盛和塾 読後感想文 第116号

経営はマラソン

戦争に負けた日本の企業マラソンレースは昭和二十年(1945年)に再スタートを切りました。戦前から長く続く大企業は有名選手、戦後タケノコのように出て来たヤミ商人は無名のランナーです。旧財閥軍も含め、有名、無名の企業が一斉に長丁場のレースを走り出しました。 

京セラは1959年創業です。すでに先頭集団ははるか14年先を走っていました。そんな時にようやく出発天に現れたという恰好でした。しかし長距離レースにはまったくの素人が、シューズも買えず、地下足袋姿で参加したのです。 

これまで一度も走ったことがないのに、いきなり42.195キロを完走できるのか。本人もわからないが、闘争心だけは人並み外れて旺盛です。出場を決めた以上、全力を尽くしてと悲壮な決意を固めている。資金なし、人材なしの裸一貫。倒れるかも知れないが、とにかく突っ走るだけだ。無我夢中でダッシュした。 

進むほどに、歩きだしたり、コースを外れて倒れ込んでいる人がいる。それを横目にみてひたらすら歯を食いしばって前だけを向いて、大地を蹴った。ふと角を曲がって、直線の見晴らしのきくところにさしかかったところ、二部上場という第二集団の後ろ姿が見えるではないか。京セラは叫んだ。“よくぞここまで。” 

経営と闘魂

盛和塾の存在意義

  1. 盛和塾はどのように始まったのか

京都には大正昭和生まれの京都の上場会社の社長が集まっておられる“正和会”があります。正和会には、ワコールの創業者の塚本幸一さんがメンバーに入っておられました。その塚本さんから“正和会”に入るように誘われました。正和会に入会しました。それまで経済界の方々とのお付き合いは全くありませんでした。それぐらい生真面目に社業だけに邁進(まいしん)していました。京都の経済界に顔を出すようになったのは、京セラが上場してからだいぶ経ってからでした。 

鮒子田昭司さん(盛和塾理事長)などから“経営を教えてほしい”と言われた時も“私も忙しいから仕事を犠牲にしてまで教えるわけにはいきません。夜七時以降であれば食事でもしながら皆さんと一緒に喋るということであれば、できます”と答えていました。 

待ってましたとばかり、皆さんがたちまち集まって下さいました。 

盛和塾を始めたのは、徒手空拳で創業した京セラがとても立派な会社になった。なぜそうなったのかという経営の真髄を聞きたい。そこから何かを得て自分達も成長していきたいという若い方々の願いがあったからなのです。 

  1. 他の経営者の謦咳(けいがい)に接することで自分を知る

京セラは稲盛和夫を応援しようとする人々によって設立されました。稲盛塾長は経営というものはどうすればよいか、経営者はどのくらい働けばよいのか、全くわからなかったため、1959年4月1日から夜も寝ないぐらい頑張って仕事をしてきました。経営者になったがために、恐怖感が強くなり、そこから逃れようと夜を日に継いで必死に仕事をしました。朝は始発の市電に乗り、帰りは終電車で帰っていました。 

京セラは創業した初年度から利益が出ています。今日まで三十三年経っても一回も赤字決算をしていないのです。1992年3月期決算では、売上が三千二百億円、連結ベースで約四千五百億円の規模になっていますが、利益率は10%前後を維持しています。最も順調に伸びていた時は利益率は35%までいきました。 

創業後、二十五年目に経営コンサルタントの方々が運営しているセミナーがありました。当時のお金で会費数万円という大金でした。宮木電機の専務であった西枝一枝さんにそのチラシを持っていき、“西枝さん、どうしてもこのセミナーを聞きに行きたい”と相談しました。西枝さんは“経営については私が教えてあげているじゃないの。私よりも経営をわかっている人はそうはいません。わざわざいかんでもいいですよ。”

“いやどうしても行きたいのです”

“なんでや”

