盛和塾 読後感想文 第145号

経営に打ち込む

真の経営者というのは、自分の全知全能、全身全霊をかけて経営を行っている人のことを言います。どんなに重要な経営手法や経営理論を頭で理解しても、それだけで優秀な経営者になれるわけではありません。 

経営者の評価尺度は、いかに長時間、全身全霊を傾けて献身的に働き、強い責任感自己犠牲の精神で毎日を生き抜いてきたかということなのです。 

経営に対して全身全霊を傾けて打ち込むという事は、大変過酷なことです。そうするためには、自分の時間も持てないでしょうし、その重圧は体力的にも精神的にも耐え難いものになります。そういう困難な状態を経験し乗り越えていかなければ、真の経営者としての資質を磨けないのです。 

トップとそうでない人の間には、天と地ほどの差があります。自分を単なる雇われ者として考えて、上司に意思決定を全て任せる人がいます。その一方では、ビジネスを成功するために、命をかけることを厭わない人たちがいるのです。 

全身全霊を注ぐ経営 

盛和塾は互いに心を高め研鑚(けんさん)する

人生の結果=考え方x熱意x能力という方程式を読み、それを自分の会社の中に取り入れる経営者の方々が多くおられます。そうした経営者が盛和塾のメンバーです。

この盛和塾はそうした出会いを大切にして、稲盛塾長の話を聞き、勉強し、その仲間同士、お互いに知らず知らずのうちに研鑽しあい、刺激を与え合う。こうした場、フィールドが必要なのです。 

例えば今日の話を聞いて“なんだ俺の会社の売上はなんて小さいんだ。ちょっとは成長したと思っていたのに、盛和塾に来てみたら、取るに足らないことがわかった。もっとがんばらなくては”という人もいます。そういう刺激が与えられるだけでも、その人自身の成長は随分違ってきます。 

善き人が集まってくるフィールドは善き方向に気が流れます。善き人たち、素晴らしい心根を持った人たちが集まっているところに来るだけで、塾生の運命は好転していきます。自分自身に、そういう暗示をかけて思うだけでもいいのです。入塾しただけで自分の会社は良くなるのだと信じ、これなら本当に好転するかもしれないと思うことが大事です。 

立命、運命は変えられる。“陰騭録(いんしつろく)”より。

中国の遠了凡という方が書かれた本、陰騭録があります。多くの人々は運命を変えることのできないものだと考えられています。運命とは、私たちが持っているもので、生まれた瞬間からどのような人生を送っていくかということが決まっているのです。 

私たちの魂は、輪廻転生を繰り返します。私たちが過去に作り出した思念ー考えたこと、又は行為が業(原因)となって因縁(関係)が生まれていきます。仏教では“思念は業を作る”といいます。因(いん)(原因)があれば果(結果)ができます。因縁が因果をつくります。 

このように、過去生(前世)私たちの魂が色々と思ったことが、私たちの業を作り、因縁を作っているわけです。その因縁を作った思念が、私たちの運命を形作っていきます。過去生(前世)で原因が既に作られているため、生まれたときにはすでに運命は決まっているのです。私たちはいくつになったらこうなる、ああなるというのは、遺伝子のように組み込まれてしまっているのです。 

しかし、運命は今生きている間に善きことを思い、善きことを成すことによって、変えることができるのです。善き事とは“他人に善かれかし”という親切な思いです。人の喜びを自分の喜びとして感じられる心、人の悲しみを自分の悲しみに感じられる優しい思いやりです。 

善きことをこの世で思うことによって、善き業(原因)が作られ、それが良き因縁(関係)となって運命(結果)が変わっていくのです。そのことを“立命”といいます。運命は決して変えられないものではないのです。“陰騭録”という本の中に書かれています。 

遠了凡さんは子供の頃、仙人のような易者に出会い、“お前は何歳の時にこんな出来事に出会い、このような人生をたどっていく”と自分の運命を既に決まっているのだということを教えられます。それからの人生は全部その易者にいわれた通りの運命をたどり、科挙という今の国家試験に受かり、地方の偉い長官にまでなっていきました。 

地方長官になった遠了凡さんは、任地にあるお寺に行き、そこのお坊さんと一緒に座禅を組んだ時の事でした。その時そのお坊さんが了凡さんのことを“年が若いのになんと素晴らしい悟りを開いておられますことか。一点の迷いもありませんな”と褒めちぎるのです。すると了凡さんは、 

“その通りです。私には全く迷いがありません”

“どこで修行されましたか”

“私は子供の頃、易者から私の運命を教えてもらい、その老人が言った通りの人生を今日までたどってきました。私の運命は何もかも決まっているわけですから、これ以上慌てたり苦労したり、頑張ったりする必要はありません。だから私には迷いはありませんし、悩みもありません。易者に教わった通りの運命に従い、そのまま人生を終わればいいと思っています。” 

それを聞いたお坊さんは、“なんとお前は大バカ者よ。修行して迷いがないのだと思ったが、なんということだ。幼い頃に易者に聞いた話を真に受けて、それで迷いがなくなったとはとんでもない。” 

“いや、私はその易者から、結婚はするが子供はできない。そして五十三歳で死ぬと言われています。そのままの人生を送るだけです。” 

その禅宗のお坊さんは“お前はバカか。それは悟りではなく単なる凡夫の生き方だ”と言って了凡さんを叱りつけ、“善きことを思えば運命はその善き方へと変化していくもので、逆に悪いことを思えば、悪い方向へ変化するという“因果応報の法則”があることをこんこんと諭していくのです。 

了凡さんは叱られた後、奥さんと二人で善きことを思い実践していこうと生き方を変えていきます。このように運命を好転させることを“立命”といいます。その結果、了凡さんは子供を授かり、七十歳を超えても長生きして、素晴らしい人生を全うします。 

このように運命を変えるには、ただ善きことを思うだけでいいのです。例えば自分の奥さんにこんなことをしてあげたい、主人にはこんなことをしてあげたい、従業員にもこんなことをしてあげたい。周りの人たちに善いことを“してあげよう”と思うだけでいいのです。例えば“給料もっと上げてあげたい”でもよいのです。 

心からそう思い続けていますと、そのようになるものです。もちろん今すぐにはできませんが、まずは、そのように善きことを思うことから始めるのです。 

ただ善きことを思うだけで運命は好転する

稲盛塾長の本“心を高める、経営を伸ばす”の“心を高める”とは善きことを思うという意味です。善きことを思えば運命が変わります。 

もし自分の人生に悲観的な思いを持っていると、災難に会うのではないか、病気なのではないかとか、そんな悲観的なことばかり考えて、結局はそうなってしまいます。 

心を明るく持ち、“自分には素晴らしい人生が広がっているのだ”と信ずるのです。今どんなに不幸なことがあろうと、悲惨な状況があろうとも、必ずそう思うのです。そうすれば運命が好転するのです。 

盛和塾に出席する、他のメンバーと出会うだけでも好転して行きます。善き人たちの集まりがあり、お互いが研鑽し合えば、そこには善き波動が生まれ、運命は必ず良い方向に変わっていきます。 

今日の不況は持久戦ー企業は体質の強化を図れ

今は従来の価値観が大転換をしていく激動の時代です。企業経営についても判断するための規範、基準がなくなりつつあるという大変な時代です。特に不況が深刻化しています。 

“昨年からのバブル崩壊により露呈してきた今回の不況は、季節的、一時的なものではなく、構造不況です。同時に戦後最大の不況の様相を呈しています。今までの不況を乗り越えてきたという経験だけでは対応しきれません。業界、業種、企業によっては、年度末の間だけでも、月を追うごとに売上が減少に追い込まれるという凄まじい状況です。業種、企業によっては、今期末収益予想を大幅に下方修正せざるを得ない状況になっている企業が多発するでしょう。” 

事実、この下方修正は昨今、新聞紙上に次々と発表されています。大企業も今まで予想していた数字より三割減、四割減と言い出しています。 

“その結果、企業によっては不採算部門の切り捨て、また研究開発費の削減にまで切り込んでいくでしょう。新規採用の中止、大幅削減、人員整理などを実行する企業が多く出てくるでしょう。” 

“そしてこの不況を従来の不況と同じように考え、何とかなるだろうと思って経営をしてきた企業は倒産していくでしょう。中小企業のみならず、大企業も倒産するという事例が起こってくると思います。” 

“今回の不況の特徴は、良いところ悪いところ、地域的な差があること、国別にも差があります。日本は不況でも米国は景気が回復しつつあります。産業別にも、ある産業は大変悪いが、ある産業ではさほどでもない。業種別にも不況の現れ方が異なるのです。” 

本年の不況は大変厳しく、深く、長いものです。この不況は深くて長いので持久戦となります。不況を乗り越えるためには、今すぐやるべき事は、あらゆる無駄を省くことです。無駄を徹底的に削減する必要があります。 

経費削減をするにしても、相当な覚悟で突っ込んでやらなければなりません。通り一遍の経費削減ではダメです。 

ソニーが営業利益で赤字転落、パイオニアも赤字スレスレとエレクトロニクス業界も不況に苦しんでいます。さらにNEC、富士通までも赤字転落という凄まじい嵐が吹いています。 

その中で京セラは、昨年は減収減益でしたが、今期は九%の減収ですが、この不況でも十%を超える経常利益を上げています。 

戦後一貫して拡大してきた日本経済も、一昨年くらいから陰りが見えてきています。環境問題、エネルギーの制約条件もあります。日本だけが一人歩きし、日本だけが発展していくという事は許されなくなっています。 

そういう中で、今後はゼロ成長、マイナス成長の時代が来ています。以前はゼロ成長という言葉は禁句でした。京セラは、経営がうまくいってもいい加減な行き方をしないように、非常に手堅く経営をしていますから、この不況でも強いのです。 

どの会社でもそれぞれ本当に無駄を省くということを、この機会にやってください。このような苦しい時に行えば、最も効果が上がります。 

今回の不況について、悪い方、悪い方へと考えてしまいがちです。しかしいつまでも続くわけではありません。逆に不況の時にこそ、体質を強化する最も良い機会なのです。 

買う人が決めた価値で売る

“安く仕入れて安く売ればいいと思ったけれど、価値に見合った価格で売るといった場合、価値に見合った値段の決め方を教えていただきたいのです”という盛和塾のメンバーの方がおられました。 

売値というのは価値で決まるものなのです。買った人がその価値を認める値段であれば良いわけです。 

メーカーの側から見ると、製品に少し傷がありますと、傷があるものは値が下がると考えてしまいますが、お客さんのその製品の価値がどこにあるかによって、値を下げることなくそのまま売れるわけです。 

買った人が喜び、売った人が喜び、それをまた買った人が喜び、みんなが喜ぶことが売価の条件です。誰かだけが儲け、誰かが損をしているのでは、商売にならないのです。 

京セラは松下電器がテレビを作り始めた頃、そのブラウン管の中に使う新しい絶縁部品であるセラミックスを作る下請けとして始まりました。この品物を買ってくれるのは松下さんしかありません。ですから余分に作っても誰も買ってくれません。言われた数量を作るだけです。京セラが提示した値段で“要らない”と言われればそれまでですから、松下さんの言い値にしかなりません。 

そういう立場の場合、下請けでは苦しいので、客先の言いなりのままではどうにもならないからといって、完成品メーカーになろうと考えるのです。しかし京セラは“下請けのままでいい”と道を選びました。松下さんからは毎度毎度値切り倒されます。松下さんの値段ではできませんと言うものなら、“そんなら要らんわ”となって松下さんは他から購入してしまいます。こちらも“もう下がりません”というと、松下さんも困るわけです。他の業者を探さなければ、製造に支障が起きてしまいます。 

松下さんは、今度は損益計算書を持ってこいといいます。“儲けすぎや。これだけ儲かっているのなら、これだけまけんか”と言ってきました。例えば十%以上の利益を出していますと、“今時十%の利益を出している会社があるか。三%の利益でよろしい。後の八%はまけられるはずや”と言ってきました。 

一般管理費が十%くらいでした。松下さんは“一般管理販売が十%はかかりすぎや、松下しかお客がないんだから、販売費もほとんどいらないはずや。五%でよろしい。五%値段を下げろ”と言ってきました。 

赤字決算の資料提出しますと松下さんは“お前のところは赤字か。赤字やったらえらいことやな。赤字の会社からいつまでも買うわけにはいかん。お前のところが潰れたらうちは買えなくなるから、もっと経営の安定した別の会社に仕入れ先を変えないかんな” 

稲盛塾長も腹が立ってきて“以後一切損益計算書も何も持っていきません。持ってこいと言われても持っていきません”と伝えました。“何を持って行こうが、あなたは値切り倒すだけ値切るのですから一緒です。何も見せません。見せない代わりに、あなたが値切るなら、いくらなのか言ってください。そのとおりにします。もう抗弁しません。”つまり松下さんの言われる値段で引き受けるということです。“私は技術屋です。あなたの値切りに対して、私の技術者としての工程管理合理化が勝るか、勝負しましょう。その代わりいくら利益を上げようと、それはうちの勝手にさせてください。”松下さんは“それならいいわ”と言いました。 

京セラは必死に合理化に努め、高収益企業になっていったのでした。 

二十年前、一個三十円だった部品の値段が、一円八十銭にまで下がっています。それでもネバーギブアップで四十年近い今日でも作り続けています。古い仕事も大切にし、その一方で新しいものを次から次へと取り組んでいるのですが、そのために凄まじい合理化を続けてきたのです。 

値決めはお客さんの認める価値です。買う側も売る側も儲けなくてはなりません。俺は儲けるが、お前は儲けてはけしからんという人もおりますが、そういう事は長続きはしないと思います。 

ど真剣に集中することを習い性にせよ

この不況の中、経営者は皆朝一番に出社して夜遅くまでがんばっておられます。会社に行かれましたら、その間、一瞬たりとも気を抜くことなく、神経を集中して仕事をする必要があります。全神経を張り詰めておれば、疲労は極端になります。朝から晩まで神経を張り詰めていますと、体がもたないという人もおります。しかし、それに耐えられないのであれば、経営者ではないのです。 

厳しい経済環境の中では、部下からいろいろな案件が上がってきます。こうした懸案事項についても、自分で色々と判断するものでも、軽率な判断をしてしまっては大変なことになるからです。物事を決める場合“良い”“悪い”を決めていく時の読みの深さ、鋭さが、大変大事になってきます。 

その読みの深さは精神の集中力から生まれます。それによって案件を深く理解し、鋭い判断ができるのです。この集中力は習慣で高めることができます。集中したことのない人、いつもほどほどに生きている人は、いざ鎌倉という時、集中しようと思っても集中できません。 

よく自分は“すれば”集中力を磨くことができると思っている人がほとんどだと思います。今はやらないから集中力が不足しているが、“やろうと思ってやれば”集中力を持つことができると考えているのです。 

普通、学業でも、自分が本気で取り組めば成績が一番になると思っているかもしれません。それは錯覚です。いつもど真剣に仕事をしていない人が、不況になったからといってど真剣に仕事をしようと思ってもできません。今急に付け焼き刃でど真剣にやろうと思っても、なかなかできるものではありません。事業環境が良い時から一生懸命取り組んでいなければ、そういった集中力は備わりません。 

どう真剣に集中して仕事に取り組んで、それを習い性にしてしまわなければ、この不況を乗り越えることはできないのです。 

全身全霊で経営することで会社に生命が宿る

こういう不況ですから、自分が会社にいなかったら会社は呼吸を止めてしまうという実感をもたれる経営者がいます。稲盛塾長は自分の心が京セラという会社のことでいっぱいなので、個人のことが隅に追いやられてしまっている状況にありました。いったい自分の心は京セラにあるのか、個人にあるのか、境界がわからなくなってしまうことがありました。 

