盛和塾 読後感想文 第143号

リーダーよ、創造的であれ

リーダーは常に創造的な心を持っています。部下には新しい何かを求め、創造していくという考え方を植え付け、創造的な製品、サービスを考え、実践していくように指導していくのです。 

それは創造的な考え方を常に集団に導入していくことにより、その集団の持続的な進歩、発展が可能になるのです。創造的な企業、時代の要求に応え、世のため人のために一生懸命創造的な仕事をする企業は生き延び、成長発展していきます。 

ところが、リーダーが現在のあり方に満足していれば、その集団も現状に満足してしまい、さらにはいつしか退歩さえももたらしてしまいます。そのようなリーダーがいるなら、それは集団にとって最も悲しむべきことです。 

創造というものは意識を集中し、潜在意識を働かせて、深く考え続ける、またアイデアをテストしていくという苦しみの中からようやく生まれているものです。決して単なる思いつきや、生半可な考えから得られるものではありません。自分の心の中でじっくり考えを練らずに、突然ひらめきが沸くのをあてにしてはならないのです。本物の“ひらめき”は、誰にも負けない努力をし、意識を集中し、潜在意識を働かせることによって生まれるものなのです。創造的な心とは、持続した強い願望を追求し続けることなのです。     

リーダーは目標達成するために考え続け、いつも前向きに、必ず達成するという信念を持ち、努力を続ける人なのです。 

企業における自己革新ー京セラの新製品開発を通じて 

企業が革新的なイノベーションを起こすために

京セラが新製品開発についてどういった自己革新をやってきたかということ、また企業が永続的に成長発展を遂げていくために、自らを変革し続けることが大切だということを稲盛塾長は語られています。 

我々企業経営者は、どのような業種に属していようとも、常に熾烈な市場競争にさらされています。特にグローバル化が進展し、技術革新の激しい現在の経済環境においては、一瞬たりとも現状に甘んじ、気を緩めるゆとりはありません。 

企業は現状に安住し、とどまってしまえば、必然的に退歩につながっていきます。持続的な成長発展をするためには、自己革新を図る、つまり自ら変革をし続けるしかありません。 

京セラの歴史は、現状を否定し、未来に向けて自己革新を繰り返してきた歴史なのです。その革新のベースとなったのは、不可能と思えるような事業への果敢な挑戦であり、まだ世の中に存在しない画期的な製品の創造でした。 

それは、必ずしも世の中にそうした需要があったから、つまり既存の市場があるとわかって製品を提供していたわけではありません。まだ社会に需要はなくとも、革新的なイノベーションによって新しい需要を作り出し、新しい市場を開拓してきました。 

そうした革新的な企業が存在することで、新しい産業が育ち、新しい雇用が生まれ、経済社会が活性化していくと思います。 

一般的日本大企業は、改良改善による現場の延長線上にあるイノベーションは得意ですが、現場から飛躍した革新的なイノベーションは苦手だとされています。そもそも革新的なイノベーションが生まれにくい社会風土が日本の社会にあるからかもしれません。 

我々日本人は、普段の仕事の進め方にしても、ボトムアップ方式で、ベースから決めていくということが普通です。例えば新製品開発をする場合、まず既存のデータや文献を集め、また手持ちの技術を集めてきて、そこから可能性を追求するというボトムアップ方式に慣れています。 

しかしこうしたボトムアップ方式では、常識を超えた飛躍した新しい発想はなかなか出てくる可能性は少ないのです。 

企業における自己革新も同じで、企業が変革を遂げ、時代に先駆けて事業活動を進めていくときには、決して過去の延長線上やデータの積み上げではなく、過去から断続した自由な発想、現状否定が求められるのです。 

世界をリードする欧米企業では、データや既存技術の積み上げではなく“こういう思想のものを作ってみようではないか”とまずコンセプトを先にする。つまり概念そのものを先に置いて、仕事を進めていきます。その上で、そのコンセプトを実現するためにはどういう要素、技術が入るかと考える手法をとっています。これはボトムアップ方式に対するトップダウン方式なのです。 

