盛和塾 読後感想文 第六十八号

自己犠牲を払う勇気を持つ 

すべてのリーダーは、喜んで自己犠牲を払う勇気をもっていなければなりません。集団として何か価値のあることを成し遂げようとするには、大変なエネルギーが必要です。エネルギーには、時には時間が必要です。集団の為に使う時間を作る為には、自分の家庭団らんの時間を削ることが必要かも知れません。会社経営の場合ですと、資金繰りの為に、銀行借り入れの為の個人保障もしなければなりません。あるいは、自分の給与をあきらめなければならないこともあるでしょう。部下が起こした事故の為に、お客様へ、おわびに行くこともあります。部下を守る為には、リーダーは全力を尽くして、自己犠牲をものともせず、立ち向かっていくことが必要なのです。 

職場環境を改善していこうとする場合、それはリーダーの都合のためではなく、そこに働く人々の大多数の為、またはお客様の要望に応えるためのものでなければならないのです。リーダーが自分の都合のよいことを考えて、職場を変えていこうとしますと、部下も部下に都合のよい職場にしようとしてしまうのです。部下も自分勝手になり、誰もリーダーについて行こうとはしません。リーダーは家庭の主人です。部下はその子供です。子供である部下は、家庭のリーダーである親の後ろ姿を見て、まねをします。 

リーダーの自己犠牲を見た部下たちはリーダーを信頼し、尊敬してすすんで職場の協調と規律、そして会社の発展のために貢献するようになるのです。それを見たリーダーは、自分自身の犠牲の大切さを痛感し、自分の人生に生きがいを見い出します。 

経営者として身につけるべき人間性 

企業は誰のものか

  1. 企業は株主だけのものではない

我々を企業経営に駆り立てているものは、一言でいえば “欲望” です。事業をもっと大きく立派にしたいし、もうかる企業にしていきたいという “欲望” が原動力なのです。 

アメリカ資本主義を見てみますと、人間は欲望のかたまりだと考えられ、“自分の欲望の赴くままに事業を拡大したい、金をもうけて立派な家をつくりたい、贅沢をしたい” というのが動機となり、経営者たちを駆り立てているのが、アメリカ資本主義の現状です。 

会社法上でも会計学上も、株主は企業の所有者であり、株主は会社の方向性、資産の処分、借入等について売却、買収等の最終権限を持っています。従って会社は株主のものであると主張されています。 

しかし、会社の決算書は、資産・負債・資本・損益を会計原則に基づいて表示されていますが、会社にあるものは単純に数字で表せないものが多いのです。例えば経験のある優秀な従業員、お客様。仕入先、経営者の個人的な対外との人間関係、会社に勤めて働いている従業員や役員の長年つちかってきた立派な哲学・思想等です。 

そうしてみますと、会社は単純に株主のものだとは言えないのです。

従業員の協力を得なければ会社の価値はゼロと言っても過言ではありません。お客様も会社の価値観を高めてくれています。お客様あっての会社です。仕入先あっての会社です。ですから、会社は株主、従業員、お客様、仕入先のものなのです。会社は株主のものだけではないわけです。 

  1. 株主に踊らされる経営陣

アメリカの経営者の給与は非常に高くなっています。株主は経営者に伝えます。“会社の利益を上げれば、その10%は経営トップの数人に支給します。それからストックオプションを作ってあります。株価が上昇すれば、莫大なキャピタルゲインを入手することができますよ” 

会社の経営は、これら数人の経営陣の弁才で、利益を生み出すと考えられているのです。ですから、従業員の給与はなるべく低くおさえ、会社の利益を最大限にしようとするのです。 

アメリカの株主は、会社の利益はすべて株主に属し、自分達はオーナーだからどう処分するか、経営陣に指示をすればよい、できるだけ株主に配当を支払うようにすべきと考えているのが一般的です。従業員のことについてはそれほど重要性を置いていない株主が多いと思います。 

“あなたは株主である私のいう通り、必死に頑張ってくれ、頑張ってくれるのなら、もし10億円の利益が出た時には君たちに大金を出しましょう” このように経営者は株主に踊らされているのです。 

