盛和塾 読後感想文 第147号

社会との共生

文明段階以前の祖先は、利己的な考え方、自分だけが良ければいいという考え方をしていくと、結局は何世代か後にはみんなが餓死をしなければならない、滅びなければならないということをよく知っていました。森と共に生きていこう、共生していこうという視点を持ち、その結果、森も生きていけるし、自分たちも生きていけるという原理原則を体得していました。 

企業は小さな森です。経営者は企業の森に住んでいる従業員をどう生かしていくのか、それを考えなければならない。小さな森の住人である従業員が栄えなければ、自分も栄えることはできない。従業員も含め、共に働くすべての人たちを幸せにして、企業という小さな森を立派にしていきたいという志が大切です。 

社会は、さらに大きな森です。そこには資本を提供してくれる株主があり、部品や資材を提供してくれる会社があり、製品を買ってくれる顧客がある。このうちのどれが欠けても、会社は成り立ってはいけません。企業にとって社会は一種の循環系であり、かつ企業の存在基盤なのです。社会の森の循環系の中で、従業員、株主、消費者、取引先といった社会の構成員に利潤を還流(かんりゅう)させ、この循環系を維持することが企業自らの存続条件になります。 

企業は社会の中で他の企業と競争しつつ、共生している。経営者は、この循環の原理を知り、会社をその循環の一つの要素として働かせ、経済の循環の中で共に生きる知恵を育てていかなければなりません。 

共に生きる 

心が純粋で必死に頑張れば事業は成功する

私たちは自分で勝手にこの世に生まれてきたわけではありません。何かの縁や必然性で、世のため人のためになるように、我々は生を受けたのだと思います。経営者の方々は、特に自分のためだけの人生ではありません。少なくとも数人でも従業員を雇用されていれば、彼らのためにも疲れたり、投げやりになってしまっては困るのです。“従業員やその家族のためになんとしてもがんばらなくてはならない”と自分に言い聞かせ、その人生をポジティブに生きることが、周囲の人から求められていると思います。 

“心を高める、経営を伸ばす”という本の中で、心を高めるとなぜ経営がうまくいくのかが述べられています。“経営者の器の大きさまでにしか、経営というのは大きくなりません。自分の経営を伸ばそうと思えば、自分という器を、自分という人物を、人間を高める必要があります。” 

“動機善なりや、私心なかりしか”という本の中でも、“今やろうとしている事業の動機は、善きことですか、善き動機からその事業を始められたのですか”と問われています。また“私心なかりしか”は自分勝手で自分だけ儲かれば良い、と考えているのではないかと問うているのです。 

絶えず争いが起き、弱肉強食の経済社会、国際社会で生きていくためには、“共生”という共に生きるという考えが大変大事になってきています。自然界では、生きとし生けるもの全てが循環しています。その循環の輪を断ち切るようなことがあってはなりません。森羅万象、生きとし生けるもの全てが共に生きられるような社会がこの自然界です。皆が調和して生きているこの自然界の中で、自分だけが良ければいいという考え方では、必ず周囲との摩擦が起きてしまいます。動機が不純で、自分だけ良ければいいという私心だけの人がいたのでは、この自然界の中では生きていけないのです。 

そこでは“足るを知る”ことが大切です。他を思いやる優しい美しい心を持つということです。限られた食物を自分だけ取ろうとするのではなく、他の人とも一緒に分け合っていただこうとする心です。 

うまくいくはずだった事業がそうならないのは、その事業をする人の心の中に不純なものがあるからです。自分が企画し、寝る間も惜しんで無心に一生懸命頑張れば、事業というものは全てうまくいきます。にもかかわらずうまくいかないのは、心の中に不純さがあり、動機が善ではなくて、私心があまりにもありすぎるからです。 

自然界に見る共生

共に生きるためには、利他の心がいります。“自分だけが良ければいいという利己の心だけではうまくいきません。利他の心がいるのです”といいますと、“そういった博愛主義みたいなもので経営をしていけるのか”という人もいます。自分の周囲には、たくさんの同業者がいて、少しでも優しい顔をすれば、たちまち自分の市場をとられて、やっつけられてしまう。だからそんな共生という優しい思いやりの心で実際に経営はできるのだろうか。これは近視眼的な優しさや思いやりのことです。確かに今日の食物が確保できないような場合は、他人のことなどかまっておられないだろうと思います。 

私共、二十数年支えてきたタイのストリートの子供たちを救う会“カルナーの会”では、今起きている新型コロナウイルスの災害の中で、仕事をなくし、お金もない子供たちが、食べ物がない中、お米をお粥にして分け合って生活しているのです。さらに驚くべきことに、この子供たちが街に行き、少しの食べ物を生活に困っている人たちに配っているそうです。 

