盛和塾 読後感想文 第102号
経営のこころⅢ いかにして心を高めるか
経営のこころⅠでは、企業内で確立すべき判断基準、使命や将来の目標についての話がありました。経営のこころⅡでは、経営思想哲学の根幹についての話がありました。これらは企業内にどのような精神性を確立しなければならないのかという事でした。
今日は、経営者自身がどのような精神性を持たなければならないかということについての話です。経営者自身の“心のあり方”について、心の構造から説き起こし、経営者自身の“心のあり方”がどうならなければならないかという話です。
経営はトップの器 (うつわ) で決まる
“カニは甲羅に似せて穴を掘る”と言われています。それは、人は自分の身の丈に合わせた事しかできないという、世間一般に流布していることわざ、俚諺 (りげん) です。
これは唯単なる世間智 (処世の知恵) ではなく、企業経営においてはまさに核心を突いた要諦なのです。経営において、業績は経営者の“器量”、つまり人間性、人生観、哲学、考え方、あるいは人格の通りでしかならないものなのです。
京セラのアメーバ経営である小集団部門別採算の経営を行っていますが、なかにはアメーバを発展するにつれ、うまく経営が出来なくなるリーダーが出てくるのです。
あるいは、抜擢されて大きな組織を担当するようになると、力を発揮できなくなるリーダーが存在するのです。
企業経営の中でも、会社が小さい内はうまく治めていたはずの経営者が、会社の規模が大きくなるにつれ、経営者としての役割を果たせなくなるということが往々にしてあるのです。それは能力のみならず、その集団のリーダーの人間性が組織の発展に合わせて高まっていかなかった為に起こることなのです。組織の拡大に伴い、4発生する問題も次第に大きくなり、高度化し、複雑化していきます。人間性が高まっていなければ、 (一段と高い視点から判断することができるように、人間性が高まっている) その新しい局面に対応できなくなってしまうのです。
心を高める経営を伸ばす
企業の業績をさらに立派なものにしていこうとするなら、経営者がその人間性を高め、人格を磨いていく以外に方法はありません。稲盛塾長は、京セラの創業間もない頃から、“経営がトップの器で決まるならば、トップである私自身の器を磨き、大きくしていかなければいけない”と強く思い、努力を重ねてこられました。
稲盛塾長のベッド脇には、何冊も宗教や哲学関連の書籍が積んであります。京セラ創業以来今日まで、夜寝る前に一頁でも本を開かなかった日はなかったそうです。
宗教書や、哲学書を読んで感銘を受けると、胸が詰まって先に進めなくなることがありました。そのような箇所には赤線を引き、もう一度読んでみます。わずか一頁を読むだけで、三、四十分もかかることがありました。いい本の中には、素晴らしい珠玉 (しゅぎょく) のような言葉があります。
稲盛塾長は読解力にも優れておりますから、多くの宗教書・哲学書を読むことができます。私共凡人は、稲盛塾長の真似 (まね) はできません。私はこれはと思った方の言われた事や書物を、同じものを何回も繰り返して読むようにしています。大事な箇所には赤線を引き、3回読み、今度はメモにまとめるようにしています。目で読み頭で考え、最後は手で憶えるようにしています。これだけしてもすぐに忘れてしまいます。
自分の人間性・人格を磨くために、過去の偉人、賢人、聖人と言われるような人達が書いた書物を若い頃から読み、実践しようと努めてきた、それが稲盛塾長の半生でした。
経営者は何故心を高め続けなければならないのか。それは経営において正しい判断を下すためです。企業の業績とは、経営者が下した判断が累積した結果であり、そうであるなら経営者は、正しい判断を下し続けなければならないのです。そして常に正しい判断を行うためには、確固たる判断基準が求められるのです。
一般には、経営判断は損得を基準にすることがほとんどです。それが自分にとって損か得か、そのような利己的な欲望をもとに判断するものですから、往々に誤った判断を下してしまうのです。
正しい判断を求めるならば、“人間として何が正しいか”つまり、“善悪”に照らして物事の是非を判断していかなければならないはずです。
ここに常に“心を高める”努力を続けなければならない理由があるのです。
人は誰でも“心を高める”努力を怠ると、その判断基準は次元の低い損得をもとにしたものとなり、結論を誤ってしまうのです。心を磨き、立派な人格を作るように努めることで、善悪に基づく正しい判断が可能となり、経営の舵取り (かじとり) を誤ることなく業績を伸ばしていくことができるのです。
