盛和塾 読後感想文 第八十一号

人生について思うこと 

今回は “人生について思うこと” として “いかに生きるべきか” について話します。人間が生きていく上では、健康管理知的管理、そして心の管理の三つの管理が必要です。 

心の管理がおろそかにされている

昨今、健康管理に留意される方がたいへん多くなっています。健康診断や人間ドックの検査により、自分の健康状態を把握するように努め、その診断結果によって自分の肉体を健全に維持することに多くの人が留意されています。更にアスレティックジムに通ったり、健康器具を購入したり、ジョギングをしたり、体力・健康の維持にとどまらず、ウエイトリフティングにより体力の増強に励んでおられる方も多くなっています。 

又、肉体の維持管理に努め、体を健康に保つだけでは意味がないと、頭/知の管理をすることにも努めておられる方が多くなっています。成人学校で受講したり、本を読んだり、講演を聴講するなど、知性のレベルを維持する方も多くおられます。 

ところが、その肉体や知性と同じように、人間に備わっている心の管理については、それほど注意を使用とされない方がいるようです。この心の管理というものが人間にとって最も大事なことであるにも関わらず、多くの人はそのことにあまり関心を払おうとはしないのです。 

現代人は心労を患うことが多く、悩み、心配事、不平不満というものを常に心の中に持っており、それに苦しんだり、そのはけ口の為に、お酒にはけ口を見出したり、ストレスからくる胃潰瘍、高血圧病、心筋梗塞などの病気になったりしています。そうした不平不満、怒り、妬(ねた)みなどが高じて、うつ病などの精神病に陥る可能性があります。こうした心の荒廃が進みますと、家庭内暴力や児童虐待が横行し、自殺する人も出て来ます。                       

本当の健康管理は、私達の肉体、頭脳の知的活動、心の動き、すべてを含んだものでなくてはならないのです。その中で最も重要なことは、心の動きの管理なのです。 

この心がもたらす影響は、肉体のみならず、私達の日常生活のみならず、我々の人生そのものにも大きな影響を与えます。心の中で何を考えているかは、外部の人には解かりません。しかし、実は思った通りのことが現象として現れてきます。ですから、心をどのように維持するのかということがたいへん大切なことなのです。 

仏教の世界では、心を維持することにたいへん意を用いています。仏様の説かれた6つの修行の中に“禅定”という教えがあります。禅定とは、一回一回心を鎮めること、とあります。座禅は平穏で静かな心の状態を維持するための修行です。 

イギリスの哲学者ジェームズ・アレンは、その著書 “原因と結果の法則” という本の中で、心の管理について述べています。 

“人間の心は庭のようなものです。それは知的に耕されることもあれば、野放しにされることもありますが、そこからはどちらの場合にも必ず何かが生えてきます。もし、あなたが自分の庭に美しい草花の種を蒔かなかったら、そこにはやがて雑草の種が無数に舞い落ち、雑草のみが生い茂ることになります” 

“優れた園芸科は庭を耕し、雑草を取り除き、美しい草花の種を蒔き、それを育(はぐく)みつづけます。同様に私達も、もし素晴らしい人生を生きたいのなら、自分の心の底を掘り起こし、そこから不純な誤った思いを一掃し、その後に清らかな正しい思いを植え付け、それを育みつづけなければなりません” 

心を管理し、正しい思いを持つようにするのか、それとも心の手入れをせず、野放しにしておくのかによって、心という庭に自分が思ったような草花が咲くのか、それとも思わぬ雑草が生い茂るのか決まってくるのです。美しい草花とは人生の結果に他なりません。自分が思い描いた、すばらしい人生を実現していくためには、心の管理が必要だとジェームズ・アレンは説いているのです。 

ジェームズ・アレンは結んでいます。

“正しい思いを選んでめぐらしつづけることで、私達は気高い、崇高な人間へと上昇することができます。と同時に、誤った思いを選んでめぐらしつづけることで、獣のような人間へと落下することもできるのです” 

“心の中にまかれた思いという種のすべてが、それ自身と同種類のものを生み出します。良い思いは良い実を結び、悪い思いは悪い実を結びます” 

ほとんどの方が、心の管理が重要だとは思っておられません。体の健康管理には一生懸命につとめるのですが、心の管理ということに真剣に取り組もうとする人は少ないようです。 

人間の心の中では 真我 自我が葛藤している

ジェームズ・アレンは説いています。“自分の心という庭の雑草を抜き、耕し、そして自分が望む美しい草花の種を蒔き、丹念に水をやり、肥料をやって、管理をしていきなさい” 

