盛和塾 読後感想文 第148号

心の修練を積む

経営者は多くの難しい問題について判断を迫られます。判断の連続が経営者の日常といっていいでしょう。 

右を取るか、左を取るか、判断の難しい事は、有名な経営者であっても考えあぐねて迷います。しかし、経営者である限り、日常茶飯、判断を重ねていかざるを得ません。この判断を左右するのが、経営者の心や人生観なのです。 

自己本位の人であれば、判断の基準は損得です。心優しい人であれば、情にほだされて、ビジネスの一線を踏み外すかもしれません。 

戦時中、重責を担った将官クラスは、中国の古典に傾倒する人が多かったといいます。人知を超えたところで判断を迫られ、進むべきか退くべきか、切羽詰まった状況で命令を下さなければならず、人間の道について中国の古典に教えを仰ぎ、心を修練したそうです。 

敬天愛人を生きる 

敬天愛人との出会い

稲盛塾長は鹿児島に生まれ育ち、鹿児島大学工学部を卒業し、京都にある松風工業に入社しました。ところが松風工業に入ってみると、終戦後ずっと赤字続きで、最初の給料日にも給料が出ないような会社でした。その後、同期入社の五人の同僚は、いつも愚痴をいい合って次から次へと辞めていき、残ったのは稲盛塾長一人となったのでした。 

自衛隊の幹部候補生学校にも合格したのですが、二つ年上の兄の反対で、自衛隊に行くことができませんでした。仕方がないので、松風工業に残ることとなりました。 

松風工業では、ファインセラミックスの研究に寝食を忘れて没頭していったのです。その結果、日本で初めてといわれるフォルステライトの合成に成功し、ファインセラミックスという新しい材料を発表することができ、その後多くの成果を上げることができたのでした。 

松風工業ではフォルステライトを使った新しいセラミックス材料を合成し、松下電子工業にブラウン管の電子銃の絶縁部品を製造して納入を始めていました。日立からもフォルステライトを使った真空管を作りたいという要望がありました。一生懸命それを作ろうとしましたが、なかなかうまくいきませんでした。 

その時上司が“君にはそれは無理だよ。京大出身の連中が何人もいるから、彼らにやらせるから、君は手を引け”と言われました。稲盛塾長は松風工業を退社しました。 

この話を聞いた前の上司、青山政次さんが中心となり、“もったいない。稲盛くんの技術を何とかしてあげたい”ということから、京セラという会社を作っていただくことになりました。資本金三百万円が集まりました。その中の一人である西枝一江(いちえ)さんが自宅を担保にして一千万円の銀行借り入れまでしてくださいました。 

創業して間もない頃です。株主の一人である宮木さんがある日、出張から帰ってこられ“良いものを買ってきてあげたよ。あなたの郷土の大先輩である西郷南洲のものだ”一幅(いっぷく)の書を持ってこられました。それが“敬天愛人”でした。この“敬天愛人”は稲盛塾長が幼い頃によく見たものでした。 

郷土の偉人、西郷南洲の“敬天愛人”を表装し、京セラの執務室に掲げました。毎日会社に行きますと、その書を眺めております。 

天が指し示す正道をゆく

京セラ設立後、稲盛塾長は様々な経営判断を迫られました。様々な課題に対して、“これはやっても良い”“これはダメ”だと判断を下すことが、トップの責務なのだということを学びました。ところがその当時、稲盛塾長は、判断するために必要な基準を持ち合わせていませんでした。 

稲盛塾長が一つ間違えば、せっかく作っていただいた会社が潰れてしまうかもしれない。リーダーである稲盛塾長の一挙手一投足が、会社の命運や従業員の一生を決めてしまうのだと思えば思うほど、心配はますます募っていきました。 

さらに、京セラのために資本金を出してくださった方々、とりわけ家屋敷を担保にしてまで銀行から一千万円を借り入れてくださった西枝一江(いちえ)さんに、会社が倒産すれば大変なご迷惑をかけてしまいます。 

何を基準にして判断すれば良いのか、よくわからなかった稲盛塾長は、子供の頃に両親先生から教わった“やっていいこと悪いこと”を判断の基準にしました。幼稚な道徳観、倫理観の持ち合わせしかなかったのでした。 

