盛和塾 読後感想文 第105号

新しい計画を成就する

人間の持つ“思い”がいかに大切かということを深く心に留めておくことが、新しい計画や目標を達成する為には、必要なのです。 

“新しい計画の成就には、ただ不屈不撓(ふくつふとう)の一心にあり。さらばひたむきにただ想え。気高く強く一筋に。” 

新しい計画の成功を望むならば、どんなことがあろうとも決してあきらめずにただひた向きに気高く、強烈に思い描き続けることが大切であり、そうすればどんなに難しい目標であろうとも必ず成就できるのです。 

人間の“思い”にはものごとを成就させる力があるのです。特にその“思い”が気高く美しく純粋で一筋なものであるなら、最大のパワーを発揮して困難と思われた計画や目標も必ず実現させてくれるのです。

 日本航空の再建 及び日本の再生について

 日本航空の再建 

  1. 採算意識を持つ

日本航空再建を引き受け、会長に就任した稲盛塾長は、JALの社員、経営陣が、自分の会社が“倒産した”という実感があまりなかったようです。倒産した企業には倒産した原因があったはずです。それは中に住むリーダーもしくは全従業員の意識に問題があったのです。JAL社員の方々の“倒産した”という意識が非常に希薄でした。債権者と事前協議しながら、飛行機を飛ばし続けて再生するという形であったため、“会社が潰れた”という実感が幹部にも会社全体にもありませんでした。幹部社員に“JALは倒産したのですよ、本来ならば全社員が職を失くし、路頭に迷わなければならない”、と稲盛塾長は話したそうです。 

JALの幹部社員は再建に向けて、リーダーとして強烈な願望と責任感、または使命感というものを持ってもらわなくてはなりません。 

リーダー教育を実施しました。経営幹部50名ほどに定時後、休日に集中的にリーダー教育を実施し、どういう使命感を持ち、どういう意識を持つべきかを説きました。 

航空運輸事業は安全でなければ成り立ちません。しかしその安全を維持していく為には、企業が充分な収益を上げて、良い経営ができているという前提があってはじめて安全が守られ、社員の雇用も確保されるのです。 

経営には会計学をはじめ、経営全般についての知識が必要です。営業や整備など、各部署のJALの幹部たちが、損益計算書や貸借対照表をみられるようになってもらわなくてはなりません。その中で大切なことは、売上を最大に、経費を最小にするということです。 

  1. 善悪を判断基準にする

非常に判断の難しい事業運営をやっていくときに、リーダーは善悪で判断しなければなりません。善悪とは自分の会社にとって、また自分自身にとって善いか悪いかではなく、“人間として善いか悪いか”という判断基準に基づき、経営判断をすることを真のリーダーは身に付けていなければなりません。リーダーは己を捨てて、集団のために、社会のために、国のために、常に善悪で判断できるという純粋な心を持った人でなければなりません。 

“人をだましてはいけない”“嘘をついてはいけない”等、プリミティブな倫理観を子供の頃に大人から教えられて育ちました。そうした倫理観を幼稚な教えだと思い、実践しようとしません。こうした幼稚な倫理観を守らなければならないにも関わらず、経営の最高幹部が蔑ろにして経営判断を誤ることが多いのです。 

  1. 不屈不撓(ふくつふとう)の一心で計画を成就する

JALでは“業績発表会”という月例会議が始まりました。営業や整備等、各部の責任者が売上をどのように伸ばし、経費の無駄をどのように削減してきたかということを、月例会で説明してもらうのです。社員が一生懸命に業績を説明してくれるようになりました。“一生懸命がんばってほしい。現在、企業再生支援機構による再生計画が組まれていますが、その計画を着実に実行する。それ以上の実績を上げていくようにがんばろう”と稲盛塾長は社員に語りかけました。 

ヨガの達人、中村天風さんの言葉

新しき計画の成就は只不屈不撓(ふくつふとう)の一心にあり。さらば、ひたむきに只想え、気高く強く一筋に 

日本航空社員三万五千人を守っていかなければならない。そういう新しい計画を成就するのは、ただ不屈不撓の一心である。ひたむきにただ気高く強く一筋にと思い続けることが何よりも大切です。その思いというものが計画を成就させるのだということを述べています。 

  1. 究極のサービス産業を目指す

稲盛塾長はJALの各職場にも出向いて現場の社員に直接語りかけました。皆がそれぞれの飛行機に乗って世界各地を飛び回っていますので、一堂に会することはできません。勤務が終わって搭乗員の方々に“皆さんが最前線でお客様に接しているわけですから、お客様を大切にする皆さんのおもてなしの心が最も重要になっています。ぜひ、感謝とおもてなしの心で接遇(せつぐう)していただきたい。お客様の心をつかむのは、それしかないのです。幹部社員がいくら威儀を正してものを言ったところで、意味はありません。お客様から“あの人たちが働いているから、あの飛行機に乗りたい”と思っていただけるような、そういう接遇(せつぐう)をしていただきたい“と話しかけました。 

パイロットの方々にも語りかけました。

“通り一辺のアナウンスをするだけではなく、お客様に対する心からの感謝の言葉をアナウンスして頂きたい。さすがJALは違う、と言われるような会社にしてほしい” 

こうした結果、お客様からパイロットや搭乗員に対して感謝の便りが届くようになってきました。 

  1. 部門別採算の導入へ

2010年の4月から12月までを合算しました損益は売上一兆八百八十八億円、営業利益が一千五百八十六億円でした。更生計画で見込んでいた利益を八百億円上回るすばらしい業績が出ました。 

JAL社員の努力と為替レートが円高で推移したこと、また燃料費が抑制されたことも追い風になったのです。同時に会社更生法の適用を受けて減価償却費など経費削減も進み、資産売却を行ったことで損益計算書の上で良い数字が出来るような体制になっていた恩恵を受けることができたのです。 

一方、路線別の採算を詳しく見て行く必要があると考えており、目下路線別の収益が見えるような経営を目指しています。それぞれ部門別の採算を細かく見ていくアメーバ経営という経営管理手法を独自に考えております。JALでも路線ごとに収益が見え、そしてそれをコントロールして経営できるような部門別採算の仕組みを構築して、2011年4月からは幹部社員が路線毎に経営の舵取りができるようにしたいと考えています。 

しかし忘れてはならないのは、金融機関の方々には巨額な債権放棄をしていただいたこと、従業員に整理解雇をお願いしたことです。今日のJALはこうした犠牲の上にあることも忘れてはなりません。 

  1. JALの企業理念とフィロソフィー

JALの経営陣、社員の意識改革が進むなかで、JALフィロソフィーができあがりました。 

JALグループは全社員の物心両面の幸福を追求し、

一.お客様に最高のサービスを提供します

一.企業価値を高め、社会の進歩発展に貢献します

JALフィロソフィーを社員みんなが共有し、一丸となってベクトルを揃えることで、今までにない強固なJALとして再生できるのではないかと稲盛塾長は述べています。

添付のものがJALフィロソフィーの目次です。         

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日本経済再生へ向けて

現在、日本経済は低迷しています。今まで安住していた日本企業が海外企業から挑戦されるようになってきました。

サムソン、LGに代表されるように、韓国産業界はたいへんな躍進を遂げています。中国の産業界も発展しています。しかも日本は人口減に直面しています。

日本経済の低迷も産業界のリーダーの“自分の企業はこうするんだ”という強い思い、つまりどんな問題があろうともそれを跳ね飛ばして不屈不撓の一心で会社を立派にしようとする思いが欠落していたことに起因しているのではないのでしょうか。

明治維新の時代、国力が充分でなかったにも関わらず、欧米列強に伍していく近代国家を何としても建設しなければならないという一心で、日本は近代化を成し遂げました。

第二次世界大戦の敗戦により、日本全土が焦土と化しましたが、その中から多くの我々日本人の先輩が立ち上がってくれ、多くの中小企業をつくっていきました。お金も、技術も、何もない中で、徒手空拳で立ち上がって奇跡といわれる戦後日本経済を復興させました。

しかし、バブル経済崩壊の後、日本経済リーダーは日本経済再生の為、“不屈不撓の一心”に欠けていたと思われます。JAL再建のプロジェクトもそのJAL経営陣が“不屈不撓の一心”に欠けていたために、発生したものです。

日本再生の為に、日本企業が勇気を持って、私心を離れて大同団結を図るべき時にきています。グローバルに展開できる強い企業群が続々と誕生していくべきなのです。もし経済界がそのように目覚めれば、政治の世界でも若者の間でも、視野が広がり、日本の未来を想像していく、すばらしい力になると思われます。

盛和塾 読後感想文 第104号

毎日を“ど真剣”に生きなくてはならない

一度きりの人生を真摯な姿勢で“ど”がつくほど真剣に生き抜いていく。そのたゆまぬ継続が人生を好転させ、高邁(こうまい)な人格を育(はぐく)み、生まれ持った魂を美しく磨き上げていきます。 

今日一日は一体何をするのか、どういう仕事をするのか、準備は充分か、仕事のはじめから気を引き締めてスタートラインに着く。一生懸命に仕事に打ち込む。一日の終わりには、仕事は計画通りに進んだか、道具、机の整理整頓は済ませたか。同僚との共同作業はどうだったのか。明日への準備は整っているかを反省する。 

こうした一日一日を丁寧(ていねい)に点検することを習慣にすることが大切です。一歩一歩継続していくことが人生を豊かにし、人格を磨いていくことにつながります。 

日本航空の現状と課題 

日本航空を再建する三つの大意

稲盛塾長は日本航空と企業再生支援機構からの要請を受け、再建の仕事を引き受けられました。その時、何故引き受けるのか、熟慮されました。家族からも友人からも、大反対されました。しかし、悩んだ末、“世のため人のために役立つことが人間として最高の行為である”という人生哲学が稲盛塾長を動かしたのでした。再建の仕事を引き受けた理由は三つありました。 

  1. 日本経済への影響

日本航空は日本を代表する企業です。その日本航空が倒産し、さらに再建不可能となって二次破綻でもすれば、日本経済への影響はたいへん大きなものになります。日本経済の活力を甦(よみがえ)らせるためにも、日本航空は何としても再建しなければならない。 

  1. 日本航空の社員のため

倒産をしてしまった結果、多くの社員に辞めてもらわなければならなくなりました。それでも三万人の従業員が残っています。その社員の雇用を守っていくことが第二の理由でした。 

  1. 国民へのサービス

日本航空が倒産すれば、日本の航空業界は一社だけとなります。大手航空会社が一社だけになれば、独占状態となり、競争原理がなくなります。その結果、航空運賃は高止まりし、サービスも悪くなっていくだろうと思われました。健全な競争があってはじめて正しい経営が行われ、国民のメリットになります。 

以上三つの意義・大善があると考えられ、稲盛塾長は日本航空の仕事を引き受けたのでした。 

フィロソフィーの浸透と意識改革

稲盛塾長は2011年2月に会長に就任し、日本航空で仕事を開始しました。着任して見ますと、いろいろな問題に驚かれました。 

  • 民間企業は実績数字をベースに経営していかなければなりません。ところがその数字が数ヶ月遅れでしか出てこない
  • 経営幹部の方々でさえ、採算意識が希薄で、誰がどの部門の収益に責任があるのか明確になっていません
  • 本社と現場、企画部門と現場部門、経営幹部と一般社員がバラバラで、一体感がありません 

倒産したという意識もなく、再建に向けて一致団結して死に物狂いでがんばろうという熱意もありませんでした。 

企業再生支援機構が中心で作成した路線の見直し、人員削減などのリストラ案について、具体策を決めていかなければなりません。その為、連日のように早朝から夜遅くまで会議が続きました。 

その会議の中では、数字の裏付けのない議論や、単に過去の慣例を踏襲(とうしゅう)しようと意見、自己弁護に終始したり、結論を先送りにしようという議論が出て来ました。 

企業再生支援機構から派遣された管財人の方々が中心となり、作成された再生計画が出来上がりましたが、再生計画が実行に移されなければ、絵に描いた餅では意味がありません。 

連日の会議で、日本航空の幹部も経営に対する意識が少しずつ変わってきました。しかし、元々官僚的で、ある意味で無責任な体質がある会社です。そう簡単に変われるわけがありません。しかし再生計画を実行するのは、日本航空の幹部社員です。頼りない幹部社員がはたしてこの再生計画を実行していけるのかと稲盛塾長は思われたと思います。しかし実行するのはこの幹部社員なのです。そうであるなら、彼等に立派なリーダーになってもらうしか方法はないのです。その為、幹部社員50名を集め、六月から一ヶ月間にわたり、リーダー教育と称した徹底的な教育を行いました。 

経営者としてのあり方や、経営をするために必要な会計の考え方などを中心にしたリーダー教育でした。 

  • 現場の状況を数字で把握できるようにならなければならない
  • 経営の要諦は売上最大、経費最小にあり、リーダーは率先して実行していかなければならない
  • リーダーは部下から尊敬されるような素晴らしい人間性をもつと同時に、立てた目標はどのような環境の変化があってもそれを達成しようとする強い意志、強い熱意を持っていなければならない 

リーダー教育は毎週四回、合計十七回行いました。稲盛塾長も六回ほど出席し、直接講義をすると同時に、一緒に酒を酌み交わし、議論をしたそうです。 

この教育の結果、幹部社員の経営意識が変わりはじめ、目の色が明らかに変わって来たと同時に、同じ教育を受けた仲間としての一体感が生まれました。 

しかしこのような座学、机に向かっただけの教育だけでは本当のリーダーにはなれません。学んだことを現場で生かすことで、リーダーとして成長ができるのです。この七月から“業績発表会”という月例会議が始まりました。 

