盛和塾 読後感想文 第八十三号

エネルギーを注入する 

いいテーマを部下に与えても、当人が燃えてくれなければ仕事が成功しないのは言うまでもありません。お金や時間を与えられても、部下がヤル気を持ってくれなければ、プロジェクトは成功しません。私共経営者は、これだけ経営者として部下に話をしているのに、部下が燃えないとついつい間違った結果を出し、“アイツはどうしようもないヤツだ”と思いがちです。もしそうであるならば、部下に話しかける内容もよく考える。それだけではなく、部下が現在与えられている仕事、また、部下の私生活もある程度理解して、何度も機会ある毎に話していく。継続して繰り返し話をしていくようにすべきです。物的な条件が不十分でも、リーダーの夢を部下に一生懸命話し、自分と同じレベルまで部下の士気を高めることができれば、仕事は成功します。 

部下の返事が、

  1. “分かりました”では三割ぐらい成功する確率
  2. “頑張ります”と言ってくれれば成功する確率は五割
  3. “私がリーダーとしてやります”と言ってくれれば成功する確率は九割

ということではないかと思います。 

経営者は部下に対してどれくらいの情熱をもってもらえるか判断し、もっていないとすれば、それを注入することがリーダーの仕事なのです。経営者がうちの会社の従業員は仕事に情熱がないと感じた時、それは経営者自身の情熱が充分でない為にそうなのだと考えるべきです。 

信念と意志 利他と利己が同居するこころの構図 

不祥事が相次ぐ中、こころのありようが問われている

企業不祥事が相次いでおります。親が子を殺す、子が親を殺すという凄惨(せいさん)極まりない事件が多発しています。政治家の世界でも、公約した公約していないという人間を信用できなくなってしまいそうなやり取りが、日常的に発生しております。 

どの経営者も経営が軌道に乗るまでは、頑張って成功に導いて行きます。従業員が安心して働けるような企業にしていきたいと必死に頑張ります。そして上場を果すほどになります。ところが会社がうまく行き始めますと、周囲にチヤホヤされるために心が緩んでいき、傲岸不遜(ごうがんふそん)になっていき、不祥事を起こしてしまう。そして会社を潰してしまい、従業員を路頭に迷わせてしまうわけです。 

会社経営を一生懸命に頑張ったにも関わらず、せっかく築き上げた自分の会社を没落させるようなことをしてしまうのです。人間のこころはコントロールすることが難しいものです。 

心の中心-真我

こころというものを考えるとき、我々人間のこころは、どのように出来ているのだろうと考えます。こころの構造は、真我という(仏様が、すべてのものに宿っています)心の中心があり、それを取り巻くようにして、利他/利己、感情、感性、知性が取り囲んでいます。

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  1. 真我 / 仏
  2. 利他(良心、理性)と利己(本能、煩悩)
  3. 感情-利他の心、利己の心から感情が生ずる
  4. 感性-目、耳、鼻、舌、皮膚、接触(感覚)
  5. 知性-考える 

仏様は “宇宙に存在する森羅万象すべてのものに仏が宿る。あらゆるものは仏の化身である” とおっしゃっておられます。 

哲学者、中村天風さんは “研心抄” (天風会刊)の中で、次のように表現しておられます。

“およそ人間の生命の中には、心及び肉体よりも一段超越した、然も巌として存在する実在のものが一つある筈である。それがすなわち“真我”なのである”  

ヨガや瞑想などに練達された人たちは “大我にいたる” と表現されます。悟りを開いた修行者はこころの一番奥底を “真の智慧(ちえ)” とも表現されています。 

イスラム学者でありヨガの達人である井筒俊彦さんは、こころの奥底にあるものについて“存在としかいいようのないもの”といっております。井筒俊彦先生によりますと、瞑想をしていくと、五感も感情も次第に精妙になり、ついには感覚、感情が失われたようになっていきます。周囲の音も光もあらゆるものが消えてなくなり、感情も働かなくなっている状態に到達します。しかし、自分の意識は巌としてある。より鮮明に自分の意識が存在する。そのとき、自分自身が“存在としかいいようのないもの”となっていると感じられる。 

河合隼雄先生(京都大学教授、文化庁長官)は井筒先生の本を読まれ、その著書の中で “あんた花してはりますの? わて河合隼雄してまんねん” 全く同じ存在のものが河合隼雄となり、花を演じ、また井筒俊彦を演じているということです。 

