盛和塾 読後感想文 第七十号

愛こそはすべて 

広中平祐京都大学教授は語ります。京都の清水寺で発表された恒例の今年の漢字に “愛” ということばが選ばれました。広中先生はその時、以前に読んだバイブル “キリストの教え” を思い出された。それまではコリント第13章はキリスト教形式の結婚式に招待される度に “愛の賛歌” として聞かされ、祝宴の喜びを分かち合うという認識でした。ところが、コリント第13章を呼んだ時、その内容の厳しさに愕然とされました。 

“もし愛がなかったら、知恵者の言葉も天使のささやきも、ドラやシンバルの喧しい騒音でしかない” “仮に私が預言者の知力をもち、全ての神秘を解明でき、全ての知識を会得していたとしても、もし愛のない人間であれば私は無に等しい” “仮に私が、自分の資財を全部与え、自分の肉体まで犠牲に捧げたとしても、もし愛がなければ何の酬いも得られない” とありました。  

ハーバード大学に勤務していた時、主だった同僚と話をしたことが思い出された。“組織の長たるものに必要な資質とは何だろう” と話した時、その時の結論は、“第一番は組織とその職員に対する愛情” と決まりました。 

稲盛塾長の “敬天愛人” の人を愛する精神が名誉会長自身の心の中でいかに強いものか、盛和塾の若者たちも肝に銘じておくべきだと広中教授は結んでいます。 

己をつくる 

成功した中小企業の経営者の方々は、勝気で闘志むき出しの方が多いようですが、そのような方は商機を見る目があり、気が利き、非凡な才覚を持つ、商才に溢れています。才覚と商才があれば、事業はうまくいきます。ただしそれだけでは破滅する可能性があります。 

才覚と商才にまかせて、次から次へと新しいことに手を打っていくからです。“才に溺れてしまう”のです。自分の魂がなく才覚や商才に使われてしまうのです。自分の才覚や商才に溺れてしまい、自分の本来の事業から大きく逸脱してしまうのです。 

高潔な人格を備え、徳を身につけた“己”が才覚や商才をコントロールすることが必要なのです。事業が一生涯の業であるならば、“徳”を高めて“己れ”をつくっていくことが必要です、と塾長は述べています。 

リーダーのあるべき姿 正道を貫く生き方 

リーダーにとって大切なものは人格

ワシントンにある戦略国際問題研究所(CSIS)の副理事長であるデイビッド・アブシャイア氏が塾長に協力を求めて来ました。リーダーのあり方がいまほど問われていない時はないという認識をされておられました。 

  1. ワシントンが人格者だからアメリカは発展した

デイビッド・アブシャイア氏のスピーチは、アメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンについてでした。世界各地でアメリカがイギリスから独立した時代、独立運動が各地で興りました。しかし、世界各地にあった植民地のなかで、独立後、アメリカのように順調な発展を遂げていった例はあまりありません。アフリカ諸国の例を見ますと、独立を果たしたものの、独裁政権に陥り、内乱に明け暮れ、国民が四分五裂してしまいました。アメリカ合衆国だけが独立後も素晴らしい発展を遂げて来ました。 

それは初代大統領、ジョージ・ワシントンが素晴らしい人格者だったからです。 

アメリカが独立した時、合衆国議会は大統領に強大な権限を与えたのでした。アブシャイア氏は、リーダーとして一番大切なことは、その人が持つ人格なのだということをジョージ・ワシントンを例に挙げて話されたのです。 

  1. 深沈厚重(しんちんこうじゅう)なるは、これ第一等の資質

塾長は、アブシャイア氏の後をうけて “一国はひとりをもって興り、ひとりをもって亡ぶ”という中国の古典の一節を引用して、スピーチをされました。この中で呂新吾(中国・明代の官僚、政治家)の著した “呻吟語” の中で、リーダーの資質を三つ挙げ、その序列をつけて表現しています。 

“深沈厚重なるは、これ第一等の資質。磊落豪雄(らいらくこうゆう)なるは、これ第二等の資質。聡明才弁なるは、これ第三等の資質。” 

私共は、ともすれば、才能のある、戦略的な思考ができ、専門知識にも長け、弁もたつ人、聡明弁才なる者をリーダーに登用しがちです。例えば、官界においては、難関の上級国家公務員試験を受け、狭き門を突破する、いわゆる秀才型の人を行政のリーダーにしています。 

呂新吾がいいますのは、聡明で弁がたつという能力は第三等の資質だと言うわけです。そのような資質は一介の官吏としては必要にして充分です。集団を導いていくリーダーとしては、それだけでは足りません。困難な局面にあたっても集団を正しく導いていけるだけの勇気が必要です。 

呂新吾は勇気をもっているリーダーだけでは、“磊落豪雄なるはこれ第二等の資質”といっているように、不充分であると述べています。 

リーダーとして最も重要なことは“深沈厚重なるは、これ第一等の資質”と呂新吾が説いているように、浮わついたところがなく、考えが深く、信頼するに足る重厚な性格を持っていることです。人格者であるということです。能力、勇気、人格の三つを兼ね備えているのは最も理想的なリーダーです。その中で一番大切なのは、人格だと呂新吾は言っているのです。 