社員に対しては“これから会社経営の判断基準を、人間として何が正しいかという一点に絞る。皆さんから見れば、それはあまりにも幼稚でプリミティブな判断基準だと思うかもしれないが、そもそも物事の根本というのは単純にして明快に違いない。人間として正しいことを正しいままに貫いていくということで進めていきたい”と伝えました。 

“敬天愛人”。西郷南洲の言う“敬天”は、稲盛塾長の言う“人間として正しいことを貫く”と同じ意味だと稲盛塾長は気が付きました。 

“人間として正しいこと”とは、西郷の言う“天”のことであり、西郷は“敬天”という言葉を通じて、“天”が指し示す正しい道を実践していくことの大切さを説いていました。 

京セラグループは今、一兆五千億円の売上を誇るメーカーに成長しました。世界中に多くの工場を持ち、七万人を超える従業員を抱える規模になっていますが、創業当時に決めた“人間として正しいことを貫く”ということ、西郷が言う“天道”を踏みつつ経営するという方針は一切変わっていないそうです。 

現在、世界中に展開する京セラの事業所すべてに社是として“敬天愛人”という言葉が掲げられています。京セラ経営の中心に西郷南洲の思想が存在しているのです。 

一般には経営には経営戦略、戦術が必要だと言われています。しかし京セラでは“人間として正しいことを貫く”というシンプルな経営姿勢を守り続けてきました。 

昨今の産業界における不祥事の続発を見ますと、“人間として正しいことを貫く”という原理原則の大切さを改めて思います。経営の手練手管や策に溺れたリーダーが経営に当たっているために、今なお多くの不祥事が起こっています。 

問題が起きるたびに、日本においても、米国その他の海外おいても、法律や制度の整備を進めることによって不祥事を防止しようという議論が起こっています。そうした取り組みも必要ですが、いくらそのようなことに努めても、リーダーが自分の利益を増大させるためには何をしても構わないという思いを少しでも持っている限り、不祥事は根絶されません。 

天に恥じない経営をするという点を徹底していくことでしか、不祥事を未然に防ぐことができないのです。“敬天の思想が必要なのです。 

従業員の幸福を追求する経営理念

“敬天愛人の“愛人”、つまり多くの人々を愛するということは、経営にとって大切なことです。 

京セラ創業三年目の時でした。前年に採用した十一名の高卒の社員たちが突然やってきて、“将来が不安だから昇給や賞与等、将来にわたる待遇を保証してくれ”と迫ってきました。 

“京セラできたばかりの会社だから、みんなで力を合わせて立派な会社にしていこうと話したではないか”といくら話しても納得してくれません。 

“将来を保証してくれなければ、今日限りでみんなで辞める”と一点張りです。 

稲盛塾長は、自宅である市営住宅に彼らを連れて帰り、三日三晩にわたり話し続けました。 

“ボーナスはこうする、昇給はこうするという約束は私にはできない。私自身にも会社の将来がわからないのだから、約束すること自体が嘘になる。しかし私は、誰よりも必死になってこの会社を守るために頑張っていこうと思う。きっと立派な会社にして、君たちの生活がうまくいくようにしてあげたいと強く願っている。その私の誠意を信じて欲しい。もし私が信頼を踏みにじるようなことがあったら、その時は私を殺してもいい。” 

このように話した結果、一人、また一人と少しずつ受け入れてくれるものが増えていき、最後に全員が納得してくれました。ホットしたものの、経営とはこんなにばかばかしいものかと思いました。 

稲盛家は、空襲で家も印刷業の機械設備も全てをなくしていたのです。七人の子供を抱えて、両親は自分の着物売り、七人の子供を食べさせてくれました。家族の支援をしなければならないのに、縁もゆかりもない人たちの生活の面倒を、生涯にわたり見ることになってしまったのです。自分の家族の面倒も見られないのに、社員の将来にわたっての面倒を見る約束をしなければならないことに“経営とはなんと過酷なことよ”と思いました。 

京セラは“稲盛和夫の技術を世に問う”ために作っていただいた会社です。以前勤めていた松風工業では、稲盛塾長の研究や技術を十分認めてくれませんでした。新しい会社では誰に遠慮することなく、稲盛塾長の技術を世に問うことができると思っていたのです。こうした技術者としての私的な願望が京セラ設立の目的だったのです。 