これほどまでに人間は自分が困っていても、人のために尽くそうという優しい思いやりのある行動をとることができるのです。 

自然界を見てみますと、この暑い日差しの中、蟻は営々と食物を運んでいます。昆虫の死骸や、犬が食べ残したものを一生懸命に引っ張って、自分の生のために、延々と黒い帯になって、小さな蟻が働いています。 

あらゆる自然界を見ても、みんなと一緒になって生きなければという思いだけで、楽をして生きている生物は一つもありません。みんな自分自身が生きるのに必死です。趣味やら何やらというものには目もくれず、必死で生きています。 

自然界では、他の人をつぶしてまで、他人を踏みつけてまで、自分だけ生きようとはしていません。もちろん自然界では他の生き物、植物を利用して生きようとしている生物も多くあります。例えば道路の横には、太陽の光を全身に浴びて、炭酸同化作用して、夏のうちに栄養補給をしようとする植物群が生きようとしています。その上をつたやかずらのような植物が這い上がってきて、上のほうに自分の葉をつけて、下の木の上に乗ったまま、自分だけ栄耀栄華(えいようえいが)を極めようとする植物もあります。それでも下の大きい木は、それを押し分けて、炭酸同化作用ができるように必死に生きています。 

“共生”とは生物が必死で生きていくことをいうのです。必死で生きているその中にこそ調和があるのです。ただ単におすそ分けをしたり、談合をして棲み分けをしたりするという意味ではありません。ましてや相手をつぶしたり、やっつけたりして皆殺しにして、自分だけ生き残ろうというものでは無いのです。 

下請けにより鍛えられた京セラ

京セラの最初の仕事は、松下電子工業の下請けでした。白黒テレビがスタートした時期でした。テレビはエレクトロンといって電子が飛び出して映像を映し出す仕組みになっています。像を描くブラウン管の中で、電子が飛び出すところを陰極、カソードといいます。カソードには素晴らしい性能を持った絶縁材料がいります。飛び出した電子に高電圧をかけて加速させるとすごいスピードになるのですが、それがテレビ画面の裏側の蛍光体にぶつかって映像が映し出されるのです。その高電圧で取り出した原子を加速させるところを電子銃、エレクトロン・ガンといいます。高電圧がかかりますから、その部分をしっかりと絶縁するために部品が必要なのです。つまりカソードという陰極、電子が飛び出すところ、そして出てきた電子を加速する電子銃のところにも、素晴らしい性能の絶縁材料が必要なのです。 

松下電子工業は当時、オランダのフィリップス社と合弁会社を始めておられました。当時はオランダに素晴らしい絶縁材料があったのですが、日本にはなかったのです。そこで京セラの絶縁材料が採用されました。松下電子工業はその材料を使ってテレビの開発に成功し、以後、京セラが独占的に絶縁材料を提供することになりました。今日、京セラが素晴らしい会社になっていった最初の礎(いしずえ)は、松下電子工業の下請けだったのです。 

松下電器産業、松下電子工業の発展とともに多くの下請工場ができていきました。下請協力企業の経営者たちが年に一度集まる機会もできてきたのですが、その中には今までお世話になってきた松下電器産業を含め、松下グループに対して、恨みつらみをいう人たちが増えてきました。 

稲盛塾長は一九五九年から松下さんの下請けを始めました。そこから毎年値切られてきました。当時セラミックは一個十数円でした。今でも京セラで作っています。それが今では一円いくらかになっています。この三十年間で毎年値切られて、十分の一の値段になったわけです。どんなに下げろと言われても、一銭しか下がりませんという年が数年ありました。 

松下さんの値切る方法は以下の通りです。

  1. 一年たったら、合理化もできたに違いない。
  2. 発注量が増えた。生産効率が上がっているはずだ。
  3. 決算書を提出しろ。下請けのくせに8%も利益が出ているではないか。
  4. 利益が出ていないのであれば、京セラは危ない。他の会社に発注したほうが安全だ。 

一九七〇年頃になると、松下さんの下請け企業の社長が集まれば、半分以上、中には七割以上が松下の悪口を言い始めるのです。 

“松下さんは下請けをとことん値切り倒して、我々の生き血を吸って大きくなった。それで去年もあの下請けが潰れた。あそこの下請けも潰れた。けしからんではないか” 

