盛和塾 読後感想文 第106号

フィロソフィーを共有する

人生や仕事の結果=考え方x熱意x能力、人生や仕事の成功には三つの要素が必要です。考え方、熱意、能力です。熱意も必要ですし、能力も必要ですが、その方向を誤りますと、成功どころか逆に失敗に連なります。その方向は考え方によって決まってきます。考え方はフィロソフィー(哲学)です。

 

正しいフィロソフィーを従業員に話し、従業員に理解してもらい、そのフィロソフィーを共有することが大切です。

 

トップも従業員も、同じような考え方、同じような思想、同じような哲学をもつようにしてください。“それは末端の従業員、つまりアルバイト、パートタイマーのおばさんに至るまで、おなじような気持ちになるところまで、フィロソフィーを伝えてください”

 

フィロソフィーは唯、話すだけではありません。みんながいっしょになって理解し、共有してくれるまで、時を問わず、場所を問わず、あらゆる機会を捉えて従業員に説明し話し合うのです。

 

理解し、共有するとは、社長は従業員のことを思い、従業員は社長のことを思ってくれる、そういう関係になることをフィロソフィーを共有するといいます。

 

何故 経営に哲学が必要か、人は何のために生きるのか

稲盛塾長は若い頃、経営者となり、経営の経験のない中で、一生懸命に生き、仕事に打ち込み、経営にはフィロソフィーが必要だと気がつかれました。人生・仕事の結果=考え方x熱意x能力、つまり人生や仕事の結果はどう考えるのか、一生懸命の努力と熱意と本人の能力の積で表すことができるのではないか。

 

多くの方々の人生を見てみますと、様々な人生を歩いておられます。幸せな人生もあれば、不幸な人生を送る方もおられます。どうして、あれほど異なる人生になってしまうのか。企業経営者でも、たいへんうまくいっている経営者もあれば、そうでない経営者もおられます。そのような違いはどこから生まれるのでしょうか。

 

一般には、そのような差はその人の持っている能力によるものだと思われています。知的能力、肉体的能力を含めて、その人の持っている能力に人生や仕事は左右される、しかしそうであるならば、先天的に頭が良くて、肉体的にも頑健な人だけが成功を収めていくことになります。

 

しかし、現実はそうではありません。一流大学を卒業した人でも、大企業で不祥事を起こし、人生を台無しにしてしまった人も多くおられます。小学校しか卒業しなかったにもかかわらず、大企業を創業し成功しておられる方もおられます。能力も大きなウエイトを占めていると思われますが、その人の持っている考え方、哲学、思いのようなものが大きく作用しているのではないか。決して能力だけで人生や仕事の勝負が決まるのではありません。能力はなくても一生懸命に、真面目に生きていこう、人並以上の努力をしている人には、必ず良い結果がついてくるはずだ、と塾長は考えました。

 

人生において、たしかに“能力”というものは大きなファクターとなりますが、もし能力はさほどなくとも、人生を真面目に一生懸命に生きようという強い“熱意”があれば、人生や仕事の結果は大きく変わってくるのです。

 

日本を代表するエレクトロニクスメーカーであるパナソニックを創業された松下幸之助さんは、小学校しか出ていません。自転車屋での丁稚奉公で人生をスタートし、苦労に苦労を重ねてこられました。その松下幸之助さんは、人生や仕事で偉大な業績を残しておられます。それは、その熱意と能力が足し算ではなく積でかかってくるがゆえに、さらにこれを幾何級数的に成長・発展させる考え方があったからだと思われます。

 

考え方がマイナスなら人生の結果もマイナスに

大切なことは、この“熱意”と“能力”の積にさらに“考え方”が積でかかってくるということです。“考え方”とはフィロソフィーです。人生観です。判断基準、さらには心に抱く思い、その人が持つ価値観とも言えます。

 

考え方といいましても、悪い“考え方”から善い“考え方”まで幅があります。世の中面白くないと斜に構えて、強盗でもしようか、泥棒でもしようか、と思ったとします。能力があり、熱意があればあるほど、その人は大きなワル、巨悪になっていくわけです。

 

