盛和塾 読後感想文 第152号

中小零細企業が大企業に発展するためには 

事業を成功に導くには努力の積み重ねしかない

会社が立派になるということは、お金持ちになるとか、経営者が良くなるとかではなく、それだけより多くの人を雇用する、養うことになる。それだけでも社会的に大きな意義があります。 

能力のある人が仕事を大きくして、そこで多くの方々を採用し雇用する事は、職を与えるという点からも大変立派なことです。また立派な会社経営をすることにより、その会社が素晴らしい事業を展開し、そして利益を上げて税金を納めるようになることも、社会的に立派なことです。 

自分のために会社を大きくするのではなく、世のため人のため、社会のため、自然のため、宇宙のために尽くすという観点から会社を立派にしていきたいものです。 

二宮尊徳の生き様と誰にも負けない努力

事業を成功させる大きな礎になっているのは、地味な仕事なのです。その地味な仕事をひたむきに継続していく、そのことに尽きます。事業がうまくいかないのは、自分の仕事を、本当に誰にも負けないくらいの努力を払ってやっていないからではないでしょうか。 

内村鑑三の書いた“代表的日本人”の小冊子に、二宮尊徳の章があります。二宮尊徳は大変律儀で、道徳観念が強く、そして非常に生真面目で素直な人だったようです。 

尊徳は両親と死に分かれて、おじさんのところに里子に出されます。そしておじさんの家で食べさせてもらいながら一生懸命働きます。彼は学問がありませんでした。なんとしても立派な人になりたいと思っていました。そのため働きながら陽明学、孔子、孟子の教えを中国の書籍に則って学ぼうと、夜、油をつけた小さな灯りで本を読みます。それがおじさんに見つけられて、叱られます。 

“農民が勉強する必要は無い。勉強なんかしたって無意味だ。油がもったいないだろう”と叱られてしまいました。“なるほど、そうだ”と思った尊徳は、誰も手をつけない村の共同沼地に菜種を植えます。そこで収穫した菜種を村の油問屋に話をして、油に変えてもらいます。自分が休みの時に作った菜種から取った油で尊徳は勉強するのですが、これもおじさんに叱られます。 

“お前が暇を見つけて作ったという菜種すらも私のものだ。お前は私のために若干働いてあげていると思っているかもしれないが、私の家に居候し、私の家で飯を食っているお前がやっていることは、全て私のものだ。”と叱られます。“なるほど”。自分で作った油であっても、夜勉強することをやめます。そして仕事をしているときに歩きながら本を読むようになります。 

尊徳は陽明学を究めていきます。その中で孔子が説いた、地の利、天道を知ります。また道徳律ー人間として守らなければならない道徳というものを知ります。 

誠実でひたむきな働きぶり、その誠実さと誠意に天も地も感動して、それがために動く、天地が味方してくれると信じるようになります。一生懸命でひたむきであれば、天地も助けてくれるだろう、神様が助けてくれるだろう。そういうことを尊徳は信念にまで高めていきました。 

誰よりも先に畑に出て、他の人たちが家に帰るまで畑に留まりました。尊徳は貧しい村を、村民を励ましながら裕福な村へと変えていったそうです。 

二宮尊徳が鍬一本鋤一本で、荒廃した村を数年で肥沃で豊かな村に変えていく様を見て、諸藩の大名たちは驚きます。そして“自藩の荒廃した村を立て直してほしい”と尊徳に頼むようになりました。 

誠を尽くして誰にも負けない努力をすれば、神様も助けざるを得ないという信念を持つと同時に“動機の真実なること”が大切だとも言っています。動機が悪かったのでは、たとえどんなに良いことをしても認めませんでした。物事を行うのに動機が真実であることを大事にしました。 

二宮尊徳は鍬と鋤を一本持てば、たちまちに、荒廃したみすぼらしい村を素晴らしい富める村に変えていきました。それは夜明け前から畑に出て、夜はとっぷりと暮れ、畑が見えなくなるまで働いたからできたことなのです。そして倹約に倹約を重ねて頑張ったからなのです。それを数年も続ければ、たちまち成功するに決まっているのです。 

“親から引き継いだ会社は時流に合わなくて、あまり良くない事業でして”などと言っている暇があるくらいなら、寝ずに働かなければならないと思います。 

経営十二ヶ条の第四条、“誰にも負けない努力をする”があります。これはただ努力をしなさいと言っているのではなく、誰にも負けない努力をするということなのです。 

素人が作り上げた京都の先端産業

先日朝日新聞に、好調を支える“一芸戦略”と題した記事の中で、京セラ、村田製作所、ロームについて書かれていました。京都のこれらの企業の利益率は、一部上場企業の平均を大幅に上回っており、なぜ京都にそのような高い利益率を誇る企業が群生するのかという特集でした。 