それでは具体的にどのようにして、毎日の生活・仕事の中で、自分の心を管理していけばよいのでしょうか。 

人間の心の中には、真我というものと自我というものが同居しているのです。人間の心というものは図のように多重構造になっているようです。

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しかし中心に真我と自我が同居し、葛藤していると考えた方が、心は理解しやすいと思われています。 

真我とは、愛と誠と調和に満ちたもので、真善美という言葉で表される、すばらしい美しいものです。仏教では山も川も草も木も、森羅万象この世にあるものすべてに仏が宿っている、仏のように優しく慈悲に満ちた、他を思いやる高次元の心が、この世の生物・無生物を問わず、全てのものに備わっていると考えられています。 

自我とは、本能に基づくもので、いわば自分だけ良ければよいというものです。例えば、増悪(ぞうお)、嫉妬(しっと)、強欲(ごうよく)、虚栄(きょえい)、猜疑心(さいぎしん)、さらに自己愛などと表現されるものです。 

真我=利他の心、自我=利己の心。利他、つまり人を慈しみ、人を助けてあげようという心と、利己つまり自分だけよければいいという自分勝手な心が1人の人間の中に同居をしている、それが我々の心なのです。 

インドのタガールという詩人が書いています。 

“私がただひとり神の下にやってきました。 しかし、そこにはもうひとりの私がいました。 この暗闇にいる私は誰なのでしょうか。 その人を避けようとして私は脇道にそれるのですが、彼から逃れることはできません。 彼は大道を練り歩きながら 地面から砂塵を巻き上げ 私が慎(つつ)ましやかに囁(ささや)いたことを大声で復唱します 主よ彼は恥を知りません しかし私自身は恥じ入ります このように卑しく小さな我を伴(ともな)って あなたの扉の前にくることを” 

タガールはこの詩の中で、人間はみなエゴというみっともなく卑しい私と純粋で素晴らしい私が同居していることを詠んでいます。 

  1. 心の管理とは 自我を抑え、真我を前面に押し出すこと

我々は、自分の中に棲(す)む、このエゴという存在をコントロールできないばかりに、せっかくの人生を台無しにしてしまうのです。しかし、そのようなエゴ-低次元の自我を、単純に、雑草を根こそぎにするようにはいかないのです。 

我々は “自我” があるからこそ生きていくことができるのです。純粋で美しい “真我” だけでは人間は生きていけません。生きるために、自分がもっともっと得ようとする貪欲(どんよく)、自分を守ろうとして相手を打ち負かすのも、人間が生き長らえていくために、自然が与えた本能なのです。そのような本能がなければ、生物としての人間は、その生命を維持することはできません。名誉欲(めいよよく)、権勢欲、恨みつらみなど心に棲む低次元の自我が、人の生きるエネルギー、活力となっているのです。 

しかし、生きていく為には、自我が必要なのですが、自我が過剰になってはならないのです。卑しいエゴが我々の心の主人公になってはいけないのです。そうしますと、我々の人生は必ずつまずき、失敗してしまうのです。 

一時的に成功して、時代の寵児となり、“金さえあれば何でもできる” と傲竿不遜(ごうかんふそん)に陥り、いつのまにか表舞台から去っていく人々がおります。それは一時の成功に酔いしれ、謙虚さを忘れ、自分のエゴのままに振る舞うからです。 

人間の心というものは “真我” と “自我”、その二つが同居しています。ともすれば、自我、つまり利己がのさばろうとするのです。放っておけば、真我である利他の心は、隅っこに追いやられてしまうのです。 

キリストには右の頬(ほお)をたたかれれば、左の頬を出しなさいと説きました。仏様は恨みに対して微笑(ほほえ)みで返しなさいと諭(さと)しました。我々はキリストや仏様のようなことはできません。我々は生きていくためには、最低限の “自我”、利己が必要ですから、“自我”が多少は要るとすれば、心の大部分を “真我” が占めるようにしていかなければならないのです。 

自我を抑えていくことが大切です。自分の心の状態に注意を払い、もし自分だけが良ければいいというエゴが頭をもたげたときには、その都度その頭を押さえつけていく。自我の台頭(たいとう)を抑えていくのです。ところが、自分だけが良ければいいと思っている、又は行動している時には、“自分が良ければいい” ということに気がつかないのが人間なのです。それではどうしたらよいかということですが、ひとつは自分を批判してくれる、自分の側にいて、注意をしてくれる人、友人を持つこと、もうひとつは毎晩ベッドに入る前に謙虚に一日の出来事を反省すること、この二つが最も効果的だと思われます。 