自民党一党独裁で、政治が腐敗していました。1960年前後、国民も貧しく、左翼的な思想が社会に蔓延していました。そのような政治や社会の在り方に憤(いきどお)りを感ずる若者たちが立ち上がったのが、1960年の日米安全保障条約、つまり日米安保の改定でした。ようやく戦争が終結し、日本に平和が訪れたと思ったら、日米安保によって日本がアメリカの軍事態勢のなかに組み入れられることになってしまうかも知れない、そのような暴挙を許してはならないということから、学生たちが激しく反対し、抵抗したのでした。

 

それは人一倍正義感の強い若者であれば、当然のことでした。そのような若者特有の正義感の自然な発露まではよかったのですが、やがて社会変革に向けた活動が日本で行き詰まりを見せていった時に、一部の過激な人達が、偏狭な思想、“考え方”に凝り固まり、次第に先鋭化していきました。

 

私の友人の一人も“よど号乗っ取り事件”の指導者となり、二十年獄中につながれました。北朝鮮に渡った指導者はさびしく五十一歳で日本に帰国することなく、亡くなりました。一方では浅間山荘事件を起こし、仲間同士でリンチ殺人を犯し、中東のゴラン高原に逃れるようなことが発生しました。その中で、私の友人と、私の友人の妻が殺害されました。

 

人並外れた指導力、能力、熱意もあったこれらの若者は、その正義感にもとづいた思いを実現することなく、この世から去っていきました。思いは果たせなかったかも知れないですが、よい“考え方”さえ持っていれば、必ず世の中に貢献することができたはずです。それが“考え方”が間違っていたために、その人生を大きく誤ってしまうことになったのです。

 

このように、どのような“考え方”を持つかによって人生や仕事の結果が大きく変わってしまうのです。“能力”や“熱意”はゼロから100まであるのに対し、“考え方”はマイナス100からプラス100まであると考えられます。

 

少しでもマイナスの考え方であった場合には、結果は全てマイナスに転じてしまうのです。掛け算、積でかかってくるだけに“考え方”がわずかマイナス一点であっても、結果がすべてマイナスになってしまうのです。また“熱意”があり“能力”があればあるほど、たいへん大きな負の結果が生じてしまうことにもなるのです。

 

指導者である経営者やリーダーが、悪い考え方、マイナスの考え方を持ちますと、そのマイナスの結果は自分ひとりのみならず、周辺の人までも不幸に陥れてしまうことにさえなるのです。

 

塾長は、自分には立派な能力はないだろう、しかし人並外れた熱意、誰にも負けない努力を重ねていこう、人の倍ほど働こうと思いました。同時に、人並み以上のよい“考え方”よいフィロソフィー、よい哲学、よい思い、よい人生観、正しい判断基準を身につけようと思われました。

 

孔子、孟子、陽明学、中国の古典に学び、仏教の教えなどを勉強し、そのような聖賢の哲学を自分の心のなかに植え付けていこうと、塾長は、今まで努めてきました。

 

“思い”の重要性を軽視していることが現代の課題

経営に携わっていく中で、我々は様々な判断を迫られます。そのような時、自分の持っている“考え方”、“思い”に照らして判断をしていくことになります。自分の判断基準となる“考え方”や“思い”が立派なものであるかどうかによって、その結果が大きく変わってしまいます。

 

現代を生きるインテリであればあるほど、そのような人間が抱く“思い”“考え方”というものを軽視しがちです。現代の発達した文明は、人類の“思い”がその源なのです。

 

人類が狩猟採集の生活をしていました。他の生物と共生してきました。こうした狩猟採集の生活では、環境変化に大きく左右されるため、やがて人類は牧畜農耕の生活へと移行していきました。この牧畜農耕の生活に入ってからは、人類はもっと収穫をあげたいという欲望、“強い思い”を募らせていくようになりました。そしてそこに創意工夫が生まれ、技術が生まれ、人類は絶えざる進化を遂げてきました。つまりもっともっと多く、豊かにという“思い”があって、それが技術の進歩をもたらし、人類の進歩発展を促してきました。現在の高度な科学技術もすべて人類が心に描いた“思い”が源なのです。

 

その人間の思いというものは、そのくらい重要なことなのに、それを軽視してしまい、その思いの結果である知識や技術やお金こそ大切だと思っておられます。このことが人生・経営を営むにあたって、現代人が陥っている大きな課題と考えられます。

 

