盛和塾 読後感想文 第113号

闘争心を燃やす

仕事は真剣勝負の世界であり、その勝負には常に勝ちという姿勢でのぞまなければなりません。しかし勝利を勝ち取ろうとすればするほど、様々な多くの困難や圧力がかかってきます。私達はこのようなとき、ひるんでしまい、当初抱いていた信念を曲げてしまうような妥協をしがちです。 

このような困難や圧力をはねのけていくエネルギーのもとは、その人のもつ不屈の闘争心です。どんなにつらく苦しくとも、"絶対に負けない、必ずやり遂げて見せる“という激しい闘争心を燃やさなければなりません。 

日本の経済社会の再生と国家のあり方

長引く日本経済の低迷につき、稲盛塾長は提言しています。 

米国をはじめ、中国、ロシア、フランス、韓国など世界のGDP(Gross Domestic Products)の40%を占める主要国の指導者の交代が進んでいます。先行きが読めない要因の一つとなっています。世界経済が混沌とした中で、日本経済社会が今後、どう再生していくことができるのか、政府、国民が直面している課題です。 

呻吟(しんぎん)する日本経済の進むべき道

日本経済に目を転じてみますと、長く続く低迷の中で、円高、東日本大震災、タイの大洪水被害等による打撃を受け、エレクトロニクス分野を中心に、日本の代表する大企業が赤字を計上するなど、日本の産業界は不況の中にあります。 

その中で、円高拡大、貿易収支の改善を通じて、日本経済は短期的には回復基調に向かうものと考えられています。しかし、長期的な観点から見ますと、少子高齢化社会の進行、それに伴う人口減少により、日本経済の規模はこれ以上大きくなることは困難と思われます。このような中で、日本経済はどのような道を取っていくのかを考えなければならなくなっています。 

我々は日本経済社会の再生にあたり、旧来の考え方と方法がもはや通用しないということも理解しています。経済界をはじめ、国民の間に動揺と不安が広がりはじめています。日本が目指すべき、新しい方向を見出さなければならないのです。 

明治政府が打ち出した"富国強兵“が国づくりの規範として殖産興業(しょくさんこうぎょう)と軍備拡張によって近代国家を目指してきました。第二次大戦の敗戦を迎え、今度は"富国”に国策が変更され、日本経済社会は米国につぐ世界第2位の経済になりました。それも諸外国からの圧力のもと、日本政府は内需拡大を図る為、積極的な財政金融政策をとり、バブル経済の原因の一つを生み出してしまいました。1985年のバブル経済の破綻により、日本経済は低迷して今日に至っています。 

現在にいたる二十年は“失われた二十年”と言われるように、長期にわたり、経済は低迷を続けているのです。国債残高がすでにGDPの二倍を超えています。まさに国家として破綻寸前と言っても過言ではありません。 

亡国の事態を回避するために

日本の国債発行残高は2025年には千五百兆円を超えるという予測があります。そして2025年には、国民の金融資産残高と拮抗(きっこう)するようになり、もはや国債を国内で消化することも出来なくなります。 

また、少子高齢化が進み、出生率と死亡率の低下により、世界でも例を見ない速度で高齢化が進行している日本では、65歳以上の高齢者が人口の30%ほどを占めるという予測があります。国民2人でお年寄り一人を養うという社会が到来するのは確実です。 

日本の総人口も既に現象を開始しています。2025年には1億2千万人を割り込んでくることが確実です。 

少子高齢化が進み、社会保障費が拡大する中で、労働人口が減少し、GDPが伸び悩み減少する中で、膨大な財政赤字を背負い、もはや赤字国債の引き受け先もないという事態になれば、日本は国家としての破綻を迎えることになります。 

現在のうちに行政改革を通じて小さな政府づくりに取り組むとともに、早急に財政再建に取り組み、歳出の全面的な見直しや税制の抜本的な改革を通じた歳入の検討に取り組まなければなりません。 

発想の転換-“高付加価値”の追求へ

私たちは今こそ価値観の転換を図らなければなりません。エコノミック・アニマルとさげすまれた日本経済・自国の利益を優先して他国の立場を理解しようとしなかった / 量的拡大をひたすら図ってきた / お金がすべてと考えて来た価値観は捨てて新しい“富国”の道が必要なのです。 

新しい考え方とは量的拡大を追求するのではなく、質的追求、付加価値の高い製品、サービスを提供する、あるいはより細かいお客様の要望する製品、サービスを提供する“高付加価値”の獲得を目指した経済のあり方です。 

たとえば京都の有名な漬物屋で、一日に二樽の漬物樽しか開けない老舗のお店があります。しかしそのお店の前には開店前からお客様が列をつくっておられます。そしてその一日の売る量が尽きてしまいますと、お客様がまだ並んでおられても、その日の商いはおしまいで、“お求めになりたい方はまた明日お越しください”と言われるそうです。 

漬物は、大量に作れば味が変わってしまうのです。その伝統の味、高い品質を維持するために、生産量、販売量を自己規制しているのです。京都にはたくさんのお漬物屋があります。その店のお漬物には独特の味があり、その味を慕う方が多いのです。それ故、生産量、価格も維持し、利益を確保し、伝統の暖簾(のれん)を守り続けているのです。 

高付加価値の“ものづくり”を支える日本人の精神性

“ものづくり”においても、すでに製造現場の多くは、中国、タイ、ベトナム、インドネシアなど、アジア諸国に移っています。いわゆる大量生産型の工場が、豊富で低廉(ていれん)な労働を有する発展途上国に移っています。 

しかし日本には古来、緻密で精密な、まさに芸術品とも見まがうばかりのすばらしい製品を作ってきた“ものづくり”の伝統があります。“日本刀”、“仏壇”、“からくり人形”、これらの製品は日本人の“精神性”“宗教心”が生み出したものと言えます。 

伝統工芸の制作に当っては、匠たちは仕事の前に身を浄(きよ)め、ときには白装束に身を固めます。これはものを作るということは神聖な行為であり、それに対しては自らの身を浄(きよ)め、魂を浄化する必要があると考えてきたからなのです。つくるものに魂を入れなければならないと考えてきたからだと思います。 

日本の製造現場では、一日の始まりは朝礼で始まります。これは、ものづくりの前に作り手の心をつくっているのだと言えます。 

つまりこのように、日本人の精神性を生かし、知恵を集結することによって、もはや日本が関わるべきでないと考えられている分野においても高付加価値のものづくりを実現し、存続を果すことができるどころか、高収益のビジネスとすることができると考えられます。 

農産物のブランド化戦略

高付加価値の商品を作ることが大切なことは、工業製品のみならず、農産物においても同様です。最近では高級農産物の需要が急速に高まっています。 

青森県や長野県で栽培している“ふじ”という銘柄のリンゴは、国際的な標準価格の数倍もの値段がする、高級果物として欧米や東南アジアに相当の量が輸出されているそうです。 

我々日本人は心を込め、丹念に育成に努め、安全で高品質の農作物を作ります。そのように丹精に育まれた日本の農作物を豊かになった各国の人々は、たとえ高額でもいいから買いたいと考えているようです。 

欧米でもフランスの高級ワインは安物のワインとは比べ物にならないくらいの値段がいたします。それは大変な手間をかけて作り上げるとともに、そのブランド化を図ることで、付加価値を高めていった結果なのです。 

日本産の高品質で安全な牛肉、米、果物などの農畜産物を食べてもらうということに国家をあげて戦略的に取り組めば、日本の農業に新たな活路が開かれるのではないでしょうか。また、国内の消費者の方々も、よりよい安全な食品を求めています。高品質の日本の新鮮な農作物が手近に入手できれば、と願っていると思われます。 

日本人の意識を、内向きの意識だけではなく、外向きの開かれた意識にも広げていくことが必要なのです。日本人がもっと海外の動向に関心を持ち、広い視野で事業展開を考えることが必要です。 

新しい経済社会に求められる“燃える闘魂”と“徳”

日本経済社会の再生を図るためには、経済モデルの見直し、いわば方法論の改革のみならず、国民の意識転換、新しい経済社会にふさわしい精神性を日本人が身につけることも必要と思われます。 

その第一は“絶対に負けるものか”という“闘魂”を持つということです。 

日本は1980年代までは順調に経済発展を続けてきましたが、バブル経済崩壊後に長く景気が低迷するうちに、現状維持、新しいことに対する挑戦が少なくなり、現状に満足し、成長発展に関心が少なくなってきたように思います。 

経営者も同様です。中国や韓国の企業経営者と比べれば、多くの経営者が、もはや果てしない目標に挑戦したり、困難に立ち向かったりする勇気を失ってしまったかのように見えます。 

日本の大手メーカーは、世界に誇るすばらしい技術を持っています。そのような企業に闘魂に満ち、バイタリティにあふれたリーダーが存在すれば、巨額の赤字を出すこともなく、すばらしい業績を上げられます。過去の成功体験に寄った、官僚的なリーダーたちが経営する大企業ではなく、現状を何としても再生するという闘志にあふれた経営者が率いる大企業に日本の再生を期待したいと考えます。 

企業の“大同団結”による国際競争力の強化

“燃える闘魂”と共に日本の大企業にはそれぞれの業界において“小異を捨てて大同につく”という精神のもとに、“合従連衡(がっしょうれんこう)”を図ることも求められています。 

現在の熾烈(しれつ)な、グローバルな企業間競争を戦い、勝ち抜いていこうと思えば、それに対抗できるだけの企業規模、経営資源の優位性が不可欠だと思われます。 

事業の統合を積極的に進め、ついには企業同士の合併統合も推進し、グローバル競争に臨み、勝利できるような世界に冠たる日本企業をつくっていく必要があります。その為には、個別の企業がそれぞれの立場を乗り越え、日本の産業を国際的競争力を持つものにしていこうという価値観を持つように産業界の意識も変革していかなければなりません。 

同時に政府の指導も必要です。“大同団結”の動きが、各産業界で燎原(りょうげん)の火のごとく進んでいくような方向性を示唆し、側面支援を行うことも必要です。仕切り役、仲裁役としての政府の役割も必要なのです。 

