盛和塾 読後感想文 第140号

ささいなことにも気を込める 

仕事ができる人は正しい判断ができるのです。正しい判断するには、どういう状況にあるのかということを鋭く観察する必要があります。物事の核心に触れるまでの、鋭い観察力がなければならないのです。 

この鋭い観察力を生むのは、精神の集中です。しかし急に精神を集中しようと思っても、なかなかできるものではありません。実は集中するということには、習慣性があるのです。ささいなことでも、注意を払って行う習慣のある人は、どんな局面でも集中できるのですが、そういう習慣のない人にはなかなか精神を集中することができません。精神を核心に絞れないのです。 

忙しい時にこそ、ささいなことにも気を込めて行うという習慣をつけるべきです。これを“有意注意”といいます。この日常の良い注意が、“いざ”というときの判断力を左右します。そして毎日トレーニングされた注意力と洞察力を身に付け、研ぎ澄まされた神経を持って、正しい判断ができる人“切れ者”といいます。 

努力を極める 

不況の時こそ気概を持つ

今はバブル崩壊後の大変な状況です。しかし不況に面しても、真面目に一生懸命取り組んでいれば、不況の方が経営しやすいと考える人もおります。事実、京セラの頃を振り返ると、不況が来るたびに、苦労を重ねながら発展していきました。 

ですから“不況でうまくいかない”と嘆くのではなく、“この不況の時にこそ”という気概で仕事をするべきなのです。 

一生懸命に働く     

  1. 凄まじい集中力で努力する

企業経営とは、実はそんなに難しいものではなく“一生懸命に働くことだけだ”と言えると思います。 

稲盛塾長のスケジュールはとても普通の人ではこなせないものです。午前中は社内の仕事、午後はお客様との会議、その後も会社の仕事で、夜八時、九時まで仕事をします。毎日分刻みのスケジュールで仕事をしております。眼精疲労なのか、字が霞んで読めなくなることもあるそうです。 

経営の原点十二ヶ条の中、四、誰にも負けない努力をするという一条があります。“私も努力をしています”という程度の努力ではありません。本当の意味で誰にも負けない努力をするという意味です。その努力には際限がありません。どれだけ努力したつもりでいても、その上を行く人は必ずいるはずです。極端に言えば、寝る間もないほど努力することになります。経営に限らず、研究、学問の世界でもどれだけ集中して取り組んでいるのかが全てなのです。 

誰にも負けない努力ができるのは、熱心さです。そして仕事が好きであるということです。ですから、恐ろしいほどの集中力で、仕事ができるのです。 

例え疲労困憊して倒れそうと言われていても、本人の顔色が必ずしも悪くなく、生き生きとしていることがあるのです。座禅を組む方もおられます。それは心を安らかに保ち、思い患うことを少なくすると、健康を維持することにつながるからです。誰にも負けない努力して、体が大変消耗していても、平然と仕事をできるようになります。 

比叡山の天台宗に“千日回峰(せんにちかいほう)”という荒行があります。千日間比叡山の山々を峰から峰へと回峰する修行です。もし途中で挫折すれば、それは死を意味し、自殺しなければなりません。千日回峰するお坊さんは必ず、白い装束をまとい、短刀を身に付けておられます。やり遂げた人は“阿闍梨(あじゃり)”と呼ばれます。 

午前二時起床、三時から回峰に出ます。食事は素うどん一杯、夜にはおかゆとお漬物と梅干しだけです。凄まじい粗食でありながら、峰から峰を、まるで猿のように軽い身のこなしで一日に何十キロも歩かれます。修行の最後には、比叡山を朝二時起床、京都の町まで降りて寺をめぐってから、また比叡山に戻ります。家に戻るのは夜の十一時ごろです。寝られるのは二時間位です。そのような生活をずっと続けるそうです。 

“千日回峰”は我々の想像を超えるものです。栄養学的には説明がつかないのです。それなのに素晴らしい顔色で続けられるのは、その心の心が安らかだからです。心が安らいでいると、想像絶する厳しい環境でも健康を保つことができるそうです。 

