価格が暴落し、たいへんな損をしたときも、不動産や株を自分に勧めた相手が悪いのだと、人を咎めたのです。西郷が “天を相手にして己を尽し、人を咎めず。我が誠の足らざるを尋ぬべし” 自分の誠が足りなかったからこういう失敗をしたのだと考え、それを機会に心を高めようとするべきであって、人のせいにするなど、もってのほかなのです。 

  1. いま求められるリーダーは真我で動く 始末に負えぬ

遺訓第三十条

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。この始末に困る人ならでは艱難(かんなん)を共にして国家の大事は成し得られぬなり。 

命もいらぬ、名もいらぬ、官位もいらぬ、お金もいらぬというような人は処理に困るものである。このような手に負えない大人物でなければ困難を一緒に分かち合い、国家の大きな仕事を大成することはできない。 

西郷はまさに命もいらず、名もいらず、官位もお金もいらぬ人でした。官位もお金もいらない無私の人、つまり自己愛を離れた人でした。 

その人に欲があれば、お金をあげよう、地位をあげよう、名誉をあげようといえば、簡単に動かせます。しかし損得で動かない人間はいかにも扱いにくく、始末に困るものです。欲で動かない人は、何で動くかといえば、世のため、人のためという利他の心、つまり真我(愛と誠と調和)によって動くのです。 

会社の経営にあたっても、西郷のようなことはできないとは思いますが、その何分の一かでも実行に努めることができます。我々の人生も経営も必ずうまくいくと思います。実際に心を合わせ、信頼することのできる幹部、部下を育てていこうとするとき、少なくとも欲だけでは動かない、損得だけでは動かない人でなければ、幹部に登用してはなりません。 

我々経営に携わる人間は、一輪の小さな花であっても、美しく咲かせるべく、自分の心という庭を耕し続けなければならないと思います。 

経営者は率先垂範(そっせんすいはん)して、心を高め続けることが、我々ひとりひとりの人生を豊かにし、経営を伸ばし、従業員のしあわせをもたらせることとなると思います。

盛和塾 読後感想文 第八十号

物事の本質を究める 

私達は一つのことを究めることにより、そのものの心理やものごとの本質を体得することができます。究めることは、一つのことに精根込めて打ち込み、その核心をつかむことです。こうした体験をしますと、そのほかのあらゆることに通じると言われています。 

一見つまらないと思うようなことであっても、与えられた仕事を天職と考え、その仕事に全身全霊を傾けるのです。そうしますと、必ず心理が見えてくるそうです。 

一旦、ものごとの真理が分かるようになると、何に対しても、どのような境遇におかれようと、自分の力を自由自在に発揮できるようになるのだそうです。ことの本質を見抜く方法がわかっておりますから、あらゆる面で真理を手にすることが出来るようです。 

稲盛和夫の実学をひもとく原理原則に則り、物事の本質を追求する 

家族も会社も国も、会計を知らなくてはならない。

私達の生活には、お金が必要です。お金は命綱です。入ってくるお金と出て行くお金のバランスがどういう状況にあるか、よく理解している必要があります。家庭でも、会社でも、国でも地方自治体でも、お金のバランスが取れていなければなりません。 

日本の多くの経営者は、1980年代後半から始まるバブル経済の中で、過剰・投資を繰り返しました。1990年に入り、そのバブル経済は崩壊し、デフレ経済の始まりとなりました。こうした中で、経営のあり方を見直し、抜本的な対策をとろうとしたのは少数であり、多くは不良債権を隠し、業績の悪化を繕うことに努めて来ました。もし、中小企業から大企業に至るまで、経営に携わる者が、常に公明正大な、透明な経営をしようと努めていたなら、企業経営の原点である “会計の原則” を正しく理解していたなら、バブル経済もその後の不況も、これほどまでにはなりませんでした。 