航空輸送業はサービス産業です。実際にお客様と接している社員や、チケットを販売している社員の意識も変わってもらわなければなりません。また安全確保のために日夜奮闘している整備の方々、裏方として荷役などの作業をして日本航空を底辺で支えている方々の意識も変わってもらわなければなりません。 

七月から稲盛塾長は現場回りをしたのです。社員の方々に直接話をしました。たいへんなリストラをして辞めてもらわなくてはならない人たちが出てしまいます。お詫びしました。“安全確保のためにも、お客様へのサービス向上のためにも、現場で働く皆さんが最も大切なのだ。厳しい状況は続くけれども、頑張ってほしい”“日本航空の経営の目的は全従業員の物心両面の幸福を追求することなので、今度は二度とリストラをすることなく全社員が生き生きと働けるような会社にしたい。その為に更生計画を着実に実行し、財務体質を改善していかなければならない。ぜひ協力してほしい。必死になって再建しましょう。”と話されました。 

頼りない幹部社員に対しても、決してあきらめずに、必死に教育していく稲盛塾長。自分の手元にある人や物を何とかして生かそうとする、しかも、教育したリーダーがその教育された内容を実際の経営に生かすようにシステムを作り出しているのです。 

それのみならず、現場の方々にも、自ら現場に出かけ、話しかけていきました。それも現場の方々が理解できるよう再生計画の目的を説明し、協力を依頼して回ったのです。 

八月には“新しき計画の成就はただ不屈不撓(ふくつふとう)の一心にあり、さらばひたむきにただ想え、気高く強く一筋に”を標語にして、ポスターにして各現場に掲示し、社内報の表紙にも掲げました。この更生計画を達成する為には、どのような環境の変化があろうともそれを言い訳にすることなく、社員全員が強く、気高い思いで、目標達成に向けて必死の努力を重ねる以外はないという意味を全社員に伝えました。 

業績改善への感謝の思い

稲盛塾長会長就任以来、11ヶ月が過ぎました。日本航空の雰囲気が大きく変わってきたのです。官僚的な体質も少しずつ払拭され、更生計画を着実に実行できるようなビジネス感覚をもったリーダーも育ってきました。何よりも全社員が同じ思いで経営改善に一生懸命に取り組んでいます。 

                             2010年4月~9月    2009年10月~2010年3月

収入                       7,665億円              7,639億円

営業利益(損失)          1,096億円              (957億円)

 

なんと約2千億円の改善でした。これは債権者の方々や盛和塾の皆さんの支援があり、日本航空社員の大きな励みになりました。 

更に円高により、燃油などのコストが下っています。これも再建に大きく貢献しています。そして何よりもリストラに協力していただいた多くの社員の方々、“売上最大、経費最小”のために各職場で懸命に努力をしていただいた方々など、この厳しい経済環境のなか、必死になって日本航空再建のために努力を重ねてくれた全ての社員のおかげなのです。 

航空産業型“アメーバ経営”の導入

経営体質を強化するために重要なことは、経営実績の詳細がリアルタイムでわかるようなシステムを作り、その数字をベースにして全員でいかに経営を改善していくかを考え、創意工夫をしていくことです。 

当初、日本航空にはそのような仕組みも、またどの便が収益を上げているのかわかるようなシステムはありませんでした。稲盛塾長は部門別採算制度を導入し、航空事業の収益源である各路線の採算がほぼリアルタイムでわかるような管理会計システムを構築する予定です。つまり、すべての路線の、また路線ごとの収支が翌朝にはわかるような仕組みを作り、路線別の経営責任者を決め、その責任者が中心となり、あがってきたデータをみながら各路線の収益性を高めるための創意工夫を重ねていく。 

整備や空港窓口などの直接売上をあげない部門でも、組織を小集団に分け、それぞれの部門で経費を細かく管理できるようにする。この場合、経費の明細を全員で共有して、無駄はないか、もう少し効率的な方法はないか、全員で知恵を出し合い、全員で経営改善に取り組めるようにしようとしています。

経営内容と社員の質で世界トップのエアラインに

現在、たいへん厳しい経済環境のなか、忍耐強く日々一生懸命働いてくれている社員の方々が、近い将来“日本航空で働いて本当によかった”と心から思ってくれる会社にしたいと思っていると、稲盛塾長は述べています。そのような社員が働いてくれるならば、必ずや安全性もさらに高まり、サービスも向上し、日本航空は規模ではなくその経営内容で、また社員意識のレベルの高さでも世界トップクラスのエアラインになれるはずです。

盛和塾 読後感想文 第103号

“経営の原点十二ヶ条”その力を信じ、よく理解し、実践する

本年6月に開催された“経営哲学北京報告会”では“なぜ経営に哲学が必要か”ということを話しました。経営にはフィロソフィーが不可欠であり、そのためにも経営者自身が心を高め続けなければなりません。

 

“哲学こそが経営や事業の成否を決するのであり、自分の会社を立派にし、従業員も幸福にしたいと思うならば、トップである経営者が自分の考え方を高めていく必要がある”というのが前回の講演の趣旨でした。

 

今回は、哲学をどのようにして経営や事業の中で実践していくのか、という実践的な経営の原理原則を十二の項目に分けて解説します。

 

経営には複雑な要素が絡み合い、難しく見えます。しかしことの本質に目を向けるとむしろシンプルなものではないかと考えられます。世の様々な現象も、複雑な現象を複雑なままでとらえようとするから、かえって難しくなってしまいます。

 

経営も同様に、その要諦、つまり原理原則さえ会得すれば、決して難しいものではないのです。フォーチューン五百社に数えられる京セラ、KDDIの経営において稲盛塾長が実践し、その有効性を証明してきました。中国であれ日本であれ、その経営の要諦は、経営の原理原則は、国や地域によって変わるものではありません。なぜなら、“経営の原点十二ヶ条”は“人間として何が正しいか”という最もベーシックな判断基準に基づいているからです。そのような普遍的な哲学、フィロソフィーは、国境や民族、文化、言語の違いを超えることができると考えられるからです。

 

“経営の原点十二ヶ条”の項目は決して難しいことを説いているのではありません。その有効性と普遍性が既に実証された、まさに経営の要諦であります。その力を信じ、よく理解し、実践していくことが、経営、事業を成功させるのです。

 

一.  事業の目的・意義を明確にする

-公明正大で大義名分のある高い目的を立てる-

“なぜこの事業を行うのか”“なぜこの会社が存在するのか”様々なケースがあります。まず自分の事業の目的、または意義を明確に示すことが必要です。

 

“金もうけをしたい”“家族を養わなければならない”という人もおられますが、それだけでは多くの従業員を糾合(きゅうごう)する目的としては、物足りないと思います。

 

事業の目的、意義はなるべく次元の高いものであるべきです。公明正大な目的でなければならないと考えられます。従業員に、懸命に働いてもらうとしますと、そこには“大義名分”がなければなりません。“自分はこの崇高な目的のために働く”という大義名分がありませんと、人間というものは一生懸命にはなれないのです。

 

京セラを作った時、まだ経営のあるべき姿を知らず、“自らのファインセラミックスの技術を活かして製品開発をし、それを世に問う場である。”と会社を位置づけていました。当時の日本は、技術力よりも、学歴や学閥などが尊ばれ、実力を正しく評価してもらえないような風潮がありました。稲盛塾長は最初に勤めた会社を退社し、京セラを作りました。新しい会社では“自分をファインセラミックスの技術を世界に問う”ことを目的としました。一人の技術者として研究者として磨き上げた自分の技術を遺憾(いかん)なく発揮できる場ができたと、大変喜んでいたのでした。

 

会社設立二年目に高卒十名ほどの新入社員を採用し、彼らが一年あまり働いてくれていた時でした。この高卒の十名が団体交渉を求めて、連判状を提出して来たのです。その書状には“将来にわたって昇給は最低いくらだすこと、ボーナスはいくらだすこと”という自分達の待遇保証を求めるものでした。

 

面接試験のときに“どのようなことをしてあげられるかは分からないが、一生懸命がんばって立派な企業にしたいと思っている。そういう企業に賭けて一緒に働いてみる気はないか”と話をして彼等は入社したのです。しかし入社一年目で“将来を保証してもらわなければ我々は会社を辞めたい”と言って来ました。

 

できたばかりの会社で人材に余裕がなく、入社後すぐに現場に配属し、ようやく戦力として活躍してくれている者たちであっただけに、本当のところ、辞められては会社はたいへん困ってしまいます。稲盛塾長はこの時、“彼等が要求に固執するようであるならばやむを得ない。創業の時点に戻ってやり直せばよい”と腹をくくりました。“要求は受けられない”と彼等に答えました。

 

会社設立三年しか経っておらず、彼等の要求を満たすことは不可能でした。彼等を引き止めるために、自信も見込みもないことを保証するのは、嘘をつくことになると考えました。三日三晩、小さな市営住宅で話し合いがもたれました。

 

“私は自分だけが経営者としてうまくいけばいいという考えは毛頭持っていない。入社した皆さんが心から良かったと思う企業にしていきたい。私は命を賭してもこの会社を守っていく。もし私がいいかげんな経営をし、私利私欲のために働くようなことがあったら、私を殺してもいい”と話しました。

 

三日三晩の話し合いで、彼等は要求を撤回し、会社に残って以前にも増して骨身を惜しまず働いてくれるようになりました。

 

この三日三晩の話し合いの中で、従業員も自分の家族を養っていく為に京セラで働いてくれている。だから待遇保証を求めているのだと理解しました。企業を経営するということの真の目的は、技術者の夢を実現するということではなく、ましてや経営者の私服を肥やし、豊かにするということではなく、現在はもちろん将来にわたって、従業員やその家族の生活を守っていくということだと稲盛塾長は気がついたのです。

 

経営とは経営者が持てる全能力を傾けて、従業員が物心両面で幸福になれるように最善を尽くすことであり、経営者の私心を離れた大義名分を企業は持たなくてはならないと悟ったのでした。

 

このように公明正大な事業の目的や意義であってこそ、従業員の心からの共感を勝ち取り、全面的な協力を得ることができるのです。また会社の目的に大義名分があってこそ、経営者自身も堂々と胸を張り、何の掣肘(せいちゅう)もなく、経営に全力投球ができるのです。

 

京セラでは“全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類・社会の発展に貢献すること”を経営理念としました。以来この経営理念をベースにして経営を進めてきたことが、その後の京セラの発展・成長をもたらしたのです。

 

この理念のすばらしい点は、経営の現場から、実践を通して生み出されたもので、あたかも製造工場で苦心を重ねてすばらしい製品を作るかのごとく、理念が作りだされたという事実です。

 

二.  具体的な目標を立てる

立てた目標は常に社員と共有する

企業の年間売上が現在百万ドルとして、来年は二百万ドルというように、具体的な数字で目標を明確に描くことです。売上高だけではなく、目標利益額まで含め、具体的で明確な目標を立てることです。大切なことは、製品、サービスの中身等も、時間的な計画も明らかにしておくことが大切です。

 

つまり、目標は会社全体の漠然とした数字ではなく、組織ごとに、ブレークダウンされたものでなければならないのです。つまり現場の最小単位の組織にいたるまで明確な目標数字があり、さらには一人ひとりの社員までもが明確な指針のもと、具体的な目標を持っているべきなのです。

 

また、それは一年間を通した通期の目標だけではなく、月次の目標として明確に設定すべきです。月々の目標が明確になれば、自ずから日々の目標も見えてくるはずなのです。このように従業員一人ひとりが日々自分の役割を明確に頑張り、それを果すことができるような明確な目標を設定しなければならないのです。

 

それぞれの従業員が着実に役割を果たし、それぞれの組織としても目標を達成していくことで、会社の目標も達成されることになっていきます。また日々の目標を達成してこそ、その積み重ねである月間や年間の経営目標も達成することが可能となります。

 

目標が明確であるということは、従業員の総力を結集することができるということなのです。もし目標が明確でなく、会社がどの方向に向かうのかを経営者が指し示すことができなければ、従業員はそれぞれ勝手な方向に向かい、持てる力が分散され、組織としての力を発揮することはできないのです。

 

多くの企業が長期の経営計画を立てています。経営の世界では、経営戦略に基づき、五ヶ年計画や十ヶ年計画といった中長期の経営計画を立案することが必要だと言われております。しかし、長期計画を立てても、なかなか達成できるものではありません。市場変動や予期せぬ不測の事態が発生し、計画自体が意味をなさないものになって、いずれ下方修正が必要になってしまったり、ついには計画を放棄せざるを得ないような事態が往々にして発生するのです。

 

反故(ほご)になるような計画であれば、むしろ立てないほうがいいのです。度重なる下方修正や、計画放棄を見せられれば、従業員は“どうせ達成しなくてもいいだろう”と高をくくり、いざ経営者が高い経営目標や長大な経営計画を掲げても、それに挑戦してくれなくなってしまうのです。

 

また長期計画においては、目標とする売上は達成できないにもかかわらず、経営目標や人員目標は計画通りに消化されて、経費の増大を招き、経営を圧迫する可能性があります。

 

三年先、五年先となりますと、誰も正確に予測できないのですが、一年先ぐらいならそうは狂わず読み切ることができます。そしてその一年間の経営計画を何が何でも達成するようにするのです。

 

