盛和塾 読後感想文 第九十六号

人生は運命的な人との出会いによって決定づけられる

人生の途上で出会った人々の好意、善意を喜んで受け取り、その好意、善意が指し示す方向へと一生懸命に努力することによって運命が好転し、人生が開けていったと稲盛塾長は語っています。 

人生の師との運命的な出会い 

  1. 自らの善き思いが人の好意と善意を招く

運命的な人との出会いによって人生が決定するのですが、まずは人生で巡り合う様々な人々のなかで、その人が運命的な人かどうかを識別しなければなりません。利己的な思いやたくらみから助言を申し出てくれる人ではなく、自分に対して、好意と善意を持って手を差し伸べてくれる人であるかどうかの見極めが必要です。 

運命的な人との出会いとは、思いやりに満ちた純粋な思いから自分に接してくれ、助言や支援を下さる人のことを言うのです。すばらしい人間性を備えた方であるかどうか、さらに相手の為に“善かれかし”と願う心から指し示してくれる助言であるかどうか、まずその識別を行い、それが純粋なものであれば、心から感謝して受け取り、何のためらいもなく、その方向へ全身全霊をあげて努力していくことが運命を好転させることにつながるのです。 

しかし自分に好意と善意をもって接してくださる人々の運命的な出会いも、自分の方が善き思いを持ち、善き行いに努めているからこそ適(かな)うことなのです。こちらが利己的に、常に自分の損得だけを考えているようでは、出会う相手も必ず自分勝手で利己的な人となり、自分の都合と損得勘定だけで助言してくることになります。 

自分自身が純粋で、好意と善意の持ち主であれば、必ずそういう人が寄って来て、自分にも好意と善意で接してくれるはずです。自分の心の有り様に注意して好意と善意の人に出会うことができるように心を磨き、高めていくことが人生をすばらしいものにするうえで、たいへん大事なことになってくるのです。 

稲盛塾長の人生には多くの善意、好意を持ってよき助言をして下さった方々が登場しました。中学校に行かせてくれた土井先生、大学に行かせてくれた辛島(からしま)先生、就職先を世話してくださった指導教授竹下先生、目をかけて下さった内野先生、パキスタン行きを中止するようアドバイスして頂いた等、多くの先生方の好意、善意に稲盛塾長は助けられました。 

  1. 死の直前まで気づかってくれた内野先生

内野先生が危篤との急報を受けて、急遽、稲盛塾長は米国の出張先から帰国、羽田に着いてからすぐに入院先の都内の病院へ駆けつけられました。 

病院に着きました処、お嬢さんが病室ではなく病院の廊下に待機しておられたそうです。なぜ廊下におられるかとお尋ねしますと、ベッドの横にいると“気が散るから外に出ろ”と父から命じられ、二~三日前から廊下にいると言われたそうです。驚いたことに、内野先生が死に直面して、“自分の哲学をまとめなくてはならない”と考えられ、そのため人を遠ざけておられたそうです。人生の最後の期を“死を迎える準備期間”として捉えておられたようでした。 

“病室に入っていいでしょうか”とお嬢さんに尋ねますと、“父はいつも“稲盛君はどうしているだろう”と話していましたので、たいへん喜ぶと思います”と、入室を許されました。 

病室に入り、“内野先生”とお声をかけますと、もう骸骨みたいに痩せておられた先生が振り向き、破鐘(われがね)のような声で“おお!稲盛君、大したものだ!大したものだ!”しきりに稲盛塾長に話しかけられるのでした。お見舞いを申し上げ、近況を報告し、早々に失礼されたそうです。死の直前まで稲盛塾長のことを気にかけていただくなど、終止、あふれるような好意と善意で稲盛塾長に対してくださったそうです。 

  1. 京セラ創業の恩師・西枝さん

松風工業の上司であった青山政治さんが、京大時代の同級生の西枝一枝さんに、稲盛塾長を紹介されました。宮木電機の専務をされていた西枝さんでしたが、最初は“こんな若者が会社を経営するなどできるもんか”と考えられました。何度も通いづめ、ファインセラミックスの可能性を繰り返し説いていくうちに“やってみるか”と西枝さんは新会社への出資を宮木電機の役員の方々にも促してくださいました。 

この西枝さんは、ご自身の家屋敷を担保に入れて、一千万円もの開業資金を用意してくださいました。 

西枝さんにはお酒の飲み方から、実に多くのことを教わりました。心は広く豊かで快淡として欲がなく、会社の状況をご報告するたびに京セラの成長を我がことのように喜んでくださいました。 