  1. 集中すると創意工夫が生まれる

経営の原点十二ヶ条の十、常に創造的な仕事を行う、とあります。誰にも負けないほど一生懸命仕事をすると同時に、創意工夫もしなければなりません。今のやり方で良いのだろうかと常に疑問を抱き、“今日よりは明日、明日よりは明後日”というように次々と創意工夫をしていくのです。 

体を使って働くことも一生懸命なら、考えることも一生懸命にするのです。間断なく知恵を働かせます。 

インドでヨガを執行された中村天風さんは、“有意注意”という言葉を説明しています。“人が生きている間いろいろなことに遭遇するが、意識を注ぎ、集中することが少ない。一瞬一瞬をど真剣に過ごし、何事にも注意を払いなさい” 

常に意識ある一点に向け、集中し続けると、意識が非常に敏感になります。人によっては、工場の機械音の中から故障を示す異常音だけを感じ取れるようになります。意識を集中することで、一定の音だけを聞き取り、機械の異常音がわかるようになるそうです。 

一生懸命に働き、一生懸命に考える。常に意識を集中させる。すると技術も、人材もいない零細企業であっても、次から次へと創意工夫が生まれます。自分には知恵がなければ、知恵のある研究者などに話を聞く、あるいはその人を左右するなりして知恵を外部に求めるという動きも、自然と出来るようになります。 

大企業で“優秀”と言われる管理職や、特定の分野での技術者で“切れ者”と言われる人は、ささいな仕事にも気を抜かず、と真剣に取り組んでいます。 

相談を持ちかけた時“ああ、わかった。それで良い”と軽くあしらう人がいます。しかし、どんな簡単なことでも軽く扱ってはいけません。“ちょっと待て”と立ち止まり、意を注いで、話をよく聞き、ど真剣に取り組まなければなりません。廊下ですれ違った時に、相談を始める人がいます。その時は、“集中して考えるから、後で来て。話をしよう”と伝えます。それは相手の意見を真剣に聞こうとするからです。 

  1. 有意注意を習慣化する

一生懸命に物事を考えるには、まず習慣づけることが必要です。問題が発生してから、突然深く考えようとしてもできるものではありません。意識を集中するにも、ある種の鍛錬と修行が入るのです。 

例えば、不況や突然的な事故が起きた時“会社をどうするか”とのべつまくなく考えなければなりません。二十四時間毎日考えなくてはなりません。しかし習慣化されていなければ、赤字になりそうだと思っても二時間と考えていられないはずです。会社では次から次へと問題が発生しますから、赤字のことを二十四時間考える余裕などありません。 

ところが集中することが習慣になっていると、様々な問題が起こる中で、一方ではそれらを処理しながら、もう一方の潜在意識で、二十四時間考え続けることができます。一週間でも一ヶ月でも考え続けることができます。そして解を見つけることができます。 

肉体的に一生懸命であるだけではなく、頭でも一生懸命に考え続ける。常に創意工夫をし、どんな些細なことも“有意注意”で向き合う。そのように習慣づけていくのです。 

  1. 従業員にも一生懸命になってもらう

従業員は“社長が自分の会社だから社長が働くのは当たり前。私はサラリーマンだから給料分だけ働こう”と一歩引いて考える従業員が多いと思います。 

従業員の社長と同じ気持ちになって、誰にも負けない努力をする。従業員の働く理由が“給料もらうため”という程度では、会社が立派にはなりません。一人でも二人でも社長と同じ気持ちで、ベクトル合わせ、誰にも負けない努力をする従業員がいるかどうかが重要です。 

そのためには、事業自体の目的は、従業員の物心両面の幸せを追求するという大義名分をはっきりさせ、“社長と一緒に仕事をすれば、自分のためになる。仕事が楽しい”と思わせることができればいいのです。 

“皆さんと家族を幸せにしていこうと考えています。社長である私と同じ気持ちで一生懸命働いてくれませんか”と経営の目的もわかりやすく伝えるのです。同時に、その仕事が社会貢献にもなっている、企業の存在は、社会のため、また世のため人のために役立っていると知らしめるのです。従業員の仕事の社会的意義を理解し、“こういう会社なら働きがいがある”と共鳴してくれるようにするのです。 