今日一日を一生懸命に働くことによって明日が見えてくる。今月を一生懸命働くことによって来月が見えてくる。今年一年を一生懸命働くことによって来年が見えてくる、と考えて、日々、月々、そして年間の目標を達成すべく、懸命に努力を重ねていくのです。

 

三.  強烈な願望を心に抱く

心に描いた通りにものごとは成就します。“何としても目標を達成したい”という願望をどれくらい強く持つことができるかどうか、これが成功の鍵になってきます。

 

経営の課題に悩み、苦しみますのは経営者の常でありますが、寝ても覚めても四六時中、そのことだけを考え続けることができるかどうか、これが事業の成否を分ける分水嶺(ぶんすいれい)になります。“強烈な願望を心に抱く”とは潜在意識に透徹するほどの強く持続した願望を持つということなのです。

 

人間には顕在意識と潜在意識があります。顕在意識とは今目覚めている意識の事を言い、自在に駆使できるものです。潜在意識は、通常は意識化に沈み込んで表面には出て来ない、いわば、自分の意のままにコントロールできないものです。

 

この潜在意識の例として車の運転があります。習いたての頃は“右手でハンドルを持ち、左手でギアを操作し、右足でアクセルやブレーキを踏み込む”と自動車の操作を頭で理解し、つまり顕在意識を駆使して運転という行為に集中しています。

 

しかし、次第に慣れてきますと、自動車の操作など全く意識もせずに、考え事をしながらでも平気で運転しています。それは顕在意識で運転を繰り返すうちにそれで潜在意識に浸透し、無意識のうちに潜在意識が働いているからです。

 

潜在意識はよく繰り返し経験することで発生してきます。たとえば“売上をいくらにしたい”“利益はいくらにしたい”という目標を朝起きてから寝るまで、明けても暮れても四六時中考えるようにする。そのような強く持続した願望は、潜在意識に入って来ます、。

 

たとえば、新規事業を立ち上げないと四六時中考えています。その事業分野は今まで携(たずさ)わったことのない分野なので、専門の知識やノウハウを身につけた人材は社内にはおりません。しかし、どうしてもやりたいとやりたいと思い、毎日シュミレーションを繰り返していますと、やがてそれが潜在意識にまで浸透していきます。

 

ある会合で、隣で見ず知らずの人物が話している声が聞こえてきます。それはどうも自分がやりたい仕事に関係する分野のことであり、その人はその分野の技術者のようです。こうして見ず知らずの人に話しかけ、やがて入社してもらうことになり、一挙に新規事業が展開していくようなケースがよくあります。これは潜在意識があったから、隣の人の話が耳に入ってきたからです。

 

そのようになるためには、繰り返し繰り返し思い続けることがどうしても必要なのです。全身全霊を傾けて、顕在意識を働かせ続ける過程が必要なのです。案件を軽く受け流し、適当に処理しているような状態では、決して潜在意識にまで浸透してはいかず、火の燃えるような願望を持ち続けることでしか、潜在意識を活用することはできないのです。

 

目標が高ければ高いほど、それを実現していくには、強く持続した願望を抱き続けることが必要になってきます。

 

四.  誰にも負けない努力をする

地味な仕事を一歩一歩堅実に弛まぬ努力を続ける。成功への近道はない。努力こそが成功へ至る王道です。わずか半世紀ほどで、京セラが今日に至るまで成長発展を続けてきましたのもこの努力以外に理由はありません。ただ、京セラの努力は並大抵の努力ではなく、“誰にも負けない努力”でした。

 

“誰にも負けない”ということが肝心です。そのような努力がなければ決して企業を発展に導くことはできないのです。

 

京セラ創業時には、自前の資金も、満足な設備も、経営の実績や経験もなく、ただ唯一自分たちの払う努力は無尽蔵であろうと、夜を日に継いで、昼夜を分かたず仕事に励んだのでした。

 

しかし、毎日毎日いつ家に帰ったのか、いつ寝たのかわからないまで働くものですから、ついには社員がへたばってしまいました。“こんな無茶苦茶な働き方を続けていたのでは身体がもたない”という声が、従業員から出てきました。稲盛塾長も、全く不規則な生活で、睡眠時間は極端に短く、決まった時間に食事もとれるわけでなく、とてもこのような生活が長続きするわけがない、と思われました。

 

その時、幹部の人達を集め、次のような話をされました。

“私は会社経営がどういうものかを良く知らない。それはマラソンに例えられる長丁場のレースだろう。京セラの我々は、初めてマラソンに出場した素人集団のようなものだ。それも業界の最後発だから、遅れてスタートを切ったということになろう。すでに先発の大企業など先頭集団はコース半ばに差し掛かろうとしている。経験も技術もない素人ランナーが遅れて走りだしたのなら、むしろ最初から全力疾走で走ってみたい。“

 

“そんな無鉄砲なことでは体がもつはずがないと、皆さんは言うであろう。その通りかもしれない。百メートル走のスピードで、42.195キロメートルのフルマラソンを走り切れるわけがないというのは当然のことだ。しかし素人がゆっくり走ってみても、玄人のランナーとは勝負にならないのなら、たとえ最初だけでも全力で走ってみようではないか”京セラは従業員を説得し、創業以来“全力疾走”を続けてきました。1971年に株式市場に上場したときに、工場の空き地に全従業員を集めて次のように稲盛塾長は語りました。

 

“百メートル走のスピードでマラソンを走ったのでは、途中で倒れたり落伍するだろうと皆さんも私も思っていました。けれども勝ち目のない勝負をするよりも、短い期間でもいいから全力で勝負を挑んでみたいと思って走り始めたところが、いつのまにか、それが習い性になって、そのスピードを持続しながら今日まで走り続けることができた”

“すると、いつのまにか先を行くランナーたちがあまり早くないことに気がつき始めた。するとさらにスピードを増し、現在では第二集団を抜き去り、先頭集団を視野にとらえている。さあこの調子で先頭集団を追いかけようではないか”

 

この百メートル走のスピードでマラソンを駆け抜けるような努力が“誰にも負けない努力”なのです。

 

企業経営は競争です。競合企業が自分たち以上に努力をすれば、中途半端な努力では功(こう)を奏(そう)さず、企業は競争に敗れ、衰退していかざるを得ません。“私なりに努力をしています”という程度では、企業が伸びていくはずはありません。血で血を洗うような熾烈(しれつ)な企業間競争の中を勝ち抜き、成長発展を遂げていくには“誰にも負けない努力”でなければなりません。

 

もう一つ大事なことは、その“誰にも負けない努力”を日々絶え間なく、続けていかなければならないということです。どんなに偉大な仕事も地道な一歩一歩の弛まぬ努力の積み重ねからできているのです。

 

製造メーカーの場合、部品一個が五円や十円という安価な商売ですから、下請けの仕事でもあり、こんな下請けの仕事を一生懸命つくっていたところで、会社が発展するはずがない、と思いがちです。しかし大企業になり、今も成長・発展している企業の歴史を見ますと、必ずそのような小さな事業を積み重ねながら、地味な努力をたゆまず続けてきたという事実を見出すはずです。

 

企業発展の要諦は決して難しいことではありません。地味な仕事を一歩一歩堅実に“誰にも負けない努力”を営々と弛(たゆ)まず続けることです。

 

五.  売上を最大限に伸ばし、経費を最小限に抑える

入るを計って出ずるを制する。利益を追うのではない。利益は後からついてくる。

“売上最大・経費最小”を経営の大原則として、ひたすらこの原則を貫くことで京セラはすばらしい高収益企業になりました。

 

経営の常識として、売上を増やせば経費もそれに従って増えていくものと考えられています。しかしそうではないのです。売上を増やせば経費も増えるという誤った常識に捕らわれることなく、売上を最大限にし、経費を最小限に抑えていくための創意工夫を徹底的に続けていく、その姿勢こそが高収益をもたらすのです。

 

受注が五十%増えると一般的には50%増の人員、50%増の設備、50%増の経費の精算をこなそうとします。このような足し算式の経営はしてはならないのです。受注が50%増えたら、生産性を高めることによって本来なら50%増やしたい人員を20%~30%増に抑えるのです。そうすることにより、高収益の企業体質ができるのです。このように受注が増え、売上が拡大する会社発展期こそ、徹底した経営の筋肉体質化を図り、高収益企業とする千載一遇のチャンスであるのです。ほとんどの経営者は、かえってその好況期に放漫経営の種を蒔いてしまうのです。

 

足し算式に“受注が倍になったら人も設備も倍にする”という経営を行っていては、一点受注が減り、売上が落ち込むような事態を迎えるならば、たちまち経費負担が大きくなり、赤字経営に転落することになります。

 

売上最大・経費最小を実現するためには、月々の経費明細が組織ごとに明確にわかるようなシステムが必要です。その為、京セラでは“アメーバ経営”という経営管理システムを構築してきました。一般の財務会計とは異なり、経営者が経営をするための管理会計システムで、数人から数十名ほどに構成される“アメーバ”という千以上もある小集団が存在し、それぞれがこの経営管理システムに基づいて経営を行っています。

 

アメーバ経営では各アメーバが収支を一時間当りいくらの付加価値を生んだのかという計算方式で表現しています。付加価値(=売上-売上原価-人件費を除く経費)を合計労働時間で割って時間当り採算を尺度にして各アメーバの組織の経営成績を判断します。

 

時間当り採算表は各部門ごとに作成されます。この時間当り採算表を見れば、どのアメーバが収益をあげているのかということが手に取るようにわかります。

 

また時間当り採算表は経費を最小限に抑えるために、経費項目を細分化しています。財務会計で使っている経費項目よりも、現場に則(のっと)って細かく表示されています。実際に仕事をしている現場の従業員達がすぐに理解でき、経費削減のための行動が具体的に起こせるためのものでなければなりません。たとえば“今月は電気代がかかりすぎた”その時、どの電気のメーターを点検したらよいのか分からなくてはなりません。

 

会社が小さい時にはドンブリ勘定でもよいかも知れませんが、会社が大きくなりますと、それでは経営の実態がわからなくなってしまいます。一般的な財務会計上の処理だけでは不十分なわけです。

 

京セラはリーマンショック直後を除き、創業以来、ほとんど二桁以上の経常利益率を続けてきました。このような高収益企業体質を作った要因は、他の追随を許さない独創的な技術があり、付加価値の高い製品をつくってきたということだけではありません。経営の実態がよく見える経営管理システムを構築し、運用し、さらに“売上最大、経費最小”という経営の要諦をただひたすら追求してきたということが最大の要因だったのです。

 

六.  値決めは経営

値決めはトップの仕事。お客様も喜び、自分も儲かるポイントは一点である

稲盛塾長は夜鳴きうどん屋の経営を例にとり、“値決めはトップの仕事”はどうしてなのかを説明しておられます。

 

ラーメン屋には屋台がいります。チャーシューメンを出すとすれば、スープは鶏ガラなのか豚骨なのか、麺は機械打ちか手打ちか、焼き豚は何枚のせるのか、ネギものせるのか、もやしをのせるのか、ラーメン一杯にしても沢山の選択肢があります。ラーメン一杯といえども、経営する人によって全く違ったものになっていくのです。

 

次にラーメン屋台はどこに置き、いつ営業するのか、酔っ払い客を狙うのか、学生街で若者を狙うのか。

 

こうした条件を揃えて、値決めがなされます。繁華街では高くても美味しい高級感のあふれるラーメン、数は少なくても利益がでる、あるいは学生街で商売する時は値段は抑えて、数を沢山出すように工夫する。

 

このように見てみますと、値決めはラーメン屋台の商売の全体を良く知り、戦略を決めてからでなければ、決定することはできないのです。経営の死命を制するのは値決めなのです。

 

経営トップは製品の価値を正確に判断した上で製品一個当たりの利益と販売数量の幅が極大値になる、ある一点を求め、それで値決めをしなくてはならないのです。その一点を見抜くのは、営業部長や、ましてや一営業マンではなく、経営トップでなければならないはずです。

 

しかし経営トップの決めた価格といえども利益が出ないというケースもあります。問題は決まった価格の中で、どのようにして利益を出していくのかということが肝心なのです。

 

営業が安い値段で注文をとってきたのでは、製造がどんなに苦労しても利益はでないこともあります。

 

なるべく高い値段で売ってもらいたいのですが、決まった価格で利益を出せるか出せないかは製造側の責任になります。

 

一般には価格は原価プラス目標利益で決められることが多いのです。これは原価主義の方法です。

 

しかし競争の激しい市場では、売値が先に決められてしまいます。原価主義での価格決定、原価プラス目標利益では売れないのですから、値段を下げて売らざるを得ない。すると利益はなくなり、たちまち赤字に陥ってしまうのです。“技術者は新しい製品や技術を開発するのが技術屋の仕事だと思っているかもしれないが、どのようにしてコストを下げるかを考えるのも優秀な技術者の仕事だ”と稲盛塾長は技術者に話しました。

 

熱慮を重ねて決められた価格の中で、最大の利益を生み出すような努力が必要なのです。仕様や品質など、与えられた要件を全て満たす範囲で、製品を最も低いコストで製造する努力を徹底して行うことが不可欠です。経営トップは値決めだけすればよいというのではなく、コストダウンにも責任を持った上で、値決めをするのです。

 

値決めをする瞬間に、もう仕入と製造のコストダウンのことを考えていなければなりませんし、逆にそれらのことが頭の中にあるからこそ、値決めができるわけです。

 

値決めは経営であり、それは経営者の仕事であり、さらにはその価格決定は経営者の人格のままに現れるのです。

 