  1. 国に求められる品格

国にも同じように品格というものが求められます。塾長は2004年に中国の共産党中央党校で講演しました。 

中国は、素晴しい経済発展を遂げておられます。今後もおそらく成長・発展して、近い将来、世界有数の経済大国になることは確実だろうと思います。同時に軍事大国にもなっていかれるだろうと思います。強大な国となった将来の中国がとるべき道はどういう道でしょうか。 

孫文の演説を引用しました。辛亥革命(しんがいかくめい)によって清朝が倒れたあと、新しい中華民国の臨時大総統となりました。1924年、神戸に立ち寄った時、神戸市民の求めに応じて、五千人を前に演説をしました。 

“あなた方日本民族は、欧米の覇道(はどう)の文化を取り込むと同時に、アジアの王道の文化の本質も持っておられる。その日本が今後、西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城(かんじょう)(盾と城)となるのか、あなた方日本国民はよく考え、慎重に選んでほしい” 

残念ながら、日本はこの孫文の忠告に耳を貸さず、覇道をまっしぐらに突き進み、1945年の敗戦という破局を迎えました。中国にはぜひ王道による国家運営を行ってほしいのです。1924年に孫文が日本国民に忠告してくれた言葉を、中国共産党のリーダーであるみなさんにお返しします” 

リーダーにとって最も大切なことは人格だと思いますが、国にとっても最も大切なことは品格だと思っています。国家も品格を備え、王道を歩むべきなのです。 

を備えよ 

  1. 徳とは何か

人格や品格をつくる中核は、徳だと言われています。徳を備えた人が人格者であり、徳を備えた国が品格のある国だと思います。 

徳とは “仁” “義” と中国の古典では言われています。それでは解かりません。一体、具体的にどうすれば素晴らしい人格を手にすることが出来るのか、どうしたら身につけることができるのか、ということが大事です。 

  1. 徳を備えた人とは人間として正しいことを実践できる人

塾長は27才で会社を作っていただいたのですが、年輩の従業員の方にも仕事をお願いすることもありましたし、また、毎日、経営判断をしなければなりませんでした。その時、判断基準をどこにおくのか、悩みました。 

そして、昔教わった善悪の基準、“人間としてやってよいこと、人間としてやってはいけないこと”をもとに判断しました。“会社にとって正しいか正しくないか”ではなく、また “私にとって正しいか正しくないか” でもなく、“人間として正しいか正しくないか” その一点で判断し、経営していくことにしました。 

このように子どもの頃に教わったプリミティブな倫理観、道徳観を経営企業の根幹に置いたわけです。人間として正しくないことを言った時には、その誤りを指摘してほしいと塾長は従業員に頼みました。 

徳を備えるためには、人間として正しいことをして、やってはいけないことをしないという単純なことなのです。徳をさらに簡単に言えば、正直である、誠実である、努力家である、常に感謝の心を忘れない、他を思いやる、やさしさを持っている、勇気を持っている、ウソを言わない、騙(だま)さない、欲張らない、威張らない、人の悪口を言わない、不平不満を言わない、欲張らない、足るを知る、むやみに怒らない、日々反省する、という単純ですが、これを身につけるように努力する、日常生活のなかで実践している人、そういう人が “徳を備えた人” なのです。 

  1. 徳のない人をリーダーに据えることが不祥事を招く

呂新吾は “聡明弁才なるは第三等の資質” と申しましたが、その才能を使うのは人格なのです。人格が歪(ゆがみ)である場合には、その人に才能があればあるほど、それは凶器となってしまいます。才能を正しくコントロールするためにも人格を高め、徳を持った人間性を身につける必要があるのです。 

素晴らしい包丁があったとします。しかし、その素晴らしい包丁を使うのは料理人です。素晴しい料理人でなければ、その素晴らしい包丁を使いこなすことはできないのです。 

日本では、経済界でも政界官界でも、才能・弁才のある者を登用し、その人をリーダーに据えてきました。才能だけを優先して、その人の人格を厳しく問うたことはないように思われます。 

米国での不祥事、エンロン、ワールドコム、巨大企業が一瞬にして崩壊してしまいました。二度と不祥事が起こらないようにと、コーポレートガバナンスは、コンプライアンスはどうすべきかを検討し、その結果、膨大なルールが作られ、それで企業を管理しようとしています。 

しかし、いかに精微なルールがあってもリーダーが人格者でなければその裏をかいたような問題が必ず発生するのです。 

  1. 西郷にみるプリミティブな教えの大切さ

西郷南洲は明治維新を起こす前、薩摩藩主島津久光公の逆鱗(げきりん)に触れ、2度島流しの刑に処せられました。沖永良部島という離れ小島へ流され、広さ二畳ほどの吹きさらしの牢に数ヶ月入れられたそうです。西郷は沢山の書物を持ち込み、勉強しました。と同時に、島の子供達にも学問を教えました。 

