盛和塾 読後感想文 第156号

人生で一番大切なこと 

稲盛塾長は若い頃から、目的を持ったら本当にまっしぐらに、何の邪心もなしに、目的に向って邁進してきました。もう脇目もふらずに一生懸命、それに向って努力をする、右顧左眄(うこさこ)しないで、先に何があろうとも、何も見えなくとも、とにかく進むべき方向を決めたら、それに向って必死に努力をするという生き方をされてきました。 

大学を卒業して松風工業に就職、電力用の絶縁碍子(がいし)を作っている陶磁器メーカーで大きな会社でしたが、一般の焼き物の世界だけでは将来がないだろうと、今後発展していくであろう特殊な焼き物について独学で研究を始め、色々なものを開発していきました。 

その頃住んでいた寮には食堂がなかった為、会社に金属窯を持ち込んで自炊を始めました。ある日、稲盛塾長の机に弁当が置いてありました。誰が持って来たのかわからなかったのですが、食べました。すると明くる日も弁当が置いてあります。こうして毎日弁当にあずかるようになりました。その弁当を作ってくれていた女性が、稲盛塾長のお嫁さんになりました。 

奥さんは稲盛塾長が仕事に打ち込んでいる姿にひかれたと思われます。奥さんは人物を見分けることのできる賢い女性だったのです。一生懸命に何事かに向って努力をする姿は頼もしく、美しいものと写ったに違いありません。周囲の人達を巻き込むくらい、一生懸命、一心不乱に仕事に打ち込むことは尊いことです。 

環境が悪かろうと何がどうあろうと、とにかく自分の人生を一生懸命前向きに生きるということが人生で一番大切なことだと稲盛塾長は語っています。 

盛和塾は2019年末、解散しました。稲盛塾長の三十六年の盛和塾の活動は、日本、中国、ブラジルと、国境を越えて多くの経営者の育成に寄与しました。

盛和塾 読後感想文 第155号

フィロソフィーをいかに語るか

経営にはフィロソフィーが何故確固として必要なのかということを、過去にも話してきました。 フィロソフィーを経営者自身が実践するのみならず、従業員と共有することの大切さは、何度も話してきています。しかしながら“フィロソフィーが社員に浸透しない”“フィロソフィーに反発する社員がいる”といったこともよく耳にします。 

その要因は、根本的には、フィロソフィーをなぜ従業員に説くのか、いかに説くべきかについて、よく理解されていないことに原因があるように思われます。 

フィロソフィーを説くベースにあるもの

一体フィロソフィーとはどういうものか、考えてみる必要があります。それは毎日の仕事の中で、実践の中で考え、コツコツと貯めていったものです。稲盛塾長は大学卒業後入社した松風工業時代から、フィロソフィーを始めました。 

劣悪な環境の中であっても素晴らしい研究成果をあげていくのには、どういう心構えで人生を生き仕事にあたるべきなのか、毎日のように考えました。自らに問い、悩み苦しみながら考えに考え抜いたことを、研究ノートに記録していきました。 

京セラを創業してからは、その自分なりの人生・仕事の予定のようなものを書きためていたノートを引っ張り出して、経営に携わるようになってから気づいたことを書き足していくようにしました。これが現在の京セラフィロソフィーです。 

稲盛塾長のメモが残っています。“仕事に徹し、謙虚な精神のもと、素直に物事に取り組んで全身全霊を打ち込んでやろう”“我々は苦難を恐れない。 正々堂々とやろう”“我々は人一倍やって人並みのことができると考えよう”“人間の能力は無限であることを信じ、飽くなき努力の追求を続けよう”。現在の京セラフィロソフィーの中核を構成する概念が既に明確に示されています。 

稲盛塾長は、こうした自らの信念と言うべき考え方を仕事で実践すると同時に、従業員と共有するように努めました。それは稲盛塾長が楽になるためでは決してありません。 

京セラの従業員にフィロソフィーを説くベースにあったのは、何よりもみんなに幸せになってほしいという純粋な思いでした。“こういう考え方で生きていけば、充実した幸せな人生を送ることができるはずだ”と強く思っていたからこそ、より多くの人々にその事を知らせたかったのでした。 

フィロソフィーを、会社の方針に従業員を従わせるための行動規範、あるいは従業員を精力的に働かせるためのツールだと勘違いしてはなりません。もし経営者個人のため、あるいは会社の業績を良くするための手段としてフィロソフィーをとらえて社内で説いているとしたら、決して従業員の共感を得ることはできません。 

“従業員のため”“すばらしい人生を送ってほしい”と言ったとしても、少しでも“会社の業績のため”“自分が楽になりたいから”といった気持ちがあれば、それは知らず知らずのうちに従業員に伝わっていきます。“社長は口ではフィロソフィーはみんなのためだと言っているが、本当は自分のためなんだ”とすぐに見抜かれてしまいます。 

あくまでもまずは“ 従業員に素晴らしい人生を送ってほしい”という強い思い、限りない愛が全ての根底になければなりません。 

フィロソフィーの持つ偉大な力を信じる

自分自身が自らの人生を通して、フィロソフィーの持つ偉大な力を実感することが大切です。 

稲盛塾長は若い時に多くの挫折を味わい、たくさんの苦労しました。旧制中学校の受験には二度失敗、肺結核にもかかり、志望大学にも合格しませんでした。また就職した会社が今にも潰れそうな会社でした。潰れそうな会社の中でフィロソフィーの原型とも言える考え方をもとに、一心不乱に目の前の仕事に邁進し、研究に没頭することで、人生が大きく開けていきました。 

一九五九年に創業した京セラは、初年度から黒字を計上し、今ではファインセラミックスの特性を生かした各種部品デバイスのみならず、通信機器や情報機器などの完成品までを提供する大企業に発展しました。 

一九八四年に電気通信事業の自由化に際して立ち上げた第二電電も、新電電での中でトップを走り続け、今では KDDI として五兆円を超える売上を誇る、日本を代表する通信事業者へと成長しています。 

二〇一〇年からおよそ三年にわたって携わった日本航空も、二〇一二年には再上場を果すなど、無事に任を果すことができました。それだけではなく、稲盛塾長は、自分の想像を超えた素晴らしい出来事に遭遇してきました。それは決して運がいい、つまり時代の潮流に乗ったからとか、ましてや自分の能力によるものではないと考えています。 

自分の想像を超えた素晴らしい人生を送ることができたのは、フィロソフィーの持つ力によるものであると確信しています。より良く生きようとする純粋な考え方は、素晴らしい運命を招き寄せる強大なパワーを持っているのです。 

イギリスの啓蒙思想家ジェームス・アレンは、次のように述べています。

“清らかな人間ほど、目の前の目標も人生の目的も、汚れた人間よりもはるかに容易に達成できる傾向にあります。汚れた人間が敗北を恐れて踏み込もうとしない場所にも、清らかな人間は平気で足を踏み入れ、いとも簡単に手に入れてしまうことが少なくありません” 

なぜ、純粋で美しい心から発したフィロソフィーが偉大なパワーを発揮するのでしょう。それは、この世界にはすべての存在を善き方向に導こうとする宇宙の意思が流れており、物事は必ず成長・発展する方向へと進んでいくからです。 

人生を“ 大海原を旅する航海”に例えるならば、我々は思い通りの人生を送るために、必死になって自分で船を漕ぐことが必要です。また仲間の協力や、支援してくれる人々の助けも必要です。しかしそれだけでは遠くの目的地にたどり着くことは難しいのです。船の前進を助けてくれる、この世に流れる他力の風を受けることで初めて、はるか未踏の大地を目指して船を進めることができます。 

この風を受けるためには帆を上げなければなりません。宇宙の意思に反するような邪な心であげた帆は穴だらけで、よしんば他力の風が吹いても、船は前進する力を得ることは決してありません。一方、純粋で美しい心のもとにあげた帆は、他力の風を強く受け、順風満帆で大海原を航海することができます。 

稲盛塾長は若い頃、“不確定な人生だが、充実した素晴らしい人生を送っていくことができるはずだ”と思い、それがどうすれば実現できるか考えてきました。そして考え方によって人生が変わるのではないかと思い至り、こういう考え方で人生を生きるべきではないかと、自ら体験したことをフィロソフィーとしてまとめました。 

その結果、会社が想像以上に発展してきました。稲盛塾長自身の人生も大きく開けてきました。フィロソフィーは会社の発展に貢献する哲学だけではなく、個々人の人生をもっと充実した素晴らしいものにしていく真理だと思われました。 

フィロソフィーを自らの信念にまで高める

人間は自分が信じていないものを、人に熱意を持って伝えることはできませんし、たとえ伝えたとしても、人を得心させることはできません。 

フィロソフィーを単に知識として知っているという程度では不十分です。自らの“信念”にまで高め実践することが必要です。 

東洋哲学者、安岡正篤(まさひろ)さんは、“知識”“見識”“胆識”という言葉で教えてくれています。知識を身につける必要はあります。しかし、そのような知識を持っただけでは実際にはほとんど役に立ちません。知識を“こうしなければならない”と信念にまで高める“見識”にしていかなければなりません。 

しかしそれでも不十分です。その見識を、何があろうが絶対に実行するという強い決意に裏打ちされた“胆識”にまで高めることが必要です。 

フィロソフィーを知っているだけでは何にもなりません。それが信念にまで高まった見識となり、さらに実践を促す胆識になって初めて、社長が説く言葉が従業員一人一人の心に響いていくのです。 

率先垂範自ら実践に努める

フィロソフィーを説く経営者に求められることは、率先垂範する、自ら実践に努めることです。いかにすばらしい理念、フィロソフィーを掲げて、社長が毎日のように説いて回ったところで、社長自身の実践が伴っていなければ、従業員はそれが付け焼刃だと、すぐに見抜きます。 

もし、フィロソフィーを一生懸命伝えているのに自分の思いが浸透していない、逆に不信感を持たれているとすれば、その経営者の生きる姿勢が、従業員から尊敬されるレベルに達していないということです。 

一般の企業では、社長室に社是や社訓が掲げられています。ところが往々にしてその社長が、書いてあることと全く違ったことを平気でやっているケースがあります。それではいくら高邁(こうまい)なフィロソフィーを毎日説かれても、全く従業員の共鳴を得ることはありません。 

“社長が言ってることとやってることが違う”“朝礼では“みんな一生懸命頑張ってほしい。私はみなさんの先頭に立って、皆さんの幸せのために、誰にも負けない努力をするつもりだ。”と言いながら、昼からろくに仕事もせず、遊びほうけている。あんな社長だから、うちの会社はだめになってしまうんだ” 

単に従業員を駆り立てるためにフィロソフィーを説くのではなく、経営者である自分自身が誰よりも率先垂範、フィロソフィーの実践に努めることが何よりも大切です。経営者本人が常に自らに厳しく規範を課し、人格を高めようとし続ける姿を示すならば、それを見た従業員は、おのずからフィロソフィーの実践に努めようとするはずです。ここで大切なことは、社長が自らフィロソフィーの実践を続けることです。 

“社長がそういう立派な考え方を持ち、“全従業員の物心両面の幸せ”を考えている。そのために日々、その考え方に基づいて実践をしている。それなら我々従業員も、社長とフィロソフィーの実践に努め、会社の発展に尽くしていこう”と自然に従業員が考えるようにしていかなければなりません。 

経営者の心に一点のやましい気持ちもなく、真摯(しんし)にフィロソフィーの実践に努めているからこそ、時には従業員に何の遠慮をすることなく、厳しい言葉をかけることも出来るようになります。 

社長は説きます。“ 私はあなたも含めた全従業員を幸せにするために、朝は君たちより早く出てきて開発、製造、営業まで見て、いつ寝たかわからないくらい必死で頑張っている。それなのに、君はそんないい加減な働きぶりでどうするのだ。自分の家族のためにも自分のためにも、同僚のためにも、一生懸命働いてもらわなくては困る。” 

会社の中で、経営トップが一番苦労しなければなりません。そうすれば従業員がついてきてくれます。常日頃から誰よりも率先垂範、フィロソフィーの実践に努め、尊敬されるような行動を続けているからこそ、従業員は納得してその言葉を聞いてくれます。 

従業員と本音で語り合う

フィロソフィーを説く経営者は、従業員と本音で語り合うことに努めなければなりません。経営者がフィロソフィーの持つ力を信じ、率先垂範しても、“それはあくまできれいごとだ。現実はそう甘くはない”として、斜めに構えて見ている従業員も必ずいます。そのように斜めに構えた従業員とは本音で話し合うことが必要です彼らが心に思っている事を放置しておけばますます不満をためていきますし、周囲に悪影響を及ぼし、会社内のフィロソフィー共有にとってもマイナスに作用します。特に中堅幹部の社員の中で、教育レベルの高い従業員に、こうした斜めに構えた人がいると、その悪影響が他の社員にも及びます。 

こうした場合、具体的にどのようにして本音で話し合うことができるでしょうか。 

京セラでは、コンパの場を活用しました。意思伝達をしようとしても、杓子定規でかしこまって話したのでは、誰も本音を言ってくれません。こちらの話も右から左へと抜けてしまいます。お酒でも酌み交わしながら、人の心の琴線に触れるような話し方をしなければ聞いてくれません。 

京セラでは、従業員が千人近くになっていた頃でした。どの職場でも忘年会を開催します。その全てに稲盛塾長は出席しました。十二月は一日も休まずに忘年会に出席した年もありました。全部の忘年会に出席し、“頼むぞ”と声をかけ、酒を注いで回るのです。 

