盛和塾 読後感想文 第129号

世のため人のために尽くす

“世のため、人のために尽くす”ことが人間として最高の行為です。 

人間は“自分だけが良ければいい”と利己的に考えがちです。しかし本来人間は他のために尽くすことに喜びを覚える、美しい心を誰もが持っています。 

利己的な思いが強すぎると、美しい心は表に出てこないのです。利己的な思いを抑え、“利他”の心を持って他のため人のために尽くさなければなりません。自分という人間を世の人々に役立つようにすることで、世の中が自分を使ってくれ、自分を生かしてくれるのです。 

このような事は美しい心が行うものであり、それを行うことで私たちの心はさらに美しく、純粋なものになっていきます。他人から“ありがとう、助かります”という言葉を耳にすることで、人間は無常の喜びを感じ、心が弾み、人生に生きがいを憶えるのです。 

また“情けは人のためならず”と言われるように、世のため人のために尽くすことで、回り回って自らも助けられ、幸福になれるのです。 

働き方-経営者はいかに働くべきか

この講演会は稲盛経営哲学(杭州)報告会においてなされたものです。

中国では以下の都市で過去に講演がありました。 

北京:なぜ経営に哲学が必要なのか

青島:経営十二ヶ条

広州:アメーバ経営

大連:京セラ会計学

重慶:リーダーの資質

成都:企業統治の要諦 

これらの講演の中で、経営における哲学の重要性、経営の原理原則、経営管理の考え方と仕組み、リーダーおよび従業員の果たすべき役割について、述べられてきました。 

自分ができるだけ楽をして労働者をこき使い、大儲けを目指す経営者が数多くいます。また、ベンチャーを起業し、上場で一攫千金を果たし、若くしてリタイヤすることが人生の目的だと考えている経営者も少なからずいます。 

儲けたい、ということが人生の目的では、結局、経営者自身も真の幸福を得ることができませんし、企業を永続的に発展させることもできません。 

経営の原理原則、経営管理の考え方や仕組みにしても、それが正しく機能するかどうかは、実践する側の経営者の働き方、また働く目的が何であるかによって大きく左右されます。具体的には、経営者は何のために働くのか、また何のために働くのかということが、企業を永続的に成長発展させるかどうかを決めてしまうのです。 

経営者はいかに働くべきか 

  1. 強烈な願望を抱く

“何としても事業を成功させたい”という“強烈な願望を抱いて働く”ということが企業経営の出発点になります。 

そうした思いがありますと、資金や人材にも恵まれなくても、熱意と執念がその不足を補って、物事を成し遂げていくことができるのです。強い“思い”には強大なパワーが秘められているのです。 

一般的には、論理的に推理推論したり、戦略を組み立てたりすること、“頭”で考えることが1番大事なものであり、心に“思う”事は大した事ではではないと考えられています。しかし“思う”という事は頭で考えることよりも、はるかに大事なものであり、我々が生きていく中で“思う”という事ほど大きな力を持つものは無いのです。“思う”という事は、人間の全ての行動の源、基本になっています。 

もともと人類は、木の実を拾い、魚を獲り、獲物を捕まえる狩猟採集生活し、自然と共生してきました。その後、自分たちで生産手段を持ち、動物を作り、家畜を養って食べるという農耕牧畜の時代へと移ってきました。狩猟採集時代は、自分たちの意思だけでは生きていくことができませんでした。しかし、農耕牧畜によって、自分のくびきから離れ、自分の意思で生きることができるようになりました。 

250年前にイギリスでいわゆる産業革命が起こり、蒸気機関が発明され、人類は駆動力を手に入れました。これからは、次から次へと発明発見を繰り返し、科学技術は目まぐるしく進歩し、今日の素晴らしい文明社会を作ってきました。 

こうした科学技術の発達は、人間の持つ“思い”が元になっているのです。人は誰でも“こうしたい”“こういうのがあったら便利だ”“もしこういうことが可能ならば”と“思い”が心に浮かんできます。 

その夢のような“思い”が強い動機になって、人間は実際に新たに乗り物を作り始めます。まずは頭で考え、そして一生懸命工夫し、さらに頭で考えまた失敗を繰り返しながら、様々な乗りものを作り出してきました。 