“西枝さんはすばらしい人柄の人ですし、いつも経営について教えていただいて、大変感謝しています。しかし宮木電機は京都でも決して大きい会社ではありません。私は日本で一流といわれる会社の経営者というのはどういう人達なのか、とにかく見たいのです。そしてその経営者はどういう考え方で経営にあたっているのかを知りたいのです”

“一体誰が話すんや”

“本田宗一郎さんです。浜松の一介の自動車修理工場の経営者から身を立て、本田技研工業というすばらしい会社を作った。本田の二輪車が世界を席巻しています。すばらしい経営をやっているこの方の謦咳(けいがい)に接したい。会ってみたい。そこから何かインプレッションを得るのではないだろうかと思うのです”

“本田宗一郎なんかに会ってみたって知れていますよ”西枝さんは納得していませんでした。

西枝さんは大変すばらしい方です。稲盛塾長が今あるのは西枝さんの教えを受けたからなのです。その西枝さんに、“心の大事さ”“心の美しさ”を教わったのです。 

しかし稲盛塾長は有馬温泉のセミナーに出席しました。集まった中には、中小企業零細企業だったのが後に上場企業になった企業もありました。 

いちばん期待していた本田宗一郎さんは作業服、いわゆる菜っ葉服を着たまま出て来られました。

“大体こういう温泉につかって浴衣を着て胡坐(あぐら)をかいて話を聞こうなんて、何を考えとるんだ。”

“大体こういうセミナー屋、経営コンサルタントがやるような話を聞いて何になる、とっとと帰れ、こんな高い金を払って話を聞いて何になる。僕は何も教えられやしませんよ。ここで話を聞くぐらいなら、帰ってすぐ仕事をした方がまだましだ。” 

本田宗一郎さんは、いろいろな話をして下さいました。

その中でも本田さんは、次のように言われました。

“私はうちの従業員で働きの悪い奴、出来の悪い奴にはスパナでも何でも振り上げて、投げつけたりします。私はうちの従業員の何倍もの給料を貰っていますが、人から“おまえ、何で働くのだ”と問われれば、“お金が欲しいのだ”と言う。お金が欲しかったら、人の何十倍も働く。“悔しかったら、俺と同じくらいの給料が欲しかったら、俺と同じぐらい働いてみろ”と私は言っています。”

本田さんは従業員をモチベートしていたのだと思います。お世話になっている西枝さんは、すばらしい哲学、すばらしい心の持ち主でしたが、本田さんの場合、ある種の鬼才(きさい)、すばらしい才能の持ち主であると感心いたしました。 

稲盛塾長は西枝さんというすばらしい方に毎日身近に接して、そのすばらしい人間性に触れて成長しました。また本田さんのようなすばらしい経営者はどんな人なのか、どんなものの考え方をする人か知りたい、その謦咳(けいがい)に接したいと大金を払って聞きに行った。そうしたことが稲盛塾長の血となり肉となりました。 

盛和塾の理事長、鮒子田さんをはじめ、京都の若手経営者たちから“たいへんな成功をされたのだから、我々に何か教えて下さい”と言われた時に、稲盛塾長は次のように答えました。

 “私の話を聞いてただ関心するだけでも結構です。また、“なんだ京セラの社長というのは偉い人だと思ったが、ある程度の人だったか”と思っても結構です。” 

“なんだ、この程度の人か、俺ももうちょっと頑張れば、もっと努力すればこの程度はやれそうだ”“大したことないじゃないか”あるいは“凄い、私など及びもつかない”と思ってもよいのです。まずは直に接するということが大事なのです“ 

  1. 魂の研鑽(けんさん)をする“善の輪”を広げていく

稲盛塾長は格段に自分よりも優れた人と付き合うことが大事だと思っています。将棋でも碁(ご)でも格段に強い人は、弱い人を相手にしてくれないのですが、本当はそういう格段に強い人と付き合わなければなりません。 