日本経済を再生する為には、官民一体となり、大胆で思い切った政策をとることが、長期低迷する日本経済社会を再生する為に不可欠なのです。 

日本経済を背負って立つ中小企業

日本企業の99%は中小企業です。労働人口の大半は中小企業に勤めている人達です。そのことを考えますと、中小企業こそが日本経済を背負って立つ存在であるべきです。 

低迷している日本経済の中で、今こそ中小企業が成長発展する、絶好の機会です。足りないのは“闘魂”です。強い“思い”を抱きさえすれば、戦後間もないときと同じように、必ずや頭角を現していけるはずです。そのような中小企業が輩出すれば、日本経済の復活は確実になるはずです。 

“徳”をベースとした国づくり

“燃える闘魂”を持って経済的に強くなっていくとしても、その闘魂とは、優しく、思いやりに満ちた、美しい心を兼ね備えたものでなければなりません。それは人間としての“徳”なのです。“燃える闘魂”で相手を蹴散らし、自分の利益だけを追求していったのでは日本はグローバル社会の中でつまはじきになってしまいます。江戸時代の商人に道徳を説いた石田梅岩が“商いは先も立ち、我も立つものなり”と唱えたように、ビジネスの世界にあっても相手を思いやる心、“利他”の心が必要なのです。長期的な成長発展を望むならば、社会の一環として社会に役立つ企業として社会から受け入れられるようでなければなりません。 

そのような人間としての優しい思いやりに満ちた心、あるいは“愛と誠と調和”という言葉で表される人間としての善き心、いわば“徳”に基づいた活動こそが大切です。 

“情けは人のためならず”、相手に善き事をもたらすのみならず、日本にも長期的な成功をもたらしてくれると思われます。日本人は、すばらしい“徳”を古来育んできた民族です。 

昨年三月十一日に発生した東日本大震災は、東北地方を中心に未曾有の被害をもたらし、日本人の心に深い傷を残しました。その悲惨な状況の中にあって東北の方々が示された、秩序ある行動、また全国からの支援に対して世界中から驚きの声があがりました。日本人に対する尊敬と信頼の念を大いにかきたてました。 

愛する家族を亡くし、家屋や財産のすべてを失った人達が、略奪行為に走ることなく、生前と支援物資を分け合い、また不幸のどん底にありながらも他の人々への思いやり、助け合う姿は、本当に崇高なものでした。 

我々日本人は、人間の“徳”を大切にしてきた民族です。日本とはまさに道徳規模、いわば人間の“徳”を基礎に建国された国なのです。 

日本は“富国有徳”の国家たるべきなのです。国を富ますためには、まずは“燃える闘魂”が必要であり、同時に“徳”も備えていなければ、決して長期的な繁栄をもたらすことはできないのです。

盛和塾 読後感想文 第112号

人間として何が正しいのか

京セラフィロソフィーの原点は“人間として何が正しいのか”ということを判断基準にしています。経営経験のなかった稲盛塾長は子供の頃、両親や学校の先生に教えられたことをベースとせざるを得ませんでした。 

“人間として正しいことなのか、正しくないことなのか”“善いことなのか、悪いことなのか”を基準に判断することにしました。 

矛盾があったり、理屈に合わなかったり、また一般に持っている倫理観やモラル、そういうものに反するような経営では決してうまくいかないと考えられました。 

正、不正や善悪などは最も基本的な道徳律であり、子供の頃から両親や学校の先生に教えてもらっていたので、稲盛塾長はよくわかっていたのです。 

こうして“人間として何が正しいのか”という最も基本的なこと、“原理原則”を判断基準として経営を始められました。 

京都銀行創立七十周年に寄せて-成功する経営者の条件

稲盛塾長は、京都銀行創立七十周年記念式典講演を依頼されました。 

京セラは京都銀行との長い取引を通じて、多くの京セラファンを作ってきました。枚挙にいとまがないほど、多くの京都銀行の行員の方々とビジネスを続けておられました。 

京都銀行の七十年にわたる歴史を、金字塔、いわゆる到達点としてとらえるのではなく、さらなる発展のための一里塚、つまり通過地点ととらえるということであろうと稲盛塾長は語っています。それは未来志向で、京都銀行の成長・発展を願っている故です。 

京セラ創業時を振り返って

昭和三十四年四月一日に京セラは創業開始しました。京都の宮木電機という会社の専務をされておられた西枝一江(にしえだかずえ)さんが中心となり、三百万円の資本金が集まりました。しかしそれでは資金が足りません。その時西枝一江さんは、自宅を担保にして、京都銀行から一千万円を借り入れ、融資(ゆうし)して頂いたのです。 

京セラ創立以来、事業は順調で、利益率は二桁数字でした。創業三年目、更に事業を拡大するために、滋賀県に自前の新しい工場をつくりたいと考えました。その為、京都銀行に融資の相談に伺いました。融資担当の方はたいへん厳しい反応でした。しかしその方は“中小企業金融公庫”の京都支店に行って交渉されてはどうかと言われました。 

中小企業金融公庫京都支店長は“我々は中小企業育成のために設立された国の金融機関で、中小企業を育てるために是非融資をしてあげたいとは思いますが、担保がないのであれば貸し出すことはできません”と無下に断られました。 

稲盛塾長は勇気を出して支店長に言いました。“担保がないから貸さないと言われるなら、親の代から金持ちで立派な不動産を最初から持っている、ええとこのボンみたいな人でなければ、融資はできないということですね。そうであるならば、私みたいな徒手空拳のものが新しい事業を興すといったって、できるわけがないではありませんか。そもそも担保に供する資産を持っているのであれば、何もお金を借りなくてもいいはずです。中小企業金融公庫は、中小企業の育成が目的なのでしょうが、そんなことで日本の中小企業の育成ができますか” 

京都支店長は“あんたはええことを言うな”と言われ、しばらく考えられた上で“わかりました、担保がなくても貸せるように、なんとか工夫しましょう”と言われました。無担保融資が成ったのでした。 

歴代の中小企業金融公庫の京都支店長から直接“稲盛さん、昔こんなことがあったそうですね。ウチの中ではたいへん有名な話になっていて、担保無しでも、人をよく見定め信用していくことが本当の銀行マンの努めであるということが教訓のように語り継がれています”と聞いたことがあるそうです。 

中小企業金融公庫の無担保融資の件を京都銀行の当の融資担当者に報告しましたところ、“それなら京都銀行も融資します”“ああいう国の金融機関が課してくれるということは、十分な調査をして確実な見込みがあると判断したのでしょうから、それならウチも貸します” 

京都銀行は京セラの大株主でもあります。中小企業を生み、育てることが、地方銀行の大きな役割であり、そのような企業育成が、ひるがえって地方銀行自身の成長発展に直結しています。これは日本再生・復興の最大のエンジンになります。 

現在、日本復興、日本経済の再興が叫ばれています。政府によってさまざまな経済施策も講じられています。しかし、最も大事なことは、中小企業が元気になることです。日本企業の99%が中小企業です。会社員の69%が中小企業で働いています。まさに日本の経済産業を下支えているのは、地方の中小企業です。 

その中小企業を側面から、また後方から支援していくのが地方銀行の役割であり、それが、日本経済を活性化し、日本最大の推進力になっていくのです。 

成功する経営者を見抜くこと

中小企業、ベンチャー企業では、ある固有の技術を持った人が、今いる大企業の現状に満足できず、飛び出して会社を作るというケースが一般的のようです。そうした人には当然資金力がありません。担保になるべき資産を何も持ち合わせていません。するとベンチャー企業には経営者としての人間のみが財産となるわけです。担保に変わるべきものは経営者個人のみです。従って、あくまでも経営者の人物、資質を見てお金を貸すかどうかを決めなければなりません。 

新しい企業の場合ですと、物的担保がないものですから、経営者の人物評価をしてそれで判断するしかないのですが、問題は、人物評価を行うに適した人が評価しているのかということです。 

評価するということは、評価をする側が評価される側よりも遥(はる)かに優(すぐ)れていなければその本質を見抜くことはできません。銀行でも担当にビジネス経験が豊富であり、さらにその人物や生き方について深い洞察力を備えた人でなければ、どうしても見当違いが起きてしまいます。 

融資が失敗に終わるか、成功するかはそれはあくまでも経営者の人物次第であり、それを見抜くためには、相手の経営者よりもはるかに優れた人物があたらなければならないはずです。融資の可否を判断する人には、一定の判断基準が必要になります。 

どういう資質を備えた経営者ならば、たとえ担保がなくても融資を行うことができるのか。その為には成功する経営者はどういう条件を満たしているのかということを知り、充分その条件を理解していなければなりません。 

成功する経営者の条件

稲盛塾長は、京都銀行七十周年記念講演の中で、成功する経営者とはどういう条件を満たしているのかを述べられました。

1. 高い専門的知識を持っている経営者でなければなりません。ある特定分野では、大企業と競合しても勝てるぐらいの高度な専門技術を持っているかどうかが問われることになります。 

その時、時間係数というものを抜きにしては、技術力の評価をしてはならないのです。日進月歩で進化している私達のビジネス社会では、新しいテクノロジーを短時間に咀嚼(そしゃく)して理解し、体得できる能力が必要不可欠です。二十年かかってようやく、ある専門技術、専門知識を身につけるというようなことでは、現在の烈しいビジネスの展開の中では使い物にならないのです。 

優れた専門技術と知識を備えていると同時に、その高い能力をどのくらい短時間に手に入れたかということも、その経営者、企業の技術力の高さを推し量る一つの尺度になっているのです。

2. 夢を持ちチャレンジする心を持ち続けていること

経営者は常に新しいことにチャレンジをしていなければなりません。決して停滞や安定を望まず、またいかなる障害があろうとも、常に新しいものに挑戦している人でなければなりません。 

更に大切なことは、成功する経営者は、その自分の夢を自分だけのものとせず、集団の夢と夢の実現に至るプロセスを、ことあるごとに社内で熱く語りかけています。 

社員のエネルギーが経営者と同じくらいに高まってくるまで、経営者が社内で語り続け、経営者の夢と情熱、そしてその具体的な経営目標が、企業内で共有されているような企業であれば、事業は成功するのです。

3. 潜在意識に透徹する強烈な思いを持ち続けていること

経営者の思いが強ければ強いほど、また深ければ深いほど、事業成功の確立が高くなってくるはずです。経営者が持つ思いで最も深いのは、二十四時間寝ても覚めても、その事業を思っているような状態です。決められた時間内で、何かいい商売はないかなあ、何とかうまいもうけ話はないかなあというようなことでは、新しい事業は絶対に成功しません。 