そのようにして心の中に占める “真我” の割合を増やしていく。そのプロセスこそが人格を高めていくのです。つまり、日々、自分を戒めることによって “自我” の占める比率を減らし、“真我” の比率を増やしていく。それが “心を高める” ということなのです。 

“真我” が占める割合が大きくなってきますと、利他という美しい思いやりに満ちた心で判断できるようになります。一方、自我の占める割合が大きければ、“自分が自分が” という利己的な心、つまり自分の損得や自分のメンツだけで判断をしてしまうのです。 

人は判断する時、知性だけで判断しているのではありません。確かに知性を使い、判断をしているのですが、その時ベースになるものが心の状態であり、それが利他的であるのか利己的であるのかによって、判断の結果は全く異なってしまうのです。利他の心をベースに判断したときには、物事の確信が見え、間違うことが少ないのですが、利己をベースに考えたときには、判断が曇ったり歪(いびつ)なものになったりして、結果を誤ってしまうことが、往々にしてあります。 

我々は自分の心の中に、自我という悪い私と真我という良い私が同居していることを知り、あくまでも良い私を主人公に押し立て、悪い私を補助的な役割に留め、人生という舞台を演じていかなければなりません。 

無私の人 西郷南洲に学ぶ 

  1. 西郷南洲も真我の大切さを説いていた

西郷南洲は“無私”つまり私を無くすということを説き、自ら実践しました。無私とは“悪い私を抑える”ということです。西郷南洲が残した遺訓の中に“人間としてどうあるべきか”ということが、言葉を尽して書かれています。それは、悪い私をいかに抑えるのか、良い私をいかに育んでいくか、自己を抑えて真我を伸ばすということに尽きます。西郷南洲は実際に自分の心を管理することができたればこそ、明治維新という偉業を成し遂げることができたのです。 

遺訓第二十六条

己れを愛するは善からぬことの第一也。修行の出来ぬのも、事のならぬも、過ちを改むることの出来ぬのも、功に伐(ほこ)驕慢(きょうまん)の生ずるも。皆自ら愛するが為なれば、決して己を愛せぬもの也。 

自分を愛すること、即ち自分さえよければ人はどうでもいいというような心は最もよくないことである。修行が出来ないのも、事業に成功しないのも、過ちを改めることのできないのも、自分の功績を誇り高ぶるのも、皆自分を愛することから生ずるものであり、そういう利己的なことをしてはいけない。 

西郷南洲は“己を愛するは善からぬことの第一也”というように、その生涯を通じて “無私”ということを説き続けました。戒めるべきは自分だけを大切にする自己愛、低次元の “自我”なのですと説いている愛とは、すべてのものに慈(いつく)しみと愛の心を持って接する他者への愛。つまり真我を指示しています。広く優しい、天と同じような心を持って行きなさい、そうすれば必ず、それはあなたにも返ってくると西郷は説くのです。 

事業に成功しないのも、自己愛、利己を前面に立てて商いをする為である。江戸時代の商道徳を説いた石田梅岩が“商いは先も立ち、我も立つものなり”といっています。相手も儲かるようにするのが商売の鉄則であり、極意なのです。 

  1. 心を高め続けるため、心の管理を絶えず続けなければならない

遺訓第二十二条

己に克(か)つには、重々物々、時に臨(のぞ)みて克つ様にては克ち得られぬなり。兼(か)ねて気象(きしょう)を以って克ち居れよ也 

己にうち克つには、兼ねて精神を奮(ふる)い起こして自分に克つ修行をしていなくてはならない。 全ての事をその時その場あたりに克とうとするからなかなかうまくいかぬのである。

人は己に克つことが大切だなどと諭されると “よしわかった。今後はそう心がけるようにしよう” しかしいざその時になっても急にできるものではありません。“己に克つには兼ねて気象をもって克ちあれ” というのです。気象とは、日頃からの鍛錬により、性格になってしまうほどでなければならないということです。自分を抑えるということは頭でわかっているだけでなく、常日頃から、己の欲望や邪念を抑える訓練をして、性分にまでなっていなければ、いざその時になっても己に克つことはできないのです。 

自分の性格、いわば自らの血肉となっていなければ、気象にまでなっていなければ、いざという時に自分を抑えようと思っても、抑えられるものではありません。つまり日頃から謙虚に反省することを通じて、欲望を抑え、心を高める努力を絶えず積んでいかなければならないのです。 

経営はトップの器で決まります。“蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘る” といいます。経営者の人間性、人としての器の大きさにしか企業は大きくならないのです。 