偉い人は偉い人で、自分よりもさらに偉い人と付き合おうとします。

盛和塾では、稲盛塾長を踏み台にして塾生が伸びていくことを目指しています。盛和塾で学んだことを吸収する人は吸収していく、また稲盛塾長より優れている人はさらに伸びていく、そうして伸びていくのに役立つと思い、稲盛塾長は京都で盛和塾を始めました。 

二~三年前の勉強会の際のことです。いつもおとなしく、あまり目立たない方が“塾長ありがとうございます。塾長にこうしてお会いして約七年になりますが、たいへん感謝しております”と言われたのです。 

その方が次のようなことを言われたのです。

“私は塾長にお会いするまでに二十年ほど自分で経営をやってきました。その間、売上は七、八億円、従業員が二十人くらいでした。会社を作ってから二十年でした。ところが塾長に会って七年しかたっていませんが、その間に売上は五十億円、従業員数は百数十人になりました。塾長と出会う前の二十年と、出会ってからの七年ではどう違っているかというと、実は何も変わっていないのです。何にも変わっていないのに、この七年間急成長しました。何かが変わったとすれば、それは塾長とこうしてたまに会って話を聞くことによって、私自身が変わっていったのだろうと思います。私自身では変わったつもりはないのに、経営者である私が変わり、会社が凄く変わってしまった。一生のうちにこうしたすばらしい出会いをさせて頂き、すばらしい会社に成長しつつあることに今たいへん感謝しています。” 

稲盛塾長はこの話を聞いて、本当に盛和塾を始めてよかったと思われました。できれば人助けをする。善きことをしてあげる“愛の輪”“善の輪”をもっと広げていきたいと稲盛塾長は感じられたそうです。 

京都から大阪、滋賀、鹿児島と分塾ができていくに従い、“それなら全国でやろうではないか”となりました。純粋な気持ちで“そこまで要望があるのならば、人助けのために盛和塾を全国に広げようではないか”と考えられました。 

鮒子田さん、稲田さん、岡野さん、みんなが自分のことのように喜んで、札幌の開塾式の為に何度も足を運ばれる、交通費も宿泊費も、時間もかかります。それをあえてボランティア、無料奉仕で皆さんのためにと思って協力していただいているのです。 

盛和塾を通じて、すばらしい出会い、またすばらしい触れ合いができるということは、大変な喜びです。人生で何が楽しいかと言いますと、生きている間にすばらしい友達、またすばらしい師弟、そういう出会いができるということです。 

死ぬときには何も持っていけません。生まれたままの姿で死ななければならない。肉体すらも持って行けません。その時に持って行ける宝は、人生でどういう出会いがあったのかということです。人生における出会いの場で、どういう魂の研鑽(けんさん)、触れ合いが行われたか、ということこそが宝です。つまり魂と魂が触れ合う、そして研鑽し合う磨き合う、そういう場こそがいちばんすばらしいことだと思います。 

  1. “トップの哲学が経営を決める”という真髄を学ぶ

経営というのは、その分野の専門知識を持っている、専門のことがわかっているだけで経営ができるのではありません。経営というのは、経営者としてのその人が持っている心、またその人の考え方で決まるのです。つまり、経営のフィロソフィーが立派であれば会社も立派になるのであって、専門知識によって決まるのではありません。 

京セラの場合、稲盛塾長はセラミックスの研究をし、製造をし、営業をしてきました。セラミックスの分野では、世界でもたいへん優れた研究を、稲盛塾長が次から次へと成功させてきました。その研究の当事者である本人は、そういう技術的なこと、専門知識が大変優れていたから京セラが成功したとは思っていないのです。技術、知識は一要素であっても、成功の根本要因というのはその経営者が持っている心根だと稲盛塾長は思っているのです。 