“おまえたち、一家が仲睦まじくしていくためには、どうすればよいと思うか”と問いました。西郷から陽明学を学んでいましたから、利発な子が答えました。“はい、君には忠義を、親には孝行を、兄弟は仲良く、夫婦はむつまじくしていくことです” 

“うむ、それは正しい。しかし、そうは言っても実行するにはどうしたらよいか。それは簡単なことだよ。家族のみんながそれぞれ少しずつ自分の欲を抑えればよい。そうすれば仲睦まじくしていける” 

美味しいものがあれば、家族のみんなで分けて食べる。楽しいことがあれば、みんなで楽しむ。悲しいことがあればみんなで悲しむ。これは近所の人達とでも同じです。自分の欲を少し抑えるだけで、仲睦まじくしていくことができるのです。 

学校の先生、両親から教わったプリミティブな教えの中に、すばらしい考えがあり、それを身につけることによって人格を高める、徳を備えることができるのだと塾長は説いています。そして身につけるため、その努力を続けることが大事なのです。 

働くことで魂を磨く 

自分を徳の高い人間にしていく、自分の魂を磨き続けることが人生だと思います。

人生の中では、誰もが苦労に面し、辛酸(しんさん)をなめることがあります。魂を磨くために一番大事なことは、苦労を重ね、辛酸をなめることです。苦労することは魂を磨くために必要不可欠なことです。それは、自分の魂を磨くために自然が与えてくれた試練、磨き砂だと受けとめるべきです。働くことは魂を磨くことができるからです。働くことは、辛苦が伴なうことであり、そのつらさに耐え、克服していくことは、魂を磨くことになるのです。 

無私の人、西郷南洲の教え 

遺訓一.無私こそリーダーの資格

政府にあって国の政をするということは、天地自然の道を行うことであるから、たとえわずかであっても私心をさしはさんではならない。

だから、どんなことがあっても心を公平に堅く持ち、正しい道を踏み、広く賢明な人を選んで、その職務に忠実にたえることのできる人に政権をとらせることこそ天意、すなわち神の心にかなうものである。

だから本当に賢明で適任だと認める人がいたら、すぐにでも自分の職を譲るくらいでなくてはいけない。従ってどんなに国に功績があっても、その職務に不適切な人に官職を与えてほめるのはよくないことの第一である。官職というものは、その人をよく選んで授けるべきで、功績のある人には俸給を与えて賞し、これを愛しおくのがよいと翁が申される。

西郷南洲は辛酸をなめつくした素晴らしい人間性をもった無私の人です。少なくともリーダーとなる人は無私でありたいと思っている人でなければなりません。自分を犠牲にしてでも集団のために尽すという無私の心がある人こそリーダーの資格があるのです。 

遺訓五. 辛酸の日々が堅い志をつくる

ある時、“人の志というものは、幾度も幾度もつらいことや苦しい目に遭ってのち、はじめて固く定まるものである。真の男子たる者、玉となって砕けることを本懐とし、志をまげて瓦となっていたずらに生き長らえることを恥じとする。それについて自分が我が家に残しおくべき訓としていることがあるが、世間の人はそれを知っているであろうか。それは子孫のために良い田を買わない。すなわち財産をのこさないということだ” という七言絶句の漢詩を示されて、もしこの言葉に違うようなことがあったら、西郷は言うことと実行することと反していると言って見限りたまえと言われた。 

“自分は幾度も辛酸をなめてきた。そのために私ははじめて堅い志を持つに至った。また私は子孫の為に美田を買わない、つまり子孫たちへの遺産を増やすようなことはしない”

自分の子孫に美田を買ってやりたいという人間として当然の欲を抑えるほど無私で潔白だったのです。 

遺訓七、遺訓三十四. 策略、策謀を使わず正道を踏んで物事を進める

遺訓七. どんなに大きい事でも、またどんなに小さいことでも、いつも正しい道を踏み、真心を尽くし、決していつわりのはかりごとを用いてはならない。人は多くの場合、あることにさしつかえができると、何か計略を使って一度そのさしつかえを押し通せば、あとは時に応じて何とかいい工夫ができるかのように思うが、計略したために心配事がきっと出てきて、その事は必ず失敗するにきまっている。正しい道を踏んで行うことは、目の前では回り道をしているようだが、先に行けばかえって成功は早いものである。 

遺訓三十四. はかりごと(かけひき)はかねては用いない方がよい。はかりごとをもってやったことは、その結果を見ればよくないことがはっきりしていて、必ず後悔するものである。 

西郷は策略や策謀を戒め、正道を踏んで物事を進めていくようにと説いています。 

企業経営者は利益を生み出していかなければならない。ですから、利益を得るためにいろいろな策略を使って事業をしてもかまわないと考えます。しかし策を弄したビジネスは、一旦は成功したかに見えますが、必ず破れることがはっきりしています。どんなことであろうとも、正々堂々と、人間として正しい道を踏んでいくべきです。それが一番の近道なのです。一番確実な道なのです。