ところが、社員の反乱で、こうした私的な目的は一瞬にして吹っ飛んでしまいました。技術者としての理想を掲げた会社の目的がついえ去り、社員の生活を守るという目的に変貌してしまいました。“会社というものはその中に住む従業員に喜んでもらうことが真の目的であり、もっとも大切な事なのだ”ということを心から理解することができたのでした。 

翌日、“全従業員の物心両面の幸福を追求する。人類、社会の進歩発展に貢献する”という経営理念が生まれました。 

“敬天愛人”の“愛人”とは、こういうことなのかと理解することができたのでした。 

トップに欠かせない自己犠牲の精神

京セラが上場してから、しばらく経った時でした。庄内藩であった山形県酒田市在住の方が、鹿児島出身の青年が京都で会社を起こし、立派な会社に育てあげたということを伝え聞いて、訪ねてこられました。 

“山形県の庄内地方では、今も多くの人が西郷南洲を敬愛しています。西郷南洲の思想をまとめた“南洲翁遺訓(おういくん)集”を編纂したのは薩摩の人たちではなく、庄内藩の人たちです。その遺訓集をあなたに差し上げたいと思い、山形から出てきました” 

明治維新の時に西郷南洲が庄内地方に行った時に、庄内藩の侍たちに、いろいろなことを教えたのです。庄内藩の方々は西郷を敬愛し、多くの庄内藩の若い侍たちが薩摩藩まで来てくれて、直に西郷南洲の思想哲学に触れていったのです。 

南洲翁遺訓集の中には“リーダーのあるべき姿”が見事に語り尽くされています。“政府にあって国の政(まつりごと)をするという事は、天地自然の道を行うことであるから、たとえわずかであっても私心を差し挟んではならない。だからどんなことがあっても心を公平に堅く持ち、正しい道を踏み、広く賢明な人を選んで、その職務に忠実に耐えることのできる人に政権を取らせることこそ天意、すなわち神の心にかなうものである”と述べられています。 

トップに立つものは、天道を踏み行うものであって、少しでも私心を挟んではならない。利己または自分を大切にする思いを挟んではならない、と西郷南洲は述べています。 

当時の京セラは、成長発展を重ね、少し立派になってきていました。しかし稲盛塾長は不安で、いつ何時倒産の危機に瀕(ひん)するかもしれない、従業員を路頭に迷わせることがあってはならない、と思い、必死に仕事に励んでいました。 

100%会社経営に没頭していました。“個人の時間は一切無い”と思っていました。 

会社であれ、どんな団体でも、組織があります。その組織は、本来、意志も意識も持っていない無生物です。しかし組織のトップに立つ人間がその無生物である組織に意識を、いわば生命を吹き込みますと、その無生物である組織は、生物のように活動を始めます。 

組織のトップが四六時中、組織のことを考えている間は、その組織は意識を持っています。しかしトップが個人に返ってしまう時、組織の意識はなくなり、無生物となってしまいます。 

個人に返る時がなければ、人間は生きてはいけません。そこでなるべく私個人としての自分になる時間、個人になる時間を少なくし、トップとしての意識を働かされている時間を多くとるようにする。自分自身のことを犠牲にしてでも会社のことに集中する。それがトップの義務なのです。常に組織に思いを馳せることができる人、自己犠牲をいとわない人でなければ、トップになってはならないのです。 

リーダーはすべての損を引き受ける勇気を持て

いつどんな弾みで会社が潰れるかもしれない。そうした危機感がわき目もふらずに一生懸命、誰にも負けない努力を重ねる原動力となり、京セラはだんだんと大きくなっていきました。 

しかし一旦会社が成長発展して、周囲からも賞賛されるようになりますと、いつ何時倒産するかもしれないという危機感が薄れ、経営者は油断をしてしまい、往々にして会社をダメにしてしまいます。 

京セラは一九七一年に、大阪証券取引所に上場したときに、額面五十円の株券に五百九十円の初値が付きました。上場にあたっては、創業者が自分の持つ株式を売り出し、キャピタルゲインを得ることが一般的でした。しかし稲盛塾長は一株たりとも自分の株を市場に売る事はしませんでした。ですから京セラの株式を売り出して得たキャピタルゲインは、すべて会社に入りました。京セラは資本金が増え、財務的に豊かになりました。その資金をもとにさらに投資を行い、事業をさらに発展させていくことができました。 