八年前に第二電電という事業を興しました。その時はみんなに一笑に付されました。そんなものをやって上手くいくはずがない。あのNTTという四兆円を超える売上を上げる企業、明治以来、国策で全国津々浦々の家庭まで電話線を敷いた企業に対抗できるはずがない。そう言って誰もが足がすくんでやれないことを、稲盛塾長は始めたのです。 

第二電電は1992年の売上が約二千億円、経常利益が約二百三十億円という会社になりました。第二電電八年目です。 

セルラー電話は“携帯電話をやりたい”と郵政省に申請しました。ところが郵政省はなかなか事業許可を与えてくれませんでした。結果的には首都圏と東海は建設省・トヨタ自動車の日本高速通信に、それ以外の地方エリアが第二電電に割り当てられました。大企業であるトヨタやお上の建設省がやるならそちらに任せよう、いいところをやらせようということになるのです。 

第二電電グループは地方の子会社を含め、年間約五百億円の経常利益を出すようになりました。これは京セラが三十三年かかって達成した数字なのです。それが第二電電は八年間で達成してしまったのです。 

まさにトップ、リーダーが持つべき心構えであり、その哲学、思想が企業経営そのものを決めることを証明したのです。その真髄を盛和塾で話してあげようとして盛和塾が始まったのです。 

稲盛塾長は六十歳ですが、八十歳まで寿命があるとしますと、約二十年あります。これ以上会社の仕事ばかりに明け暮れるのはやめて、世のため、人のために尽そうと盛和塾を始めたのです。 

経営には闘魂が求められる

  1. 従業員を守るためには根性、ガッツが必要

中小企業では5人でも10人でも社員を養っておられます。社員には家族がおられます。この厳しい世の中で、従業員を雇って給料を払っていかなければなりません。これは並大抵のことではありません。 

その経営者にとっていちばん大事なことは、根性とガッツです。もちろん知的ワークでも学者に劣らないぐらいすばらしいものが必要です。しかし、いくら頭がよかろうと、いい戦略が組めようとも、何といっても根性とガッツがなかったのでは、絶対にダメなのです。 

経営の原点12ヶ条第8、燃える闘魂、“経営にはいかなる格闘技(かくとうぎ)にもまさる闘争心が必要”とあります。経営者がだったらどんな格闘技の選手にも負けないくらいの凄(すさ)まじいまでの闘魂が要るのです。それだけの闘争心がない人は、経営者には不向きなのです。心優しい人では経営者にはなれないのです。 

  1. マラソンにおける闘魂について

京セラのマラソン選手が、バルセロナオリンピックの女子マラソンに出ました。当日は大変な暑さでした。その中を42.195キロ走らなければならない。これは大変なサバイバルです。 

京セラの女子マラソン選手を前に、稲盛塾長は“今度のマラソンは絶対に先頭集団についていけよ。”有森選手はソ連の選手とデッドヒートを繰り返して一位を競っていました。京セラの選手は五番目に競技場のゲートに入って来ました。凄まじい暑さでしたので、入って来たソ連の選手も有森選手も、京セラの選手も汗びっしょりです。サバイバルもサバイバル、本当に凄まじい戦いでした。 

2位銀メダルの有森選手はゴールインしてからすぐに倒れてしまいました。しかし京セラの選手はゴールインしても、ぴんぴんしているのです。“私は何位ですか”インタビューでアナウンサーが“五位ですよ”と答えますと、“あっ そうですか、目標が八位でしたので、五位に入って嬉しいです”と答えていました。 

稲盛塾長は日本に帰りビデオテープを見てみると、京セラの選手は“先頭集団についていないのです。トップ集団にはいますけれど、三分の二くらい後ろのところにつけています。” 

有森選手は三十キロを過ぎた時点で四百メートル先の先頭のソ連の選手を追いかけ始めました。この四百メートルの差を何と有森選手は五キロの間で、すなわち三十五キロ地点で、ソ連のトップと並んだのです。五キロで四百メートルの差を縮めることは、大変なことです。ですからゴールインした時に倒れてしまったのです。 