不信感を持っている従業員は“はあ、そうですか”という冷たい反応です。“お前、何か不満があるのか”と聞きますと、“いや、何でもありません”。しかしさらに話していきますと、斜め社員は必ず不満を言い始めます。“お前の意見を聞かせてくれ。会社をもっと良くする考えはないか、俺に教えろ”と話していきます。こちらに気配りが足りないために、不満を持っているケースもあります。ほとんどの場合は本人がひねくれて、逆恨みをしているようなケースが多いのです。“ちょっと待て、お前の人間性がひねくれてるぞ”とズバリといいます。“がんばれよ”と言った後でも、こうしたことがありました。雨降って地固まるというように、一気に人間関係が強固になることもありました。 

一杯飲んで、従業員が自分の心情を吐露としたケースがよくありました。誰が何を思っているのか、どのような不満を持っているのか、どうな悩みを抱えているのか、本音が出る場であるからこそ、真のコミュニケーションが図れるわけです。 

一生懸命頑張ってくれている人には、“ありがとう。さらに努力をしてくれよ”間違っている人には、“お前は間違っている”とはっきり言う。経営者自身が間違っている時、従業員から指摘を受けた時は“なるほどそうだ。直すようにする”とこちらも反省する。こうしてコンパの場が従業員にとっても経営者にとっても、自分を鍛えていく場なのです。 

本音に対して本音をぶつける

かつて米国の関連会社の役員をサンディエゴに集めて、稲盛塾長がフィロソフィーを理解してもらうため、二日間のセミナーを開いた時の事です。 

前もって英訳した著書“心を高める 経営を伸ばす”を渡し、感想文を書いてもらいました。ところが“こんな考え方は嫌だ”というのがほとんどでした。我々アメリカ人はお金のために働いているのだ。お金のために働いてはいけないとはどういうことだ。”京セラフィロソフィーは米国の幹部連中から総スカンでした。  

稲盛塾長は丁寧に一生懸命話をしました。その結果、ようやく“素晴らしい”と共感してくれました。“私は従業員の皆さんを本当に幸せにしてあげたいと思って、誠心誠意頑張っています。それを実現していくための考え方、行動指針はこういうもので、人間として立派なものでなければならない”ということを説明しました。IVYリーグを出たアメリカのエリート幹部社員も含めて“京セラフィロソフィーは素晴らしい。我々もこれからはこの考え方で仕事をしていこう”と大賛同してくれました。 

最後のところで十年も働いている幹部が手を上げて、質問があるというのです。

“このセミナーで、あなたは愛とか思いやりということばかり話されています。しかし三、四年前に京都で開催された経営会議で、ある関連会社の社長が今までずっと赤字だった会社を黒字にしたと、意気揚々と発表された時のことを覚えておられますか。”“その時けんもほろろに彼を叱っておられたように思います。今まで赤字の時も叱られ、黒字になってもけんもほろろの扱いをされ、彼は非常に落胆していました。黒字にしても、ちっとも褒めない、なんと冷たい人なんだと正直思いました。” 

“そのようなあなたの言動と、昨日からお話しされた愛とか思いやり、従業員の幸せのためというお話とは、あまりにも矛盾しているのではないでしょうか” 

このように、幹部社員が本音をぶつけてきました。みんなが京セラフィロソフィーに納得している時にこのようなことを言われてしまえば、二日間の話が全て台無しになります。ドクターイナモリは自分のことを正当化するために百万言費やしているだけなのだと、みんなの気持ちが一発で変わってしまいます。人の言動は話し言葉よりも説得力があるといいます(Action is louder than word)。 

“そうだ、あなたが言うとおり、私は冷たかったかもしれない。だが問題は、なぜ冷たい対応をしたかだ。今までずっと赤字を続けてきた会社の社長が黒字を出した。しかしあの時の黒字は豆粒の黒字だった。 一方、今までの累積赤字たるや、相当な額になっている。それで褒められるだろうか。”“もし私が彼を褒めたら、彼は喜ぶかもしれない。だがそれで彼は良しとなってしまったらどうだろう。雇用を守っていく、従業員を幸せにしてあげたいと私は言った。それは毎年毎年十分な利益を確保し、またその拡大を図っていかなければならない。そんなわずかな利益では、従業員の賃上げどころか、雇用をさえ守っていけるわけがないだろう。だからこそ、そんなものは利益のうちに入るものかと厳しく言ったのだ。” 

“翌年彼は頑張って、さらに大きな利益を出してきた。そして今では十分な利益が出るようになったので、私は今は、立派なものだと彼を誉めている。私があの時、あの微々たる利益で褒めていたら、彼は経営者としてそれ以上成長しなかっただろうし、今日の立派な会社にはなっていなかっただろう。” 

本音には本音でぶつけ、このようにストレートに話すべきです。恐れずに従業員の中に入っていって、本音で会話すべきです。京セラではコンパ、最もふさわしいコミュニケーションの場をつくり、本音で対話することに努めてきました。 

従業員とともに学び続ける

フィロソフィーを説く経営者は、従業員とともに自らも学び続ける姿勢を持たなければなりません。いかに経営者自身がフィロソフィーの力を強く信じ、日頃から率先垂範に努めたとしても、完璧には実践は出来ないのが人間です。 

フィロソフィーを体得できるかどうかということよりも、折に触れて反省し、体得しようと努力を続けることが大切です。フィロソフィーを完全にできる人はいないのです。 

“私はフィロソフィーを偉そうに説いていますし、学べと言っていますが、それを自分自身で実行できているわけではありません。いまだかつてフィロソフィーのすべてを実行できたためしがありません。その意味で、一介の書生であり、門前の小僧でしかありません。これから一生涯をかけて、実行できるように努めていくつもりです”と従業員に伝えるべきです。 

“自分ができていないから、フィロソフィーのことを説いてはいけないというものではありません。少なくともこうあるべきではないかということだけは、私は言わなければなりません。そうすることで社員の方々が成長し、会社をさらに発展させて欲しいのです。 そのことが今後の会社を発展に導くだけではなく、従業員の皆さんの人生にも役立つと思います”と従業員に語り、フィロソフィーをくり返し学び、自らの血肉と化し、経営の現場で実践していくのです。 

実際にフィロソフィーの実践を通じて、一人でも多くの従業員が素晴らしい人生を実現していく。その幸せを、あたかも自分自身の幸せであるかのように感じることができる。それこそが経営者にとって最大の喜びと言えるのではないだろうか。 

従業員一人一人がフィロソフィーを真摯に実践した結果、素晴らしい人生を送ることができたなら、自分の人生を実り豊かにしてくれる場として、会社をさらに信頼してくれるようになります。結果として従業員の定着率が増すとともに、モチベーションが向上し、組織が活性化し、会社は発展に向かっていきます。従業員から信頼される企業、従業員が進んで会社の発展に尽力してくれる企業でありたいと思います。 

盛和塾 読後感想文 第154号

鉄火場を踏ませる

本当は怖がりでビビリで、しかしセンスがあり人間性も大人しくて非常に真面目な、そういう人に仕事の場を通じて場を踏ませる。難問題に挑戦する機会を与えることを通じて自信をつけさせる、 度胸をつけさせることが大切です。 

ビジネスにおける鉄火場というのは仕事の場です。仕事の上でデシジョンさせる、経験をさせるのですが、ともすると妥協して逃げてきます。 

“お前は前へ行く勇気がないから、 相手と仕事をしていても逃げてくるんだ” 

こうした場数を多く経験した人が“鉄火場を踏んだ” と言います。多くの場数を踏みますと、度胸がついてきます。鉄火場=難しい仕事場なのです。おとなしい、非常に人間的で優しい心を持った人に場を踏ませる、つまり経験を積ませることによって真の度胸がつきます。 そして立派な仕事ができる人になります。 

事業拡大の二つの鍵ー管理会計システムと人材育成 

盛和塾の役割について 

  1. 盛和塾を始めた動機

現在の世の中で一番立派な方というのは、中小企業の経営者だと思います。 この世知辛い世相の中で、大きい会社では数百人の人たちを、小さい会社でも三人でも四人でも雇用をして養っているということは立派なことです。 

大学教授や政治家の中にはいつも偉そうなことを言ってる人がいますが、新しいものは生み出していませんし、従業員の生活を守っていくことも行なっていません。特に不景気の中で従業員を雇い、その家族も含めて生活を維持している中小企業の経営者は、大変立派だと思います。 

なかんずく世相が荒れてきますと、三人でも四人でも従業員を雇っている中小企業の経営者がどういう人柄なのかによって、世の中、社会が大きく影響されます。住みやすく平和で潤いのある社会であるかどうかは、その社会に住んでいるそれぞれのリーダーの人たちの人柄によって決まってくると言っても過言ではありません。  

つまり中小企業の経営者が素晴らしい人生を送るということが、その社員の人たちが幸せに生きることにもつながっているのです。稲盛塾長は社会が混迷すればするほど、全国の中小企業の経営者が立派に素晴らしい経営ができるように指導してあげたいと考えています。 そしてこうした盛和塾の活動が続いているわけです。 

本当なら会社の仕事もありますから“こんなことをして一体何になるんだ”と否定的な見方をする人がいるかもしれません。あるいは“こんなことをして全国を渡り歩いておられるのは、 全国に自分のファンを作って、 今に政治家になろうと思っておられるのじゃありませんか” と言われる人もいます。 

そうではなく、経営者の方を一人助けてあげると、その人がもし十人の従業員を雇用しているとすれば、十人の社員を助けてあげることになります。稲盛塾長は、そのように経営者の皆さんを助けてあげて、その方々にさらに立派になっていただくこと、“世直し”と考えています。 

人気取りではなく、皆さんによかれかしという純粋な思いから始めた活動ですから、経営者の方々にストレートに忠告したり、素直に教えてあげたりすることができるのです。 

  1. 経営の秘訣を伝えたい

京セラは資本金三百万円、借入金一千万円でスタートしました。稲盛塾長は一銭も出資していません。四十年経過したところで、京セラは国内一万三千人、海外一万三千人、合計二万六千人の従業員を擁するまでになりました。連結ベースの売上では約四千三百億円、税引前利益は約七百億円です。 

京セラのように、経営の秘訣さえわかれば誰でも成し遂げられるのです。稲盛塾長は、その経営の秘訣を皆さんに伝授していきたいと考えています。 

十年ほど前に第二電電という会社を作りました。第二電電の今期の売上は約三千二百億円、税引前利益が約四百三十億円です。 タイトーグループは連結ベースで売上が約一千億円、税引前利益は八十五億円です。京セラグループ全体で見ますと、売上高約八千五百億円、税引前利益が約千二百三十億円になります。 

京セラグループは製造メーカーとして小さな部品を全部一個一個製造しています。製造メーカーとして一兆円に近い売上を達成するのは、容易ではありません。京セラの製造の中で、電子部品ですと、単価が何円何銭です。中には一個一円にも満たない部品、一個何十銭という部品もあります。そういうものが積み重なって売上が八千五百億円です。さらには税引前利益が約千二百三十億円ですから、メーカーとしては大変大きな利益が上げられる会社になってきました。 

稲盛塾長は、塾生の経営者も勉強されて、京セラグループに匹敵するような会社をぜひ作って下さいと言いたいのです。 

事業拡大のチャンスを生かす二つのカギ 

  1. 採算を追求する管理会計システムを確立する

先ほど飲食店の経営をされている塾生がいました。昔と比べて今ではレストランを経営するにしても、考えられないくらい安いレンタル料で、また少ない保証金で店舗を借りることができる。“今十三店舗を経営しているけれども、この機会に拡大してみようかと悩んでいます”という話がありました。 

この不況の中で大変困っている方もおられます。逆に上記のようにチャンスではないかという方もおられます。今回の不況は非常に跛行性(はこうせい)があります。企業間でも良い業種と悪い業種があり、業種間でも良いところと悪いところがありますので、必ずしも全部が同じようにダメだということではありません。 

同時にこの不況はまだまだ続きます。安心できません。ですから“もうちょっと頑張ればなんとかなるのではないか”と思って無理をしていくと、とんでもないことになります。倒産することにもなりかねません。今は息を止めて水の中に潜っている。“あそこまでいったらもう大丈夫だ”思っていくと、そこまで行ってもまだ上へ上がれません。 息が続かなくなってガバガバと水を飲まないといけなくなります。“すぐに景気が良くなるのではないか”というつもりでいたのではいけません。 

へたをしますと、現在のゼロ成長という時代が恒常化していくと考えられます。 もう二度と右肩上がりで成長し、誰でも商売がうまくいくという時代ではなくなり、伸びる企業と伸びない企業がはっきりする、それはまさに経営力によって決まってきます。こうして自分から進んで一生懸命勉強して、自分の経営を良くしていこうと努力をしておられる経営者と、そうでない経営者との違いが出てくる時代になっていくかもしれません。是非慎重な経営を続けていくことお願いします。 

先ほどの飲食店の話です。 確かに今はチャンスですが、ここで気をつけていただきたいのは、今経営している十三店舗のレストランが、一店舗ずつの独立採算でビシッと損益計算書が出てくるようになっているかどうかということです。 

例えば京セラグループは、全世界にまたがって約八千五百億円の売上を上げ、 税引前利益が千二百三十億円という規模になっていますが、グループのどの企業も、月末で締めた時の経営状態が翌月の最初の一週間に全部損益計算書として出てくるようになっています。 各企業は全体のグロスの数字にとどまらず、部門ごと、事業部ごとに全部採算が分かれて出てくるような仕組みになっています。 