それほど稲盛塾長が全身全霊を京セラに注入して、初めて会社に生命が宿ると考えられました。会社は無生物であり、会社そのものは意志を持たなければまた判断もしません。心を持っていないのが会社です。その会社に稲盛塾長の思想、精神、判断を注ぎ込むことにより、会社は生き生きと動き出します。会社に生命を注入するのは社長である稲盛和夫です。つまり稲盛和夫が個人にかえりますと、会社は無生物になり、判断も何もしなくなります。 

寝ても覚めても会社のことを考えなければ、会社は生き生きとならないのです。稲盛塾長は百%京セラに自分の才能、心、時間も全て注ぎ込んでいました。その結果、家族の一員でしたが、心は家族のためになかったのです。 

この不況時、経営者には、その姿勢が必要なのです。それぐらい全身全霊を会社に注ぎ込んでくれる社長でなければ、中に住む従業員は不幸です。社長は自己犠牲を払ってでも会社を守ってくれる、そういう社長がいる企業なら従業員も幸せです。 

公私混同を戒める強烈な倫理観を持つ

全身全霊を注ぎ込む社長は、公私の境界がわからなくなってしまうことがあります。“俺はこれだけ全身全霊を打ち込んで、家族もほったらかしてやっているのだから、会社のものは全部俺のものや。俺が何をしようと文句があるか。”と会社の私物化、公私混同が始まるのです。公私混同はいい加減な社長だからではなく、会社に対して全身全霊で打ち込んだ結果、自分で見境がつかなくなってしまったために起こることです。 

真剣に打ち込みながらも一方では公私の峻別(しゅんべつ)をはっきりつけるという、自分に対する厳しい態度が社長には必要です。従業員は黙っていますが、公私混同する社長には従業員はついてきません。 

公私をはっきり分け、全身全霊で打ち込んで大変な犠牲を払ってでも会社に貢献しているその姿は、従業員から見て美しいものです。彼らもこうした経営者についていきます。従業員以上に経営者が頑張っているからこそ、従業員にも厳しいことが言え、それをわかってくれるのです。 

盛和塾 読後感想文 第144号

きれいな心で描く

強い情熱は成功もたらします。しかし、それが私利私欲に端を発したものならば、その成功は長続きしません。それは、周囲の人たち、従業員、お客様、取引先やコミュニティーから受け入れられなくなり、人々が周りから去っていき、周囲の人々から協力してもらえなくなるからです。 

世の道理に対して無感覚になり、成功の要因であるその強烈な情熱を持って、強引かつ無軌道に進み始めるからです。成功を持続させるためには、描く願望、情熱が綺麗でなければならないのです。 

本当は本能の心を離れて、人類社会のためにというような、私心のない純粋な願望を持つことが望ましいのです。しかし人間は、肉体を持つが故に、完全に私利私欲を払拭することが難しいのです。 

せめて自分のためではなく、集団のためにという目的に置き換えるべきです。つまり置き換えることによって、願望の純粋さが高まるのです。そういうきれいな心で描く強烈な願望でなければ、天が叶えてくれないように思います。天は、純粋な、きれいな心で情熱を持ってことを成し遂げようとすると、天がその願望を叶えてくれるのです。 

純粋な願望を持って苦しみ抜き、悩み果てているときにひらめき、道が開けることがあります。それは“なんとしても”という切羽詰まった純粋な願望が天に通じ、潜在的な力まで引き出して成功へと導いてくれたのだと信じることが大切です。 

経営者の判断基準 

真のカリスマ性とは、人間として正しいことを主張し、指導すること

カリスマ性、それは人間として正しいことを正しく強く主張する。そしてそれを部下にわかってもらい、指導していく。これが正しいカリスマの姿なのです。間違ったことを言いながら、それでもついてきて欲しいと言うのは、未熟なリーダーなのです。所詮それではうまくいきません。間違ったことを言ったのでは部下はついてきません。 

日本がバブル景気の時です。不動産が儲かる、株式が儲かるというので、こぞって土地や株式に投資しました。 

ある企業で、土地が儲かるから投資をしようと社長が言う。ところが部下は“それはダメです”と言う。社長はせっかく儲かる方向にみんなを引っ張っていこうと思ってそう言ったのに、後から冷水をかけられたような感じがする。“俺の言うことを聞かない奴はけしからん”となる。本来なら社長が“あっちへ向かう”と言った場合、社員みんなが“社長そうですね”と言ってついてきて欲しい。ベクトルが揃うことでエネルギーになるのだから、全員でついてきてほしいと思います。しかし正しくないこと、無理なことを主張して聞いていくと言うのでは、やはり正しいカリスマでは無いのです。それでは会社を危うくしてしまいます。 

自分の会社を大きく成長発展したいと願う経営者は、自分の器を大きくすることが必要なのです。良い経営をする人間はどういう考え方をしているのか、それによって正しい判断ができる人間になりたいと思われます。“良い人のいる会社はきっと良いはずだ。良い人が住んでいる社会がきっと良い社会のはずだ。だから私自身良い人間になることを目指したい”と言われる方もおられます。良い人間で、正しい判断ができて、そして部下が理屈抜きに納得してついてくるようなリーダー、そういうリーダーを目指すことが、カリスマ性のあるリーダーの第一歩なのです。 

“うちの社長は若くて二代目のボンボンだけれど、最近違ってきたぞ”そこからカリスマ性のあるリーダーが生まれてきます。 

従業員に惚れさせる

稲盛塾長は三十五年前、京セラという会社を作っていただきました。稲盛塾長が開発したファインセラミックスという新しい技術で会社を起こしました。周囲にいたのも、科学の専門家が大半でした。若造の稲盛塾長は、仕事をしていくのに、相当レベルの高い人たちを使わなければなりませんでした。稲盛塾長よりふた回りも年上の方もいます。元の会社の上司も京セラに入社してきました。当時専務だった人は、稲盛塾長の父親と同じ年齢でした。こうした錚錚(そうそう)たる人達をまとめ、リードしていくことを求められたのでした。 

中小企業には力がありません。そんな企業が力を出すためには、なんとしてもみんなの考えを一緒の方向へ揃える、つまりみんなが一緒になって、同じ方向を向いてくれれば、少しでも仕事ができるわけですから、ベクトルを揃えなければならないのです。ベクトルを揃えるためには、相手に“なるほど”と思わせる説得をしなければならないのです。仕事の面でも人物の器の面でも“なるほどな”と向こうが同意し、納得してくれなければなりません。 

稲盛塾長は父親と同世代の人たちや、一回りも年上の人を部下として使わなければならないのでした。しかも何とかして皆の力を結集することがどうしても必要でしたから、年上だろうがみんなの前で叱り、説教もしました。 

朝礼ではみんなに集まってもらって“実は昨日こういうことがあったけれど、これでは困るのです。こうしてもらわなくてはいけません”稲盛塾長の父親ほども年齢が違う役員に“立ってください”といって説教したりしました。説教されるとその役員も辛いのです。 

朝礼が済んでからでも、その役員にさらに叱りました。“役員のあなたがみんなの前で姿勢をシャンとして私の話を聞いてください。“稲盛くんの言う通りや”とかしこまって聞いてください。役員自身がわかっているかわからないような顔をしていたのでは、他の従業員も聞いてくれません”“ですから、シャンとして私の話を聞いて欲しいのです” 

稲盛塾長は理科系の勉強はよくしていましたが、文化系の勉強はあまりしたことがなかったのです。ですからみんなを納得させようと思って、聞こえの良い言葉を使おうとする。誰かの受け売りで話をしても、いい加減な記憶しかない。“こうしなければダメだ”という時に、納得させるために、日常の言葉に加えて昔の立派な人の言葉を使って格好をつけようとしました。

何とかしてみんなに“稲盛君はちょっと違うぞ、この技術部長は大したものだ”と思ってもらいたいのです。恰好をつければ馬鹿にされます。それで一生懸命勉強し始めたのです。自分で自分を磨かなければ、カリスマ性など身に付かないのです。自分の周囲に自分を高めたいと思う人々と交わる、人間性を高めるための哲学書を毎日読む。 

自分を磨いていく、常に怠らずに自分の教養を磨き、知性を磨き、人格を磨いていけば、集団のメンバーがついてきてくれます。従業員の方々は純粋な素朴な人が多いのです。こうした人たちは偽物と本物を本能的に見極める力を持っているのです。一生懸命に自分を磨き、そして従業員に話しかけていけば、この人たちは必ずついてきます。 

相当知的レベルの高い従業員、パートの人たちも含めて、経営者であるリーダーに惚れてもらわなければなりません。 

惚れさせるためには自分を磨くことが必要

“人たらし”という昔からの言葉があります。戦国時代を生き延び、天下統一を果たした豊臣秀吉は、優れた人間関係を作り、人を説得する、人をたらし込む歴史上の人物です。 

人をたらし込むほどの人間性を持っていなければ仕事は大きくならないのです。まずたらし込むのは従業員です。従業員に惚れ込んでもらえることが一番大切です。従業員がリーダーである社長に惚れ込んでくれますと、従業員を引っ張ってベクトルを合わせて、目標に向かって進むことができます。 

しかし、インテリになればなるほど、惚れさせるのは難しいのです。素朴な人たちは、リーダーの人柄だけでも惚れてくれます。インテリになればなるほどそれは難しい。インテリにに惚れ込んでもらえるためには、インテリ以上に自分がインテリになることが必要なのです。そうすれば“あっ、うちの社長は俺よりはるかに優れた哲学があり、リーダーとして立派だ”と思うのです。そのためには自分自身を磨いていかなければどうにもなりません。つまり、従業員が尊敬してくれるような人とはどういう人なのか、それが盛和塾で学ぶことなのです。 

稲盛塾長は専門となるセラミックス分野、そして電気通信分野の知識は持っておられました。しかし会社を作ってからは、自分を磨くために、哲学書、宗教的な本をたくさん読んでこられました。書籍の七割くらいは宗教や哲学に関する本です。それを毎晩、ベッドに入り、一頁でも読むのです。“トップの器ほどしか企業が大きくなりません”というのは、そういう意味なのです。宗教や哲学の本を読み、日頃の仕事の中で学んだことを実践する。自分の心を磨き、少しずつ自分の器を大きくしていくのです。 

地味な努力を積み上げ、誰にも負けない努力をする

多くの中小企業と同様、京セラは二十八名の従業員でスタートしました。初年度の売上は三千六百万円でした。ひと月当たり、資本金三百万円と同じくらいの売上だったのです。こうした中小零細企業で一番大切な事は、なんといっても働くことです。第一番にすることは“誰にも負けない努力をする”ということです。このことは六つの精進の第一、誰にも負けない努力をする、と述べられていることです。 

“京セラはあんなに大きい世界的な事業をやっておられるのに、自分は田舎でこんな地味な仕事をコツコツやっているだけでうだつが上がるわけがない”そのために、“一生懸命に頑張る”と言われても、一生懸命になれない。あるいは逆に、“俺は大学も出ている。こんな小さい日常の仕事ぐらい簡単なもんだ”と逆に甘く日ごろの仕事を見てしまう。これではいけないのです。 

どんな偉大なことも、地味な仕事を一歩一歩の積み上げでしかありません。本当に些細な仕事の積み上げでしか偉大なことはできないのです。ただ一生懸命一生懸命に、気の遠くなるような努力を続けることしかないのです。 

世界最高峰のエベレストに登るのでも、麓(ふもと)から一歩一歩足で登らなければ登れないのです。“この一歩位では”とか“たった一歩じゃないか”と決して馬鹿にしてはならないのです。一歩一歩の地味な労力こそが大事なんだということを認識し、その上で誰にも負けない努力をするのです。 

“努力をしていますか”“努力しています”と返事が返ってきます。しかし“誰にも負けない努力”は、誰もできてはいないのです。夜中の十二時まで努力をしたとしても、他の人は朝の二時まで努力をしているかもしれないのです。自己満足する努力では努力のうちに入りません。誰に負けない凄まじい努力をすることが六つの精進の第一なのです。 

行動規範を道徳に置いた二宮尊徳

日本の学校には、よく薪を背負いながら本を読んでいる銅像が立っていました。二宮尊徳の像です。 

哲学者の内村鑑三が描いた“代表的日本人”という本の中に、二宮尊徳のことが出ています。日本人の素晴らしさを世界に紹介するため、内村鑑三が英文で書いたものです。その本の中で、代表的日本人として、西郷隆盛、二宮尊徳、上杉鷹山(ようざん)などを挙げています。日本語版も岩波書店から出ています。 

徳川時代、各藩が困窮を極めていた時、今でいう小田原、北関東で二宮尊徳は鍬(くわ)一本で荒地を豊饒な農地へと変えていくのです。江戸時代の動力といえばせいぜい牛か馬を使うくらいで、普通の農家では牛馬などを持っていません。人力のみです。

中小の藩は、財政窮迫を告げると更に重い年貢を課します。つまり増税です。農民が塗炭の苦しみをしているところへ、さらに増税を課したのでは、農民は土地から逃げていきます。村は、家は朽ち果て、田畑も荒れるがままに放置されていました。田畑も人心も荒廃しきっていたのです。その中に二宮尊徳は鍬一本で乗り込んで、村を立て直したのです。 

人間の力は大したものです。荒廃しきって荒れ果てた村を、二宮尊徳は立て直してしまったそうです。村人を説得しつつ、自分も鍬一つ担いで、朝は朝星をいただいて野良に出て、とっぷり日が暮れるまで仕事をする。それを続けて数年で豊かな村に変えていく。藩の財政再建に二宮尊徳の働きは大変な影響力があったのです。 

中小企業の経営者もそういう姿勢で仕事に当たっていくことが一番大事なことです。 

“スーパーでわずかなものを売っているから、些細(しさい)なものをやっているから、田舎でマーケットもそう大きくないから、こんなちびちびとやっていては本当に良くなるだろうか。こんな事は無意味ではなかろうか”と考えてしまってはいけません。 

京セラの場合も、稲盛塾長の仕事は焼き物でした。優秀な人たちが手をつけない分野だったのでした。開発したファインセラミックスにしても、開発当時はマーケットなどまだありませんでした。だから何か仕事がないか、探していかなければなりませんでした。それが、三十五年後の今は、国内一万四千人、海外一万四千人、合計で二万八千人も従業員を抱え、何千億円の売り上げを出す企業になるとは、誰もが考えもしなかったのです。想像もつきませんでした。一歩一歩努力したことが素晴らしい企業を作っていた礎なのです。地味な仕事を誰にも負けない努力でやり遂げることを忘れないようにするのです。 

二宮尊徳は努力を綿々と続けて、荒廃した村々を立て直していきましたが、その後の行動規範が“道徳”でした。道徳に反するような事は一切してはならないという彼の道徳観は、儒教からきたものが主体となっているそうです。 

二宮尊徳の生い立ち

彼は両親を早く亡くし、伯父一家に引き取られます。十歳にも満たない彼はそこで苦労するわけですが、どうしても勉学をしたい。伯父さんの家に厄介になり食べさせてもらっている。だから彼は昼間は精一杯伯父さんの仕事を手伝ってがんばらなくてはなりません。でも夜だけは自分の時間があるからと本を読み始めました。菜種油に芯をつけて、火をともして勉強していました。ところがそれを見た伯父は怒るわけです。“貴重な油なのに、お前が毎晩火をつけて本を読むとはけしからん。お前は本を読む必要は無い。農家の仕事を覚えればそれで良いのだ。”聞こうともしないでそう怒られると、誰でもひねくれてしまいます。ところが二宮尊徳は、素直に聞いたのでした。“なるほど、伯父さんの家に厄介になって飯を食べさせてもらって、置いてもらうだけでも本当に喜ばなければならないのに、伯父さんの家で油を使って火をともして勉強するなんて、確かに伯父さんの言う通りだ。”と思ったそうです。 