ところが京セラの選手はゴールインしてもケロッとしているのです。“目標が八位でしたが、五位入賞して嬉しいです”では、闘魂があったとは考えられないのです。“優勝したかった、残念です”この一年間、研鑽に研鑽を重ねて練習に練習を積んできて本番に備えたのですから、残る目標は優勝しかないはずです。 

経営者の中でも“事業はどうでしたか”と聞かれると、本当は悔しくて、“もっと立派な経営をしたかったのだが”と言いたいのだけれども、“いや、まあこんなところです。ええ方やわ”というようなことを言っています。心にもないことを言って、自分自身にまで嘘をついてお茶を濁(にご)している。“まことに悔しい。来年はもう一回頑張り直そう。”と言うべきなのです。 

  1. 不言実行よりも有言実行

経営者にも有言実行が求められるのです。京セラのマラソン選手は昨年の世界選手権で銀メダルを取ったのですから、バルセロナオリンピックでは目標は金メダルしかないはずです。それが、八位が目標でしたとは言えないはずです。当然“目標は金メダルです”というべきなのです。もし“優勝します”と言っていたら、優勝できなかった場合には“残念です。努力が足りませんでした。”と言うべきなのです。 

経営でも同じです。社長も“こうしたい”と公言するのです。公言すると引っ込みがつかなくなります。その引っ込みがつかなくなるところに自分を追い込むのです。追い込んで自分が言った目標を達成する。果たせなかったら潔(いさぎよ)く、“私の努力が足りませんでした。来年もう一回がんばります。” 

潔い経営をトップが率先垂範(そっせんすいはん)していれば、他の役員幹部にもそれを求めることができます。“私は売上はいくらにします。利益はいくら出します。”と公言させて約束を守らせる。 

経営トップが率先垂範し、上手くいかなかった場合は潔く、従業員にも“まことに申し訳ない。今年は私の努力が足りないものだから上手くいかなかった。来年はもっと頑張る”と言う。 

凄まじい闘魂で、誰にも負けない努力をする

  1. 全力で先頭について行く

“先頭について行けよ”と言ったにもかかわらず、京セラの女子マラソン選手がついていかなかったことです。 

京セラの選手が先頭についていかなかったのは、恐らく集団の後ろのほうにいたために、先頭が見えなかったからだと思われます。あの先頭に飛び出したソ連の選手が抜けていくのが見えなかったのだと思います。本当はその選手が出た時についていかなければならなかったのです。その次は優勝した選手が前へ出て行きますが、それにもついて行かなければならないのです。三十キロ地点で、有森選手について行かなければならなかったのです。ゴールをしてからも全然疲れていない、京セラの選手は優勝できたと思うのです。 

何故彼女は稲盛塾長が言った“先頭集団について行けよ”という言葉を実行しなかったのか。彼女はマラソンの経験もないオッサンが言った言葉を信用していなかったのです。稲盛塾長が陸上競技部に行って指導すると“会長はマラソンを走ったことがありますか”“せめて五千メートルでも走ったことがありますか”と聞いてきます。あるわけがありません。 

監督は元マラソン選手でしたから、その監督が言うことはみんなよく聞くわけです。経験のないオッサンの言うことよりははるかに聞くのです。 

先頭について行かなかった理由は、陸連の監督、コーチの指示です。凄まじい暑さです。四、五メートルの向かい風、モンジュイックの丘にさしかかる坂道、最後の五キロは消耗しきってきたところのあの坂道のデッドヒートです。陸連の監督、コーチは“これは尋常ではない”“自重せよ。飛ばすな。慎重にいけよ”と言ったに違いありません。 