七.  経営は強い意志で決まる

経営には岩をもうがつ強い意志が必要

経営とは経営者の意志が現れたものです。こうありたいと思ったら、何が何でもその目標を実現しようとする、強烈な意思が経営では必要となります。

 

ところが、多くの経営者の方を見ていますと、得てして目標が達成しない場合にはすぐに言い訳をしたり、目標を修正したり、中には、目標を撤回してしまったりする人がいます。そのような経営者の態度は、常に目標が達成できないだけでなく、従業員にも大きな影響を与えてしまいます。

 

株式を上場しますと、来期の業績予想を発表しなければなりません。それは株主への約束でもあるはずですが、日本の経営者の多くは経済環境の変動を理由に下方修正をすることにためらいがないのです。しかし一方、同じ経営環境の中にありながら、目標を見事に達成して見せる経営者もいます。強い意志であくまでも計画を遂行していくような経営者でなければ、変化の激しい現在の経済環境を乗り切っていくことは難しいのです。

 

経営目標とは経営者の意志から生まれたものですが、同時にその目標を従業員全員が“やろう”と思うようになっているかどうかが大切になってくるのです。経営目標というのは経営者の意志を全従業員の意志に変えることです。

 

最も大切なことは、何としても目標を達成したいという経営者のその必死の思いをあらゆる機会を通じて従業員に率直に投げかけることなのです。

 

従業員には日頃から“うちの会社はすばらしい可能性を持っている。今はまだ小さいが、将来は大きな発展が期待できる”と話しておくことが必要です。そうした日頃からの従業員とのコミュニケーションを図っておくのです。コンパを通じて、従業員の誕生会を通じて、会社研修旅行を通じて、会社の目標を伝えていくようにします。

 

八.  燃える闘魂

-経営にはいかなる格闘技にもまさる激しい闘争心が必要-

経営には企業間競争が伴いますから、経営者はその従業員を守るために、凄まじいばかりの闘魂、闘志を持って企業間競争に挑まなければなりません。

 

しかしこの闘魂は、単なる粗暴な暴力をふるうというものではなく、“母親”が持つ愛に満ちた行動です。母親がヒナを守る為に、ヒナを襲ってくる鷹に対して自分から挑んでいくように、幼い自分の子供が外敵に襲われようとしたとき、強大な敵に立ち向かっていくことがあります。自分の身の危険を顧みず、敵を自分のほうにおびき寄せ、子供を救おうとするように、母親は凄まじい勇気と闘魂を示し、我が子を守ろうとします。

 

平和な経営者が、時には多くの従業員を守るために敢然と奮い立つ、そのような経営者でなければ従業員の信頼を得ることはできません。

 

日本の大企業の経営者の中には、外敵から従業員や企業を守るどころか、自分の保身に汲々とする経営者が非常に多くなっています。企業不祥事を引き起こしても責任を取らず、むしろ部下が責任をとって辞めていくというケースが大企業などでも見受けられます。

これはリーダーの選択を誤ったということだと思います。能力がある人が経営トップになるのではなく、真の“闘魂”つまり“命を賭して従業員と企業を守る”という気概と責任感を持った人が、経営者になるべきなのです。

 

九.  勇気をもって事に当る

卑怯な振る舞いがあってはならない

なぜ勇気が必要なのか、まずは物事を判断するときに、正しい判断をしようと決心する時、勇気が必要なのです。

 

企業経営に当り“人間として何が正しいか”という原理原則に従い、判断をしていけば誤りはしないのです。しかし原理原則を守り、実行しようとする時、経営者は勇気がいるのです。

多くの経営者の方々が原理原則で判断しなければならないという時に、様々なしがらみが生じ、その為に判断を誤ることが往々にしてあるのです。事をなるべく穏便に済ませ、無用な波風を立てないということを判断基準としてしまうことがあるのです。経営者に真の勇気があるかないかということが問われてくるのはこのような局面です。

 

原理原則で結論を下し、脅迫を受けようとも、自分に災難が降りかかってくることがあろうとも、また人から誹謗中傷を受けようとも、全てを受け入れ、会社のために最もよかれと思う判断を断固として下すことができる、それは経営者が真の勇気を持っているからできることです。

 

経営者に勇気がなく、怖がり、逡巡(しゅんじゅん)している様というのは、すぐに従業員に伝わってしまいます。そのような情けない経営者の姿を見た従業員は、たちまち経営者に対する信頼を失ってしまいます。勇気のない経営者の下で仕える従業員も同様に重要な局面に立たされたとき、妥協することをよしとし、ときには卑怯な振る舞いに走ってしまうようになります。

 

経営者に必要な“勇気”それは“胆力”とも言い換えることができます。人間には知識、見識、胆識というものがあるそうです。

 

知識というのは、様々な情報であり、理性で知っていることです。単なる知識というのは物知りです。知識は見識まで高めるべきものです。見識とは、知識が“信念”にまで高まったものです。この見識があってこそ、初めて経営者といえるのです。社長は信念をもって正しい判断をすることが求められるのです。

 

さらに真の経営者は“見識”を持つだけではなく、“胆識”も必要なのです。“胆識”とは“見識”に“勇気”が加わったものです。魂のレベルにまで固く信じているが為に、何ものも恐れないという状態です。このような“胆識”を持った経営者は見識を実行する、実践する経営者、すなわちいかなる局面に対しても勇気を持って対処する経営者なのです。

 

十.  常に創造的な仕事をする

今日よりは明日、明日よりは明後日と常に改良改善を絶え間なく続ける・創意工夫を重ねる

米国でピューリッツア賞を受賞したDavid Halberstam がその著書“Next Century”の中で稲盛塾長のことを述べています。稲盛塾長の著書“次にやりたいことは私達には決してできないと人から言われたものだ”という言葉が紹介されています。京セラでは、ファインセラミックスという新しい素材にいち早く取り組み、従来は工業用材料となり得なかったファインセラミックスを工業用材料として確立させ、更に何兆円という規模を持つ産業分野として成長せしめたパイオニア企業なのです。

 

ファインセラミックスの特性を生かし、ICパッケージを開発し、半導体産業の成長を促したのをはじめ、人工骨などの生体用材料にもいち早く取り組み、現代のファインセラミックス分野の開拓者として社会に貢献してきました。

 

このような独創的な企業経営ができた理由を、多くの人は京セラの技術開発力に求めています。そして自社を顧みて“我社にはそのような技術は何もない。そのために成長発展しないのはやむを得ない”と考えているのです。そうではないのです。他社と比べて傑出(けっしゅつ)した技術を最初から持っている企業など一つもないはずです。独創的な仕事を心がけ、今日よりは明日、明日よりは明後日と常に改良改善をしているかどうかということで独創的な経営ができるかどうか決まってくるのです。

 

例えば掃除などは、一見工夫のしようのない雑事に思われがちですが、毎日同じような掃き方をするのではなく、明日はこうやってみよう、明後日はこうやってみようと少しずつ能率が上がる方法はないかと考える、一日の工夫はわずかなものですが、改良改善がひと月も積み重なれば、大きな変化を遂げているはずです。これは営業、製造、開発などすべての分野において言えることです。

 

創造性ということを“未来進行形で考える”という言葉で稲盛塾長は考えられています。自分の現在の力をもって将来何が出来るかということを考えるのではなく、今はとてもできそうもないと思われる高い目標であっても、未来のある一点で達成すると決めてしまうのです。そしてその一点にターゲットを絞り、現在の自分の能力をその目標に見合うまで高める努力を日々間断なく続けていくのです。

 

自分の能力をもってして、できるかできないかを判断していては新しことはできないのです。今はできないものを何とかしてやり遂げたいと言う強い思いからしか輝(かがや)かしい未来は決して開けないのです。

 

十一.     思いやりのある心で誠実に

商いには相手がある。相手を含めてハッピーであること、皆が喜ぶこと。

自分の利益だけを考えるのではなく、自己犠牲を払ってでも相手に尽そうという美しい心です。

 

しかし、“思いやり”や“利他の心”など弱肉強食のビジネス社会では、実現は難しいと考える人も多いと思います。ところが“情けは人のためならず”ということわざにあるように、“思いやり”“世の為・人の為”として尽していることが、実は自分の為になっているということがよくあるのです。

 

例えば、住宅を建設する場合、沢山の建設業者の方々に仕事を依頼します。この時、“安ければよい”どうしたら自分の利益が確保できるかだけを考えていますと、不法投棄を使っている建設業者、仕事の品質、スケジュール、後日の仕事のやり直し等に苦労します。長期にわたり、共にビジネスを続けていく為には、相手の事も充分理解して、よい人間関係を構築することがビジネスを成長発展させる大切なポイントなのです。

 

相手を大切にし、思いやるという“利他の心”の行為は一見自分達が損をするように見えても、長いスパンで見れば、必ず素晴らしい成果をもたらしてくれるものなのです。

 

十二.     常に明るく前向きに 夢と希望を抱いて素直な心で

経営者というのはどんな逆境にあっても常に前向きでなければなりません。ともすれば、降りかかる経営の諸問題に押しつぶされそうになり、経営者は悲壮感を漂わせるようになることがあります。“強い意志”、“闘魂”、“誰にも負けない努力”等と言いますと、思い詰めて悩み抜いて経営をすることになりがちです。

 

日常は明るく振る舞う心がけがあればこそ、すさまじい闘魂や、どんなことがあってもくじけない強い意志が生まれるのです。一方では“何としてもやらなければならない”という強い思いがありますが、もう一方では何があったとしても自分の将来には必ずすばらしい未来が開けるのだという確信を抱いて明るくポジティブに生きたいと考えるのです。

 

自分の人生を明るくポジティブに見ること、これが人生の鉄則であり、経営者としての要諦なのです。今健康を損なっている、しかし必ず元気になる。今資金繰りに苦慮しているが、努力をすれば何とかなると信じる。前向きなひたむきな努力はこの宇宙の意志に合っている、調和している為、必ずや報われるのです。

 

美しい心と思いやりに満ち、謙虚で感謝を忘れず、素直な心を持って努力を重ねる人々の運命は必ず開けていくのです。

盛和塾 読後感想文 第102号

経営のこころⅢ いかにして心を高めるか

経営のこころⅠでは、企業内で確立すべき判断基準、使命や将来の目標についての話がありました。経営のこころⅡでは、経営思想哲学の根幹についての話がありました。これらは企業内にどのような精神性を確立しなければならないのかという事でした。

今日は、経営者自身がどのような精神性を持たなければならないかということについての話です。経営者自身の“心のあり方”について、心の構造から説き起こし、経営者自身の“心のあり方”がどうならなければならないかという話です。 

経営はトップの器 (うつわ) で決まる

“カニは甲羅に似せて穴を掘る”と言われています。それは、人は自分の身の丈に合わせた事しかできないという、世間一般に流布していることわざ、俚諺 (りげん) です。

これは唯単なる世間智 (処世の知恵) ではなく、企業経営においてはまさに核心を突いた要諦なのです。経営において、業績は経営者の“器量”、つまり人間性、人生観、哲学、考え方、あるいは人格の通りでしかならないものなのです。

京セラのアメーバ経営である小集団部門別採算の経営を行っていますが、なかにはアメーバを発展するにつれ、うまく経営が出来なくなるリーダーが出てくるのです。

あるいは、抜擢されて大きな組織を担当するようになると、力を発揮できなくなるリーダーが存在するのです。

企業経営の中でも、会社が小さい内はうまく治めていたはずの経営者が、会社の規模が大きくなるにつれ、経営者としての役割を果たせなくなるということが往々にしてあるのです。それは能力のみならず、その集団のリーダーの人間性が組織の発展に合わせて高まっていかなかった為に起こることなのです。組織の拡大に伴い、4発生する問題も次第に大きくなり、高度化し、複雑化していきます。人間性が高まっていなければ、 (一段と高い視点から判断することができるように、人間性が高まっている) その新しい局面に対応できなくなってしまうのです。

心を高める経営を伸ばす

企業の業績をさらに立派なものにしていこうとするなら、経営者がその人間性を高め、人格を磨いていく以外に方法はありません。稲盛塾長は、京セラの創業間もない頃から、“経営がトップの器で決まるならば、トップである私自身の器を磨き、大きくしていかなければいけない”と強く思い、努力を重ねてこられました。

稲盛塾長のベッド脇には、何冊も宗教や哲学関連の書籍が積んであります。京セラ創業以来今日まで、夜寝る前に一頁でも本を開かなかった日はなかったそうです。

宗教書や、哲学書を読んで感銘を受けると、胸が詰まって先に進めなくなることがありました。そのような箇所には赤線を引き、もう一度読んでみます。わずか一頁を読むだけで、三、四十分もかかることがありました。いい本の中には、素晴らしい珠玉 (しゅぎょく) のような言葉があります。

稲盛塾長は読解力にも優れておりますから、多くの宗教書・哲学書を読むことができます。私共凡人は、稲盛塾長の真似 (まね) はできません。私はこれはと思った方の言われた事や書物を、同じものを何回も繰り返して読むようにしています。大事な箇所には赤線を引き、3回読み、今度はメモにまとめるようにしています。目で読み頭で考え、最後は手で憶えるようにしています。これだけしてもすぐに忘れてしまいます。

自分の人間性・人格を磨くために、過去の偉人、賢人、聖人と言われるような人達が書いた書物を若い頃から読み、実践しようと努めてきた、それが稲盛塾長の半生でした。

経営者は何故心を高め続けなければならないのか。それは経営において正しい判断を下すためです。企業の業績とは、経営者が下した判断が累積した結果であり、そうであるなら経営者は、正しい判断を下し続けなければならないのです。そして常に正しい判断を行うためには、確固たる判断基準が求められるのです。