怒られた彼は、おじさんの家の裏にある荒れ地に目をつけ、そして休日をあげて荒地を開梱し、なたねを栽培します。秋口、それを村の油屋さんに持っていき、油に代えてもらいました。“今度は伯父さんの油ではないから、今度は怒られないぞ”と思ったのでした。 

おじさんは“その油はどうした”と言われて、自分で菜種を作り、油屋さんに油と交換してもらったことを伝えました。おじさんは“けしからん、うちの家に世話になっておきながら、お前の時間は俺のものだ。そんなことをするなら、なぜ俺の仕事を手伝わない”彼はそれを素直に受け入れ、菜種油を全ておじさんに渡しました。 

そして考えました。薪を取りに山へ行く時に、歩きながら本を読もうと思い立ったのでした。こうすれば、おじさんに文句は言われない。それがある銅像になったそうです。それぐらい素直な子であったからこそ、儒教に基づく道徳観を判断基準にするようになったようです。 

人間として何が正しいかを判断基準に置く

稲盛塾長は京セラという会社を作ってから、気の遠くなるような地味な仕事を、誰にも負けないくらい頑張ってきました。毎晩遅くまで働きました。そういう姿を見て、従業員もついてきてくれました。一方でついてこれない人は辞めていきました。 

多くの経営者は、人材が得られないとばかり思っております。だから今いる従業員をきつく叱ることができない。きついことを言えば、辞められる。だから腫れ物に触るような調子で従業員に接している。そういう会社が大半ではないでしょうか。それともう一つは、社長がどういう風に叱るか、従業員を叱り飛ばして、しかもその内容を従業員が納得するように説明することができない。要するに自信がないことが従業員に本音で話し、叱り飛ばすことができないのだろうと思います。会社と皆さんに惚れ込んでもらい、“この社長ならついていこう”という人たちの集まりでなければなりません。 

ですからそうでない人は辞めていきます。その人がいなくなって仕事の量が減って、事業が少し縮小したとしても構いません。頼りなくてもついてきてくれる人を雇って、頼りない仕事をする方が良いのです。 

従業員に向かって話をする。経営判断をするときには、人間として正しいと思うことを基準にして断固とした態度で話すべきなのです。それをベースにしても、人が辞める時はそれで良いのです。このとき、辞められるかもしれないと思い、自信がぐらついて曖昧なことを従業員に言ってはいけないのです。 

経営者は例えば、この取引はして良いか悪いのか、いろいろな局面で様々な判断を迫られます。営業から“値段が高いと言われました。どうしましょう”と言われる。“この値段でしか買わないと言われるなら、その値段にしよう”と言わなければならないこともあります。稲盛塾長も、こういうものを決めるときには、大変心配したのでした。その悩んだ結論が“人間として何が正しいか”“人間として正しいことを正しいままに貫こう”ということでした。商売で儲かるか儲からないかではなく、人間として正しいのか正しくないのかということを判断の基準にしようと決められました。 

今まで塾長は先述のように人文科学的なもの、社会科学的なものをあまり勉強していませんでした。学問的素養は何もありません。幼少の頃から学生時代に、両親や先生から教わったり叱られたりした“やって良いこと悪いこと”人間として何が正しいのかという基準にしたのです。 

稲盛塾長は小学六年生の時、当時不治の病と言われていた結核を患いました。伯父、伯母も結核で亡くなっていました。その甥の稲盛塾長が発病したのです。塾長も、自分も今に死ぬだろうと思っていたそうです。 

ある晴れた日、布団で休んでいたところ、隣の奥さんが、生長の家の谷口雅春さんの“生命の実相”という本を貸してくれました。このことが幸いしました。“もし興味があったら読んでごらん”と言われたのでした。小学六年の稲盛塾長は“生命の実相”をわらにもすがる気持ちで、貪るように読んだそうです。両親、先生、“生命の実相”から教わったり、学んだこと、それを基本として判断基準として経営をしてこられました。 

一つ目は、人一倍努力をすること、誰にも負けない努力を払うことです。どんな地味なことであろうと、地味なことを馬鹿にしないで一生懸命努力すること。 

二つ目は“人間として何が正しいか”ということを判断基準に置くこと。この二つの哲学に根ざした哲学を京セラではフィロソフィーとして伝え、こういう考えで形をしていくからついてきてほしいと伝えてきたのです。 

道徳に裏打ちされた西郷隆盛の倫理観

内村肝臓の書いた“代表的日本人”の中でも挙げられている、明治維新の大偉業を成した西郷隆盛(南洲)も素晴らしい哲学を持っていました。彼は明治維新を行う前に、薩摩藩の島津久光の逆鱗に触れ、二回も三回も島流しの刑に遭っています。最初の流刑地、奄美大島で牢獄に繋がれていた時、南洲は中国の古典をひもとき、勉強します。そして素晴らしい哲学、人生観を確立していきました。 

“命もいらず、名もいらず、位も入らず、金も入らずという人こそ最も扱いにくい人である。このような人こそ、人生の困難を共にできる人物である。またこのような人こそ、国家に偉大な貢献をすることのできる人物である”というくだりです。今の世相を見ますと、虎視眈々(こしたんたん)と地位を狙い、名を惜しんでいる、そういう人ばかりが群がっているから国が乱れるのです。 

新しく明治となったのに、偉くなった連中があまりにもお粗末で、哲学を持たない人たちばかりいるのを見て、南洲は憤慨して、後に野に下っていきました。その彼が持っていたのが“人間として何が正しいか”という倫理観でした。 

福沢諭吉のいう実業社会の大人(だいじん)

明治の思想家、福沢諭吉がいます。近代国家、近代工業国に向けてスタートを切った明治が始まりました。明治の若者たちは近代国家を形成した西欧諸国を視察してきました。封建社会であった日本の貧しさに比べ、西欧の資本主義社会の繁栄ぶり、そのあまりの違いに圧倒されました。西欧の視察から帰ってきた福沢諭吉は次のように述べています。 

“思想の深淵なるは哲学者の如くにして、心術の高尚正直なるは元禄武士の如くにして、これに加うるに小俗吏(しょうぞくり)の才を以てし、さらに加うるに土百姓の身体を以てして、初めて実業社会の大人(だいじん)たるべし”。 

実業社会の大人物は、いわゆる商売の技術を知っているかどうかでは無いのです。単なる商人とはまるで違うものです。実業社会の大人というのは、哲学者が持つような深遠なる思想を持っていなければならない。そして四十七士が討ち入りをした元禄武士のように誠実な心がなければならない。 

加えて袖の下をもらっていろいろ悪さをする下っ端役人のように気が利かなければならない。大体、気が利いて抜け目のない奴というのは商売気のあるやつです。それも才覚です。つまり小賢しい才覚という意味を込めています。 

加えて、朝から晩まで鍬を持って働いてもへこたれないような、土百姓のような頑健な身体を持ち、誰にも負けない努力をする。 

商売人というのはいい加減でインチキなものではなく、誠に素晴らしい心根を持っていなければならない。ずうずうしい、いやらしいのが商売人と思ったらとんでもない。真の商人というのはそうではなく、大人であるべきだと言っているのです。 

従業員から尊敬され、従業員をたらし込まなければならない、そのためには誰よりも素晴らしい心根を持っていなければならないのです。真面目ならば良いのかというとそうではありません。悪さをしかねない気の利いた抜け目のない才覚がいるわけです。ただし抜け目のないままでは何をしでかすかわかりません。そこでその才覚を正しく使うために、哲学や思想が必要なのです。 

気の利いた人ですと、すぐにごまかして悪さをします。“あの人は三十年も勤めていて、ベテランなのに、あんなことをしでかすとは思いませんでした”そういう商才、小俗吏(しょうぞくり)の小細工の才も要ります。最後に、土百姓の頑張りも必要だと福沢諭吉は言っています。 

道徳に準拠した立派な判断基準を持つ

二宮尊徳、西郷隆盛、福沢諭吉の話から、京セラの三十五年の経験からしますと、商売を伸ばしていくのには、一般にいわれる、気が利かないといけないとか、抜け目がないようではいけないとか、こういったハウツー物からは全く逆の遠い話のような気がします。もっとその反対な人間を作ることや、思想を高めることの方が大事なのです。 

古代インドの経典の中、ヴェーダの中にあるサンスクリット語で書かれた格言があります。“偉大な人物の行動の成功は、行動の手段によるよりも、その心の純粋さにある。”つまり心が純粋だから偉大な成功を成し得たのだと言っているのです。 

塾生の中には“企業はトップに立つ人の器までしか大きくならないと聞いています。私は器を大きくしたいんです。”という人がいます。トップの“器を大きくする”ためには、心に立派な判断基準を作ることです。そしてその判断基準を“人間として何が正しいのか”と定められれば、過ちを犯すことが少なくなります。先般のバブル崩壊でも、京セラは不動産、株式を一切やっていませんから、何の被害も受けていません。そういう意味でも判断基準を立派なものにしていく必要があるのです。 

経営理念を定めたきっかけ

もともと京セラは稲盛和夫が開発したファインセラミックスの技術を世に出すためにを作られたものでした。“今は創業したばかりの会社でうまくいっていないけれど、きっとこの会社を立派にして皆さんを幸せにしてあげるから、頑張ってついてきて欲しい”と皆さんに訴えていました。ところが新しく採用した人たちは“不安だ不安だ”とできたばかりの会社だからと言い始めました。 

“本年暮れのボーナスはいくらくれるのですか。来春の昇給は何%にしてくれるのですか。来年夏のボーナスはいくらなのですか。われわれはこれだけの昇給ボーナスもらいたい。来年も再来年もその翌年も最低でもこのくらいは保証してくれなくては困る。保証してくれないのなら、われわれは辞めたい。”十一人の高卒者が揃って辞めたいと言ってきたのです。 

その時に、稲盛塾長は二間の市営住宅に住んでいました。この十一人の若者を自宅に連れてきて、三日三晩話し合いました。 

”君なんかが補償しろと言ったって、保証できるわけがない。会社ができたばかりで、まだ本当にその日暮らしなのだから。一生懸命頑張って、きっと会社を立派にして、君たちを幸せにしてあげるから、それを信じてくれ。”

“そんなことでは困る。保証してくれ。約束をしてくれ。”

“約束などできるわけがないではないか。私自身が会社がどこまでどのように行くのかわからないのに、約束はできない。私を信じてついてきて欲しい。それも信じられないと言うのなら、騙される勇気を持ってはどうだろうか。一年、二年、私が騙すような男だったら、その時に辞めても遅くはないはずだ。君たちは高校出たばかりで遅くはないだろう。試しに騙されてみる勇気を持ってみないか。” 

結局、みんな残ってくれたのです。その時、京セラという会社は、稲盛和夫が開発したファインセラミックスの技術を世に問う場と位置づけたことを“しまった”と思ったのです。十一人に約束した事は、日本の終身雇用制みたいなものになってしまったのです。それは中に住む従業員を守っていくことが会社の目的になったことを知らされた事件だったのでした。 

しかし釈然としません。稲盛家は貧乏でした。稲盛塾長は毎月家族に仕送りをしていました。また両親は兄弟を厳しいインフレの中、育ててくれました。その両親にも楽をしてもらいたいと思っていたのです。自分の親兄弟も楽にしてあげられない男が、昨日まで赤の他人であった人を採用したばっかりに、その人の一生の生活の面倒を見なければならなくなったのです。 

稲盛塾長は“この会社は私の技術を世に問うための場として作ったという技術屋のロマンを潔く捨てて、京セラの目的を“全従業員の物心両面の幸福を追求する”としたのでした。 

失意の中で決めた会社経営の目的でしたが、自分でそう決めた以上、後は振り向かずに一生懸命それに向かって努力されました。 

美しい心で努力することが成功と光を呼ぶ

会社の目的を“全従業員の物心両面の幸福を追求する”と決めた途端、厳しく指導することに躊躇することがなくなりました。以前は稲盛和夫の技術を問う場としても京セラだったときは、従業員にも若干の遠慮がありました。しかし今度は“ボーッととしているんじゃないぞ。京セラをみんなの会社だから、いい加減に働くな”と言えるようになりました。 

“みんなの会社じゃないか、お前も頑張れよ”“文句を言うやつはもういらん。なんでそんな奴の一生の面倒を俺が見なければならないのだ。”一生懸命働きたいという人が集まり、その皆を幸せにするための会社ですから、辞めたい人は必要ないのです。 

会社の目的を不本意ながら失意の中で決めたのですが、でも全従業員の物心両面の幸福を追求することは、道徳的にも、哲学的にも、宗教的に行っても、素晴らしいことだったのです。自分の都合の良い利己的な考え方のときには、皆が反発します。しかしそれが逆にみんなを良くしてあげたいという美しい思いやりの心、利他の心であれば、みんなが賛同してくれるのです。 

付け足しで“人類社会の進歩発展に貢献する”は世のためですから、もっと良いことを言っているのです。 

美しい思いやりのある心を持ち、誰にも負けない努力をする。そうすれば、必ずその仕事、その努力が実ってきます。それどころか幸運もついてきます。世のため、人のためにやっておれば、自然とそうなっていく。これが自然の摂理なのです。 

経営者の責任と闘争心

世のため人のためにということで仕事をしていますと、本当に素晴らしい展開をしていきます。ただしこれは“自分を儲からなくても良い。よそが儲かったらそれで良い”と言っているのではありません。それでは会社は潰れます。 

二十ハ名の従業員を、いや翌年は五十名、再来年は百名の人を食べさせていくためには、前回儲かったから今回は損しても良いと安心しておられません。ましてや損などできるはずがないのです。百人みんなを幸せにしていくためには、凄まじい形相で商売をしていくことになります。従業員に還元してあげるには、儲からなければなりませんから、経営者には凄まじい闘争心がいるのです。 

商売というのは本当に生き馬の目を抜くようなものです。福沢諭吉の言った小俗吏(しょうぞくり)の才のように、商才があり、才覚があって、気が利いて、悪さをしかねない人がたくさん周りにいます。同業者もいます。油断すれば、何もかも失いかねないのが商売です。 

社長は自分一人だけではなく、百名の従業員に対して責任があります。きれい事を考えてきれい事になってしまって、同業他社に遅れをとってしまっては大変なことになります。俺の後には百人いるんだ。自分だけのことを考えている同業他社の経営者に負けてたまるものかと、根性を入れて頑張ろうと思うべきなのです。ただしその闘争、戦いは正々堂々と正しい判断のもと、正しい行動によってなされなければ、長続きしないことを肝に銘じておくことが肝要です。 

きれいな心というのは、自分が儲からなくても良いというものでは無いのです。百人もの従業員を幸せにしていくための心です。そのためには努力をして競争して、儲からなくてはなりません。 

経営者が立派になると、従業員、社会、国までもが立派になっていく

近代社会は、経済活動があってはじめて潤いのある豊かな社会ができます。その経済活動のもとは、付加価値です。付加価値を生み出す商業、事業があってはじめて、社会が豊かに潤ってきます。税金で国、地方の県、市、町、学校も支えられています。そのもとのお金はわれわれの経済活動です。事業している人達がいるからこそ、国があるのです。 

経営者は税金を納めながら、さらに従業員に給料を払っています。これが国の財政を支えているのです。その国を支えているのが中小企業なのです。“中小企業は大変だ、大変だ。”とよく言います。通産省や地方政府へ陳情します。しかし国は何もしてくれません。もし国が何かしてくれるとしても、それは経営者が納めた税金が返ってくるだけのことです。 

中小企業は従業員を雇っています。中小企業の経営者の言動は、従業員に投影されていきます。ですから、豊かで素晴らしい社会を作るのは、役所が立派だから、学校立派だからではありません。中小企業の経営者が立派になれば、経済も豊かになっていきますし、同時に社会そのものが立派になっていくのです。