西枝さんは新潟のお寺で生まれ育った方でした。その御縁で前の臨済宗妙心寺派管長の西片擔雪(にしかたたんせつ)ご老師を紹介いただきました。 

  1. 運命的な出会いがなければ、現在の私は存在しない

稲盛塾長は“これらの方々に出会っていなければ、今の私はなかったと強く思います”と語っています。“また、それらの方々の貴重なアドバイスに耳を傾けていなければやはり、現在の自分は存在しない”と振り返っておられます。 

自分を高める友人との運命的な出会い 

  1. 自分よりも立派な人を友人にする

“類は友を呼ぶ”“似たもの同士”とも言います。自分よりも立派な人、自分よりも人間的に成長した人、また自分の損得や利害得失で考えず、ことの善意で判断ができる人、つまり無私の考え方を持った人、さらに言えば他人の為に善意で考えてくれるような人とお付き合いをしていくということが大切です。 

われわれ経営者には、たとえ友達とはいえ、自分よりも立派な方とお付き合いをして、自分を高めていくということがどうしても必要なのです。 

  1. 心の友 宮村久治公認会計士

四十年ほど前に、京セラが大阪証券取引所第二部に上場すると考えて、会計監査法人を探しておられたそうです。都銀の支店長から宮村先生をご紹介いただいたそうです。 

“監査をお願いします”と頼むと“あなたは簡単に監査をお願いすると言われますが、そう簡単に引き受けるわけにはまいりません。”と言われたそうです。“決算にあたって私はあなたにいろいろと意見を言い、注文をつけると思いますが、あなたはそれを素直に聞いて従ってもらえますか”と稲盛塾長に問うのでした。

“もちろん私は人間として正しいことを正しいままに貫いていくということをかねてから信条にしていますから、不正なことをするつもりは毛頭ありません。”と答えられたそうです。

宮村先生いわく“いや皆さんそういうんです。経営が順調な時は正しい決算をしても大丈夫なものですからそう言う。ところがひとたび不況になって経営が苦しくなってきて、思うような決算にならなくなると、公認会計士に“そんな堅苦しいことを言いなさんな。ここのところあんたちょっとこう変えてくれてもいいではないか”という粉飾まがいなことを、かねて立派なことを言っていたはずの人が言い出すのです。”

稲盛塾長は“そんなことはありません。私はどんなときでも考え方を変えることはありません”

宮村先生は“それじゃ、男に二言はありませんな”とやっと監査を引き受けてくださったそうです。 

稲盛塾長は宮村先生が公明正大に企業監査をしようとしていく姿勢に強く惹かれたそうです。 

宮村先生はたいへん気難しくて、また理屈っぽい人で、塾長と意見が合わず、ことあるごとに激突していたそうですが、会計を語り、経営を語り、時局を語り、そして人生を語るうちに、本当に親友と言えるほどの間になり、一緒に酒を飲みに行ったり、ゴルフに行ったりするようになったそうです。 

そういう遊びの時でも、人生論や政治論になってしまい、意見が違うものですから、すぐに喧嘩みたいになったそうです。 

それでいて、宮村先生が病気になると稲盛塾長は心配して見舞いにいく。塾長が体をこわすと逆に宮村先生が塾長のことを気遣い、いろいろとアドバイスをしてくれたりするそうです。 

M&Aの案件などは真っ先に宮村先生に相談しておられたのですが、宮村先生は緻密にかつ綿密に、また公正に、相手である塾長のことを考え、“あなたが考えていることはそれでいいんですよ。そうすべきなんです”と心強い助言をされたそうです。宮村先生のアドバイスはいつも正しく、塾長にとって本当にすばらしいアドバイスだったそうです。 

宮村先生は塾長の自宅の購入や財産の管理も手助けされたようです。そうして塾長は、経営に全力投球できるよう環境を整えてくださったそうです。 

宮村先生は“稲盛さんと親しくなったおかげで、私は公認会計士としてもたいへん立派になれたと思う”と言われたそうです。徳に京セラ会計学、アメーバ経営について、“あんなにすばらしい会計学をあなたは独学でつくったのですか”と褒めていただいたそうです。 

共に学ぶ“磁場”を形成する 

  1. 出会いへの感謝の念が他を思いやる気持ちにつながる

若い頃、二十五、二十六歳くらいの間には悲惨な人生が続いていましたが、松風工業に入り、研究に打ち込み、その成果をもって京セラという会社をつくっていただいた頃から、今あるのは様々な人との出会い、特に京セラをつくっていただいた頃には、もう不平不満を漏らしているような自分ではなくなり、感謝の思いを強く抱くようになりました。そのころには、自分が幸せだと思うようになりました。出会えた人に対して、また社会に対して、感謝すると同時に“自分は何と幸せ者だろう”と思えるようになる。するとさらに自分以外の人たちも幸せになってほしいと願うという。他人を思いやる気持ちが自然に湧き出てくるようになったと、稲盛塾長は述べています。 