会社がうまくいけば、多くの経営者はすぐに有頂天になります。自分の力で成功したのだと驕(おご)るようになり、やがて没落していきます。成功を遂げた時こそ、“謙虚にして驕らず”ということが大切なのです。 

西郷南洲は遺訓集の中で説いています。

“自分を愛すること、すなわち自分さえよければ人はどうでもいいというような心は、最も良くないことである。修行のできないのも、事業に成功しないのも、過ちを改めることができないのも、自分の功績を誇り高ぶるのも、自分を愛することから生ずることであり、決してそういう利己的なことをしてはならない。” 

“自分が一生懸命に頑張って、また自分の才覚によって会社を発展させた。全ては自分の才覚の賜物だ。だからその報酬は自分が受けて当然だ。”そのように経営者が自分の才を誇るようになってしまうと、会社がダメになっていきます。“謙虚にして驕らず”というように、自分自身を戒めることが大切です。 

中国の古典に“謙のみ福を受く”という言葉があります。謙虚でなければ、長く幸福を獲得することはできないのです。 

西郷南洲の思想には“無私”という考え方が一貫して流れています。公平に心を操り、自分自身をなくす。 

一般的に、上に立てば立つほど人は自分を大事にしてしまいます。大勢の人と協力し、苦労を重ね成功を収めたものの、出世していくにつれ保身に走り、自分を優先するようになってしまうことが往々にしてあります。 

人が偉くなればなるほど、率先して自己犠牲を払わなければなりません。自分のことはさておき、自分が損を引き受けるというような勇気がなければ、上に立ってはならない。上に立つ資格がないと思います。自己犠牲を払う勇気のある人が上に立てば、その下に住む人たちは幸せになります。 

混迷する世相を救うリーダー像

西郷南洲遺訓集の三十番目に、私心をなくすことがリーダーにとって最も重要な要諦だと説いています。 

“命もいらぬ、名もいらぬ、官位もいらぬ、金もいらぬ、というような人は処理に困るものである。このような手に負えない大人物でなければ、国難を一緒に分かち合い、国家の大きな仕事を大成することはできない。” 

現代社会の混迷の原因は、“命もいらず、名もいらず、官位も金もいらず、という始末に困る人”そうしたトップが各界におり、それを実践している人がなかなか見当たらないことにあると思われます。 

立派な人格、立派な人間性を持った人、つまり自分というものを捨ててでも、世のため人のために尽くせるような人がリーダーとして求められています。 

無私の精神を持って挑んだ電気通信事業

無私の心、純粋な心を持ったリーダーは、目の前の利害得失で物事を判断したり、一時的な目的を遂げるために策略を用いたりする事は決してありません。

西郷南洲は説いています。

“どんなに大きい事でも、またどんなに小さい事でも、真心を尽くし、決して偽りの謀(はかりごと)を用いてはならない。人は多くの場合、あることに差し支えることができますと、何か計略を使って一度その差し支えを押し通せば、後は時に応じて何とかいい工夫ができるかのように思うが、計略したために心配事がきっと出てきて、そのことは失敗するに決まっている。正しい道を踏んで行う事は、目の前では回り道をしているようではあるが、先に行けばかえって成功は早いものである。” 

策を弄(ろう)することを西郷は厳しく戒めているのです。 

第二電電設立の時のことです。

明治以来、電電公社が独占していた日本の通信料金は、世界各国に比べて、大変高いものでした。情報化社会が到来すると言われながら、世界一高い通信料金がその妨げになっていると考えられ、電電公社を民営化し、電気通信事業への新規参入を可能にする方向へと、政府の方針が変わりました。 

官業として運営されてきた電電公社(民営化したNTT)はあまりに強大で、どの大企業も一向に名乗りを上げようとしません。このままでは独占体制は続き、通信料金は一向に安くなりません。 

京セラは一中堅企業に過ぎませんが、またまったくの素人ですが、第二電電を立ち上げることを決めました。この名乗りを上げる前六ヶ月間、毎晩自問自答を繰り返しました。

“その動機は善なのか。そこに私心はないか。お前がいい格好をしたいがために、また金儲けをしたいがために、第二電電という会社を始めようとしているのではないか。” 

“動機善なりや、私心なかりしか”と自問自答を六ヶ月間したのでした。その結果、稲盛塾長は“一切の私心がない。動機も不純なものではない。日本が情報化時代を迎えるにあたり、通信料金を安くしてあげたい、ただその一点だけだ。”と確認してから、稲盛塾長は第二電電の名乗りを上げました。 