飲食店の場合、例えばA店、B店、C店とその店舗ごとに採算を出すようにします。同じように、卸売雑貨の場合には、例えば陶器部門、衣料品部門、呉服部門というように、種類ごとに分けます。たとえ小さな業種であっても、取り扱いや販売ルートが違う場合には、それを全て部門別に分けるのです。それぞれの事業の売上と、それに伴って発生する企業部門別に細かく見ていくのです。 

零細企業の場合、 経理が分かっていないため、税理士や会計士事務所に依頼して月次決算書を作成してもらうことがよくあります。月次決算書を作成してもらっても“売上が少し上がってきました。利益も順調ですよ”と言われて“ああそうですか”と返事をして終わりです。 

しかし経営者としては、全部はできないにしても、せめて税理士や会計士が分析するのと同じことが自分でもできるほどの知識がなければ、経営のうちに入らないのです。そういう人に限って事業を拡張しようとします。ところが経営が何かわかっていないので、必ずつぶれます。 

そうならないようにするためには、部門ごとに売上が立つような仕組みを作らなければなりません。飲食店の場合、 A 店であればA店の、その月の売上つまり一日から月末の日までの売上が全部上がってくるようにします。それに伴って使った材料費、レント代、水道光熱費、人件費、といった様々な雑費が含まれます。本店から各店舗に投下した資金についても、社内金利を定めて、全て経費として計上します。内装費も減価償却費として月割で経費計上します 。こうして一か月間でかかった経費を勘定科目ごとに全部列挙して、総売上から引くようにすれば、部門別の採算がわかるようになります。 

“売上を最大に経費を最小に”“入るを量って出ずるを制する”利益は後からついてきます。 飲食店の場合、A店の売上を最大限に伸ばすためには、食事が美味しいことが重要です。 と同時に一番大事なことは従業員の躾(しつけ)だと思います。 お客さんに対する笑顔が何よりも大切です。お客さんが喜んでくれるかどうかは従業員の躾(しつけ)、教育によって決まります。

 “ 値決めは経営なり”。例えば A店舗で売上がどんなに増えても、原価が非常に高いという場合は大きな問題です。 飲食店の場合、材料費は最大でも三十%で、 それ以下に抑えなくてはなりません。例えば材料を百円で仕入れて三百円で売れば、売上総利益率、粗利益率は三十三%です。もし材料費を五十円で仕入れることができますと、売上は百五十円で同じ粗利益率は確保できます。 仕入について努力もせずに百円で仕入れて、競争相手が百五十円で売っているからといって百五十円で売ればたった五十円の儲けにしかなりません。これではつぶれてしまいます。材料費が売値の五割を占めるわけですから、採算が合いません。 

飲食店の場合であれば、売値に対してその三割以下で仕入れが出来るような値決めをして、一生懸命売れるように努力するのです。質を落とすわけにはいかないのですが、材料費はなるべく安くすれば良いわけです。あとは経費、人件費をなるべく安く抑えるようにします。  

そうして一か月採算を追求した結果、その月の売上から経費を全部引いた残りが利益になります。それも全部自分で計算して出すのです。管理会計システムです。そして大切なことは、店長にその責任を担ってもらうのです。 

  1. 事業を任せられる人材を育成する

飲食店の経営の場合、十三店舗それぞれ採算が異なります。立地条件や店長の資質にも左右されますから、千差万別です。例えば全店舗のうち半分は黒字、半分は赤字かもしれません。なぜあの店は赤字なのか、その原因を分析する必要があります。 

大切なことは、そうした管理会計システムを身につけていると同時に、経営トップである経営者とあうんの呼吸でピタッと合う、上司と部下の関係であることです。人間性もよく理解しており、経営者が信頼することができる、また尊敬している店長クラスの人材を何人養成しているかです。 

店舗となる物件は、資金さえあれば借りることもできます。買うこともできます。しかし人材だけは借りることはできません。事業を展開していく上では、資金や店舗があるからチャンスなのではありません。大事なことは、人材がいるかいないかです。人さえいれば事業を展開できます。“こいつを店長にすれば、八人の部下をまとめて一つの店を任せられる”という人材がいたら、間違いなくチャンスです。 

事業というのは、資金や店舗となる物件があるから展開するのではありません。人がいるから展開できるのです。京セラグループ売上約八千億円の原動力となったのは、全部と言っていいぐらい人材です。資金的な余裕があるから、専門的な技術があるから、何か新しい事業をやろうというのではないのです。例えば一緒に仕事をしていく中で、非常に優秀な人材だ、この男だったら仕事を任せられる、と思えばその男に賭けて事業に乗り出して行きます。 

だからまずもって、事業は人です。現在の会社を経営できているのは、それだけの人をもっているからです。更に事業拡大をしようとするなら、それに合った人材がいるかどうかが特に大切です。そうであるならば、経営者は社内で人づくりに努めなければならないのです。 

“人づくりをするといっても、社内には人材がありません”と言われますが、大体小さな会社に優秀な人材が来るわけがないのですから、その会社に合った人材しか集まらないのですから、問題はそれ程優秀でない人をどれだけ立派に育てるかです。 

将棋で言えば歩を金にするようなものです。はじめは歩であっても、敵陣の中に入って成金になって金となるのです。仕事で敵陣に入って戦う苦労をさせる、つまり修行させるわけです。トップと共に従業員も一緒になって苦労して研鑽を積むことで、立派な経営者に育っていくのです。 

京セラは八人でスタートします。新生中学卒業者二十名が加わります。その次には十名の高卒者が入社します。三年目になってやっと大卒の採用がありました。大学にしても名ばかりで、有名大学の卒業者が来てくれたのではありません。 

その会社にはその会社の器に見合った人しか来ないのです。“うちには人材がいないから” と言っていたのでは、前へ進めません。自分の会社には、自分の会社の器にあったような人しか来ませんし、来てもくれません。その人たちを経営者と従業員は一体となって、本当に芋の子を洗うようにして研鑽を積ませていき、“金の人材”にするのです。 

中小企業にはそれに見合った人材しか来てくれないのですから、経営者が投げやりなことを言っていたのでは、京セラのような規模の会社には成長することなどないのです。初めはその会社の規模に応じた人しか来ませんし、またトップの器にあった人しか来ないのですから、そういう人材を有難いと思わなければなりません。その人しか得られないのですから、一緒になって努力をすることが大切です。 

社員・経営者が一緒になって努力を積み重ねることで、その人は素晴らしい能力を発揮するようになっていくのです。ゆめゆめ“うちの会社はろくな社員しかいないから”と言ってはなりません。それは経営者にとって一番の禁句です。経営者であるあなたが頼りないから、その器に合ったような頼りない人しか集まってこないのであって、自分を棚に上げて部下をバカにしたのでは、自分のことをバカにするのと同じです。 

飲食店の話に戻ります。事業拡大のカギは人です。店舗を任せられるような人が育っていれば、絶対に事業拡大のチャンスです。“バブルの時代と比べて高かった物件が安くなったからチャンス”というのは間違っています。安くなった現在が正常なのです。現在の安い価格で推移したら、何もチャンスではないのです。 

重要なことは、人材を育成すること、精緻な管理会計システムの仕組みをビシッと作るということです。

盛和塾 読後感想文 第153号

純粋な心からの情熱

強い思い、情熱は成功をもたらします。しかしそれが私利私欲から生じたものであれば、成功は長続きしないでしょう。 人間にとって何が正しいかに対して鈍感になり、自分だけが良ければ良いという方向へ突き進み始めるようになると、初めは成功をもたらしてくれたその情熱が、やがては失敗の原因になるのです。 

“私利私欲を捨て、世のため人のために”という利他的で純粋な願望を持つことが一番良いことです。しかし人間にとって、生きるための私利私欲は、自己保存のために不可欠なものですから、それを完全に捨てることはまず不可能です。しかし一方で、その私利私欲の肥大化を抑制するために努力することが必要となってくるのです。 

働く目的を“自分のために”から“集団のために”へと変えるべきです。利己から利他へと目的を移すことにより、願望の純粋さが増します。 

純粋な願望を持っていますと、悩んでいた問題の解決方法が、突然見えてくることがあります。それは天から与えられたヒントなのです。 

純粋な心からの情熱は成功をもたらします。 

なぜ経営に利他の心が必要なのか

“利他の心”という言葉は、倫理や道徳上の言葉であり、経営とは無関係だと考える方がおられます。 

経営に利他の心が大切だと言われておられますが、熾烈な市場競争により勝負が決まっていく資本主義社会の中で、経営者が“優しい思いやりの心で仕事をしなければならない”などと甘いことを言っていては、経営などできないのではないか。 

しかし、経営者が‟利他の心”を持つことと、企業の業績を伸ばすことは決して矛盾することではないのです。経営者が立派な会社経営をしたいと思うならば、他に善かれかしと思う利他の心を持ち、心を高めることが不可欠であると考えるのです。 

従業員のためという経営理念が京セラ成長のベース

稲盛塾長は大学卒業後、京都の碍子を製造するメーカーに就職します。そこで、ファインセラミックス材料の研究開発に従事します。その事業化に成功します。上司の技術部長と意見が合わず退職します。

その時、稲盛塾長を支援してくれる方々が京セラを創ってくださいました。前の会社で苦楽を共にした部下や後輩、上司までもが‟一緒についていく”と言ってくれまして、京セラは七人の同志と稲盛塾長と合計八名で始まります。 

会社が始まりますと、部下からは‟これはどうしたらよろしいでしょうか”と判断を仰がれ、次々と経営判断を下さなければなりません。会社経営の経験もなく、経営のあり方を教えてくれる人もいなかった稲盛塾長は、何を判断基準にすべきかと大変悩みます。 

悩んだ末に、子供の頃、両親や先生から教わった‟やって良いこと悪いこと”を判断基準にします。これからは会社の判断基準を‟人間として何が正しいのか”という一点に絞ろうと決めます。 

京セラが軌道に乗ってきた創業三年目に、経営のあり方についてさらに深く考えさせる出来事が起きました。 

前年に採用した高卒の従業員たち十名余りが、団体交渉に来ました。“自分たちの生活が不安だから、昇給や賞与などの処分を将来にわたって保証してくれ。さもなければ、今日限りで会社を辞める”と迫ってきました。 

“京セラはまだできたばかりの会社だから、みんな力を合わせて立派にして行こうと言ったではないか。皆のために、私はこの会社をよくしていくつもりだ“

しかし、稲盛塾長がいくらそう話しても、彼らは納得しようとしません。 

夜になり、稲盛塾長の住む市営住宅に彼らを連れて行き、三日三晩にわたって説得を続けました。やがて一人が理解してくれ、さらに続けて納得してくれるものが現れましたが、それでもわかってくれない者がいました。 

“できたばかりの会社で将来の約束はできないが、私は会社を守るために誰よりも必死に頑張っていこうと思う。もし私が君達の信頼を踏みにじるようなことをしたら、その時は私を殺してもらっても構わない。”ようやく全員が納得してくれました。 

稲盛塾長は毎月実家に仕送りをし、京セラ創業時も続けていました。“自分の家族も十分に面倒を見られないのに、社員として採用したばかりに、縁もゆかりもない人たちの生活まで守らなければならないのだろうか”

経営者としての責任の重さを痛感し、こんなことなら会社を起こすのではなかったとさえ思いました。 

京セラ創業の時、稲盛塾長は前の会社から来た仲間と“稲盛和夫の技術を世に問う”ための会社にしようと話していました。前の会社では、稲盛塾長の研究の技術を十分に認めてくれませんでした。 京セラでは自分の技術を世に問うことができる。技術者としての私的な願望が京セラ設立当初の目的でした。 

しかし、技術者としての私的な目的は潰(つい)え去り、社員の生活を守るという公的な目的に変貌してしまったのです。会社経営の直接の目的は中に住む従業員の幸福を追求することであり、それを実現することが経営者の使命なのだと気づいたのでした。 

京セラの経営の目的である経営理念を“全従業員の物心両面の幸福を追求する”と決めました。それだけでは人生をかけるのに物足りないと感じて、“人類、社会の進歩発展に貢献すること”という一節を加えました。 

こうして会社の目的を従業員の物心両面の幸福に定めたため、全社員がそのことに共感し、“よし、そういう目的のためなら、私も一緒に会社の発展のために頑張ろう”と一層仕事に励んでくれるようになりました。 

人材もない、資金もない、設備もない、頼りにできるのは信じ合える仲間との心の結びつきだけでした。全従業員が持つ力を目指す方向に収斂(しゅうれん)させることで、その力は何倍にも増幅していく。その中核にあったのが“全従業員の物心両面の幸福を追求する”という利他の心に基づいた経営理念だったのです。 

京セラは零細企業から始まり、急成長を遂げてきました。京セラが売上一兆五千億円、税引前利益千二百億円をこえる大企業に発展したのは、ひとえに利他の心に根差した経営理念のもとで、全社員が一丸となって努力した結果なのです。 

国民のためという純粋な想いが KDDI 成功の原動力 

一九八四年、日本は電気通信事業の自由化という大きな転換期を迎えていました。日本の通信料金の水準が世界的にみてもあまりにも高く、そのことが国民に大きな負担を与えているばかりか、日本の情報社会の 健全な発展を妨げかねないと考えられました。 

これは当時の電電公社が市場を独占しているために起こっていることであり、この機会にどこかの大企業が名乗りを挙げて、 NTT に対抗して日本の通信料金を引き下げて欲しいものだと期待をしていました。 