アメリカの格付け会社が出しているグローバル企業一千社のランキングにも、京都の企業が顔を出しています。経営利益率のランキングで世界上位二十八社に日系企業は五社入っているのですが、そのうち四社が京都の企業でした。 

京都に高収益企業が群生したのかと考えてみますと、そこには共通点があります。 

ロームという会社は、半導体を作っている素晴らしい企業です。ロームの社長が立命館大学に在学中、炭素皮膜抵抗器という、電子部品では最も簡単な抵抗を量産する技術を考えられ、特許出願されました。その技術を持ってロームを創業されました。 

村田製作所の社長は第二次世界大戦前に清水焼のお茶碗などを作っておられました。中小零細企業でした。その当時欧米では、電子機器産業が発達し始めます。その電子機器の中に、セラミックコンデンサーが使われていることを知った日本の軍部は、同じようなセラミックコンデンサーを作るようにと各大学に指令を出します。京都大学の教授が酸化チタンを焼き固めるとコンデンサーができるということを知っていましたから、“やってみないか”と村田社長を誘ったのです。素人ですがやってみましょうとなり、村田製作所が始まりました。 

これらの京都企業の社長は皆素人です。そして必ずしも立派な技術、豊富な経験を持ってはいないのです。ただものが一つ作れただけなのです。つまり皆が素人で、単品生産からスタートしているわけです。 

危機感と飢餓感がもたらした創意工夫

京都企業は素人なるが故に、大変自由な発想する人たちです。そして既成概念や慣習、慣例というものにとらわれない人たちです。とらわれないから自由な発想ができますし、常に物事に対して疑問を持っています。 

京都は千二百年も続いた非常に古い保守的な街であると同時に、京都大学などを中心にした街でしたから、革新的、反権力、反中央という考え方を持っていた面もあります。街の雰囲気そのものが革新的で、革命的であるわけです。 

こういう京都の土壌の中で、技術を持たない素人が単品生産の業を興(おこ)す。そして“至誠の感ずるところ天地もこれが動く”と二宮尊徳が言うように、一生懸命に頑張る、同時に動機の真実なること、動機の善なることを信じてひたむきに頑張って成功する。 

ところがこの人たちは一生懸命に頑張ると同時に、心配をしています。いつ何時自分の単品が売れなくなるかもしれない。“単品生産は危険だ。もしこの単品が時代の変化とともに不要になれば、会社は潰れてしまう”という危機感を常に持っているわけです。 

そして飢餓感もあります。“このくらいの商売ではどうにもならない。従業員を食わせていくことができない”という飢餓感を常に持っているのです。“何か副業をやらなければならないのではないだろうか”素人ゆえに創造性が豊かになるのです。その創造性を育んでいく場になるのが、危機感と飢餓感です。それらが創意工夫と研究開発を生んでいくのです。 

危機感、飢餓感をバネにして、創意工夫を重ね、単品生産ではどうにもならないからと新製品開発、新技術開発する努力を次から次へと間断なく続け、拡大発展していく。それが中堅企業になっていく過程です。 

半導体産業のニッチ分野を狙ったローム

ロームは炭素皮膜抵抗器を作っていました。安く作ったものですから、たちまちにこれが市場に受け入れられます。他にも有名な会社がある中で、ロームは成功していくわけです。“やはり単品だけではだめだ”と思われ、炭素皮膜抵抗器というプリミティブなものから、金属皮膜抵抗器、さらには角型チップ抵抗器へと次から次へと新商品を開発していきました。ロームの社長は立命館大学の電気学科を卒業しておられますが、金属皮膜抵抗器や角型チップ抵抗器というものを詳しく知っておられるわけではありません。しかし、次から次へと展開されて、今では日本で最もニッチな分野の半導体を作って、素晴らしい高収益の半導体メーカーになっています。 

単品生産で創業した京都セラミックの不安

稲盛塾長は大学卒業後、焼き物の会社松風工業に入社します。そこでは研究部門に配属されます。そこでは新しいセラミックス、ファインセラミックスを作る任務を与えられます。 

一年後に研究が実り、日本ではじめての高周波絶縁材料の開発ができました。通信機や弱電の電気を絶縁するために、性能の良い焼き物を作り上げたのです。しかしどこにどうして売ったらよいかわかりません。“こういう物性の焼き物ができましたが、何か使ってくれませんか”と日本の電機メーカーを訪問して回りました。松下がオランダのフィリップ社と技術提携して初めてブラウン管を作る工場を京都で始めました。また早急に大阪の高槻にブラウン管の大きな量産工場を作ることになりました。そのブラウン管の絶縁部品に、松風工業で稲盛塾長が開発したファインセラミックスが使われることになりました。 