戦後から1980年代初頭までの右肩上がりの経済であれば、企業経営は前例に従うだけでよかったでしょう。しかし、日本を取り巻く環境は大きく変わり、成長神話は崩れ去り、グローバル経済の中に組み込まれています。経営者は今まで経験したことのない経済環境に対して、自社の経営実体を正確に把握したうえで、正しい経営判断をしていくことをしなければなりません。その為には、会計原則、会計処理にも精通していることが前提となります。 

従来、ほとんどの日本の経営者は、会計とはお金や物の動きを集計する、後追いの仕事と考えてきました。中小、零細企業の経営者の中には、税理士や会計士に毎日の伝票を渡せば、必要な決算書は作ってもらえるのだから、会計は知らなくてもいいと思っている人もいます。経営者は “いくら利益がでたか” “税金はいくら払うのか” には関心があるだけで、会計の処理方法は専門家がわかっていればよいと思っている人が多いと思います。さらに、会計の数字は自分の都合のいいように操作できる、と考えている経営者もいると思います。 

真剣に経営に取り組もうとするなら、経営に関する数字は、すべていかなる操作も加えられない、経営の実態をあらわす唯一の真実を示すものでなければなりません。損益計算書や賃借対照表のすべての科目とその細目の数字は誰が見ても、ひとつの間違いもない完璧なもの、会社の実態を100パーセント正しく表すものでなければなりません。 

日本の大企業の経営者の中でも、その多くは会計をわかっていないまま、経営をしておられます。経営者の多くは、一流大学を卒業して、営業部門、製造部門など現場で研鑽を積んでトップに上り詰めたという方々が大半です。会計をわかっておられる方が少ないと思います。そうではなく、トップ自身が会計をわかっていなければなりません。 

賃借対照表で、健康状態を把握しなくてはならない

京セラ創業時には、塾長は経営の経験がなかった為、営業であれ、製造であれ、会計であれ、直面した一つ一つの問題について、“こうでなければならない” と心から納得できるやり方-原理原則、世間でいう筋の通る、人間として正しいことに基づいて経営していこうと決めました。 

経営の常識とされるものを知らず、一から理解し、納得してから判断しようと考え、経営とはいかにあるべきかという経営の本質を常に考えるようになりました。会計についても、自分の予想したものと実際の決算の数字が食い違う場合、すぐに経理の担当者に詳しく説明してもらうようにしたそうです。 

経理部長に対しても、疑問に思ったことはどんな小さなことでも遠慮なく質問し“経営の立場からはこうなるはずだが、なぜ会計ではそうならないか”と根掘り葉掘り “なぜ” を繰り返したそうです。経理部長は素人の無理難題と受け止めていました。

 経理部長とのこうしたやり取りが数年続きました。恐らく、経理部長は “うるさい” 社長と思い、人間関係もギクシャクしていたと思います。ところが、塾長の “なぜ” という質問に答えようと努力をしていく経理部長は “会計とは何か” が理解でき、彼の態度が一変したのです。経営はいかにあるべきかという立場(管理会計)からの社長の発言を深く受け止めだしたのでした。このことは、一つずつ、具体的に徹底的に物事の本質を引き続き追及していくことの大切さを物語っていると思います。 

賃借対照表とは、いわば身長がいくらで、体重がいくらで、その体を維持するのに、どういう栄養分をどこから持ってきたかを示すものです。 

A社の賃借対照表 2018年12月31日 

A社の2018年12月31日現在の賃借対照表は以下の通りです。

身長や体重は資産の部、それを支える栄養分は負債及び資本の部です。

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企業に限らず、大学、国、家庭、すべての団体の状態を賃借対照表で表すことができるのです。例えば、家を購入する時、住宅ローンを申請します。その時、銀行は個人の資産・負債の明細提出を要求してきます。住宅購入者がローンを支払っていけるかどうか判断します。いわば、家庭の賃借対照表を銀行は要求しているのです。 

