盛和塾 読後感想文 第八十七号

六つの精進

六つの精進は企業経営をしていく上での必要最低限の条件であると同時に、人間としてすばらしい人生を生きていくために守るべき必要最低限の条件なのです。六つの精進を毎日実践し続けていけば、やがて自分の能力以上のすばらしい人生が開けていきます。 

すばらしい人生、幸福な人生、平和な人生を得たいと思うならば、またりっぱな企業経営をしたい、社員に喜んでもらえるようなすばらしい経営をしたいと思うならば、六つの精進を忠実に守ることですと稲盛塾長は述べています。 

一.  誰にも負けない努力をする

  1. 一生懸命働くことがすばらしい結果を生む

企業経営の中でいちばん大事なのは“誰にも負けない努力をする”ことです。“毎日一生懸命に働く”ことが企業経営で最も大事なことだということです。

すばらしい企業経営をするにしても、すばらしい人生を生きるにしても、誰にも負けない努力をすること、一生懸命に働くことが必要です。このことを除いては、企業経営の成功も人生の成功もありえないと、稲盛塾長は伝えています。 

極端に言えば、一生懸命に働きさえすれば、経営は順調にいくのです。どんな不況が襲ってくるかも知れませんが、どんな時代になろうとも、一生懸命に働きさえすれば、十分にそれらの苦難を乗り越えていけるのです。一般に、経営をするには経営戦略、経営戦術が大事と言われていますが、一生懸命働くということ以外に成功する道はないのです。 

京セラの場合、会社を作っていただいた方々に迷惑をかけてはならないと、必死になって、塾長は働きました。毎日朝早くから、夜は十二時過ぎ、たいていは一時、二時まで働かれたそうです。それを毎日のように繰り返し、努力を重ね続けてこられました。一生懸命に働くことが成功につながる、ということは間違いのないことです。一生懸命に働くということ以上の経営ノウハウはないのです。 

  1. 一生懸命に働くことは、生きるものすべてに課せられた義務

自然界ではすべて一生懸命に生きるということが前提になっています。自然界に生きているすべての動植物は必死に、一生懸命に生きています。少しお金ができたり、会社がうまくいくようになると、楽をしようという不埒な考えをする、それは我々人間だけです。ですから、我々人間にとっても、毎日毎日をど真剣に一生懸命に働くことが、最低限必要なことだと思います。 

自然界では、アスファルトの割れ目から雑草が芽を出しています。あまり水分も土もないところで、雑草が芽を出しています。自然界では、そういう大変過酷な環境の中でも、種が舞い落ちれば芽を出し、葉を広げ、炭酸同化作用を精いっぱい行い、そして花を咲かせ、実を結び、短い一生を終えます。植物も動物もみんな過酷な条件の中で、ひたむきに必死で生きています。いい加減に、怠けて生きている動植物はありません。その自然界の常識に従うならば、地球上に住んでいる我々人間も、真面目に一生懸命に生きることを要求されていると思われます。 

“一生懸命に働いていますか”と一般に質問しますと、“はい、働いています”と返事が返ってきます。塾長は“誰にも負けない努力をしていますか”“誰にも負けないような働き方をしていますか”と聞くようになりました。あなたは自分では一生懸命働いていると言っているけれども、そんな働き方では不十分です。もっと真面目に、もっと一生懸命に働かなければ、会社経営でも人生でもうまくいきません。 

  1. 仕事が好きになることで一生懸命働くことが苦でなくなる

一生懸命働くことは苦しいことです。その苦しい仕事を続けていくのには、自分が今やっている仕事に惚れ込んで、好きになることが必要です。好きなことであればいくらでもがんばることができます。はたからは“あんなに苦労して、あんなに頑張って大変だろう”と見えることも、本人は好きでやっているのですから、平気です。 

“惚れて通えば千里も一里”惚れた人に会いに行こうと思えば、千里の道も一里にしか思えない。どんなに疲れていても、好きなあの人に会いに行こうと思えば、千里の道のりであっても、なんとも思わずに歩いて行けるのです。 

ところで、好きな仕事を最初から見つける、あるいは好きな仕事につけるという幸運な人は、そうはいないはずです。生活のためにその仕事をしているというのが普通です。仕事に打ち込んでいますと、自然と仕事が面白くなり、その仕事が好きになります。 