盛和塾 読後感想文 第143号

リーダーよ、創造的であれ

リーダーは常に創造的な心を持っています。部下には新しい何かを求め、創造していくという考え方を植え付け、創造的な製品、サービスを考え、実践していくように指導していくのです。 

それは創造的な考え方を常に集団に導入していくことにより、その集団の持続的な進歩、発展が可能になるのです。創造的な企業、時代の要求に応え、世のため人のために一生懸命創造的な仕事をする企業は生き延び、成長発展していきます。 

ところが、リーダーが現在のあり方に満足していれば、その集団も現状に満足してしまい、さらにはいつしか退歩さえももたらしてしまいます。そのようなリーダーがいるなら、それは集団にとって最も悲しむべきことです。 

創造というものは意識を集中し、潜在意識を働かせて、深く考え続ける、またアイデアをテストしていくという苦しみの中からようやく生まれているものです。決して単なる思いつきや、生半可な考えから得られるものではありません。自分の心の中でじっくり考えを練らずに、突然ひらめきが沸くのをあてにしてはならないのです。本物の“ひらめき”は、誰にも負けない努力をし、意識を集中し、潜在意識を働かせることによって生まれるものなのです。創造的な心とは、持続した強い願望を追求し続けることなのです。     

リーダーは目標達成するために考え続け、いつも前向きに、必ず達成するという信念を持ち、努力を続ける人なのです。 

企業における自己革新ー京セラの新製品開発を通じて 

企業が革新的なイノベーションを起こすために

京セラが新製品開発についてどういった自己革新をやってきたかということ、また企業が永続的に成長発展を遂げていくために、自らを変革し続けることが大切だということを稲盛塾長は語られています。 

我々企業経営者は、どのような業種に属していようとも、常に熾烈な市場競争にさらされています。特にグローバル化が進展し、技術革新の激しい現在の経済環境においては、一瞬たりとも現状に甘んじ、気を緩めるゆとりはありません。 

企業は現状に安住し、とどまってしまえば、必然的に退歩につながっていきます。持続的な成長発展をするためには、自己革新を図る、つまり自ら変革をし続けるしかありません。 

京セラの歴史は、現状を否定し、未来に向けて自己革新を繰り返してきた歴史なのです。その革新のベースとなったのは、不可能と思えるような事業への果敢な挑戦であり、まだ世の中に存在しない画期的な製品の創造でした。 

それは、必ずしも世の中にそうした需要があったから、つまり既存の市場があるとわかって製品を提供していたわけではありません。まだ社会に需要はなくとも、革新的なイノベーションによって新しい需要を作り出し、新しい市場を開拓してきました。 

そうした革新的な企業が存在することで、新しい産業が育ち、新しい雇用が生まれ、経済社会が活性化していくと思います。 

一般的日本大企業は、改良改善による現場の延長線上にあるイノベーションは得意ですが、現場から飛躍した革新的なイノベーションは苦手だとされています。そもそも革新的なイノベーションが生まれにくい社会風土が日本の社会にあるからかもしれません。 

我々日本人は、普段の仕事の進め方にしても、ボトムアップ方式で、ベースから決めていくということが普通です。例えば新製品開発をする場合、まず既存のデータや文献を集め、また手持ちの技術を集めてきて、そこから可能性を追求するというボトムアップ方式に慣れています。 

しかしこうしたボトムアップ方式では、常識を超えた飛躍した新しい発想はなかなか出てくる可能性は少ないのです。 

企業における自己革新も同じで、企業が変革を遂げ、時代に先駆けて事業活動を進めていくときには、決して過去の延長線上やデータの積み上げではなく、過去から断続した自由な発想、現状否定が求められるのです。 

世界をリードする欧米企業では、データや既存技術の積み上げではなく“こういう思想のものを作ってみようではないか”とまずコンセプトを先にする。つまり概念そのものを先に置いて、仕事を進めていきます。その上で、そのコンセプトを実現するためにはどういう要素、技術が入るかと考える手法をとっています。これはボトムアップ方式に対するトップダウン方式なのです。 

トップダウン方式は、日本では非常に少ないのが現状です。自由な発想のもとで“こういうものをやってみたい”と提案しますと“それがいかに無鉄砲なことなのか”と他の会議の出席者から追求されることがあります。“わが社にある要素技術、技術陣の体制から見て、それはナンセンスだ。そういうものができるわけがない”といったような反応が返ってきます。 

そこで革新的な技術を開発していく場合も、企業そのものを新しい時代に合わせて自己革新する場合も、異端の発想を許容し、敢えて取り上げようとする社風がどうしても必要なのです。こうした“革新”を生み出す企業風土がなければ、“新しい製品を作ろう”“新しい市場を開拓しよう”といくら唱えてもなかなか新製品開発や新規事業展開が前進するものではありません。 

京セラにおける事例1 マルチフォームガラス 

唯一の製品が収束する危機に直面

新しく事業を開始するときには、既存の企業や事業とは差別化を図るために、革新的な製品やサービスを打ち出していくこと、創造的な仕事をすることが求められます。またベンチャー企業の場合でも、企業が成長発展していくことを目指すならば、絶えず創造的な仕事を続けていくことが求められます。 

それは多くの場合、創業者自身が“現在の製品、サービスだけでは時代の変換とともにやがて会社が立ち行かなくなる”という強烈な危機感を持っているのです。新しい製品を作らなければ、会社が倒産してしまうという強烈な危機感を京セラは持っていました。 

京セラの最初の製品は、稲盛塾長が前の会社、松風工業時代に開発したテレビのブラウン管の電子銃の支柱に用いられる絶縁部品だけでした。高周波絶縁性能に優れたフォルステライトという、稲盛塾長が日本で初めて開発した新しいファインセラミック材料を用いた製品で、京セラ発展の礎になったものです。 

しかしこのフォルステライトを使ってU字ケルシマという“単品生産”で京セラを創業したため、稲盛塾長は大変不安に思っていたのです。もしU字ケルシマの注文が途絶えたら、京セラは潰れてしまいます。 

このことは現実のものとなりました。U字ケルシマがマルチフォームガラスという別の絶縁部品に置き換わっていくことが明らかになったのです。マルチフォームガラスは京セラが創業時、一九六十年頃から欧米で使われ始め、日本でも東芝、日立、三菱電機などが導入することになり、京セラの納入先である松下電子工業も近いうちにU字ケルシマからマルチフォームガラスに切り替えるということでした。京セラ創業時の唯一の製品はわずか一年、二年で風前の灯となったのでした。 

松下電子工業からは“何ヶ月後にはマルチフォームガラスに切り替えていきます。京セラができなければ他社から購入するつもりです”と伝えられました。ここで京セラでは“できない”とはいえません。“京セラもマルチフォームガラスをつくります”と答えざるをえませんでした。 

あらゆる手を尽くして新製品を開発する

“京セラもマルチフォームガラスを作れます”といったものの、ガラスについての知識もなく、マルチフォームガラスを作る技術も設備も持ち合わせていませんでした。調査した結果、ガラスの原材料は非常に融点の高い硼珪酸(ほうけいさん)ガラスと呼ばれるものが使われており、その原料の比率も何とかわかりました。それらの粉末を混ぜ合わせて、ガラスの原料を作ることができました。 

来る日も来る日も何軒も東大阪のガラス製造会社を訪問し、“こういう組成のガラスを作ってくれないか”と必死にお願いしてみました。しかし“そんなガラスは溶かしたことがない”と断られました。ようやく原料を溶かす窯を、夜だけなら貸してくれるというガラス製造会社を見つけました。 

そして社有車スバル360に数十キロの原料を積み、夜、東大阪に持っていくことになりました。ところが実際に借りた窯に入れて温度を上げていくと、ガラスの原料が解けるところか、持参した耐火製容器である“るつぼ”の底が溶けてしまい、窯そのものをダメにしてしまうという結果になりました。硼珪酸ガラスは特殊な“るつぼ”を使わなければ溶かせないガラスだということがわかったのです。 

その後は“るつぼ”を何回も換え、原料の配合比率も何度も変え、毎晩のように東大阪に通って原料を溶かし、失敗を繰り返しながら試作品を作り続けました。 

こうした試行錯誤の末にようやく松下電子工業にマルチフォームガラスを納入することができました。このマルチフォームガラスは後に他社にも納品をするようになり、最盛期には京セラが国内需要の85%以上のシェアを占め、二00四年に生産終了となるまで、四十年以上という長きにわたって、京セラの経営に貢献してくれました。 

京セラは新しいことに挑戦していかなければ、生き残ることができないという危機感を全従業員が共有しておりました。常にクリエイティブであることが必然のものとして求められたのです。 

一般的には会社が得意とする事業に対し、その技術を磨いていかなければならないと言われます。つまり“選択と集中”、自分の得意分野に集中しなければ事業がうまくいかないとされています。 

しかし自分の得意分野の製品やサービスが、お客様からまた市場から不用と言われた時は、死に物狂いで生き延びる手立てを考え、社員の生活を守っていかなければならないのです。その時、お客様の要求に応えるべく、自分の会社を大きく方向転換し、お客様のニーズに応えることが必要なのです。京セラの場合、単品生産だけでは生きていけないという危機感が最初からありました。その危機感のため、あらゆる手を尽くして開発し、事業化したものがマルチフォームガラスでした。 

“現状に満足することが退歩につながる”という意識を持ち続けることを通じて、活力のある社風を作ることが大切です。 

京セラにおける事例セラミック多層パッケージ 

技術がなくても短期間の開発を成し遂げる

創造的でなければ生き延びることができないという危機感が社内に息づいているならば、世の中にないような常識を超える画期的なイノベーションを起こすことが可能なのです。 

中小零細企業であった京セラは、生き残るために、その時にはできないことでもできると言って注文もらいました。それでも無名の京セラに注文をくれる会社は限られておりました。製品のサンプルを持っていってもなかなか注文をもらえませんでした。それには日本に横行する系列企業取引という日本の商習慣も障害となっていました。京セラのような中小企業から買うのではなく住友系なら住友系、三菱系であれば三菱系、日立系なら日立系、そういう系列の企業から買うのが習慣でした。 

ところが、市場がオープンなアメリカに売り込みをかけて、アメリカの企業に京セラの製品を使ってもらおうと考えました。当時、アメリカから技術を導入していた日本企業が積極的に京セラの部品を使ってくれるようになるのではと考えたのでした。 

一九六十年代はエレクトロニクスの勃興期でした。生活に必要な“集積回路”、つまりICの技術が確立され、アメリカ西海岸シリコンバレーに続々と半導体関連企業が生まれていったころです。そしてこれらの企業が京セラに対して、半導体チップを保護するためのセラミック部品の引き合いを数多くいただくことができました。 

一九六九年、アメリカのフェアチャイルド社から新しいコンセプトのセラミック多層パッケージの引き合いを受けました。“シリコンは環境の変化に大変弱いので、外気から隔離して急激な温度や湿度の変化等にさらされないようにしなければならない。それで外からの電気信号が入ってくれば、二層の回路をめぐって、再び信号を外に引き出せるというものを作りたい。セラミックスの焼き物の中に、そういう構造を作りたい。つまりセラミックスの多層の回路を封じ込めたものを作りたい。そうしたパッケージはできないだろうか”と聞かれたのでした。 

全く新しい概念であり、どのように作れば良いか誰も知らないのです。しかもこの画期的な製品を三ヶ月で開発して欲しいという要請でした。どう考えても当時の京セラの技術水準をはるかに超えたものであり、“できません”と断るのが普通です。 

苦しみの中からひらめきが生まれる

アメリカのセラミックメーカーも薄いセラミック板を重ねて試作品を作ろうとしていました。稲盛塾長は“できるできない”を判断するような事はしませんでした。“どうすればできるか”を懸命に考えたのです。 

必死で考えている間にひらめきました。“チューインガムのようなものを作ったらどうだろう“と考えたのです。それまではセラミック粉末を圧力をかけて固める方法でものを作っていました。今度は“粘り気のあるチューインガムみたいなものを作ったらどうだろう”と考えました。その回路はタングステン粉末という耐熱性の高い金属の粉末で作ればどうだろうと考えました。 

京都にはシルクスクリーンという印刷技法がありました。フレキシブルなセラミックシートを作り、シートにタングステンをスクリーン印刷して電子回路のパターンをつくりました。次は積層したものを焼いていかなければなりません。 

このセラミック多層パッケージの開発が京セラが一大飛躍を遂げていくきっかけになりました。シリコンバレーの半導体メーカーはすべて京セラにパッケージを作ってもらうために日参してきました。インテルという会社を創業したロバート・ノイス博士は京セラまでこられて、京セラのパッケージを使っていただくことになりました。 

もとはといえば、“こういうもの作れないだろうか”とお客様から言われたコンセプトをベースにして、必死で考える中で生まれたひらめきがきっかけとなったのです。 

もともとは自分だけでは実現できそうにもないアイディアです。セラミック多層パッケージは誰一人としてできるとは思っていなかったと思います。それはなんとかして実現していこうと必死に努力を重ねた結果、セラミック多層パッケージが誕生したのです。 

純粋な心で必死に取り組むと、時代の要求が見えてくる

稲盛塾長は特別な才能を持っていたわけではありません。会社の将来に対して、危機感を持って必死に経営にあたる中で、新しいマーケット、また新しい時代の要求しているものに気づくことができたのです。 

純粋な心で必死に仕事に打ち込んでいる中で、神様がそっと手を差し伸べて“こっちの方向にマーケットがある。”“こうしたらどうだ”“こういう事業に進出すべきだ”と教えてくださったのです。 

純粋な心を羅針盤にして進む

革新的なことにチャレンジしていく場合、特にそれがまだ世の中にないもので、全くの未知の領域であればあるほど、頼れるものは何もありません。 

あたかも海図のない大海原を、羅針盤のついていない小船でこいでいくようなものです。そういう状況に置かれれば、人はえてして自信をなくし、足がすくむものです。その時に唯一頼りになるのは、自分自身の羅針盤です。 

企業が創造的な製品開発や事業展開を行う場合も同じです。誰もやったことのない新しい未開の分野に乗り出していく場合には、文献に頼るわけにはいきません。同業他社の例にならうこともできません。 

唯一頼りにできるのは、自分が持つ心の羅針盤です。その心の羅針盤に従って進むべき方向は自分自身が決めるしかありません。 

最も重要な事は、自分自身に対する信頼、自信を持つことです。自分を信じ、心から雑念妄念を取り払い、一切の邪念なく、純粋な心で目の前の障害に真正面から向き合うならば、必ず解決策が見つかり、成功へと至る道が開けてきます。 

純粋な心とは、物事を行うときの動機であり、私心がないということです。仲間のため、従業員のため、また会社の将来のため、平和で美しい心をベースにして、たとえ技術や資金、人材という“手段”が不足していたとしても、成功する確率は大きく高まっていきます。例えば、誰もが“こんな難しい事はとても無理だ。とても実現できないだろう”と思うような領域でも、純粋で美しい心の持ち主であれば、いとも簡単に困難を克服することができます。 

前述のように、日本経済が停滞している原因の一つは、革新的なイノベーションが生まれていないことです。その担い手は大企業ではなく、自由な発想で、積極果敢に挑戦する中小企業です。

盛和塾 読後感想文 第142号

不況はチャンス

不況になると、たいがいの会社は“耐えるしかない”とあきらめムードに支配されてしまいます。経営者も従業員もみんなただ頭を下げて、嵐が通り過ぎるのを待つというようになります。 

ところが不況は、新しい経済の局面です。周囲が変われば、カメレオンのごとく、自分自身も経営者も従業員も不況に合わせて変わり、新しいことに挑戦して、周囲が諦めている中で、誰にも負けない努力を重ねるのです。そして企業/事業を新しくしていくのです。それが後に大きな差となって現れるのです。 