A社の場合、2018年12月31日現在で、流動資産・現金・預金等は四億四千三百万円、固定資産は六億五千二百万円あります。資産の部合計十億九千五百万円は負債及び資本の部合計十億九千五百万円で支えられているわけです。 

原理原則に則り、物事の本質を追求せよ

物事の判断にあたっては、常に本質にさかのぼること、そして人間としての基本的なモラル、良心に基づいて何が正しいのかを基準として判断することがもっとも重要です。 

そのモラルとは、素朴な倫理観に基づいたものです。公平、公正、正義、努力、勇気、博愛、謙虚、誠実というような言葉で表現できるものです。 

何事においても物事の本質にまでさかのぼろうとせず、ただ常識とされていることにそのまま従えば、自分の責任で考えて判断する必要はなくなってしまいます。とりあえず人と同じことをする方が何かと差しさわりもないであろう、このような考え方は原理原則にさかのぼって考える経営にはなりません。どんな些細なことでも、原理原則にさかのぼって徹底して考えることが重要であり、正しい判断の基準を毎日の経営判断に適用していく必要があるのです。そうすることにより、筋の通った経営が可能となります。 

経営における重要な分野である会計の領域でも全く同じです。会計上常識とされている考え方や慣行に単純に従うのではなく、改めて何が本質なのかを問い、会計の原理原則に立ち戻って判断することが要求されるのです。経営の立場から “その会計処理が正しいのか” 意識して問いかける習慣を身につけることが肝要です。 

会計・経理を、企業経営の中枢において経営者は経営する。ただし、会計経理を軸に据えたとしても、“従来、会計はこうするものだ” という常識を鵜呑みにしてはなりません。何が正しいのかという原理原則に基づいて会計というものを理解していくことが大切です。 

  1. 原理原則に反した不良債権処理における政府の対応

日本ではバブル経済時に銀行はいろいろな企業に預金を貸し付けてきました。多くの企業はその資金で土地を買い、ビルや工場を次々と作っていきました。バブル崩壊後、地価は三分の一、工場は余剰設備を備え、借りた資金を返済することが出来なくなりました。銀行が資金の回収をすることが出来なくなり、不良債権が日本全土に広がりました。企業も銀行もたいへんな不良債権を抱えてしまったのです。 

危険な債権を持っている銀行が “うちは健全です” というのはおかしいわけです。相当の額が返ってこない可能性があるわけですから、貸倒引当金の計上をすべきです。貸倒引当金は損失として損益計算書に計上しなければなりません。 

しかし国税庁は、貸付先の企業は潰れていないので、貸倒引当金を損金として認めないのです。そして引当金の損金算入否認の結果、銀行はその半分を税金として納付させられます。ただし、この納付した税金は貸付先が実際に潰れた時に実質的に返ってきます。この部分は繰越税金として資産部に計上されます。この部分は資本の部に自己資本の増加となります。 

会計の仕訳は以下のようになります。

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繰越税金資産は会計上は費用処理されず、将来発生するであろう貸倒損失に対する税金の過払い/前払い・税金として取り扱われます。そうしますとこの部分だけ自己資本が¥300増えていることになります。 

銀行にとって自己資本比率は重要です。自己資本比率が8%を切ると国際業務ができなくなるのです。銀行の場合、この繰越税金資産の金額が大きく、自己資本の三分の一にまで達しているのです。 

金融庁は貸倒引当金を計上しなさいと言う。税務当局は、貸倒引当金の損金は認めません。税金を払いなさいと言う。財務省は、繰越税金資産の計上には上限を設けますよと言う。銀行は大変、困惑しました。国の方針が各部署で分離されて、総合的な合理性が欠けたまま国の運営がなされているのです。 