企業を大きくしたいならば、知識や技術のみならず、経営者としての器、自分の人間性、哲学、考え方、人格というものを絶えず向上させていくよう努力をしていくことが求められています。 

経営者の人格と企業の業績がパラレルになるということを “心を高める、経営を伸ばす” と稲盛塾長は表現しています。経営を伸ばしたいと思うならば、まず経営者である自分自身の心を高めることが先決であり、そうすれば業績は必ずついてくるのです。 

心を高めることを怠った経営者は、いったん大成功を収めたとしても没落を遂げていくのです。当初は立派そうに見えた人でも、三十年もたてば衰退の道をたどり始める。当初仕事に打ち込み、一時的に人格を高めることが出来たとしても、事業成功の後、いつの間にか謙虚さを忘れ、努力を怠るようになり、その人格を高く維持していくことができなくなったからです。 

特に多くの従業員を雇用し、その人生を預かっている経営者は、大きい責任を負っています。生涯(しょうがい)をかけ、弛(たゆ)まぬ研鑽(けんさん)の日々を送り、人格を高め続けることが経営者として身を立てた者の努めなのです。 

“心を高める” とはどうするのでしょうか。

稲盛塾長は六つの精神を述べています。

  1. 誰にも負けない努力をする
  2. 謙虚にして奢(おご)らず
  3. 反省ある毎日を送る
  4. 生きていることに感謝する
  5. 善行・利他行を積む
  6. 感性的な悩みをしない 

こうした教えを学び、実践することに関して、哲学者、安岡正篤(まさひろ)さんの述べられた、知識、見識(けんしき)、胆識(たんしき)という “心を高める” 為の指針と実践についての考えがあります。人間は生きていくのに色々な知識を身につける必要があります。しかし知識を持つだけでは実際にはほとんど役に立ちません。知識をこうしなければならないという信念にまで高めることで、見識にしていかなければなりません。 

しかし見識だけでは不十分です。見識を何が何でも絶対に実行するという強い決意に裏打ちされた、何ごとにも動じない胆識にまで高めることが必要なのだと、安岡さんは述べています。万難を排し、何としてもやり抜くという勇気が必要です。多くの人が、こうした方が良いと思っても実行できないのは、勇気がないからです。勇気がないのは自分の利害で考え、自分を大事にしようとするからです。 

人から謗(そし)られはしないか、人から嫌われはしないか、自分を守ろうとするから実行できないのです。“馬鹿にされようが、軽蔑されようが、何とも思わない” となれば、どんな困難なことでも実行できるのです。 

知っているだけでは何にもなりません。それが見識となり、更に勇気を身につけ、胆識となってはじめて実行できるようになるのです。 

  1. 試練も心の管理を行うチャンス

遺訓第五条

幾たびか辛酸(しんさん)を歴(へ)て、志(こころざし)始めて堅し、大夫玉砕(たいふぎょくさい)して甎全(せんぜん)を恥(は)ず。一家の遺事(いじ)人知るや否や、児孫(じそん)の為に美田(びでん)を買わず。 

人の志というものは、幾度も幾度も辛(つら)いことや苦しい目に遭(あ)って後、初めて固く定まるものである。真の男子たる者は玉となって砕けることを本懐とし、志をまげて瓦となっていたずらに生き長らえることを恥とする。それについて我が家に残しておくべき訓としていることがあるが、世間の人は知っているであろうか。それは子孫(しそん)のために良い田を買わない。すなわち財産を残さないということだ。もしこの言葉に違うようなことがあったら、西郷は言うことと実行することが反していると言って見限りたまえと言われた。 

辛酸を舐めるような困難に耐え、努力を重ねて試練を乗り越えたとき、初めて人の志は定まるとは西郷自身の壮絶な実体験がいわしめた珠玉(しゅぎょく)の言葉です。 

西郷は明治維新に向けての政治活動の中で、京都の清水寺の僧だった月照と友人になりました。江戸幕府は尊王攘夷(そんのうじょうい)派への弾圧を強め、月照を捕えようとしていました。月照を助ける為に薩摩藩(さつまはん)に連れ帰り、島津久光の保護を得ようとしました。しかし久光は江戸幕府との摩擦を恐れ、月照を国外追放にしました。困り果てた西郷は、月照と共に身を錦江湾に投じました。しかし日照は死にましたが、西郷は助けられ、生き延びました。生き延びた西郷は、志を同じくするものを死なせ、自分ひとりが生き残ったことを後悔します。武士として死よりも辛く耐え難い恥辱(ちじょく)でした。西郷は辱(はずかし)めを忍び生きる決意をしました。 