経営者として何を動機づけとすべきか

  1. 過ぎたる欲望は身を滅ぼす

株主も経営者も欲望のかたまりです。この人たちは欲望にかられて一生懸命に努力をします。何としても利益を上げなければならないとなった経営陣は、粉飾決算をしても、利益を表示しようとします。 

日本の場合では、会社の業績を以前のレベルに保つ為、自分の保身の為、粉飾決算に手を染めてしまうケースが後をたちません。自分の在任中、おそらく4~5年間は粉飾が開示されなければ問題はない、後は後任の責任だとすることが、通常となっていると思います。 

アメリカのテキサス州のエンロンというエネルギーの会社、電気通信事業会社MCIを買収したワールドコムは粉飾決算をし、一瞬にして倒産の憂き目にあいました。そして経営陣は厳しい刑に服することになりました。 

このような事件は欲望を満たそうとする、貪欲さが身を滅ぼしていったのです。 

我々が企業経営に駆り立てられるのは、欲望が原因です。しかし欲望を追求する、利益を追求するのには正しい考え方、正しい方法で達成されるべきものです。しかも過ぎたるは身を滅ぼしてしまうという矛盾が存在するのです。 

  1. 欲望をエンジンとしなかった京セラ

京セラの設立経過を見てみますと、稲盛和夫という人が京セラを設立しようとしたというよりは、彼の友人、同僚が京セラを作ろうと考えたそうです。稲盛和夫は、お金もないが、周囲の人が、こんなにすばらしい技術、セラミックの技術を開発し、一生懸命頑張っている稲盛和夫を生かさなければ、もったいないと思ったのだろうと思います。 

会社の資金集めの為に、新潟出身の方が自宅を担保に銀行借入をしてくださった。こんなことはめったにあるものではありません。しかも奥様までもが応援してくれたそうです。 

この出資者の人は事業経験もあり、製造業の難しさを知っておられたようです。“千にひとつ、万にひとつ成功すればいいほうだ。たぶん失敗するだろう” と言われたそうです。 

こうした周囲の人々の支援があるのは、若き青年、稲盛和夫に周囲の人々が惚れ込んでしまったからです。 

塾長の父親は印刷業を営んでおられました。実直であまりしゃべらず、黙々と働くような人だったそうです。ですから借金などは、決してしない人でした。 

しかし、他人である稲盛和夫の京セラの為に、“万にひとつも成功しない”といいながらも、家屋敷を担保に一千万円を借りてくださった人がいたのです。従って塾長はたいへんな責任を感じ、私は失敗はできない、京セラを支援してくださる周囲の人々に決して迷惑をかけてはいけないと塾長は考えたとあります。 

京セラは欲望をエンジンにして来なかったのです。欲望がエンジンではなかった為に、欲望がどん欲、過ぎたる欲望となり、身を破滅に追い込むことがなかったのです。 

  1. 欲望以外の目的で自らを駆り立てる

“欲望をもとにして企業経営を行っていけば、必ず欲望は過剰になっていきます。成功すればするほど欲望はさらに肥大化します。その肥大化した欲望のために、今度は会社が倒産に追い込まれていく、皮肉な現象が起きてしまうわけです” と塾長は述べています。 

京セラの場合は、最初は会社をつくった方々に迷惑はかけてはならないというのが最初の原動力だったそうです。その後、“自分の過ちで従業員・その家族を路頭に迷わせてはいけないということを原動力とした”と塾長は述べています。 

お金持ちになりたい、もっと楽な生活をしたい、という欲望もいいのですが、しかし欲望が過ぎれば必ず身の破滅につながることを忘れてはなりません。 

成功と失敗の岐路

  1. 不平不満からの脱却

経営者の方々の中には、お父さん、お祖父さんがつくられた会社を引き継がれた方が多いと思います。“会社を継いだけれど、または自分で事業を興したけれども、仕事が時代の流れの中で、どんどん縮小している。業種業態のため何とか新しいことをやらなければ、自分のやっている仕事は先細りになっていく、このままでは従業員を守っていくことが出来ない” と考えておられる方々がいます。 