ところが当時四兆円もの莫大な売り上げを誇り、三十三万人の従業員を抱える NTT に真っ向から勝負を挑むのはあまりにもリスクが大きいため、どこの会社も一向に名乗りを挙げません。 

稲盛塾長は“国民のために長距離電話料金を安くするという事業は、京セラのようなチャレンジ精神にあふれるベンチャー企業にこそ相応しいのではないか”と考えたのです。 

寝る前に“動機善なりや、私心なかりしか”と自分に問いかけました。“電気通信事業に乗り出すことで、自分を世間に良く見せたいという私心がありはしないか”と毎晩厳しく自分に問い続けたのです。 

半年たってようやく“動機は善であり、一切の私心はない”ということを確信した稲盛塾長は、第二電電の創業を決意しました。 

京セラが最初に手を挙げましたが、後に二社が名乗りを上げ、新電電は三社競合でスタートしました。三社の中では、京セラを母体とした第二電電は他の二社と比べて圧倒的に不利だと言われていました。 

旧国鉄を母体とした日本テレコムは、新幹線沿いに光ファイバーを敷けば、簡単に東名阪の高速通信ネットワークが構築できます。 

日本道路公団、建設省を中心とした日本高速通信は、東名名阪の高速道路の側溝沿いに光ファイバーを敷きさえすれば、簡単に通信網が構築できました。 

一方第二電電は、こうした通信インフラもなければ、母体となる京セラも中堅企業にすぎません。京セラグループは全く不利な状況でスタートしました。 

稲盛塾長はその時、“国民のため長距離電話料金を少しでも安くしよう。たった一回しかない人生を有意義なものにしようではないか”と事あるごとに語りかけました。そして第二電電の社員たちは、自分たちの利益だけではなく、国民のために役立ちたいという利他の心に基づいた大義を共有してくれるようになりました。 

こうして第二電電の社員たちは、心からこの事業の成功を願い、凄まじい情熱をもって仕事に取り組んでくれるようになりました。 

そのような情熱が最初にパワーを発揮したのは、長距離通信事業でした。第二電電は長距離回線のインフラを持っていなかったため、大阪ー京都ー名古屋ー東京と日本の山の頂にパラボラアンテナを据えて、マイクロウェーブという無線を使って、通信ネットワークを整備する方法を取らざるを得ませんでした。 

マイクロウェーブのルートを作るには、高い山の頂に中継基地を立てなければなりません。山頂への道のない悪条件のもと、山の中に道を作って登り、その頂に巨大なパラボラアンテナを立てました。夏はヤブ蚊に悩まされ、冬は凍てつく山頂へ、ヘリコプターで資材を輸送するなど必死の努力で、マイクロウェーブ の通信ルートを完成させてくれました。そして同業他社と同時期の開業にこぎつけたのです。 

お客様の確保にも苦労しました。日本テレコムは JR の納入業者の方々に是非回線を使ってほしいと強く協力を要請しました。日本高速通信も道路公団やトヨタをバックにしていたので、販売は容易でした。 

第二電電の場合は、従業員はもちろん京セラの従業員も応援して、賢明な営業活動を行いました。代理店や取引先の皆さんが、ひたむきな姿を見て感激され、必死で応援してくれました。 

創業から九年目、一九九三年に第二電電はライバルの 新電電二社に先駆けて、東京取引所への上場を果たすことができました。 

その後第二電電はかつてのライバル企業KDD、IDOの合併を果し、 現在の KDDI となりました。 三十年前に誰もが劣勢と予想した中でスタートした第二電電が、新規参入の通信業者の中でトップを走り続け、現在の KDDI となりました。  KDDI は売上が四兆五千億円、経営利益が七千五百億円を超えて、売上と利益でNTTドコモを抜き、日本有数の総合電機通信会社へと成長しました。 

“国民のために何としても通信料金を安くしなければならない”という 利他の思いに基づく大義がその根底にあり、それが社員と共有され、お客様や代理店などの共感を呼んだからだと思われます。 

世のため人のために挑んだ日本航空の再建

二〇〇九年の年末、日本政府から、当時深刻な経営不振に陥っていた日本航空の会長に就任してほしいとの要請を受けました。 

八十歳を目前にしており、航空運輸業には全くの素人でしたから、 固辞していました。年が明けた二〇一〇年一月、改めて“どうしても会長に就任してほしい”との要請があり、次の三つの理由から、受けることになりました。 

  1. 日本経済への影響

日本航空は日本を代表する企業です。その日本航空が再建を果たせず、二次破綻でもすれば、日本経済に多大な悪影響を及ぼします。一方、再建を成功させれば、あの日本航空が再生できたのだから、日本経済が再生できないはずはない。 

  1. 日本航空に残された社員

社員たちの雇用を守ることです。再建を成功させるためには、残念ながら、事業再生計画に従って一定の社員を解雇する必要がありました。 しかし二次破綻をしようものなら、全社員が職を失ってしまうことになりかねません。 残った三万二千人の社員の雇用を守らなくてはならない。 

  1. 国民の、利用者の便宜のためです

もし日本航空が破綻してしまえば、日本の大手航空会社は一社だけのものとなり、競争原理が働かなくなってしまいます。それでは運賃は高止まりし、サービスも悪化して、決して国民のためになりません。 公正な競争条件のもとで複数の航空会社が切磋琢磨してこそ、利用者に対してより安価でより良いサービスを提供できるはずだと考えました。利他の心から半ば義侠心にかられて、日本航空再建を引き受けることとなりました。 

日本航空は再建初年度に一千八百億円、二年目には二千億円を超える過去最高の営業利益を達成し、再上場を果たしました。その後も二〇一三年には一千九百億円、二〇一四年には一千六百億円、二〇一五年には一千八百億円の営業利益をあげ、利益率一〇%を超える高収益の体質を維持しています。 

日本航空が生まれ変わった要因-①利他の経営理念

日本航空の社員の意識が大きく変わり、利他の心に基づいてそれぞれの持ち場、立場で会社を良くしようと、懸命に努力を重ねるようになったことが最大の要因だと考えられます。 

まず第一に、新生日本航空の企業としての目的を明確にしたことです。日本航空の目的は‟全従業員の物心両面の幸福を追求すること”であることを経営理念として明確に定め、それを社員に徹底して伝えていったことです。 

経営者が社員の幸福を考えずに利益だけを追求しても、社員が心から経営に協力してくれるはずがありません。一方、経営者が社員のことを何よりも大切に思い、全社員が安心のもと、やりがいと誇りをもって活き活きと働けるようにすれば、結果として業務も向上するはずです。 

社員が会社とともに物心両面の幸福を追求するために懸命になって働き、 会社の業績が上がれば、株主にも利益が還元されます。 国への税金も払えます。社員の家族の生活も安定します。 国民・お客様へ、より良いサービスの提供ができます。 

日本航空が生まれ変わった要因-②フィロソフィーによる意識改革 

日本航空の会長に着任してすぐに、特にリーダー層の官僚的な体質を変えなければならないと強く感じていました。 日本航空には会社としての一体感がないことも気がつき、それらを早急に改善しなければならないと思いました。 

京セラ、KDDI の経営で長年にわたり築き上げてきたフィロソフィーをもって、 日本航空の幹部の意識改革に取り組みました。フィロソフィーとは人間として何が正しいのかを自ら問い、 正しいことを正しいままに置いていく中から導き出した実践哲学です。誰もが子供の頃から教わった正義、公正、公平、誠実、謙虚、 努力、勇気、博愛などの言葉で表現される普遍的な倫理観に基づいて、全ての判断をし、行動していこうとする考え方です。 

同時に、 すばらしい人生を送るための人生哲学でもあり、‟利他の心”を判断基準にする、心を高めることを通じて幸せな人生を送るための考え方でもあります。 

そうしたフィロソフィーを携(たずさ)え、‟なぜこういう考え方が企業経営において、また一人の人間として生きるために必要になるのか”について、丹念に説明していきました。 

早速、 経営幹部約五十名を集めて、一か月にわたり、徹底的にリーダー教育を実施しました。またまたフィロソフィーを通じて、リーダーとしてのあり方、 経営の考え方までを徹底して理解してもらうことを目指しました。 

日本航空の経営幹部たちは、日本の一流大学を卒業したインテリたちですから、フィロソフィーに対して当初は違和感を覚えていました。‟なぜそんな当たり前の事を今更学ばなければならないのか” と反発する人もいました。 

‟皆さんが‟こんな幼稚なこと” と軽蔑するような、 まさに皆さんはそのことを知っているかもしれないが、決して身についていません。実行してもいません。 そのことが日本航空が破綻した理由です。” 

日本航空は一見巨大な装置産業に見えるのですが、お客様に喜んで搭乗していただくことが何よりも大切な究極のサービス産業だと思いました。空港のカウンターで受付業務をしている社員が、 お客様にどういう対応するのか、飛行機に搭乗し、お客様にお世話をするキャビンアテンダントがどういう接遇(せつぐう)をするのか、飛行機を操縦し安全に運搬する機長、副操縦士がどういう態度で勤務し、 またどのような機内アナウンスをするのか。現場の社員たちとお客様との接点こそが航空運輸業にとって最も大切です。 

稲盛塾長は幾度となく出向き、直接お客様に接する社員たちに集まってもらい、‟今は厳しいリストラに耐えなければならない。辛いだろうけれども、何としてもお客様への心を込めたサービスに努めてほしい。道は必ず開ける”と訴えていました。 すると社員一人ひとりの意識が徐々に変わっていったのです。日本航空にあった官僚的な体質は少しずつなくなり、 マニュアル主義と言われていたサービスも改善されていきました。現場の社員が‟お客様に少しでも喜んでいただくために”という利他の心から自発的に努力するようになり、また各職場で全社員が自ら創意工夫をして改善に努めた結果、業績は目に見えて向上していきました。 

稲盛塾長が全身全霊を傾けて再建に取り組む姿も、有形無形の影響を社員に与えたのでした。無私の姿勢で取り組む姿を見て、多くの社員たちが‟高齢の稲盛さんが何の対価も求めずに、何の関係もない日本航空再建のために必死になってくれている。ならば自分たちはそれ以上に全力を尽くさなければならない”と考えてくれたようでした。 

一般的に企業の盛衰を決めるのは、目に見える財務力、技術力、また経営者による企業戦略であるといわれています。それも大事ですが、それ以上に大切なことは目に見えない社員の意識であり、その集合体である組織風土や企業文化だと思います。 

利己的な欲望は必ず没落を招く

‟利他の経営”について話をしますと‟ 利他の心で経営などできないのではないか。企業経営のベースはあくまで利己的な欲望ではないのか‟という方が必ずいます。 

‟もっとお金を儲けたい”‟もっと豊かな生活がしたい”という利己的な欲望は、事業を発展させていくための強力なエンジンです。特にベンチャー企業の場合、そうした利己的な欲望が往々にして事業の発展の原動力となることがあります。そして欲望に裏打ちされた高度な戦略・戦術を練ることで、事業を成功に導くことができるのも事実です。 

しかし利己的な欲望だけで経営している者は、決してその成功を長続きさせることはできません。自己の欲望を満たすという一点張りで策を弄するならば、相手も必ず‟自分だけうまくいくように”と考えて利己的な対抗策を打ってきます。そこで軋轢(あつれき)が生じてきます。また利己的な欲望を原動力として事業を成功させればさせるほど、経営者は謙虚さを失くし、驕(おご)った態度で人に接するようになります。それまで会社の発展に献身的に働いてくれた社員たちを、ないがしろにするようになっていきます。それがやがて社内に不協和音を生じさせ、引いては企業の没落を招く原因となっていくのです。 

さらに深刻なのは、経営者が利益の追求に終始するため、‟人間として何が正しいのか”という基本的な倫理をなおざりにして、法律や倫理を逸脱したり、会社にとって不都合な事実を隠ぺいしたりして社会から糾弾を受け、退廃していくことです。 

一方、‟利他の心”によりビジネスを進めることで、相手にも周囲にも信頼されるパートナーとして‟一緒にビジネスをして良かった”と思われるようになった結果、素晴らしい成果を手にしたという経験がある経営者もたくさんおられると思います。 

なぜ利他の心が企業を成長発展させるのか

‟利他の心”は周囲や相手に善かれかしと思う心のことです。‟利他の経営”とは自分のことだけを考えるのではなく、‟自分が豊かになりたいのであれば周囲も豊かにするように考え、会社を経営する”ことです。 

会社を生活のよりどころとしている社員に対しては、社員を大事にすることが重要です。会社の業績が大きく向上した場合、多くの社員の協力が必要だったはずですから、経営者が社員を思いやるという‟利他の経営”を行うならば、献身的に協力をしてくれた社員に対しても報酬を分かち合うべきです。 

そういう利他の心で会社を経営していけば、社員も喜んで会社経営に参加してくれるようになり、たとえ将来会社が危機に遭遇した場合でも、会社のために惜しみなく協力をしてくれるはずです。 

KDDI、日本航空の場合は、世のため人のためという利他の心に基づく大義名分のある経営を行えば、お客様や株主、取引先、代理店なども会社に対して信頼と尊敬を寄せてくれるようになります。つまり会社のステークホルダーが皆協力してくれるようになり、会社経営を成功に導いてくれるのです。 

仏教の世界では‟自利・他利”と言います。自分のことと他人のことを同時に考え行動することです。 自利とは自分の利益、他利とは他人の利益を考えることです。 

江戸時代に京都で商人道を説いた石田梅岩は‟まことの商人は、先も立ち、我も立つことを思うなり”と説きました。本当の商人は、相手も立ち、自分も立つことを思うものである。 

