盛和塾 読後感想文 第109号

原理原則を基準とする

常に原理原則を基準として判断し、行動しなければなりません。とにかく陥りやすい常識や慣例などを例に引いた判断行動があってはならないのです。常識や経験だけでは新しいことに遭遇した場合、どうしても解決がつかず、そのたびにうろたえることになるからです。 

かねてから原理原則に基づいた判断をしていれば、どんな局面でも迷うことはありません。 

原理原則とは、人間社会の道徳、倫理と言われるものを基準として判断し、人として正しい判断をする、実行していくということです。人として正しいことを正しいままに実行していこうというものです。どの世界でも通用する、時を超え、時代を超え、人類を超え、国を超え、人々が受け入れるものです。

原理原則を判断基準としている人は、未知の世界でもうろたえず、正しい判断が可能なのです。 

新しい分野を切り開き、発展していくのは、豊富な経験を持っているからではありません。常識を備えているからでもありません。人間として、事の本質を見極め、原理原則に基づいた判断をしているからです。 

正しい判断をする

京セラ、KDDI、JALの経営では、様々な難しい経営判断を迫られる中で、“正しい判断をする”ということが非常に大切と考えています、と稲盛塾長は語っています。“正しい判断”はつづけていくことが必要なのです。正しい判断をすることは困難なのですが、と同時にその正しい判断を経営を行っている間中ずっと続けていく必要があるのです。今までは正しい判断をしてきたが、ある時に間違った判断をしてしまえば、会社を駄目にしてしまいます。正しい判断をするということは、ずっとそれを継続して、常に正しい判断が出来るようにするということであり、最も大切なことです。 

心の中に規範を持つ

経営者自身が“心の中に規範を持つ”ということが大切です。立派な会社を経営するためには、自分の都合や利益だけを考え、勝手気ままに行動してもよいというのではありません。集団を一つにまとめて機能させる為には、自分自身の中に自らの行動を律する厳しいモラル、つまり心の中に規範を持つことが必要です。 

その規範とは、公正、公平、正義、努力、勇気、博愛、謙虚、誠実などの言葉で表現されるもの、あるいは両親や学生の先生から教わった道徳などがこの規範にあたります。これらの規範を持ち、それに従い判断し、行動する勇気が大切です。私達が身につけるべき、その心の中に持つべき規範が“フィロソフィー”なのです。 

公正、公平、正義、努力という短い言葉だけですと、具体性に欠け、実践しにくいのですが、京セラフィロソフィーでは各項目を実践的に事例付きで説明しています。 

心の中に規範がない者は本能で判断する

心に規範となるべき“フィロソフィー”を持っていない場合にはどうなるのでしょうか。盛和塾ではフィロソフィーを学び“人間として正しい考え方”を理解しています。また“フィロソフィーを知識として知っているだけでは意味がない。それを血肉化して自分のものにしていかなければならない”と常に実践に努めています。“フィロソフィー”とは、まさにそのような姿勢で身につけていかなくてはならないのです。また、実践していかなければならないものです。 

しかし、もしそのような姿勢もなく心の中に基準、また規範となるべき確固たる考え方を持っていなかったならば、人は本能に突き動かされて物事を判断し、行動していくことになります。 

本能とは煩悩です。欲望、怒り、愚痴と呼ばれる三毒です。フィロソフィーを持っていない場合は反射的に自分の本能、または煩悩が頭をもたげ、“それは自分に不利だからやりたくない、それは自分にとって面白くないからいやだ”となってしまいます。何かあれば、むかっ腹を立てたり、不平不満が口をついて出てきます。 

それは理性的に見える人、あるいは社会的地位もあり、教養のあるような人でも同様です。大企業の社長でも煩悩を言葉に出してしまうのです。 

心の中に、基準となるべき考え方、哲学、つまりフィロソフィーがなく、本能、煩悩で判断をしていますから、反射的にそのような反応をしてしまうのです。規範、基準になるべきものがないために、煩悩の中の欲、怒り、愚痴、不平不満に突き動かされた言動をとるようになり、それをもとに判断をすることになるのです。 

心の中に規範となるべきフィロソフィーを持っていない経営者は、やがて経営もうまくいかなくなってしまうものです。極端な場合は粉飾決算といった不正にまで簡単に手を染めてしまうのです。 

不正を犯した経営者や経営幹部たちが、特別に悪いことばかりをする人たちであったわけではないのです。心の中に規範としてのフィロソフィーを知識としては持っていたのでしょうが、本当に自分のものとしていなかったからなのです。フィロソフィーを血肉化して自分の行動を批判し、規制するような段階にまで達成していなかったために、不祥事を起こしたのです。