好況時には、どんな会社にも注文が舞い込んで、あまり企業間で差が出ません。また日本の経済社会には、頑強な秩序があり、中小企業が自由に発展していくことが困難なことがあるのです。努力をしなくても注文が入ってくることによって、経営者の従業員もそれを当たり前と思ってしまい、新しいことに挑戦することを忘れてしまいがちです。 

しかし不況になりますと、そうした秩序が乱れ、中小企業の活躍する場が広がるのです。不況に耐えながら、営業は今まで以上に市場の需要発掘に努める。技術は新たな需要創造を図る気概を持って研究開発に努める。そして全社を挙げて徹底的な経費削減に努め、筋肉質の企業体質にする。 

不況時には、こうした企業の体質強化の機会を与えてくれるのです。 

不況は成長のチャンス-五つの方策は次の飛躍への足がかり

稲盛塾長は中国、瀋陽にて、不況に対する五つの方策を伝えておられます。

“不況は成長のチャンス”というテーマでした。 

中国経済は依然として七%に迫る経済成長を維持していますが、毎年二桁成長遂げていたかつての高度成長期と比べますと、大きく減速しております。 

中国東北部-瀋陽はこれまで鉄鋼業、石油・石炭など重厚長大産業の集積地として中国経済成長の担い手となってきました。ところが現在は、産業構造の転換期に伴う経済減速の影響を真正面から受けていると聞いています。この経済減速を不況と捉え、いかに対処していくかが今後の飛躍にとってとても大切です。 

海外に目を向けますと、英国のEU離脱決定に伴う世界金融市場の混乱、ヨーロッパ政治の不安定化が懸念されるなど、世界経済の下振れリスクが高まっています。 

つまり現在の不況に対処するとともに、きたるべき更なる不況に備え、正しい経営の舵取りを行っていくことが、われわれ企業経営者に求められています。 

不況を乗り越えて成長してきた京セラ

明るくポジティブな態度で難局を乗り越えていくということが大切です。不況が厳しければ厳しいほど、耐えて耐えてなんとしても難関を乗り越えていかなければなりませんが、その中でも悲観的にならず、明るくポジティブに、必ず乗り切れると、難局に立ち向かうことが必要です。その時“不況は成長のチャンス”であると考えることです。企業は不況という逆境を通じて、さらに大きく成長発展を遂げていくものなのです。 

京セラは五十七年の歴史の中で、ただ一度も赤字を出したことがないのです。順調に成長発展をしてきましたが、半世紀に及ぶ歴史の中では、幾度も厳しい状況に遭遇してきました。オイルショックによる不況、円高不況、バブル経済崩壊後の不況、リーマンショックによる不況と、様々な不況を経験しました。 

京セラはこうした不況を乗り越えるたびに、一回りも二回りも大きく成長していきました。こうした経験から、不況というものを“成長するチャンス”と捉えるべきだと信じています。 

企業の成長は一本の“竹”の成長になぞらえてみますと、不況を克服するたびに一つの節が作られるように思います。好況の中、景気の追い風に乗り、単純に成長していけば、“節”のない単調で脆弱な“竹”となっていきます。数々の不況を克服することで、たくさんの“節”ができ、次の成長への足がかりになり、堅固で強靭な企業が生まれます。 

不況に対する予防策ー高収益であれ

  1. なぜ高収益でなければならないか

不況を成長のチャンスにするための最も大切な事は、日ごろから高収益の経営体質を作り上げておくことです。高収益こそが、不況への最大の予防策なのです。 

高収益であれば、今日になって売上が減少しても、赤字に転落しないで踏みとどまれる“抵抗力”があるのです。高収益企業では、内部留保が増加しています。不況が長引き利益が出ない状態が続いても、耐え抜くことができます。余裕資金を使って不況で普段より安くなっている設備を購入するなど、不況でも思い切った投資も可能となるからです。 

兼ねてから、不況になる前から、高収益になるように全力を尽くして経営にあたるべきなのです。不況になってから高収益を目指すことは困難なのです。本来ならば、経営者は不況になる前に準備をすることが求められているのです。不況に対する予防策として、高収益経営を実現できているかが、まず問われてくるのです。 

稲盛塾長は“十%を超える利益率が出せないようでは、経営をやっているとは言えない”と社内外で述べておられます。 

製造業では注文が減り、作るものがなくなり、売上も減っていきます。当然利益も減少していきます。この時高収益企業で、利益率十%以上の会社であれば、売上が二十%ダウンしたとしても、利益を確保することができます。 

利益率が高いということは、固定費も少ないわけですから、売上が多少減ったとしても、利益が減少するだけで済みます。かねてから高収益の形ができているという事は、不況で売上が大幅にダウンしても、何とか利益を出していけるという底堅い企業であるということです。 

  1. オイルショックの不況下でも、雇用と利益を守り抜く

京セラは半世紀以上に及ぶ歴史の中で、不況による大幅な売上の減少を経験しましたが、一度も赤字に転落したことありませんでした。 

第一次オイルショックの嵐が世界を襲ったのは一九七三年十月のことでした。その影響を受け、世界的な不況の波が、京セラにも押し寄せてきました。一九七四年一月に、一月月額二十七億円の受注金額は、その年の七月には三億円弱にまで激減してしまったのです。半年で月次の受注が十分の一に減ってしまうほどの急激な景気変動に遭遇したのですが、年間を通じても赤字を出していないのです。 

それは独創的な技術で、他社にできないファインセラミック製品を量産するとともに、常日頃から経営の原則十二ヶ条、第五条、売上を最大限に、経費を最小限に努めて、三十%を超える高い利益率を誇っていたからでした。 

このような高収益の企業体質を作り上げた事は、雇用守ることにも大いに貢献したのです。オイルショックの大不況の時は、日本の大手企業でさえ次々と操業停止に追い込まれ、従業員を解雇するか、自宅待機をさせていました。こうした中でも京セラは雇用を守り通した上で、利益を確保していたのです。 

高収益を通じて得た利益を営々と内部留保として蓄えてきましたので、仮に赤字転落しても、しばらくは銀行からの融資を受けなくても、まだ雇用に手をつけなくても持ちこたえることができたのです。 

不況ともなれば、従業員たちは動揺します。“心配しなくても良い。大会社が次々と倒産していくような大不況になろうとも、京セラだけは生きていくことができる。例えば売上が二年三年ゼロになっても、君たち従業員に飯を食わせていけるだけの蓄えがある。だから一切の心配はいらない。みんな落ち着いて、さらに仕事に励もう。”と稲盛塾長は伝えました。これは経営の原則十二ヶ条の第一条、事業の目的意義を明確にする-従業員の物心両面の幸せを追求する、の実践なのです。 

  1. 大切なのは不況に耐えうる内部留保

内部留保が高いことについて、企業の株主資本利益率を重視する、いわゆるROE(Return of Equity)を重視するアメリカを中心とする投資家たちから“そのような内部留保を蓄える経営はおかしい”という意見もありました。 

自己資本に対し、いくらの利益が出たのかというROEを重視する投資家から見れば、いくら高い売上利益率(損益計算)を誇ろうが、内部留保を蓄え、自己資本が大きければ大きいほど“それだけの資本を使ってこれだけの利益しか出なかったのか”という、投資効率が悪いという判断をする人がいます。 

そのため、多くの経営者が“ROEを上げなければならない”と考え、せっかく蓄えた内部留保を使って、企業買収をしたり、設備投資をしたり、また自社株を購入し、償却したりして、自己資本を小さくし、短期的に利益の極大化を図る形に努めてきました。そうすればROEは高い値になっていき、アメリカ型の資本主義では、優秀な経営という評価を受けるのです。 

“京セラは自己資本があまりに大きく、ROEが低い。こんな利益をため込んでどうするのか。投資をしたり、株主還元をしたりすべきだ。”と考える投資家もおります。しかしこれは、ROE重視の考え方は、短期的な視点から企業を見たときの尺度だと言えます。 

今株を買い、値段が上がったらすぐに売れば良いと考えている人たちからすれば、確かにROEは高い方が良い。しかし長期にわたる企業の成長発展を目指す京セラでは、経営の安定が何よりも大切です。いかなる不況が押し寄せてきても十分に耐えていけるだけの備えが、どうしても必要なのです。 

高収益の形を目指し、内部留保を蓄積していくことが最も効果的な不況対策なのです。 

不況対策全員で営業する

不況時には全員がセールスマンでなければなりません。従業員はそれぞれの持ち場、立場でいろいろなアイデアを持っています。不況の時こそ、そのアイデアをそのままにせず、お客のところに持っていき、そのニーズを喚起することを全員で行うのです。営業や製造、開発はもちろん、間接部門に至るまで、全員が一丸となって持っているアイデアをお客様へ提案し、受注へと結びつけ、納入まで行う。こういうことを通じて、お客様から喜ばれるだけでなく、その当人自身もビジネスの全体が把握できるようになってきます。 

つまり営業の手伝いとして走り回るだけではなく、自分たちのアイディアを商品にして売るということを、全従業員が主体的に考えるべき時なのです。 

稲盛塾長は“全員で営業しよう”と提案しました。営業の全く経験のない製造現場の従業員たちにも“製品を売りに行こう”と呼びかけました。それまで人前で挨拶さえ十分にできなかった製造現場に張り付いていた人たちが、客先を訪ね、冷や汗をかきつつ、一生懸命に提案し“何か仕事ありませんか。何かやらせてくださいませんか。何でもやります”と必死に受注活動に努めたのです。 

これは思わぬ成果をもたらしました。ともすれば、製造と営業は対立関係に陥りがちです。受注が芳しくないと、製造は“営業が売らないからだ”と文句を言い、営業は“製造が売れる製品を作らないから売れないんだ”と文句を言い、互いに喧嘩します。 

ところが、自分が売る経験をしますと、製造は営業の苦労が分かり、営業は製造に感謝し、製造と営業の融和が図られ、より製販が協調したビジネス展開ができるようになっていったのです。 

えてして、有名なビジネススクール出身で、役員に就任した人の中には、お客様のところに行って頭を下げることを知らない人がいます。“商店の小僧”みたいに揉み手をしながら“注文をいただけませんか”と頭を下げていかなければならない。それがビジネスの基本なのです。 

営業の基本として“お客様のサーバントになる”“お客様のためなら何でもいたします”と、召使いのようにして、身を粉にしてお客様に尽くしていかなければ、不況時に注文をいただける事は絶対にありません。 

そういう経験をしたことがない人が、会社幹部であったのでは決して経営は成り立ちません。製造にいようが、経理にいようが、どの部門にいようが、他人様に頭を下げて注文を取る苦労をさせることが大切です。 

不況対策2 新製品開発に全力を注ぐ

  1. 斬新なアイデアを実現する好機

不況の時こそ新製品開発に全力を尽くすのです。普段は忙しさに紛れ、着手できなかった製品や、お客様のニーズを十分に聞くことができていなかった製品の開発を、積極的に推進していくのです。それも技術、開発部門だけではなく、営業、製造、マーケティングと、すべての部門が協力して、全社一丸となって、新製品開発を進めていくべきです。 

不況時には、お客様にも時間の余裕があります。何か新しいものを求めておられるはずです。その時積極的にお客様を回り、新製品のアイデアやヒント、あるいは今までの製品に対する要望や、クレームなどをよく聞いて、それを会社に持ち帰り、新製品開発や新市場の創造に役立てていくのです。 

現場の開発技術陣の中にも“ああいう製品を開発してみたい。こういう技術に挑戦してみたい”と日ごろから思っている人はたくさんおられます。しかし忙しいときには、なかなかそうしたものに手をつけることができないのです。しかし不況の時は、その時間があるのです。 

また不況時に斬新なアイデアを持ってお客様のところをまわれば、お客様のほうも手持ちぶたさにしておられますから、話を丹念に聞いていただいた上に、アイディアも出していただき、思わぬ受注につながり、ビジネスを大きく拡大することもできるはずです。 

  1. 新市場を開拓したセラミックガイドリング

京セラでは繊維機械用の部品を作っていました。ファインセラミックは固くて摩耗しにくい特性を持っていますので、高速で糸を走らせる紡績機械の部品として提供されていました。 

ところがオイルショックの時に、繊維機械が全く売れなくなり、京セラへの注文も途絶えてしまいました。そこで先述のように“全員で営業する”ことを始めました。また“新製品開発に全力を尽くす”ことに努めました。 

ある営業マンがある釣具メーカーを訪問しました。投げ釣りをするリール付きの竿がありますが、従来は竿のテグス、つまり糸が走るところに金属のガイドリングが使われていました。営業マンはそこに目をつけたのです。 

“当社にはファインセラミックスの技術があります。現在その技術を使って糸が高速で走る繊維機械に当社のセラミック部品を使っていただいております。お宅の釣竿のテグスが走るガイドリングを金属からセラミックに変えてみられたらいかがでしょうか。非常に適しているはずです。” 

釣具のガイドリングは、繊維機械のように四六時中糸が走り、すぐに摩耗するというものではありません。たまに釣竿を投げた時に糸が滑っていく程度です。お客様は“セラミックスにすれば高くなるし、そこまでの必要は無い”といいます。“いえ、セラミックスにすれば摩耗しないだけでなく、テグスとの摩耗係数が減ります”と訴えました。何度も通いつめて忍耐強く話を続けたようです。 

実際に投げ釣りでは、ガイドリングの摩擦係数が大きければ、テグスの滑り具合が悪くなり、あまり遠くまで飛んで行きません。また従来の金属リングでは、大物がかかった時、摩擦係数が大きいため、テグスがぽつんと切れてしまうことがあるのです。大物がかかった時、ものすごい力でテグスが引っ張られ、ガイドラインに大きなテンションがかかり、摩擦熱が起きるためテグスが溶けて切れてしまうことになるのです。 

釣具メーカーの役員の方が、営業マンの話を聞き、従来の金属のガイドリングにテグスを通し、負荷をかけて引っ張ったところ、すぐに切れてしまいました。セラミックスのガイドで同じテストをしたところ、テグスが切れませんでした。 

この役員の方は、セラミックスのガイドラインをつけた釣竿で、投げ釣りコンテストに出場し、優勝とげ、確信します。その後、釣具メーカーはセラミック製のガイドリングの採用を決定しました。 

この新製品は不況期の京セラの受注売上拡大に大きく貢献してくれるとともに、その後も継続し、今日は高級釣竿には全てセラミック製のガイドラインがつけられるようになり、全世界に普及しています。 

不況の時に新製品開発を進めるということは、慌てふためいて全く新しいことを始めるということではありません。自分たちが従来作っていたものを応用することで、新しい需要喚起していくことが充分できるのです。自社の技術、製品の延長線上にある新製品開発こそが、不況の時に取り組むべきことなのです。 

不況対策原価を徹底的に引き下げる

不況の時は原価を徹底的に引き下げることです。不況になると競争が激化し、受注単価を受注数量もみるみるうちに下がっていきます。その中で採算を改善するためには、受注単価下落以上に単価を徹底的に下げていかなければなりません。しかし日ごろからコストダウンに努めていますから“もうこれ以上は無理だ”と考えがちです。しかしそうではありません。“もうダメだと思った時が仕事の始まり”と考え、徹底的に原価低減、減らしていかなければなりません。 

人件費は簡単に下げることができませんから、一人当たりの生産性を上げていく工夫をする、あらゆる経費を徹底的に減らしていかなければなりません。 

“現在の製造方法が本当にベストなのか”“もっと安い部材はないか”従来のやり方を根本から見直し、思い切って全てを変革していくことが大切です。製造設備などハードの見直し、組織の統廃合など、ソフト面にもメスを入れて、徹底的な合理化、原価低減を断行していくのです。 

不況となって競争が激しくなり、売値がどんどん下がる中で、その下がった値段でも、利益が出るように原価を下げていく。ギリギリに売値が下がった状態でも利益が出る体質を作ることができれば、景気が回復してくれば、利益率は急激に良くなっていきます。 