一般には、経営判断は損得を基準にすることがほとんどです。それが自分にとって損か得か、そのような利己的な欲望をもとに判断するものですから、往々に誤った判断を下してしまうのです。

正しい判断を求めるならば、“人間として何が正しいか”つまり、“善悪”に照らして物事の是非を判断していかなければならないはずです。

ここに常に“心を高める”努力を続けなければならない理由があるのです。

人は誰でも“心を高める”努力を怠ると、その判断基準は次元の低い損得をもとにしたものとなり、結論を誤ってしまうのです。心を磨き、立派な人格を作るように努めることで、善悪に基づく正しい判断が可能となり、経営の舵取り (かじとり) を誤ることなく業績を伸ばしていくことができるのです。

心の構造

稲盛塾長の考えられた“心の構造図”があります。心の構造を明らかにするには、医学、生物学からのアプローチ、また心理学からのアプローチ、さらには哲学からのアプローチ等、色々な領域からの切り口があります。ここに表わされている“心の構造図”は稲盛塾長の思想・哲学から考えられたものです。

人の心とは、様々な要因が幾重にも重なった同心円状の多重構造になっていると考えられます。

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心の構造の一番奥には、良心、理性あるいは真善美、愛と誠と調和に満ちた高次元の“真我”が存在します。よく“良心の呵責 (かしゃく) に耐えかねて”と言います。悪いことをしたことで、自分の中にある良い心に咎められるという意味ですが、これが良い心、良心、“真我”です。 

この真我の外側には、我々の生命を維持する為に必要な食欲や闘争心といった“本能”があります。欲、怒り、愚痴、不平不満などの悪い思いも、この本能に基づくものです。仏教では“煩悩”と言います。 

本能の外側には“感情”があります。これは本能的に好き、嫌い、喜び、怒りなど、人間が抱くものです。 

本能と感情を合わせたものが“自我”です。その“自我”と“真我”を合わせたものが“魂”です。

赤ん坊も目が開いてきますと五感・感性が出てきます。目、耳、鼻、味、接触五感/感性が発達してきます。

その感性の外側には知性があります。これは知力というものです。これは我々の大脳の中に発達してきた知力です。

誰もが等しく真我を持っている

真我とは仏性のことです。“森羅万象に仏が宿る”と表現します。どんな極悪非道な人間であっても、また無生物であっても、等しく仏が宿っているという意味です。

昔の人からよく言われました。“米一粒の中には三人の仏様がいる。粗末にしてはいけない”

森羅万象全てのものに存在しているものは、宇宙を作っている根源そのものでもあるとも考えるそうです。生物も無生物も含め、自然界にある全てのものに形を変えて、その根源なるものが存在する。例えば一輪の花にしても、宇宙の根源が姿を変えて存在していると考えられるそうです。

“仏は宿る”という考えは、仏教だけではないのです。哲学を勉強された人、ヨガや瞑想などで修行をされた方々で、レベルの高いところまで意識を高めることのできた人は皆、生物も無生物も含めたこの宇宙に存在するもの全てのものには、宇宙の精エッセンスが入っており、それが姿を変えているのだと言うのです。

瞑想をして意識を落ち着かせていき、純粋な状態にまで心を鎮めていったときに、自分の五感が無くなり、本能とか感情という低次元のものも吹っ切れてしまい、限りなく静寂な世界に入っていくことができる。我々凡人が瞑想をしても、知性や感性や感情が次から次へと湧き起こってきます。次から次から妄想が湧いてきてしまいます。

ところが、純粋な瞑想で心を鎮めていくと、知性も感性も感情も本能も全て消えていくそうです。そして奥底にある真我に近いところまで到達することができるそうです。それが“悟りを開く”ということです。

イスラム学の権威でおられる井筒俊彦先生 (いづつ としひこ) は、次のように語っておられるそうです。“自分の意識も全部えしてしまって、感性も感情も全てなくなってしまって、ただ私が存在するという意識だけは厳然としてある。そうなった時に生物も無生物も全部含めて、自分の周囲にある森羅万象あらゆるものが存在としか言いようのないもの、つまり宇宙のエッセンスであるということがわかる”

亡くなった前文化庁長官の河合隼雄 (かわい はやお) さんが次のように表現しておられます。

河合さんは花を見て、“あんた花やってはりますの。私河合やってまんねん”

存在としか言いようのないものが姿形を変えて花を演じたり、河合隼雄を演じていたりしていると仰っておられるのです。

心の中心にある“真我”は、等しく全ての存在に共通するものです。人が皆持っているものなのです。これはまた、宇宙の根源なのです。我々はそのような美しい、素晴らしいものを心の中心に皆等しく持っているのです。等しく皆、真善美、愛と誠と調和に満ちた真我を持っているのです。

“心を高める”とは、低次元の自我を抑え、高次元の自我を発達させること

実際にビジネスの世界では、自分の会社にとって損か得か、自分自身が儲かるか儲からないかという本能レベルで考えがちです。いくら賢明な人でも、最初から真我はもちろん、知性で考えられる人はそういないはずです。どんな人でもこれは自分が儲かりそうですと、本能的に反応してしますのです。修行を積み、戦略を立てるようになり、知性を使い始めます。

高次元の真我、良心、理性は心の最も奥底にあり、その上を低次元の本能、感情、自我が覆っていますから、なかなか出てきません。そのために、我々は必ずと言っていいほど、真我を取りまく低次元の自我で物事を判断してしまうのです。そしてその時、覆っている自我があまりにも強ければ、誤った判断をしがちなのです。

低次元の“自我”とは“オレがオレが”と主張する欲望、“利己”のことです。真我は他に良かれかしと思う“利他”の心のことです。人を慈しみ、人を助けてあげようという優しい思いやりのある心です。

人間はどうしても利己的な自我が過剰になりがちですから、自我を抑えるということが大切になってきます。その為、仏教では“足るを知る”ということを教えています。“そんなに欲張らなくてもよいではないか” “そんなにオレがオレがと言わなくてもよいではないか”利己的な自我を抑えていくことを教えています。

このようにして自我を抑える、つまり真我の周囲を取りまく自我の皮を薄くしていくことに努めていますと、高次元の真我、つまり良心、理性というものが出てきます。

低次元の自己を抑え、高次元の真我つまり、慈悲に溢れた利他の心というものが出てくるように、自分をトレーニングすることが“心を高める”ということなのです。

真我 (利他) と自我 (利己) が心の中心に同居し葛藤している

本能に基づく欲と怒りと愚痴を抑えて、心の中心にある真我つまり、良心、理性を発揮しやすいようにするにはどうすべきか。

それには、心の構造の一番外側に位置する知性を使って、最も中心にある理性を呼び起こすという方法があります。あるいは、知性で直接本能を抑えるという方法もあります。“それはおかしい。道理に合わないではないか。そんな自己中心的な欲張ったことは、理屈から言ってもおかしいことではないか”というように、知性でもって事の是非を理解し、自らを戒めていくことができます。

また、もう一つの心の構造図 ― 真我と自我が心の中心に同居しているということも考えられるのです。

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つまり、心の中心に真我と自我が同居しているのです。真我の方が自我を上回り、六割になったり七割になったり、八割になったりしていくということが、心が高まり人格が高まっていくということなのです。

日々精進を重ね、心を磨くことによって真我の占める割合が増していき、自我の占める割合が減っていく。それが“心を高める”というように理解するほうが分かりやすいかもしれません。

インドの詩人タゴール (文学ノーベル賞) の詩です。

私はただ一人神様の前にやってきました
しかし、そこにはもう一人の私がいました
その暗闇にいる私は
一体誰なのでしょうか
私はこの人を避けようとして
脇道に逸れますが
彼から逃れることはできません
彼は大道を歩きながら
地面から砂塵 (さじん) を巻き上げ
私が慎 (つつ)ましやかに囁いたことを
大声で復唱します
彼は私の中の卑小なる我
つまりエゴです
主よ 彼は恥を知りません
しかし私自身は恥じ入ります
このような卑小なる私を伴って
あなたの前に来ることを

私というのは、真我、利他の心、美しい心です。神様の前に近づいた時、暗闇には“もう一人の私”自我である利己の心、悪しき心を持った者がいるのです。悲しいかな、人の心の中には、美しい心も悪しき心も同居しているのです。

放っておけば、我々の心の中は全体の八十%~九十%くらいを利己の心が占めています。真我、つまり利他の心が隅っこに追いやられているのです。日頃から厳しい修行を重ねることで利己の心を抑え、利他の心が八十%~九十%占めている人は聖者です。

心というものは、利他と利己の二つの心がせめぎ合っているのですから、いい研究ができるとか、仕事ができるとか本能の欲がありますが、それらを超えてこの利他と利己の比率になってこそ、その人物のレベルが高まるのです。

心の中核をなす真我、つまり利他の心を大きくし、実践していく。この繰り返しによって心を高めることができ、その結果、周囲から人間が立派だ、人間ができていると言われ、また同時に、経営や人生を成功に導くことができるのです。

このお話は誰でも理解していけると思いますが、“心を磨く” “心を高める”ことを日々努力し、実行していくことが最大の課題なのです。継続して実践していくことが最もチャレンジすべきことなのです。

 

 

盛和塾 読後感想文 第101号

 

利他に徹し広い視野を持って経営を行う

会社のためという“利他の行い”も会社のことばかりだと社会からは“会社のエゴ”と見える。家族のためという個人レベルの利他も、家族しか目に入っていなければ、社会から見れば“家族のエゴ”、家族だけがよければよい、というエゴになってしまいます。

 

そうした低いレベルの利他にとどまらないためには、より広い視点からの物事を見る目を養い、大きな単位で自分の行いを相対化して見ることが大切になってきます。

 

たとえば自分の会社だけ儲かればよいと考えるのではなく、取引先にも利益を上げてもらい、さらには消費者、株主、地域社会の利益にも貢献する経営を行う。また個人よりも家族、家族より地域、地域よりも社会、さらには国や世界、地球や宇宙へと利他の心を可能な限り広げ、高めていこうとする。

 

こうして視野を広めて行動することは、廻り廻って自分の会社の成功・発展や個人その家族の幸せに貢献すると思われます。

 

より広い視野を持つことができ、周囲の様々な事象について目配りができるようになってくる。そうなりますと、客観的な正しい判断ができるようになり、失敗も回避できるようになってくると稲盛塾長は述べています。

 

経済変動を乗り越え、成長発展をする経営

 

いかにして経済変動を乗り越えるか

世界経済は昨年(2008年)9月の米国の金融危機以来、急速に悪化の一途をたどり、実体経済に飛び火し、世界同時不況の様相を呈してきました。この時期景気は最悪期を脱し、回復基調にあるとの見方が一般的となってきました。しかし、米国の景気動向も不安定要素がありますし、中国でも内需の拡大に比べ、輸出は未だ本格回復にはほど遠いことから、企業業績は伸び悩んでいるようです。このたびの米国の金融機関の破綻に発した経済危機は、まさに百年に一度と呼ばれているように、国境を越えて各国の経済、その企業活動に多大な影響を与えてきました。

 

そしてこのような経済変動の波の中で、様々な日本企業の栄枯盛衰の物語がありました。経済変動の波に流されて潰れていった企業があれば、経済変動をむしろ飛躍台としてさらに伸びていく企業もあります。

 

慎重堅実な経営が企業の永続的繁栄を導く

今日企業をとりまく経済環境とはこのように変動を繰り返すものです。どんなに独創的な技術を有し、どんなに高い市場シェアを誇り、どんなにりっぱな経営管理体制を備え、いかに盤石な経営だと思われても、襲い来る経済変動を前にしては脆(もろ)くも潰(つい)え去ってしまうこともあります。

 

京セラでは、今までただの一度も赤字決算をいたしておりません。多くの企業では赤字どころか倒産の危機に瀕したり、人員整理でかろうじて存続を維持したりするなど、波乱万丈の歴史をひもとくことができる中にあって、京セラの半世紀にわたる歴史は、成長発展を重ね続けています。

 

そこには年々歳々、成長発展を続けているための必然的な要因があり、企業を持続的な成長発展に導く経営の要諦というものがあるはずなのです。大切なことは、経営にあたる者の姿勢です。その姿勢とは“慎重堅実な経営を行う”というきわめて単純なことなのです。

 

臆病な性格が無借金経営をもたらした

京セラの創業時のことです。京セラは初年度で利益率10%を達成して三百万円の利益が出ました。

 

京セラ設立時、稲盛塾長を見込んで、自分の家屋敷を担保に入れ、銀行から一千万円を借り入れて下さり、それを創業資金として提供された方がおられました。“縁もゆかりもない私にそこまでしてくださる支援者の方に、万が一にも迷惑をかけてはならない。一刻も早く借金を返済しなければならない”と稲盛塾長は考えました。

 

戦争ですべてを失った父親は、慎重居士(しんちょうこじ)で決して借金をしませんでした。借金を極端に恐れていたのです。初年度三百万円の利益が出ましたが、税金、賞与、配当で二百万円は消えて借金返済資金は百万円しか残りません。一千万円の借入金返済には10年かかってしまいます。

 

10%の利益率ではなく、早く借入金を返済する為には、もっと高い利益率を目指した経営をしなければならない。会社を創業して間もなく、高い利益率を目指そうと考えたのは、早く借入金を返済したいという慎重で堅実な経営を目指したからなのです。

 