 企業経営において正しい判断をするためには、やはり心の中に確固たる規範を持ち、それを実践するよう日々努めていかなければなりません。

フィロソフィーとは“人間として何が正しいのか”ということですが、こうしたフィロソフィーから下された判断は、物事の本質を真正面から射抜くものであり、まさに世の原理原則に通ずるものであり、“正しい判断”を導くものです。

経営者はたとえ本能や煩悩に惑(まど)わされなくても、とかく世間の常識や世の中の慣例を引いて判断したり、行動したりしますが、新しいことに挑戦していかなければならない経営者は、この物事の本質を据え、正しく判断する習慣を身につけていかなければなりません。

とくに新しいテーマに挑戦した時に、過去の応用だけでは解決できない問題に遭遇することがよくあるからです。そんな新しい事柄に遭遇するたびに、往々にしてうろたえるようなことになるものですが、かねてから物事の本質を捉えた判断をしていれば、決して迷うことはないと思われます。

原理原則に基づく判断を習い性とした人は、どんな前人未踏の新しい局面に遭遇しても、また未知の世界に飛び込んでも、正しい判断を行い、見事に成功を収めることができるはずです。

すさまじい集中力を持つ

正しい判断をするためには“すさまじい集中力を持つ”ことが大切です。仕事をするときには、次から次へと問題を迅速に判断し、解決していかなければなりません。問題に遭遇したときに、一瞬で問題の核心を捉え、判断できなければ、問題は先送りにされ、仕事が進まなくなってしまいます。

問題に対しては、意識を研ぎ澄ませ、凄まじい集中力で、全神経を集中させる必要があります。それは日常、集中して考えることが習慣化されていなければ決してできないことなのです。日頃からどんな些細なことに対しても、有意注意を心がけ、すさまじい集中力を注いで、真剣にものを考える習慣を身につけることが大切ですと稲盛塾長は語っています。

例えば、実験途中のプロセスにおいても、実験後にデータの整理をするにしても、すさまじい集中力がなければ、どこか大切なデータを見落としてしまう、また観察がいいかげんなものとなり、本当に信頼できるよいデータが出て来ないことになり、結局データ全体が使えないものとなってしまうのです。 

アモルファスシリコンドラムの開発

京セラミタの複写機、プリンターが高性能なのは、そのアモルファスシリコンの薄膜を付着させた長寿命の感光ドラムがあるからです。 

アモルファスシリコン太陽電池の開発をしているうちに、アモルファスシリコンが感光体としてもすばらしい性質を持っていることがわかりました。 

すぐに完成すると思っていたのですが、アモルファスシリコンがなかなかうまくドラムに付着しないのです。そして何十回も何百回も実験をやっているうちにようやく、“やっと一本よいものができました”という報告が上がってきました。“よかったではないか、これから生産体制に入れる”と言ったところ、“しかしなぜできたか、よくわかりません”と言うのです。 

しかし、一本でもできたのであれば、それを再現すればいいと思ったのでした。“その時に君はどうしていたのか。とにかく一本でもできたのなら、その通りにすればいいはずだ。よい性能が出た時の状態を寸分違(たが)わず、徹底的に再現してみなさい”と伝えたのでした。“再現できないのは、君がどのくらいいい加減な実験をしているかということだ。集中もせず、ボーッとして実験をしているからできないのだ。” 

“技術者として、千回やって一回でもできたのなら、それでもうできた”と言うのであれば、それを再現することができなくてはならない。そうでないならば、技術者として“できた”とは言えない。言うべきではないのです。 

その後、再現できましたという報告が上がってこないのです。そこで稲盛塾長は鹿児島出張した機(おり)、実験室のある工場を訪ねました。すると放電をしている装置の前で、担当者が居眠りをしているのでした。 

“どういうふうにグロー放電して、どういう風にミランガスが分解し、どのようにドラムに付着(デポジット)していくのか、目を大きく開き、起こる現象を全て見ておけ”と言ってありますから、たしかに装置の前に坐ってはいます。しかし夜中のことでもあり、居眠りをしていたのです。もしかすると装置から製品を取り出して“今日も駄目でした”と報告していたのかもしれません。 

翌朝、研究陣を集めてエネルギーを注入しようと一生懸命に話しても、彼等の心のレベルが上がってこないのです。“彼等ではもう限界だ”と思い、装置をすべて滋賀県の工場へ送り、メンバーを構成し直して再度実験を始めました。すると10年もかかってできなかったことが、半年もたたないうちに開発に成功し、今日のアモルファスシリコンドラムができたのです。 

