盛和塾 読後感想文 第125号

私の幸福論-幸福は心の有り方によって決まる

稲盛塾長は格別なことがない平凡な日を送るだけでも“幸せだな”という気持ちが湧いてくる毎日を過ごされています。仕事一点張りの頃は、そんなことを考える時間もありませんでした。 

1959年に京セラを創業し、様々な苦労があったことも事実です。しかしそんな苦労を含めて、今になって振り返れば“何と幸せな人生だろう”と思えるのです。“幸せだな”と感じているその人生は、何によってもたらされたのか、それはまさに自分自身の“心のあり方”によってもたらされたのだと確信しています。では、幸せを導いてくれた“心のあり方”とはどういうものでしょうか。 

“幸福論”が求められる背景

日本はいまだ世界第三位の経済大国であり、治安の面においても、経済の面においても、教育の面においても、諸外国と比べますと非常に恵まれた国である筈です。しかしながら、内閣府の調査によれば、日本人の幸福度は決して経済的な豊かさだけではなく、決して経済的な豊かさに比例して向上しているのではないそうです。むしろ、おだやかに下降しているという結果が出ているのです。 

OECD(経済協力開発機構)が発表する2013年度“幸福度ランキング”において、37か国中、日本は“安全”で一位、“教育”で二位と高い評価を受けています。しかし、“生活の満足度”では27位と下位に位置づけられているそうです。諸外国からすれば、日本は豊かな暮らしの国であるにも関わらず、日々不満を抱えながら生活している日本人が多いことを反映しています。 

産業革命に端を発する近代物質文明は、欲望の追求をエンジンとして発展してきました。大量生産、大量消費、大量廃棄の経済システムを前提として、絶え間のない経済成長を目指そうとするものです。それが人々に幸福感をもたらすものだと考えてきました。快適な住居に住み、美食を貪り、きれいな衣服をまとう-そこに幸福があると思ってきました。 

しかし人間の欲望には際限がありません。どんなに物質的に豊かになったとしても、“まだ足りない”という心がある限り、永遠に充足感は得られず、生涯を不平と不満で過ごすことになってしまいます。 

幸福をもたらす心のあり方 

  1. 勤勉に一生懸命働く

第二次大戦後、日本は敗戦の苦しみに直面しました。国民は廃墟と化した国土に立ち、真面目に一生懸命働くことしか、生きる術はなかったのです。“勤勉”でなければ、生き延びる術はなかったのでした。 

経済的に大変困窮していましたが、不思議と不幸という感情はありませんでした。家族全員が協力して、助け合うしか術がなかったのです。学問がなかろうと、黙々と真面目に一生懸命働くことが、すばらしい結果をもたらすと人々は考えていたのでした。 

今の世の中では、一生懸命働くということもせずに、自らの身に降りかかる災難を人のせいにしたり、社会のせいにしたりしている人が見受けられるようです。この世界は完全ではありません。矛盾もたくさんありますし、改善しなければならない課題も無数にあります。しかし、自らの外にばかり不幸の要因を求める限り、心のうちは永遠に満たされることはありません。“天は自ら助くる者を助く”とあるように、人に頼らず、自ら率先して努力をする者にこそ、天の助けがあり、幸福がもたらされるのです。怠惰(たいだ)な者に決して幸福が訪れることはありません。 

この自然界はすべて、一生懸命に生きるということが前提で、成長・発展してきているのです。少しお金ができたり、会社がうまくいくようになって、楽をしようとする不埒(ふらち)な考えをするのは人間だけです。自然界に生きている動植物は、必死に、一生懸命に生きています。毎日毎日を真面目に一生懸命に生きるということが、我々人間が幸せになるにあたっても、最低限必要なことだと思われます。 

植物も動物も、みんな過酷な条件の中で、ひたむきに必死になって生きています。いい加減に怠けて生きている動植物はありません。我々人間も同様です。この世に生を受けてから、死ぬまで、真面目に一生懸命に生き抜いていく、それは自然の摂理に適う生き方であり、そうした生涯を送ることこそ真の充実感、幸福感を得られると思います。 