  1. フィロソフィーを共有するために虚飾をむしりとる

京セラがスタートすると、会社をどのように運営していけばよいのか、たいへん悩みました。二十八名で会社を創業したのですが、会社を潰(つぶ)せばたいへんなことになります。せっかく集まってくれた従業員の方々を絶対に路頭に迷わせてはならない。その為には、“誰にも負けない努力”を払うことを心に誓って、必死に働いて来ました。 

一生懸命に仕事を進めていく中で、運命的な出会いから学んだこと以外に、自分自身でも経営についてどういう考え方でなければならないか、またたった一度の人生をすばらしいものにするにはどういう考え方をすべきなのかということについて、折々に気づいたことを毎日、実験ノートの端に書き留めていったのであります。 

その書き留めたものをベースにして“こういう生き方、こういう考え方をすべきだ”と説いていきました。京セラは急成長していましたから、常時中途採用を行い、会社には年輩の方々もおられました。 

全ての従業員の考え方のベクトルを合わせなければならないと考え、少し“考え方が違うな”と思う人をつかまえては、よく話し込んでいきました。中途で入社してこられる多くの人はそれぞれ前職や人生での経験を通じて身につけた独自の考え方を持っておられます。人間、四十、五十になりますと、もう固定概念を持つようになりますので、稲盛塾長が多少言ったぐらいでは、なかなか聞いてくれず、素直に受け入れてくれません。 

中途入社の中には、いわゆる一流大学を卒業した人、また中央官庁や一流企業に勤めていた人もいました。そういう人ほど、たくさんの不要な固定概念をまとっているのです。それをむしりとっていくのです。あたかも、寒い冬に着こんでいる外套から上着、ついには下着まですべて脱がしていくようなものです。相手は必死に抵抗し、自分の衣服、つまり固定概念を離そうとしません。それでもパンツまで無理矢理にむしりとっていくのです。 

そうして虚飾をむしりとられて裸になった自分が、いかに貧相な自分であったかと皆、気づくのです。学歴や職歴など人間はいろいろな虚飾をまとっていますが、そんなものを全て引きはがしてしまうと、本当にみすぼらしい自分がいることに気づくのです。 

そうした後、京セラでは“考え方”“生き方”を、つまりフィロソフィーを改めて身につけてもらわなければならないのです。会社のフィロソフィーを、企業哲学を社員に理解してもらいたいと思いますが、会社でチョロチョロとフィロソフィーを説くだけでは、実際には社員はわかってくれません。本当にフィロソフィーを浸透させていくには、“むしり”とる壮絶なプロセスが必要だったのです。 

心底からフィロソフィーを理解し、共有し、そういう考え方、生き方を実践しようという社員が、会社のなかで次第にマジョリティーになっていくに従い、会社のベクトルがそろってきて、会社はぐんぐんと成長発展していくのです。 

  1. フィロソフィーによる“磁場”にいることで偉大な力を発揮できる

ところが、往々にして、会社が発展していくにつれて、社員が妙な自信を付けて、変質してしまうことがあります。京セラの場合、有能な幹部社員の中には有頂天になり、傲慢になり、会社を去っていった人もあります。京セラが上場した時、“俺は仕事が出来る。自分が会社を引っ張っているのだ”と自負心が高じて、転職していった人もいました。最初のうちは活躍されていたようですが、いつの間にか噂も聞こえなくなり、しまいには消息が分からなくなってしまいました。 

りっぱなフィロソフィーは職場の“磁場”のようなものです。フィロソフィーという企業哲学を共有し、みんながそれにベクトルを合わせ、同じ思いで仕事をしている。そこには、あたかも強力な磁場ができあがっているのです。 

その“磁場”の中におれば、つまりフィロソフィーを共有し、フィロソフィーに基づき仕事をしている時にはたいへんな力を出せるのですが、その磁場から離れてしまえば力を失い、ただの人になってしまうのです。たとえ自分がフィロソフィーを身につけていると思っても、フィロソフィーの実践は従業員同士の相互作用でなされるものですから、フィロソフィーを自分自身で持続していくこと、ましてやそれを他に移植していく、他の会社に、身につけたフィロソフィーを移植していくことは、大変な仕事なのです。 

京セラという“磁場”の中、つまり京セラフィロソフィーの中におり、それを信じ、お互いに影響し合っている時には偉大な力を発揮しますが、フィロソフィーという“磁場”から離れてしまうと、ただの人になってしまう。 

人生で運命的な人々に出会い、そのすばらしい善意、好意のアドバイスが指す方向へ、一生懸命に努力をしていく中で教わった“考え方”“生き方”があります。この両者でできあがったものがフィロソフィーなのですと、塾長は結んでおられます。