お上が決めたからと言って、鵜呑みにするのではなく、何が正しいかという本質に照らして納得のいくように理解していくことです。 

  1. 減価償却と原理原則による判断

機械設備を購入しますと、購入代金を支払った時に全額経費に落としません。機械設備は通常2-3年、続けて使用することがあるからです。そうしますと、機械設備代金を例えば3年使用するとして、毎年三分の一ずつ経費に計上します。これが減価償却です。 

減価償却費を毎年計上し、減価償却引当金として賃借対照表に計上されていきます。3年後には購入価額と同額の減価償却引当金が蓄積されていきます。毎年の減価償却費は毎年の使用料なのです。また、新しく買い替える準備金の積み立てと考えても良いと思います。 

通常、耐用年数は “法定耐用年数” に従って決められ、会計処理されています。大蔵省の決めた省令に当てはめて償却するのです。“陶磁器、粘土製品、耐火物などの製造設備” は耐用年数は12年と定められています。しかし、その製造設備は使用される仕事によって実際の耐用年数は異なるのです。セラミック粉末の成型品の場合は5~6年しか使えないのです。法定耐用年数を無理矢理当てはめるという決め方には、経営者としては納得できないことでしょう。法定耐用年数は “一律公平” に提供する為のものなのですが、個々の企業の相違を認めない償却なのです。 

経理部は “税務上の耐用年数が法令で決められているのに、みんなが従っているのに、わざわざ自社の耐用年数を使うのは得策ではない。実務的にも税務上、会計上二本立の償却になり、煩雑になる” というのです。税金を払ってでも償却する “有税償却” はすべきではないというのが通常の会計です。 

しかし、経営や会計の原理原則に従えば、有税であっても、経済に沿った耐用年数で償却し、適正な費用計上をすべきなのです。耐用年数が5~6年なのに、法定耐用年数12年で償却すれば、最初の6年間は減価償却費が過少計上され、利益が過大に計上されます。七年目にその機械設備を除却しますと、一拠に多額の除却損が発生します。こうした処理は経営や会計の原理原則に反するのです。 

設備の物理的、経済的寿命から判断して “自主耐用年数” を定めるようにすべきなのです。 

  1. 減価償却は原理原則に則って行え

先述のように、法定耐用年数は、企業が勝手に耐用年数を決めると不公平になってしまうので、財務省が定めたものです。 

しかし、法定耐用年数が15年と定められた機械が特殊な使い方をしたために3年しかもたなかったというケースがありました。税務署は3年償却は認めてくれません。そうしますと会社は向こう3年間、50万円毎年償却します。さらに有税償却の為 (自主耐用年数償却50万円-法定耐用年数償却10万円) x50% = 20万円の税金を支払うこととなります。 

有税償却をする為には、そうすることが出来るぐらいの収益力がなければなりません。 

  1. 物事の本質を追求する-本質追求の原則

経営をする上では、原理原則に則って、ものの本質を求めなければなりません。物事を鵜呑みにしないで、“なぜだ。なぜだ” と考え、本質まで立ち返っていかなければなりません。 

“会計的にはこう処理するのです” と経理部長に言われても、“何でそうなっているのだ” と考え、納得できるまでと本質を追求します。 

経営者の多くは営業や製造畑出身の方が多い様です。ほとんどの経営者は経理を軽視しているようです。しかし、会計、経理の分野は軽視するわけにはいきません。それどころか徹底して知らなければなりません。

“稲盛和夫の実学”  は京セラでの経験をもとにして書かれた、本質追求の原則の具体的・解かり易い会計実学です。 

  1. 原理原則から考えて、おかしかった歩積み

常識に支配されない判断基準を持つことが非常に重要なのです。以前に“歩積み両建て預金”というものが、銀行から要求されていました。中小企業の場合、お客様に納品しますと、お客様から90日約束手形を頂きます。これは、90日後に支払いますという約束なのです。中小企業の場合は預金に余裕がありませんから、銀行にその約束手形を持ち込み、お金を借りるのです。 