  1. 感謝の気持ちを持つ

京セラ創業時、経営の経験もない、何もない、二十七歳の稲盛塾長に、自分の自宅を抵当に入れてまで会社設立に尽力いただいた方々への期待に応えなくてはならないとの心から、必死になって働いているうちに、心の底から“感謝”する思いが沸き起こってきたそうです。 

まもなく会社も軌道に乗り、借入金返済のめどもつきましたが、決して経済的に豊かになったわけではありませんでした。一日中仕事で走り回り、ときにはクレーム処理などのトラブルに追われ、まさに昼夜並行で仕事に励んでいました。しかし、それでも、いっしょに必死に働いてくれている従業員、注文をくださるお客様、いつも無理を聞いてくれる業者の方々、周囲の人々への“感謝”の思いは、片時も忘れたことはありませんでした。取引先から、毎年のように厳しい値下げ要求に対してさえ、“京セラを鍛えて頂いている”と感謝していました。松下(現パナソニック)からの価格、品質、納期など、全ての面でいただく要求はどれもこれも大変厳しいものでした。 

特に値段については、松下の購買部からは毎年、大幅な値下げ要求をいただきました。仕事をもらえるありがたさの反面、その値下げ要求をこなすことは並大抵ではありませんでした。しかし、“鍛えていただいている”“注文をいただいている”という感謝の思いも強く持っていました。厳しい要求はやっと歩き始めた自分の会社の足腰を鍛える絶好の研鑽の機会だと、いい方向に考えたのでした。このせっかく与えて頂いたチャンスに真正面から立ち向かっていこうと考えました。松下さんの言い値をそのまま受け入れ、どうやったらその値段で採算が取れるかを必死に考え、徹底的にコストダウンに努めました。 

アメリカ西海岸の半導体産業から注文をいただき、海外へ進出するようになった時、松下さんに心から感謝しました。アメリカの同業者と比べて、京セラの製品は品質において断然優れたものである上に、価格競争力もはるかに高かったのです。“松下さんは京セラをよくぞここまで鍛えてくれました”と感謝の思いで、手を合わせていました。世界に通用する技術を備えることができたのは、ひとえにある厳しい要求を課されたおかげであり、それに必死に応えようとして、努力してきた結果なのです。松下さんは知らず知らずのうちに、京セラを大きく伸ばし、世界レベルの競争力を身につけさせてくれたのです。 

人は現在が苦しければ苦しいほど、とかく愚痴や不平不満を鳴らしてしまいます。しかし、その愚痴や不平不満は結局は自分自身に返ってきて、自分自身をさらに悪い境遇へと追いやってしまうのです。だから、どんな境遇にあろうとも、感謝の心というものを忘れてはならないのです。 

人は決して自分一人では生きていけません。空気、水、食料、また家族や職場の仲間達、さらには社会など、人は自分を取り巻くあらゆるものに支えられて生きているのです。こうして健康に生きているのであれば、そこに自然と感謝の心が出てきます。感謝の心が生まれてくれば、人生に対する幸せを感じられるようになってくるはずです。 

どんなささいなことでも構いません。日々小さなことに感謝する、そうすることで、自分の気持ちも明るくなっていくはずですし、周囲にも穏やかな雰囲気をくりくだすことができます。そうして感謝するという行為を習慣化してしまうのです。 

  1. 謙虚に反省する

官舎んお気持ちを持つことと同様に、幸せな人生を送る上で大切なのが“反省”ということです。 

毎朝、起床時と就寝時に、昨日のあったこと、今日自分がやったこと、人間として恥ずべき点があれば、自分自身を厳しく叱り、再び過去を繰り返さないように戒めるようにするのです。素直な心で、自分自身の言葉を口にする、そして明日からはまた謙虚な姿勢で仕事に臨(のぞ)んでいくのです。 

このように反省のある毎日を心がけていますと、晩節を汚(けが)していく経営者が次々と現れる中にあって、大きな過ちを犯すことなく、十分に幸せを実感できる、そうした日々を過ごすことができるのです。 

この“謙虚さ”は京セラの従業員にも伝えられてきました。1976年に京セラの経営スローガンで“謙虚にして驕(おご)らず、さらに努力を”と謳(うた)っています。それは京セラが急成長企業、高収益企業として社会から高い評価を受けている、まさに絶頂期の時でした。 

