盛和塾 読後感想文 第六十六号

次代のリーダーに望む 

アメリカへ進出して来た日本企業や自分で事業を開始された経営者の方々は、異なった文化・人種の中で、頑張っています。経営者の方々の中には不安の中で、家族を養い、従業員へ給料を払い、アメリカの国に税金を払い、長年頑張ってこられています。 

盛和塾は経営の根幹を学ぶ場

盛和塾USAのメンバーの方々は、米国に出て何かをしようとされている方々で、大胆な方が多く、日本の規格に合わない規格はずれの人達だと思います。日本の社会よりも、オープンで、特別企画にとらわれない、チャンスが多いアメリカで夢を描いておられる方々が多いと思います。 

米国に来て、この国の産業界、社会の中で事業を行うということは、無理に海で泳ごうとしているようなものです。泳ぐことが出来ない、水の中で体を浮かすことも知らないという状態だったと思います。泳ぎたいのであれば、まずは水の中で浮かばなければなりません。クロールもあれば、平泳ぎもあります、犬かきもあります。どのように上手に海の中で泳ぐことが出来るのか、学ぶ必要があります。 

経営コンサルタントが書いた経営書は沢山ありますが、“実際に仕事をする場合にはこうするのです” ということを教わる機会は余りないと思います。その為に、わからないまま会社を作り、もがき苦しむことになります。 

アメリカの場合には、人種の違い、言葉の壁に加えて、法律も考え方も違います。人を使って事業をするには日本の何倍も難しいだろうと思います。こうした中で“経営とはこうしなければならない”“社員をまとめ、治めていくにはどうすればよいか”、リーダーとしてトップとして、どのような考え方で経営をすべきか、考えてみることが大事です。 

リーダーは人格者であれ

米国のシンクタンク、戦略国際問題研究所(CSIS)という組織の副理事長、デイビッド・アブシャイアさんが塾長の著書  “FOR PEOPLE AND FOR PROFIT” の中にある “リーダーのあり方” に感銘を受けられました。1999年ワシントンでシンポジウムが開催されました。その時、デイビッド・アブシャイアさんが講演されました。“ジョージ・ワシントンがアメリカの初代大統領として選ばれた最大の理由は、彼が素晴らしい人格者であったからです” と述べられました。“アメリカが独立をしたとき、合衆国議会は大統領に強大な権限を与えました。それは初代大統領が素晴らしい人格者であったからです。人間として問題があり、人格者でない者に強大な権限を与えてしまったのでは、アメリカの運命を危うくしてしまう。もしワシントンがそういう人間でなければ、おそらくアメリカ合衆国の議会は大統領というひとりの人間に強大な権限を与えることはなかったでしょう”リーダーとして一番大切なことは。その人が持つ人格であるということをデイビッド・アブシャイアさんは、ジョージ・ワシントンの例を引いて話されました。 

アメリカ合衆国の大統領は、議会で決めたことさえも拒否できるくらいの強大な権限を持っているのです。 

塾長はこのシンポジウムの中で、“人格は変わる”  というタイトルでスピーチをしています。 

“いくら素晴らしい人格をつくりあげたとしても、人格は時間と共に変化してしまいます。権限を持ち、環境が変わり、周囲が変われば、たとえりっぱな人格を持った人でも変わってしまう可能性があります。我々は、変節をしない、強固な人格を持った人をリーダーに選ばなければなりません。権力の座についた途端、傲慢に陥るようなリーダーを選出したのでは、その集団は不幸な目に遭ってしまいます” 

塾長は内村鑑三が著した “代表的日本人” という本の中から  “二宮尊徳”  を紹介しました。一介の農民でありながら誰にも負けない努力をし、田畑を耕し、荒廃した村々を次々に再建し、やがて幕府に召し抱えられることになった人物です。二宮尊徳は労働を通じて不動の人格をつくりあげ、それが立ち居振る舞いにも表われたそうです。 