二十四時間考えていますと、ふとした瞬間にすばらしいアイデアを思いつくことがあるのです。 

人間の潜在意識は、我々が使っている顕在意識に比べ、はるかに大容量だそうです。成功する経営者は、潜在意識に透徹するほどの強い願望を持つことで、その助けを得て、独創的な研究開発や事業展開を行い、また困難な障害を克服し、経営目標を確実に達成していく人なのです。

4. 事業の意義、目的を明確にすること

経営者は、事業の意義、目的を明確にしていることが求められています。その経営者が“経営の目的”をどこに置いているのか、つまり新しい事業を始めたいと思ったとき、なぜその仕事をしたいのか、はっきりさせる必要があるのです。 

社会的地位やお金持ちになりたいと、私利私欲に端を発したものであるような人もおられます。経営者は、それぞれ目的がありますが、どういうところにその人が目的をおいているかということが、経営ではたいへん大事になっています。次元の高い目的意識を持っている経営者の方が成功しやすく、その成功が長続きし、会社が成長発展し続けることができるようになるからです。

5. 人間として正しい判断を下すこと

経営者は心の中に規範を持ち“原理原則に則した判断ができることが必要です。立派な会社経営をするためには、自分の都合や利益だけを考えて勝手きままに行動して良いというものではいけません。集団を正常に機能させるためには、まず経営者自身が自らの行動を律する厳しいモラル、心の中に規範を持たなければなりません。 

心の中に基準又は規範となるべき、確固たる考え方を持っていない場合には、人は本能に突き動かされて、物事を判断し、行動していくことになります。本能とは、煩悩です。煩悩とは、欲、怒り、愚痴(不平不満)です。心の中に規範となるべき考え方、哲学を持っていない場合、反射的にその本能、煩悩が頭をもたげ、“それは自分に不利だからやりたくない。それは自分にとって面白くないから嫌だ”となってしまうのです。 

これは、教養のある人、社会的に地位のある人、大企業の社長でも同じなのです。心の中に、基準となるべき考え方、哲学、フィロソフィーが無く、本能、煩悩で判断しているため、反射的にそのような反応をしてしまうのです。不正を起こした経営者が、特別に悪いことばかりをする人ではないのですが、心の中に持つべき規範を知識として持っていたかもしれませんが、本当に自分のものとしていなかった、血肉化していなかったからなのです。 

企業経営において、正しい判断を行うためには、やはり心の中に確固たる規範を持ち、それを実践するよう、日々努めていかなければなりません。 

新しいテーマに挑戦した時、過去の応用だけでは解決できない問題に遭遇します。そんな新しい事柄に遭遇するたびに、往々にしてうろたえるようなことになるのですが、かねてから物事の本質を捉えた判断をしていれば決して迷うことはありません。 

原理原則に基づく判断を習い性とした経営者は、どんな前人未踏の新しい局面に遭遇しても、また未知の世界に飛び込んでも、正しい判断を行い、見事に成功を収めることができるのです。 

この五つの条件を満たすような人物、経営者にこそ、融資をするべきであり、そういう人であれば、たとえ物的担保がなくても、融資をしてあげれば成功する確立は高いはずです。

盛和塾 読後感想文 第111号

運命は自分の心次第

浮き沈みの激しい人生を送り、自分の運命は自分の手で切り開いてきた人でも、その山や谷、幸不幸はみんな自分の心のありようが呼び寄せたものです。自分に訪れる出来事の種を蒔いているのはみんな自分なのです。 

運命というものは私たちの生のうちに厳然として存在します。しかしそれは人間の力ではどうにも抗(あらが)いがたい“宿命”なのではなく、心のありようによっていかようにも変えていけるものです。運命を変えていくものは、ただ一つ私たちの心であり、人生は自分でつくるものです。これを“立命”といいます。 

今日ある人生は私達の心が招いたもの。誰かがもたらしたものではない。交通事故に2019年9月9日(月)に遭いました。これは居眠り運転の結果です。その前日、日曜日9月8日は眠れない夜でした。眠れない夜は大きな悩み事が私にはありました。悩み事は私自身が作ったものでした。 

心を浄化する集団-盛和塾で何を学ぶか- 

美しき心と心が醸(かも)し出すもの

  1. 中国、四国地区塾長例会懇親会(こんしんかい)の清らかな合唱の響き

盛和塾山陰の総勢三十~四十人ほどの方々が舞台に上がって合唱をして下さりました。塾長の好きな“故郷(ふるさと)”や懐かしい童謡も入っていました。 

“故郷”の三番の歌詞を思い出しました。

“志を果たして、いつの日にか帰らぬ、山は青し故郷、水は清し故郷” 

盛和塾の皆さんが誰でも知っておられる“故郷”は、盛和塾の歌のようです。その選曲の良さ、高音、低音まで分かれたパートがえもいわれぬすばらしいハーモニーを奏(かな)でていました。七~八か月ほどの猛練習を続けられたようです。だからこそ心を洗われるような、感動的な合唱になったのだと思います。 

皆さんが心が浄化された方々なのです。合唱の技術もさることながら、そのハートの純粋さが伝わるからこそ、聴く者が感銘を受けるのです。 

この盛和塾という集団も同じです。盛和塾に集まった皆さんは、生まれも育ちも全く違う人たちです。経営する業種も千差万別です。皆さんともにたいへん忙しい毎日を送っておられます。そういう人達がひととき集まるだけで、どうしてかくも純粋な心に共鳴し合うのでしょうか。 

  1. 純化と感化の連鎖が心を昇華させる

盛和塾では、“心を高める、経営を伸ばす”と学んできました。“人生と経営にとって心を高めることがどのくらい大切か、心が高まるにつれて、必ず人生や経営も良くなってくる。だからそのためにフィロソフィーを学び、実践することが必要なのだ”と塾長は繰り返し繰り返し、塾生に語ってきました。 

少しぐらい勉強して頭だけで理解するのではなく、実践を通じて血肉化して自分の判断基準にしていかなければなりません。 

盛和塾という集団に身を置き、その磁場に接するだけで、すぐに人々の心が純化され、浄化されていくというさまを目の当たりにして、改めて盛和塾という集団のすばらしさを私達は体験しました。 

“類は友を呼ぶ”“朱に交われば赤くなる”、盛和塾に集まられた方々はもともと純粋なものに惹(ひ)かれていた方々です。ですから入塾すると無意識のうちに感化され、さらにその心が清らかな美しいものへと浄化されていくのです。 

七千名にも及ぶ塾生が、それぞれ心を浄化し、素晴しい人間性をつくっていこうと懸命に努めています。そのような人たちが集う盛和塾という集団が醸(かも)し出すものが人々を感化し、その心を浄化し続けてきているのです。 

単に小さな企業を興し、存続させて自己満足するのではなく、もっと立派な企業に成長させて、もっと多くの従業員を幸福にして、社会の発展にさらなる貢献をしていく努力が大切です。

盛和塾 読後感想文 第110号

独立採算制の導入とアメーバの組織

アメーバ経営は京セラの経営理念とそのフィロソフィーの実践を抜きにしては決して正常に機能することはありません。アメーバ経営は各事業単位の付加価値計算を算出して、市場の動きを全社に反映させ、経営リーダーを育て、全員で会社経営に参画していこうとするものです。 

京セラの経営理念、“全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に人類・社会の進歩発展に貢献すること”は京セラトップのものだけではなく、そこに働く従業員みんなのものなのです。 

会社の経理が秘密のベールの中に隠されているようであれば、いくらアメーバ経営を採用しても誰も一生懸命に働くことはありません。京セラでは、経営内容をすべてオープンにした透明性の高い経営が行われています。 

また経営理念と一体となっている京セラフィロソフィーでは“人間として常に正しいことを追求する”こと、“思いやりの心を持つ”ことなどが繰り返し述べられています。 

アメーバ経営では、各アメーバ(各事業部)が徹底した独立採算で経営を行い、必死になって採算を追求します。しかしそれが極端に追求する余り、“自分達のアメーバさえよければよい”というような利己的な意識が芽生えると、たちまちアメーバ間の利害が対立し、アメーバ同士の足の引っ張り合いが始まり、会社がバラバラになってしまいます。ですから、社員全員が京セラフィロソフィーを絶えず学び、日頃からよく理解していなければならないのです。 

このようにアメーバ経営とは、京セラフィロソフィーを理解したすばらしい人間性を備えたリーダーやメンバーによって運営され、正々堂々と競い合うことによって、また不正や不明朗なことが行われることのない公明正大な“ガラス張り経営”がなされていることによってはじめて、本来の機能を発揮できるのです、と稲盛塾長は語っています。 

アメーバ経営が持続的な企業成長をもたらす

稲盛和夫(北京)管理顧問有限公司が共催する“2011年 稲盛和夫経営哲学広州報告会”での講演でした。会場を埋める中国の経営者の皆さんがひと言も聞き漏らすまいと、真剣に耳を傾ける姿を拝見して、感動した稲盛塾長でした。 

稲盛塾長は半世紀にわたる経営を通じて体得した、自らの経営の考え方と方法を系統的に述べられています。説得力のある、実践的な経営の考え方や方法を、経営者が分かるように講演しています。分かりやすく説明することができるのは、自らが苦労して実行して来た故に可能なのです。アメーバ経営を実際に実行して来られたことをベースにして、アメーバ経営の解説がなされています。 

アメーバ経営とは経営者が経営を行うための管理会計システム

京セラが成長発展していくなかで、少しでも無駄のない経営を図るために、組織を細分化し、その組織ごとに月々の売上と経費の明細が迅速にかつ明確に分かるようなシステムが構築されました。“アメーバ経営”とはこうした管理会計システムなのです。 

管理会計とは、経営情報を株主や債権者に開示するための財務会計や、納税のために行う税務会計とは異なり、経営者が経営実態を把握し、その意思決定や業務管理に活用するための会計手法です。“アメーバ経営”は経営の実践の中から生み出された、経営者が経営を行うための管理会計システムです。 

経営者の強い思い、あふれるような情熱、誰にも負けない努力、と絶えざる創意工夫があれば企業は成長・発展していきます。 

企業が成長・発展してその繁栄を長く持続していくには、確固たる管理会計システムを確立し、それぞれの部門ごとに経営実態をリアルタイムで把握し、必要な手を迅速に打つことが絶対に必要になってきます。 