高収益の企業体質が経済変動を克服する原動力となった

慎重な経営に努め、高収益の企業体質をつくりあげ、豊かな財務体質にしたことが、度重なる経済変動を克服し、京セラを今日まで導く原動力になりました。

 

高収益であることは損益分岐点を下げ、不況になって売り上げが減少しても、赤字に転落しないで踏みとどまれる“抵抗力”があることを意味します。高収益企業では内部留保が増加していますので、不況が長引き、利益力がでない状態が続いても耐え抜くことができます。さらに余裕資金を使って不況で普段より安くなっている設備を購入するなど、不況期でも思い切った投資も可能とする“飛躍力”がついてきます。

 

常日頃から慎重な経営姿勢のもと、高収益になるよう全力を尽くして経営にあたることが不況への最大の予防策となったばかりか、不況期の最良の処方箋(しょほうせん)になったのです。

 

企業の安定がROEよりも優先される

最近、アメリカ企業投資家の間では、自己資本に対していくらの利益が出たのかというReturn on Equity (ROE)を重視する人々が増えています。ROEを重視する投資家から見れば、いくら高い利益率を誇ろうが、内部留保を貯え、自己資本が大きければ大きいほど“それだけの自己資本を使ってこれだけの利益しかでなかったのか”という投資効率が悪いと判断を下すのです。

 

せっかくの内部留保を使って、企業買収をしたり、設備投資をしたり、また自社株を購入し償却したりして、自己資本を小さくして、短期的に利益の極大化を図る経営をすべきだと考えるのです。そうすればROEは高い値になってアメリカ型の経営では優秀な経営という評価を受けるのです。

 

京セラの経営陣が米国やヨーロッパの投資家に京セラの経営内容を説明しますと“京セラは利益率も高いが自己資本があまりにも大きく、ROEが低い。こんなに利益を貯めてどうするのだ、技術やM&Aをしたり、配当をしたり、もっと利益を使ってチャレンジする経営をすべきだ”と言われるそうです。こうしたROE重視は短期的な視点から企業を見た時の尺度なのです。

 

今株を買い、株価が上がったら、すぐに売ればよいと考えている投資家から見れば、確かにROEが高い方がよいのです。しかし長期にわたる企業繁栄をはかろうとする企業にとっては、企業の安定が何よりも大切です。いかなる不況が押し寄せて来ようとも十分に耐えていけるだけの備えが必要なのです。

 

借入金はなるべく早く返済、高収益企業を目指す、内部留保を確保し、設備投資にしても回収の見込みが立たなければ絶対にしないという経営が長期的に企業を成長・発展させる為の要諦(ようてい)なのです。

 

利他の心が企業を永続的な発展へと導く

慎重な経営であればいいということを短絡的に考え、何も新しいことをする必要はない、現状を維持すればよいということと理解してはなりません。慎重な経営には“独創性を重んじる”“開拓者であれ”“新しいことに積極果敢に挑戦する”ことが必要なのです。

 

その新しいことを重視するための方法として“潜在意識まで透徹するほどの強く持続した願望を持つ”“誰にも負けない努力をする”“今日よりは明日、明日よりは明後日と創意工夫を重ねる”ことが、慎重な経営には必要なのです。

 

さらには企業間競争を勝ち抜き、高い経営目標を実現し続けるためには“燃える闘魂”を持ち、岩をも穿つ“強い意志”が必要だと稲盛塾長は毎日の仕事のなかで考えつかれました。

 

加えて経営哲学のみならず、経営者は実践的な企業会計に通じていなければなりません。また企業内に管理会計システムを確立しなければならないことなど、具体的な経営管理のあり方にも精通していなければなりません。経営哲学を日々の仕事の中で実践していくことが大切なのです。

 

企業が永続的な発展へと導くにあたり、もう一つ大切なことがあります。企業が永続するとは、周囲の人々、社会、国から受け入れられる、生かされ役に立っているという意味です。その為には自分だけがよければいいというエゴ、つまり自分の欲望だけで動くのではなく、従業員、お客様、取引先、そして地域社会など企業をとりまくすべての存在と調和するような思いやりのある心、利他の心で経営していくことが大切なことです。

 

近年、経済変動、つまり他動的な要因ではなく、経営者自らの資質の問題、いわば自律的な要因・人為的な要因により自滅していく企業が多く見られます。2001年のエンロンやワールドコム、またリーマンブラザーズなども巨額の報酬を受け取っていた経営者の強欲(ごうよく)こそが企業破綻の根本原因だったのです。

 

米国の投資銀行リーマンブラザーズの最高経営責任者(CEO)は在任中の2000年以降、日本円で三百三十億円という巨額の報酬を受け取っていたそうです。メリルリンチの最高経営責任者は引責辞任時の退職金が百五十憶円だったそうです。

 

企業の利益は、すべての社員の献身的な努力と協力によってつくられたものであるはずです。それを経営トップ1人だけで成し遂げたかのように考え、高額な報酬をひとりで得ることなど、あってはならないことです。その強欲が、企業を破滅へと追い込む原因となったのです。

 

経営者の努力と才覚により、売上一億円にも満たない中小企業が成長・発展し、売上百億円になったときに、その経営者が“もっともっと”と自らの利益だけを際限なく求めるようになれば、今まで以上に贅沢(ぜいたく)にはしり傲慢(ごうまん)になるようであれば、やがて滅亡していきます。経営者たちも最初は辛酸をなめ、苦労を重ねている時には人一倍努力家で、質素で謙虚なのですが、いざ功成り名を遂げたら、報酬も名誉も欲しくなり、驕(おご)り高ぶるようになり没落していくのです。

 

自分では自分の変化が分からないのです。巨額の報酬を受け取っていたアメリカの金融機関の経営者たちも、最初から強欲だったはずはありません。しかし、自分の中に確固とした哲学を持っていない為、また日常的に自分の言動を反省する習慣をもっていない為、また読書を通じて日頃から経営哲学を学び続けない為、環境の変化に合わせて自分が変質してしまうのです。

 

ともすれば頭をもたげてくる“おれがおれが”という自己愛に満ちた欲望をできるだけ排し、従業員のため、お客様のため、取引先のため、社会のため、といった“他に善かれかし”と願う、思いやりの心、つまり利他の心が自分の心のなかを占めるようにしていかなければなりません。

 

純粋で気高い思いが第二電電(現KDDI)の成功をもたらした

1980年代半ば、日本では電電公社という国営の通信事業者が独占し、また通信料金は欧米の水準と比べてたいへん高いものでした。日本政府は電電公社を民営化し、電気通信事業への新規参入を可能にするというように政府の方針が変わりました。

 

電電公社はNTTとなり、新規参入が可能になり、正当な競争が起これば、通信料金はきっと安くなっていくだろう、ところがほぼ一世紀にわたり、官営として運営してきたNTTはあまりにも強大で、どの企業も一向に名乗りをあげようとはしません。NTTに対抗するには、あまりにも多大のリスクが伴うとみんな足がすくみ、手を挙げようとしません。

 

稲盛塾長はその時、京セラを中心に第二電電を立ち上げ、通信事業に参入することを決めました。売上高二千五百億の京セラは地方の中堅企業でしかありません。そんな会社がナショナルプロジェクトに手を挙げたのです。

 

しかし、名を挙げる前6か月間、稲盛塾長は毎晩ベッドにつく前に自問自答を繰り返しました。“おまえが恰好をつけたいがために、金儲けをしたいがために、第二電電という会社を始めようとしているのではないか”“動機は善なりや、私心なかりしか”と厳しく自分を自分で問い正しました。

 

そして半年後、“私には一切私心はない。動機も不純ではない。日本が情報化社会を迎えるにあたって、国民が負担する通信料金を安くしたい、ただその一心だ。”と確認したそうです。

 

その後、日本国民鉄道が日本テレコムを、建設省と道路公団を中心としたグループが日本高速通信という会社を立ち上げました。合計三社が名乗りを挙げました。この日本テレコム、日本高速通信二社は、鉄道通信の組織や高速道路を持ち、簡単にインフラを作ることができます。しかも資金もあり、優秀な技術者も持っていました。京セラはそうした点では何一つ持ち合わせていません。他の二社が簡単に光ファイバーを敷いているとき、第二電電は道なき山の頂上にパラポラアンテナを設置し、通信ネットワークを構築していったのでした。

 

第二電電にあったものは“国民のために安価な通信料金を実現する”という会社設立の大義名分に、幹部、従業員が中心に心から共鳴し、身を粉にして働いてくれたばかりか、お客様、取引先、代理店、さらに社会が支援してくれたのです。

 

新たに通信事業に参入した企業のなかで、第二電電だけがKDDIとして存続しています。売上三兆五千億円、利益四千四百億円を誇る日本第二位の通信事業として最も期待される通信事業者として成長発展しています。

 

整備されたインフラ、優秀な専門スタッフ、潤沢な資金を揃えた大企業でさえ“難しい”と考え逡巡(しゅんじゅん)していた事業に、何の備えもない京セラのような企業が“世のため人のため”と純粋な思いを持って参入を果しました。

 

それは純粋で気高い思いには、すばらしいパワーが秘められているのです。二十世紀初頭のイギリスの哲学者ジェームズ・アレンは次のように述べています。

 

“汚れた人間が敗北を恐れて踏み込もうとしない場所にも、清らかな人間は平気で足を踏み入れ、いとも簡単に勝利を手にしてしまうことが少なくありません。なぜならば、清らかな人間はいつも自分のエネルギーをより穏(おだ)やかな心とより明確でより強力な目的意識によって導いてくれるからです”

 

善きことに努めれば、偉大な力が自然に加わる

人、物、金という経営資源の全てに恵まれ、成功することまちがいないと思われていた企業が消え去る中で、ただ“世のため、人のため”という純粋な思いを最大の経営資源とした第二電電が生き残り、変転極まりない通信分野で創業してから四半世紀を経過してもなお成長発展し続けています。ここにこそ企業を持続的繁栄へと導く、最も大切な要諦があります。

 

利他の心が一番強力なのです。相手に喜んでもらおうと善意でやったこと、それが結局成功するということは、厳然たる世の原理なのです。相手がうまくいくように助けてあげる、やさしい思いやりの心、利他の心を持って善きことに努めれば、自分を超えた力が自然に加わり、自分で“これぐらいできればいい”と思っている以上にすばらしい結果が現れるのです。襲い来る、予期せぬ経済変動を克服する。すばらしい知恵も授けてくれるのです。“利他の心”は世のため人のために役立ち、周りの人々、社会が、“利他の心”に基づいた企業経営を必要としているのです。

 

中国の“易経”には“積善の家には余慶あり”つまり善き行いを積み重ねる家には代々幸せが訪れると教えています。また“易経”には“満は損を招き、謙は益を受く”と驕り高ぶる者は損をし、謙虚な者は利益を受けると述べています。

 

盛和塾 読後感想文 第100号

 

人間として正しいことを正しいままに貫く

稲盛塾長は、27歳で京セラをスタートしましたが、経営の素人で、その知識も経験もないため、どうすれば経営というものがうまくいくのか、皆目見当がつかなかったそうです。困り果てて、とにかく人間として正しいことを正しいままに貫いていこうと心に決めました。

 

子供の頃、親や先生から教わった単純な規範を、そのまま経営の指針に捉え、守るべき基準としました。嘘をついてはいけない、人に迷惑をかけてはいけない、正直であれ、欲張ってはならない等でした。

 

一般に広く浸透しているモラルや道徳に反することをしても、うまくいくことなど一つもあるはずがない、という単純な確信があったのです。それはとてもシンプルな基準でしたが、それゆえ筋の通った原理であり、それに沿って経営をしていくことが迷いなく正しい道を歩むことができたと述べています。

 

経営のこころⅡ フィロソフィーの根本思想

 

1.    人間として正しいことを正しいままに貫く

フィロソフィーの原点にあるのは“人間として何が正しいのか”という問いです。フィロソフィーは哲学と訳されていますが、それは考え方、思想とも言えます。その人が判断する時の基準、規範だと思います。フィロソフィーを単に知識としての哲学ととらえるよりも、生き方、行動を決めていくための実践的な考え方と考えるべきだと思います。

 

“人間として何が正しいか”ということは、自分や自分の企業にとって都合がよいか悪いかではなく、人間としての良いことか悪いことか、つまり善悪で判断していくということです。

 

往々にして人は自分にとって、または自分の会社にとって都合がよいか悪いかということで判断しがちです。しかし“人間にとって”と問うことによって、利己、エゴを超えることができるのです。利己的な低い次元から判断するのではなく、利他的な高い次元から判断することができるようになるのです。

 

2.    “人間として正しいこと”は国家を超え、普遍的に通用する

フィロソフィーとは一個人の利益、一企業の利益、さらには国の利益という狭い限定的な次元を超えたものであり、人類にとって正しい、善なる考え方に立脚したものです。

 

二十一世紀に求められるグローバル経営を実現するためにも、企業が持つ根本的な考え方、思想は、国家や民族、言語、宗教の壁を超え、等しく共有してもらえるような普遍性のあるものでなければなりません。

 

3.    “人類として正しいこと”と置き換えて地球問題を考える

地球に住んでいるあらゆる生物は食物連鎖を通じて互いに結び合って生きています。山間部の森に降り注いだ雨は河川を通じ、やがて海へと流れていきます。落ち葉や土壌に含まれるミネラルなど豊富な栄養を貯えた水が海へと流れ出ることによって、海では植物プランクトンが繁殖します。その植物プランクトンを動物プランクトンが食べ、動物プランクトンを小さな魚たちが食べます。その小さな魚をより大きな魚が食べます。その大きな魚や草食動物を地上の肉食動物が、クマやライオンやトラが捕えて食べます。この頂点に立つ肉食動物もやがて死にます。朽ち果てて土へ還ります。それは森の栄養となり、雨を通して再び海へと注ぎ込みます。このように自然界では食物連鎖を繰り返すことによって、いわば、自分の命を他の生物に与えることによって、互いが存続しているのです。