素晴らしい人間性をもって、一生懸命に努力をしていけば、会社はどんどん立派になっていきます。しかし会社が良くなるにつれ、自分自身に自信を持つようになり、だんだんと傲慢になり、今までは素晴らしい人間性を持ち、謙虚で、努力家であったのに、次第に人間が変わって没落していく。 

リーダーに求められる資質

2001年に東京で、塾長は  “今問われるリーダーシップ”  というテーマで日米リーダーシップ会議を、デイビッド・アブシャイアさんと開催しました。塾長は冒頭のスピーチで、中国の古典の一節から  “一国は一人を以って興り、一人を以って滅ぶ”  からスピーチをはじめました。 

リーダーシップの大切さを述べられました。一人のリーダによって企業が発展し、一人のリーダーのために大成功をおさめた企業が無残にも崩壊していく様を近年、我々は数多く見聞きしています。なぜ、そのようなことが起こるのか。リーダーの資質を考えることによって、解明されます。 

リーダーの資質について哲学者の安岡正篤先生は、知識、見識、胆識という三識で表現しています。知識とは仕事の上で、物知りということです。これだけではリーダーには不足なのです。リーダーには見識が必要です。見識とは  “こうであらねばならない、こうあるべきだ” という信念にまで達した知識です。 

さらに、リーダーは組織の先頭に立ち、集団を導いていかなければなりませんから、統率力が求められます。つまり勇気、豪鬼、決断力、実行力が備わっていなければ、集団を率いていくことはできません。胆識が必要なのです。信念にまで高まった見識を持っていても、それを実行できる胆識がいるのです。信念を実行するには、見識に胆力を加えた、つまり実行力の伴なった胆識にまで高まったものを備えていなければならないと、哲学者安岡正篤先生は説かれています。 

このようなリーダーに必要な資質に加え、ジョージ・ワシントンのような人格者も必要と思います。中国、明時代の思想家、呂新吾先生が著した “呻吟語” の中に、リーダーに求められる資質が述べられています。 

“深沈厚重なるは是れ第一等の資質。磊落豪雄なるは是れ第二等の資質。聡明才弁なるは是れ第三等の資質” 

我々はともすると専門の知識にも長け、弁もたつ聡明才弁なる者をリーダーとして登用します。例えば、一流大学を卒業し、上級職試験に高得点で突破する、いわゆる秀才型の人たちが行政機関のリーダーになっています。呂新吾先生は、聡明才弁という能力は三番目の資質です。一介の役人としては必要で十分な資質です。しかし集団を率いていくリーダーとしては不十分です。 

集団を率いるリーダーは、あらゆる局面で集団を正しく導いていけるだけの勇気が必要です。豪胆で勇気のあるリーダーは磊落豪雄のリーダー、第二等の資質なのです。 

リーダーとして最も大切なことは、深沈厚重、考え深く、信頼に足る重厚な性格をもった人格者であることです。深というのは深山のごとき人間の深さ、沈は沈着毅然ということ、厚重は、重厚、重鎮と同じく、どっしりとして物事を治めるということです。 

リーダーとして必要なものは、一番目は人格であり、二番目は勇気であり、三番目は能力だと説いています。 

大義名分のある使命を明確にし、目標を掲げる

このような資質をもったリーダーが、集団を引っ張って行く為には、ビジョン、目標を掲げることが必要です。目標を達成することが、会社にとって、社会にとって、国家にとって、さらに人類にとってどういう意義があるのか、そのような根本的な問題にまで考えを進め、“誰もが共有できるような大義名分のある使命” を明確にします。 

目標を掲げるだけではなく、ミッション、使命を高々と掲げるべきです。 

中小企業の場合では、大そうなミッション、使命は必要でないかも知れません。簡単で、シンプルなものでもよいと思います。たとえば “従業員の皆さんを幸せにしてあげたいということが我社のミッションです。その為に、売上、利益をこういう風に伸ばしていきたいと思います。社長である自分がお金持ちになるために皆さんに働けと言っているのではありません。私も幸せになりたいし、私の家族も幸せにしてやりたいですが、そのためには、まず従業員の皆さんが幸せになってくれなければなりません。ですから、この会社を立派にして、皆さんを幸せにしてあげること、それがミッションなのです” 