また滋賀県の近江商人の間では昔から‟三方よし”という言葉が伝えられています。‟三方よし”とは‟買い手よし”‟売り手よし”‟世間よし”という意味で、真の商人道と言われています。 

このことは、会社の利益を軽視する経営ではありません。利他の経営は決してそのような経営を意味しているのではありません。 

市場経済の中で生きていくには、自分の会社を守るために懸命に働いて、利益を上げる必要があります。利他の心で経営する場合であっても当然、企業間の競争があるわけですから、必死に働き利益を上げて、生存競争に生き残っていかなければなりません。 

利他の経営においては、自由市場において正々堂々と競争し、公明正大に利益を追求していくことは、賞賛されこそすれ、決して非難されるべきではありません。 

盛和塾 読後感想文 第152号

中小零細企業が大企業に発展するためには 

事業を成功に導くには努力の積み重ねしかない

会社が立派になるということは、お金持ちになるとか、経営者が良くなるとかではなく、それだけより多くの人を雇用する、養うことになる。それだけでも社会的に大きな意義があります。 

能力のある人が仕事を大きくして、そこで多くの方々を採用し雇用する事は、職を与えるという点からも大変立派なことです。また立派な会社経営をすることにより、その会社が素晴らしい事業を展開し、そして利益を上げて税金を納めるようになることも、社会的に立派なことです。 

自分のために会社を大きくするのではなく、世のため人のため、社会のため、自然のため、宇宙のために尽くすという観点から会社を立派にしていきたいものです。 

二宮尊徳の生き様と誰にも負けない努力

事業を成功させる大きな礎になっているのは、地味な仕事なのです。その地味な仕事をひたむきに継続していく、そのことに尽きます。事業がうまくいかないのは、自分の仕事を、本当に誰にも負けないくらいの努力を払ってやっていないからではないでしょうか。 

内村鑑三の書いた“代表的日本人”の小冊子に、二宮尊徳の章があります。二宮尊徳は大変律儀で、道徳観念が強く、そして非常に生真面目で素直な人だったようです。 

尊徳は両親と死に分かれて、おじさんのところに里子に出されます。そしておじさんの家で食べさせてもらいながら一生懸命働きます。彼は学問がありませんでした。なんとしても立派な人になりたいと思っていました。そのため働きながら陽明学、孔子、孟子の教えを中国の書籍に則って学ぼうと、夜、油をつけた小さな灯りで本を読みます。それがおじさんに見つけられて、叱られます。 

“農民が勉強する必要は無い。勉強なんかしたって無意味だ。油がもったいないだろう”と叱られてしまいました。“なるほど、そうだ”と思った尊徳は、誰も手をつけない村の共同沼地に菜種を植えます。そこで収穫した菜種を村の油問屋に話をして、油に変えてもらいます。自分が休みの時に作った菜種から取った油で尊徳は勉強するのですが、これもおじさんに叱られます。 

“お前が暇を見つけて作ったという菜種すらも私のものだ。お前は私のために若干働いてあげていると思っているかもしれないが、私の家に居候し、私の家で飯を食っているお前がやっていることは、全て私のものだ。”と叱られます。“なるほど”。自分で作った油であっても、夜勉強することをやめます。そして仕事をしているときに歩きながら本を読むようになります。 

尊徳は陽明学を究めていきます。その中で孔子が説いた、地の利、天道を知ります。また道徳律ー人間として守らなければならない道徳というものを知ります。 

誠実でひたむきな働きぶり、その誠実さと誠意に天も地も感動して、それがために動く、天地が味方してくれると信じるようになります。一生懸命でひたむきであれば、天地も助けてくれるだろう、神様が助けてくれるだろう。そういうことを尊徳は信念にまで高めていきました。 

誰よりも先に畑に出て、他の人たちが家に帰るまで畑に留まりました。尊徳は貧しい村を、村民を励ましながら裕福な村へと変えていったそうです。 

二宮尊徳が鍬一本鋤一本で、荒廃した村を数年で肥沃で豊かな村に変えていく様を見て、諸藩の大名たちは驚きます。そして“自藩の荒廃した村を立て直してほしい”と尊徳に頼むようになりました。 

誠を尽くして誰にも負けない努力をすれば、神様も助けざるを得ないという信念を持つと同時に“動機の真実なること”が大切だとも言っています。動機が悪かったのでは、たとえどんなに良いことをしても認めませんでした。物事を行うのに動機が真実であることを大事にしました。 

二宮尊徳は鍬と鋤を一本持てば、たちまちに、荒廃したみすぼらしい村を素晴らしい富める村に変えていきました。それは夜明け前から畑に出て、夜はとっぷりと暮れ、畑が見えなくなるまで働いたからできたことなのです。そして倹約に倹約を重ねて頑張ったからなのです。それを数年も続ければ、たちまち成功するに決まっているのです。 

“親から引き継いだ会社は時流に合わなくて、あまり良くない事業でして”などと言っている暇があるくらいなら、寝ずに働かなければならないと思います。 

経営十二ヶ条の第四条、“誰にも負けない努力をする”があります。これはただ努力をしなさいと言っているのではなく、誰にも負けない努力をするということなのです。 

素人が作り上げた京都の先端産業

先日朝日新聞に、好調を支える“一芸戦略”と題した記事の中で、京セラ、村田製作所、ロームについて書かれていました。京都のこれらの企業の利益率は、一部上場企業の平均を大幅に上回っており、なぜ京都にそのような高い利益率を誇る企業が群生するのかという特集でした。 

アメリカの格付け会社が出しているグローバル企業一千社のランキングにも、京都の企業が顔を出しています。経営利益率のランキングで世界上位二十八社に日系企業は五社入っているのですが、そのうち四社が京都の企業でした。 

京都に高収益企業が群生したのかと考えてみますと、そこには共通点があります。 

ロームという会社は、半導体を作っている素晴らしい企業です。ロームの社長が立命館大学に在学中、炭素皮膜抵抗器という、電子部品では最も簡単な抵抗を量産する技術を考えられ、特許出願されました。その技術を持ってロームを創業されました。 

村田製作所の社長は第二次世界大戦前に清水焼のお茶碗などを作っておられました。中小零細企業でした。その当時欧米では、電子機器産業が発達し始めます。その電子機器の中に、セラミックコンデンサーが使われていることを知った日本の軍部は、同じようなセラミックコンデンサーを作るようにと各大学に指令を出します。京都大学の教授が酸化チタンを焼き固めるとコンデンサーができるということを知っていましたから、“やってみないか”と村田社長を誘ったのです。素人ですがやってみましょうとなり、村田製作所が始まりました。 

これらの京都企業の社長は皆素人です。そして必ずしも立派な技術、豊富な経験を持ってはいないのです。ただものが一つ作れただけなのです。つまり皆が素人で、単品生産からスタートしているわけです。 

危機感と飢餓感がもたらした創意工夫

京都企業は素人なるが故に、大変自由な発想する人たちです。そして既成概念や慣習、慣例というものにとらわれない人たちです。とらわれないから自由な発想ができますし、常に物事に対して疑問を持っています。 

京都は千二百年も続いた非常に古い保守的な街であると同時に、京都大学などを中心にした街でしたから、革新的、反権力、反中央という考え方を持っていた面もあります。街の雰囲気そのものが革新的で、革命的であるわけです。 

こういう京都の土壌の中で、技術を持たない素人が単品生産の業を興(おこ)す。そして“至誠の感ずるところ天地もこれが動く”と二宮尊徳が言うように、一生懸命に頑張る、同時に動機の真実なること、動機の善なることを信じてひたむきに頑張って成功する。 

ところがこの人たちは一生懸命に頑張ると同時に、心配をしています。いつ何時自分の単品が売れなくなるかもしれない。“単品生産は危険だ。もしこの単品が時代の変化とともに不要になれば、会社は潰れてしまう”という危機感を常に持っているわけです。 

そして飢餓感もあります。“このくらいの商売ではどうにもならない。従業員を食わせていくことができない”という飢餓感を常に持っているのです。“何か副業をやらなければならないのではないだろうか”素人ゆえに創造性が豊かになるのです。その創造性を育んでいく場になるのが、危機感と飢餓感です。それらが創意工夫と研究開発を生んでいくのです。 

危機感、飢餓感をバネにして、創意工夫を重ね、単品生産ではどうにもならないからと新製品開発、新技術開発する努力を次から次へと間断なく続け、拡大発展していく。それが中堅企業になっていく過程です。 

半導体産業のニッチ分野を狙ったローム

ロームは炭素皮膜抵抗器を作っていました。安く作ったものですから、たちまちにこれが市場に受け入れられます。他にも有名な会社がある中で、ロームは成功していくわけです。“やはり単品だけではだめだ”と思われ、炭素皮膜抵抗器というプリミティブなものから、金属皮膜抵抗器、さらには角型チップ抵抗器へと次から次へと新商品を開発していきました。ロームの社長は立命館大学の電気学科を卒業しておられますが、金属皮膜抵抗器や角型チップ抵抗器というものを詳しく知っておられるわけではありません。しかし、次から次へと展開されて、今では日本で最もニッチな分野の半導体を作って、素晴らしい高収益の半導体メーカーになっています。 

単品生産で創業した京都セラミックの不安

稲盛塾長は大学卒業後、焼き物の会社松風工業に入社します。そこでは研究部門に配属されます。そこでは新しいセラミックス、ファインセラミックスを作る任務を与えられます。 

一年後に研究が実り、日本ではじめての高周波絶縁材料の開発ができました。通信機や弱電の電気を絶縁するために、性能の良い焼き物を作り上げたのです。しかしどこにどうして売ったらよいかわかりません。“こういう物性の焼き物ができましたが、何か使ってくれませんか”と日本の電機メーカーを訪問して回りました。松下がオランダのフィリップ社と技術提携して初めてブラウン管を作る工場を京都で始めました。また早急に大阪の高槻にブラウン管の大きな量産工場を作ることになりました。そのブラウン管の絶縁部品に、松風工業で稲盛塾長が開発したファインセラミックスが使われることになりました。 

開発したファインセラミックスを使った部品が、松下のテレビのブラウン管に採用されることになりました。松下の資材、技術の人たちと打ち合わせをしました。スペックも全部決めました。そして百人近い部下を使って、材料の量産の担当になりました。次の新製品がこれからという時に、上司の技術部長と意見が合わなくなり、退職します。 

その時、上司の人も含め、八人が辞め、一緒に京セラを作ったのです。稲盛塾長が辞めることを聞いた人たちが集まり“稲盛くんの技術がもったいないから”と出資して京セラを作ってくれます。稲盛塾長は研究にも売ることにも自信がありました。その時にあったのは、松下に売れるブラウン管の絶縁材料たった一品でした。単品であったため、それがいつか時代とともに変化していらなくなるかもしれないという危機感は常にありました。そのため、一生懸命に何とか次の新しい製品を開発しようとしていました。 

その当時、フィリップ社はセラミックスとガラスのコンバインしたブラウン管の絶縁部品を作っており、それを京セラは国内生産していたのです。ところがアメリカのRCAという会社がガラスだけで絶縁ができる安くて良い製品を作り、それが日本にも出回り始めたのです。 

東芝、日立、三菱がRCAのガラス絶縁部品を使い始めました。京セラの作っていたものは、わずか数年で風前の灯となりました。そして実際に、二、三年もすると、その製品は使われなくなりました。 

生き延びたい一心で新市場、新製品を開発し続ける

稲盛塾長はガラスの専門家ではありません。大阪の場末にある中小のガラス製造会社を何軒も叩いて回りました。“こういう組成のガラスを作ってくれませんか”とお願いして回りましたが、普通のガラス屋では手に生えないホウ珪酸ガラスという、ガラス業界では硬いガラスという特別なもので、“そんなガラスは溶かしたこともないし、できません”と断られ続けました。 

ガラスの組成を調合した粉末を持っていても“できない”と言われたものですから、ガラスのるつぼを自分で買って“せめておたくの釜だけは使わせてください”と頼み込みました。 

ガラス加工の経験がありませんから、特殊なるつぼでなければ、ホウ珪酸ガラスは溶けないという事は知りませんでした。実際にホウ珪酸ガラスを溶かしてみると、その瞬間るつぼが侵食されて底が抜け、釜自体を全部壊してしまったこともありました。 

こうした努力の後、やっとホウ珪酸ガラスを作り上げて、最初の単品(ブラウン管の絶縁部品)の注文がなくなる直前にガラスを完成しました。その時に作ったものが今でも、日本、中国、東南アジアで製造されているテレビのブラウン管に使われています。 

ガラスの絶縁材料を一生懸命に開発していくと同時に、その用途も開発していきました。松下のブラウン管で使われたのだから、当然真空管の中の絶縁材料にも使えます。NHKなどのラジオ放送局には送信菅用のとても大きな真空管がありました。その真空管の絶縁材料として使ってもらおうと、東芝、日立など、大手メーカーを訪ねて歩きました。松下のブラウン管用の部品だけではやっていけないので、もっと新しい市場を開拓しようとしたわけです。市場を新しく作り出そうとしました。“市場の創造”です。 

しばらくしますと、真空管の代わりにトランジスタが使われるようになりました。今まで築き上げたマーケットが全て崩壊してしまいます。その時、トランジスタの入れ物となるパッケージを同じ材料を使って工夫して作り上げました。それがトランジスタから現在の半導体までつながっていきます。 