アメーバ経営の三つの目的 

  1. マーケット(市場)に直結した部門別採算制度の確立

アメーバ経営の目的とは次の三つです。

  • マーケット(市場)に直結した部門別採算制度の確立
  • 経営者意識を持つ人材の育成
  • 経営者哲学をベースとした全員参加経営の実現 

マーケット(市場)に直結した部門別採算制度の確立という目的を考え出した経緯があります。 

稲盛塾長は京セラ創業時には経理については全く知識も、経理の経験もなかったのです。会社創業に携わった、松風工業では上司にあたる方に、経理の仕事を見ていただきました。その方は精緻(せいち)な原価計算を行い、数ヶ月くらい経ってから“あの時の原価はこうなっている”と報告をしてくれていました。 

稲盛塾長は開発、製造、営業と日々走り回っていますから、そんな過去の数字を見ている暇はありません。“私は申し訳ないですが、そういう過去の原価計算は現在の経営には役に立ちません。” 

“私は経営者として、今日これだけの利益を出そうと思って毎日手を打っているのであって、三か月前の原価がこうだから利益が出たと三か月後に言われても、もはや手を打ちようがありません。ましてや、常に値段が変わる、品種が変わるという状況では、三か月前の製品の原価を聞いたところで、まったく無駄なのです。” 

エレクトロニックスの関連部品の市場価格は、劇的に値段が下がるのです。先月いただいた注文の製品が、今月注文を受ける時には“一割値下げをしてほしい”とお客様から要請を受けるような状況なのです。そういう刻々と変化する売値に対して対応していかなければならないのに、三か月前の原価を理解したとしても何の意味もないのです。大幅なディスカウントが横行する昨今のビジネス環境も、同様だと思います。 

工業製品はいくつかの製造工程を経て製品が出来上がります。その何段階にもわたる製造工程を経過する間に、原材料費、人件費、減価償却費、光熱費、雑費等の製造間接費が加わり、製品の原価はそれらの工程でかかった費用の合計となります。 

一方、製品を販売するときの値段は、そんな積み上げ原価とは全く関係なく、市場原理で決まっていきます。つまり、お客様が買って頂く値段で販売せざるをえず、それで利益を出そうとするなら市場価格より安い原価で製品を作るしかないわけです。また市場価格も日々変動します。もし製品の値段が刻々と下がっている中で先手を打つことができず、また打つ手を誤れば、経営者が目標とする利益を出すどころか、すぐに赤字になってしまいます。 

後追いで計算した原価などには全く意味がなく、それは経営者にとって数ヶ月前にどう経営の舵(かじ)を切ったのか、その結果を示す記録でしかありません。経営者が必要なのは、今企業がどのような経営状態にあり、どういう手を打てばいいのかを教えてくれる“生きた数字”でなければならないのです。 

原理原則に基づいた部門別採算制度

京セラはその後、経験豊かな経理の専門家に経理業務を見てもらうようになりました。その経理担当者に“今月の決算はどうなっているのか”と尋ねました。稲盛塾長は経理担当者の説明を理解できず、質問を繰り返した挙句、“分かった。手っ取り早く言えば、経営というのは売上を最大に、経費を最小にすればいいんだな。そうすれば、利益は自ずから増えるわけだな。”その時、“売上最大・経費最小”ということが経営の原則であることに気づいたのでした。それ以降、この経営の原則に従い、ただひたすらに売上を最大にする努力をする一方、全ての経費を徹底的に減らすように努めてきました。 

経営のトップとして会社の売上、また経費を把握し、“売上最大・経費最小”という原則に則(のっと)り経営をすることができますが、社員の大半を占める製造部門では、工程ごとの売上が分からず、経費を削減していくことに努めることができても、売上を増やすことには関心を持つことは難しいと同時に、関心も持ちようがないのです。 

“売上最大・経費最小”という経営の原則からすれば、各製造工程においても経費を最小にすると同時に売上を最大にする努力、または売上に協力してもらう必要があるのです。その為には各製造工程のリーダーがその工場の売上がいくらであり、それがどのように発生するのかを実感できるようにしなければなりません。 

そこで工程全体を小さな事業単位に分割し、その工程ごとに決算を明確にしていけるような管理体制を考えました。例えばセラミックスの製造部門であれば、原料工程、成形工程、焼成工程、加工工程と四つの事業単位に分割し、その事業単位間で社内売買をすることにしました。 

原料部門は原料を仕入れ、成形部門に原料を売ります。各工程の仕上品を次の工程に社内売買する形にすれば、各事業単位に売上が生じ、それぞれの組織をまるでひとつの中小企業のように独立した採算単位とすることが可能となります。こうすれば“売上最大・経費最小”という経営原則をどのような事業単位でも実践することができるようになります。このように経営原則をシステムにまで落とし込んでいく作業が大切です。

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この事業単位は固定的なものではなく、事業展開に従って分割したり、増殖したりするようにすればいいと考え、京セラではその事業単位を“アメーバ”と名付けています。 

“売上最大・経費最小”という原則に則り、アメーバごとの採算を誰てもわかるような形にしたものが“時間当り採算表”です。時間当り採算表では、売上と経費だけではなく、“時間当り”という労働時間一時間当りの労働付加価値を計算することで、そのアメーバの生産性が明確に分かるようにしています。 

時間当り採算表では予定と実績が対比され、各アメーバが売上、経費の予定計画に対して現在どういう遂行状況にあるのかをそのアメーバのリーダーはリアルタイムに把握することができ、すぐさま必要な手を打てるようにしています。 

多くの製造業では経理部が事後処理として会計処理を行い、原価などのデータが後追いで出て来ます。しかし市場価格は常に変化しているため、過去の原価をベースにしていたのでは経営の実態と乖離(かいり)し、適切な手を打つことができません。その為、複雑で大きな全体の事業を必要に応じてアメーバという小さな組織に分割し、そのアメーバごとに売上や経費などの経営実績がリアルタイムに把握できるような経営管理システムが必要になるのです。 

アメーバ経営とは、マーケットのダイナミズムを社内のアメーバに直接に伝え、そのマーケットの変化に会社全体がリアルタイムに対応することができる、市場に直結した経営管理システムです。 

会社経営の原則“売上最大・経費最小”を徹底して実践するために、組織を小さな事業単位に分け、市場の動きに即座に対応できるように、部門別の採算管理を行う、これがアメーバ経営を行う第一の目的なのです。 

  1. 経営者意識を持つ人材の育成-共同経営者としての仲間がほしい

稲盛塾長は京セラ創業時、開発、製造、営業、管理など全ての部門を直接見ていました。製造に問題があれば、すぐに現場に走っていかなければなりませんし、注文を取るために客先まわりもしなければなりません。同時に客先からのクレームにも陣頭指揮をとって対応しなければなりません。同時に1人何役もこなさなければならないほど、多忙を極めていました。 

できるなら自分の分身をつくり、“営業はお前がやれ”“製造は問題が起きているからお前がやれ”と命令できれば、どれほど助かるかと思いました。また同時に、自分と同じように経営に責任を持ち、経営者としての自覚を持った人が欲しいと強く感じていたそうです。それも1人でも多く、そのような人材を育てたいと考えておられました。 

経営者は孤独です。トップとして自分ひとりで最終的な決断をしなければなりません。稲盛塾長の場合、会社経営の経験もなければ、経営の知識もなかったわけですから、なおさら自分と苦楽を共にし、一緒に経営の責任を担ってくれる、いわゆる仲間としての共同経営者を心から欲していました。 

会社が大きくなるに従い、会社全体をトップ1人で見て行くことが難しくなってきた場合、営業と製造を分離して“営業だけでも責任をもって見てくれ。製造は自分が面倒を見る”と分担するのが一般的です。 

事業が更に成長・発展して来ますと、営業部門は東部、西部と地域を分けることになります。更に業績が拡大しますと、東部地域、西部地域の中をA地区、B地区、C地区と組織を細かく分けて管理していきます。 

また製造部門でも、製造の責任者1人で工程全体を管理していくことが不可能になれば、製造を小さな単位に分けて、その小さな事業単位のリーダーにそれぞれの経営責任をもってもらい、きめ細かく採算を見ていくようにしていかなければなりません。 

このような小さな組織単位にすれば、それぞれの組織ごとの管理は、易しくなります。企業を小さな事業単位に分割することで、特別に高い能力を持っていない人でも経営ができるようになります。 

会社の組織を小さな事業単位に分け、あたかも独立した中小企業のような形にすることで、リーダーが中小企業の経営者のような意識を持つようになり、その結果、経営責任をともに担ってくれる仲間、いわゆる共同経営者が育っていくことになります。 

  1. 経営哲学をベースとした全員参加経営の実現-経営理念と情報の共有化が従業員の経営者意識を高める 

京セラ創業時は、日本では労使対立が激しくなっていました。労使間の対立が生じるのは、労働者が自分達だけの権利を主張し、経営者の苦しみ、悩みを理解しようとしないのです。また経営者も労働者の苦しみを理解し、その権利を守ってあげようとしないからです。 

つまるところ、労使双方が自分のエゴをむき出しにし、自分の利益の追求だけに執着し、相手のことを思いやる気持ちがないということが最も大きな要因だと稲盛塾長は考えました。 

労使の対立を解消するためには、経営者が労働者の立場をよく理解し、その権利を尊重すると同時に、労働者の意識を経営者と同じレベルにまで高めていかなければならないはずです。そのようにして経営者と労働者が同じ考え方、意識を共有することができるならば、労使間の対立は消えてなくなるに違いありません。 

その為にはどうすればよいのか。稲盛塾長は“大家族主義”という考え方を思いつきました。もし社員全員が経営者という会社であれば、そんな会社がいちばん強いはずです。 

会社がまるでひとつの大きな家族であるような経営ができれば、労使の対立は氷解するし、経営は必ずうまくいくのではないか。全従業員が家族の如く、お互いに助け合って、対立のない経営を行っていくという“大家族主義”を京セラの経営哲学の骨格に据えました。 

そのためにアメーバリーダーに小さな事業単位を任せることで、経営者意識を持った人をひとりでも多く育てていくことが必要なのです。 

京セラでは労使の対立を越えて、経営者と従業員が一致団結するために、全ての従業員が納得し共感してくれる事業の目的、経営理念の共有に努めたのです。 

京セラの経営理念は“全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に人類・社会の進歩発展に貢献すること”です。京セラは全ての従業員の物質的、また精神的な幸福を追求することを第一義としてその上で“世のため人のために”貢献を果たすということを会社の大義名分としました。 