しかし、あまり振るわない業種の仕事を親から引き継いだ経営者の中には、新しい仕事に挑戦し、大きく展開している方もいます。 

塾長は、日本の景気が悪い時期に大学を卒業しました。入社した会社は業績が悪く、入社した月から給与が遅配する、労働組合ともめ、労働組合運動の烈しい会社でした。同期入社5名のうち、4名が退社しました。塾長1人が残ったのです。やめるべきかとどまるべきか、随分と迷いました。辞めてうまくいく人もいる、辞めて駄目になる人もいます。正しい答えはなかなか得られません。つまり、どちらを選んでも成功するかどうかはわからないのであれば、どのような仕事であれ、それに打ち込むしか方法がないと、気づかれたそうです。 

1人残され、不平不満を言う相手もなく、又、再就職するにも簡単にはできないと考え、仕事に打ち込む以外なかったそうです。一生懸命仕事に打ち込むと、どんどん面白くなり、研究成果も出せるようになったと塾長は述べています。その結果、研究が実って日本で電子工業の絶縁材料をつくることになったのでした。大手の電機メーカーから注文が入り始めたそうです。このようにして新しいビジネスが展開し始めたと塾長は述べています。 

絶ゆまない努力を続けることで、新しい技術が生まれ、新しいビジネスが開花するようになります。親から引き継いだ技術でも、改善に改善を重ねていきますと、それが新しい技術に結びつき、新しいビジネスに連なると思います。 

  1. 成功には確固たる大義名分が必要

塾長は、技術部長と意見が合わなくて退社することになったのですが、支援してくれる人が周囲に集まり、あなたの技術はもったいない、ぜひ場を作ってあげるから会社を始めなさいと言って頂き、会社を始めたわけです。 

会社を辞める時、同時に、辞める目的 ―自分の開発した技術を支援してくださる人々の好意、はげまし ― があったのです。 

自分の会社がいる業界がこのままではうまくいかなくなる可能性があり、何か新しい事業をと考えている時、他の人が成功しているから、私もそれをやろうと思われる方が多くいます。このような安易な気持ちでは、新しい事業に成功することは難しいと思います。 

 なぜ新しい事業に進出するのかという明確な大義名分がなければ、成功は難しいと塾長は述べています。 

成功するケースは、あなたが一生懸命に働いているのを見て、あなたならこういう仕事をされたら成功しますよと言われたり、或るいは、あなたの頑張っている姿を見て、応援しますよというような場合です。 

自分が今までやってきた仕事のノウハウが使えるような新規事業があり、お客様からその事業を一緒にやりましょうと言われた場合も成功する確率は高いと思います。今まで営々と培ってきたノウハウ、技術を持っている、販売なら販売のノウハウを持っている、そういう技術やノウハウを請われて一緒にやりましょうと誘われ、乗り出した時にも間違いなく成功すると思います。 

新しい事業をする時には、事業に手を出す明確な理由がいるわけです。“天の時”、“人の和”、“地の利” がなければなりません。“天の時” などを得た時には、それに対応できるように、日頃から努力をしておく必要があります。自分の事業に心血を注ぎ、一生懸命にやっていれば、“天の時” も見えてくるのです。 

一生懸命に仕事をしていれば、怪しげな話をかぎ分ける力も身についてきます。それは、自分の経験を通して、生半可なことでは事業はうまくいくとは思っていないからです。心血を注ぎ、本当に一生懸命に経営にあたることで、やっと経営というものはうまくいくのです、と塾長は語っています。うまい話では成功しないことを肝に命ずるべきです。自分の事業がジリ貧になっていき、新しい事業に進出したいと思っている時に、甘いもうけ話が舞い込んできます。事業の根幹となるべき大義名分を確固たるものにしなければなりません、と塾長は述べています。 

経営者に求められるもの

  1. 誰にも負けない努力をする

盛和塾の塾生の中には、親から事業を引き継がれた方々が多くおられます。自分の代で会社をつぶすわけにはいかない、一生懸命に頑張るしかない、それしかないと思います。経営というものはトップがどのくらい仕事に打ち込んでいるかということにかかっています。 