製品のコストダウンを通じ、固定費変動費を下げて、事業全体の損益分岐点の軽減に努めるのです。そうすれば売上が半減しても何とか利益が出るという事業体質を作ることができます。再び売り上げが元に戻った時、従来にも増して高い利益率を実現することができるのです。 

不況の時こそ企業体質の強化を図る格好の機会です。好況時、注文がたくさんあるときは、その注文に応えることで精一杯で、原価を下げようと思っても、従業員も真剣に取り組めるものではありません。不況の時にこそ全従業員が本当に真剣になって原価低減の努力をするという機会が作られた、唯一のチャンスなのです。 

このように不況になり、原価低減に努めていく事は、苦し紛れの対策ではなく、後ろ向きの対策ではなく、さらなる飛躍を目指した積極的な経営改善策なのです。 

不況対策高い生産性を維持する

不況で注文が減り、作るものが減ってきたときに、従来のままの人員で少ない生産に当たれば、製造現場の生産性は下がり、職場の緊張した空気が弛緩してしまいます。こうした場合には、余剰人員を生産ラインから切り離すことが必要です。そうすることで、製造現場の緊張感を維持するのです。 

オイルショックの不況の時、多くの企業が雇用調整に走る中で、京セラは何とかして雇用維持していくことを決めました。しかし注文は、瞬く間に減り、従来通りの生産体制では生産性を高く維持することができません。また一旦効率が落ちた工程を元の状態に戻していく事は容易ではありません。 

京セラでは生産が三分の一に落ちたときに、製造現場の人員も三分の一に減らしました。そして残りの三分の二の人たちには、生産ラインから外れてもらい、製造設備メンテナンス、壁のペンキ塗りや花壇の整備など、工場の環境整備に当たってもらいました。また経営哲学を改めて根本から学んでもらう“フィロソフィー勉強会”を始めました。 

不況時の減産体制の中でも、決して生産性を落とさず、高い生産性を維持し続けたのみならず、日ごろからなかなか取り組めなかった環境整備や組織のベクトル合わせに取り組むことができ、次の飛躍への推進力となりました。 

三分の二の人員を製造現場から外して、工場を維持していくのは、会社に余裕がなければできません。高収益体質を通じて、十分な内部留保が確保されていたからこそ可能であったのです。 

不況対策5 良好な人間関係を築く

  1. 信頼関係の構築に意を注ぐ

不況は企業内に良好な人間関係を構築する絶好のチャンスです。不況になりますと往々にして労使関係に不協和音が生じることがあります。景気が良いときには綺麗事を言って済ませられたものが、不況という厳しい状況に直面し、経営者が厳しいことを要求するようになると、労使関係にヒビが入ってしまいます。 

例えば給与の一部カットなどを申し入れた途端に、従来は円満と思われていた労資関係が、一気に対立的なものに変化することがあります。そういう意味では不況は労使関係を図る“リトマス試験紙”のようなものです。 

苦しい局面を迎えた時こそ、職場や企業内の人間関係が問われてきます。本当に苦楽を共にできる人間関係ができているのか、職場の風土、会社の社風が真正面から問われてきます。 

そうすれば不況は職場の人間関係を見直し、それを再構築する絶好の機会と捉え、不況期にこそ、さらに素晴らしい職場風土を作るために努力を重ねることが大切です。 

経営をしていく上で、一番大切な事は、経営者と従業員の人間関係です。経営者は従業員のことを思いやり、従業員を経営者の苦労を慮(おもんばか)り、共に助け合っていけるような素晴らしい関係を作っていく、資本家と労働者という対立構造ではなく、労使が同じ視点から、ともに企業の成長、発展を目指していくような企業風土ができないかと努力を重ねていくのです。 

稲盛塾長はこうした企業風土を作り出すために、多大な努力を積み重ねてこられました。コンパと称して互いに気心が分かり合えるよう、膝を交えて酒を酌み交わす機会も出来る限り持つように努めてきました。 

このように日ごろから経営者は従業員とのコミニケーションをいろいろな機会を通じて図り、良好な関係を作るよう努力をします。しかしいざ不況となると、いいことばかりも言えないのです。 

“もっと働いてくれ、もっと経費を減らしてくれ。しかし給料は増やせない。またボーナスは出せなくなったから辛抱してくれ”と厳しいことを言わざるをえません。 

経営者は従業員との一体感があり、従業員も会社の経営を理解してくれていると思っています。不況の時こそなおいっそうの協力が期待できると考え、上記のように無理なことを従業員にお願いをしてみる。ところが従業員からの反発にあって社内の人間関係が全くできていなかったという事実を突きつけられ、唖然となります。 

不況という災難が押し寄せてきた時にこそ、みんなで力を合わせて不況を乗り切っていかなければならないのに、そういう時に従業員の心が離反し、会社が分裂し、ついには崩壊してしまうことにもなりかねません。 

会社の中に、そのような人心の乱れの兆候が少しでもあれば、素直に反省し、労使関係を再構築するために、どうあらねばならないかを従業員ともよく話しながら、自らも懸命に考えていくことが大切です。 

  1. 心と心で結ばれた京セラの労資関係

オイルショックの不況は京セラにも及びました。

稲盛塾長は労働組合に賃金カットを申し入れました。社長は三十%、係長で七%の賃金カットです。ベースアップの凍結の要請もありました。組合は労使が一心同体であることをよく理解し、賃上げ凍結の申し入れを了承してくれました。当時の日本企業では、賃上げ問題などで労使間に不協和音が生じ、労働争議が頻発していました。しかし京セラはいち早く労使が強調して賃上げ凍結を打ち出したのです。 

京セラ労組の上部団体は、京セラ労組の決定を批判し、圧力をかけてきました。京セラ労組は断固として屈せず、上部団体を脱会しました。 

その後景気が回復し、会社業績の向上すると、定期賞与を大幅に上積みし、また臨時賞与の支給にも踏み切りました。さらに一九七六年には、前年の賃上げ凍結分を加算し、二年分二十二%の昇給をし、従業員、労組の期待に応えました。 

このように不況を克服し、不況を通じて労資関係のゆるぎない信頼を確認することができたのでした。そして一九七五年九月、京セラの株価はソニーを抜いて日本一の高値となりました。 

京セラは、一つの予防策と五つの不況対策を着実に実践することで、数々の不況を克服することができたのみならず、その不況乗り切るために、経営基盤をより強固なものとして、成長発展を続けています。

盛和塾 読後感想文 第141号

人を育てる

人材育成は中小企業経営者にとって最も難しい問題です。東京商工会議所が実施したアンケート調査によれば、“売り上げ拡大に取り組む上での課題”という質問に対して最も多かった回答が“人材不足”であり、中小企業のおよそ七割の経営者が人材育成を課題に挙げているそうです。 

盛和塾で行われた経営問答においても、事業展開や多角化、採算向上などのテーマを抑えて、最も多くの割合を占めているのが人材育成や後継者の選定、育て方に関する質問でした。 

幹部社員を育成するには

  1. アメーバ経営による人材の育成

会社が小さい時は、経営者が全てを自分で見ることができますが、会社が成長し大きくなるにつれ、全体を一人で見ることが難しくなってきます。京セラの規模が大きくなっていくにつれ、稲盛塾長の考えを理解し、稲盛塾長と同じくらいの能力もあり、会社のために夜に日を継いで頑張ってくれるパートナーが欲しいと思ったそうです。

しかし、そういう人材は実際にはなかなかいません。特に中小零細企業ではそうした人間を社内で見つける事は容易ではありません。そこで自分の分身を増やしていこうと考えついたのが、現在のアメーバ経営の仕組みでした。 

大きな組織を見ていくことができないにしても、二十人〜三十人ぐらいの小集団に分けて、リーダーを任命し、運営を任せれば、十分に役割を果たすことができるのではないかと考えました。独立採算にすることで、経営者意識を持たせることができると考え、アメーバ経営という管理会計システムを構築してきました。 

  1. 平凡な人材を鍛える

アメーバ経営の導入によってリーダー育成が始まったわけですが、組織を任せられるようなリーダーが不足するという問題はすぐに解消されたわけではありません。また、人材を外部から確保しようとしても、中小企業には優秀な人材はなかなか来てくれません。 

ですから“あの会社に比べ、京セラに入ってくる人は鈍な人ばかり。これでは会社が大きくなるはずがない”と嘆いていました。“鈍な人”というのは、利発ではない、真面目だけが取り柄のような人物のことです。 

たまに才気煥発(さいきかんぱつ)で能力のある人が入社してくると“将来は会社を背負って立つ人間になってくれるだろう”と大きな期待を寄せました。経営者としては当然“鈍な人”よりは、こちらの利発で優秀な人材を立派な幹部として育てていきたいと考えました。 

ところが目先が利くため、辞めてほしくない優秀な人材に限って、すぐに仕事に見切りをつけて、会社を見限り、辞めてしまうものです。そして会社に残るのは最初から期待していない“鈍な人”たちばかりです。 

優秀な人材を確保することが難しいという会社の状況においては、会社に残ってくれた、いわば平凡な人材を鍛えることを通じて、自分の片腕、パートナーとなるような幹部社員に育てていくことが、経営者に求められてきます。 

  1. トップの率先垂範(そっせんすいはん)が人材を育てる

一般には、経営コンサルタント、外部の人から“社長、ワンマン経営では人は育ちません。人を育てるためには、もっと部下に仕事を任せるべきです”といったアドバイスをされます。そのことを聞いて、実際に部下に仕事を任せてみたものの、結局うまくいかず、悩んでいるケースが多いようです。こうしたアドバイスは、企業の経営されていない人が言うことです。実際に経営をしたことのある人は、決してそんな悠長なことは言っておられません。 

社長が怠け者で“あまり働きたくない。なるべく部下に任せて、自分は遊んでいたい”という人であれば別ですが、“会社を立派にしたい”“業績を伸ばしたい”と本気で思っているのならば、まず経営者が先頭に立って一緒に働き、部下と苦楽を共にする行動力が必要なのです。 

バリバリ働く社長の姿を見て、見よう見まねでその社長と同じくらいに仕事が出来るような人間が、社内から次々と育っていくようにしなければならないのです。 

とりわけ経営の原点十二ヶ条、第一、事業の目的・意義を明確にする-公明正大で、大義名分の高い目標を立てる、ことを実行しようとする経営者であれば、また業界ナンバーワン、日本一、世界一という高い目標掲げ、新しい事業分野に進出していこうという局面のときには、営業でも製造でも、開発でも、一騎当千(いっきとうせん)の猛者(もさ)を育てていくことが必要なのです。 

そのためには社長が戦線の第一線で陣頭指揮をとって後ろ姿で教育することが大切であり、我に続けと率先垂範するトップのもとでこそ、真の人材は育つのだと思います。 

  1. 京セラの海外進出における人材育成

通常、海外進出や新規事業の展開など、売り上げ拡大を図るにあたって失敗するのは、会社の要となるような幹部が出ていかず、“若い人”に“お前、行ってこい”と言って任せてしまうケースです。企業は人なりというように、新しい事業展開を図っていくときには、誰を指揮官として派遣するかで、成否が決まるのです。 

トップ自らが出ていくのが難しければ、せめて社長に次ぐくらいの猛者、あるいは最も信頼のおける幹部に新しい拠点に行ってもらうことが必要です。しかし一方で、トップクラスの人材が出て行ったために、本丸(本社)の事業が手薄になってはいけません。中小企業の場合、社長が信頼できる幹部というのは限られています。おそらく一人か二人でしょう。その片腕を失うことになれば、本丸は大打撃を受けてしまいます。不況などの経済変動が襲ってきたときに、手薄になって本陣が崩れてしまい、海外を支援することができなくなってしまうのです。 

  1. 半端者を立派な人材に育てる

稲盛塾長は、No.2 とNo.3を親会社に残し、海外などの新しい拠点には社長自身が先頭を切って進出していくことを考えたのでした。社長が外に打って出て行く際に、No.2 、No.3も連れて行ったのでは本丸(本社)が空っぽになり、その間隙をつかれると総崩れとなってしまう可能性があるため、本丸(本社)は、No.2 とNo.3に任せるようにしました。 

トップが出ていく時に連れて行く手勢(部下)は、本社では活躍できていない、“半端者”たちを集めて新しい市場に攻めてきました。“半端者戦法”と名付けられました。社長は最前線に行ったきりではなく、行っては帰ってきて、本丸の仕事を見ながら、また最前線に乗り込んでいって新しい市場開拓に挑むようにしました。そうする中で、本社にいるときは、あまりパッとしなかった人たちを最前線に連れて行き、一緒に戦い、苦楽を共にしながらトレーニングをしていくのです。 

社長としては大変な苦労ですが、しかし人の育成という大きなメリットがあります。今まで社内であまり活躍してこなかった人たちが、にわかに張り切りだし、成果を上げていくということがあります。米国、中国で新しい会社を作って事業展開し、激しい市場競争の中で生き残ることができれば、かつての“半端者”は一軍を率いる立派な大将に成長し、国内の本丸とは別に海外に新たな城を築きあげることになります。その過程そのものがまさに人材育成なのです。 

“半端者”を一流の人物に育てあげる事は、容易なことではありません。“半端者”たちを率いていくトップ自身が悪戦苦闘する中で育てていくのです。経営トップが刀を振りかざして、戦闘の最前線に立ち、敵を次々になぎ倒していくのを見て、“半端者”たちは竹やりなどの粗末な武器を持って、後から息を切らしながら走ってついてきます。そのように体力を装備も不十分な中で、実践を通じて戦い方を覚えると同時に、人間的にも成長していきます。“半端者”は経営トップの行動と後ろ姿を見て学んでいきます。 

このように経営トップと苦楽を共にした“半端者”は市場を開拓し、事業を拡大し、一つの城を築き、城主となって、本社にいたときの使い物にならなかった“半端者”ではなくなって、立派な人物に成長しているわけです。 

しかしこうして苦労しながら海外進出、新規事業を成功させ、人を育てることができたのは、本丸(本社)が高収益を維持し続けていたからです。ですから、新しい拠点を設けて攻めていっても、十分な補給を受けることができましたし、未熟な社員を前線に送っても、粘って頑張ってくれたのです。つまり本丸(本社)が十分な収益を確保していたからこそ、多くの社員に活躍の場を与えて、修羅場を経験させることを通じて、一人前の幹部社員に鍛えていくことができたのです。このように本丸(本社)の高収益があったために、稲盛塾長自身、経営トップとして事業が成功するまであきらめることなく、社員とともに徹底的に修羅場を戦い抜く覚悟を持つことができたのです。 

  1. 修羅場を経験させる

京セラでは、海外進出や新規事業への展開のみならず、日ごろの業務遂行においても同様であり、毎日の真剣勝負の中で、京セラの社員はたくましく育っていきました。 

稲盛塾長の出席する月次報告会では、凄まじいほどの質問を投げかけます。赤字だとすれば、その事業部長、子会社の社長を激しく叱責します。また注意します。その場にいる出席者でも怖がるほどです。新規事業にしても、子会社にしても、うまくいかないのは、本来ありえないと考えていました。うまくいかないのは、うまくいかないようにそのリーダーに問題があると思っていました。特にひ弱で、逃げ腰のリーダーに対しては“お前は敵が打ってくる弾が怖いために、こっちに逃げて来ようとしている。逃げてきてみろ。後から撃ってやるぞ。死ぬつもりで頑張らんか”と言ったそうです。 

このように厳しい言葉で叱責したのです。それぐらい自分を追い込まないと、困難な局面を打開できませんし、自分の殻を破ることができないのです。人は絶壁に立たされた時に初めて真価を発揮します。 

努力に努力をしても、どうしてもうまくいかない。本人の手に負えない場合もあります。その時は経営トップが勇気を持って撤退する決断をすることも必要です。窮地に追い詰めて、結局部下が玉砕してしまうことがあってはなりません。 