国鉄を中心とした日本テレコムは、すでに鉄道通信という組織があり、東京-名古屋-大阪の長距離通信幹線の整備も、新幹線の側溝沿いに光ファイバーを敷きさえすれば簡単にできます。 

建設省と道路公団を中心としたグループは、東京-名古屋-大阪の高速道路沿いに光ファイバーを敷きさえすれば、簡単に長距離通信のインフラができます。 

ところが第二電電は何のインフラも持っていません。ただ単純な気持ちだけで手を上げたに過ぎません。 

第二電電はやむなく無線によるネットワーク構築を決意しました。他の二社が新幹線沿いに、また高速道路沿いに光ファイバーを簡単に敷いているときに、第二電電は山の頂上に大きなパラボラアンテナを設置するため、夏はヤブ蚊に悩まされ、冬は降りしきる雪の中を悪戦苦闘しながら、幹線網を立ち上げていきました。 

東京から大阪まで、山の峰から峰へ鉄塔を立てて、その先に大きなパラボラアンテナを立てて、無線で中継するようにしたのですが、それは大変な作業でした。 

その新電電で生き残っているのは第二電電だけです。売上高五兆円に迫る通信会社KDDIとして隆々と栄えています。 

あまりにも難しい事業だと皆が足踏みし、逡巡します。その時に“世のため人のために”という純粋な思いを信念に高め、ただ懸命に努力を重ねた企業だけが成功したのです。 

純粋で美しい思いが勝利を導く

優秀な人材を多数揃えた大企業が難しいと逡巡している事業に、何の備えもない京セラのような中堅企業が信念だけで乗り出し、失敗するだろうと言われる中、スイスイと成功を収めてしまった。 

純粋で気高い思いには、素晴らしいパワーが秘められていると言うことです。二十世紀にイギリスで活躍した思想家、ジェームス・アレンが、その著書“原因と結果の法則”で次のように言っています。 

“汚れた人間が敗北を恐れて踏み込もうとしない場所にも、清らかな人間は平気で足を踏み入れ、いとも簡単に勝利を手にしてしまうことが少なくありません。” 

十九世紀に活躍した西郷南洲は、“策を弄してはならない、正道を踏んでいくことは一見迂遠(うえん)であるかのように見えるけれども、それは成功するための近道なのだ”と説いています。 

第二電電が上場を果たそうとしたときのことです。創業時から稲盛塾長と一緒に歩んできた人たちみんなに、第二電電の株式を持ってもらいました。創業者、稲盛塾長は一株も第二電電の株式を持ちませんでした。 

公認会計士、宮村久治先生から“あなたは“動機善なりや、私心なかりしか”と自らに問うて創業したはずです。つまり、動機が善であり、私心がないということが、創業の精神なはずです。第二電電の株は一株も持たない方がいいと思います”と言われました。 

日本航空再建の時も同様です。日本航空はフィロソフィーによる意識改革、アメーバ経営による組織改革によって、それまでの官僚的な企業文化が一変しました。 

一人ひとりの従業員が自主的に自分の会社を少しでも良くしようと、懸命の努力を重ねてくれるようになったことが、再建を果たすことができた大きな要因でした。 

再建に当たった稲盛塾長の無私の姿勢も、大きな再建成功の要因だと思われます。八十歳を前にした老人が、我々のために無給で懸命に働いてくれている。それならば社員は、それ以上に全力を尽くさなくてはならない。 

日本航空再建の大義がありました。

  1. 日本経済再生
  2. 社員の雇用を守る
  3. 飛行機を利用する国民の利便性を図る

このような大義があったからこそ、日本航空再建の仕事を稲盛塾長が引き受けたのでした。 

こうした無私の姿勢で再建に取り組まれたのは、“世のため人のために役立つことが人間として最高の行為である”という確固とした人生観を持たれているからです。 

自分の生き方を魂に染み込ませる

物事を知っているだけでは意味がありません。“知っていること”と“実行できること”は全く違います。知識として得たものは、それが魂の叫びにまで高まっていなければ、決して実践することはできません。 

“自分はこういう生き方をしたいのだ”と自分自身の魂に繰り返し繰り返し訴え、自らの想いを魂に染み込ませていくことは、私たち凡人にも可能なはずです。