具体的に、何かものを発明し、作っていく際には、頭で考え、研究していかなければなりません。その発端になるのは、心にふっと浮かぶ“思いつき”です。普通“思いつき”と言うのは軽いことだと思われています。“そんな思いつきでものを言うな”とよく言いますが、実はその“思いつき”が一番大事なのです。“思いつき”が現在の科学技術、発明発見の原動力の発端になったのです。 

企業経営においても同様です。経営者が”“強く思う”ことが実現していくのです。有名な話ですが、経営の神様と人々から尊敬されておられた松下幸之助さんの講演での話です。松下幸之助さんは、まず思わなければならないということを語られました。 

“景気が良いときには、景気が良いままに経営するのではなくて、景気が悪くなるときのことを考えて、余裕のある時に蓄えをする。つまり、水をためておくダムのように、景気が悪い時に備えるような経営をするべきだ。” 

講演が終わって質疑応答になったときに、後ろにいた人が手を挙げて質問しました。“そういうダム式経営をしなければならない、つまり、余裕のある経営をしなければならないのはよくわかります。何も松下さんに言われなくても、われわれ中小企業の経営者は皆、そう思っているのです。しかしそれができなくて困っているのです。どうすれば余裕のある経営ができるのか、その方法を具体的に教えてもらわなければ困ります。” 

松下幸之助さんは戸惑った顔されて、しばらく黙っておられました。そしてあっさりと、“いやそれは思わんとあきまへんな”と言って黙ってしまわれたのです。答えになっていないと思ったのでしょう。聴衆の間から失笑が漏れていました。 

“できればいいなぁと”いう程度であるならば、絶対に高い目標や夢は成就しない。“余裕のある経営を本気で思っているのかどうか、本気であるならば、その具体的な方法を必死に考え、必ず“ダム”を築くことができる”ということを松下幸之助さんを言いたかったに違いありません。 

人が“どうしてもこうありたい”と強く願えば、その“思い”は必ずその人の行動となって現れ、実現する方向におのずから向かいます。漠然と思うのではなく、“何が何でもこうありたい” “必ずこうでなければならない”といった強い思いに裏うちされた願望、夢でなければなりません。こうした持続した願望を持つことが、事業経営を成功に導くのです。 

  1. 誰にも負けない努力をする

強い思い、願望を抱いたならば、後は“誰にも負けない努力”をするしかありません。 

ただ人並みの努力を続けたとしても、皆が等しく努力を重ねている中で、それは当たり前のことをしているだけのことであって、それでは成功はおぼつかないのです。人並み以上の誰にも負けない努力を続けていかなければ、競争がある中ではとても大きな成果を期待することはできないのです。 

誰にも負けない努力と言いますと特別なことで、際限のない努力をするということは自分たちだけに化された重い余韻と考えてしまうかもしれません。しかしそうではありません。 

自然界を見ますと、どんな動物でも植物でも、一生懸命生きていないものありません。人間だけが邪(よこしま)なことを考え、楽をすることを願うのです。 

自分自身が生きていくことに一生懸命になるように、自然はもともとできているのです。必死に生きていない植物は、絶対にありません。努力しない草は、生存できないのです。動物にしても、同じです。必死に一生懸命生きていかなければ、生き残っていくことができないのです。それが自然界の掟なのです。人間だけが“誰にも負けない努力”をしているのでは無いのです。“誰にも負けない努力”をするのは、当たり前のことなのです。 

経営者は何のために働くのか 

  1. 全従業員の物心両面の幸福のために働く

生物は“誰にも負けない努力をすること”が本能的に与えられています。人間は、自分たちの意志でもって生き抜いていくようになっていますから、“誰にも負けない努力”が必ずしもすべての人に要求されるのではなくなってきたのです。したがって人間はどうして“誰にも負けない努力”をすることが必要なのか、自ら自覚しなければならないのです。特に経営者の場合は、天から“誰にも負けない努力”をする使命を与えられている自覚を持つことが不可欠なのです。それは経営者が“何のために働くのか”という根源的な問いになります。 

経営者の方々の中には、自分は誰にも負けない努力で働いているのだが、中小企業の場合には、銀行借入にしても個人保証しなければならない、従業員の給料を払い続けなければならない、従業員の行動にも会社として社長として責任がある等、とんでもない責任を負わされていると考えている方々もおられます。割に合わない仕事のように感じるのです。経営者が一番辛い思いをしているのです。 