攻めて行く号令は誰にでもできます。しかし失敗して撤退するとなれば、トップにしかできません。最後の最後はトップ自身がすべての泥を被る。責任を取る覚悟があればこそ、未熟な人にも修羅場を経験させて育てていくことができるのです。 

京セラでは部下に場を与え、修羅場を経験させて鍛え上げていくことで、どんな困難にも真正面から立ち向かっていく、真の勇気を身に付けた立派な経営幹部へと育っていきました。 

盛和塾 読後感想文 第140号

ささいなことにも気を込める 

仕事ができる人は正しい判断ができるのです。正しい判断するには、どういう状況にあるのかということを鋭く観察する必要があります。物事の核心に触れるまでの、鋭い観察力がなければならないのです。 

この鋭い観察力を生むのは、精神の集中です。しかし急に精神を集中しようと思っても、なかなかできるものではありません。実は集中するということには、習慣性があるのです。ささいなことでも、注意を払って行う習慣のある人は、どんな局面でも集中できるのですが、そういう習慣のない人にはなかなか精神を集中することができません。精神を核心に絞れないのです。 

忙しい時にこそ、ささいなことにも気を込めて行うという習慣をつけるべきです。これを“有意注意”といいます。この日常の良い注意が、“いざ”というときの判断力を左右します。そして毎日トレーニングされた注意力と洞察力を身に付け、研ぎ澄まされた神経を持って、正しい判断ができる人“切れ者”といいます。 

努力を極める 

不況の時こそ気概を持つ

今はバブル崩壊後の大変な状況です。しかし不況に面しても、真面目に一生懸命取り組んでいれば、不況の方が経営しやすいと考える人もおります。事実、京セラの頃を振り返ると、不況が来るたびに、苦労を重ねながら発展していきました。 

ですから“不況でうまくいかない”と嘆くのではなく、“この不況の時にこそ”という気概で仕事をするべきなのです。 

一生懸命に働く     

  1. 凄まじい集中力で努力する

企業経営とは、実はそんなに難しいものではなく“一生懸命に働くことだけだ”と言えると思います。 

稲盛塾長のスケジュールはとても普通の人ではこなせないものです。午前中は社内の仕事、午後はお客様との会議、その後も会社の仕事で、夜八時、九時まで仕事をします。毎日分刻みのスケジュールで仕事をしております。眼精疲労なのか、字が霞んで読めなくなることもあるそうです。 

経営の原点十二ヶ条の中、四、誰にも負けない努力をするという一条があります。“私も努力をしています”という程度の努力ではありません。本当の意味で誰にも負けない努力をするという意味です。その努力には際限がありません。どれだけ努力したつもりでいても、その上を行く人は必ずいるはずです。極端に言えば、寝る間もないほど努力することになります。経営に限らず、研究、学問の世界でもどれだけ集中して取り組んでいるのかが全てなのです。 

誰にも負けない努力ができるのは、熱心さです。そして仕事が好きであるということです。ですから、恐ろしいほどの集中力で、仕事ができるのです。 

例え疲労困憊して倒れそうと言われていても、本人の顔色が必ずしも悪くなく、生き生きとしていることがあるのです。座禅を組む方もおられます。それは心を安らかに保ち、思い患うことを少なくすると、健康を維持することにつながるからです。誰にも負けない努力して、体が大変消耗していても、平然と仕事をできるようになります。 

比叡山の天台宗に“千日回峰(せんにちかいほう)”という荒行があります。千日間比叡山の山々を峰から峰へと回峰する修行です。もし途中で挫折すれば、それは死を意味し、自殺しなければなりません。千日回峰するお坊さんは必ず、白い装束をまとい、短刀を身に付けておられます。やり遂げた人は“阿闍梨(あじゃり)”と呼ばれます。 

午前二時起床、三時から回峰に出ます。食事は素うどん一杯、夜にはおかゆとお漬物と梅干しだけです。凄まじい粗食でありながら、峰から峰を、まるで猿のように軽い身のこなしで一日に何十キロも歩かれます。修行の最後には、比叡山を朝二時起床、京都の町まで降りて寺をめぐってから、また比叡山に戻ります。家に戻るのは夜の十一時ごろです。寝られるのは二時間位です。そのような生活をずっと続けるそうです。 

“千日回峰”は我々の想像を超えるものです。栄養学的には説明がつかないのです。それなのに素晴らしい顔色で続けられるのは、その心の心が安らかだからです。心が安らいでいると、想像絶する厳しい環境でも健康を保つことができるそうです。 

  1. 集中すると創意工夫が生まれる

経営の原点十二ヶ条の十、常に創造的な仕事を行う、とあります。誰にも負けないほど一生懸命仕事をすると同時に、創意工夫もしなければなりません。今のやり方で良いのだろうかと常に疑問を抱き、“今日よりは明日、明日よりは明後日”というように次々と創意工夫をしていくのです。 

体を使って働くことも一生懸命なら、考えることも一生懸命にするのです。間断なく知恵を働かせます。 

インドでヨガを執行された中村天風さんは、“有意注意”という言葉を説明しています。“人が生きている間いろいろなことに遭遇するが、意識を注ぎ、集中することが少ない。一瞬一瞬をど真剣に過ごし、何事にも注意を払いなさい” 

常に意識ある一点に向け、集中し続けると、意識が非常に敏感になります。人によっては、工場の機械音の中から故障を示す異常音だけを感じ取れるようになります。意識を集中することで、一定の音だけを聞き取り、機械の異常音がわかるようになるそうです。 

一生懸命に働き、一生懸命に考える。常に意識を集中させる。すると技術も、人材もいない零細企業であっても、次から次へと創意工夫が生まれます。自分には知恵がなければ、知恵のある研究者などに話を聞く、あるいはその人を左右するなりして知恵を外部に求めるという動きも、自然と出来るようになります。 

大企業で“優秀”と言われる管理職や、特定の分野での技術者で“切れ者”と言われる人は、ささいな仕事にも気を抜かず、と真剣に取り組んでいます。 

相談を持ちかけた時“ああ、わかった。それで良い”と軽くあしらう人がいます。しかし、どんな簡単なことでも軽く扱ってはいけません。“ちょっと待て”と立ち止まり、意を注いで、話をよく聞き、ど真剣に取り組まなければなりません。廊下ですれ違った時に、相談を始める人がいます。その時は、“集中して考えるから、後で来て。話をしよう”と伝えます。それは相手の意見を真剣に聞こうとするからです。 

  1. 有意注意を習慣化する

一生懸命に物事を考えるには、まず習慣づけることが必要です。問題が発生してから、突然深く考えようとしてもできるものではありません。意識を集中するにも、ある種の鍛錬と修行が入るのです。 

例えば、不況や突然的な事故が起きた時“会社をどうするか”とのべつまくなく考えなければなりません。二十四時間毎日考えなくてはなりません。しかし習慣化されていなければ、赤字になりそうだと思っても二時間と考えていられないはずです。会社では次から次へと問題が発生しますから、赤字のことを二十四時間考える余裕などありません。 

ところが集中することが習慣になっていると、様々な問題が起こる中で、一方ではそれらを処理しながら、もう一方の潜在意識で、二十四時間考え続けることができます。一週間でも一ヶ月でも考え続けることができます。そして解を見つけることができます。 

肉体的に一生懸命であるだけではなく、頭でも一生懸命に考え続ける。常に創意工夫をし、どんな些細なことも“有意注意”で向き合う。そのように習慣づけていくのです。 

  1. 従業員にも一生懸命になってもらう

従業員は“社長が自分の会社だから社長が働くのは当たり前。私はサラリーマンだから給料分だけ働こう”と一歩引いて考える従業員が多いと思います。 

従業員の社長と同じ気持ちになって、誰にも負けない努力をする。従業員の働く理由が“給料もらうため”という程度では、会社が立派にはなりません。一人でも二人でも社長と同じ気持ちで、ベクトル合わせ、誰にも負けない努力をする従業員がいるかどうかが重要です。 

そのためには、事業自体の目的は、従業員の物心両面の幸せを追求するという大義名分をはっきりさせ、“社長と一緒に仕事をすれば、自分のためになる。仕事が楽しい”と思わせることができればいいのです。 

“皆さんと家族を幸せにしていこうと考えています。社長である私と同じ気持ちで一生懸命働いてくれませんか”と経営の目的もわかりやすく伝えるのです。同時に、その仕事が社会貢献にもなっている、企業の存在は、社会のため、また世のため人のために役立っていると知らしめるのです。従業員の仕事の社会的意義を理解し、“こういう会社なら働きがいがある”と共鳴してくれるようにするのです。 

大義名分は従業員を引っ張るための道具と考えてはなりません。社長自身が一点の疑いもなく信じ、自分の信念にまで高め、また実践していくことが必要なのです。そうでなければ部下に見抜かれてしまいます。 

社長室には立派な社是(しゃぜ)や社訓が額に入れて掲げられているのに、社長がそれとは全く違うことを平気でやっている。“言っていることとやっていることがまるで違う。”朝礼で“一生懸命に頑張る。私も皆さんのために頑張る”と言いながら、“昼からゴルフに行って話にならない。これだからうちの会社はダメなのだ。”と言われている社長がたくさんあるようです。 

社訓、社是は社長である自分自身が本当に信じ、信念にまで高めなければなりません。自分が率先垂範することが大切です。 

  1. 一途な努力で将来が見える

ある時、二〜三人の経営者と一人の政治家との話し合いがありました。その時その政治家が“この前ある経営者と話をしていましたら、稲盛さんの話になりました。稲盛さんは遠視鏡を持っている、と言っていました。”と言いました。“遠視鏡とはなんですか”と聞いたところ“遠くが見える鏡、望遠鏡のことです” 

稲盛さんの打つ手は想像を絶します。例えば第二電電の打ち手は、郵政省、通産省の役人が考えることのはるかに先を行っています。役人の考えは全て現実の後追いですが、稲盛さんの考えは何十年も先を行っています。恐ろしく先の見える人だと話していました。” 

稲盛塾長は、そんなに先は見えていません。“私は真面目に、誰にも負けないほど、本当に骨身を惜しまず、肉体的に努力しています。そして凄まじいまでに頭も使い、考えています。たったそれだけのことです。” 

それからエゴ、利己を離れることで、先がある程度見えるのも事実です。利己を離れ、従業員、家族を幸せにしたいという点から、純粋な気持ちで、骨身を惜しまず努力をする。こうして澄んだ心で物事を見ていますと、先が見えるようになるのです。 

京セラではこの不況の中で過去最高の売上と利益を出しています。第二電電は十一年目ですが、売上高五千億円、税引前利益九百億円ほどです。 

盛和塾が目指すもの 

  1. 不況では売上より利益を追う

この不況の中、売上をなんとしても伸ばそうと、多くの企業がもがいています。このような逆境の中では、もがき苦しんでまで規模を大きくするのではなく、売上が減少する中で、いかにして利益を維持するかということに視点を切り替えるのです。 

確かに売上を増やすことで利益を増やすのが常道です。しかし売上を無理に増やそうとすれば、かえって問題を起こす場合があります。売上を伸ばすことに血眼になって足元を危うくするのではなく、どう利益を確保するのかに目を転じるべきなのです。売上が減った中で、どう生き延びるかに焦点を変えるのです。 

京セラではたくさんの事業部がありますが、すべて黒字です。売上が減少している事業部もありますが、赤字部門はありません。 

  1. 人材は群生する

“類は友を呼ぶ”“朱に交われば赤くなる”それは本当です。盛和塾入塾のきっかけは人に勧められてという人もあれば、稲盛塾長の本を読んで心惹かれたと、人によっていろいろです。それは縁というもので、摩訶不思議なものです。縁で集まった者同士が意識を触れさせ合う。そしてお互いに浄化されていくのです。 

人材が群生するのは、喧々諤々(けんけんがくがく)と議論し切磋琢磨するからではなく、その場に浸ることによって、人間ができていくからです。“相集(あいつど)う”ことが大変大事だと思っています。 

  1. ビジネスの大義名分を解いた石田梅岩

江戸時代、京都の亀岡に生まれ、若い頃は京都の呉服屋で丁稚奉公していました。京都に出て呉服屋で手代として努力を続けてきました。 

四十歳の頃、京都の黄檗山(おうばくさん)の禅僧の教えを受けて、修行を重ねて、悟りを開いたと言われています。呉服屋で一生懸命商売の道を勉強しながら、禅僧のお坊さんに師事し、悟りを開いたわけです。 

梅岩はその後、自宅を開放し、私塾を作ります。そこで説いたのが“石門心学”と言われる“商人道”でした。これが関西の中小企業の経営の座標軸になっていきます。 

江戸時代は士農工商という階級差別があり、商人は最下層とされていました。今でも銭(ぜに)を追うのは汚いという意識はいくらか残っています。江戸時代、商人に対する差別はさらに強かったようです。 

石田梅岩は“商いで利を求めるのは、武士が禄高を求めるのと同じで、卑劣なことではない。利潤を求めるのが商人道だ”と商人たちに解いたのです。 

江戸時代の商人は米を輸送する問屋業などで、利潤を得ていました。例えば百の価格で仕入れた米を別の場所で百二十の価格で売るというように、物を輸送するだけで利益を得るのは大変卑しいことだと思われていたそうです。梅岩は武士が禄をもらうのと同じことだと大義を説き、商人に自信を持たせようとしました。 

梅岩は商いに求められる“道徳”についても述べており、宇宙の心理や人間の本質にもとることをしてはならず、卑劣なことや、不正をしてはならないと言っています。古くから言われている“五倫”心、義、別、序、信、“五常”、仁、義、礼、智、信、を紹介しながら、商いには正しい方法があると教えたのです。 

さらに正直こそ最も重要だとも言っています。“商人と屏風はまっすぐでは立たない”と言われていたそうです。それは商人は少しインチキをしないと商売にはならないと思われていたのです。梅岩は“それは間違いだ。正直こそ飽きないで最も大切だ”と説きました。 

石門心学は、こうして京都の中流の商人を中心として広く大阪、関西一円の商人にまで伝わっていきます。商人ではなく、武士、農民、職人にまで広がってきました。 

  1. 日々の仕事で精進し、悟りを開く

石田梅岩は“悟りの境地”について触れています。“真の智を得るには、悟りを開かなければならない。それには執行を重ねることだ。そうすれば忽然と悟りが開ける”というようなことを言っています。おそらくここでいう修行とは、呉服屋の手代として苦労したことからして、精魂込めて仕事に取り組むことを言っているはずです。事業家、商人として生きる者にとっては、それが修行です。このように日々働きながら修行を重ねることで、悟りが訪れるのです。 

梅岩は“徒然草に書かれているように、聞くだけでは真の智は得られない。宇宙の真理は修行を重ねた結果、忽然と悟るものである。その喜びは親がよみがえった時以上のものである”とも言っています。 

毎日肉体的精神的にくたくたになるほど集中し、寸暇(すんか)を惜しんで仕事をする。その結果忽然として悟りが開ける。このように悟りを開いた時が、“将来が見える”という状態なのです。 

商人道に徹する中でも、最後は悟りの境地にまで至る必要があると梅岩は言っているのです。 

  1. 必要なのは経営者が心を高めること

京都には百年も二百年も続いている商家があります。その理由は戦災に遭わなかったこともありますが、それだけではないのです。 

長く続く商家には、家訓があるのです。その家訓は全てと言っているくらい、梅岩の哲学を家訓として固く守ってきたために、何百年も家業が続いているのです。 

江戸時代、華美な元禄文化の日本に、石田梅岩という素晴らしい人物が現れ、商人に倫理観と強い精神的支柱を与えました。浪花(なにわ)の商人を始め、関西で商人が繁栄していったのです。 