すばらしい“考え方”“思い”を持っているのか、持っていないのか、それによって人生は決まってきます。経営も同様です。すばらしい“考え方”があるかないか、それによって企業業績も企業寿命もすべて決まってしまいます。

 

経営には能力も熱意も必要です。近年若い経営者が、すばらしい能力と才覚を発揮し、また強い熱意をもって、さらにIT技術を駆使して、急成長した例がありました。しかしその経営者が持っている“考え方”が、お金さえあれば何でもできるという誤った考え方であったため、その経営者も会社も社会から糾弾を受け、没落していきました。

 

アメリカ企業の中でも、経営者の一部に“貪欲は善であり、資本主義のエンジンだ”と考える人もいます。先般のリーマンショックのときも、米国を代表する金融機関が崩壊し、多くの人々が莫大な損失を被る中、自らが巨額の報酬を得ようとする、金融機関のトップの姿勢が厳しく問われました。つまり“強欲”として批判されました。

 

能力は大切な要素ですが、それだけではうまくいかないのです。能力に頼って成功した人はいても、それは一時的なもので、それだけでは決して繁栄は長続きしないのです。それはその経営者の“考え方”に欠陥があるからです。

 

フィロソフィーとは、高い目標を達成するために必要な装備

それでは経営者はどのようなフィロソフィー、考え方を持てばよいのか。歴史上の偉人、賢人は、それぞれ様々な“考え方”、哲学を説いています。それはその偉人が、聖人が、どのような心のレベルにあったのかによって、自ずから異なってくるのだと塾長は述べています。

 

経営者が持つべき哲学も同様です。世の経営者によってその“考え方”は様々です。京セラやKDDIでは塾長は自らのフィロソフィーを、経営哲学をことあるごとに説いてきました。それは自分自身を律則していく規範であり、大変ストイックなものでした。

 

“完全主義を貫く”、“地味な努力を積み重ねる”、“自らを追い込む”、“有言実行でことにあたる”、“潜在意識にまで透徹する”、“強く持続した願望を持つ”、“垂直登攀(すいちょくとうはん)で挑む”“成功するまであきらめない”などです。塾長のフィロソフィーには厳しくストイックに生きる姿勢を求めるものが沢山あります。

 

それは自分の企業を一体どういう高みにまで導いていこうとするのかということにかかっているのです。成長もほどほどに、ほどほどの規模で良いという会社では、生やさしい哲学でもよいと思います。世界に冠たる企業の中の企業と呼ばれるような会社を目指そうと思えば、そのフィロソフィーはストイックなまでに厳しいものになります。

 

“どの山に登るか”によって準備、装備も、訓練も異なるのです。近くの山に登るのであれば軽装でもいいが、世界最高峰の高い山を目指すのであれば、周到な準備が必要なのです。

 

社員にこのようなストイックな考え方を理解してもらおうと説いていますと、“なぜ我々はこんな厳しいことを強制されるのか”と反発する社員も出て来ます。そのような時、経営者は“我々の会社は並の会社にしようとは思っていない。世界に誇れるような立派な会社にしたい。社員の皆さんが胸を張って働ける職場にしたいのです”と堂々と説いていくのです。

 

自分達の会社を素晴しい会社にしていきたい。米国一、世界一の会社にしたいと思うなら、その“考え方”“企業哲学”は厳しくならざるを得ないのです。

 

心に抱く思いによって人生は全て決まる

それでは、そうした目的の為にどういう考え方をしたらよいのか、またどういう思いを持たなければならないのか。

 

人間は生まれた時から本能というものを持っています。人間の本能は自然界が我々に与えてくれたもので、生きるために必要なものです。本能で一番強いのは“欲”です。貪欲、性欲、これらの欲があるから、私達は肉体を維持することができます。

 

また“怒り”があります。外敵から身を守るために、相手に立ち向かうためには必要なものです。

 

さらに自分の存在を守っていこうとして、周囲や相手に対して不平不満を鳴らす“愚痴”があります。

 

この“欲”、“怒り”、“愚痴”という本能をお釈迦様は、人間が持っている“煩悩”といわれ、“煩悩”の中でも最も御しがたいものだとして“三毒”と称し、戒めるよう、我々に説いておられます。心の中にどういう思いを抱くのか、人間の心はこの“三毒”にまみれてしまいます。それ故に心の中に少しでも善い思い、善い心を植えつけるように努めるようにしなければなりません。