絶頂期にあって、そのときに既に亡びていく原因を我々の心のなかに宿していると、よく古くから言われています。“治に居て乱を忘れず”つまり平和で非常によく治まっているときに、世の中が乱れるということを忘れてはならない。平和な時には次の大きな困難に備えて心しなければならないと教えてくれています。 

“驕(おご)れる者久しからず”。得意絶頂の時に驕れる者は、たちまちに亡びていきます。いくらかでも驕る心があったならば、また過去に我々が払って来た努力を惜しむような心が少しでも芽生えて来る時こそ、困難の芽が芽生えてくるのです。 

当時の京セラの全従業員に、成功しても謙虚であり続けることの大切さを説いてきました。以来今日まで、経営トップから末端の従業員の1人ひとりにいたるまで、謙虚にして驕ることなく、たゆまぬ努力をしてきました。 

人間の欲深さを表現した仏教説話

以上、真の幸福をもたらす心のあり方-勤勉、感謝、謙虚についてまとめてきました。幸福かどうかは主観的なもので、その人の心のあり方によって決まるものだと思います。

物質的にいかに恵まれていようとも、再現のない欲望を追いかけ続けていく、決して幸せに感じることはありません。一方、物質的には恵まれず、赤貧を洗うような状況にあっても満ち足りた心があれば、幸せになれるのです。 

幸せとは一体何なのか、それは幸せを感じられる心をつくっていくことなのです。“心を高めること、魂を磨くことが、この人生の目的”と考えて、“何と幸せな人生だったのか”と死を迎えるときに感じられるような心、気持ちが大切です。幸せを感じる心“美しい心”がなければ、決して幸せになることはできないと思います。 

仏教の教えの中に“足るを知る”という教えがあります。反省のある毎日を送ることで、際限のない欲望を抑制し、今あることに感謝し、誠実に努力を重ねていく、そのような生き方の中でこそ、幸せを感じられると思います。 

仏教に“三毒”という人間の煩悩があると言われています。それは、“欲望”“愚痴”“怒り”です。この“欲望”“愚痴”“怒り”にとらわれているのが 人間です。人よりもよい生活をしたい、楽して儲けたい、早く出世したい、こういう物欲や名誉欲は誰の心の中にもあります。それがかなわないと、なぜ思った通りにならないのかと外部にその原因を求め、愚痴をこぼし、怒りだすのです。こうした三毒に振り回される限り、決して幸せを感じることはできないのです。 

無論、欲望や煩悩というのは人間が生存していくためのエネルギーでもありますから、それを一概に否定するわけにはいきません。しかし、それは同時に人間を絶えず苦しめ、人生を台無しにしてしまいかねない猛毒でもあるのです。 

大事なことは、できるだけ欲を離れることです。三毒を完全に消すことはできないのですが、それらを自らコントロールして抑制するように努力をすることが大切なことです。 

人間にはこの三毒の裏に煩悩の対極に位置する、すばらしい心根があります。それは人を助けてあげるとか、他の人のために尽すことに喜びを覚える“美しい心”を誰もが心の中に持っています。しかし、“煩悩”があまりにも強すぎますと、なかなか“美しい心”がでてこないのです。 

人間の心の中には、利己と利他の心が同居しているのだと思います。利己の心を抑えた分だけ利他の心が増えてきます。その人が幸せな人生を送れるか、それとも不幸な人生となってしまうかは、この利他の心、善き思いと、利己の心-自分だけがよければよい-つまり悪しき心との葛藤(かっとう)によって決まるのです。 

日本航空という集団を幸福に導いた“利他の心”

会社という集団の幸福を導くにあたっても同様です。日本航空の再建、再生がまさにそのことを証明しています。 

破綻前の日本航空と、再生を果たした日本航空、その違いはどこにあるのでしょうか。 

破綻後、賃金が大幅にダウンしたこと、労働条件も悪化しました。また、路線を大幅に縮小しました。最初は航空機をはじめとする機材、整備工場などの設備も更新せず、古いままでした。唯一変わったのは人の心です。しかし、その心が変わっただけで、二次破綻必至といわれた航空会社の経営体質は一変し、わずか三年で世界最高の収益性を誇る会社に生まれ変わることができました。 