西郷は久光公の怒りに触れ、沖永良島(おきながらべじま)へ島流しとなり過酷な虜囚(りょうしゅう)生活を送りました。四方に格子が入っただけの狭く粗末な牢に収容され、過酷な環境で、西郷は一日二回のおかゆだけしか与えられませんでした。 

島の役人の好意で座敷牢に移されてから、中国の古典を牢に持ち込み、来る日も来る日も書物を読み、瞑想(めいそう)に耽(ふけ)ったそうです。西郷は何事にも揺らぐことのない堅い信念を持つ人間に成長していきました。 

逆境とは自分自身を見つめ直し、成長させてくれるまたとないチャンスなのです。逆境や試練を否定的にとらえて悲嘆(ひたん)に暮れるのではなく、志を堅固にしてくれる格好(かっこう)の機会ととらえて敢然(かんぜん)と立ち向かうのです。試練を通してこそ志は成就(じょうじゅ)するのです。 

西郷は児孫の為に美田を買わず、子供達や孫達にも財産は残さないと言っています。これは無私の心です。肉親の情を超えた非情なまでの無私の心だったのです。 

我々は西郷のように辛酸を舐めることはできません。しかし自分はこういう生き方をしたいと、繰り返し、自分に言い聞かせ、魂にその思いを染み込ませることはできます。 

遺訓第二十五条

人を相手にせず天を相手にせよ。天を相手にして己を尽し人を咎(とが)めず、我が誠の足らざるを尋(たず)ぬべし。 

人を相手にせず、天を相手にせよ。人を相手にせず、自分の心の中にある誠を尽し、決して人の非をとがめるようなことをせず、自分の心の中にある真っ直ぐな心、すなわち正道をもって対すべきという意味です。 

バブル経済の最盛期には、不動産業者をはじめ銀行が不動産を買いなさいといろいろな会社にすすめました。日本中がバブルで、土地を買えば値上りする、株を買えば値上りする、銀行も土地や株やホテルを買う為に100パーセント融資し、できるだけ貸付金を増やし、金利でたくさん儲けようとしました。 

バブル崩壊で、不動産価格や株価がものの見事に暴落し、多くの人が損失をこうむりました。それはみんな人を相手にする、つまり道理に合っているかを判断の基準にしなかったからなのです。額に汗もせず、苦労もせず、右から左へとまわしていくだけでボロ儲けができるとしたら、そんなことをして正しいのかと、道理に照らして考えてみる。こうした道理に照らして考えるという人は少なかったと思われます。 

不動産、株式価格が暴落し、たいへんな損をしたときも、不動産や株を自分に勧めた相手が悪いのだと、人を咎めたのです。西郷が “天を相手にして己を尽し、人を咎めず。我が誠の足らざるを尋ぬべし” 自分の誠が足りなかったからこういう失敗をしたのだと考え、それを機会に心を高めようとするべきであって、人のせいにするなど、もってのほかなのです。 

  1. いま求められるリーダーは真我で動く 始末に負えぬ

遺訓第三十条

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。この始末に困る人ならでは艱難(かんなん)を共にして国家の大事は成し得られぬなり。 

命もいらぬ、名もいらぬ、官位もいらぬ、お金もいらぬというような人は処理に困るものである。このような手に負えない大人物でなければ困難を一緒に分かち合い、国家の大きな仕事を大成することはできない。 

西郷はまさに命もいらず、名もいらず、官位もお金もいらぬ人でした。官位もお金もいらない無私の人、つまり自己愛を離れた人でした。 

その人に欲があれば、お金をあげよう、地位をあげよう、名誉をあげようといえば、簡単に動かせます。しかし損得で動かない人間はいかにも扱いにくく、始末に困るものです。欲で動かない人は、何で動くかといえば、世のため、人のためという利他の心、つまり真我(愛と誠と調和)によって動くのです。 

会社の経営にあたっても、西郷のようなことはできないとは思いますが、その何分の一かでも実行に努めることができます。我々の人生も経営も必ずうまくいくと思います。実際に心を合わせ、信頼することのできる幹部、部下を育てていこうとするとき、少なくとも欲だけでは動かない、損得だけでは動かない人でなければ、幹部に登用してはなりません。 

我々経営に携わる人間は、一輪の小さな花であっても、美しく咲かせるべく、自分の心という庭を耕し続けなければならないと思います。 

経営者は率先垂範(そっせんすいはん)して、心を高め続けることが、我々ひとりひとりの人生を豊かにし、経営を伸ばし、従業員のしあわせをもたらせることとなると思います。