会社を大きく発展させた四つの創造

セラミックスは高温で焼き固めて作り、摩耗しないという強さがありますから、その特徴を生かして産業機械の磨耗部品にも使ってもらえるように考えました。金属では磨耗して駄目になってしまうところにセラミックスを使ってもらう。特に産業機械の摺動(しょうどう)(滑らせて動かす)部品にセラミックを使ってもらおうと考え、機械メーカーを回って用途開発をしていきました。 

実際にセラミックスがどこに使われるのかわからないのですが、“セラミックスはこのような物性を持っています。金属では摩耗するので困っているところはありませんか”と言って回って歩くわけです。例えば繊維機械で、糸がすっと滑るところに使えるのではないか。織機はものすごいスピードで生地を織っていきますから、糸が通る糸道の摩耗が激しいのです。今は全部セラミックが使われています。このようにして市場を開拓していきました。 

ポンプでも摩耗するだろうということで、耐摩耗性を生かした市場開拓を進めていきました。車のラジエーターで、冷却した水をエンジンに回してエンジンを冷やします。このためにはポンプが入ります。そのポンプは外からベルトで回ります。ポンプが回る所にはオイルシールというゴムのシールがはまっています。長い間ポンプが回っていますと、それが摩耗して水が漏れてくる。そしてエンジンが焼けてしまう。 

弾性があって、なるべく摩耗しない良質のゴムを使ったのですが、それでもエンジンが焼けてしまう。そこにセラミックスを使えないかということで、セラミックスとカーボンで作ったオイルシールが欧米で作られました。“うちのセラミックスを使ったらうまくいきますよ”と言って歩きました。そして車が壊れない限り、一切漏れないセラミックシールが使われるようになりました。 

その他、セラミック施盤、超精密なエアスライダー、多軸のボール盤の軸受け等にセラミックスが使われるようになりました。 

また発電用のセラミックエンジンが、開発途中です。将来的には小型、分散型の発電につながっていきます。 

他には、バイオセラムという人工骨を作ったり、結晶技術を使ったフレサンベールという宝石を作るなど、いろいろな応用を次から次へと考えていきました。 

市場の創造、需要の創造、新商品の創造、新技術の創造という四つの創造を繰り返し繰り返しやってきて、今日の京セラになっています。 

目標の置き方で会社の将来像が決まる

事業を始める時、会社は技術も経験もない時点からスタートします。素人が単品生産を始める、単品生産であるため、いつ何時、その単品が時代の流れの中で廃れていくかもしれない。このままでは会社が潰れてしまうと、危機感と飢餓感をバネにして創意工夫を重ねて、技術開発、商品開発を連綿と続けることで、会社を拡大してきた。そして中堅企業に成長してきました。そこから先に行くには、会社の目的がどう設定されているかということが大事になってきます。 

例えば、“売上百億円の会社にしたい”と欲望をベースに目標決めたとしますと、一旦その目標百億円を達成しますと、飢餓感、危機感が消えて満足感が出てきます。そこで打ち止めになってしまいます。中堅企業のまま横ばいを続けてしまいます。欲望を目的にしたり、金銭や数字といった目標になっている場合には、中堅企業になったときにその成長が止まってしまいます。中堅企業からさらに大企業にまで成長させていく人の場合、そこからさらに考え方が変わっていくのです。つまり目標とか目的というものが数字ではなくなっていくのです。それは企業の使命感です。経営者の使命感です。 

“謙虚にして驕らず、さらに努力を”“私は常にそう言って自分を戒めています”。その考え方のもとになっているのが“己の才能を私物化してはならない”ということです。そのような考え方が、思いが、謙虚さを維持することになっています。 

“才能を私物化してはならない”のはなぜか。それは、この宇宙は、才能の異なるいろいろな人たち、多様な人たちを育んできました。またそういう異なった人間を生かせることによって、宇宙、自然は、発展してきました。自然界は多様性が共生し、多様な人たちが住んでいる社会です。自然界の中には、多様な自然が要るのです。 

人間の場合、社会を構成する中には能力の異なるいろいろな人がいます。もし経営者として能力の優れた人だけで社会が構成されていますと、実際の作業をする人がいなく、これではどうにもなりません。いろいろな異なった才能、能力を持った人たちがあって初めて、我々人間社会は成り立ってきています。 

ですから京セラの社長は、稲盛和夫でなくても良いのです。他の人でも良いのです。社会にとって宇宙にとって、京セラのような社会的意義がある会社を作り上げて経営できる人が一人おれば良いのです。宇宙は、社会はたまたまその経営者に稲盛和夫を選んだに過ぎないのです。他の人でも良かったのです。社会が一人の経営者に使命を預けたのです。預けられた一人の経営者は、そうした社会からの要請に応えるべき使命が与えられたのです。 

才能は世のため人のために使うべきもの

自分の持っている才能は自分のものではない。それは神様が“社会のために使え、世の中のために使え”と言って、このたった一度しかない人生にたまたま預かってきたものであって、それ以外の何物でもないのです。だから驕ってはならないのです。

自分の才能を自分のものにし“俺は偉いのだ”と思うから、つい傲慢になってしまいます。 

会社を立派にし、さらに発展させることに生きがいを感じ、それに楽しみを感じ、それが楽しければ人はがんばります。そうなりますと、目的が単なる数字に表される目標ではなく、まさに人生の目的とは何なのか、そういうものに変えていく必要があるのです。 

そして経営者の価値観が変わっていくことで、中堅企業から脱皮していきます。そして大企業まで発展し始めるのです。トップが持つ目的意識が変わっていきますと、会社は大企業になるまで突き抜けて行きます。 

経営者として“世のため人のために尽くす”と言っている中で、自分はいつまでやるのだ、次の世代に席を譲り渡す時が来ます。そして、自分の学んだ人生の目的を語り、その人生観、世界観を共有する。勉強していくことに人生の最後とすることになるのではないかと思います。 

盛和塾 読後感想文 第151号

人格を高め、維持する

一般には、人間のあるべき姿、人生哲学、考え方は、一度学べば充分だと思い、なかなか繰り返し学ぼうとしないものです。知識として知っておれば、もう良いと思いがちです。

しかし、スポーツマンが毎日肉体の鍛錬をしなければ、その素晴らしい肉体を維持することができないように、心の手入れを怠りますと、あっという間に学んだことを忘れ、大きな間違いに陥ってしまいます。“人格”も常に高めようと努力し続けなければ、すぐに元に戻ってしまいます。ですから、あるべき人間の姿を示した素晴らしい“哲学”を常に自分の理性に注入し、“人格”のレベルを高く維持するように努力することが大切なのです。 

そのためには、自分の言動を日々振り返り、反省することが大切です。学んできた人間のあるべき姿に反したことを行っていないかどうか、自分に厳しく問い、日々反省をしていく。そうすることによって素晴らしい“人格”を維持することができるようになります。 

確固たる哲学を血肉化して人格を高める 

学びは自ら求める人にしか身に付かない

稲盛塾長は盛和塾(富山)の開塾式で講演されました。富山塾の方々が自ら進んで勉強したいという方々ばかりでしたので、本当に富山に来て良かったと思われました。 

盛和塾は京都の経営者の方々からの要請で始まりました。そのうちに“暇ができたら”と言っていたのですが、粘り強く“勉強したい”と言われ、お引き受けして盛和塾が始まりました。あくまでもボランティアで教えてあげようということでした。 

紹介された時に、大変大きな会社を経営していると紹介していただいたのですが、稲盛塾長自身どのように今日のようになったのか、自分でもよくわからないと言っておられました。青少年時代を思い返してみましても、どこにでもいそうなありふれた少年でした。 

そんな人が、京セラという会社で事業をやっているものですから、稲盛塾長の経験を伝えることによって人生が大きく変わる方がおられるのではないか、また稲盛塾長の経験を教えることが、世の中に対する恩返しになるのではないか。そして京都で、盛和塾の母体である盛友会が発足したのでした。 

皆さんのお話を聞いて嬉しく思ったのは、出席していただいておられる方々が、内なるものが燃え上がり、真剣な気持ちで経営を教わろうという気持ちの方ばかり集まっていただいたからです。 

いくら良い話をしても、いくらいいことを言ってあげても、それは自ら求める人にしか身につかないのです。馬が飲みたがらなかったら飲まないわけです。人生には貴重な学びを得るチャンスがいくらでもあるのですが、それをチャンスにできない人が大半なのです。 

人間として何が正しいのかを論じるのが盛和塾

盛和塾を通じて何かをしてあげたいと考えるようになったのは、どこにでもいそうな少年、青年が、偉大なことをなし得るには、その人が持つ哲学が大変大事であるということを知っていただきたいのです。 

盛和塾では経営のノウハウ、経営のハウツーといったものを教える場ではありません。リーダーが持つべき哲学、人生観、価値観というものを皆さんに教え、また皆さんがそれに共鳴し、賛同し、共有しようという心境になれば、皆さんの人生は変わっていくのではないか。それはつまり“人間として何が正しいか”という哲学を、バックボーンとして持っていただきたいのです。 

事業でも人生でも素晴らしい展開をしていくためには、今からさらに大きく躍進していこうと思われる方にとっては、人間性が変わることが必要なのです。生まれつき現在まで、こういう性格、性質を持った人だと言われていた人が、持っている人格そのものが変わってしまうということです。 

普通に生きていたら、人間が変わるなどという事はありえないのです。だから運命も変わらないのです。ところがその人が持っている人格が変わることが起こり得る場合があります。 

それは衝撃的な出来事に遭遇した場合、罪を犯して拘置所に入れられる、その後に裁判が続く、気の弱い人であったら、自殺でもしかねない。周囲からの冷たい視線に刺される。家族は離散する。すさまじいばかりの衝撃を受ける。そうすると人間が変わります。大病を患うこともあります。がんの宣告を受けて死と向き合うことになれば、人間は変わります。命と引き換えになるほどの衝撃を受けて、初めて人間は変わります。 

盛和塾で学ぼうとする哲学は、塾生の方々の人格を変えようとするものです。それを衝撃的に受け止める人、魂を揺さぶられるくらいの受け止め方をする人であれば、人格が変わるのです。 

哲学を学ぶのにたくさんの本を読む必要はありません。良書に当たったとき、それを熟読玩味(じゅくどくがんみ)することです。良書にある言葉を衝撃的に受け止め、自分の血となり肉となっていた時、初めて人格が変わっていくのです。 

自分の哲学を再構築することができるのです。自分の哲学を変えると今まで持っていた価値観も変わります。それは理性で自分を少しずつ、毎日の努力により修正していくという作業になるのです。自分自身が持って生まれた性格、人生観、価値観に素晴らしい哲学が入ってくる時は、まず知識として知として入ってきます。そのままではただ単に説明できるというレベルであり、血肉化まではできていないのです。 

哲学を血肉化するとは、一般知識として受け止めておいた哲学を魂に入れるということです。そのためには、自分が生来持っている哲学と、新たに入れた哲学とが、自分の中で葛藤しなければなりません。そして新たに入れた哲学が、生来自分が持っていた哲学に打ち克(か)っていくときに、初めて人格が変わっていくのです。 

稲盛塾長も、もっともっと真剣に考えて、塾生の方々によく伝わる話をしてあげれば、中には魂を揺さぶるような衝撃的な受け取り方をして、変わっていく人があるのではないか。 

盛和塾は“人間として何が正しいか”という哲学を論じていく場です。それくらい哲学は一番大事なものなのです。それが個人としての人生を大きく変えていきますし、経営者として行っている事業を大きく変えていきます。 

なぜ哲学が最も大事なのか

哲学を語るだけでは経営はうまくいくとは考えられません。技術開発の話題についても、OA、通信、工学の専門技術者とブレインストーミングをして、ある種の情報を元にどんな創造的なことが可能なのか、連鎖反応的に自分の仕事と関連させて議論をしたりします。新しい半導体メモリが開発されたのですが、それがOA通信工学の世界にどういうインパクトを与えるのか。 

このように哲学だけを語っているのではなく、技術的な問題も細かなことも議論しています。しかしその中で最も大事なのは哲学だと思います。塾生の方々は中小企業を経営しておられますが、まず“学ぼう”という気概を持っておられます。“学ぼう”という事は人格の中でも一番大きくものをいう、“素直さ”なのです。“素直さ”は学ぼうという気概であります。進歩するための絶対条件なのです。 

一芸に秀でたものは万般(ばんぱん)に通ずる

京セラを作っていただいた頃は、稲盛塾長は一介の技術部長としてスタートしました。けれども製造も技術も営業も、実質的な経営は全責任を負っていました。実際に経営を始めてトップに立ってみると、いろいろな苦労に直面しました。その中で、哲学が非常に大事なことだと気が付きました。 

前にいた松風工業では、寝食を忘れて研究に打ち込んでいた時にも、うまく研究が進むために必要な人としての心構えを少し会得していました。給料が遅配、ボーナスは出ません。稲盛塾長が外に行くところもなく研究に打ち込むしかなかったのでした。こうした逆境の中でまことにすばらしい発明、発見をするためには、どういう心理状態がいるのか、少し分かったのでした。それをメモ書きにして残したものが、現在の京セラフィロソフィーの一端を成しています。 

ですから“一芸に秀でるものは万般に通ずる”と信じています。それには“極める”ということが大事です。極めるという事はとことんそれをやり遂げる。それも辛酸をなめる苦労して物事を極めると万般に通ずることができると悟ったのでした。 

“私はしがない仕事をしていますが、もっと大きな仕事をしたい”“偉大な経営者に素晴らしい話を聞かせてもらった。勉強になった。”という方も多く見られます。そうではなく、自分が今やっている事業に全身全霊を捧げて、精魂込めてやり遂げれば、諸事万端見えてくるのです。 