大義名分を共有することで、経営者のエゴ、労働者のエゴという対立構図を超えて“全員参加の経営”を行う、これがアメーバ経営を行う第三の目的です。

盛和塾 読後感想文 第109号

原理原則を基準とする

常に原理原則を基準として判断し、行動しなければなりません。とにかく陥りやすい常識や慣例などを例に引いた判断行動があってはならないのです。常識や経験だけでは新しいことに遭遇した場合、どうしても解決がつかず、そのたびにうろたえることになるからです。 

かねてから原理原則に基づいた判断をしていれば、どんな局面でも迷うことはありません。 

原理原則とは、人間社会の道徳、倫理と言われるものを基準として判断し、人として正しい判断をする、実行していくということです。人として正しいことを正しいままに実行していこうというものです。どの世界でも通用する、時を超え、時代を超え、人類を超え、国を超え、人々が受け入れるものです。

原理原則を判断基準としている人は、未知の世界でもうろたえず、正しい判断が可能なのです。 

新しい分野を切り開き、発展していくのは、豊富な経験を持っているからではありません。常識を備えているからでもありません。人間として、事の本質を見極め、原理原則に基づいた判断をしているからです。 

正しい判断をする

京セラ、KDDI、JALの経営では、様々な難しい経営判断を迫られる中で、“正しい判断をする”ということが非常に大切と考えています、と稲盛塾長は語っています。“正しい判断”はつづけていくことが必要なのです。正しい判断をすることは困難なのですが、と同時にその正しい判断を経営を行っている間中ずっと続けていく必要があるのです。今までは正しい判断をしてきたが、ある時に間違った判断をしてしまえば、会社を駄目にしてしまいます。正しい判断をするということは、ずっとそれを継続して、常に正しい判断が出来るようにするということであり、最も大切なことです。 

心の中に規範を持つ

経営者自身が“心の中に規範を持つ”ということが大切です。立派な会社を経営するためには、自分の都合や利益だけを考え、勝手気ままに行動してもよいというのではありません。集団を一つにまとめて機能させる為には、自分自身の中に自らの行動を律する厳しいモラル、つまり心の中に規範を持つことが必要です。 

その規範とは、公正、公平、正義、努力、勇気、博愛、謙虚、誠実などの言葉で表現されるもの、あるいは両親や学生の先生から教わった道徳などがこの規範にあたります。これらの規範を持ち、それに従い判断し、行動する勇気が大切です。私達が身につけるべき、その心の中に持つべき規範が“フィロソフィー”なのです。 

公正、公平、正義、努力という短い言葉だけですと、具体性に欠け、実践しにくいのですが、京セラフィロソフィーでは各項目を実践的に事例付きで説明しています。 

心の中に規範がない者は本能で判断する

心に規範となるべき“フィロソフィー”を持っていない場合にはどうなるのでしょうか。盛和塾ではフィロソフィーを学び“人間として正しい考え方”を理解しています。また“フィロソフィーを知識として知っているだけでは意味がない。それを血肉化して自分のものにしていかなければならない”と常に実践に努めています。“フィロソフィー”とは、まさにそのような姿勢で身につけていかなくてはならないのです。また、実践していかなければならないものです。 

しかし、もしそのような姿勢もなく心の中に基準、また規範となるべき確固たる考え方を持っていなかったならば、人は本能に突き動かされて物事を判断し、行動していくことになります。 

本能とは煩悩です。欲望、怒り、愚痴と呼ばれる三毒です。フィロソフィーを持っていない場合は反射的に自分の本能、または煩悩が頭をもたげ、“それは自分に不利だからやりたくない、それは自分にとって面白くないからいやだ”となってしまいます。何かあれば、むかっ腹を立てたり、不平不満が口をついて出てきます。 

それは理性的に見える人、あるいは社会的地位もあり、教養のあるような人でも同様です。大企業の社長でも煩悩を言葉に出してしまうのです。 

心の中に、基準となるべき考え方、哲学、つまりフィロソフィーがなく、本能、煩悩で判断をしていますから、反射的にそのような反応をしてしまうのです。規範、基準になるべきものがないために、煩悩の中の欲、怒り、愚痴、不平不満に突き動かされた言動をとるようになり、それをもとに判断をすることになるのです。 

心の中に規範となるべきフィロソフィーを持っていない経営者は、やがて経営もうまくいかなくなってしまうものです。極端な場合は粉飾決算といった不正にまで簡単に手を染めてしまうのです。 

不正を犯した経営者や経営幹部たちが、特別に悪いことばかりをする人たちであったわけではないのです。心の中に規範としてのフィロソフィーを知識としては持っていたのでしょうが、本当に自分のものとしていなかったからなのです。フィロソフィーを血肉化して自分の行動を批判し、規制するような段階にまで達成していなかったために、不祥事を起こしたのです。

 企業経営において正しい判断をするためには、やはり心の中に確固たる規範を持ち、それを実践するよう日々努めていかなければなりません。

フィロソフィーとは“人間として何が正しいのか”ということですが、こうしたフィロソフィーから下された判断は、物事の本質を真正面から射抜くものであり、まさに世の原理原則に通ずるものであり、“正しい判断”を導くものです。

経営者はたとえ本能や煩悩に惑(まど)わされなくても、とかく世間の常識や世の中の慣例を引いて判断したり、行動したりしますが、新しいことに挑戦していかなければならない経営者は、この物事の本質を据え、正しく判断する習慣を身につけていかなければなりません。

とくに新しいテーマに挑戦した時に、過去の応用だけでは解決できない問題に遭遇することがよくあるからです。そんな新しい事柄に遭遇するたびに、往々にしてうろたえるようなことになるものですが、かねてから物事の本質を捉えた判断をしていれば、決して迷うことはないと思われます。

原理原則に基づく判断を習い性とした人は、どんな前人未踏の新しい局面に遭遇しても、また未知の世界に飛び込んでも、正しい判断を行い、見事に成功を収めることができるはずです。

すさまじい集中力を持つ

正しい判断をするためには“すさまじい集中力を持つ”ことが大切です。仕事をするときには、次から次へと問題を迅速に判断し、解決していかなければなりません。問題に遭遇したときに、一瞬で問題の核心を捉え、判断できなければ、問題は先送りにされ、仕事が進まなくなってしまいます。

問題に対しては、意識を研ぎ澄ませ、凄まじい集中力で、全神経を集中させる必要があります。それは日常、集中して考えることが習慣化されていなければ決してできないことなのです。日頃からどんな些細なことに対しても、有意注意を心がけ、すさまじい集中力を注いで、真剣にものを考える習慣を身につけることが大切ですと稲盛塾長は語っています。

例えば、実験途中のプロセスにおいても、実験後にデータの整理をするにしても、すさまじい集中力がなければ、どこか大切なデータを見落としてしまう、また観察がいいかげんなものとなり、本当に信頼できるよいデータが出て来ないことになり、結局データ全体が使えないものとなってしまうのです。 

アモルファスシリコンドラムの開発

京セラミタの複写機、プリンターが高性能なのは、そのアモルファスシリコンの薄膜を付着させた長寿命の感光ドラムがあるからです。 

アモルファスシリコン太陽電池の開発をしているうちに、アモルファスシリコンが感光体としてもすばらしい性質を持っていることがわかりました。 

すぐに完成すると思っていたのですが、アモルファスシリコンがなかなかうまくドラムに付着しないのです。そして何十回も何百回も実験をやっているうちにようやく、“やっと一本よいものができました”という報告が上がってきました。“よかったではないか、これから生産体制に入れる”と言ったところ、“しかしなぜできたか、よくわかりません”と言うのです。 

しかし、一本でもできたのであれば、それを再現すればいいと思ったのでした。“その時に君はどうしていたのか。とにかく一本でもできたのなら、その通りにすればいいはずだ。よい性能が出た時の状態を寸分違(たが)わず、徹底的に再現してみなさい”と伝えたのでした。“再現できないのは、君がどのくらいいい加減な実験をしているかということだ。集中もせず、ボーッとして実験をしているからできないのだ。” 

“技術者として、千回やって一回でもできたのなら、それでもうできた”と言うのであれば、それを再現することができなくてはならない。そうでないならば、技術者として“できた”とは言えない。言うべきではないのです。 

その後、再現できましたという報告が上がってこないのです。そこで稲盛塾長は鹿児島出張した機(おり)、実験室のある工場を訪ねました。すると放電をしている装置の前で、担当者が居眠りをしているのでした。 

“どういうふうにグロー放電して、どういう風にミランガスが分解し、どのようにドラムに付着(デポジット)していくのか、目を大きく開き、起こる現象を全て見ておけ”と言ってありますから、たしかに装置の前に坐ってはいます。しかし夜中のことでもあり、居眠りをしていたのです。もしかすると装置から製品を取り出して“今日も駄目でした”と報告していたのかもしれません。 

翌朝、研究陣を集めてエネルギーを注入しようと一生懸命に話しても、彼等の心のレベルが上がってこないのです。“彼等ではもう限界だ”と思い、装置をすべて滋賀県の工場へ送り、メンバーを構成し直して再度実験を始めました。すると10年もかかってできなかったことが、半年もたたないうちに開発に成功し、今日のアモルファスシリコンドラムができたのです。 

アモルファスシリコンドラムの開発の例のように“すさまじい集中力”が必要なのです。実験というのは観察力が鍵となります。実験を通じてものをよく見て、そこからものの本質、心理を見抜いていくのです。確信を抽出できるような凄まじい集中力で仕事を進めているから自身が生まれ、自信があるからこそ物事の解決ができるのです。 

ど真剣に一生懸命集中して仕事に当っている人は、自分に自信がありますから、一つ成功すれば“あっこれでもう全部できる”と思うのです。たまたまできたのですが、ど真剣にすさまじく集中して見ているものですから、そのプロセスを再現することができ、成功させることができるわけです。 

有意注意を習慣にして判断力を磨く

すさまじい集中力が不可欠なのですが、その集中力を身につけるには、かねてから集中して物事に打ち込んでいる必要があるのです。 

“有意注意”が必要です。意識を持って神経を集中させていかなければなりません。意識もせず、ただ音がした方向に注意を向けるといった無意注意ではなく、意識的にある物事に神経を注いでいくような有意注意の日々でなければならないのです。有意注意が習慣になっていなければならないのです。 