この奇跡的な再生も、人の心の反映だと思います。かつての労使がいがみあっていた日本航空、ラップキャリアという自負心から、傲慢さ、横柄さ、そしてプライドの高さが鼻につき、お客様をないがしろにするようなことがまま見受けられた日本航空、そうした日本航空に集う人々の心のあり方、悪しき思いが、日本航空を破綻に陥(おとしい)れたのです。 

破綻後の日本航空では、企業理念として“全社員の物心両面の幸福を追求すること”を掲げ、“真面目に一生懸命に打ち込む”“感謝の気持ちをもつ”“常に謙虚に素直に”といった人間としての持つべき心のあり方を説き続けたのです。こうしたフィロソフィーの共有に向けた取り組みを通じて、社員一人ひとりの心が変わってきました。 

その結果、官僚的な体質はなくなり、現場で全社員が経営者意識をもって、安全のために、またお客様に少しでも喜んで頂けるように、自然的に賢明な努力を重ねてくれるようになりました。それは“自分だけよければよい”という利己的な考え方に染まっていた心が“仲間のため”“お客様のため”という利他の心に変わっていったことで、業績は飛躍的に向上していったのです。 

利他の心は、人智を超えた偉大な力の助けを得ることができるのです。我々のそのような利他の心だけで、懸命に努力を捧げている私たちの姿を見て、神様、天が哀れに思い、手を差し伸べてくれたのではないだろうか、“神のご加護”なくしてはあのような奇跡的な回復など出来るはずがないのです。 

利他の心は自分を超えた力、いわば“他力”の風を味方にすることができるのです。大海原を旅する時には、必死で自力で船を漕がなければなりませんが、それだけでは遠くまで届くことはありません。船の前進を助けてくれる他力の風を受ける為の準備をしなければなりません。 

帆を張って他力の風を待つ時の、その帆を張るという行為が、自分の心を美しい心に磨いていく営みそのものなのです。この世の中で、自力だけでやれることはそう多くはありません。他力を受けなければできないことがほとんどです。けれども他力の風を受ける為には、自力で立派な帆を掲げなくてはならないのです。帆を掲げるとは、自分自身の心をきれいにして、利己まみれのこころではなく、“他に善かれかし”という美しい心にすることです。 

利己の心で掲げた帆は穴だらけです。よしんば他力の風が吹いても、穴だらけですから通り過ぎてしまい、船は決して力を得ることができません。それに対して利他の心を掲げた帆は、穴が空いていないすばらしい帆です。必ず、他力の風を受けられるのです。 

この世界には、常に我々を幸せにしてくれる風、つまり他力の風が吹いています。その他力の風を受けるためには、立派な帆を張らなければなりません。帆はその人の心の状態で作られるものです。そのような他力を帆にたくさん受けることで、自分で漕ぐ力以上の仕事ができ、人生を全うすることができます。 

経営者にとっての幸福とは

美しい心の中でも、人間として最高の行為とは“世の中、人のために尽くす”ということだと思います。中小零細企業が五人でも十人でも従業員を雇い、その家族も含めて養っていくということは、並大抵のことではありません。そのこと自体が“世のため人のために尽くす”ということにつながっているのです。 

企業経営者は利益から法人税消費税を払います。従業員に給与・ボーナスを払います。経費や仕入買掛金を支払ます。これら企業が生み出した富を国や地方自治体が集め再分配することで、経済社会が運営されています。 

日本の就業者数は六千三百万人、企業が雇用する従業員数は四千万人を超えているそうです。企業経営者が国の経済を支えていると言えます。我が国の99%が中小企業なのです。中小企業を中心とする企業経営者が国家、国民を支えているといっても過言ではありません。 

自分のためだけではなく、世のため人のために有意義なことを行っているという矜持(きょうじ)と誇りが、経営の難局に立ち向かう、大いなる勇気になっていると思います。“善きこと”をなすことに生きがいを感じ、喜びを感じる、これこそが経営者にとっての最高の幸福だと思います。