トップダウン方式は、日本では非常に少ないのが現状です。自由な発想のもとで“こういうものをやってみたい”と提案しますと“それがいかに無鉄砲なことなのか”と他の会議の出席者から追求されることがあります。“わが社にある要素技術、技術陣の体制から見て、それはナンセンスだ。そういうものができるわけがない”といったような反応が返ってきます。 

そこで革新的な技術を開発していく場合も、企業そのものを新しい時代に合わせて自己革新する場合も、異端の発想を許容し、敢えて取り上げようとする社風がどうしても必要なのです。こうした“革新”を生み出す企業風土がなければ、“新しい製品を作ろう”“新しい市場を開拓しよう”といくら唱えてもなかなか新製品開発や新規事業展開が前進するものではありません。 

京セラにおける事例1 マルチフォームガラス 

唯一の製品が収束する危機に直面

新しく事業を開始するときには、既存の企業や事業とは差別化を図るために、革新的な製品やサービスを打ち出していくこと、創造的な仕事をすることが求められます。またベンチャー企業の場合でも、企業が成長発展していくことを目指すならば、絶えず創造的な仕事を続けていくことが求められます。 

それは多くの場合、創業者自身が“現在の製品、サービスだけでは時代の変換とともにやがて会社が立ち行かなくなる”という強烈な危機感を持っているのです。新しい製品を作らなければ、会社が倒産してしまうという強烈な危機感を京セラは持っていました。 

京セラの最初の製品は、稲盛塾長が前の会社、松風工業時代に開発したテレビのブラウン管の電子銃の支柱に用いられる絶縁部品だけでした。高周波絶縁性能に優れたフォルステライトという、稲盛塾長が日本で初めて開発した新しいファインセラミック材料を用いた製品で、京セラ発展の礎になったものです。 

しかしこのフォルステライトを使ってU字ケルシマという“単品生産”で京セラを創業したため、稲盛塾長は大変不安に思っていたのです。もしU字ケルシマの注文が途絶えたら、京セラは潰れてしまいます。 

このことは現実のものとなりました。U字ケルシマがマルチフォームガラスという別の絶縁部品に置き換わっていくことが明らかになったのです。マルチフォームガラスは京セラが創業時、一九六十年頃から欧米で使われ始め、日本でも東芝、日立、三菱電機などが導入することになり、京セラの納入先である松下電子工業も近いうちにU字ケルシマからマルチフォームガラスに切り替えるということでした。京セラ創業時の唯一の製品はわずか一年、二年で風前の灯となったのでした。 

松下電子工業からは“何ヶ月後にはマルチフォームガラスに切り替えていきます。京セラができなければ他社から購入するつもりです”と伝えられました。ここで京セラでは“できない”とはいえません。“京セラもマルチフォームガラスをつくります”と答えざるをえませんでした。 

あらゆる手を尽くして新製品を開発する

“京セラもマルチフォームガラスを作れます”といったものの、ガラスについての知識もなく、マルチフォームガラスを作る技術も設備も持ち合わせていませんでした。調査した結果、ガラスの原材料は非常に融点の高い硼珪酸(ほうけいさん)ガラスと呼ばれるものが使われており、その原料の比率も何とかわかりました。それらの粉末を混ぜ合わせて、ガラスの原料を作ることができました。 

来る日も来る日も何軒も東大阪のガラス製造会社を訪問し、“こういう組成のガラスを作ってくれないか”と必死にお願いしてみました。しかし“そんなガラスは溶かしたことがない”と断られました。ようやく原料を溶かす窯を、夜だけなら貸してくれるというガラス製造会社を見つけました。 