 

1900年代初頭に活躍したイギリスの哲学者、ジェームズ・アレンという方が、小冊子“As a Man Thinks”の中で次のような言葉を残しています。

 

“人間の心は庭のようなものです。それは知的に耕されることもあれば、野放しにされることもありますが、そこからはどちらの場合にも必ず何かが芽生えてきます。もし、あなたが自分の庭に美しい草花の種を蒔かなかったらば、そこにはやがて雑草の種が無数に舞い落ち、雑草のみが生い茂ることになります。

 

優れた園芸家は庭を耕し、雑草を取り除き、美しい草花の種を蒔き、それを育(はぐく)みつづけます。同様に私達も、もし素晴らしい人生を生きたいのなら、自分の心の底を掘り起こし、そこから不純な誤った思いを一掃し、その後に清らかな正しい思いを植え付け、それを育みつづけなければなりません”

 

自分の心という庭の中の雑草を取り除き、そして自分の望む美しい草花の種を蒔き、丹念に水をやり、肥料をあげて管理をしていく。この美しい草花の種とは“善き思い”“善き考え方”、まさに善きフィロソフィーです。丹念に水を蒔き、肥料を与えていくということは、その“善き思い”“善き考え方”の勉強を常に行っていくことです。また同時に心の庭の雑草を取り除く、“悪しき心”“悪しき考え方”を取り除くために、まさに日々の己の反省を怠らず、懺悔(ざんげ)をしなければなりません。

 

“正しい思いを選んでめぐらし続けることで、私達は気高い、崇高(すうこう)な人間へと上昇することができます。と同時に、誤った思いを選んでめぐらし続けることで、獣のような人間へと下落することもできるのです”

 

“心の中に蒔かれた思いという種のすべてが、それ自身と同様のものを生み出します。それは遅かれ早かれ行いとして花開き、やがては環境という実を結ぶことになります。良い思いは良い実を結び、悪い思いは悪い実を結びます”とジェームズ・アレンは述べています。

 

稲盛塾長が人生・仕事の結果=考え方x熱意x能力という方程式をつくり、“考え方”によってすべてが決まってくるのだと考え、信じ、実践したことをジェームズ・アレンはこのように表現しています。

 

“心は想像の達人です。そして私たちは心であり、思いという道具をもちいて自分の人生を形づくり、そのなかで、さまざまな喜びを、また悲しみをみずから生み出しています。私たちは心の中で考えたとおりの人間になります。私たちを取り巻く環境は、真の私たち自身を映し出す鏡にほかなりません”

 

これを企業経営に当てはめれば、企業を取り巻く環境は、まさに経営者、または社員自身の心を映し出している鏡であるということなのです。もし社会から糾弾を受けたり、倒産したりするような会社があれば、それは歴代の経営者を含め、その企業に関連する者の思いが、そういうものを招き、つくってしまったのです。

 

“人間は思いの主人であり、人格の製作者であり、環境と運命の設計者である”

ジェームズ・アレンは述べています。

 

人間は思いの主人公であり、人格をつくっていく製作者でもあり、さらには自分の環境と運命の設計者であるということなのですが、いわば自分の心ですべてをつくることができると言っているのです。思いというのはその人の人格を作ります。その人格により、周囲の人たちがその人格にひかれて近づいて来ます。こうして近づいてくる人々が私たちの環境を良きにつれ、悪きにつれ、作っていくのです。“類は類を呼ぶ”と昔から伝えられてきています。従って私達の環境も、自分自身の人格の繁栄であり、自分自身の思いや人格が招いたものなのです。

 

心にすばらしい草花の他絵を蒔き、手入れをしていけば、素晴しい結果を作っていくことができます。逆に心の手入れを怠れば、雑草が生い茂るような結果を招いてしまうことになります。

 

我々近代人は一般に自分が何かを思おうと思想の自由ではないか、どんな思いを抱こうと自分の勝手だと思っています。しかし思いというものがそれくらい重要なものであれば、思いというものに対してもっと充分な配慮をする必要があると思われます。

 