銀行は、例えば、100万円の約束手形を割り引いて3万円利息を差し引き、97万円を会社に渡します。しかし銀行は同時に約束手形の安全性確保のため、10万円預金するよう要求します(歩積み・両建て預金)。従って会社が使えるお金は87万円だけなのです。 

割り引いたら歩積みがいりますと経理部は言います。100万円の預金が銀行に担保として保証されているにも関わらず、銀行とお付き合いする為には歩積みがいると言って聞かないのです。稲盛塾長も “まあそれは仕様がないな” と認めていました。おかしいことはおかしいと原理原則、本質に立ち返って、経理部に話したのでした。 

しかししばらくして、当時の大蔵省から省令が出て “歩積みという横暴なことを銀行が中小企業に要求しているのはけしからん。今後はやめなさい” と各銀行に通達されました。 

  1. 売上に対する販売費・一般管理費の割合にも常識という迷信がある

ある業界では、販売費・一般管理費は売上高の15%かかるというのが常識になっています。売上高利益率は5~6%である。という常識があったとします。そうしますと、業界の会社の決算書は横並びになります。 

常識といわれるものが悪いのではなく、本来限定的にしか当てはまらないものを、あたかも、つねに当てはまると勘違いしているのです。常識を鵜呑みにしてしまうからなのです。常識に捕らわれず、本質を見極め、正しい判断を積み重ねていくことが、激動する経営環境に必要なのです。 

A社の損益計算2018と2017を比較して見ます。

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売上高は2018年は4億8千200万円、2017年は4億9千900万円、ほぼ横ばいでした。
売上原価も横ばいでした。売上原価率もほとんど変動はありませんでした。販売費・一般管理費は2018年、6千6百万円(13.7%)、2017年は7千5百万円(15%)と大巾に金額も、売上高、販売費・一般管理費率も下がっています。1.3%下がりました。
営利利益は2018年4千2百万円(8.8%)、2017年3千8百万円(7.7%)、大巾に増加しています。1.1%上がっています。

製造業の場合、売上総利益率、販売費・一般管理費は売上に対して30%、15%くらいだとみな思っています。販売費・一般管理費については工夫によって上記の様に変えることができるのです。

大企業の場合は、売上高経常利益が2~3%ぐらいの頃がありました。毎年給与が上がっていきますから、当然販売費・一般管理費も上昇して、売上経常利益率2~3%はないが2%は確保しているのです。3%利益が出るのが当たり前と大企業の経営者は考えているのです。3%の利益が出なくては世間体が悪いから、コストダウンの努力をしておられるのでした。

常識で利益が3%くらい出るものだと信じ込んでおられるおかげで、“赤字になると恥ずかしい。だから3%まであと一歩の2%の利益” が出るのです。例えば、販売費・一般管理費が9%増えたとしても、合理化で8%コストダウンすることができた為、利益率2%を確保できたのです。賃上げが今年は3%あったとしますと、よし来年は6%賃上げがあると考えて合理化に努力すれば、6%の利益率も夢ではないのです。

この例のように、現状維持志向、考える努力を怠る、常識というものが、人間のメンタリティーを縛るのです。

盛和塾 読後感想文 第七十九号

謙虚な姿勢を保つ 

リーダーは、常に謙虚でなければなりません。権力のある座につくと、人間は堕落し、傲慢不遜(ごうまんふそん)になってきます。このようなリーダーの下では、たとえ一時的に成功しても、周囲からの協力が得られなくなり、集団が永続的に成長・発展していくことはないのです。 

日本古来の思想、相手が存在し、自己が存在する、あるいは全体の一部として自分を認識するという考えがあります。このように相対的な立場で、ものごとを捉えることによってのみ、集団の融和と平和を保ち、協調を図ることができるのです。 

リーダーは、部下があってはじめて自分が存在します。自分は部下が支えてくれているから、リーダーとして役割を果たすことができるという謙虚な姿勢を持たなければなりません。 