会社や経営のことをいろいろと勉強するのも重要ですが、それよりも最初に必要なことは、社長が会社の中で誰よりも一番働くということです。従業員より遅く会社に来て、従業員よりも早く退社するという社長には、誰もついていきません。西郷南洲がいっています。“上に立つ者は、一生懸命に頑張って、下の者からかわいそうだと思われるほどでなければならない” 

生半可な努力ではなく、誰にも負けない努力が必要なのです。 

  1. 心を磨き、立派な人間性を身につける

誰にも負けない努力をすれば、会社はうまくいき始めます。

会社をつぶしてはならないということを動機づけにして、一生懸命にがんばってもよい、お金持ちになりたい、もっとぜいたくな生活をしたいという欲望を動機づけにして努力をしても構いません。ただし欲望が過ぎてはなりません。塾長は、中小企業が生き延びて行く、事業を開始する時の経営者は“誰にも負けない努力”の必要性を強調しています。 

従業員を引っ張っていくのに、第一番は待遇だと思います。給料を高くしてあげることは、従業員がついてくるための大きな要素です。しかし、小さな会社の場合、他社よりも高い給料をあげることはできないのです。 

そうした中で、従業員がついてきてくれる為には、社長が率先垂範して、遅くまで頑張り、会社が成長発展し、従業員が希望をもってくれるようにしなければなりません。そして従業員に“一緒に頑張ってくれよ”と呼びかけるのです。その時、社員に聞いてもらうためには、社長に立派な人格が必要なのです。“うちの社長はりっぱだ。あの社長についていこう”と言ってくれるような人格にすぐれた社長になることが必要なのです。 

“心を磨き、立派な人間性を身につける。これが先です” と塾長は述べています。あの人は人柄がよい、あの人は徳を備えた人、徳の高い人と人から言われるようにならなければならないのです。 

塾長は “身につける” と言われています。口ですらすらと、りっぱな哲学を述べるだけではなく、そのりっぱな哲学を実行していなければ、身についてはいないのです。 

人間性を高めるために

  1. 少しずつ欲を抑えていく

西郷南洲は藩主島津久光公の逆鱗に触れ、沖永良部島に流されたそうです。この南海の小島で、子供達に学問を教えます。西郷は子供たちに質問をしたそうです。“君たち、一家が仲むつまじくするためには、どういうことをすればいいと思うか” 

子供達は、“君(天皇)には忠義を、親には孝行を、兄弟・友達とは仲良く助け合う” と西郷から教わった、中国の古典から教えられたように答えました。 

“それは正しい、正しいけれども、その答えでは根本的にどうすればよいかわからない。一家仲むつまじくするための方法は、それぞれの人が少しずつ、欲を減らすことなんだ” と西郷は応えました。一家が仲むつまじくするためには、親孝行をしなければならない、兄弟、友達とは助け合いをしなければならない、とか口ではスラスラと出て来ます。実際にはみんながそれぞれ少しずつ欲を減らしていけばよいということなのです。 

“ケーキをいただいた時には、家族みんなで一緒に食べよう、喜びをみんなで分かち合いたいと思う。悲しみがあれば、その悲しみを分かち合い、ともに悲しんであげる” と塾長は述べています。“おれがおれがという欲が強くならないように、少しずつ欲を抑える、仲むつまじい一家をつくるためには、この西郷の一言がわかっていなければ、実現できないのです”と塾長は語っています。 

従業員から慕われ、尊敬されるようになる為には、社長自らが、具体的に言動で、従業員に示すことが出来なければならないと思います。難しい話、“徳を高めなければならない” “仁義が必要だ” をしても、実際にどうしたらよいかわからないのです。 