“存在としかいいようのないもの”はこころの中心にあります。こころの中心は、仏、真我、大我、真の智慧と呼ばれるものと言えます。こころの中心は真・善・美、あるいは愛と誠と調和に満ちたとてつもないほどに純粋で美しく、宇宙を宇宙たらしめているものなのです。 

この人生とは、あたかも芝居のようなものです。人生の舞台には裏方、脇役、主役、いろいろな役があります。会社の社長は主役かも知れません;あるいは工員さんが主役かも知れません。興行が延びれば、“君、主役を変わってくれ。他の人に主役を変わってもらうから” ということもあります。 

このように、すべては “存在としかいいようのないもの” が姿を変えてこの宇宙に現れたにすぎない、みんな同じなのだと考えれば、決して傲慢に振る舞うことはないはずです。いつでも謙虚に振る舞えるはずです。 

真我の外側には 利他 利己二つのこころが同居している 

  1. よいことを思い、よいことを行えば、運命はよい方向に行く

中国の明時代に袁了凡という官僚が書かれた本、“陰騭録(いんしつろく) ”  があります。 

袁了凡さんが袁学海という名前だった頃、白髪の老人が訪ねて来ました。老人はお母さんに語りました。“お母さんはこの子を医者にしようとお考えかも知れませんが、この子は医者にはなりません。高級官僚の道を歩いていきます” “高級官僚になるための難しい試験を順調に突破し、若くして高級官僚となり、長官となって地方に赴任していきます。結婚はしますが、残念ながら子供は生まれません。そして五十三歳で天寿をまっとうする運命になっています” 

学海少年は白髪の老人が言った通りの道を歩んでいきます。何段階にも分かれた高級官僚の試験を次から次へと受けて合格し、高級官僚となり、若くして地方長官に任ぜられました。赴任地にすばらしい禅寺があり、雲谷禅師という有名な老師がおられることを聞き、禅寺に雲谷禅師を訪ねます。雲谷禅師と共に座禅を組みます。学海長官はすばらしい座禅を組みます。 

雲谷禅師は尋ねました。“どこで修行したのですか” 学海長官は答えます。“私は修行はしていない。自分の運命は幼い頃に占ってもらった通りのものなので、雑念がないのです”  雲谷禅師はあきれて言いました。“たしかに運命は決まっているが、よいことを思い、よいことを行えば運命はよい方向に変わっていくという因果の法則というものがあるのですよ” 

学海長官は驚き、名を了凡(りょうぼん)と改め、よいことを思い、よいことを行いました。その結果、了凡は長生きし、生まれないと言われた子供を持つことが出来たのでした。 

人間には生まれながらにして、どういう人生をたどっていくかという運命が決まっています。しかし、それは買えられない宿命ではないのです。よいことを思い、よいことを実行すれば、運命はよい方向に変わっていくし、悪いことを思い、悪いことを実行すれば、運命は悪い方向へと変わっていくという因果の法則があるのです。“陰騭録(いんしつろく) ”  という本がこのことを述べています。 

  1. こころのなかで利他の占めるスペースを大きくするように努めなければなりません

こころの中心にある真我の外側には、よいことを思うこころ-利他のこころと、悪いことを思うこころ-利己のこころがあるようです。 

ノーベル賞を受賞したインドの詩人、タゴールが書いた詩があります。

“私がただひとり、神の下にやってきました。

しかし、そこにはもうひとりの私がいました。

この暗闇にいる私は誰なのでしょう。

その人を避けようとして私は脇道にそれるのですが、

彼から逃れることはできません。

彼は大道を歩きながら、地面から砂塵(さじん)を巻き上げ、

私が慎ましやかにささやいたことを大声で復唱します。

彼は私のなかにいる卑小なる我(われ)。

つまりエゴなのです。

主よ、彼は恥を知りません。

しかし私自身は恥じ入ります。

このような卑小なる我を伴って、あなたの扉の前にくることを。 

“私がただひとり神の下にやってきました” とは、よき私です。一方 “砂塵を巻き上げながら大道を練り歩く彼” “私が慎ましやかにささやいたことを大声で復唱する彼” は私のなかにあるエゴです。彼とは悪い私なのです。自分はよきこころと悪しきこころの二つの心を持っているとタゴールは表現しています。 

利他的、良心的、理性的なこころは卑しい自分から逃れようと “おまえあっちへ行ってくれ”というのだけれども、なかなか向こうに行ってくれません。よい自分も卑しい自分も同じ自分なのです。良心・理性に基づく利他の心と本能・煩悩にまみれた利己の心という二つの心が同居していると言えます。 