  1. 仕事に打ち込むことで創意工夫が生まれる

毎日、自分の仕事に打ち込み、一生懸命に仕事をしていけば、無駄に漫然と仕事をするということはなくなります。自分の仕事が好きになり、一生懸命に仕事をすれば少しでもよい方向に仕事を進めていこうと思い、もっとよい方法がないだろうか、もっと能率が上がる方法がないかと誰でも考えるようになります。 

一生懸命に働きながら、もっとよい方法がないかと仕事を進めていきますと、創意工夫の毎日になっていきます。今日よりは明日、明日よりは明後日と、自分で工夫して仕事をしていくようになるのです。 

一生懸命に働くということをしなければ、本当の創意工夫は生まれてきません。生半可な、ダラダラした仕事をしながら、何かよい方法はないだろうかと思っても、すばらしい着想は生まれて来ないのです。思いつきと創意工夫は、全く違うのです。 

真摯に、真面目に、一途な努力を続け、行き詰ってもあきらめずに一生懸命に考えている、ひたむきな姿を見て、神様はボンクラな人に対しても新しい知恵、ひらめき、啓示を与えてくれると稲盛塾長は考えています。 

二.  謙虚にして驕らず

謙虚であるということは、人間の人格を形成する資質の中で最も大切なものではないかと思いますと、稲盛塾長は語っています。“あの人は立派な人格者だ”と言われる人は、人間性の中に謙虚さを備えている人なのです。 

中国の古典の中に“謙のみ福を受く”とあります。謙虚でなければ幸福を受けることはできない。幸福を得られる人はみな謙虚でなければならない。会社が立派になり、大きくなっていけば、自然と人はみな傲慢になり、有頂天になってきます。そういうときにこそ、謙虚さを決して忘れてはいけないのです。 

世の中では他人を押しのけてでも、という強引な人が成功するように見えますが、決してそうはならないのです。成功する人というのは、内に燃えるような情熱を持ち、闘争心、闘魂を持っていても実は謙虚で控えめな人なのです。 

三.  反省のある毎日を送る

一日が終わった時、その日を振り返り、反省をするということは、大変大切なことです。例えば今日は人に不愉快な思いをさせなかっただろうか。不親切ではなかっただろうか。傲慢ではなかっただろうか。卑怯な振る舞いはなかったか。利己的な言動はなかっただろうか。一日を振り返り、人間として正しいことを行ったかどうか確認する作業が必要です。 

反省のある毎日を送ることで、人格、魂も磨かれていきます。すばらしい人生を送る為にも、日々反省し、自分の心、自分の魂を磨くことがたいへん大事なのです。 

  1. 反省とは心の庭を耕し、整理すること

イギリスの哲学者James Allenの“原因と結果の法則”という本の中に次のような一節があります。 

“人間の心は庭のようなものです。それは知的に耕されることもあれば、野放しにされることもありますが、そこからはどちらの場合にも必ず何かが生えてきます。もしあなたが自分の庭に美しい草花の種を蒔かなかったら、そこにはやがて雑草の種が無数に舞い落ち、雑草のみが生い茂ることになります。” 

もしあなたが自分の心の庭に美しい草花の種を蒔かなかったならば、雑草が生い茂る荒れた庭になってしまう。つまり反省をしないと、心は雑草のみが生える荒れた庭になってしまいます。 

“すぐれた園芸家は庭を耕し、雑草を取り除き、美しい草花の種を蒔き、それを育みつづけます。同様に私達も、もしすばらしい人生を生きたいのなら、自分の心の庭を掘り起こし、そこから不純な誤った思いを一掃し、その後に清らかな正しい思いを植え付け、それを育みつづけなくてはなりません。” 

私達は自分の心の庭を耕し、毎日の反省をすることによって雑草、つまり自分の邪(よこしま)な思いを取り除き、そこに新しくすばらしい思いを植えるようにしていかなければなりません。邪な心を反省し、善き思いを心の庭に育てていくのです、と稲盛塾長は私たちに話してくれています。 

“正しい思いを選んでめぐらし続けることで、私たちは気高い、崇高な人間へと上昇することができます。と同時に、誤った思いを選んでめぐらし続けることで、獣のような人間へと落下することもできるのです。 

心の中に蒔かれた思いという種のすべてがそれ自身と同種類のものを生み出します。それは遅かれ早かれ、行いとして花開き、やがては環境という実を結ぶことになります。良い思いは良い実を結び、悪い思いは悪い実を結びます。”