多角化をする場合でも、同じことがいえます。つまり自分の事業を極めれば、多角化の道が開けてきます。京セラの場合は、ファインセラミックスを極めていく中で、現在素晴らしい多角化を実現しています。多角化は難しいのです。しかし一芸に秀でる、物事を極める事は、諸事万端に通じますから、それが多角化をする上で一番大事なのです。 

アイデアについても同様です。一つの物事に打ち込んで極めていきますと、そこから新しいアイデアが出てきます。“何かいい商売はないだろうか”“良いネタはないだろうか”という発想では浮ついたアイディアしか出てきません。自分の事業を究める、それも深く究めていく。その深さに触発されるような情報を目の前にしたときに、新しいアイデアが生まれてきます。 

未知の分野に乗り出すための道標がフィロソフィー

松風工業で一生懸命研究に打ち込んでいた時に、稲盛塾長は人生観というものが固まってきました。 

中学の時、不治の病とされた結核を患い、一九四四年の秋から寝込んでしまい、一九四五年八月が敗戦ですから、食糧難で栄養が取れなくて死ぬだろうと思ったそうです。 

その頃、隣の近所の奥さんが、生長の家の“生命の実相”という本を貸してくれました。“かわいそうに、十二、三歳位であの子も死ぬだろう。せめて心が和むように”と思って本を貸してくれました。稲盛塾長はそれを貪るように読んだのでした。 

そうしたことがあって、稲盛塾長は宗教的な知識がバックグラウンドにあったのです。そのことが、研究に打ち込んで物事を究めていくときに、人生観を構築する上で、大変役立ったのです。 

京セラという会社を創っていただき、経営の全責任を背負いこんだ稲盛塾長は、その重圧から“どのような生き方をすべきか”ということを自分自身に問いかけました。 

その時に吉田源三さんが言った言葉の意味が、フィロソフィーという言葉が迫ってきて、その後の自分の哲学、人生観、信念、または理念、あるいは価値観、そういったものを形作っていきました。それは自分の中へと肉体化していく過程でもあったのです。 

肉体化とは、考えていることや言っている事と行動が一致しなければならないということです。哲学として頭で構築しただけですと、人の前では立派なことをしゃべりはするけれども、実際にやっていることがちぐはぐなのです。これを知識として知っているだけで行動が伴っていないのです。それを徹底的に行動に落とし込んでいく、それが京セラを作っていったのです。 

例えば“一芸を極めれば万般に通ずる”という信念が、ファインセラミックスの研究に没頭し、究めることを通じて生まれ、肉体化していきました。フレザンベールという再結晶宝石とバイオセラムという人工骨、人工歯根、セラチップという切削(せっさく)工具、太陽電池を京セラは商売としています。こうした新しい分野を始めて、多角化をしていこうという時、一つの物事を究めた経験や考え方が生かせるはずだという信念が稲盛塾長にはありました。全く未知の分野に乗り出していくときに道標となるのが“京セラフィロソフィー”なのです。哲学がしっかりしてさえいれば、未知の分野でも通用するはずだということで、上の四つの事業を始めたのでした。十五年の歳月をかけて、苦労に苦労を重ねて、年商三百億円にまでなりました。 

この四つの事業はファインセラミックスと技術がベースとなり、始まったものです。 

そして次に来るのは第二電電でした。技術的にも全く縁のない情報通信事業にフィロソフィー一つだけで挑戦してみようというものでした。いかにフィロソフィーが大事であるかということを証明するために、それを企業の理由の一つとして、第二電電の事業化をやったわけです。会社を作って六年目ですが、売上高は千五百億円、経営利益が三百億円という業績を見込んでいます。 

先見性があれば思いつきさえも実現していく

第二電電の事業では、セルラー会社七社を作りました。第二電電という会社を作った後、セルラー事業を開始するためでした。そのために郵政省にセルラー事業、自動車電話、携帯電話の会社を作らせてほしいと頼みに行きました。 

ところが第二電電は、セルラー事業に全重役が反対でした。なぜならNTTの自動車電話事業も大赤字でしたし、アメリカ、ヨーロッパの自動車電話事業も赤字で難しいと言われていたからです。“第二電電がまだ始まったばかりなのに、大赤字の難しい事業に手を出しては大変なことになります”と全員が反対しました。 

稲盛塾長は“いや、それでもやるのだ。全役員反対で結構だ。お前たちなんかとはやらん。“と言い放ったのでした。その中で当時は一介の部長だったもので、郵政省から来た若い社員が“私は会長が言われる通りだと思います。絶対にこれは伸びると思います”と言ったので“お前と二人でやろう”と言って始めたのです。 

その時稲盛塾長は“自動車電話はこういう風に事業をしていく。”“契約料はいくら、月々の基本料金はいくら、通話料金はいくら”という想定をしていました。“このように契約すれば、それならば何とか今の日本の経済状態の中で、お客さんがつくはずだ。だから経営もうまくいくはずだ。”ということを話しました。そのうちの一人がこの話を日誌にメモしていたのです。 

郵政省認可料金を提出する必要がありました。しかし、設備投資がいくらかかるのか、全く何もわかっていませんでした。郵政省に提出を要求される減価償却費もわかりませんでした。 

ところが六年後に郵政省に認可申請をするときに、実際に総括原価方式で計算してみますと、稲盛塾長が六年前に言っていた数字と同じになっているではありませんか。契約料金も、月極め料金も、通話料金も、ほぼ同じだったのです。六年前に日誌にメモしていたセルラー事業の今の本部長が、六年前のメモを出してみたら、認可申請するときの料金と、稲盛塾長が言った金額が一致しており、大変驚いていました。 

七つのセルラー会社の資本金の金額についても、同じようなことがありました。関西セルラーの資本金は二十億円、九州セルラーは十億円、北陸セルラーは七億五千万円と決めました。セルラー会社が始まってみますと、累積赤字が資本金と同額近くなっているのです。その後収入が入ってくるのです。このように資本金が商売を始めるまでの損を埋め合わせるだけの額に重なってくるのです。 

哲学を深めて心を高めていきますと、自分の人生が変わるだけではなく、先見性も備わってくるのです。本人にとっては思いつきなのですが、それは思いつきに終わらず、現実になっていくのです。先見性がある人の思いつきは、未来に起こる事実と遭遇して、現実化していくのです。 

前向きで一生懸命な苦労が運命を変えていく

稲盛塾長の少年時代、大学時代は、病気、受験失敗、就職採用にも失敗と、後ろ向きなことが多々ありました。“世の中が間違っている”と悲憤慷慨(ひふんこうがい)していました。 

松風工業に就職し、どこに行くこともできなかったため、セラミックス研究に没頭せざるをえませんでした。貧乏会社で設備もなく、頼りない経営陣、労働組合争議が頻繁に起こるような職場、給与遅配と、少なくとも前向きの条件がない中で、ファインセラミックスの研究に打ち込む日々の中で、吉田源三さんからフィロソフィーという言葉を耳にして、自分の哲学を構築していきました。自分の哲学を構築していく中で、運命が好転し、京セラの歴史が始まりました。 

稲盛塾長は朝から晩まで仕事をしているのですが、少しも苦労したという感じがしていないのです。朝から晩まで誰よりも仕事をすることを、本人は好きでやっているのですから、それは苦労では無いのです。 

今日支払うお金がない、手形を落とすお金がないといって金策に走りまわる事は、一度もありません。京セラは赤字決算をしたことがないのです。ボケッと遊んでいるから、金策に詰まったりします。 

前向きで一生懸命な、自分の中での苦労というものはありますが、そんなくらいになると運命まで変わっていきます。 

人格を高めるための哲学を身に付ける

前向きで一生懸命な努力は、自分の哲学を構築し、哲学を血肉化する最短のものです。もし血肉化することができれば、人生観もガラッと変わります。“学びたい”という思いがあれば、哲学というのは自分自身の第二の人格、性格を作っていくものであり、魂が震えるほどの感動を持ってそれを受け止めることができるようになります。そして自分自身に素晴らしい哲学を身に付ければ、その人の人格が変わります。運命も変わっていくのです。 

盛和塾 読後感想文 第150号

すべては思うことから始まる

先賢の高邁(こうまい)な知識を学んでも、経営論や技術論をいくら習っても、道を究(きわ)めようという強い信念、高い志、勇気を持って挑まなければ、身に心に深く刻み込む事はありません。いざ実践しようという時に役に立たないのです。 

目標までの長い道のりを前にして、唖然として立ち尽くし、“自分にはとても無理だ”と諦めて前進を止めてしまうのは甘えであり、逃げであり、卑怯者のすることだと西郷隆盛は言っています。ほとんどの人々は、“自分にはとても無理だ”その理由は、人材がいない、経験がない、お金がない、技術もない、ない理由を考え、自分自身を説得して、あきらめさせると思います。 

どんなことでも、まず強く“思う”ことから全てが始まるのです。“そうありたい”“こうなりたい”という目標を高く掲げて強く思う。それも潜在意識に浸透するほどの強く持続した願望でなければなりません。寝ても覚めても途切れることのないくらい強いものであって、初めて先人の教えを実践の場で生かすことができるのです。 

その“思い”の目標・目的は、遠く、茨の道かもしれません。苦しいことの連続に違いありません。こんなに辛い目に遭ってまで、どうして“高み”を目指さなければならないのかと思い、迷い、悩むかもしれません。 

しかし、固い志に拠(よ)って立つ人は、目標へと続く道路が眼前から消え去ることはありません。たとえ途中でつまずいてもくじけても、また立ち上がって前へ前へと進むことができます。逆に志なき人の前には、いかなる道も開かれる事はありません。 

そして、その“思い”は、純粋な心から発生したものであることが必要なのです。強く持続した思いであるならば、普遍的な、誰もが同意してくれる、世のため人のためのものであればなおさら、強力で持続した思いとなります。どちらにしても強く思う心がなければ事は始まらないのです。 

経営者はどうしてもこうありたいという強い願望を持て 

トップとナンバーツーの絶対的な

盛和塾の機関紙に掲載するための座談会がありました。そこで話が出たのですが、我々経営者というのは、自分というものは何なのか、自分の人生は何なのかということを真剣に考える人であるべきだと稲盛塾長は言われました。なぜ生まれてきたのか、なぜ自分はこういう職業に就いているのか、なぜだろうと真剣に考える必要があるのです。 

“塾生は、そういうことに疑問を持って、真剣に学びたいという人でなければならない。ただ単に漠然と人生を進みたいという程度の考えでは困る。” 

社長をしている人と、常務、専務をしている人では全く心持ちが違うのです。常務、専務も“自分だって社長と同じような仕事をしているのだ。”と考えておられると思いますが、実は、その責任に雲泥の差があるのです。“社長になってから心配で心配で眠れなかった”というくらい、両者は全く違うのです。社長とは想像以上にきつい仕事で、常務、専務とは全く違うのです。常務でも専務でも、後を継がれる方でも、今社長をやっている方でも、自分の人生、社長業を全うするからには、もっと真剣に学びたいという人であるべきです。 

二代目社長の方々の中には、学校を出て“よそさんの飯を食ってこい”と修行に行かされた方もおります。また中には、親の後を継ぎたくない、頭もちょっとばかり良く、他の道をずっと歩き続けて、年がいってから、やはり親の後を継ごうということで、盛和塾で学ぼうと、塾生になった方もいます。若い時に“父親の仕事なんかする気は無い”と言うので、横道を歩いてきた人もいます。遊んできたという意味では無いのですが、外で学ぶ以上に、父親の会社の方がもっと真剣に学び、実践的な大変な苦労を経験できたというわけです。そういう意味でもったいないと言っているのです。 

子供の頃は、親がやっている商売というものは決して魅力的には見えません。親の仕事はあまりしたくないというのが本音ではないでしょうか。本当なら、出来る限り最初から後を継がせるようにすべきだと思います。 

存在の意義を真剣に考える

なぜ自分はここにいるのかと真剣に考えてみる必要があります。今自分がいることの必然性に理屈をつけて、必然性を求めて自分の人生を意義あるものとして、自分で自分に思い込ませることが重要なのです。 

今はアパートの事業をしているが、金儲けのために始めたのですが、アパートの経営をしている間に、低所得者の人々が、レント代の高騰に困っているのに気がついた。そうだ、できるだけ安く良いアパートを作ろう。経費のかからない工夫をして、レント代の高騰に挑戦してみよう、低所得者の人たちに良くて安いアパートを提供していこう。これが私の目的で、ここに私の人生の意味を見つけよう、と考えて良いのです。 

そういうように考えますと、自分の人生、生活に張り合いが出てきます。 

盛和塾に関わる人たちを幸せにしたい

稲盛塾長は普段から、自分の存在意義を考えています。稲盛塾長は二十七歳で会社を作っていただいて、今では国内に一万五千人の従業員がおり、海外にも一万五千人、国内外合わせて三万人の従業員がいます。その従業員には三~四人の家族がいるとしますと、その三倍から四倍の人が京セラに関わっています。第二電電には二千人の従業員がいます。ここまで順調に来ており、大変多くの従業員や家族を養っています。 

その時、自分の存在はどういう意義があったのだろうかと考えてみますと、自分が生まれてきたことによって成し遂げた良いことに、自分の存在価値を見つけることができます。 

しかし、こうした仕事の中で、こんなこともあった、あんなこともあった。あんなこともした、こんなことも真剣に取り組んできた。周囲の人たちも導いてきた。そうだ厳しいことも要求した。私は仕事には大変真剣でした。いい加減さは許さなかった。稲盛塾長は大変真剣に仕事をしてきています。だから周囲にも大変厳しい態度を求めます。自分も厳しい生き方をして、他人にも厳しい生き方を要求していますが、その分、自分の周囲には多くの人たちを幸せにすることができたと考えております。 