“と同時に、従業員だけではなく、お客様、株主、仕入先、みんなを幸せにしてあげたいと思います。これは非常にレベルの高いミッションです” 

明確な判断基準を持つ

我々経営者はあらゆる面で、物事を決めていかなければなりません。従ってその都度、その都度の判断の時、経営者は明確な判断基準を持たなければならないのです。 

誰にも相談はできません。腹心の副社長、事務がおりますが、本当のところは、腹心であっても相談できない、それがトップの仕事なのです。 

自分の部下に、いろいろな悩みを打ち明け、迷っていることが、筒抜けにわかってしまったのでは、社長は務まりません。悩みを打ち明けることもできず、自分で物事を決めていかなければなりません。 

盛和塾の中では、苦労している経営者同士、食事をしたり、お酒を飲んだりして一晩話して過ごす、そして英気を養い、会社に帰って行く。これが盛和塾の例会だと思います。 

明確な判断基準として、“人間としてやってよいこと、悪いこと”  を判断基準として京セラはここまでやって来ました。嘘をつくな、正直であれ。欲張ってはならない。つまり、プリミティブな判断基準ですが、この原理原則を守って京セラは、こんにちまで企業として道を踏み外すことなく、発展し続けてきました。 

考え方が人生と仕事の結果を左右する

塾長は、大学受験にも落ち、就職でも苦労され、人生と仕事の結果 = 考え方 x 熱意 x 能力という人生方程式を考えられました。 

能力についてはなかなか変えることはむずかしい面があります。頭のいい人は能力も高いと言えます。 

しかし熱意は本人の努力次第で変えることができます。自分には能力がそれほどないが、熱意だけは誰にも負けないという人もいます。それこそ、経営者の中には、年中働きづめで、休みをとったことがない人もあります。 

“考え方” とは人間性、思想、哲学、あるいはその人の人格を投影したものです。考え方が悪い方に向いていますと、すぐれた能力もあり、誰にも負けない努力もしていたとしても、悪い結果になります。例えば、自分のコミッションを増やすため不正をしてしまう、不正を犯してでも一生懸命努力をする、それは自分のコミッションを増やす為であり、後日不法行為として処罰されます。 

道徳・倫理を軽視する今の日本

日本では、立派な考え方を持つようにしなければならないのにも関わらず、最近では、学校でも家庭でも教えていません。道徳や倫理を学校で教育するのがいいと考える先生もいないし、両親も自分自身が教えられていないので、子供に教えることができないのではないでしょうか。日常の生活の中で、食事の時、人間として生きていくための規範が必要なのだということを本当に子供の頃から教えていくことが大事です。子供の学校であったこと、いじめがあった時のことを子供に語らせる、あるいは会社であったことを食事の時に解り易く話すとか、日常の生活の中で、道徳、倫理を語る、人としての道を話し合うことが一番有効な方法だと思います。 

戦後、日本の教育において、“民主主義、自由主義の社会では、考え方や生き方は個々人の自由であるというのが原則である”とされてきました。 

たしかに、どんな考え方をしても自由です。しかしその自由な考え方の結果については、あなた個人が担わなければならないのです。結果に対して、あなたが責任を全てとらなければなりません。あなたの自由な考え方から派生した結果に対して、誰も支援をしてはくれないのです。 

会社には、その会社の使命、ミッションがあります。その使命、ミッションに基づき、目標が定められています。その目標を達成するのに多くの人の協力が必要です。その時、使命、ミッションを理解し、目標を共有し、同じ考え方で協働していくことが必要なのです。 

その為に、京セラでは機会を把えてはコンパをして、京セラフィロソフィーの話をしてきました。食事をし、お酒を共に飲んで考え方の浸透をはかってきました。教育のある能力のある従業員は“考え方は自由でしょう”と言い出します。賢い人は沢山勉強していますから、反論して来ます。こうした反論に対して、ねばり強く話し合っていくことが経営者の大事な仕事なのです。 