大義名分は従業員を引っ張るための道具と考えてはなりません。社長自身が一点の疑いもなく信じ、自分の信念にまで高め、また実践していくことが必要なのです。そうでなければ部下に見抜かれてしまいます。 

社長室には立派な社是(しゃぜ)や社訓が額に入れて掲げられているのに、社長がそれとは全く違うことを平気でやっている。“言っていることとやっていることがまるで違う。”朝礼で“一生懸命に頑張る。私も皆さんのために頑張る”と言いながら、“昼からゴルフに行って話にならない。これだからうちの会社はダメなのだ。”と言われている社長がたくさんあるようです。 

社訓、社是は社長である自分自身が本当に信じ、信念にまで高めなければなりません。自分が率先垂範することが大切です。 

  1. 一途な努力で将来が見える

ある時、二〜三人の経営者と一人の政治家との話し合いがありました。その時その政治家が“この前ある経営者と話をしていましたら、稲盛さんの話になりました。稲盛さんは遠視鏡を持っている、と言っていました。”と言いました。“遠視鏡とはなんですか”と聞いたところ“遠くが見える鏡、望遠鏡のことです” 

稲盛さんの打つ手は想像を絶します。例えば第二電電の打ち手は、郵政省、通産省の役人が考えることのはるかに先を行っています。役人の考えは全て現実の後追いですが、稲盛さんの考えは何十年も先を行っています。恐ろしく先の見える人だと話していました。” 

稲盛塾長は、そんなに先は見えていません。“私は真面目に、誰にも負けないほど、本当に骨身を惜しまず、肉体的に努力しています。そして凄まじいまでに頭も使い、考えています。たったそれだけのことです。” 

それからエゴ、利己を離れることで、先がある程度見えるのも事実です。利己を離れ、従業員、家族を幸せにしたいという点から、純粋な気持ちで、骨身を惜しまず努力をする。こうして澄んだ心で物事を見ていますと、先が見えるようになるのです。 

京セラではこの不況の中で過去最高の売上と利益を出しています。第二電電は十一年目ですが、売上高五千億円、税引前利益九百億円ほどです。 

盛和塾が目指すもの 

  1. 不況では売上より利益を追う

この不況の中、売上をなんとしても伸ばそうと、多くの企業がもがいています。このような逆境の中では、もがき苦しんでまで規模を大きくするのではなく、売上が減少する中で、いかにして利益を維持するかということに視点を切り替えるのです。 

確かに売上を増やすことで利益を増やすのが常道です。しかし売上を無理に増やそうとすれば、かえって問題を起こす場合があります。売上を伸ばすことに血眼になって足元を危うくするのではなく、どう利益を確保するのかに目を転じるべきなのです。売上が減った中で、どう生き延びるかに焦点を変えるのです。 

京セラではたくさんの事業部がありますが、すべて黒字です。売上が減少している事業部もありますが、赤字部門はありません。 

  1. 人材は群生する

“類は友を呼ぶ”“朱に交われば赤くなる”それは本当です。盛和塾入塾のきっかけは人に勧められてという人もあれば、稲盛塾長の本を読んで心惹かれたと、人によっていろいろです。それは縁というもので、摩訶不思議なものです。縁で集まった者同士が意識を触れさせ合う。そしてお互いに浄化されていくのです。 

人材が群生するのは、喧々諤々(けんけんがくがく)と議論し切磋琢磨するからではなく、その場に浸ることによって、人間ができていくからです。“相集(あいつど)う”ことが大変大事だと思っています。 

  1. ビジネスの大義名分を解いた石田梅岩

江戸時代、京都の亀岡に生まれ、若い頃は京都の呉服屋で丁稚奉公していました。京都に出て呉服屋で手代として努力を続けてきました。 

四十歳の頃、京都の黄檗山(おうばくさん)の禅僧の教えを受けて、修行を重ねて、悟りを開いたと言われています。呉服屋で一生懸命商売の道を勉強しながら、禅僧のお坊さんに師事し、悟りを開いたわけです。 