James Allen: “As a Man Thinketh” Martino Fine Books 

自分の心という庭の雑草を抜き、自分が望む美しい草花の種を蒔き、丹念に水をやり、肥料をやって管理をしていかなければならない。まさにそれが反省なのです。反省することによって、自分の心を磨いていくことができますし、そのことは私達に素晴らしい人生をもたらしてくれることになるのです。 

  1. 悪しき自分を抑え、よき自分を伸ばす

この自分の悪い心、自我を抑え、自分がもっている良い心を心の中に芽生えさせていく作業が“反省をする”ということだと稲盛塾長は語っています。 

よい心とは、心の中心にある真我、つまり利他の心です。他を慈しみ、他によかりけりと思う、やさしい思いやりの心です。それに対して自我とは、自分だけがよければよいという利己的な心、厚かましい強欲な心のことです。 

今日一日を振り返り、今日はどのくらい自我が顔を出したのかを考えてそれを抑え、真我つまり利他の心がでるようにする作業が“反省”だと稲盛塾長は伝えておられます。 

インドの詩人、哲学者タゴール Rabindranath Tagoreの詩です。

(”I won’t let you go” Ketaki Kushari Dyson English Version)

人間の心の中には邪(よこしま)で貪欲(どんよく)な利己的な自分と、素晴しい利他の心、美しい慈しみの心、やさしい思いやりの心を持つ自分、つまり卑しい自分と美しい自分とが同居しているということをタゴールは詩の中で唱えています。 

“私はただひとり、神の下にやってきました。

しかし、そこにはもう一人の私がいました。

この暗闇(くらやみ)にいる私は誰なのでしょう。

この人を避けようとして、私は脇道にそれるのですが、彼から逃れることはできません。

彼は大道を歩きながら

地面から砂塵(さじん)を巻き上げ

私が慎ましやかにささやいたことを

大声で復唱します

彼は私の中にいる卑しい小さな我

つまりエゴなのです。

主よ、彼は恥を知りません。

しかし私自身は恥じ入ります。

このような卑しく、小さな我を伴(ともな)って、

あなたの扉の前にくることを。” 

卑しく貪欲な、利己的な私、彼は恥を知りません。私は慎(つつ)ましやかに生きようと思って“あれがちょっと欲しいな”とささやいたことを彼は"オレはあれが欲しい、あれをよこせ“と大声で怒鳴るのです。恥を知らず、貪欲で利己的な“もう一人の私”というものを私は伴なっているのです。彼から逃れようとしても、彼は私から離れないのです。なぜなら、私という心の中にその卑しい彼も同居しているからです。 

恥を知らない彼も美しい心を持とうとする私も、両方とも人間には必要なのです。卑しい彼を完全に除くということは、私の肉体が亡びることだからです。人間が生きていく為には、衣、食、住が必要です。その為には、自分を生かす為に利己の心がどうしても必要なのです。特に食べるものがなければ、人間は生きられません。食べ物を手に入れる為には、他人を押し除けても、自分の手に食べ物を得なければならないのです。ですから自我が悪いのではなく、自我をコントロールする術を絶えず考える、すなわち反省が必要なのです。 

心を高めることと経営を伸ばすというのは車の両輪なのです/パラレルなのですと稲盛塾長は述べています。 

四.  生きていることに感謝する

人は決して自分一人で生きてはいけません。空気、水、食料、住宅、また家族や職場の従業員達、さらには社会など、人は自分を取り巻くあらゆるものに支えられて生きています。生かされています。 

健康で生きていること、そこには自然と感謝の心が出てこなければなりません。 

生きていること、生かされていることに感謝し、幸せを感じる心によって人生を豊かで潤いのあるすばらしいものに変えていくことができるのだと、稲盛塾長は考えておられます。 

不平、不満を持って生きるのではなく、現状あるがままを受け入れ、感謝する。そしてさらなる向上を目指し、一生懸命努力をする。そのためにも、神様、仏様に感謝し、自分を取り巻くすべてのものに“毎日ありがとうございます”と感謝の念を送るべきだと思います。 

“ありがとうございます”の実践は、家族から始めることができます。妻や子供や孫に“ありがとう”と言えることが毎日あります。ある時は自分の兄弟や甥や姪の助けに心から感謝する。従業員の頑張りに“ありがとう”と言葉をかける。自分の心を素直に表し、“ありがとうございます”と感謝の念を口に出せば、それを聞いた周囲の人々はよい気持ちになってくれて、和やかで楽しい雰囲気がみなぎります。 

どんな些細な事に対しても、感謝をする心はすべてに優先する大切なものです。

“ありがとうございます”