アモルファスシリコンドラムの開発の例のように“すさまじい集中力”が必要なのです。実験というのは観察力が鍵となります。実験を通じてものをよく見て、そこからものの本質、心理を見抜いていくのです。確信を抽出できるような凄まじい集中力で仕事を進めているから自身が生まれ、自信があるからこそ物事の解決ができるのです。 

ど真剣に一生懸命集中して仕事に当っている人は、自分に自信がありますから、一つ成功すれば“あっこれでもう全部できる”と思うのです。たまたまできたのですが、ど真剣にすさまじく集中して見ているものですから、そのプロセスを再現することができ、成功させることができるわけです。 

有意注意を習慣にして判断力を磨く

すさまじい集中力が不可欠なのですが、その集中力を身につけるには、かねてから集中して物事に打ち込んでいる必要があるのです。 

“有意注意”が必要です。意識を持って神経を集中させていかなければなりません。意識もせず、ただ音がした方向に注意を向けるといった無意注意ではなく、意識的にある物事に神経を注いでいくような有意注意の日々でなければならないのです。有意注意が習慣になっていなければならないのです。 

経営幹部になったからといって、急によい判断ができるのではありません。今日までどういう生き方をしてきたのか、毎日をどれくらい真剣にやってきたのかということが問われているのです。時には、すべてのものを横に置き、会社を左右するような問題一点に考えを集中することが必要なときがあります。 

マクロとミクロを両立させる

正しい判断をするためには“マクロとミクロを両立させる”ことが大切です。 

とくに中小企業の経営者は会社全体のマクロな仕事と同時に部下のやっているミクロの仕事を十分に把握していなければ、完璧な仕事はできません。 

経営戦略を立案し、様々な経営環境の変化に対応できる体制を作り上げる一方、部下が休んだ時、自ら代わって仕事ができる、足繫く現場へ出て職場の雰囲気、現場の細かなことまで知っておくことが必要です。 

リーダーには戦略立案と現場指揮の二つの能力が求められる

物事を解決していくには、自分の会社の全体像が見えず、重箱の隅をつつくような細かいことで社員に注意し、叱るということばかりしているようではだめです。 

また逆にマクロの事だけを考えていて、重箱の隅にたくさんゴミがたまっている、つまりミクロのことが分かっていないというのも困ります。 

マクロとミクロの両方を掛け持ちながら、両方を見ていくような、すさまじい努力をしなければ、経営者として自分の会社を守っていくことはできません。 

長期計画を作ってただ“この計画を達成せよ”というのではなく、この経営計画を達成していくには、どの職場のどこが問題でどこにエネルギーを注入しなければならないかとミクロの点まで精通していなければ、とても経営計画を達成できるはずがありません。 

誤った時には原点に返る

正しい判断をするための最後の要諦は“迷った時には原点に返る”ということですと稲盛塾長は語っています。“人間として正しいことを貫く”という原理原則に基づいた確固たる判断基準を持っていたとしても、時と場合によっては明確な判断をすることが困難な場合がある、また誤った判断を下してしまうことがあります。 

その時には自分では正しい判断をしたと考えているのですが、結果として誤った判断をしたことにより、当初の目標から大きく逸脱してしまうことがあります。 

登山に例えれば、霧で道が分からなくなった時に、分岐点ごとに確信が持てないままに間違った判断を下してしまっては、頂上に到達できず、遭難してしまう恐れがあります。“迷ったら元の分岐点に戻る”が登山の原則だそうです。不安に思ったら勇気を持って原点に返り、正しく判断し直すことが大切です。 

物事を判断する時、すさまじい集中力で自分を鍛えぬいていれば、すばらしい判断力を発揮できると思います。しかし物事によっては白黒がはっきりしないこともあります。そして判断に迷うケースがあります。しかしそれでも判断をしなければならないのです。

 “こっちだと決めてやってみた。ところがどうもおかしい。やはりそっちだ”ということにもなります。正しいと思って判断したけれども、進んでいるうちに“どうもおかしい”と思えば、最初に判断した地点に帰って“あの時は右と判断したけれども、よく考えてみたら左が正しい。だから左へ進んでみよう”と判断をし直す。仕事を正しく進めるためにはそのように原点に返ってもう一度考え直すことが非常に大切です。 

人生において“迷った時に原点に返る”ということの意味は“人間として正しいことを貫く”という原点に返って考え直しなさいということです。“これは良い”“これはやめなさい”と判断を重ねていきますが、最初の判断の時点に戻り、考え直すということです。