盛和塾 読後感想文 第九十八号

企業文化の重要性

会社経営において、トップはまず何のために会社があるのか、その為にはどのような考え方が必要なのかを明確にし、従業員に接していくと同時に、従業員が共有してくれるようにしなければなりません。トップの経営理念や経営哲学に従業員が心から共鳴できるかどうかが鍵となります。経営理念や経営哲学が従業員にも社会にも受け入れられる大義名分に基づいたものであること、同時に従業員の幸福を追求する、また社会の発展にも貢献するといった目的を示せば、従業員も共鳴し、仕事に打ち込んでくれるようになるはずです。 

トップの経営理念や経営哲学に賛同してもらう為には、トップの日頃からの言動行動が、理念や哲学と矛盾しないことが大切です。どんなに立派な経営理念や哲学があっても、利益至上主義に陥り、不祥事を起こす企業が後を絶たないのは、トップが矛盾した言動、行動をとっているからにほかなりません。 

経営理念や経営哲学は、それを実践していくことにより、その企業の立派な風土や文化をつくり出します。その理念に基づいて働くことが、会社にとっても従業員の人生にとってもすばらしいことだという、そのような企業文化をつくることが出来れば、会社は飛躍的に伸びていくことができるのです、と稲盛塾長は述べています。 

なぜ経営に哲学が必要なのか 

人間として最もベーシックな道徳、倫理をベースとする“京セラフィロソフィー”

稲盛塾長は27歳で、周囲の方々からの支援のもとに京セラをスタートしました。唯一の製品納入先の松下電子工業(パナソニック)に毎日通い、納品と集金を一生懸命に行うだけで、経営者として一体どのように会社を運営していけばよいのか全くわからない、どうすればよいのかと思い悩んでいました。 

日々の経営をしていくにはどうすればよいのか、その考え方や方法について大変悩み、不安にかられながら京セラフィロソフィーの原形を一つずつ編み出していかれました。 

“常に考える”という習慣は松風工業の時代からでした。就職難の時代、松風工業をやめることもできない、稲盛塾長は会社から与えられたセラミックの材料の開発に専念せざるを得なかったのです。待遇も悪く、研究設備も不十分、劣悪な環境の中で、どうしたら研究成果をあげることができるのか、どういう構えで仕事にあたらなければならないのかと毎日考えられました。 

仕事をするにはこういう考え方、こういう心構えでなければならないと思いつくたびに研究実践ノートの端に書き留めていくようになったそうです。経営に携わるようになってからは、仕事の要諦を書きためていたノートを再び引っ張りだして、気づきを書き加えていくようになりました。その結果が“京セラフィロソフィー”です。 

経営がわかっていなかったものですから、不安であった塾長は立派な経営をしている方々の話を聞き、どのようにすればあのような経営ができるのだろうと考え続けられました。この京セラフィロソフィーの根本にあるものは“人間として何が正しいのか”ということであり、その正しい考え方を貫いていくということです。 

従業員のベクトルを合わせ、高い目標を実現するために

稲盛塾長は“京セラフィロソフィー”を自分自身で実践していくと同時に、従業員にも懸命に説きました。しかし、経営哲学を従業員に説き、集団で共有しようとすればするほど、思想の自由・言論の自由ということを盾(たて)にして“どういう思想、哲学を持とうと各人の自由ではないか”と反発があったそうです。 

しかし、企業という集団において、従業員の幸福を実現するために、高い目標を掲げ、その達成を目指していくためには、“こういう哲学で経営をしていきます”という企業のなかで基準となる考え方がどうしても必要となるのです。その基準となる考え方に、全社員がベクトルを合わせていかなければならないのです。 

特に会社幹部は会社の考え方をよく理解し、それに心から共鳴している人でなければなりません。幹部社員だけではなく、一般社員も心をひとつにして、同じ方向を目指して仕事をしてもらうには、会社の考え方である経営哲学に対して理解を深め、それを共有してもらうよう努めていかなければなりません。 

稲盛塾長の経営哲学の根本にあるのは、ことの善悪で物事を判断するということです。“人間として何が善なのか、何が悪なのか”という基準で物事を判断するのであって、決して“自分にとって損か得か”“京セラにとって損か得か”という判断基準で判断してはならないということです。 

哲学を共有しようとすれば、“思想統制だ”“思想強要だ”と言われるかも知れません。しかし企業という集団で高い目標を実現すべく大勢の人間が共に仕事をしていくためには、個人の好き嫌いではなく、全員が共通の考え方を理解し、賛同し、共有していくことが前提となるのです。 