謙虚な精神を持つリーダーであってこそ、融和と協調の下に、成長・発展を続ける集団を築くことが可能となります。 

稲盛和夫の実学をひもとく 一対一対応を貫く 

一対一対応の原則の理解

一対一対応の原則は、会計処理として厳しく守らなければならないだけではありません。企業のその中で働く人の行動を律し、内から見ても外から見ても不正・誤びゅうのない、透明なガラス張り経営を実現するために重要な役割を担うものです。

・会計処理

・不正・誤びゅう防止

・ガラス張り経営 

  1. モノ・お金の動きと伝票の対応

経営活動においては、必ずモノとお金の動きがあります。その時、モノと伝票が必ず一対一対応を保たなければなりません。モノ又はお金の動きにはその動いた瞬間に、取引きを追跡できる証拠書類 (Traceability)が作成され、正式な承認がなされていなければなりません(迅速主義とAccountability – audit trail)が必ず守られなければなりません。これを一対一対応の原則と呼びます。 

この当たり前のことが守られないのです。その理由は、経営者、トップが会社の定めた会計・経理規定を無視し、伝票作成をしない、又、経理も含め正式に伝票を発行する営業担当者が忙しくて時間がない等が問題です。悪意で伝票操作することもあります。売上が今日は一千万円足りないので、お客様の同意を得て、売上伝票一千万円を発行し、架空の売上計上をします。製品はお客様には出荷されません。翌月、返品処理-お客様に返品伝票を発行してもらい、売上の取り消しをします。 

このようなことが日常的に行われますと、経理の数字はいくらでも変えられるものだと、社長も従業員も考えてしまいます。 

例えばレストランのケースがあります。

ウエイターがお客様から注文を取ります。その注文をキッチンに渡します。キッチンが作ったラーメンをウエイターはお客様のテーブルに配膳します。お客様が食べ終わりますと、ウエイターは請求書をお客様に渡します。お客様は請求書を持ってレジに行き、支払いを済ませます。 

注文を取った時、ウエイターは2枚の受注伝票が必要です。一つはキッチンに渡します。もう一つはウエイターの控えです。キッチンではラーメンを作った時、キッチンの注文書にコックのイニシャルを付けます。ウエイターは控えの注文書にチェックマークを入れて配膳します。お客様がお食事を済まされた時、ウエイターはレジに行き、請求書をもらって、お客様に請求書を手配します。 

キッチンのコックは、作ったラーメンと注文書を確認することができます。ウエイターは控えの注文書と配膳したラーメンとを照合します。お客様はレジに行き、ウエイターからもらった請求書に基づいて、クレジットカードで支払います。レジはクレジットカードの領収書とウエイターへ渡した請求書を照合します。このように、モノの動き、お金の動きには必ず伝票(会計記録)がついて回るのです。 

1日の終わりにラーメン200杯売れました。レジはキッチンのコックからの報告と入金が合っているかチェックすることができます。こうすれば、ウエイターが自分の友人から食事代を受け取らない、タダでラーメンを食べさせてしまうことはできません。キッチンはラーメンを200杯作りました、ウエイターもラーメン200杯配膳しました。レジも200杯お金を受け取ったことを、毎日チェックが出来るのです。 

モノもお金も伝票と一対一対応で処理することで、会社を正しく管理できる

一般的にお客様に納品する時は次のようなステップが取られます。

お客様から受注する。受注伝票が発行され、お客様に確認する。受注が販売部に記録される。お客様への発送をする時は、出荷指図書を発行し、倉庫が荷造りの為の出荷指図書に基づき、倉庫は製品を出荷する。営業部は出荷指図書と納品書を発行します。営業部は売上伝票と請求書をお客様に送付し、経理部は入金を確認します。 

お客様に納品する時は、納品伝票と売上伝票を発行し、納品伝票を品物に必ずつけます。請求書も付けます。納品の仕方にはいろいろありますが、どのような時でも必ず納品伝票が荷物についています。納品した時には必ず、納品伝票の写し、受領書にお客様からサインを頂きます。これが一対一対応なのです。 