心の構造
稲盛塾長の考えられた“心の構造図”があります。心の構造を明らかにするには、医学、生物学からのアプローチ、また心理学からのアプローチ、さらには哲学からのアプローチ等、色々な領域からの切り口があります。ここに表わされている“心の構造図”は稲盛塾長の思想・哲学から考えられたものです。
人の心とは、様々な要因が幾重にも重なった同心円状の多重構造になっていると考えられます。
心の構造の一番奥には、良心、理性あるいは真善美、愛と誠と調和に満ちた高次元の“真我”が存在します。よく“良心の呵責 (かしゃく) に耐えかねて”と言います。悪いことをしたことで、自分の中にある良い心に咎められるという意味ですが、これが良い心、良心、“真我”です。
この真我の外側には、我々の生命を維持する為に必要な食欲や闘争心といった“本能”があります。欲、怒り、愚痴、不平不満などの悪い思いも、この本能に基づくものです。仏教では“煩悩”と言います。
本能の外側には“感情”があります。これは本能的に好き、嫌い、喜び、怒りなど、人間が抱くものです。
本能と感情を合わせたものが“自我”です。その“自我”と“真我”を合わせたものが“魂”です。
赤ん坊も目が開いてきますと五感・感性が出てきます。目、耳、鼻、味、接触五感/感性が発達してきます。
その感性の外側には知性があります。これは知力というものです。これは我々の大脳の中に発達してきた知力です。
誰もが等しく真我を持っている
真我とは仏性のことです。“森羅万象に仏が宿る”と表現します。どんな極悪非道な人間であっても、また無生物であっても、等しく仏が宿っているという意味です。
昔の人からよく言われました。“米一粒の中には三人の仏様がいる。粗末にしてはいけない”
森羅万象全てのものに存在しているものは、宇宙を作っている根源そのものでもあるとも考えるそうです。生物も無生物も含め、自然界にある全てのものに形を変えて、その根源なるものが存在する。例えば一輪の花にしても、宇宙の根源が姿を変えて存在していると考えられるそうです。
“仏は宿る”という考えは、仏教だけではないのです。哲学を勉強された人、ヨガや瞑想などで修行をされた方々で、レベルの高いところまで意識を高めることのできた人は皆、生物も無生物も含めたこの宇宙に存在するもの全てのものには、宇宙の精エッセンスが入っており、それが姿を変えているのだと言うのです。
瞑想をして意識を落ち着かせていき、純粋な状態にまで心を鎮めていったときに、自分の五感が無くなり、本能とか感情という低次元のものも吹っ切れてしまい、限りなく静寂な世界に入っていくことができる。我々凡人が瞑想をしても、知性や感性や感情が次から次へと湧き起こってきます。次から次から妄想が湧いてきてしまいます。
ところが、純粋な瞑想で心を鎮めていくと、知性も感性も感情も本能も全て消えていくそうです。そして奥底にある真我に近いところまで到達することができるそうです。それが“悟りを開く”ということです。
イスラム学の権威でおられる井筒俊彦先生 (いづつ としひこ) は、次のように語っておられるそうです。“自分の意識も全部えしてしまって、感性も感情も全てなくなってしまって、ただ私が存在するという意識だけは厳然としてある。そうなった時に生物も無生物も全部含めて、自分の周囲にある森羅万象あらゆるものが存在としか言いようのないもの、つまり宇宙のエッセンスであるということがわかる”
亡くなった前文化庁長官の河合隼雄 (かわい はやお) さんが次のように表現しておられます。
河合さんは花を見て、“あんた花やってはりますの。私河合やってまんねん”
存在としか言いようのないものが姿形を変えて花を演じたり、河合隼雄を演じていたりしていると仰っておられるのです。
心の中心にある“真我”は、等しく全ての存在に共通するものです。人が皆持っているものなのです。これはまた、宇宙の根源なのです。我々はそのような美しい、素晴らしいものを心の中心に皆等しく持っているのです。等しく皆、真善美、愛と誠と調和に満ちた真我を持っているのです。
“心を高める”とは、低次元の自我を抑え、高次元の自我を発達させること