“もったいのうございます”

“かたじけのうございます”

という言葉は、大きな力を持っています。 

五.  善行、利他行を積む

  1. 積善の家に余慶(よけい)あり

中国の古典に“積善の家に余慶あり”という言葉があります。善行、利他行を積んだ家にはよき報いがある。善行を積んだ本人だけではなく、家全体、一族にまでよいことが起きます。 

また、世の中には因果応報の法則があります。良い行いを重ねていけば、その人の人生にはよい報いがあると言われています。そのように利他行、つまり親切な思いやりの心、慈悲の心で人にやさしく接することは、必ず私達にすばらしい幸運をもたらしてくれるからです。 

善き事を実行すれば、運命をよい方向へ変えることができるし、仕事もよい方向へと変化させていくことができる。バカ正直に善行を積むこと、世のため人のために一生懸命利他行に努めること、それが人生をまた経営をさらによい方向へと変えていく唯一の方法だと稲盛塾長は述べています。 

  1. 情けは人の為ならず

他人の為に行った善き行いは必ずその当人に返ってくるという意味です。 

一方、他人に親切にしてあげた、面倒を見てあげたために、ひどい目にあったという話がよくあります。例えば友人の苦しい状況を救うために、借金の連帯保証人になって助けてあげて善いことをしたと思ったけれども、その結果、自分は大変な目にあってしまい、財産を全て失ってしまったという人がいます。私の友人のお父さんはある高校の校長をされておられましたが、友人の債務保証人になり全財産を失いました。その為、私の友人は、学費の仕送りがなくなり、バイトで生活費を稼ぐこととなりました。 

“情けは人の為ならず”かけた情けはきっと返ってくるのだと言われているが、親切に他人の面倒をみてあげることで逆に自分に不幸が降りかかってくることもあると言われる人もいます。 

しかし、お金に困っている友人を、債務保証人となり助けることは、本当に友人を助けることかどうか、良く考えることが大切です。単に情けをかけて一時的に友人は助かったかも知りませんが、その情けは本当にその友人の役に立っているのか考える必要があります。その情けはさらに友人をだらしなくすることになってしまうのです。その友人のいい加減なだらしなさを助長することになってしまうのです。これが“小善”なのです。 

友人が助けを求めた時には、しっかりと経緯を聞き、何が原因なのか理解した上で、もし友人のしでかした不始末、いい加減さの結果である場合は毅然(きぜん)として断(ことわ)り、友人に自分でその苦難を乗り越えるように導いていくことが大事です。これが“大善”なのです。 

立派な人生を送るためにも、また立派な経営を続けていくためにも、真の善行、利他行を積むようにと稲盛塾長は述べています。 

六.  感性的な悩みはしない

  1. 過去の失敗は、反省した後はキッパリ忘れて新しい仕事に打ち込む

人生では心配事や失敗など、心を煩わせるようなことがしょっちゅう起こります。しかし、一度こぼれた水は元へと戻ることはないように、起こした失敗をいつまでも悔やみ、思い悩んでも意味はありません。既に起こってしまったことはいたずらに悩まず、改めて新しい思いを胸に抱き、新しい行動に移っていくことが大切です。 

起きてしまったことは、しようがありません。キッパリとあきらめて、新しい仕事に打ち込んでいく。 

しかし、大失敗をしたとしても、なぜそういうことになったのか十分に反省し、今後一切そういうことはすまい、今後は心を入れ替えて努力していこうと心に誓うことはよいことです。 

失敗や不祥事に遭遇した場合に、いつまでもクヨクヨと失敗に心を悩ませ、心を暗くしていくことは止めるべきです。そのような不祥事を招いたのは、過去の自分自身が犯した罪、つまり業があったからなのです。その業が今結果として非難として出て来たのです。 

どんな不名誉なことでも、勇気を持って真正面から受け止め、立ち直っていかなければなりません。たいへんな不祥事を起こし、家族、親戚、友人、会社や世間に対して顔向けできないような事態が起ころうとも、悩まず、反省をしたら勇気を奮い起こして新しいことに打ち込むことが大切です。 

災難にあった時、それは自分が過去において犯した罪、穢(けが)れ、業、つまりカルマが結果となって出て来たのだと考えるべきです。すっきりとそのことを忘れ、新しい人生に向って力強く、希望を燃やして生きていくことが大切です。 

“六つの精進”の実践は必ず、人生や経営を成功に導く道を開いてくれます。