京セラはそう考えなかったのです。松下さんに値切られて、厳しく鍛えられて京セラは逞(たくま)しくなった。 

厳しさの中で磨かれながら共に生きる

一九七〇年代には京セラはすでに海外輸出を始めていました。それは半導体のパッケージですが、今ではアメリカだけではなく、全世界でシェアは七割ほどを占めるまでになっています。 

アメリカではシリコンバレーでトランジスターが始まった時代から取引を行ってきました。あのすさまじいばかりの松下さんの厳しさに鍛えられて、京セラは短期間で世界に通用するセラミック屋になれたのです。京セラは松下に足を向けて寝られません。今日の素晴らしい力強い京セラにしてくれたのは、松下さんの厳しさだったと稲盛塾長は思ったそうです。“松下さんに感謝こそすれ、恨みつらみは無い”と言ったそうです。 

この話はあらゆる事業の役に立ちます。お客様に甘えてはいけない。厳しい条件を突きつけられたとしても、この課題をどう解決するかと考え、努力、創意工夫をする機会を与えられたと考えるべきなのです。お客様からお金をいただきながら、創意工夫するのです。 

何か新しいことを自分で考えて、何か新しいことをするときには、自分の時間を使い、自分のお金を使います。誰もお金を払ってくれないということを考えなくてはなりません。 

したがって、与えられたお客様からの課題は、喜んで挑戦すべきと思います。 

生きるということは厳しいものです。様々な重圧がかかり、障害があり、厳しい環境に追い込まれます。その中でそれをポジティブに明るく受け止めて、その厳しさが今日の私を作ってくれたと感謝する、そういう生き方が“共生”なのです。 

松下さんに次のようにいう人がおるかもしれません。 

“共生の時代ですよ。自分だけ良ければいいという時代ではありません。大企業ともあろうものが、零細の中小企業いじめて値切り倒して、そしてつぶして平然としている。われわれ中小企業の生き血を吸って大きくなった。”“あなたは、動機善なりや、私心なかりしかということを知っていますか。自分だけ良ければいいというものではありません。特に強いものがそんなことでは困りますよ。もっと中小企業を可愛がり、大事にし、値切り倒すどころかちょっとでも高く買ってあげようとするのが共生ですよ。” 

他の人を甘えさせる事は共生ではありません。甘えさせて、中小企業は成長発展はできないのです。甘えさせる事は逆に中小企業そのものを破滅させる原因となります。大企業も必死に生き延びようとします。そのためには、中小企業の下請けも、必死に生き延びる努力が必要なのです。これが共生なのです。 

共生とは、厳しさの中で磨かれながら、共に生きていくことなのです。この厳しい自然界の中には大きな杉もクスノキも、小さな草花も必死で生きているように、みんな趣味にうつつを抜かす余裕はないのです。松下電器産業ですら、良い製品を消費者が受け入れてくれる価格で提供することに必死なのです。 

松下も余裕は無いのです。大企業でも一瞬の揺らぎが倒産につながることもあるのです。中小企業であるなら、なおさら必死に生きています。厳しい環境ポジティブに捉えて、善意として受け取っていくことが大事です。 

例えば、オフィスの中に囲って育てている草花は、オフィスが壊れれば、たちまちに野ざらしになって、その草花はいっぺんに枯れてしまいます。道端で踏まれても蹴られても、耐えて生きているあの草花、その逞(たくま)しさがいるのです。霜が降りても雨が降っても、洪水が来ても、耐え抜いて生きていくような草花でなければならないのです。そういう中で生きていくことが“共生”なのです。 

“共生”というのは、この厳しい世界の中で共に生きていくということなのです。 

心を高めるとは思いやりの心を持つこと

心を高めるとは、自分の人間性を高めることです。人間の一番低次元の心は、自分だけ良ければいいという利己です。つまり利己的欲望の塊が人間なのです。しかしそれではいけません。“心を高める”というのは、優しい思いやりという利他の心を持つことです。そのような人格ができているということが、経営にとって大変大事なのです。 

しかし、優しい思いやりというのは安易な優しさではなく、厳しさの中にある優しさなのです。優しさという前に、誰にも負けないくらい必死で仕事をすることが必要です。そして才覚というものも必要とされます。人が考えつかないような素晴らしい戦術、戦略がいるのです。それには頭も使いますが、誰にも負けない努力があって初めて素晴らしい戦術、戦略が生まれるのです。 