ところが、このように品物と納品伝票(受領書)が一緒に動かないことがあるのです。お客様に催促され、時間がないために伝票を発行する前に、営業部はお客様に届けるようなことがあります。お客様から受領書は受け取っていないのです。“伝票は後ほど届けます” と品物だけ先に持っていってしまうのです。こういうことがいくつか重なりますと、お客様の方でも仕入計上はしていません。こちら側も売上処理が遅れてしまいます。その為に、会社の売上記録が正確でなくなります。例えば、納品伝票に受領印がないまま、売上伝票が発行されますと、売掛金が計上されます。お客様の方では、納品伝票の仕入計上はしていません。売掛金の回収が遅れていますので、経理部、又は売掛金担当がお客様に売掛金支払いの催促をします。そうしますと、お客様は “うちの方では仕入計上がありません。お支払いできません” と回答してきます。渡した証拠がない為、あきらめざるを得ないのです。 

出張の仮払いについても一対一対応の原則違反がよくあります。営業部長が出張するので100,000円仮払いしてくれるよう経理部に依頼して来ます。通所は仮払い申請書を提出し、上司の承認を得るのですが、時間がないため、仮払申請書なしで100,000円現金を渡してしまいます。営業部長は出張から帰り次第、出張精算すると言って来たのです。 

こういうことが大きい企業で行われますと、経理部では処理が大変です。中には出張申請書提出や、清算することを忘れてしまう人もあります。経理部では多くの出金の為、現金出納簿につけていないことも発生します。会計監査をする時のポイントの一つに、現金出納簿が正確かどうかということがあります。入出金の際に必ず一対一対応で伝票を起こし、伝票でその日一日の入金と出金をきちんと管理していきますと、金庫残高が金銭出納簿の残高ときちんと合います。 

一対一対応の原則を徹底させれば、粉飾決算はありえない

“一対一対応の原則” とは先述のような、現金出納帳の残高が現金残高に合わない、あるいは品物の納入の際、納入受領伝票が発行されていない、品物の動きがないのに売上伝票が発行される、というような事態を防ぎ、発生したすべての事実を即時に認識し、ガラス張りの管理のもとに置くということを意味します。社内に一対一対応を徹底させると、誰も故意に数字を作ることができなくなります。伝票だけが勝手に動いたり、モノだけが動いたりすることはありえなくなります。モノが動けば必ず起票され、チェックされた伝票が動く。こうして数字は事実のみを表すようになります。 

一対一対応の原則の要諦は、原則に徹することです。事実を曖昧にしたり、隠すことができないガラス張りのシステムを構築し、トップ以下の誰もが “一対一対応の原則” を守ることが、不正を防ぎ、社内のモラルを高め、社員一人一人の会社に対する信頼を強くします。 

“一対一対応の原則” が守られていれば、モノやお金が動かなければ伝票が動かないわけですから、伝票を動かして会社の業績を変えること、粉飾ができません。“一対一対応の原則” は、透明性のある経営、ガラス張りの経営を行うためのベースとなるのです。 

大きな組織の場合には、社長が実態を全くわかっていないことが多いようです。経理部が作成した決算書を見ただけで、経営の実態が把握できたつもりでいます。会社の実体は末端がきちんと情報を上げなければわからないものです。会社が大きくなっていけばいくほど、経営トップが裸の王様になってしまって、何も知らないうちに、下が好き勝手なことをしているということにもなりかねません。 