稲盛塾長の周囲の人たち、身内、親戚の人たちも皆、稲盛塾長が存在していることを大変喜んでおられます。海外にも一万五千人の従業員がいるわけです。そう考えていますと、稲盛和夫がいなかったら、こんなこともなかった、あんなこともなかった。今命が消えようとするお袋から生まれた一人の男が、世のため、人のためになることをしてきたのだ。 

そうだ、どうせここまで来たのだから、今取り組んでいる盛和塾で、まだお目にかかっていない人たちも幸せにできるのではないか。盛和塾の塾生の中には、小さな会社で、十人や十五人の従業員はいるだろう。また何百人も従業員を抱える会社の社長もいます。その人にはたくさんの従業員がおられるのだから、自分はその全員を幸せにしてあげることができるのではないか。 

盛和塾が五千人になりますと、社員は一社百人としますと、五十万人になります。日本最大級の集団となります。こうした人たちを幸せにしていくことができるのではないか。自分の存在意義もここにあるのではないか、と稲盛塾長は考えられました。 

自分の存在意義使命を自覚する

創業者であろうと、二代目、三代目であろうと“なぜ自分はこういうことをしているのだろう”と自分で考えることが大切です。自問自答していくのです。確かに、どこにも行くところがないために、父親の後を継いだかもしれません。それだけではあまりにも惨めすぎます。そうではなく、“自分が父親の後を継ぐのは、必然性があったのだ。それを世のため人のために良かれかしとして、神様が決めてくれたのだ”と決めてしまうのです。 

そして現在の自分自身の存在意義、位置を現実的に考えていきますと、いい加減には生きられません。 

人間は、今生きていることを漠然と受け止めてしまいがちです。自分たちがこの世に生を享(さず)けられたのは、そこに何か目的があり、そのような使命を帯びているからなのです。神様が私たちをこの世に出したのは、そのためなのです。 

中小企業でも社長の息子であったため、経済的に恵まれていたかもしれません。世の中を甘く見て育ててきたのかもしれません。そんな人でも自分が好むと好まざるにかかわらず、自分のおじいさん、お父さんが作った会社を早く立派にしなければならない、義務、責任があるのです。

そのように自分の存在意義を考えますと、毎日毎日いい加減に生きてはいられない、と真剣な、生真面目なものが要ることに気がつきます。それが仕事のベースになると思います。 

未経験ゆえの心配性が経営に生きる

稲盛塾長は、松風工業で三年間勤め、二十七歳で京セラを作っていただいたものですから、経営のことに関してはほとんど経験はありませんでした。ですから、慎重な稲盛塾長は、大変怖がりで、もう一寸先が真っ暗闇という感じがして、必死で努力をせざるをえませんでした。そういう怖さ、恐怖感を真剣に捉えることによって、自分を駆り立てる力となったのでした。恐怖感がドライビングフォースとなって、やっても安心できない、自信がない。そこで必死にがんばりました。もちろん夜も昼もありません。朝早くから夜中まで仕事に取り組みました。 

京セラの古い営業担当の社員が言っていました。稲盛さんは私たち営業の社員が会社に戻るまで待っていてくれました。市電で夜八時頃に戻りますと、会社の門の前で社員が帰社するのを待っているのです。そして“御苦労さん、御苦労さん”と言って肩を叩いて、“注文は取れたか”といい、“どうやったか”と聞いていたそうです。いくら遅くなっても、稲盛塾長が門の前に立っていることが想像できるものですから、営業の社員はどんなに遅くなっても会社に帰ってきたそうです。 

このように怖くて心配ばかりしていたものですから、一生懸命やっても安心できません。稲盛塾長が夜中まで仕事をしていましたから、従業員も残らなければならない。すると皆フラフラになってしまい、健康にも影響が出てきました。今度は従業員の不満が爆発して、大問題が起こるのではないかという不安が出てきました。

そのうち幹部が“こんな無茶をするのだったらみんな体を壊してしまって続きません。もっとこうしましょうよ”と言ってきました。“そうかな”とは返事をするのですが、“じゃあ何時に帰って早く休もう”とは言えないのです。“そうやな、そうしよう”と言うのですが、やはり、“早く帰ろう”とは言えないのでした。 

それには、次のような考えがあったからでした。 

四十二・一九五キロを百メートルダッシュの勢いで

“経営とは一生を通じてするマラソンです。気の長いマラソンです。京セラは一九五九年にスタートしました。マラソンレースだから、四十二・一九五キロを完走できるような走り方をしようやないか。だけど四十二・一九五キロはどのぐらいのペースで走ったら良いのかわからない。”

朝八時から夕方五時まで働いたらちょうどいいペースなのか、六時までくらいがいいペースなのか、七時まではいいペースなのか、誰もわかりません。マラソンを走った人ならばペース配分はこのぐらいで行かなければ保たないと知っています。しかし京セラは何も知らない、そのマラソンレースに参加してしまったのです。 

一九四五年の敗戦で十四年が経っていました。一年を一キロメートルと仮定しました。敗戦時にスタートしておれば、京セラ創業時一九五九年には先頭集団は十四キロ先を走っているのに、ずいぶん遅れてマラソンレースに京セラは参加しました。 

京セラは四十二・一九五キロを一生かけて走らなければならない。ペース配分も何もわかっていない、一流の出でもない選手。千メートル、五千メートル、一万メートルでも走ったことがない。何もわからない田舎の青年が走り出したのだから、もうどうしようもない。だからがむしゃらに走らなければならない。まさに百メートルダッシュみたいに。 

しかし、京セラの百メートルダッシュ、つまり夜を日に継いで寝ないでがんばっても、実はそれが一流のマラソンランナーのスピードなのかもしれない。自分は勝負にならないことをしているのではないかと恐れました。日本の他の企業は十四キロ先を走っているのです。こうなったら百メートルダッシュでやみくもに走るしかないではないか。 

“百メートルダッシュ”は“続かんと思う”と言う。だが続かんでもいい。このレースは五キロ保つのか、十キロ保つのかわからない。そこまで行ってダメなら、それで良いではないか。勝負にならないことでウロチョロするよりは、そのほうがましだ。 

必死になって走っている間は、確かに走りすぎていると言えるかもしれないし、どんどん人を負い抜けていけば、走りすぎと言えるかもしれない。その時は初めてペースダウンしてもよいのではないか。 

“能力もない経験もない自分が他人様と同じようなことをやっていたのでは、どうにもならない。人の何倍もやろう”と考えたのでした。

面白いことに、ガムシャラに頑張ることが習い性になってきますと、何も苦ではなくなるのです。 

稲盛塾長の一日は、夜の十一時、十二時に帰宅。夕食を食べて十二時半か、一時前。朝は七時に朝食を食べて出社でした。京セラの社員もそうでした。そんなことをしたら体を壊してしまうのではないかと言われます。しかし全然問題はありませんでした。体を壊すと思うと体を壊すのです。がむしゃら生活が習い性になり、それが当たり前になっていました。 

住む世界を変えるために

ロケットは地球の引力を振り切って宇宙空間に飛び立って行きます。ものすごいスピードを上げていくのです。そして宇宙空間で、周回軌道を回り始めると、時速にして何万キロというものすごいスピードで回っています。ところが地球から打ち出したときには、G(重力)に逆らって行きますから、宇宙飛行士にはものすごい重力がかかります。彼らはそれに耐えられるようにトレーニングをしているわけです。相対的にはものすごいスピードになるのですが、一旦宇宙空間に出れば、宇宙遊泳をしています。地上で静止しているものを宇宙空間に飛ばすためには、ものすごいスピードで飛ばす必要がありますが、いざ宇宙に出ますと、それが平常のレベルになり、静止しているのと変わらない状態になります。 

ボロ会社で経営をしていますと、この業界の利益率はこれぐらいです、と皆規制概念があり、それが当然と思っています。長年続くとそこにハマってしまい、動くことができないのです。 

素晴らしい経営をしているところは、ボロ会社の状態を離脱して宇宙空間の世界-高収益企業の仲間入りをしているのです。高収益企業の従業員は、大変苦労をしていると他のボロ会社の従業員は思っているのですが、実は高収益企業の従業員にとっては何の苦労もしていないのです。 

宇宙への脱出-高収益企業の変身は、ものすごくガムシャラな努力をして、ボロ会社の世界から脱皮しようとして頑張ったのです。しかもその頑張りは習い性になっており、少しも苦労とは思っていないのです。このボロ会社から高収益企業への変身にはものすごいエネルギーがいるのです。それには経営者も従業員も意識を変えるのです。自分たちは変わらなければならないのです。次元を変えるということです。 

“うちの会社はまあまあだけど、あそこの会社はもっと良い業績を上げているな。自分だって本気を出せばあいつよりもっと業績を上げることができる”世の中には勉強せずとも頭の良い賢い人がたくさんいます。そのため、要領が良くてあまり勉強・努力をしません。 

しかしそれは“すれば”という仮定なのです。その“すれば”ができていない時点が、それが実力なのです。“そのそれがお前にはできないではないか。それがお前の実力なのだ”と考えるべきなのです。そこへたどり着くためには、そのように変わるためには、大きいエネルギーギャップがあるのです。そこへたどり着くのは簡単に見えるのです。そこにはものすごいギャップがあるのです。 

成功しても変節しないことの重要性

大阪証券取引所二部に上場したときのことです。稲盛塾長は滋賀県にある工場のグラウンドに従業員を集めて話しました。従業員には自社株を持ってもらっていました。

“先頭集団は十四キロ先を走っている。京セラでは全員が力を合わせて頑張って、まるで短距離ランナーのような“今に潰れるだろう”“今にぶっ倒れるだろう”という走り方をしていたら、あれはあれよという間に第二集団をとらえた。そして第二集団の中に入った。さらに先の先の方をトップ集団が走っているのだから、第二集団、二部上場を抜けて、できればトップ集団に行こう”

そして言った通り、第二集団を通り抜けて、トップ集団である一部上場を果たしました。 

二部上場しても、一部上場しても、稲盛塾長は、天狗にはならなかったのです。つまり変節しなかったのです。志を高く持ち、その志が変わらなかったことが良かったのです。人間誰しもちょっとうまくいっただけでも慢心するのです。傲慢不遜になります。京セラという会社がここまでの規模になっても変わる事はありません。 

自分の人生というものを真剣に考えられるような仕事をしなければならないと、自身に意義付けをしなければなりません。生真面目にするという事は一生懸命にやることです。 

強烈な願望を心に抱く

大事な事は、自分の会社はどうあるべきかという目標設定を明確にすることが第一番です。 

特に目標設定をする場合、簡単に達成できる目標ではなく、相当高い目標を掲げるべきです。 

例えば、今五億円の売り上げ、税引き前利益五千万円だったとします。その五億円を十倍の五十億円の会社にしたい、税引前利益も五億円にしたい。現在の自分に比べても相当高いレベル、そういう目標を立てます。 

五十億円の売上、五億円の税引前利益を上げる会社にしたいという“強烈な願望を心に抱く”ことです。願望とは“どうしてもこうありたい”というものでなければなりません。“どうしても五十億円にしたい。何が何でも五十億円にしたい”というものです。そのスパンは五年なら五年、十年なら十年と言い切れるようにしなければなりません。 

ただ一時だけ思うのではなく、考え付いたらのべつくまなしに“そうしたい”と思い続けるのです。のべつくまなくとは、二十四時間、馬鹿みたいに考え続けるのです。今日考えるのではありません。目が覚めている間中、“五十億円で五億にしたい五十億円で五億にしたい”と考え続けるのです。 

どうすれば五十億円を達成するか、今までの事業のやり方では伸びそうに無い、新しい事業への進出も考えてみよう。関連事業分野に進出してみよう。お金も、技術もない。どうして新しい分野に進出するか、と考えます。そして次から次へと発想が湧いてきて、具体的なプロセスが出てきます。 

今度はそれを実行するための方法論が考えられます。頭の中でシュミレーションとなって、頭の中で考えすぎるほど考えるようになります。 

潜在意識に透徹するほどの強く持続した願望を持つ

そして考えていきますと、目標やその関連分野の事業、その方法論が潜在意識に入っていくのです。普通にものを考えている領域は、顕在意識です。潜在意識には、繰り返し繰り返しそう思っていることが入ってくるのです。潜在意識には思ったこと、経験したことが全部入るのです。潜在意識に蓄えられた考えや思いは、顕在意識になって現れるのです。潜在意識に入ったもので、顕在意識のレベルまで持ってこれるもの、それは、1.繰り返し繰り返し考えたもの、2.ものすごい衝撃的な体験をする、この二つのものからしか潜在意識から顕在意識には持って来れないのです。 

車の運転の場合も、慣れてきますと、考えなくても手足が車を運転してくれます。いちいち頭で考えて、手足を動かす事はありません。全く運転のことを考えずに他のことを考えながら運転していることにハッと気がつくようになります。 

同じように、五十億、五十億と毎日考えていたら、潜在意識に入ってきます。何かの拍子に、例えば飲んでいる時、“アッ、そうや、あれやったらいいんだ”と出てくるのです。 

潜在意識の中に自分の目標設定が入っていたから、一生懸命考えたことで触発されて出てくるのです。ボケッとして“できれば五十億になりたいもんやな”と言うのでは話になりません。