会社の哲学を共有したくない、“思想強要だ”という人には、“あなたと一緒に仕事をすることはできません。この社会では、どのような思想、哲学を持つことも自由なら、会社を選ぶことも自由です。当社の経営哲学が受け入れられないのであれば、自分の考えに会うような会社に行ってください”とはっきりと伝えるべきです。“自分が理解もできない、賛同もできないような考え方で経営をしている会社で、賛同したふりをして働くことは、お互いにつらいことです。ならば、自分の思想・哲学に合った会社に行ってください”と伝えるべきなのです。 

“京セラフィロソフィー”の三つの要素 

  1. 企業経営の規範となるルール・約束事を確立する

会社経営にあたっては、どうしても従業員の規範となるべきルール、約束事が必要であり、それがその会社の哲学として企業内に確立されていなければなりません。 

会社の規範やルール、約束事がはっきりしていない企業が沢山あります。そのために古今東西を問わず、様々な企業不祥事が頻発しています。日本企業、雪印乳業、カネボウ、が没落していきました。アメリカでもエンロン、会計事務所・アンダーソンが破綻しました。粉飾決算が発覚し、崩壊したワールドコムと、枚挙(まいきょ)に遑(いとま)が無いのです。これらはすべて企業経営の規範、ルール、つまり哲学がなおざりにされていた例なのです。その企業に哲学が確立されていないがために、あるいは紙に書いた哲学があっても、それが企業内に浸透していなかったために起きたことです。 

稲盛塾長の経営哲学は“人間として何が正しいのか”という問いに対する解であり、“正直であれ”、“人を騙すな”、“ウソを言うな”という子供の頃から親から諭され、先生から教わったプリミティブな道徳観、倫理観なのです。企業経営の規範・ルールは人間としてよいことなのか、悪いことなのかという善悪を判断基準とし、正しいことを正しいままに実行していくことなのです。 

“このような基本的なことを企業内で幹部や従業員に説かなければならないのか”と考える経営者が多いと思います。しかし、人間として当たり前の教えを守ることができなかった為に起きたことが、企業の不祥事であり、企業の業績不振なのです。 

例えば、小さな製品欠陥が発見されたとします。しかしこれを公表すれば、売上に影響する為、公表しません。その問題が内部告発によって表面化します。経営者は虚偽の報告をし、隠蔽工作(いんぺいこうさく)を行い、ウソをつき、騙し、隠し通そうとして、事態をさらに紛糾(ふんきゅう)させてしまう企業もあります。更にトップはこの不祥事の責任をとらず、部下の責任にしてしまうことがよくあります。 

企業のエリート達に“正直であれ”“人を騙すな”“ウソを言うな”といえば“バカバカしいことを言う”“人をバカにするな”と反論するのです。しかし日常の経営の中で、経営哲学、日常生きていくための規範、ルールを実践していなかった為に、大企業といえども崩れ落ちていったのです。 

グローバル化が世界で進んでいます。しかしこのような企業経営の規範となるルール、約束事は、全世界で普遍的に通ずると考えられます。京セラが海外進出を果たした時も、経営の舵取りを誤ることがありませんでした。 

  1. 会社の目的・目標を明確に指し示す
  • 世界一の会社を目指す

京セラフィロソフィーには会社の目的、会社の目標、つまりこの会社をどういう会社にしていくのかが明確に示されています。 

めざすべき会社の目標を掲げると同時に、自分達が望み、目指そうとしているその企業を目指すためには何が必要なのか、どのような考え方が必要なのか。 

京セラの従業員に、目指すべき会社の目標を言い続けて来ました。

“京セラを西ノ京原町で一番の会社にしよう

次に中京区一番、京都一番、日本一番、世界一番の会社にしよう“

と従業員に夢を与えると同時に、経営者自身を鼓舞(こぶ)する為でもありました。自分自身、“果たしてそんなことが出来るだろうか”と疑わしく思うと同時に“いや、絶対そうするんだ”と自分自身に言い聞かせたと、稲盛塾長は語っています。 

稲盛塾長は従業員に説き続けました。“日本一、いや世界一の会社を目指そう”。その為には幹部や従業員がどのように考え、どのように行動すべきか、仕事にあたる考え方から方法までを示した経営哲学を企業内に確立しなければならないと思われました。 

京セラが中小零細企業であった時から、世界一のセラミックメーカーになるという高い目標を目指したときに必要となるであろう考え方とその方法を、ことあるごとに従業員に話し、その方向へ進もうと全員で努力してきました。京セラを日本一はおろか世界一の企業にしていくのには、ストイックな厳しい考え方、また厳しい生き方、そして正しい方法がどうしても必要だったのです。 