 

ひとり人類だけは、その循環の輪の中に存在していないように思います。あらゆるものを収穫して、自分勝手に生きています。自分の命を他の生物に与えることをせずに、すべての生物の命を奪いながら、自然界に君臨しているのです。

 

“人類として何が正しいか”ということを考えて見ます。自然を収奪し人類だけが“栄耀栄華(えいようえいが)”を極めることは正しいことではありません。限られた資源しかない地球環境の中で、あらゆる生物が共存していくためには、どうあるべきかという正しい道を我々人類が思い出し、歩んでいくしかないのです。人類だけが繁栄すればよいということではなく、その地球上に生を受けた生きとし生けるものすべてのもののことを考え、共に生きていく道を何としても見い出していかなければなりません。そうしなければ、人類は生きていくことができないのです。

 

“人類として何が正しいか”という判断基準で地球環境問題、エネルギー問題、国際紛争など、あらゆる問題にその考え方、判断基準を応用していくことができると思います。

 

4.    世のため人のために尽す

人間は誰しも人を助け、世のために尽すことに喜びを覚える美しい心を持っています。本能に基づく利己的な思いが強すぎるために、心の奥底にあるその美しい心が表に出て来ないだけのことです。利己的な思いを抑えることで、世のため人のために尽すという利他的な心が必ずや出てくるのです。

 

自利と他利

 

1.    商売の極意は相手も喜び自分も喜ぶこと

経営も同様です。事業は自利・他利両面が必要なのです。自利は自分の利益、他利は他人の利益です。つまり自分が利益を得たいと思ってとる行動や行為は、同時に相手の利益にもつながっていなければならないのです。自分も儲かれば、相手も儲かるということです。

 

江戸時代、石田梅岩は“まことの商人は先も立ち、われも立つことを思うなり”と述べています。本当の商人とは相手も立ち、自分も立つことを思うものである。近江商人の間では“三方よし”ということが商人道の真髄として言い伝えられています。“買い手よし、売り手よし、世間よし”というもので、買う人も売る人も、さらにはその両者を取り巻く社会さえもよいというものでなければならないというものです。

 

2.    適者生存の理と利他の心は矛盾しない

人によっては利他の心では商売はやっていけないと思っている人がほとんどだと思います。“弱肉強食の経済社会のなかで営利を追求していかなければならない経営者がそのような利他の心でもって本当に経営はできますか。手練手管(しゅれんてくだ)を尽くし、貪欲なまでに利益を追求することが企業経営の実像です。”

 

“私の会社には利益はいりません。相手の会社にどうぞ利益を取ってくださいということですよね”と誤って解釈している人がいます。

 

この経済社会の中では、会社は自分達が生き抜き、従業員を守っていくために必死になって働いています。熾烈(しれつ)な企業間競争もあります。しかしそれは競争社会を潰そうと思って努力しているのではありません。自分の会社がお客様の役に立つように、社会から存在意義を認められる為に、よりよい製造技術を研究し、コスト削減に努め、一生懸命努力し、世のため人のために役に立つ会社でありたいと願っているのです。

 

努力を怠った競争会社が、不幸にして潰れてしまうこともあります。それは仕方のないことです。厳しい自然界を生き抜いていく為には、一生懸命に努力を重ねることが絶対条件なのです。努力を怠るならば生存すらもかなわないのです。これが自然界の掟なのです。“適者生存”こそが自然界の根本原理なのです。

 

経済社会の中でも同様です。果てしない努力を重ね、経済社会に適応できる企業だけが生き残り繁栄を遂げ、努力を怠り、経済社会に適応できなかった企業は淘汰され、潰れていくのです。

 

3.    利己に満ちた心による成功は長続きしない

経営者の中では、利己のかたまりの人も成功します。たしかに利己によって成功した経営者はいます。利己、エゴで経営をしている人は、その思いが強ければ強いほど、努力もします。しかしその成功は長続きしません。利己的な欲望を際限なく重ねていくことで大きな失敗をしでかしたり、周囲との摩擦を起こしたり、社会との軋轢(あつれき)が生じたりします。やがて社会からの支持も得られなくなり、没落を遂げていきます。

 

一方相手によかれかしと願う利他の心に基づく経営は、周囲の協力を得て長く繁栄を続けていくことができます。

 

足るを知る

 

1.    “足るを知る”心が真の豊かさをもたらす

人間の欲望、とくに物質的な欲望は、放っておけば際限なく肥大化していきます。すでに手に入れた豊かさに満足せず、さらなる豊かさを求めようとします。際限のない欲望にとらわれていては、物質的にどれほど豊かになっていようとも、心の豊かさを感ずることはできないはずです。ものに満たされれば、さらに“もっともっと”と肥大化していくのが欲望というものです。

 

人間にとっての豊かさとは“足るを知る”心があってはじめて感じられるものです。足るを知り、日々感謝をする心を持って生きることによって人生は豊かで幸せなものになると思います。

 

2.    従業員を守るためにこそ会社の業績を伸ばさなければならない

“足るを知る”をともすれば“ほどほどでよいではないか”“これだけの利益が出るようになった会社になったのだから、これだけ大きな会社になったのだから、もうそろそろいいのではないか”という考え方になってしまうことがあります。しかし“足るを知る”とはそのような短絡的なものではないのです。

 

これは長期的な視野をもって、今手にしているものをよく理解し、そのもっているものを充分活用して、生かしていくこと、これが“足るを知る”ことの意味だと思います。自分の持っているもの、物質的なこと、また精神的なこと、自分の持っている人間関係に感謝して、それを生かしていこうとする考え方だと思います。自分の持っているものに日々感謝する心が“足るを知る”ことだと思います。

 

会社経営であれば、従業員の物心両面の幸福を守る為に、今手にしている人材、技術、資金、お客様、仕入先等に感謝して、これを充分生かそうとする努力が大切なのです。

 

3.    利己的欲望を抑え、利他的欲望を追求する

人間の利己的な欲望は放っておけば際限なく肥大化します。しかし、企業という集団のなかに住む従業員を守っていくために業績を伸ばしていきたいという欲望は、それとは違います。それは利他的な欲望なのです。従業員を守るために、どんな経済変動があろうとも自分の企業を倒産から守る、そうしていくために、この会社をもっと立派にしたいのだという思いは、利己的な欲望ではなく利他的な欲望です。

 

利他的な欲望は世のため人のため、従業員のためのものですから、欲望とはいえない面があります。おそらく、人間はいくつになっても、子供の頃、父や母からほめられたこと、“ありがとう”といわれたことを忘れてはいません。その言葉は子供を本当に幸せな気持ちにします。と同時に、経営者も人の子です。周囲の人々、従業員、社会から“ありがとうございます”“心から感謝します”と言われたい気持ちがあるのです。その時、経営者は自分の存在、意義を自ら確認し、自分の人生に誇りを持つのです。その為、リーダーは一生懸命努力をし、自分の命を投げ出しても惜しくないぐらい、頑張るのだろうと思います。利他的欲望は“認められたい欲望”、“感謝されたい欲望”でもあるのです。

 

4.    自然界にある“足るを知る”という本能

我々人間は“足るを知る”という考え方を知識、または知恵として後天的に学ばなければならないのです。しかし自然界では、すべての生物がこれを知識ではなく本能として知っています。“足るを知る”ということを知識、知恵として学ばなければならいのは、利己的な欲望が強い人間だけなのです。

 

アフリカの大草原に住んでいるライオンは、草食動物を殺して食べています。しかし彼らはお腹が満たされている時、か弱い草食動物が近くにいてもそれを決して襲おうとはしません。一週間程して、お腹が空いた時、周囲にいる草食動物を捕えて食べる。つまり“足るを知る”ということを本能として知っているのです。

 

チンパンジーは雑食動物で、大型の哺乳動物を襲うこともあるそうです。頑健な大きなオスのチンパンジーは、倒した動物をチンパンジーの群れの真中に置くと、子供やメスが寄ってきます。するとそのオスは20頭~30頭のチンパンジー達にその肉を平等に分け与えるのです。チンパンジー達は肉が好きらしく、キャッキャッと言って食べます。

 

京都大学の教授で霊長類学者として有名な伊谷純一郎教授が現地調査に行かれた時のことでした。教授はアフリカの村の村長に、チンパンジーは“しょっちゅう動物を襲うのですね”と言いましたところ、村長は“そういうことはしません。ひと月に一度か、ふた月に一度くらいだと思います。彼らはそれ以上は捕えようとしないのです”

 

チンパンジーは、生きていくのに必要な栄養分を捕食し、それ以上のものは取ろうとしないのです。

 

5.    原始民族に学ぶ“足るを知る”叡智(えいち)

伊谷教授一行がアフリカ・コンゴの山奥にまでチンパンジーの観察調査に行った時のことです。その道中、焼畑農業でわずかばかりの作物をつくって生活している、原始的な人達の部落があり、先生の調査隊はいつもそこに立ち寄っていたそうです。毎年そこを通過するとき先生が日本から持って来たお土産などをあげると、彼らはお礼として、部落でつくった簡単な食事でもてなしてくれます。

 

ある年、その部落の長老が“皆さんにおもてなしをしたいのだが、今年は食べるものが一切ないのです”と先生たちに言ったそうです。伊谷先生は“我々は充分な食糧を持ってきています。おもてなしは結構ですよ”と応じながら事情を聞きました。

 

その年は各国の探検隊が幾度も部落を訪れ、そのたびにみんなにごちそうをした。そうしているうちに自分たちが食べるものがなくなった、と長老は話してくれました。そこで伊谷先生は、食料を少し置いて来たそうです。

 

アフリカの原住民の方々は焼畑農業をしています。彼らは部落周辺の山を、10等分ぐらいに分け、順番に伐採して火をつけて焼き払います。そして焼けたところを畑として、種をまきます。数ヶ月後にはタロイモなどが実ります。

 

焼畑農業では、おなじところで二~三年連作します。しかしそれ以上連作をしても、作物は土地がやせている為、収穫が余りありません。そして次の区画を焼き払い、種をまき、収穫を得ます。十等分した区画を二~三年毎に焼き払い、二十年~三十年で一周することになります。焼き払った最初の区画は、三十年後にはりっぱな森となっており、土地も肥沃になっています。

 

伊谷先生が“みんなにもっとごちそうをして食べるものがなくなったら、もっとたくさんの焼畑をつくったらどうですか“と尋ねました。長老が言いました。“それは神様が許してくれない”

 

もっと多くの食糧がほしいからと焼畑を広げていけば、森の循環が途絶えてしまい、やがて自分達が飢えてしまうことになる。必要な分だけをつくっていけば森は再生し、部落全体が生き長らえていくことができる。

 

彼らは“足るを知る”を知っているのです。欲望の赴くままに畑をたくさん作れば、森の循環の輪が切れてしまい、やがてすべてを失ってしまうということを知っているのです。

 

人間は原始時代から生きる叡智として“足るを知る”ということを伝えてきたために、今日まで生き長らえてきたのです。

 

6.    利己的な物質文明から利他的な精神文明へ

利己的な欲望の追求が近代文明の原動力です。“もっとほしい”“もっとよこせ”という利己的な欲望が科学技術の発展を促し、経済の発展を導き、今日の物質文明をつくりあげてきました。

 

次に来る新しい時代は、現在の物質的文明社会が利己的欲望の追求とすれば、利他的な欲望-精神的文明の時代となるべきなのです。

 

世のため人のために尽すことを通して、リーダーも一般市民も、明るく、心豊かに人生を生きる-精神的文明社会の実現が望まれています。みんなを幸せにしたい、みんなをよくしてあげたいという利他の欲望(人や世から感謝されたい欲望)を追求することによって築き上げられた精神文明の社会が、次の時代に来なければならないのです。

 

自分以外の人々、社会が幸せにならない限り、自分自身が心豊かに生きていくことができないのです。自分の生存を望むなら、人類は今すぐに利己的な欲望を脱し、利他的な欲望が求める文明へと切り替えていく道しかありません。人類に与えられた時間的猶予はもうそう多くはありません。今が最後の機会ではないかと、稲盛塾長は語っています。

 

共に生きる

 

1.    共生の思想が地球の将来を救う

地球上に存在するあらゆる生物は、互いに依存し合って生きています。その中で“共に生きる”ということをしていないのは唯人類だけです。利己的で足ることを知らず、欲望のままに突き動かされている人類のために、毎年毎年地球上に存在する膨大な生物種が消えています。多様な生物種が存在することによって地球のバランスが保たれていたはずです。ある生物種が消えさってよいわけがありません。現在の地球はバランスが崩れかけているのです。

 

多様な生物種が共生し合い、はじめて地球上に存在する生物たちが生存できたのです。絶滅種が増えていく中で人類だけが地球上に生存しえるはずがないのです。

 

2.    小善ではなく、大善の関係で共に助け合いながら生きていく

“共に生きる”という考え方は経営の場でも必要です。

自分が利益を得たいならば、お客様、取引先、協力会社、その他会社を取り巻くすべての人たちが共に生きていけるような“共生の関係”を築いていかなければなりません。

 