経営幹部になったからといって、急によい判断ができるのではありません。今日までどういう生き方をしてきたのか、毎日をどれくらい真剣にやってきたのかということが問われているのです。時には、すべてのものを横に置き、会社を左右するような問題一点に考えを集中することが必要なときがあります。 

マクロとミクロを両立させる

正しい判断をするためには“マクロとミクロを両立させる”ことが大切です。 

とくに中小企業の経営者は会社全体のマクロな仕事と同時に部下のやっているミクロの仕事を十分に把握していなければ、完璧な仕事はできません。 

経営戦略を立案し、様々な経営環境の変化に対応できる体制を作り上げる一方、部下が休んだ時、自ら代わって仕事ができる、足繫く現場へ出て職場の雰囲気、現場の細かなことまで知っておくことが必要です。 

リーダーには戦略立案と現場指揮の二つの能力が求められる

物事を解決していくには、自分の会社の全体像が見えず、重箱の隅をつつくような細かいことで社員に注意し、叱るということばかりしているようではだめです。 

また逆にマクロの事だけを考えていて、重箱の隅にたくさんゴミがたまっている、つまりミクロのことが分かっていないというのも困ります。 

マクロとミクロの両方を掛け持ちながら、両方を見ていくような、すさまじい努力をしなければ、経営者として自分の会社を守っていくことはできません。 

長期計画を作ってただ“この計画を達成せよ”というのではなく、この経営計画を達成していくには、どの職場のどこが問題でどこにエネルギーを注入しなければならないかとミクロの点まで精通していなければ、とても経営計画を達成できるはずがありません。 

誤った時には原点に返る

正しい判断をするための最後の要諦は“迷った時には原点に返る”ということですと稲盛塾長は語っています。“人間として正しいことを貫く”という原理原則に基づいた確固たる判断基準を持っていたとしても、時と場合によっては明確な判断をすることが困難な場合がある、また誤った判断を下してしまうことがあります。 

その時には自分では正しい判断をしたと考えているのですが、結果として誤った判断をしたことにより、当初の目標から大きく逸脱してしまうことがあります。 

登山に例えれば、霧で道が分からなくなった時に、分岐点ごとに確信が持てないままに間違った判断を下してしまっては、頂上に到達できず、遭難してしまう恐れがあります。“迷ったら元の分岐点に戻る”が登山の原則だそうです。不安に思ったら勇気を持って原点に返り、正しく判断し直すことが大切です。 

物事を判断する時、すさまじい集中力で自分を鍛えぬいていれば、すばらしい判断力を発揮できると思います。しかし物事によっては白黒がはっきりしないこともあります。そして判断に迷うケースがあります。しかしそれでも判断をしなければならないのです。

 “こっちだと決めてやってみた。ところがどうもおかしい。やはりそっちだ”ということにもなります。正しいと思って判断したけれども、進んでいるうちに“どうもおかしい”と思えば、最初に判断した地点に帰って“あの時は右と判断したけれども、よく考えてみたら左が正しい。だから左へ進んでみよう”と判断をし直す。仕事を正しく進めるためにはそのように原点に返ってもう一度考え直すことが非常に大切です。 

人生において“迷った時に原点に返る”ということの意味は“人間として正しいことを貫く”という原点に返って考え直しなさいということです。“これは良い”“これはやめなさい”と判断を重ねていきますが、最初の判断の時点に戻り、考え直すということです。

盛和塾 読後感想文 第108号

困難に打ち勝つ

フィロソフィー、経営哲学を企業内で共有する意義と我々を取り巻く現在の困難な状況に打ち勝つためには、どのような考え方をすべきかが今回の話です。 

稲盛塾長は日本政府の要請を受け、航空運輸事業の経験や知識が全くないにも関わらず、また勝算もないにも関わらず、日本航空(JAL)の会長に就任し、徒手空拳でJALの再建に関わってこられました。 

JAL経営再建にあたり唯一携えていたのは、京セラで考えた“フィロソフィー”と経営管理システムである“アメーバ経営”でした。そのフィロソフィーへの理解が次第に深まるにつれ、JALの社員の意識が激的な変化を遂げてきました。その社員の意識変革に伴って、会社の業績も飛躍的に改善していきました。2011年3月の決算では売上高一兆三千六百二十二億円、営業利益は千八百八十四億円になり、JAL創設以来最高の実績で終わることができたのです。 

社員の意識が良い方向に変われば、会社の業績も向上していきます。JAL社員の意識を変え、業績を飛躍的に改善したものが“フィロソフィー”なのです。企業経営においては全従業員が“フィロソフィー”を共有しなければならないのです。まずは経営者自らが“フィロソフィー”をよく理解し、身につけ、実践することが大切ですが、同時にそれを全従業員に理解してもらい、職場で実践してもらうようにすることが経営においては何よりも大切です。 

“フィロソフィー”に含まれる大切な四つの要素

稲盛塾長の“フィロソフィー”は“人間として何が正しいのか”“人間は何のために生きるのか”という根本的な問いに真剣に、真正面から向かい合い、様々な困難を乗り越える中で生み出された仕事や人生の指針であります。このフィロソフィーには大切な四つの要素が含まれています。 

大切な四つの要素とは以下のことです。 

  1. 会社の規範となるべき規則、約束事.

この会社はこういう規範で経営をしていきます。企業内で必要とされるルール・モラルが要素の一つです。 

  1. 企業が目指すべき目的、目標を達成するために必要な考え方.

企業の高い目標を達成するために、従業員がどういう考え方をし、またどういう行動をとらなければならないのか。 

  1. 企業にすばらしい社格を与える考え方.

人間にも人格があります。会社にも社格があるのです。世界中から“あの会社は立派な社格を備えている”と信頼と尊敬を得るための考え方。 

  1. より良い人生を送るために必要な人生の真理.

それは人間としての正しい生き方。あるべき姿を明らかにするという要素。 

これらの四つの要素は、その会社の従業員の幸福を実現していくためにも、そしてその会社がさらに成長発展していくためにも、必要不可欠なのです。 

これらの四つの要素は知識として理解するのではなく、日々の業務や生活において実践していくことが何よりも大切なのです。その実践に向けた弛(たゆ)まぬ努力が従業員一人ひとりの心を高め、人格を磨くことになり、さらにそのような人材が集(つど)う企業には夢と希望に溢れた明るい未来が必ず開けてくるのです。 

ですから、この四つの要素を含んだフィロソフィー、経営哲学を社員と共有することに懸命に努めることが必要なのです。そうすれば、いかなる試練、困難な状況に遭遇しようともそれを克服し、企業を成長発展させることができるのです。 

いかなる障害があろうとも正しいことは正しいと主張しなければならない

“正直を貫き通す”ということが大切です。いかなるときでも相手に迎合したり、うまく世渡りできるからと妥協するような生き方をしてはならないのです。どんな難しい局面に立っても正直を貫き通すべきなのです。 

正しいことを行い、苦労ばかり重ねていくよりは、ご都合主義で生きたほうが楽ではないかと、苦しければ苦しいほど、思ってしまいます。自分が正しいと思う道を踏み行っているなら、いくら逆境に立たされようとも、必ず報われることを信じ、正道を貫き通すことが大切です。 

稲盛塾長が大学卒業後働いた会社は、松風工業という碍子(がいし)を製造する京都の老舗(しにせ)メーカーでした。そこでフォルステライトというセラミックス材料の開発に成功しました。松下電子工業からその新材料を使ったU字ケルシマというブラウン管に使われる絶縁部品の注文を頂きました。数十人の従業員と共に、その量産を開始しました。 

戦後十年ほどが経過していましたが、松風工業は赤字続きでした。銀行から派遣された役員が経営を指導して、銀行から借入が無ければ経営を続けていくことさえ適(かな)わないという、傾きかけた会社でした。 

従業員に対する待遇も悪く、共産党が主導する労働組合がたいへん強く、一年中労働争議を繰り返しているという会社でした。 

しかし若い稲盛塾長は“少なくとも私の職場で一緒に仕事をする人が、士気も低く、労働意欲に欠ける。残業代稼ぎをするようでは困ります。たしかに会社の待遇は悪いし、決して良い会社ではないけれども、仕事は一生懸命やっていただきたい”と職場の人々に話していました。 

研究室の先輩が忠告してくれました。“他の職場ではもっと気楽に仕事をしている。怠けていてさえ怒られることがないのに、君の職場では少し手を抜くだけでこっぴどく叱られると、皆が閉口して君を嫌っている。” 

稲盛塾長は上述の忠告に悩みました。部下の人達が私を嫌っていることを知り、悲しくもなりました。“部下からは嫌われるかもしれないが、やはり正しいことは正しいと主張しなければならないはずだ”という結論に達しました。 

労働組合との人達とはいつも意見が対立していました。まずは自分たちが一生懸命に働き、会社を立派にしていくことが前提と考えていた稲盛塾長は、ストライキを強行してばかりいる労働組合の幹部に“それはおかしいではありませんか”とよく意見を言っていました。 

働きもせず斜に構えたような人間がのさばっているような会社であっただけに、稲盛塾長がいくら注意をしても、聞く耳を持とうとしない人が職場に一人いた為、“あなたはこの職場には要りません。もう会社を辞めてください。”と言いました。 

労働組合の人達も色めきたち、稲盛塾長は荷造り用の箱の上に立たされ、人民裁判が始まりました。“この会社の回し者が、我々のようなか弱い労働者をこき使い、会社に媚(こ)びを売るようなことをしている。こういう奴がいるから我々労働者は搾取され、難儀するんだ。またこの男は自分の部下に対して、辞めろと言ったそうだが、こういう男こそ辞めるべきではないか。” 

稲盛塾長は答えました。“私は会社の犬でも、労働組合の敵でもありません。ただ人間として正しいことを正しいままに貫いていこうと言っているだけです。”“わかりました。満足に働きもしない、いい加減な人間ではなく、懸命に働き、なんとか会社を救おうとしている人間のほうが辞めるべきだと労働組合のみなさん全員が考えるなら、そんな会社に未練はありません。今日限りで辞めさせていただきます。” 

その夜、労働組合の連中が稲盛塾長を袋叩きにしようとしました。眉間に傷を受けましたが、翌日、頭に包帯を巻いたまま出社し、いつも通りに仕事をしました。このときも、自分が正しいと信ずる道をただ踏み行っていこうとしたのです。 