稲盛塾長は、京セラが大阪証券取引所に上場した時、“会社の税引前利益は二十億円もあるのに、社長の年俸は数百万円、これは何かおかしい”と思ったそうです。“月に百万円もらっても、年間たかが一千二百万円ではないか”京セラは稲盛塾長がその技術、才能を元に作った会社であり、現在の二十億円の利益も、経営者としての力量ではないかと思ったそうです。 

しかし、稲盛塾長は考えました。

“私が経営者になったのは、確かに私自身にある種の才能があったからかもしれない。しかし、私がそうした才能を備えた事は、何の必然性もなかったはずなのです。偶然そうした才能を、私が天から授かっただけです。社会を成り立たせるために、才能のあるものは指導者にならなければならず、その役割の一端を担う者として、私は経営者になったのです。その役目を担うのは私でなくても、AさんでもBさんでも誰でも良かったはずです。” 

“私は自分自身が授かった才能を私物化してはならない。社会構成上、そのようなリーダーが必要なのであって、そのリーダーは社会を少しでも良くするために、自分の才能を社会に還元していかなければならない。才能自分のものだとし、私物化し“俺は偉いんだ”という態度をとることが、非常に無粋な考え方なのではないか。自分に経営者としてのある程度の才能があるなら、仲間の幸福のために、先頭を切って苦労しなければならない” 

京セラは、何百億円も利益を上げているのに、稲盛社長は誰にも負けない努力をしている。少し休んではどうかと言う人々がありました。その人たちは、稲盛社長はなんと欲の深い人だろうと思ったようです。 

しかし、稲盛塾長の働く目的は、自分の目的ではなく、会社の利益でもありません。稲盛塾長を駆り立てて会社業績を伸ばそうとする原動力になっているものは、ただ1つ、従業員の未来永劫にわたる生活の基盤の安定と、幸福を願うことです。そのためには売り上げを伸ばし、利益を確保しなければならないのです。 

売り上げを伸ばそうとすると、新しい人員が要る。従業員を増やせば、さらにその従業員の家族も含めて養わなければならなくなり、さらに不安が増してくる。不安だからさらに売り上げを伸ばすために、新製品を開発する。するとまた人員が要るということで、エンドレスな不安の連続があります。不安が増すのであれば、もうそこで止まっていればいいと思うかもしれませんが、“もうこれでいい”と思った瞬間から没落が始まるのです。 

今がいくら良くても、5年後、10年後の事は分かりません。現在は過去の努力の結果であり、将来は今後の努力で決まっていくものです。経営者は一瞬たりとも休むことはできないのです。今日もがんばり明日もがんばり、エンドレスに再現なく努力を続けなければならないのです。なぜそのような際限のない努力を続けることができるのか。それは、働く目的が“全従業員の物心両面の幸福を追求すること”とその努力には対する仲間達、周りの人からの“ありがとう助かります”という言葉が期待できるからです。 

  1. 経営者の“考え方”が企業の盛衰を決める

人生の目的を何に置くかによって人生観はガラッと変わります。財産や利益が目的の人もいれば、地位や名誉が目的の人もいます。そういった具体的な数字や肩書きによって示されるものが目的であれば、その目的が達成されてしまえば、後は目指すべきものがなくなってしまいます。 

お金を儲けたいという強い思いは、それ自体は、決して悪いことでは無いのです。豊かな生活をしたいという願望は、成功の大きな原動力になります。 

成功した事業を永続的に発展させるためには“お金を儲けたい”という経営者個人の願望が事業の目的であってはなりません。そのように私的な願望が最終的な目的であれば、一旦成功してしまえば、もうその経営者は一生懸命働かなくなってしまいます。 

それだけでは、従業員は経営者についていこうとはならなくなります。従業員のみならず、会社に出資してくださった株主、商品を買い、またサービスを利用してくださっているお客様、さらには事業所や工場がある地域社会の皆さんも含めて、会社に関わる全ての方々の幸福に、経営者は責任を持っているのです。 

それも“今さえければいい”という瞬間的な幸福ではありません。企業を永続的に発展させ、その間、好業績を維持し続けることによって、関係者の皆さんの幸福を実現しようと思えば、その努力は際限のないものになります。 