その女子選手には期待がかかっていました。“必ずメダルを取るだろう”“前の世界選手権では銀メダルなのだから、今度はひょっとすると優勝するかもしれない”しかし、プレッシャーをかけない為に“無理するな。この暑さだから八位ぐらいでいいよ”と言われたに違いないのです。 

  1. 不可能だと思われることを成し遂げる

人間というものは、無理をしてでも人の前を走っていれば、調子が出て来るのです。120%、150%の力が出て来るのです。 

京セラ創業時から、稲盛塾長は社員に言い続けたのです。“西ノ京町で一番になろう。中京区で一番になろう。京都で一番になろう。日本で一番になろう。世界で一番になろう。”会社をつくった瞬間から夜を日に継いで働きました。マラソンと同じで、オーバーペースで走ったのでした。朝は始発から夜は最終電車で帰りました。“稲盛さんこれでは身体がもたないのではないでしょうか”と従業員から文句が出ました。 

稲盛塾長は社員に説きました。

“京セラは日本の経営レース、企業マラソンに14年遅れて参加したのです。終戦の時に一斉にみんなが走り出しました。京セラは1959年にスタートしたのです。14キロも離れて42.195キロを走らなければならない。一流選手でもない選手がチンタラチンタラ走っていては勝負にもならない。それでは経営する意味がないかもしれない。とにかく全力疾走してみよう。そうすれば距離が縮まるだろう。もしがんばりすぎたら、その時には少しペースダウンしよう。” 

それから十数年で大阪証券取引所二部に上場になりました。14キロ先を走っていたマラソンの第二集団を凄(すさ)まじい勢いで追い上げていって視界に捉え、その中に入っていったのです。 

“もうすでにこの全力疾走マラソンは我々は習い性になっています。残るはマラソンの第一集団、東証一部上場だ。次はあの先頭集団に追いついて行こう”京セラは二部上場から数年で一部上場を果しました。東証一部へ駆け上っていって数年で、ソニーを抜いて日本一の株価に輝きました。そのあとニューヨーク証券取引所にも上場しました。 

人から“できるわけがない”と言われたことを、京セラは創業以来やってきたわけです。第二電電をつくると言ったときも周囲は誰もできないと言いました。“経験もない、専門知識もない男にできるわけがない”と人が言ったことを稲盛塾長は成し遂げてきたのです。 

バルセロナオリンピックのマラソンに戻れば、“金メダルを取る”と言えば、坐っただけでも汗が吹き出てくる三十数度の暑さと過酷な条件の中では、専門家には無謀とも思われたかも知れません。“先頭についていけよ”と言ったことをまずやろうとすることが大切なのです。その不可能だと思えるようなことがやれなかったら、物事を成し遂げることは出来ないのです。その無謀と思えるようなことがやれるほどの身体を、一年間を通じての過酷なトレーニングで鍛えぬいてきて、彼女は持っていたはずですから、やれたはずなのです。 

カーネギー協会の1991年の年次報告書の冒頭にある理事長メッセージに、稲盛塾長の言葉が引用されていました。この理事長はマクシム・シンガーという女性の方です。“次にやりたいことは、わたしたちには決してできないと人から言われたものだ”(What we like to do next is what people tell us we can never do.) 

1991年に有名なピューリッツア賞に輝いた受賞者で記者であり、作家であるデイビッド・ハルバースタム氏が書いた“ネクストセンチュリー”という題の本から引用されたものです。 

デービッド・ハルバースタム氏は稲盛塾長を訪問し、”ネクスト・センチュリー“の中で数ページにわたり稲盛和夫という章を設けて、稲盛塾長を例に挙げています。 

人が常識から“決してできない。あんなことがやれるわけがない。”ということ、そのことをやるのです。それを凄まじい根性と凄まじい闘魂で成し遂げるのです。経営者にはそういう闘魂が絶対に要るのです。“ 

凄まじいまでの闘魂を持って、誰にも負けない努力をすれば、必ずや会社は成長発展を遂げるはずです。