さらに石田梅岩の石門心学は、近代日本の資本主義社会の成立にも大きな影響を及ぼしました。 

ヨーロッパで資本主義の勃興を支えたのは、プロテスタントの禁欲的な倫理観でした。“働く事は周囲の人たちを幸せにする”と教えています。これは従業員を大事にすることにもつながっています。石門心学はこのプロテスタントの教えとよく似た影響を日本社会に与えたのです。 

今の日本に一番必要なのは、経営者が立派になることです。経営者は従業員とその家族を養っています。考え方が立派な経営者が多ければ、社会の安定と繁栄の礎になります。盛和塾は立派な経営者を育て、日本の社会に貢献するためにあります。

盛和塾 読後感想文 第139号

経営に打ち込む

真の経営者とは、自分の全知全能、全身全霊をかけて経営を行っている人のことです。どんなに素晴らしい経営手法や経営理論、経営哲学を頭で理解しても、真の経営者になれるわけではありません。命をかけるくらいの責任感で毎日を生き、その姿勢をどのぐらいの期間続けてきたかということで、経営者の真価が決まると思います。 

経営に対して、自分の全身全霊をかけて打ち込むという事は、大変過酷なことです。もし、そういう打ち込み方をするならば、自分の時間も持てないでしょう。体力的にも精神的にも耐えられないような重責が続くでしょう。しかし、そういう状態を経験し、乗り越えて来なければ、真の経営者としての資質は磨かれないのではなかろうかと思います。 

ですから、トップとナンバーズとの間には天と地ほどの差があると言われています。それは責任を感じて命をかけて仕事をしてきたか、それともサラリーマン的な存在として仕事をしてきたか、判断をトップにゆだねてきたかの違いだろうと思います。     

これから伸ばすべき力を見極める

盛和塾の目的 

  • 国や社会を支えているのは経営者

経営者は従業員とともに一生懸命仕事をし、利益を出して税金を納めます。その税金から公立の学校の先生や役人は給料をもらいます。それだけではなく、従業員の給料から所得税を払います。このように考えますと、その地域社会では、何百万円もの経済効果があるのです。 

  • 学ぶ事は優しいが実践は難しい

知っていることを実践するのは難しいことです。話を聞いたり、テープを聞いたり本を読んだりして知ることができますが、実践するのは容易ではありません。 

“学ぶ事は優しいが、実践が難しい。真剣さが足りないためだろうか”これは何故でしょうか。実践するためには、経営者の考え方が変わることが要求されるのです。それは自分の人格を変える、修正することが必要だからです。ですが人格を修正する、変える事は容易ではありません。 

例えば“人の話をよく聞きなさい”とよく言われ、自分も同意します。毎日の生活、仕事の中で、いろんな人とお会いし、話をするわけですが、その同意したことを忘れて“人の意見を聞かず、自分の意見をしゃべってしまう”こういうことがよくあると思います。一人になった時、“あっいかん俺はしゃべりすぎた。相手の意見を十分に聞かなかった”と気がつきます。こういうことが何回かあり、人は少しずつ学んで、実践することができるようになると思います。 

人格は簡単には変わりません。三つ子の魂百までというように、子供の頃からの性格、人格は百歳になっても変わらないと言われています。 

人格を変えるためには、繰り返し繰り返し反復する、盛和塾のテープを聴く、本を何度も読み、自分のものにする努力が必要です。 

  • 知識を見識、胆識へ高める

安岡正篤(まさひろ)先生は“知識は本を読んで学ぶことができます。大切なのは知識を見識にまで高めることです”と言っています。 

見識とは、知識が自分の理念信念にまで高まったもののことです。“自分はかくあるべき”という確固とした世界観にまで高まったものです。そうするためには、盛和塾のテープ本を繰り返し聴く、読み、熟考します。そうすることによって、自分の世界観ができてくるのです。 

ところが安岡先生は、それでも学んだことを実行するには至りません。胆識にまで高めていかなければならないとおっしゃっておられます。知識を胆識にまで高め、実行が伴うようにすることが大変大事なのです。 

第一ステップ:会社を立ち上げる

  1. 三種類の事業形態

最初のステップは創業なのですが、それには三つの事業形態があります。 

  • 技術力をベースにした創業

技術屋が自らの持つ技術をベースにして会社を始める 

  • 製造力をベースにした創業

ものを作る力をベースにして会社を始める。製造工程を知っており、そのノウハウで会社を創造する 

  • 営業力をベースにした創業

商品の流通のノウハウを覚え、事業を始める 

  1. 創業者に共通して求められる資質
  • 人一倍熱心であること

創業時は大変な苦労します。この時一番大切なのは、人一倍熱心であることです。中小企業、零細企業の社長は、何もして人一倍熱心に仕事をしなければなりません。青年会議所や地元の企業の会合に顔を出していたりする余裕はありません。

  • 人一倍の努力

人一倍の努力は二番目の資質です。

  • 豊かな発想力

溢れるような、豊かな発想ができることです。一つのことを発送すると、そこから次々と俺演奏できる、気が聞き、抜け目がないということです。

  • 仕事への集中力

仕事をするときは凄まじい集中力が要ります。ですから、仕事に関係のない余計な行動に手を広げてはなりません。

  • 物事を着実に進める根気

物事を一つずつ完成させていく姿勢が必要です。

  • 誰にも負けない闘争心

弱肉強食の資本主義社会で生き延びるには、誰にも負けない闘争心がいるのです。

  • 集団を守ろうとする勇気

経営は勝負の世界です。勇気のないのリーダーは、集団を不幸にしてしまいます。 

第二ステップ:人心をつかむ。①従業員と信頼関係を築く 

  • 会社員一丸となれば会社はすぐ立派になる

人の心をつかみ、まとめる力が要ります。技術力、製造力、営業力のいずれでスタートを切ろうと、必ず従業員がいます。会社を良くしていくためには、その心をまとめることが必要になります。 

“バブル崩壊後の危機感を訴えてもなかなか社員がわかってくれない。”“会社経営はこうしたいと従業員に行っても、どこまで伝わったかわからない”と不安の経営者の方々もおられます。 

いくら会社を良くしたいと思っても、社長一人の力は知れています。ところが、従業員が五人しかいなくても、一丸となって会社を立派にしたいと思えば、たちまち立派になります。 

  • 従業員に付き合い、苦楽を共にする

稲盛塾長の最初の就職した会社、松風工業では、会社と労働組合が対立しており、ストライキがよくありました。また給与の遅配がしょっちゅうありました。そうした中で松下電子工業からテレビのブラウン管の物件を受注しました。その時、研究開発にしろ、製造にしろ、人の心は一緒になっていなければ、良いものができないと思ったそうです。 

会社の経営状態も悪く、一介のサラリーマンでは、お金の力で心をつかむなど、できようはずはありません。 

そうした状況の中で取った方法が、部下と一緒に遊ぶ事でした。会社では共産党がアジテーションし、従業員の不平不満を煽り立てています。それを聞いた部下の心が荒廃していくのが耐えられなくなりました。そこで、部下をグランドに連れ出して野球をしていました。昼休み、稲盛部塾長は、ピッチャー、キャッチャーになりました。野球という遊びを通じて、部下の心を荒廃から守り、理解していたのでした。まず一緒に付き合うことです。一緒に遊ぶことから従業員に合わせていくのが大切なのです。 

不平不満が注文した部下を連れ、よくハイキングにも行きました。みんなで握り飯を作り、ハイキングに行きました。松風工業時代の大学を出てニ年目くらいの頃でした。 

  • 部下と連携してスト破り

労働組合は当時一番伸び盛りの製造部門に矛先を向けてきました。松下のテレビ販売が流星のごとく伸びていった時期でした。稲盛塾長は部下四〜五十人に向け“ストライキ破りをやる”と宣言しました。 

労働者の権利も守られず、給料もボーナスもまともにもらえない、劣悪な労働条件に対し、従業員は不満ですし、稲盛塾長も義憤を感じていました。しかし常に会社に不平不満ばかり言って努力もせずサボタージュしていては、会社が潰れると思ったのです。 

稲盛塾長の研究成果であるこの製品で会社を救いたいと思ったそうです。この製品は松下が既に認めており、将来も大変期待できます。これで会社を救い、従業員を幸せにすることができると考えました。 

“もしストライキをやるのであれば前もって言ってくれ。航空便でオランダのフィリップ社から材料を取り寄せる。その代わりに二度と君の所から買わない”と松下から言われていたのです。 

そのため、“スト破り宣言”をしたのでした。自分たちのお金を出し合い、缶詰、米を買い、部下と家に帰らず、工場に籠城し、そこでご飯を食べながら生産を続けました。 

会社の正門は赤旗が林立し、出入りすることができません。これでは納品ができません。そこで稲盛塾長の研究室の横の塀によじ登り、外に製品を投げ渡すことにしました。松下の人が塀の外で製品を受け取って帰って行きます。 

一介のサラリーマンの稲盛塾長は、何の報奨も出せない立場であり、部下の心を野球とハイキングでしかつかむしかなかったのでした。それだけで、あれほど強い団結を実現できたのです。これが従業員の心をつかむ、最も原始的な方法です。リーダーが自分から裸になり、一緒に遊んであげるのです。 

  • 必死に部下の心をつかもうとした創業期

“スト破り宣言”事件の後、京セラ創業となりました。松風工業のサラリーマン時代の頃から従業員と心が通い合う関係でありたいと思いました。“仲間の心を信ずる”“心をベースに経営する”。幾たびも辛酸をなめる中で、心が通じ合った仲間がいかに大切か、よくわかったのです。 

入社時の歓迎コンパ、忘年会、あらゆる機会を通して、皆と食事をし、お酒を飲み、ビールを酌み交わし、質素な弁当をつつきながらお互いを知ってもらおうと考えたのです。 

五人、十人しかいない会社でも、ハイキング、慰安旅行、忘年会や歓迎会をしようと言うと、何かと理由をつけて欠席する人がいます。しかし、本当ならこういう人こそ来てもらいたい。よく話をしなければなりません。“私は歳ですから、結構です。欠席させていただきます”という古手の従業員がよくあります。理由を聞いてみると“若い者達と観光バスに揺られて行っても面白くありません。それよりも友達とゴルフでもしていたほうが楽しいのです”と答えます。京セラでは、こうした事は許しませんでした。一人の欠席も許さず、何をするのも皆一緒にいるのは非常に大事なのです。 

第二ステップ:人心をつかむ。②従業員に大義を説く 

  1. 企業の使命を従業員に伝える

企業を立派にしていくには、経営者に従業員がついてこなければなりません。そこで遊びに付き合い、共に酒を飲み、一緒に弁当食べようと言うように、遊ぶのも働くのも一緒であることが大切なのです。 

実に、一緒に付き合ながら、自社の経営の目的を従業員に伝えていくのです。京セラでは経営の目的は“全従業員の物心両面の幸福を追求する”と決め、従業員に言い始めました。 

“私が従業員の皆さんと一緒に苦労し、会社を経営しているのは、皆さんとご家族を絶対に幸せにしてあげたいからです。私だけが成功して金持ちになりたいからではありません。今は小さな頼りない会社ですが、この会社は従業員みんなが物的な面でも心の面でも幸福になることを願ってつくりました。” 

このようにして企業の目的、使命を伝えていき、その実現のために必要な考え方、哲学を明確にし始めました。“こういう理念、哲学をベースにして会社を経営していく”と伝えてきました。 

従業員と苦楽を共にし、気持ちがわかるだけでは、集団として力を発揮できないのです。経営者が共に苦労し、一緒に喜んでくれる人だという信頼があれば、従業員はついてきてくれます。しかし“社長は尊敬に値する人だ”という気持ちが従業員の間で芽生えてくるレベルにまでならなければ、本当に強い集団にはなりません。尊敬してもらうには、会社を貫く目的、使命、哲学が立派なものでなければならないのです。 

会社を経営していくには大義名分が必要であり、リーダーが従業員から尊敬されることが不可欠なのです。従業員の気持ちを理解し、一緒に遊び、苦楽を共にするのが、人心を掌握する最初の段階です。その次は目的、使命、哲学を解き、“この人になら私は一生ついていっても惜しくない”という尊敬を集めるようになることなのです。 

  1. 自分自身から変わる

尊敬は、人から教わるのではなく、自分から作るものです。繰り返し繰り返し盛和塾のテープ、雑誌を通して、その考え方を自分のものにしていきます。 

学んだことを自分の行動にまで落とし込むようにならなければ、従業員からの尊敬は得られません。そうでなければ口先だと思われてしまうのです。素晴らしい会社の目的・使命を作り上げ、従業員に伝えるにしても、まず自分から実践できるように変わらなければならないのです。 

人が変わるのは命を落とすほどの衝撃的な経験をするか、繰り返し経験し続けるかどちらかです。 

従業員と徹底して話し込む、“最近のうちの社長は違うぞ。一生懸命勉強して変わりつつあるぞ”という目で見てもらうまで頑張ることです。 

運動会やコンパに必ず出席する。忘年会では“本当に1年間頑張ってくれた。ありがとう”と言葉をかけ、一緒に酒を酌み交わしてきました。熱があっても直接顔を合わせてお礼を伝えたいために、必ず忘年会には出席し、従業員と話し込んできました。 

しかし“社長はあんなことを言っているけど、我々を騙して信用させ、利用しようとしているだけだ”という従業員が必ずおります。良いことをいうほど、裏ではそう言われているものなのです。しかしこうしたニヒル、クールな従業員の心を揺さぶることが必要なのです。そのためにも、自分から捨て身になって話し込んでいくのです。 

  1. 商人の大義を解いた石田梅岩(ばいがん)

江戸時代は日本は士農工商の階級制がありました。そのような時代に京都に石田梅岩という人が、商人にも武士道と同じように“道”があると説いたのです。 

商売で利益を得る事は、何か悪いことであるように言われていました。“商人が利潤を得る事は、決して卑しいことではない。武士が幕府から禄高をもらうのと同じである”と説くわけです。自分の生き方に自信がなければ、卑屈な思いをして生きなければなりません。しかしこうした大義名分を得て、自信が生まれれば、確たる信念を持って仕事ができます。 

同時に、倹約、節約についても、コストダウンをしなさいと解いております。そして不正な儲け方をしてはならないと厳しく戒め、正直こそ商いの道であると説いています。 

企業の場合でも、自分自身が企業仕事に誇りを持つと同時に、従業員にも仕事に誇りを持ってもらうように仕向けるのが大事です。 

3ステップ:自社に足りない力を認識する 

  1. 次に必要な要素を身に付ける

技術力、製造力、営業力でスタートしたいずれの企業も、自社が次に身に付ける事は、自社が持っていない必要な要素を取り入れなければなりません。 

技術でスタートした会社は製造力を身に付ける必要があります。

製造力でスタートした会社は、技術力を身に付けることです。大企業の下請けをしてきた場合、そこから応用的な技術までマスターしていくのです。

営業でスタートした会社は製造力を身に付けることです。良い商品を得るには、仕入れするだけではなく、自社生産も選択肢に入れます。しかし自社で製造せず、下請けを使っても良いのです。その時、仕入れに力を入れ、有利な条件で仕入れる技術を磨くのです。 

技術でスタートした会社は製造力を加え、営業力を次第につけていきます。

製造力でスタートした会社は、技術力を加え、営業力を身に付けます。

営業力でスタートした会社は、仕入れ技術、製造力/自社生産を身に付け、技術力も身に付けます。 

4ステップ:管理力を身に付ける

最後のステップは、管理力を身に付けることです。採算管理や、在庫管理、売掛金管理、損益管理等です。経営者は管理能力を高めることで、パイロットがコックピットのインジケーターを見るように、自社はどこを飛んでいるのか、すぐわからなくてはなりません。 

以上のステップを考えた場合、一体自社がどの段階に来ているかを見極めることが大切です。例えば自社は管理力が不足している、技術力、製造力、営業力はそれぞれどういう段階にあるのか、検討し続けていく必要があるのです。