西郷隆盛の言葉“南洲翁遺訓”の中に、

“道を行う者は固(もと)より困厄(こんやく)に逢うものなれば如何なる艱難(かんなん)の地に立つとも事の正否、身の死生(しせい)杯(など)に少しも関係せぬもの也”南洲翁遺訓第二十九条、とあります。正道を貫いていけば、困難に遭遇するのは常である。しかしいかなる艱難(かんなん)に遭(あ)おうとも正道を貫いていくことが必要なのだと西郷隆盛は言っています。 

“道を行う者は、天下挙(こぞ)って毀(そし)るも足らざるとせず、天下挙(こぞ)って誉(ほ)むるも足れりとせざるは”南洲翁遺訓第三十条。

正道を行う者は周囲から挙(こぞ)って謗(そし)られることがあります。また、周囲から誉められることもありません。しかし正道を行う者は世間に迎合(げいごう)してはならないのです。

正しいことを貫いていこうとしても、“それはいいことだ”と誰も言ってくれないかもしれない。誹謗中傷し、妨害する人が出て来ます。しかしそれでも正道を貫いていかなければならないと西郷隆盛は言っています。 

堅苦しい生き方をしたのでは世間が狭くなるから、要領よく、周囲に迎合(げいごう)しながらうまく世渡りをすべきだと、松風工業の先輩が教えてくれた“世渡りの術”のような安易な生き方をしてはならないのです。 

策を用いて世の中を渡るようなことをしてはならない

京セラでのアメーバ経営の中で、不祥事が発生したことがありました。アメーバのリーダーが、アメーバの業務を良く見せようと、不正な操作をしたのでした。このようなことは、経営の実態を正しくかつリアルタイムに把握し、必要な手を打つことで経営を常に向上させていこうとするアメーバ経営にとっては許されないことです。公明正大に仕事にあたり、常にフェアプレイを重視するフィロソフィーに反することです。 

その職場では公然の事実で、部下も周囲の人達もみなその不正操作に気づいていながら、誰ひとりとしてそのリーダーに“それはおかしいではありませんか”と諫言(かんげん)する人がいなかったのです。 

そうすれば、その人は職場内で謗(そし)られることになるかも知れません。リーダーに左遷(させん)させられることになるかも知れません。そういうことに臆せず、勇気のある人が職場にひとりでもいれば不祥事などは起こらなかったのです。 

匿名(とくめい)の投書があったために、後日その不正操作が発覚したのです。新入社員でも正義感に厚い人がそのリーダーに正々堂々と“それはおかしいではありませんか”と言えるような会社、つまり“正道を貫く”ことをよしとする社風がみなぎっている会社でなければならないのです。 

一部の職場で“長いものには巻かれろ”式に小難しいことを言って人から憎まれたり、非難されるような生き方を避ける人がいたり、妙に大人びて、要領よく生きることが正しいと考える人が存在するようになってしまっていたのです。 

旧来のしがらみ打破しようとするとき、大変な抵抗があり、反対もあります。確かにそれは困難なことですが、その困難を真正面から受け止め、それを克服していくことからしか、未来はないのです。正しいと信ずる道を選択し、愚直に貫いていく勇気が今こそ求められています。 

困難に真正面から取り組むことで“神の啓示”を得ることができる

正道を貫くには“困難に真正面から取り組む”ことが必要となります。仕事においてまた人生を生きていく上で、難しい問題にぶつかればみなそれを回避しようとします。まわり道をしてでもいいから、困難に遭遇することから逃れようとします。 

そうではなく、困難に対しては、あくまでも真正面から取り組むという正攻法で挑むべきなのです。難しいことは承知の上で“何としても解決しなければならない。絶対に逃げてはならない。どうしてもやり遂げなければならない”という心構えで、真正面から困難にぶつかっていく。それがものごとを解決していくにあたっての基本姿勢です。 

そうして真正面から困難に対峙し、一進一退を繰り返しつつ、それでも努力を重ね、苦しみ抜いている時に、ある瞬間に“神の啓示”のようなもの、ヒントが鮮やかに脳裏に浮かぶのです。“あっ、こうすればいいのか”と長年悩み抜いたことが一気に解決に向かうことがあるのです。 

困難なことに対して真正面からぶつかり“これでもか これでもか”と悩み苦しみ抜いている最中にこそ、あたかも神が与えてくれたかのような解決のヒントが突如得られることがあるのです。 

苦労し困り抜いている自分を助けてくれるために、神あるいは自然が援助の手を差し伸べてくれるのです。困難な状況の中でも歯を食いしばり、懸命に、誰にも負けない努力を重ねている、そのけなげな姿に神様がほだされ、思わず解決のヒント、ひらめきを与えて下さるのです。 

厳しい生き方をあえて選ぶ

時には策を弄し、手練手管(てれんてくだ)を駆使すればもっとうまくいったということもあったかもしれません。稲盛塾長は馬鹿正直に真正面から困難にぶつかっていくことで、苦労も人一倍しなければなりませんでした。人からは“要領が悪い”と思われたと思いますが、しかし“要領が悪くてもいい。そういう正攻法の生き方しかできないのだ”と思い、正攻法を貫き続けたそうです。 

京セラ創業時には、幹部社員の中には稲盛塾長についてこられないような人も若干出てきたそうです。“我々は絶壁のような崖をまっすぐに登っていかなければならない。ロッククライミングのように、まっすぐに高い頂を目指していかなければならない。”

“垂直登攀(すいちょくとうはん)”です。特に高い目標を定め、それを達成するには、目標に向かってまっすぐに進んでいくことが大切です。登山で言えば、前に立ちはだかる岸壁に遭遇して行く手を遮(さえぎ)られるようなことがあろうとも、まっすぐに頂を目指していこうと稲盛塾長は社員に呼びかけたそうです。 

行く手をはばむ幾多の困難を避け、安全で緩やかな道を迂回して進むほうが賢明かもしれません。しかし易(やす)きにつき迂回してゆっくり登っていこうとするうちに、当初描いた高い目標を見失い、道半ばで自分自身を納得させ、終わってしまう危険性があるのです。高い目標を目指すならば、正しいと信ずる道をまっすぐに突き進む、まさに“垂直登攀”の姿勢で挑むべきです。 

稲盛塾長は松風工業勤務時代、部下や周囲から疎(うと)まれ謗(そし)られ、四面楚歌の状態に陥っていましたが、“人間として正しいことを貫いていこう”“自分が信じる道をまっすぐに進もう”と心に決めていたそうです。松風工業時代は待遇にも恵まれず、周囲からも白い目で見られるような経験をされたわけですが、こうした逆境が“人間として正しいことを貫いていこう”という信念をさらに強固なものにしたと考えられます。 

迂回すれば、もっと楽な登山道もあるのに、登山の技術知識経験もないような男が垂直に切り立つ崖(がけ)に真正面から挑み、まっすぐに頂上を目指して登っていこうと懸命に努めたのでした。後ろを振り返って見ても、仲間は足がすくみ、誰もついてきていません。経営という絶壁を登っていく姿は、それは孤独なものでした。 

“厳しすぎやしませんか。こんな急角度の岩山でまっすぐに登れと言われても無理なことです。”“まっすぐに登るには、高度な登攀技術も、豊かな登山経験も、また立派な道具も要る。それを素手で登るなど言語道断です。”周囲からは囂々(ごうごう)たる非難を受けていたそうです。 

しかし、それでも“自分は何としてもまっすぐに頂上を目指し、登っていきたいんだ”と初心を貫き、崖(がけ)に張り付いている。一歩も動けない者、落伍する者も出てきます。 

結局1人やめ、また一人やめ、結局稲盛塾長についていくことができない、結局誰もいなくなってしまう、恐怖感に襲われたそうです。 

稲盛塾長は結婚しようとしていた妻に尋ねました。“みんなが私についてこなくなったとき、お前だけは俺を支えてくれるか”すると妻は“ついていきます”と答えてくれたそうです。妻ひとりでも、稲盛塾長を信じ、どこまでもついてくるなら、絶対に垂直登攀はやめまい、どんな困難があろうとも貫いていくと心に決められました。 

しかし、松風工業を退社した時、日頃そんな厳しい姿勢を貫いてきたにも関わらず、一緒に粉まみれになって働いてくれた仲間の中で多くの心ある人たちが稲盛塾長を慕い、人間性を信じ、稲盛塾長の考え方を理解し、新しい会社、京セラについてきてくれたのでした。 

京セラを創業した時も“垂直登攀”を貫いていかれました。その時、ヨガの哲学者中村天風さんの著書からお借りしたスローガンを高々と掲げました。 

“新しき計画の成就は只不屈不撓(ふくつふとう)の一心にあり。さらばひたむきに只想え。気高く強く一筋に。” 

高い目標を定め、それを達成するためには、どんな峻強(しゅんきょう)な岩山であろうと、まっすぐによじ登っていく。そこには一瞬のためらいもなく、わずかの妥協もない、ただひたむきに、何の邪心もなく、一心不乱に岩山を登っていくというものです。これこそ垂直登攀の姿です。 

単にこういうことをしてみたい。これを達成したいと軽く思う程度では、新しい計画を実現し高い目標を達成できるはずがありません。思いというものは強ければ強いほど実現していきます。上述のスローガンにもありますが、その思いは気高く、美しく、汚れがないものでなければなりません。“思い”は強いほど実現していきますが、その“思い”というものが世のため人のためという気高く美しいものであればあるほど、成功の確率は高くなっていくのです。

何かを成そうとする人は、気高い心で垂直登攀の姿勢で挑まなければなりません。目の前にそびえた絶壁のような岩山の前に立ち、足がすくみ、自分には登れないと考えていては、新しいことに挑戦し、それを成功させることは絶対にできません。気高く、不屈不撓の一心を持ち続ける、何としてでも峻嶮な岩山をまっすぐに登っていくという、強く、純粋な思いを持ち続けることが、事業を成長発展させるのです。

盛和塾 読後感想文 第107号

フィロソフィーは骨肉化しなければ意味がない

フィロソフィーは知識として知っているだけでは意味がありません。行動が伴なっていなければならないのです。知識として得たものを骨肉化する。つまり自分の肉体に染み込ませる、どんな場面でもすぐにその通りの行動が取れるようにならなければなりません。

 

正しい考え方を“知っている”だけでは知らないのとまったく同じことなのです。自らの血肉として人生の節々において、また日々の業務においてその考え方を生かすことができなければ、まったく価値はないのです。