開発したファインセラミックスを使った部品が、松下のテレビのブラウン管に採用されることになりました。松下の資材、技術の人たちと打ち合わせをしました。スペックも全部決めました。そして百人近い部下を使って、材料の量産の担当になりました。次の新製品がこれからという時に、上司の技術部長と意見が合わなくなり、退職します。 

その時、上司の人も含め、八人が辞め、一緒に京セラを作ったのです。稲盛塾長が辞めることを聞いた人たちが集まり“稲盛くんの技術がもったいないから”と出資して京セラを作ってくれます。稲盛塾長は研究にも売ることにも自信がありました。その時にあったのは、松下に売れるブラウン管の絶縁材料たった一品でした。単品であったため、それがいつか時代とともに変化していらなくなるかもしれないという危機感は常にありました。そのため、一生懸命に何とか次の新しい製品を開発しようとしていました。 

その当時、フィリップ社はセラミックスとガラスのコンバインしたブラウン管の絶縁部品を作っており、それを京セラは国内生産していたのです。ところがアメリカのRCAという会社がガラスだけで絶縁ができる安くて良い製品を作り、それが日本にも出回り始めたのです。 

東芝、日立、三菱がRCAのガラス絶縁部品を使い始めました。京セラの作っていたものは、わずか数年で風前の灯となりました。そして実際に、二、三年もすると、その製品は使われなくなりました。 

生き延びたい一心で新市場、新製品を開発し続ける

稲盛塾長はガラスの専門家ではありません。大阪の場末にある中小のガラス製造会社を何軒も叩いて回りました。“こういう組成のガラスを作ってくれませんか”とお願いして回りましたが、普通のガラス屋では手に生えないホウ珪酸ガラスという、ガラス業界では硬いガラスという特別なもので、“そんなガラスは溶かしたこともないし、できません”と断られ続けました。 

ガラスの組成を調合した粉末を持っていても“できない”と言われたものですから、ガラスのるつぼを自分で買って“せめておたくの釜だけは使わせてください”と頼み込みました。 

ガラス加工の経験がありませんから、特殊なるつぼでなければ、ホウ珪酸ガラスは溶けないという事は知りませんでした。実際にホウ珪酸ガラスを溶かしてみると、その瞬間るつぼが侵食されて底が抜け、釜自体を全部壊してしまったこともありました。 

こうした努力の後、やっとホウ珪酸ガラスを作り上げて、最初の単品(ブラウン管の絶縁部品)の注文がなくなる直前にガラスを完成しました。その時に作ったものが今でも、日本、中国、東南アジアで製造されているテレビのブラウン管に使われています。 

ガラスの絶縁材料を一生懸命に開発していくと同時に、その用途も開発していきました。松下のブラウン管で使われたのだから、当然真空管の中の絶縁材料にも使えます。NHKなどのラジオ放送局には送信菅用のとても大きな真空管がありました。その真空管の絶縁材料として使ってもらおうと、東芝、日立など、大手メーカーを訪ねて歩きました。松下のブラウン管用の部品だけではやっていけないので、もっと新しい市場を開拓しようとしたわけです。市場を新しく作り出そうとしました。“市場の創造”です。 

しばらくしますと、真空管の代わりにトランジスタが使われるようになりました。今まで築き上げたマーケットが全て崩壊してしまいます。その時、トランジスタの入れ物となるパッケージを同じ材料を使って工夫して作り上げました。それがトランジスタから現在の半導体までつながっていきます。 

会社を大きく発展させた四つの創造

セラミックスは高温で焼き固めて作り、摩耗しないという強さがありますから、その特徴を生かして産業機械の磨耗部品にも使ってもらえるように考えました。金属では磨耗して駄目になってしまうところにセラミックスを使ってもらう。特に産業機械の摺動(しょうどう)(滑らせて動かす)部品にセラミックを使ってもらおうと考え、機械メーカーを回って用途開発をしていきました。 

実際にセラミックスがどこに使われるのかわからないのですが、“セラミックスはこのような物性を持っています。金属では摩耗するので困っているところはありませんか”と言って回って歩くわけです。例えば繊維機械で、糸がすっと滑るところに使えるのではないか。織機はものすごいスピードで生地を織っていきますから、糸が通る糸道の摩耗が激しいのです。今は全部セラミックが使われています。このようにして市場を開拓していきました。 

ポンプでも摩耗するだろうということで、耐摩耗性を生かした市場開拓を進めていきました。車のラジエーターで、冷却した水をエンジンに回してエンジンを冷やします。このためにはポンプが入ります。そのポンプは外からベルトで回ります。ポンプが回る所にはオイルシールというゴムのシールがはまっています。長い間ポンプが回っていますと、それが摩耗して水が漏れてくる。そしてエンジンが焼けてしまう。 