実際にビジネスの世界では、自分の会社にとって損か得か、自分自身が儲かるか儲からないかという本能レベルで考えがちです。いくら賢明な人でも、最初から真我はもちろん、知性で考えられる人はそういないはずです。どんな人でもこれは自分が儲かりそうですと、本能的に反応してしますのです。修行を積み、戦略を立てるようになり、知性を使い始めます。
高次元の真我、良心、理性は心の最も奥底にあり、その上を低次元の本能、感情、自我が覆っていますから、なかなか出てきません。そのために、我々は必ずと言っていいほど、真我を取りまく低次元の自我で物事を判断してしまうのです。そしてその時、覆っている自我があまりにも強ければ、誤った判断をしがちなのです。
低次元の“自我”とは“オレがオレが”と主張する欲望、“利己”のことです。真我は他に良かれかしと思う“利他”の心のことです。人を慈しみ、人を助けてあげようという優しい思いやりのある心です。
人間はどうしても利己的な自我が過剰になりがちですから、自我を抑えるということが大切になってきます。その為、仏教では“足るを知る”ということを教えています。“そんなに欲張らなくてもよいではないか” “そんなにオレがオレがと言わなくてもよいではないか”利己的な自我を抑えていくことを教えています。
このようにして自我を抑える、つまり真我の周囲を取りまく自我の皮を薄くしていくことに努めていますと、高次元の真我、つまり良心、理性というものが出てきます。
低次元の自己を抑え、高次元の真我つまり、慈悲に溢れた利他の心というものが出てくるように、自分をトレーニングすることが“心を高める”ということなのです。
真我 (利他) と自我 (利己) が心の中心に同居し葛藤している
本能に基づく欲と怒りと愚痴を抑えて、心の中心にある真我つまり、良心、理性を発揮しやすいようにするにはどうすべきか。
それには、心の構造の一番外側に位置する知性を使って、最も中心にある理性を呼び起こすという方法があります。あるいは、知性で直接本能を抑えるという方法もあります。“それはおかしい。道理に合わないではないか。そんな自己中心的な欲張ったことは、理屈から言ってもおかしいことではないか”というように、知性でもって事の是非を理解し、自らを戒めていくことができます。
また、もう一つの心の構造図 ― 真我と自我が心の中心に同居しているということも考えられるのです。
つまり、心の中心に真我と自我が同居しているのです。真我の方が自我を上回り、六割になったり七割になったり、八割になったりしていくということが、心が高まり人格が高まっていくということなのです。
日々精進を重ね、心を磨くことによって真我の占める割合が増していき、自我の占める割合が減っていく。それが“心を高める”というように理解するほうが分かりやすいかもしれません。
インドの詩人タゴール (文学ノーベル賞) の詩です。
私はただ一人神様の前にやってきました
しかし、そこにはもう一人の私がいました
その暗闇にいる私は
一体誰なのでしょうか
私はこの人を避けようとして
脇道に逸れますが
彼から逃れることはできません
彼は大道を歩きながら
地面から砂塵 (さじん) を巻き上げ
私が慎 (つつ)ましやかに囁いたことを
大声で復唱します
彼は私の中の卑小なる我
つまりエゴです
主よ 彼は恥を知りません
しかし私自身は恥じ入ります
このような卑小なる私を伴って
あなたの前に来ることを
私というのは、真我、利他の心、美しい心です。神様の前に近づいた時、暗闇には“もう一人の私”自我である利己の心、悪しき心を持った者がいるのです。悲しいかな、人の心の中には、美しい心も悪しき心も同居しているのです。
放っておけば、我々の心の中は全体の八十%~九十%くらいを利己の心が占めています。真我、つまり利他の心が隅っこに追いやられているのです。日頃から厳しい修行を重ねることで利己の心を抑え、利他の心が八十%~九十%占めている人は聖者です。
心というものは、利他と利己の二つの心がせめぎ合っているのですから、いい研究ができるとか、仕事ができるとか本能の欲がありますが、それらを超えてこの利他と利己の比率になってこそ、その人物のレベルが高まるのです。
心の中核をなす真我、つまり利他の心を大きくし、実践していく。この繰り返しによって心を高めることができ、その結果、周囲から人間が立派だ、人間ができていると言われ、また同時に、経営や人生を成功に導くことができるのです。
このお話は誰でも理解していけると思いますが、“心を磨く” “心を高める”ことを日々努力し、実行していくことが最大の課題なのです。継続して実践していくことが最もチャレンジすべきことなのです。