 

正しい考え方を骨肉化する為には、自分の思想・理念・哲学になるまで、繰り返し、学び、無意識であっても、その考え方で行動できるようにならなければならないのです。

 

フィロソフィーこと経営の源泉

現在の混乱下で最も大切なことは、フィロソフィーをもう一度考え直してみることではないでしょうか。経営者がフィロソフィーを学ぶと同時に、それを全従業員と共有する、ということが会社経営において最も大切なことです。

 

フィロソフィーを共有するとは、全従業員が経営者と同じ気持ち、同じ考え方をもってくれるということを意味します。それが会社経営において最も重要であり、現在の状況下でも根本的な原動力になると考えられます。

 

経営の要諦は“フィロソフィー”に尽きる

すばらしい経営をしていくのに経営者の方々はどうしたらよいのか、日々悩んでいます。世の中には経営に関する書籍が多数出版されています。また、多くの経営コンサルタントの方が活躍しておられます。大学でも経営を教える先生方も、次々と新しい経営理論を展開しておられます。

 

多くの経営者が、これらの経営者や経営コンサルタント、経営理論に頼ろうとしています。しかしなかなか思った通りには経営はならないのです。一体どのように経営をしたらよいのかと多くの経営者が迷い、戸惑い、途方に暮れておられます。

 

そうではなく、経営の要諦は“フィロソフィー”に尽きるのです。企業内で経営哲学を確立し、経営者はもとより、全従業員と共有して実践することで、必ず企業は成長発展を遂げていくのです。

 

フィロソフィー誕生の経緯

京セラフィロソフィーがどのような経緯で誕生し、京セラの成長発展の基盤となってきたのか。稲盛塾長の経験が以下に述べられています。

 

稲盛塾長が27歳の時に支援者の方々に京セラを創業していただきました。テレビのブラウン管の電子銃に用いられる、絶縁部品の製造で会社がスタートしました。京セラ設立前、稲盛塾長は大学卒業後、京都にある松風工業に就職しました。その製品はその松風工業という碍子(がいし)の製造会社で稲盛塾長が開発したものでした。そこでは研究開発から製造・販売に至るまで一貫して担当されました。材料の研究、製品の開発、生産プロセスの検討、製造設備の設計、日々の生産活動、営業活動まで、この製品に関わるすべての仕事を担当しておられました。

 

その当時、稲盛塾長は会社経営についてはまったく経験や知識がなかったのです。支援してくださった方々からの資本金三百万円、さらに一千万円の資金を銀行から借りていただき、京セラを創業したものの、大変不安なスタートだったのでした。

 

経営をしていくにはどうしたらよいのか、一生懸命考え続け、現在のフィロソフィーの原型が次第に編み出されたのです。

 

松風工業時代に、ものごとのあるべき姿を考える習慣が身についていました。松風工業では赤字続きで、給料日になっても給料が払えず、給与支払い遅延がありました。

 

ボーナスもほとんどありませんでした。労働組合とはもめて、社内に赤旗が林立し、年中ストライキをしているような会社でした。稲盛塾長は同時入社の四人が退職していく中で、他の会社に就職もできないまま、与えられた新しいセラミック材料の開発という仕事にやむなく取り組まなければならない境遇にありました。そして待遇も悪く、不充分の設備という劣悪な環境の中にあっても、すばらしい研究成果をあげるにはどういう心構えで仕事にあたらなければならないかと毎日考え、悩んでおられました。

 

その頃から“仕事をするには、こういう考え方、こういう方法でなければならないのではないか”ということを思いつくたびに、研究実験ノートに書き留めていました。

 

京セラを経営することになったときに、その自分なりに考えた仕事の要諦のようなものを書きためていたノートを引っ張り出して、その後、経営にかかわり気づいたことを加えて、改めて経営の要諦としてまとめ直したものが“フィロソフィー”というものです。

 

たいへん劣悪な環境の中で、松風工業を辞めることもあたわず、研究開発に取り組まなければならないというときに、そういう逆境の中で仕事をし、立派な研究をし、立派な会社にしていくにはどうすればいいかということを考え、悩みつつ、生きていく中でその都度、ノートの端に書き留めていったものが、京セラの“フィロソフィー”なのです。

 

経営というものがわかっていなかったがために“不安で不安でたまらない、どうすれば経営がうまくいくのだろう”と悩み抜いて、ようやく見つけた経営の考え方、そしてその方法をまとめたものが“フィロソフィー”なのです。

 

その“フィロソフィー”の中には“心をベースとして経営する”“ベクトルを合わせる”“原理原則に従う”“一日一日をど真剣に生きる”“土俵の真ん中で相撲をとる”など、様々なものがあります。これらは稲盛塾長が仕事や研究を続け、経営で呻吟(しんぎん)する中で編み出していった、実践的な経営哲学なのです。

 

人生・仕事の結果=考え方x熱意x能力

稲盛塾長は京セラでの経営の中で、人生・仕事の結果=考え方x熱意x能力という方程式を考えられました。人生の結果、また仕事の結果は、その人が持っている考え方、つまり哲学に、その人が持っている熱意、そしてその人が持っている能力を掛け合わせた値で表されると考えられました。

 

人並み程度の能力しか持たない稲盛塾長は、人並み以上のことを成し遂げるにはどうすればいいのだろうかと考えた末に見い出したのが、この方程式なのです。

 

三つの要素の中の能力は多分に先天的なものです。両親から授かった知能や運動神経、あるいは健康などが、これにあたります。能力を点数で表現しようとすれば、0点から100点まであると言えます。

 

熱意は努力と言い換えてもいいと思います。やる気や覇気のない無気力な人間から、人生や仕事に対して燃えるような情熱を抱き、懸命に努力する人間まで、個人差があります。このように熱意も、熱意のない人が0点とすれば、燃えるような闘魂で誰にも負けない努力をする人は100点というように、幅があります。熱意は能力とは異なり、自分の意思で決めることができます。能力は自分に天賦(てんぷ)の才で備わったものであって、そう変えられるものではありません。熱意だけは自分の意思で変えられると思い、“誰にも負けない努力”を京セラで、稲盛塾長は働き続けました。

 

際限のない努力が成功をもたらす

“誰にも負けない努力をする”ということが最も大切なことです。多くの人は自分は努力をしたと言います。ビジネスの世界では、相手が自分以上の努力をすれば、負けてしまいます。並みの努力では意味がなく、誰にも負けない努力でなければ、厳しい社会を勝ち抜いていくことはできません。

 

その努力は一時的なものではなく、際限のない努力を続けていくものでなければなりません。

 

京セラを経営し始めたときに、人生という長丁場のマラソンの勝負を、百メートル競走を走るような、つまり全速力で走っていこうと思って走り続けてきました。企業経営は一生かかるものであるにも関わらず、無茶な仕事を続ければ、体がもたないでしょうと周囲の人達から言われたそうです。一流のマラソン選手は、マラソンのペースで走っても、我々の百メートル競走ぐらいのスピードで走り続けるのです。我々素人が42.195キロを走ろうと思ってゆっくり走っていたのでは、ますます引き離されてしまいます。

 

途中で倒れるかも知れないが、なんとか一流選手と同じペースで走っていこうと社員に話し、共有しようとしました。もし最初から、勝負に負けると思うのならば、そういう勝負はやめようと社員に話しました。ところが一生懸命に走っているペースが思いのほか速かったと見えて、先行するセラミックスメーカーを視野に捉えることができ、そしていつのまにか抜き去っていきました。

 

考え方がマイナスなら、結果もマイナスになる

人生・仕事の結果=考え方x熱意x能力、の方程式を点数で表わしてみます。健康で優秀で“能力”が九十点という人がいます。しかし、この能力のある人が自分の能力を慢心し、過信し、真面目に努力することを怠るなら、その人の持っている“熱意”は三十点になってしまいます。

 

一方、自分は平均より少しだけましな程度の“能力”六十点ぐらいだろう。しかし生き抜くため、“必死で生きていこう。必死で努力をしていこう”と自分に言い聞かせ、情熱を燃やし、ひたすら努力するような人であれば、“熱意”は九十点となります。

 

能力のある人は、能力x熱意で二千七百点、普通の能力の人は五千四百点となります。つまり平凡な能力しか持っていなくても、努力をひたむきに続ければ、能力の不足を補って、能力を持った優秀な才能に溢れた人の倍の成果を収めることもできるのです。

 

そしてこの方程式で最も大事なことは、この“能力”と“熱意”の積の値にさらに“考え方”が掛け算で掛かってくるということです。この考え方には、悪い考え方から良い考え方まで、マイナス百点からプラス百点まで、大きな振れ幅があります。

 

“他によかれかし”と願い、一生懸命に努力をする考え方はプラス、世をすね、人を妬み、まともな生き方を否定するような考え方はマイナスです。

 

掛け算ですから、プラスの考え方を持っていれば、人生・仕事の結果はさらに高い点数となります。逆に少しでもマイナスの考え方を持っているだけで、その方程式の答えはマイナスになってしまうのです。能力があればあるほど、熱意が強ければ強いだけ、人生や仕事において大きなマイナスになってしまいます。無残な結果を残すことになります。

 

実際に人並み外れた“能力”とあふれるような“熱意”を持ち、創業した会社を発展させ、百万の富を手にしたものの、傍若無人な行動を取るようになり、社会から指弾を受け、表舞台から去っていくような人がいつの時代にも存在します。

 

どのような“考え方”でなければならないのかということが大切です。プラスの考え方とは、以下のようなものです。

 

·         前向きで建設的であること

·         他と一緒に仕事をしていこうという協調性があること

·         明るく肯定的であること

·         善意に満ちた心を持っていること

·         思いやりがあり、優しいこと

·         真面目なこと

·         正直であること

·         謙虚であること

·         努力家であること

·         利己的でないこと、強欲でないこと、足るを知ること

·         感謝の心を持つこと

 

プラスの考え方は、上記のような考え方であり、善き考え方であり、善い行いをすることです。


マイナスの考え方は、上記の逆です。自分の考え方が果たしてプラスなのか、それともマイナスなのか、つまり善きものなのか、悪いものなのかということを、日々反省を繰り返しながら、少しでもプラス方向、善き考え方を持つように心がけていくことが“人生仕事の結果の方程式”の結果を最大級にすることになります。