その共生の関係は小善であってはなりません。互いになれ合い、甘え合って生きていくという関係であってはなりません。厳しい経済環境の中でしっかりしたフィロソフィーを自らに課し、それを相手にも求めながら根底では互いに助け合っていく。そんな大善の考え方に基づいた関係でなければなりません。

 

周囲の人たちと一緒に繁栄していこうと思えば、共に厳しい生き方をしていくことが求められるのです。一見非情に見えますが、厳しい中でも相手を真に生かしていく大善の考え方に基づく共生の関係が経営においては必要不可欠なのです。

 

世のため、人のために一生懸命努力する、自分の会社が世のため人のためになる存在であること、すなわち社会から受け入れられるように努力するというフィロソフィーを共有することが大善なのです。このような大善を受け入れてくれるお客様、取引先、協力会社と共に助け合い、生き延びていくことが大切です。

盛和塾 読後感想文 第九十九号

企業哲学を全社員と共有する

 

時代がどのように変わろうとも人間の本質は変わらない。必要なことは“人間とは何か”“人生とは如何にあるべきか”“人間として何が正しいのか”など、人間としてもっとも基本的な倫理、哲学を真剣に探究する、その中で自己の存在意義を確認し、自らの人生の指針としても哲学を確立すること、と塾長は述べています。

 

自分は何の為に存在するのか、何の役割があるのか、をよく考え、その考えが哲学となって自分の身につく、このことが自分の人生の本当の意味なのです。

 

稲盛塾長は、人生の本当の意味、経営のあるべき姿を真剣に考えました。そしてそれを社員と共有することに、最大の努力を払い続けてきました。京セラは創業以来、大変順調に発展してきました。それは京セラには“企業哲学があり、それを全社員と共有できている”からです。

 

企業哲学を従業員と共有するのには、どうしても従業員に同意し、共鳴してもらえるのだという強い意志と行動力とエネルギーが必要なのです。毎日のように従業員に語りかけ、仕事であれ、食事を共にする場合であれ、社内行事であれ、従業員とのコミュニケーションをあらゆる機会を捉えてはかることが必要なのです。

 

興味をもって聞いてくれる人、冷ややかに対応する人、又、反発する人も多いはずです。いろいろな従業員の反応に一喜一憂していてはなりません。いろいろと説明にも工夫をして、従業員に語りかける。従業員に経営哲学を受け入れてもらえない、聞いてもらえない時は、経営者自身が自分の経営哲学を具体的に実践できるようになっていないことが多いのです。あきらめてはいけないのです。

 

経営のこころ-判断基準、ミッション 使命、ビジョン 目標、フィロソフィー 哲学

 

“敬天”の思想と“人間として何が正しいか”という判断基準

経営するに当っていちばん大事なものは、企業トップとして経営判断する、その時の判断基準です。と同時に企業経営のミッション(使命)、ビジョン(目標)、さらにはフィロソフィー(哲学)が要るのです。これらをまとめたものが経営のこころというものになります。

 

稲盛塾長は、経営のこころを実際の経営経験を通して作りあげて来ました。人から借りたものではなく、自分で苦労に苦労を重ねて、経営のこころを創りあげたのです。

 

1.    京セラ創業と共に背負い込んだ経営者としての重い責任

稲盛塾長は京都の硝子メーカー松風工業に入社しました。しかし松風工業は終戦後からずっと赤字が続いている、新入社員の初任給から遅配するような、傾きかけた会社でした。その為、同期入社の5名は、寄るとさわると互いにグチを言い合って、とうとう稲盛塾長を除いて4名は退職してしまいました。新しい就職先の見つからなかった稲盛塾長だけが松風工業に残らざるを得ませんでした。

 

“もう不平不満を言うのはやめよう。仕事を好きになろう”と考えて仕事に真正面から取り組むことに決めました。ファインセラミックスの研究に、寝食を忘れて打ち込み、結果としてフォルステライトという新しい材料の合成に日本で初めて成功するなど、多くの成果をあげていくようになりました。

 

しかし新任の技術部長は、稲盛塾長の成果や努力を正当に評価してくれない為、稲盛塾長は松風工業を去ることになりました。その当時、稲盛塾長の下では約50名の従業員が働いていたと聞いています。稲盛塾長が退社することを知った京都の経営者の方々が集まって、京都セラミックという会社を設立してくださったのでした。配電盤メーカーであった宮木電機の役員が中心となって、資本金三百万円が集まりました。当時宮木電機の専務取締役であった西枝一江さんは、自宅を担保にして、一千万円の銀行借り入れまでしてくださいました。京都セラミックの社長は宮木電機の社長、宮城男也(おとや)さんに就任していただき、稲盛塾長は取締役技術部長という肩書でした。会社の経営は、実際は稲盛塾長が担当していました。支援者の方々のご厚意に感謝する一方、肩にはずっしりと重い責任を負うこととなりました。

 

いざ会社が始まると、ベテラン社員から若い社員から毎日“これはいかがしましょうか”と決断を仰ぐ相談が次々と寄せられます。決済すべき判断をどうしたらよいかと大変悩みました。

 

創業間もない頃、宮木社長が“稲盛君、いいものを買ってきたよ。あなたの郷土の大先輩、西郷南洲のものだ”と紙を携えてこられました。広げてみると“敬天愛人”と大きく黒々としたためられていました。稲盛塾長の小学校の校長先生の部屋にも“敬天愛人”としたためられた書が掛けられていました。稲盛塾長も自分の会社の応接間に掲げました。

 

2.    唯一持ち合わせていたプリミティブな道徳観を経営の判断基準に

稲盛塾長は創業当時、実際に判断を下すにあたって、必要となる基準を持ち合わせていませんでした。稲盛塾長が一つ判断を間違えば、せっかく作っていただいた会社が潰れてしまうかもしれません。従業員を路頭に迷わせてしまうかも知れません。さらに資本金を提供してくださった方々、自宅を担保にして運転資金を用意して下さった西枝さんに、多大な迷惑をかけてしまいます。

 

何を基準にして経営の判断を下せばよいのか、よくわからなかった塾長は、子供の頃、両親や先生から教わった“やってよいこと、悪いこと”を判断の基準にしようと考えられたそうです。プリミティブな道徳観、倫理観しか持ち合わせていなかったのでした。それを経営判断の基準にしようと考えられました。

 

これからは会社の判断基準を“人間として何が正しいのか”という一点に絞りたい、あまりにも幼稚でプリミティブな判断基準かと思うかもしれないが、そもそも物事の根本は単純にして明快であるに違いない。今後は人間として正しいことを正しいままに貫いていくという経営を進めていきたい、と従業員に話されました。

 

3.    西郷南洲の“敬天”に勇気を与えられる

人間として正しいことを貫くというのは、西郷が言っている“敬天”という言葉に通じて、天が示す正しい道、すなわち人間として正しいことを実践していくことだと気がついたそうです。

 

“天”というのは“最も正しいもの”という意味があります。“天地新明に誓う”“天に恥じない行動をする”というように、自然の道理として絶対的に正しいことが“天”という意味なのです。

 

西郷南洲の遺訓の中に“人間の進むべき道は天地自然の物にして、人は之(これ)を行ふものなれば、天を敬するを目的とす”という言葉があるそうです。西郷は天の命ずるままに正しいことを踏み行っていくことを自らの根本思想とし、実人生においてもこれを貫き徹した人物です。

 

西郷南洲の言う“天の道”とは、法律を超えたところにあり、この宇宙に元々から存在する原理原則に従うことなのです。敬天とは、法律を超えて、世の原理原則に則して根本的に正しいことを理解し、実践していくことなのです。

 

稲盛塾長のいう“人間として正しいこと”は西郷南洲のいう“敬天”と同じ、あるいは通じていることだったのでした。

 

4.    天に恥じぬ経営を心がけることが、企業の不祥事を防ぐ

“敬天”という言葉は、法律的に正しいことを行うことは当然のこととして、もっと根源的なもの、人間として正しいことを貫いていくということを企業経営の根幹に据えて経営を行って来た京セラは、判断を大きく誤ることはなかったのです。京セラグループの売上は一兆円を超えて、世界中に六万人の従業員を擁(よう)する規模に発展しています。しかし創業時に決めた“人間として正しいことを貫く”という判断基準は、それに基づく企業姿勢は、今も一切変わっていません。

 

一般には経営において最も大切なことは、“経営戦略”“経営戦術”といわれています。しかし、経営内の判断基準を問うことはあまりなされていません。経営戦略、経営戦術、新しいアイデア等も大切なのですが、そのような風潮の中でも“人間として正しいことを貫く”というシンプルな判断基準を京セラでは今日まで貫いてきました。

 

経営の手練手管(てれんてくだ)や策におぼれ、欲に憑かれたリーダーが経営にあたっているが、単に、今もなお多くの企業不祥事が続発しています。その為、不祥事防止の為、各国で企業統治のあり方、コーポレートガバナンスがいかにあるべきかが議論され、不祥事を起こさないように膨大なルールや法律を作り、それを企業に適用しようとしています。法や制度の整備を進めることで、企業不祥事を防止しようとする方向が今の世界の主流となっています。

 

しかし、どのような法律を定めようとも、自分の利益を増大させるためには人間として正しくないことをしてもかまわないという考えを、経営者やリーダーが少しでも持っている限り、必ずやその心ないリーダーは法の網(あみ)の目をかいくぐることに努めるでしょうし、企業不祥事は根絶できないと思われます。

 

西郷が言う敬天の思想、つまり天に恥じない経営をするという一点を経営者自身が企業内で徹底していくことでしか、企業不祥事を未然に防ぐことはできないのです。

 

“愛人”の思想と“全従業員の物心両面の幸福を追求する”

 

1.    高卒反乱が教えてくれた経営者の真の使命

創業三年目のことです。前年に採用した高卒の従業員達が、突然団体交渉にやって来ました。“将来が不安だ。昇給や賞与など、将来の待遇を保証してくれ”。それに対して“京セラはできたばかりの会社だから、みんなで力を合わせて立派にしていこう”と答えたのですが、彼等は納得しないのです。“将来を保証してくれなければ、今日限りで辞めたい”と言うのでした。

 

“ボーナスはどうする、昇給はこうするという約束はできない。私自身、会社の将来がわからないのだから、約束をしてはウソになる。しかし私は誰よりも必死になって会社を守っていこうと思う。君たちの生活がうまくいくようにしてあげたいと強く願っている、私の誠意を信じてほしい。もし私が君たちの信頼を裏切ることがあったら、そのときは私を殺してもいい”

 

一人がうなずき、二人目も理解してくれました。そしてとうとう、最後には全員が納得してくれました。稲盛塾長はその時、必死に説得しようとすさまじい顔で高卒の社員に話したと思われます。

 

しかし、高卒者に約束したことは、京セラ創業時に考えた企業の目的、“稲盛和夫の技術を世に問う”とは全く違ったものでした。稲盛家は貧乏でしたから、稲盛塾長は毎月実家へ仕送りをしていました。“家族の支援に努めなければならない立場なのに、縁もゆかりもない人たちの生涯にわたる生活をみることになってしまった”と後悔したりしていました。

 

この社員の反乱により、稲盛和夫の技術を世に問う場としての京セラは一瞬にして吹き飛んでしまいました。社員の生活を守ると言う目的に変貌してしまったのです。

 

一晩にわたって考え続けた結果“会社というものはそのなかに住む従業員に喜んでもらうことこそが真の目的であり、それが経営者の使命”と結論したのでした。

 

2.    経営理念は大義があると同時に、身近なものでなければならない

翌日、稲盛塾長は“全従業員の物心両面の幸福を追求する。人類・社会の進歩発展に貢献する”。と京セラの経営理念としたのでした。経営理念とは、経営者の私利私欲ではなく、広くすべての従業員の幸福をはかるものでなければならない。これはまさに西郷が説く“愛人”です。

 

経営理念の決定にあたっては、経営者や株主の利己、エゴではなく、利他の精神が貫かれているということが最も大切です。従業員が共鳴し、意気に感じ、“よし、そういう目的の実現のためなら、私も経営者と一緒に手を携えながら頑張ろう”といってくれるような企業の目的が必要なのです。

 

全社員のため、会社のため、社会のため、国のため、つまり公益のために努力を惜しまないという大義を掲げたときに、人ははじめて共鳴し合い、賛同しあい、惜しみなく協力し合えるのです。

 

しかし、いくら大義があるからといっても、それがあまりにも高尚で、社員から縁遠いものであってはなりません。経営理念、またはミッション、使命が経営の場で機能するためには、その経営理念は従業員が共有できるものであるということが大切です。

 

従業員たちにとって身近な理念を掲げれば、個々の従業員が賛同し、幹部同士の融和をはかり、社内の求心力を高めることにも貢献すると思います。

 

3.    従業員の幸福を追求することは、株主の利益にも合致する

“全従業員の物心両面の幸福を追求する”ということを経営理念としますと、株主の利益が無視されているように見えます。しかし京セラはニューヨーク証券取引所にも上場していますが、この経営理念はその制定のときより一切変えていません。当社の会長、社長などがIR活動(Investor Relation)で世界中を巡ったときでも、この経営理念にクレームがついたことはありません。

 

従業員が物心両面の幸福を感じながら、懸命に働き、すばらしい業績をあげることで、結果として株主も大きな利益を得ることができます。株主の利益が大事だと言わなくても、従業員の働きによって会社の業績が上がれば、それは株主に還元されます。逆に株主が“これは自分の会社だ。会社はオレのものだ”といって、従業員を蔑(ないがし)ろにしたのでは、長期的に見れば会社経営は長続きしないのです。