原理・原則を判断基準にする

人間には“善い心”と“悪い心”があります。善い心とは、自分のことはさて置き、周囲の人みんなが幸せであってほしいと願う優しい思いやりに満ちた利他の心です。一方“悪い心”とは自分だけが良ければよいという利己的な、邪(よこしま)な心のことです。人間の心の中には、この善い心と悪い心が同居しています。

 

自分だけが良ければよいという邪(よこしま)な考え方をなるべく抑え、善なる利他の心が自分の心の中で多くを占めるようにしていく、これが人間の修行です。そしてそれが人間をつくっていくこと、人格を高めることにつながります。

 

経営者や経営幹部は日常様々な判断を迫られます。そのときに放っておけば人間は善悪ではなく損得で判断をしてしまいます。会社にとって得するか、自分にとって得するのかを考えてしまい、本能的に判断しがちです。又、自分を侮辱(ぶじょく)しているなどの感情論や、くだらないプライドで物事を判断してしまうことさえあるのです。善なる心で判断するということは、厳しい修養、訓練を通じて、身につけていかなければなかなか実行できるものではないのです。

 

稲盛塾長は自分を戒めるために幹部や部下の人たちに、次のような話をしています。

 

“問題が起きてあがってきた案件を判断するときに、すぐ頭に浮かぶ思いは、全てといっていいほど、本能から出たものです。まず心に浮かんだ思いですぐに結論を出してはいけません。“ちょっと待てよ”といったんその判断を横に置き、理性で考えてみる。あるいはその善悪を問うてみる。自分に都合がよいとか、自分の感情論で判断するのではなく、理性を駆使して善悪で判断してみようというように、いったん、少し時間をとり、ワンクッション入れてから判断をすることが大切です“

 

“よほどの賢人でない限り、直感的に善悪で判断することはできません。どうしても本能で判断してしまうのです。それだけに、結論をすぐに出してしまうのではなく、いったん最初に浮かんだ判断を横に置き、改めて問題の本質を明らかにし、それに善悪のものさしを当て考え直してみる。そうしてワンクッションを置くことによって、誤りのない判断ができるはずです”と社員の方々に話されました。

 

稲盛塾長も最初に自分の脳裏に浮かんだ判断が間違いであったことに気がつき、考え直して失敗を免れたということはいくらもあったと述べておられます。

 

京セラのフィロソフィーの中には“人間として正しいことは何なのか、正しいことを正しいままに貫いていこう”というものがあります。そのような問いを常に自分に課し、正しい判断を維持できるように努めていかなければなりません。

 

企業経営では不正や不祥事が発生することがよくあります。企業内には多くの人が存在していますから、中には思い違いをする人、出来心で悪いことをする人がどうしても出て来ます。そういう人たちであっても、間違った方向にいかないようにする規範となるべきものがフィロソフィーです。そのような規範が企業内に確立され、共有されることで不祥事を未然に防ぐことができると考えられます。

 

アメリカで起きた不正事件、大手エネルギー会社のエンロン、アメリカの大手会計事務所アンダーセンが破綻していきました。全米第二位のワールドコムも粉飾決算が発覚し、崩壊していきました。これらの企業において企業経営の規範、ルールというものがなおざりにされていた結果ではないでしょうか。企業経営にフィロソフィーが確立されていなかったのです。あるいはフィロソフィーを浸透させていなかったからこそ起きた不祥事なのです。

 

“人間として何が正しいか”とは“正直であれ、人を騙すな、嘘を言うな”というような子供の頃、親や学校の先生に教わったことです。こんな基本的なことを企業内で言わなければならないのかと驚かれる方もいらっしゃいます。しかし、そういう人間として当たり前のことを守ることができなかったために起こったのが企業の不祥事なのです。

 

たとえば、利益を得るために“これくらいはいいだろう”と規範やルールを少し曲げてみる。それが通ると“もう少しくらいはいいだろう”とさらに規範やルールを曲げるようになります。企業の製品に問題が発生するようになる。企業が大きな損害を被る可能性がある。ならば“正直に言わず、黙っていよう”となる。こうして企業ぐるみで虚偽報告や隠ぺい工作に走るなど、“嘘をつき、騙し、隠し通そう”として事態をさらに紛糾させ、やがて企業を崩壊へと導いてしまうのです。

 

こうしたプリミティブな哲学が欠落した人たちが大企業のリーダーになっているがために、現在、世界中の企業において企業不祥事が多発していると思われます。