経営者が“心を高める”、“動機善なりや、私心なかりしか”、“調整と循環”、“利他の心”というものを兼ね備えることで、会社はうまくいきます。 

菌糸も自然の意志を持つ

和歌山県は熊野に南方熊楠(みなみかたくまぐす)さんという菌糸の研究者がおられました。生物の挙動を調べて、その研究を後世に残しておられます。 

菌のような原始的な生物になってくると、食料が豊富な時は一個一個の菌のままでいますが、食料が不足しますと、菌糸同士が一本の植物みたいになって集まってくるのだそうです。それがどんどん大きくなってくると、集まったままで、そこに留まります。それが胞子のように成長してくると、ある時点ではじけて開きます。自分たちは死んでしまいますが、開いた後に誕生した胞子が子孫を残していきます。もともと独立していた個別の単細胞であったのに、それがくっついてあたかも一個の生命体のような行動するというのが菌糸の実態です。このようなところからも自然の意志が感じられるのです。 

原始の海に存在したたった一個の単細胞が、最終的に意思を持ち、その意識から端を発して意志を持った人間に進化してきたのです。人間の意識には潜在意識と顕在意識とがあります。人間のような顕在意識を持った生物はいません。そういう顕在意識、目覚めた意識、意志を持つ高級な生物にまで育んでくれたのがこの自然界です。 

宇宙の意志、進化と同調する

この宇宙に存在する森羅万象あらゆるものが、物事を善かれかしという方向へと成長・発展させています。この宇宙の始まりのように、素粒子という無生物からでも発展させていくのが自然なのです。つまり宇宙は、すべてのものを放ってはおきません。幸せな方へ、良い方へと流れていくようにできているのです。 

ある会社が今三〜四人の従業員しかいないとします。宇宙は、自然は、この小さな会社も放ってはいません。三十人の会社、三百人の会社になるように、実は動いているのです。何も言わない無生物でも、進化の方向に流れているのです。それが自然界の摂理なのです。  

みんなが善かれかしと思う方向へ宇宙の“気”が流れているのです。人間は意識でいろいろなことを考え、こうしようという意志で行動していきます。これと同じく宇宙には宇宙の意志があります。森羅万象すべて良い方向へ行くように、宇宙の意志は流れていて、そう仕向けているのです。良い方向へと良い方向へと流れて決して止まる事はありません。 

宇宙がそう仕向けているのに会社がうまくいかないのは、宇宙の意識(善かれかし)を受け入れられる状態になっていないからなのです。誰かが不幸であったりうまくいかなかったりするようにはなっていないのです。みんなうまくいくようになっているのです。 

あるアメリカ人が唱えている、進化を受け入れ、推し進めていこうとする“プロ・エボルーション”、前向きの変革は、善かれかしから派生し、進化に逆らう、宇宙の意志に逆らう“アンチ・エボルーション”は後ろ向きな悪しき思いに根ざしたものと述べています。 

その宇宙が持っている意志、進化と同調し、調和するような心とは、建設的、肯定的でポジティブなものです。つまり善きことを思うことが、この宇宙の進化に同調することなのです。 

アンチ・エボルーションは人生を暗くする

プロ・エボルーション、宇宙の意思に沿って前向きに進化を受け入れるのに対して、アンチ・エボルーションは宇宙の意志に逆らって、進化を拒否する、自分だけよければいい、相手の事はどうでもいい、妨害的、否定的、邪悪なもの、悪しき思いです。 

善かれかし、優しい思いやりの心を持っていれば、その人自身に幸福がもたらされるでしょうし、その人の周囲の人にも喜びと幸せが及んできます。 

もし妨害的でネガティブで否定的、邪悪な考えを持って行動するならば、その人の周囲には不幸や不和、そして様々な害、肉体に病気を起こす、災難に遭遇するといったことが起こってきます。 

先述のアメリカ人の手紙の中には、

“人生を暗くし、ダメにしていく思い、アンチ・エボリューションの項目には、無作法、恨み、妬み、嫉妬、口論、敵意、中傷、偽り、詐欺、盗み、強欲、残忍性、憎しみ、殺人殺傷、侮辱(ぶじょく)、屈辱(くつじょく)、臆病、怠惰、無関心、不摂生、無秩序、不潔、怒り、自己憐憫(じこれんびん)、傲慢、絶望、不正確、心配、激怒というものがあります” 

と書かれています。 

こういう恨みとか不平不満の想念を持っていますと、表情も暗くなって事業も暗くなります。 

“自分自身の人生、将来には必ず明るいものが開けている。それがこの宇宙がポジティブに良い方向に行くように仕向けているのだから、それに逆らって反対側を向かない限り大丈夫だ。”自分もそれを肯定し、“私の人生は必ずうまくいく”と信じて、“一生懸命努力しさえすればよいのだ”と思っている人は必ずうまくいくようになります。