弾性があって、なるべく摩耗しない良質のゴムを使ったのですが、それでもエンジンが焼けてしまう。そこにセラミックスを使えないかということで、セラミックスとカーボンで作ったオイルシールが欧米で作られました。“うちのセラミックスを使ったらうまくいきますよ”と言って歩きました。そして車が壊れない限り、一切漏れないセラミックシールが使われるようになりました。 

その他、セラミック施盤、超精密なエアスライダー、多軸のボール盤の軸受け等にセラミックスが使われるようになりました。 

また発電用のセラミックエンジンが、開発途中です。将来的には小型、分散型の発電につながっていきます。 

他には、バイオセラムという人工骨を作ったり、結晶技術を使ったフレサンベールという宝石を作るなど、いろいろな応用を次から次へと考えていきました。 

市場の創造、需要の創造、新商品の創造、新技術の創造という四つの創造を繰り返し繰り返しやってきて、今日の京セラになっています。 

目標の置き方で会社の将来像が決まる

事業を始める時、会社は技術も経験もない時点からスタートします。素人が単品生産を始める、単品生産であるため、いつ何時、その単品が時代の流れの中で廃れていくかもしれない。このままでは会社が潰れてしまうと、危機感と飢餓感をバネにして創意工夫を重ねて、技術開発、商品開発を連綿と続けることで、会社を拡大してきた。そして中堅企業に成長してきました。そこから先に行くには、会社の目的がどう設定されているかということが大事になってきます。 

例えば、“売上百億円の会社にしたい”と欲望をベースに目標決めたとしますと、一旦その目標百億円を達成しますと、飢餓感、危機感が消えて満足感が出てきます。そこで打ち止めになってしまいます。中堅企業のまま横ばいを続けてしまいます。欲望を目的にしたり、金銭や数字といった目標になっている場合には、中堅企業になったときにその成長が止まってしまいます。中堅企業からさらに大企業にまで成長させていく人の場合、そこからさらに考え方が変わっていくのです。つまり目標とか目的というものが数字ではなくなっていくのです。それは企業の使命感です。経営者の使命感です。 

“謙虚にして驕らず、さらに努力を”“私は常にそう言って自分を戒めています”。その考え方のもとになっているのが“己の才能を私物化してはならない”ということです。そのような考え方が、思いが、謙虚さを維持することになっています。 

“才能を私物化してはならない”のはなぜか。それは、この宇宙は、才能の異なるいろいろな人たち、多様な人たちを育んできました。またそういう異なった人間を生かせることによって、宇宙、自然は、発展してきました。自然界は多様性が共生し、多様な人たちが住んでいる社会です。自然界の中には、多様な自然が要るのです。 

人間の場合、社会を構成する中には能力の異なるいろいろな人がいます。もし経営者として能力の優れた人だけで社会が構成されていますと、実際の作業をする人がいなく、これではどうにもなりません。いろいろな異なった才能、能力を持った人たちがあって初めて、我々人間社会は成り立ってきています。 

ですから京セラの社長は、稲盛和夫でなくても良いのです。他の人でも良いのです。社会にとって宇宙にとって、京セラのような社会的意義がある会社を作り上げて経営できる人が一人おれば良いのです。宇宙は、社会はたまたまその経営者に稲盛和夫を選んだに過ぎないのです。他の人でも良かったのです。社会が一人の経営者に使命を預けたのです。預けられた一人の経営者は、そうした社会からの要請に応えるべき使命が与えられたのです。 

才能は世のため人のために使うべきもの

自分の持っている才能は自分のものではない。それは神様が“社会のために使え、世の中のために使え”と言って、このたった一度しかない人生にたまたま預かってきたものであって、それ以外の何物でもないのです。だから驕ってはならないのです。

自分の才能を自分のものにし“俺は偉いのだ”と思うから、つい傲慢になってしまいます。 

会社を立派にし、さらに発展させることに生きがいを感じ、それに楽しみを感じ、それが楽しければ人はがんばります。そうなりますと、目的が単なる数字に表される目標ではなく、まさに人生の目的とは何なのか、そういうものに変えていく必要があるのです。 

そして経営者の価値観が変わっていくことで、中堅企業から脱皮していきます。そして大企業まで発展し始めるのです。トップが持つ目的意識が変わっていきますと、会社は大企業になるまで突き抜けて行きます。 

経営者として“世のため人のために尽くす”と言っている中で、自分はいつまでやるのだ、次の世代に席を譲り渡す時が来ます。そして、自分の学んだ人生の目的を語り、その人生観、世界観を共有する。勉強していくことに人生の最後とすることになるのではないかと思います。