一対一対応が正しく行われていないと実績の数字は歪む

京セラ創業から三年目の1962年、京セラはカリフォルニア州サニーベイルというところに営業所を作り、現地の仕事が始まりました。会計の全く経験のない2人の従業員がアメリカでのビジネスを開始しました。フェアチャイルド社からの注文が増加していました。半導体産業の勃興期でした。フェアチャイルド社からは京セラに注文が徐々に増えていきました。フェアチャイルド社からせかされて日本から製品を航空便で送り、サンフランシスコ空港に着くと、すぐに仲業者が荷揚げをし、サニーベイルの事務所に届ける。製品は直ちにフェアチャイルド社に届けます。 

フェアチャイルド社へは製品納入時に売上伝票、納品伝票(受領書)を発行します。しかし、仕入伝票はまだ立てていません。仕入には信用状(Letter of Credit)を銀行から発行してもらっていました。信用状は銀行が、輸出先の支払いを保証してくれるものです。信用状や輸入関係の書類が届くには、品物が輸入されてから一週間かかります。これらの船積み書類が届いた時に仕入伝票を発行していました。 

例えば3月28日に百万ドルの製品をフェアチャイルド社に売りました。3月28日付で売上伝票、納品伝票が発行され、3月に売上が計上されます。仕入関係書類は4月5日に到着しました。90万ドルの仕入伝票が発行され、4月に仕入計上されます。売上は3月、仕入は4月に計上されます。このままですと、3月には百万ドルの利益が計上されますが、4月には90万ドルの赤字となってしまいます。 

受注に大きな変動がないにも関わらず、月によって売上や利益が大きく変動するのは、管理がうまくいっていない証拠です。一対一対応が現実にできていないことによって売上と利益が月次で大巾に変動しているということがわかったのです。従って、製品が届いた時には仕入伝票が、製品がお客様に納入された時には売上伝票が発行されなければならないのです。 

京セラの管理体制と公認会計士

京セラが株式を上場する時に、銀行から公認会計士を紹介して頂きました。公認会計士は、経営者の人物を見てから監査を引き受けるかどうかを判断しますと言われ、おどろきました。“正しいことを正しくやれる経営者でなければ、私は監査の依頼をお受けしません” と言うのです。京セラも、そういう会社ですから、とお願いすることになりました。宮村久治公認会計士です。 

宮村さんは早速サニーベイルに来られ、監査されました。ところが調べてみると、すべての伝票が一対一対応で処理されている。現預金の管理をする小さな金庫を開けて現金と帳簿を照合しますと、一セントたりとも違っていない。宮村さんはびっくりされたのです。 

京セラの米国現地法人においても、一対一対応の原則を厳守してきた為、経理的な問題を起こすことはなかったのです。 

大企業相手でも頑なに拒んだ 一対一対応に反する支払処理

お客様の中には資金繰りの都合で、京セラへの支払いが約束通りに支払われないことがありました。大企業の各部門と取引をしていますと、お客様の経理部はいくつかの事業部の買掛金の支払いをまとめて本社経理部が集中管理していました。“今月は資金繰りがつかないので、とりあえず二千万円支払います。あと残りの三千万円は翌月に支払います” ということがあり、営業部は二千万円の小切手をもらって帰りました。その時、この二千万円の支払いは “どの売上伝票のものですか。この二千万円の内訳をどの請求書のものかお知らせしていただけないと、入金処理はできないのです” と頑固に入金処理に一対一対応の原則を適用したのです。 

売掛金には請求書をお客様別、年齢別(請求書日付別)に管理する売掛金年令調査表がコンピューターにあります。入金がありますと、この入金はどの請求書に当てはまるものか、一つ一つ消込みをしなければなりません。 

この事例を見ますと、この大企業の経理部は一対一対応の原則をしておらず、会計管理に問題があるということが判明したのです。 

京セラは “一対一対応の原則” を貫かなければいけないという自らの主張を曲げませんでした。必ず一対一対応の原則を守らなければ、信頼に値する会計資料は作れないのです。“一対一対応の事例” は、どのような会社、どのような組織でも適用する会計の基本中の基本です。これがなくては会計はおろか企業経営がおかしなものとなるのです。