“よい人” とは明るく、親切な人です。感謝を忘れず、思いやりに満ち、愛に包まれ、謙虚で、努力家で、勇気があり、自己犠牲を厭(いと)わず正直で誠実な人です。

“悪い人” とは常に自分自身にとって都合がよいか、悪いかを考え、自己の欲望を満たすために、妬み、怒り、嘘をつき、隠し、苦労を嫌って、楽をしたがり、暗く、不親切な人です。 

よい心と悪い心が同居しているのは、しかたのないことです。我々人間は利己的な心なくしては生きていけないからです。生きていくためにある程度の利己的な心を持つように、自然、神が我々をつくっているのです。しかし、利己的な心はあくまでも生きていくために必要なだけにとどめるべきであって、よい心を押しのけてしまってはなりません。よい心は主人であるべきです。 

ブッダは “足るを知る” 知足という言葉を述べています。

利他・利己の外側には感情・感性、知性が存在している 

  1. 真我、利他・利己、感情から湧き上がる思いが知性の働く方向を決める

経営者が会社を発展させようとする時、経営戦略、経営戦術を練り、それを実行しています。経営戦略、経営戦術はこころの構造の図の中の一番外側にある知性で練ります。営業はどうすればうまくいくか、製造工場の運営は、安全に効率よくするのにはどうすればよいか、販売費・一般管理費は、どのように仕事を効率化して削減していくか等を知性で考えるのです。そのもとになっているのは経営者の“思い”です。“思い” が先に来ます。 

“思い”  は真我、利他・利己、感情から湧き上がってきます。その “思い” が我々の行動の方向を定め、それに従い知性を発揮して、創意工夫をして、その “思い” が実現できるようにしていきます。“思い” がその人の生きていく方向を決めているのです。 

“思い” が利己的であり、こころに占める比率が大きくなりますと、常に欲にまみれた思いを抱いてしまいます。“思い”が利他のこころを抱けるよう、こころの持ち方を、真剣に考える必要があるのです。 

知性にすぐれた頭の良い人が悪い “思い” を持った場合、すなわち欲にまみれた “思い” を持った場合は、とんでもない不祥事に発展してしまいます。 

  1. こころの構造、図で生まれてから死ぬまでのプロセスが理解できる

人間の感性はその内側の利他・利己の心から刺激を受けます。利己の心が優(まさ)り、欲にまみれ、欲が充足できない時は不愉快な悪い感情になり、顔が曇ります。利他の心が優(まさ)り、他によかれとするような行いをすれば、気持ちが明るくなり、よい感情に満たされ、明るい笑顔になります。 

感情は外側にある感性・五感からも刺激を受けます。怖いものを見れば、感情が怖さを感じます。明るく楽しい場面に遭遇しますと、感情が明るく、笑顔が芽生えます。 

人間が生まれた時は、真我、利他・利己の心を持って、この世に出て来ます。感情も感性も知性も未発達です。そのあと感情、感性、知性が序々(じょじょ)に発展して来ます。 

年をとって来ますと、外側の知性が失われ、感性だけが出て来ます。感性が無くなりますと、感情だけで生活するようになります。このようにして人間は死を迎えます。 

善因善果を検証した Steven Post 教授 

ケース ウエスターン リザーブ大学の Steven Post教授が善因善果の法則の検証をしました。“よいことを思いよいことをすれば、よいことが起こるのは本当だろうか” という研究をされました。全米の四十四の大学の教授たちにアンケート調査を実施しました。その成果を彼は5年かけて書籍にしました。”WHY GOOD THINGS HAPPEN TO GOOD PEOPLE” “UNLIMITED LOVE” “THE HIDDEN GIFTS OF HELPING: HOW THE POWER OF GIVING, COMPASSION, AND HOPE CAN GET US THROUGH HARD TIMES” 等の著書です。

“人に与えたはずが自分に与えられ、人の幸せが自分の幸せになった瞬間を私はまぶしいほど鮮やかに思い出すことができます” 日本でも “いい人” には “いいこと” が起こる(幸福の科学出版刊)という本として出版されています。 

このSteven Post 教授は述べています。

“幸せ、健康、満足、長続きする成功の本質や特徴を明らかにしました。科学者達は思いやりの行為が精神と肉体の健康にどれだけ関係しているかを今なお検証し続けています。 “よいことをしてあげれば、その人にはよいことが返ってくる。自分自身の幸せも健康も満足も、そして長続きする成功も相手にしてあげたことへのお返しとして返ってくるのだ” と、Steven Post 教授は、見事に検証しておられるのです。Steven Post 教授は次のようにも述べておられます。