梅岩はその後、自宅を開放し、私塾を作ります。そこで説いたのが“石門心学”と言われる“商人道”でした。これが関西の中小企業の経営の座標軸になっていきます。 

江戸時代は士農工商という階級差別があり、商人は最下層とされていました。今でも銭(ぜに)を追うのは汚いという意識はいくらか残っています。江戸時代、商人に対する差別はさらに強かったようです。 

石田梅岩は“商いで利を求めるのは、武士が禄高を求めるのと同じで、卑劣なことではない。利潤を求めるのが商人道だ”と商人たちに解いたのです。 

江戸時代の商人は米を輸送する問屋業などで、利潤を得ていました。例えば百の価格で仕入れた米を別の場所で百二十の価格で売るというように、物を輸送するだけで利益を得るのは大変卑しいことだと思われていたそうです。梅岩は武士が禄をもらうのと同じことだと大義を説き、商人に自信を持たせようとしました。 

梅岩は商いに求められる“道徳”についても述べており、宇宙の心理や人間の本質にもとることをしてはならず、卑劣なことや、不正をしてはならないと言っています。古くから言われている“五倫”心、義、別、序、信、“五常”、仁、義、礼、智、信、を紹介しながら、商いには正しい方法があると教えたのです。 

さらに正直こそ最も重要だとも言っています。“商人と屏風はまっすぐでは立たない”と言われていたそうです。それは商人は少しインチキをしないと商売にはならないと思われていたのです。梅岩は“それは間違いだ。正直こそ飽きないで最も大切だ”と説きました。 

石門心学は、こうして京都の中流の商人を中心として広く大阪、関西一円の商人にまで伝わっていきます。商人ではなく、武士、農民、職人にまで広がってきました。 

  1. 日々の仕事で精進し、悟りを開く

石田梅岩は“悟りの境地”について触れています。“真の智を得るには、悟りを開かなければならない。それには執行を重ねることだ。そうすれば忽然と悟りが開ける”というようなことを言っています。おそらくここでいう修行とは、呉服屋の手代として苦労したことからして、精魂込めて仕事に取り組むことを言っているはずです。事業家、商人として生きる者にとっては、それが修行です。このように日々働きながら修行を重ねることで、悟りが訪れるのです。 

梅岩は“徒然草に書かれているように、聞くだけでは真の智は得られない。宇宙の真理は修行を重ねた結果、忽然と悟るものである。その喜びは親がよみがえった時以上のものである”とも言っています。 

毎日肉体的精神的にくたくたになるほど集中し、寸暇(すんか)を惜しんで仕事をする。その結果忽然として悟りが開ける。このように悟りを開いた時が、“将来が見える”という状態なのです。 

商人道に徹する中でも、最後は悟りの境地にまで至る必要があると梅岩は言っているのです。 

  1. 必要なのは経営者が心を高めること

京都には百年も二百年も続いている商家があります。その理由は戦災に遭わなかったこともありますが、それだけではないのです。 

長く続く商家には、家訓があるのです。その家訓は全てと言っているくらい、梅岩の哲学を家訓として固く守ってきたために、何百年も家業が続いているのです。 

江戸時代、華美な元禄文化の日本に、石田梅岩という素晴らしい人物が現れ、商人に倫理観と強い精神的支柱を与えました。浪花(なにわ)の商人を始め、関西で商人が繁栄していったのです。 

さらに石田梅岩の石門心学は、近代日本の資本主義社会の成立にも大きな影響を及ぼしました。 

ヨーロッパで資本主義の勃興を支えたのは、プロテスタントの禁欲的な倫理観でした。“働く事は周囲の人たちを幸せにする”と教えています。これは従業員を大事にすることにもつながっています。石門心学はこのプロテスタントの教えとよく似た影響を日本社会に与えたのです。 

今の日本に一番必要なのは、経営者が立派になることです。経営者は従業員とその家族を養っています。考え方が立派な経営者が多ければ、社会の安定と繁栄の礎になります。盛和塾は立派な経営者を育て、日本の社会に貢献するためにあります。