そして社有車スバル360に数十キロの原料を積み、夜、東大阪に持っていくことになりました。ところが実際に借りた窯に入れて温度を上げていくと、ガラスの原料が解けるところか、持参した耐火製容器である“るつぼ”の底が溶けてしまい、窯そのものをダメにしてしまうという結果になりました。硼珪酸ガラスは特殊な“るつぼ”を使わなければ溶かせないガラスだということがわかったのです。 

その後は“るつぼ”を何回も換え、原料の配合比率も何度も変え、毎晩のように東大阪に通って原料を溶かし、失敗を繰り返しながら試作品を作り続けました。 

こうした試行錯誤の末にようやく松下電子工業にマルチフォームガラスを納入することができました。このマルチフォームガラスは後に他社にも納品をするようになり、最盛期には京セラが国内需要の85%以上のシェアを占め、二00四年に生産終了となるまで、四十年以上という長きにわたって、京セラの経営に貢献してくれました。 

京セラは新しいことに挑戦していかなければ、生き残ることができないという危機感を全従業員が共有しておりました。常にクリエイティブであることが必然のものとして求められたのです。 

一般的には会社が得意とする事業に対し、その技術を磨いていかなければならないと言われます。つまり“選択と集中”、自分の得意分野に集中しなければ事業がうまくいかないとされています。 

しかし自分の得意分野の製品やサービスが、お客様からまた市場から不用と言われた時は、死に物狂いで生き延びる手立てを考え、社員の生活を守っていかなければならないのです。その時、お客様の要求に応えるべく、自分の会社を大きく方向転換し、お客様のニーズに応えることが必要なのです。京セラの場合、単品生産だけでは生きていけないという危機感が最初からありました。その危機感のため、あらゆる手を尽くして開発し、事業化したものがマルチフォームガラスでした。 

“現状に満足することが退歩につながる”という意識を持ち続けることを通じて、活力のある社風を作ることが大切です。 

京セラにおける事例セラミック多層パッケージ 

技術がなくても短期間の開発を成し遂げる

創造的でなければ生き延びることができないという危機感が社内に息づいているならば、世の中にないような常識を超える画期的なイノベーションを起こすことが可能なのです。 

中小零細企業であった京セラは、生き残るために、その時にはできないことでもできると言って注文もらいました。それでも無名の京セラに注文をくれる会社は限られておりました。製品のサンプルを持っていってもなかなか注文をもらえませんでした。それには日本に横行する系列企業取引という日本の商習慣も障害となっていました。京セラのような中小企業から買うのではなく住友系なら住友系、三菱系であれば三菱系、日立系なら日立系、そういう系列の企業から買うのが習慣でした。 

ところが、市場がオープンなアメリカに売り込みをかけて、アメリカの企業に京セラの製品を使ってもらおうと考えました。当時、アメリカから技術を導入していた日本企業が積極的に京セラの部品を使ってくれるようになるのではと考えたのでした。 

一九六十年代はエレクトロニクスの勃興期でした。生活に必要な“集積回路”、つまりICの技術が確立され、アメリカ西海岸シリコンバレーに続々と半導体関連企業が生まれていったころです。そしてこれらの企業が京セラに対して、半導体チップを保護するためのセラミック部品の引き合いを数多くいただくことができました。 

一九六九年、アメリカのフェアチャイルド社から新しいコンセプトのセラミック多層パッケージの引き合いを受けました。“シリコンは環境の変化に大変弱いので、外気から隔離して急激な温度や湿度の変化等にさらされないようにしなければならない。それで外からの電気信号が入ってくれば、二層の回路をめぐって、再び信号を外に引き出せるというものを作りたい。セラミックスの焼き物の中に、そういう構造を作りたい。つまりセラミックスの多層の回路を封じ込めたものを作りたい。そうしたパッケージはできないだろうか”と聞かれたのでした。 

全く新しい概念であり、どのように作れば良いか誰も知らないのです。しかもこの画期的な製品を三ヶ月で開発して欲しいという要請でした。どう考えても当時の京セラの技術水準をはるかに超えたものであり、“できません”と断るのが普通です。 