  1. 人間として何が正しいかを判断基準にする

塾長は京セラ創業時、経営の経験がないため、判断基準(はんだんきじゅん)がなく、たいへん悩んだそうです。 

子供の頃に両親や祖父母、または学校の先生から教わった “人間としてやってよいこと悪い事” を判断基準にして経営をしていこうと決めたのです。 

嘘(うそ)を言ってはならない、騙(だま)してはならない、欲張ってはならない、幼稚だと思われるような判断基準で経営をしていこうと決めたそうです。 

京セラでは、創業から今日まで、“人間として正しいことを貫く” を従業員の判断基準にしてきました。自分にとって正しいことではありません、会社にとって正しいことではありません、国にとって正しいことではありません。人間として正しいことです。塾長はこの考えを京セラで実践して来たのです。 

  1. プリミティブな言葉で自分に言い聞かせ続ける

人間はなかなか言動を変えることができません。ちょっと言われたぐらいでは、人間は変わりません。しかし、“人間として何が正しいか” という幼稚な考え判断基準にするよう努めることが大切です。 

経営判断をする時、この原理原則にのっとって判断し実行していきますと、周囲の従業員も少しずつ理解し、具体的にこうした経営判断ができるようになります。 

徳が高いというのは、“人間として何が正しいか” を判断基準にして実行できるということだと思います。これを徳のある人、徳を身につけた人というのです。 

具体的には、正直である、誠実である、努力をする、常に感謝する、他を思いやる。卑怯な振る舞いをしない、勇気を持つ、決して嘘を言わない。人を騙さない、欲張らない、悪口を言わない、不平不満を言わない。 

できないけれども、具体的に上に述べたことを、自分に何度も言い聞かせ努力をしていく、そうした人を人柄のよい、人間のできている人と、人は言います。知っているだけではなく、身についている、実行できるように、日頃から努力したいものです。 

  1. 無私・無欲の人、西郷南洲から学ぶ

西郷の思想は、一言で言えば “無私の精神” だと塾長は述べています。無私とは無欲のことです。 

遺訓五

ある時、“人の志というものは幾度も幾度もつらいことや苦しいめに遭ってのち、はじめて固く定まるものである。真の男子たる者は、玉となって砕けることを本懐とし、志をまげて、瓦となっていたずらに長らえることを恥とする。それについて我が家に残しおくべき訓( おしえ) としていることがあるが、世間の人はそれを知っているだろうか。それは子孫の為に良い田を買わない。すなわち財産をのこさないということだ” という七言絶句の漢詩を示されて、もしこの言葉に違うようなことがあったら西郷のいうことと実行することは反していると言って見限りたまえ、と言われた。 

これは庄内藩しょうないはん)の家老、菅実秀( かんさねひで)を前にして言った言葉だそうです。江戸城無血開城を実現した西郷と勝海舟、勝海舟は西郷の人柄、人間性に打たれたそうです。 

威張りもしない、決して動じることもない。西郷は本当に素晴らしい人間性を持っていた。無私です。西郷には、他の人のためによくしてあげようという一点しかなかった。そのような西郷にみんなの心が触れて、みんながついていったのです、と塾長は述べています。 

追記:南洲神社

山形県酒田市に南洲神社が1976年に建立されました。庄内藩に攻め入った薩摩軍は、庄内藩の人たちに武士道の精神にのっとり、勝ちおごった態度もせず処遇したそうです。こうした薩摩藩の態度に庄内藩の人々はいたく感動したのでした。 

庄内藩の家老、管実秀はいたく感銘し、“薩摩に素晴らしい武士道を教え、我々にこのような処遇をせよといったのは誰か” と問いました。薩摩藩の指揮者、黒田清隆は  “西郷の言われた通りにしただけです”  と答えました。 

庄内藩の藩主 ( はんしゅ)) 以下若者は西郷から学んだものを後世に残そうと “西郷南洲翁遺訓”  を編纂しました。薩摩藩の若者たちは、西南戦争でなくなった西郷と共に死んでしまった。その為、庄内藩の人たちが、西郷の教えを口授の形で残したのだそうです。 

人格の優れた人には、多くの人が心を高めようと周囲に集まって来ます。自分の周囲に徳の高い人があれば、そうした人から学ぶことが大切だと思います。徳の高い人の友人になるのは、人間としての大変な財産だと思います。自分が徳のある人になるように努力しますと、徳のある人が周囲に集まってくると信じています。