若い従業員にとっては考え方が重要だということがわからないのです。立派な考え方をすれば、個々人の生活・人生はたいへんうまくいくはずなのですが、今の日本では考え方が軽視されていると思います。 

経営者の考え方が会社の成長を決める

京都の祇園にメンバー制のサロンができ、塾長はその会合に出席していました。その時塾長は“会社経営とはこうでなければならないと思う” と一杯飲みながら話していました。

ある会社の社長は“私はそうは思わない。こうあるべきだと思います” と反論してきました。この社長は東大卒で、都銀勤めの後、二代目社長になった教育のある、頭の良い人物です。

“私は稲盛さんのようには思わない。京セラは厳しすぎるのじゃありませんか。私の会社は、部下に親しくしているから、従業員も私になついてくれています” 

これを聞いていたワコールの塚本社長が烈火の如く怒られたのです。“おまえは何を言っているのだ。私はこう思うとか、会社経営はこうあるべきだと言っているが、おまえは、稲盛君と対等だと思っているんじゃないか。お前の会社と京セラとを比べてみろ。おまえの会社はお父さんが作ってくれたものではないか。京セラは稲盛君が27歳の時に、徒手空拳でつくった会社だ。京セラはお前の会社の何倍という大きな会社になっている。その立派な実績を持った男が、私はこう思うと言っているんだ。それを素直に黙って聞けよ” 

経営理論としては、たしかにいろいろな考え方があります。しかし、その考え方でやった結果がどうなったかという証明がなければ、議論にならないのです。“議論のための議論では何の結果ももたらされない。おまえのその考え方の会社の姿と、稲盛君の考え方の結果生まれた今の京セラでは、比べるまでもないような差がついている。そんな二つの考え方を比べても意味がない” とワコールの塚本社長は言いたかったのだと塾長は思われました。 

目ざす山によって 考え方のレベルが変わる

企業経営は山登りに例えられます。創業当時の京セラは厳しい経営を強いられてきました。一生懸命、一心不乱になって、経営という山を登っていました。ふと振り返って見ると、京セラの従業員は、アゴを出し、フラフラになって、だいぶ離れたところを歩いています。なかには、こんな厳しい社長にはついていけない、落伍していく人もいます。その部下たちの姿を見て、ゆっくりとした歩みに変えようか、もっとラクな生き方をしようかと思ったそうです。 

京セラをセラミック業界では世界一の企業にしようと目標を定めていました。山登りに例えるなら、何千メートルもあるような垂直に切り立った岸壁をよじ登って行くようなものです。垂直登攀をしているが社員も恐れて辞めていく人もいます。みんなが付いてこれるようにラクなルートで登ってみることも考えました。しかし裾野から緩やかなルートをとり頂上を目指そうとすれば、はるかに道のりは遠くなってしまう。それでは、何合目にも登りきらないうちに一生を終えてしまうのではないかと考えました。 

普通の人はそういう歩き方をして、人生を終えようとしたときに、“もっと高く登りたかったが、三合目しか登ることができなかった。オレはオレなりに頑張ったから、これでいいではないか”なかには迂回路をとっている途中で、頂上への道を失い、途中落伍してしまう人もいるだろう。塾長は、“真上にあるいただきを見据えながら、垂直に登っていこう” と思いました。 

唯、それでは誰もついてこなくなるような気がする。寂しい思いをしたそうです。その時、奥さんに悩みを打ち明けたそうです。“みんなはついてこないかもしれない。しかしオレは自分の決めた道を上っていきたいと思う。おまえだけは必至でオレの尻を押してくれよ” と塾長は言われたそうです。 

厳しい山を登るためには、準備、トレーニング、それに相応しい  “考え方” を自分で作っていかなければなりません。立派な会社をつくろうと思えば、面白おかしい、楽でいい加減な考え方では駄目なのです。