盛和塾 読後感想文 第十四号
トップの哲学=考え方で経営が決まる
塾長は DDIを創業するに当たり、“動機善なりや、私心なかりしか” と自分に厳しく問い正したと言っておられます。私にはこうした大きなプロジェクトに直面したことがないこと。百年に一度あるかないかのチャンスという大きなプロジェクトに気付いたことがないと思います。自分を奮い立たせるほどの大儀名分、その為には、自分の人生をかける必要があると思います。
たとえ小さなプロジェクトや会社経営であっても、自分で大儀名分を考え出して、夢を持つべきと考えます。最初は、小さなビジネス、それも“私心” がいっぱいのビジネスであっても、一生懸命に努力する中で、心を高め、その小さなビジネスが従業員や社会の為になるようにすべきと考えます。最初からりっぱな哲学が身に付いている人はいないと思います。こうした努力の結果“動機善なりや、私心なかりしか”という考えに到達されたと思います。
トップの考え方が集団のあり方を左右すると塾長は述べています。経営者の考え方が違えば、目指す山は違います。山に登る道具も人材も違うようになると思います。
経営者は絶えず重要な判断に迫られています。その判断には基準が必要です。基準=哲学は日頃から研き続けなければなりません。頭でどんなに解っていても、自分の哲学を毎日の経営判断に適用していかなければなりません。
哲学を実践して行く為には、“反省する心” が重要だと塾長は述べられています。“反省のある人生”を塾長は歩んでこられたと思います。あれほど成功しても “神様ごめん。”と自分を反省する人は、世の中には、めったにいないと思います。私などは、成功もしていないのに、反省することをよく忘れます。
フィロソフィーをもって、それを実行すれば景気がどう悪かろうと、環境がいかに厳しかろうと、会社はどんどん伸びていくと塾長は盛和塾塾生を励ましてくれています。塾長は盛和塾を通して、我々塾生の為、社会の為、“利他の心”を実践して“利他の心”の具体的な例を見せて下さっていると思います。
経営の研究=“独創的な発想”
堺屋太一さんのエッセイには日本の将来を見据えた提言があります。石田梅吉の説いた心学 “勤勉と清貧は人生修行である”と教えが日本の思想として全国に広げられた。その結果、勤勉に働く目的は人格修行、諸業即修業どんな職業でも勤勉に働くことにより、自分の人格が修行されるという哲学が生まれた。
一方、カトリックやイスラム教では勤勉は贅沢につながり、さらには浮気にもなりやすいと考えます。一生懸命に働く代わりに神に祈るか学問をすべきと教えている。こうした勤勉に対する考えでは日本人が考えるレベルの高品質の製品は期待できないことになります。
完璧主義の日本人志向は、外国製品に対する評価に対しては、非常に厳しい判断をすることとなり、不良品=人格の劣った外国人という公式になりやすい。細かい部分での不良を発見すると、その製品を作った人物までも不良品と見做してしまうこととなる。こうした細部に至るまでのこだわりは、逆に全体を考える独創性を殺してしまうことになりかねない。
今後、日本が世界の人々と仲良くして生きて行く為には、全体を見て、判断する、独創性を評価し、こだわり文化と独創性を結び付けていく必要があると思います。
心の研究 -“人生の本性は慈悲と利他の心”
瀧村仁さんのダライ・ラマ法王のインタビューのお話は、私にとって人間関係を深く理解するのに役立っています。
“汝に困難を与える者こそ、汝の最も偉大なる師である。”“一番困難なとき、あるいは自分に苦しみや困難を与えてくれる人、与えてくれる事柄、これこそ偉大な師である。”
この思想は、世界中の相対立する社会、国を取るべき第三の道を指し示していると思います。これは人間の体の中でも、この哲学のもとに人間が自然に第三の道に沿って生きていることを証明しています。
ガンが発生したとしますと、それを止めようとする体の働きがあり、ガンの力を弱めようとします。ガンが害であると同時にガンと戦うホルモンも発生しますから、両者共々、ひとつの体の中で共生していると思われます。
“多様なものが、多様のままに生きるというのが生命の摂理である。”と瀧村仁さんは言っておられます。
ダライ・ラマは言う、“争いが起きた時にどうするかというと、解決方法がどこにあるのかではなく、自分は一体何なのかと自分をより深い視点で知った時に、初めて問題の解決はできる。人間の本性は慈悲と利他の心である。”
絶対的に、その慈悲と利他が正しいというのではなく、世の中にはその反対の営みもある。
しかし、人間には慈悲と利他の心を選び取る能力があるのだ。
この哲学を我々のビジネス世界に当てはめるビジネスは、お客様、業者、従業員、社会との共生をしなければならないと思います。