京セラは55年の間、成功してきました。売り上げは一兆何千億円、そして一千百億円の利益が挙げられる立派な企業になっています。創業から現在までの55年間、ただの一回も赤字決算をしたことがありません。そのためにも一生懸命働くと言うことを続けてきました。また稲盛塾長が作りましたKDDIと合算しますと売上高は六兆円、両者を合わせますと、八千億の利益を出すような企業群を創業した者として、もっと楽をして良いのかもしれません。 

今でもホテルで豪勢な食事をする事は滅多にありません。それは何でもないことなのですが、死んでも出来ない位、高価な食事は出来ないのです。それはお金の問題ではなく、毎晩そのような高価な食事を平気で取れる神経が恥ずかしいのです。稲盛塾長はどうしてもそういう贅沢ができないのです。自分が贅沢をすると慢心、驕りにつながっていくとずっと自分を戒めてきたのが習い性になってしまったのです。 

人間は、どうしても成功すると慢心してしまい、かつては謙虚であった人が、傲慢(ごうまん)な人間へと変貌(変貌)してしまうものです。そうやってだんだんと考え方が変わってしまうのが普通です。そして、その考え方の変化とパラレルに企業の業績も変化していきます。多くの才覚のある人が、流星のごとく現れては、やがて没落していった例を見てきました。それは成功という試練に耐えられずに、人格、人間性、考え方が変わってしまったからに他なりません。 

  1. “無私の心”で働く

権力の座を昇れば昇るほど、命令で何でもできるようになります。特に経営トップは誰からも制約されません。いい加減な働き方をしても、罷免権といった絶対権限を持つわけです。 

中には公私の区別がつかなくなり、プライベートな事まで、社員を使ってやらせるという経営者もいます。そのような人間として未熟な人物に、経営のトップが務まるはずがありません。おそらくその人も、かつては立派な人間であったのです。ところが権力の座が人間の感覚を麻痺させてしまうのです。 

社長は個人です。会社それ自体は何も言いません。会社の意向は全て社長の意向なのです。従って社長が私的な個人的なことに気を回している間は、会社は何もしないのです。死んでいるか休みを取っているのです。“もっと売り上げを伸ばしたい”とも“もっと経営を安定させたい”とも会社は言いません。それに代わって、社長が会社に代わって言わなければなりません。したがって社長が個人に返ってしまっては、会社は動かないのです。社長はもう個人に返る事は許されないのです。 

また京セラでは世襲制は取りません。社長の親戚、親族が会社に入って重役になる事はありません。“私心”を入れてはならないのです。社長は苦楽を共にしてくれた従業員を将来の社長、会長に据えていくことになっているのです。京セラの場合は、会社規模が大きく、“私”の範囲をはるかに超えています。まさに社会の公器であって私が入り込む余地はありません。 

このような無私の心の姿勢が従業員をして“この人について行こう” “この人のためなら一生懸命に働く”となるのです。経営者自身もやましい事はありませんから、従業員に厳しいことも要求できるのです。もし仮にいい加減な仕事をする従業員がいたならば、“社長の私は、あなたを含めた全従業員を幸せにするために、率先垂範、朝から晩まで必死で頑張っている。それなのに君はそんないい加減な仕事をするのか。自分のためにも、家族の為にも、そして仲間のためにも、一生懸命働いてもらわなくては困る”と言えるのです。 

  1. “世のため人のため”に働く

さらには、従業員の幸福という一集団のためを越えて“世のため人のため”という利他の心をベースとすることで、誰もが恐れをなして踏み込まない分野に進出してもベクトルを1つに合わせ、努力を結集して事業を成功に導くことができるのです。 

KDDI設立の時、稲盛塾長は、半年にわたって自問自答したそうです。“お前が電気通信事業に繰り出そうとするのは、本当に国民の為を思ってのことか。 

京セラや自分の利益を図ろうとする私心が混じっていないか。あるいは、世間からよく見られたいと言うスタンドプレーではないか。その動機に一点の曇りもない純粋なものか。すなわち“動機善なりや、私心なかりしか”ということを何度も自分に聞き正して、KDDIの設立をしたのでした。 

京セラが創業したKDDIは、他の新規参入者と比べて、経験や技術もなく、一番不利と言われておりましたが、営業開始直後から、新規参入組の中で常にトップの業績を上げています。 