例えば京セラフィロソフィーでは“高い目標を持つ”“誰にも負けない努力をする”“自らを追い込む”“ど真剣に生きる”等のストイックな考え方、生き方が述べられています。 

その当時100名くらいの従業員しか京セラにはおりませんでした。日本の大手セラミックメーカーには日本ガイシ、日本特殊陶業(とうぎょう)がありました。2009年3月期決算では、日本ガイシ売上二千七百億円、日本特殊陶業売上二千九百億円、京セラ売上一兆千三百億円。京セラは約4倍強の売上規模になっていました。 

  • どの山に登るか

京都の経営者仲間で一杯飲む機会がありました。その時、根は真面目でストイックな生き方をしてきた稲盛塾長は、話題が人生や経営について真面目で堅苦しい話をしてしまいました。ところが、エリートコースを歩んでこられた二代目社長が、“いや稲盛さん、私はそうは思いませんなあ”愉快で楽しく人生を送るべきだと考えておられた様でした。稲盛塾長は“こういう厳しい経営環境の中でこそ、生真面目で慎重な経営をすべきではないか”と話されました。二代目社長は“私はそうは思いませんね”と反論されたのでした。 

その時、ワコールの会社の創業者の塚本幸一社長がいきなり“おい、おまえは何を言うんや”と彼を厳しく叱り付けたのです。お酒を飲んでワイワイ楽しんでいらっしゃる温和な方が、突然血相を変えて二代目社長を怒鳴りつけたのです。 

“何をいうてんねん。おまえは稲盛君と自分が同列やと思っているんか。おまえと稲盛君という、比べられないものを比べてどうするんだ。稲盛君は徒手空拳で会社を創業し、京セラを素晴しい会社にした。ワコールの創業者の私でさえも、稲盛君には一目も二目も置いているんや。おまえは二代目でくだらん経営しかしておらん。”“どういう経営をしているかということは、どういう哲学を持っているかで決まると稲盛君は言っているんや。おまえは稲盛君の哲学に対して、自分の哲学を主張できる立場か。”きびしい叱責でした。 

塚本さんが言われておられるのは“どの山に登るのか”二代目社長の登る山と稲盛塾長の登る山は比較にならないくらい違う。いい加減な哲学-人生を楽しめばよい-で登る山がストイックな哲学で登る山と同じレベルであるのならば、比較はできるけれども、すなわち同じレベルの業績を上げているのであれば、違った哲学は比較する意味がある。しかし低い業績しかあげていないのに好業績をあげている経営と、その哲学に異論をはさんでも意味はないのです。 

近所の低い山にハイキングに行くならば、何の訓練もいりません。気軽な軽装で登っていけます。エベレストを目指すとしますと、訓練は必要、装備も高度な登攀(とうはん)技術と豊富な経験を持った人材をはじめ、露営できるだけの十分な食料、装備など、周到な準備が必要です。ハイキングとエベレスト登頂も同じ登山として比較しても意味がないのです。 

つまり、“どの山に登るか”、つまりどのような会社を目指すかによって、会社の中を律する哲学や思想が変わってくるのです。高い目標を目指すには、それに相応しい考え方と方法論が必要となるのです。 

  1. 企業に格(社格)を与える

人間に人格があるように会社にも社格があります。その社格を与えるためにも、哲学は企業経営にどうしても必要なのです。すばらしい人格、すばらしい社格をつくりあげていくには、人間として正しい生き方が示されていなければなりません。

トップ、幹部、従業員が日頃から“人間として何が正しいのか”という基準に照らして仕事に打ち込んでいくことによって、会社の社格が生まれて来ます。京セラフィロソフィーは国境を越えてグローバル経営においても有効に機能するのです。 

京セラでは全世界に数多くの製造拠点、販売拠点を有し、従業員の半数以上も外国人です。言語、民族、歴史、文化などが全く異なる地域で事業を展開しています。仕事は人間が行っています。従って、異国で企業経営を行う際には、とりわけ“人を治める”ということが重要です。 

人を治めるためには二つの方法があります。一つは強大な権力でもって人を抑えつけ、支配して納めていく方法です。これは覇道(はどう)と言います。もう一つは仁、義など、いわゆる“徳”で人を治める方法です。これを“王道”といいます。 

京セラでは従業員と目標を共有し、その従業員が一生懸命、陰日向なく会社の為に貢献してくれるように“徳”で信頼と尊敬をかちとり人を治める“王道”の方法に従って会社経営に努めてきました。