“あなたの人生は優しい行為によって光り輝き、そして守られるでしょう”

“愛ある行為は病気のリスクを減らし、死亡率を下げ、うつ病の可能性を少なくする働きを持っているのです”

“愛は癒(いや)しです。愛はそれを与える人と受け取る人の双方を癒します” 

Steven Post 教授の愛とは、思いやりであり、利他の心であり、与える心であり、感謝する心です。常に感謝をする心を持ち、相手を思いやる利他の心を持って、それを優しい行為として実行できる人は、いつも健康で、幸せな人生を送ることができると、Steven Post 教授は語っておられます。そういう心を持ったときには “怒り、恨み、やっかみのようなストレスを誘発して心身の病の原因になる否定的な感情を脇に追いやることが可能になり、ストレスを受けることが少ない” とも教授は言っておられます。 

愛の心の対象は、まず自分の家族に向け、次に友人、地域社会、そして人類社会へと向けられる、とも教授は語っておられます。 

こころを手入れしなければならないという 知識 胆識にまで高めよ 

哲学者 James Allenは語る。

“人間の心は庭のようなものです。それを知的に耕されることもあれば、野放しにされることもありますが、そこからはどちらの場合にも必ず何かが生えてきます。

もしあなたが自分の庭に美しい草花の種を蒔かなかったなら、そこにはやがて雑草の種が無数に舞い落ち、雑草のみが生い茂ることになります。優れた園芸家は庭を耕し、雑草を取り除き、美しい草花の種を蒔き、それを育(いつく)しみ続けます。

同様に私達も、もし素晴らしい人生を生きたいのならば、自分の心の庭を掘り起こし、そこから不純な誤った思いを一掃し、その後に清らかな正しい思いを植え付け、それを育しみ続けなければなりません。 

雑草とは利己の心です。つまり自己を抑えて利他の心を大きくするようにしなければならないと、James Allenは言っています。 

重要なのは、これからです。どのようにすれば雑草を取り除き、美しい草花を咲かせることができるのか。抽象的には、こころという庭の手入れをし、雑草を取り除き、美しい草花を咲かせる、利他の花を咲かせようと思うならば、足るを知るということを知らなければなりません。同時に知性でもって利己を抑えなければなりません、と言うことができます。 

知性は、こころの庭の手入れが必要であることを知らせてくれるだけで、それを実行させる力は持っていません。知性には実行力はないのです。我々は知性でもって、様々な知識を身につけます。知識がいくらであっても知っているだけでは使えないのです。哲学者、安岡正篤(まさひろ)さんは、次のように言っています。

“知識を見識にまで高め、さらには見識を胆識にまで高めなければ、実行することはできない” 

知識を見識にまで高めるためには、“信念” が必要です。知識に信念が伴(ともな)った時、はじめて知識は見識になります。その見識を実行できる為には、強力な意思の力 “胆力” が必要なのです。 

自分のこころの中によい自分と悪い自分がいて、悪い自分を少し抑え、よい自分が多くを占めるようにしていこうと思えば、足るを知り、“いい加減にせんか” と自分を叱り付ける必要があります。悪い自分を抑えていく為には、その人の信念の力、意志の力が必要なのです。信念、意志は、真我が発現して出てくるものです。真我から出てくる信念、意志の力を使って、こころの底を手入れすることはできません。 

昨今、多くの立派な有名企業が、経営者の怠慢、傲慢(ごうまん)、堕落(だらく)によって存続すら危(あや)うい状態に陥っています。それは経営者のこころの中に住む悪い自分がのさばってきた結果です。しかし、経営者自身、まさか自分のこころのなかで、悪い自分が引き金を引いた結果だとは思っていないのです。 

大企業の経営者に、足るを知る、知足のこころで、その傲慢な自分を抑えていきなさいと言いますと、“わかっています” と返事をしてきます。これは悪い自分を抑えなくてはならないと知識として知っているだけで、実行する力は何もないのです。 

自分の会社を立派にし、立派に守っていこうとするならば、足るを知り、利己的な自分を抑えて、邪(よこしま)な自分を協力な意思の力で抑えようとしていかなければなりません。 

毎日の生活の中に、少なくとも三十分、自分を反省する時間を配分する。一日の反省、立派な哲学者、経営者の著作を毎日読むこと、ただ読むだけではなく、何度も繰り返し読み、ノートに手書きでまとめていく方法も、悪い自分を抑える、足るを知るのに有効な方法だと思います。