苦しみの中からひらめきが生まれる

アメリカのセラミックメーカーも薄いセラミック板を重ねて試作品を作ろうとしていました。稲盛塾長は“できるできない”を判断するような事はしませんでした。“どうすればできるか”を懸命に考えたのです。 

必死で考えている間にひらめきました。“チューインガムのようなものを作ったらどうだろう“と考えたのです。それまではセラミック粉末を圧力をかけて固める方法でものを作っていました。今度は“粘り気のあるチューインガムみたいなものを作ったらどうだろう”と考えました。その回路はタングステン粉末という耐熱性の高い金属の粉末で作ればどうだろうと考えました。 

京都にはシルクスクリーンという印刷技法がありました。フレキシブルなセラミックシートを作り、シートにタングステンをスクリーン印刷して電子回路のパターンをつくりました。次は積層したものを焼いていかなければなりません。 

このセラミック多層パッケージの開発が京セラが一大飛躍を遂げていくきっかけになりました。シリコンバレーの半導体メーカーはすべて京セラにパッケージを作ってもらうために日参してきました。インテルという会社を創業したロバート・ノイス博士は京セラまでこられて、京セラのパッケージを使っていただくことになりました。 

もとはといえば、“こういうもの作れないだろうか”とお客様から言われたコンセプトをベースにして、必死で考える中で生まれたひらめきがきっかけとなったのです。 

もともとは自分だけでは実現できそうにもないアイディアです。セラミック多層パッケージは誰一人としてできるとは思っていなかったと思います。それはなんとかして実現していこうと必死に努力を重ねた結果、セラミック多層パッケージが誕生したのです。 

純粋な心で必死に取り組むと、時代の要求が見えてくる

稲盛塾長は特別な才能を持っていたわけではありません。会社の将来に対して、危機感を持って必死に経営にあたる中で、新しいマーケット、また新しい時代の要求しているものに気づくことができたのです。 

純粋な心で必死に仕事に打ち込んでいる中で、神様がそっと手を差し伸べて“こっちの方向にマーケットがある。”“こうしたらどうだ”“こういう事業に進出すべきだ”と教えてくださったのです。 

純粋な心を羅針盤にして進む

革新的なことにチャレンジしていく場合、特にそれがまだ世の中にないもので、全くの未知の領域であればあるほど、頼れるものは何もありません。 

あたかも海図のない大海原を、羅針盤のついていない小船でこいでいくようなものです。そういう状況に置かれれば、人はえてして自信をなくし、足がすくむものです。その時に唯一頼りになるのは、自分自身の羅針盤です。 

企業が創造的な製品開発や事業展開を行う場合も同じです。誰もやったことのない新しい未開の分野に乗り出していく場合には、文献に頼るわけにはいきません。同業他社の例にならうこともできません。 

唯一頼りにできるのは、自分が持つ心の羅針盤です。その心の羅針盤に従って進むべき方向は自分自身が決めるしかありません。 

最も重要な事は、自分自身に対する信頼、自信を持つことです。自分を信じ、心から雑念妄念を取り払い、一切の邪念なく、純粋な心で目の前の障害に真正面から向き合うならば、必ず解決策が見つかり、成功へと至る道が開けてきます。 

純粋な心とは、物事を行うときの動機であり、私心がないということです。仲間のため、従業員のため、また会社の将来のため、平和で美しい心をベースにして、たとえ技術や資金、人材という“手段”が不足していたとしても、成功する確率は大きく高まっていきます。例えば、誰もが“こんな難しい事はとても無理だ。とても実現できないだろう”と思うような領域でも、純粋で美しい心の持ち主であれば、いとも簡単に困難を克服することができます。 

前述のように、日本経済が停滞している原因の一つは、革新的なイノベーションが生まれていないことです。その担い手は大企業ではなく、自由な発想で、積極果敢に挑戦する中小企業です。