その理由はただ一つ、世のため人のために役立ちたいという、私心なき動機がもたらしたものなのです。 

従業員に向かっては、KDDIの事業の意義を絶えず伝えてきました。“国民のために長距離電話料金を安くしよう”“たった一回しかない人生を意義あるものにしよう”“今われわれは100年に1度あるかないかという大きなチャンスを与えられている。その機会に恵まれたことに感謝し、このチャンスを活かそう” 

このためKDDIでは、従業員全員が自分たちの利益だけではなく、世のため人のために役立つ仕事をするようになり、心からこの事業の成功を願い、懸命に仕事に打ち込んでくれました。それによって関係者からの応援も得られ、広範なお客様の支持を獲得することができました。 

KDDI創業後、しばらくして一般の従業員にも額面で株式を購入できる機会を与えました。いずれ上場したときに、キャピタルゲインをもって、従業員の懸命の努力に報い、会社としての感謝の気持ちを表しました。ところが稲盛塾長は、多くの株式を持つことも可能でしたが、実際には一株も持つ事はありませんでした。それはKDDI創業時に、一切の私心も挟んではならない、と考えていたからです。 

日本航空の再建の時も同様でした。日本航空はフィロソフィーによる意識改革、また、アメーバ経営による組織改革と管理会計の導入によって、それまでの官僚的な企業文化が一変し、一人ひとりの社員が自主的に自分の会社を少しでも良くしようと、懸命の努力を重ねてくれるようになったことが、再建を果たすことができた最大の要因でした。 

再建にあたっては、稲盛塾長の姿勢が社員の心を揺り動かしたようです。つまり無給で会長職を引き受け、高齢でありながら全身全霊を傾けて再建に取り組む姿が、有形無形の影響を社員に与えたようでした。 

日本航空再建には、三つの大義名分がありました。日本経済再生のため、残された日本航空の社員の雇用のため、飛行機を利用する国民の利便性のため、の三つの大義を果たそうとしました。 

無私の姿勢で懸命に再建に取り組む稲盛塾長の姿を見て、多くの従業員が“何の対価を求めずに何の関係もない日本国の再建のために必死になってくれている。ならば、自分たちはそれ以上に全力を尽くさなければならない”と考えてくれたようでした。 

  1. “善きこと”をなすことで魂を磨くことが人生の目的

無私の心で再建に取り組むことができたのは、“世のため人のため”に役立つことを成すことが、人間として最高の行為であると考えているからなのです。 

神様は“世のため人のため”に尽くすようにという目的で、すべての人間をこの現世に送り出しているのではないか。そのように自分の人生を位置づけることが大切だと思います。自分のことは顧みず、人のために善かれかしと願うことであり、自己犠牲を払うということです。 

我々は、死ぬ時は一人静かに死んでいかなければなりません。この世に生を受け、今日まで命を長らえて、まさに死なんとする時に自分の心、魂が安らかにあの世に旅立っているかどうかが問題です。人生の荒波の中で、魂が磨かれ、少しでも美しい魂になって死ぬことができるかが問題なのです。“世のため人のため”に尽くさなければならないのですが、それは特別なことをしなければならないというものではありません。我々経営者の場合は、企業を立派にし、従業員とその家族を含めた関係する全ての人々が安心して人生を託せるようにする。そのこと自体が立派な善行であり、“世のため人のため”に尽くしたことになるのです。 

無私の姿勢で“世のため人のため”に経営にあたることが、決して苦ではなくなるのです。むしろ周りの方々から感謝され、働く意義をそこに見い出すことができるはずです。 

経営者にとっての幸福とは何でしょうか。自分のためにではなく、“世のため人のため”に有意義なことを行っているということ、そのことに対する表示と誇りが、経営の難局に立ち向かう大いなる勇気を与えてくれます。そして“世のためひとのため”を成すことに対して喜びを感じる。それが我々経営者にとっての最高の幸福だと思います。つまり筆舌に尽くしがたいほどの苦労はしますが、一生懸命に頑張って、必死に努力をして会社を守り、従業員を守り、社会を守る。そういう良きことを成していると感じるときに、我々経営者は喜びを覚えるはずです。喜びを感じることこそが、経営者にとって最高の幸福だと思います。