盛和塾 読後感想文 第100号

 

人間として正しいことを正しいままに貫く

稲盛塾長は、27歳で京セラをスタートしましたが、経営の素人で、その知識も経験もないため、どうすれば経営というものがうまくいくのか、皆目見当がつかなかったそうです。困り果てて、とにかく人間として正しいことを正しいままに貫いていこうと心に決めました。

 

子供の頃、親や先生から教わった単純な規範を、そのまま経営の指針に捉え、守るべき基準としました。嘘をついてはいけない、人に迷惑をかけてはいけない、正直であれ、欲張ってはならない等でした。

 

一般に広く浸透しているモラルや道徳に反することをしても、うまくいくことなど一つもあるはずがない、という単純な確信があったのです。それはとてもシンプルな基準でしたが、それゆえ筋の通った原理であり、それに沿って経営をしていくことが迷いなく正しい道を歩むことができたと述べています。

 

経営のこころⅡ フィロソフィーの根本思想

 

1.    人間として正しいことを正しいままに貫く

フィロソフィーの原点にあるのは“人間として何が正しいのか”という問いです。フィロソフィーは哲学と訳されていますが、それは考え方、思想とも言えます。その人が判断する時の基準、規範だと思います。フィロソフィーを単に知識としての哲学ととらえるよりも、生き方、行動を決めていくための実践的な考え方と考えるべきだと思います。

 

“人間として何が正しいか”ということは、自分や自分の企業にとって都合がよいか悪いかではなく、人間としての良いことか悪いことか、つまり善悪で判断していくということです。

 

往々にして人は自分にとって、または自分の会社にとって都合がよいか悪いかということで判断しがちです。しかし“人間にとって”と問うことによって、利己、エゴを超えることができるのです。利己的な低い次元から判断するのではなく、利他的な高い次元から判断することができるようになるのです。

 

2.    “人間として正しいこと”は国家を超え、普遍的に通用する

フィロソフィーとは一個人の利益、一企業の利益、さらには国の利益という狭い限定的な次元を超えたものであり、人類にとって正しい、善なる考え方に立脚したものです。

 

二十一世紀に求められるグローバル経営を実現するためにも、企業が持つ根本的な考え方、思想は、国家や民族、言語、宗教の壁を超え、等しく共有してもらえるような普遍性のあるものでなければなりません。

 

3.    “人類として正しいこと”と置き換えて地球問題を考える

地球に住んでいるあらゆる生物は食物連鎖を通じて互いに結び合って生きています。山間部の森に降り注いだ雨は河川を通じ、やがて海へと流れていきます。落ち葉や土壌に含まれるミネラルなど豊富な栄養を貯えた水が海へと流れ出ることによって、海では植物プランクトンが繁殖します。その植物プランクトンを動物プランクトンが食べ、動物プランクトンを小さな魚たちが食べます。その小さな魚をより大きな魚が食べます。その大きな魚や草食動物を地上の肉食動物が、クマやライオンやトラが捕えて食べます。この頂点に立つ肉食動物もやがて死にます。朽ち果てて土へ還ります。それは森の栄養となり、雨を通して再び海へと注ぎ込みます。このように自然界では食物連鎖を繰り返すことによって、いわば、自分の命を他の生物に与えることによって、互いが存続しているのです。

 

ひとり人類だけは、その循環の輪の中に存在していないように思います。あらゆるものを収穫して、自分勝手に生きています。自分の命を他の生物に与えることをせずに、すべての生物の命を奪いながら、自然界に君臨しているのです。

 

“人類として何が正しいか”ということを考えて見ます。自然を収奪し人類だけが“栄耀栄華(えいようえいが)”を極めることは正しいことではありません。限られた資源しかない地球環境の中で、あらゆる生物が共存していくためには、どうあるべきかという正しい道を我々人類が思い出し、歩んでいくしかないのです。人類だけが繁栄すればよいということではなく、その地球上に生を受けた生きとし生けるものすべてのもののことを考え、共に生きていく道を何としても見い出していかなければなりません。そうしなければ、人類は生きていくことができないのです。

 

“人類として何が正しいか”という判断基準で地球環境問題、エネルギー問題、国際紛争など、あらゆる問題にその考え方、判断基準を応用していくことができると思います。

 

4.    世のため人のために尽す

人間は誰しも人を助け、世のために尽すことに喜びを覚える美しい心を持っています。本能に基づく利己的な思いが強すぎるために、心の奥底にあるその美しい心が表に出て来ないだけのことです。利己的な思いを抑えることで、世のため人のために尽すという利他的な心が必ずや出てくるのです。

 

自利と他利

 

1.    商売の極意は相手も喜び自分も喜ぶこと

経営も同様です。事業は自利・他利両面が必要なのです。自利は自分の利益、他利は他人の利益です。つまり自分が利益を得たいと思ってとる行動や行為は、同時に相手の利益にもつながっていなければならないのです。自分も儲かれば、相手も儲かるということです。

 

江戸時代、石田梅岩は“まことの商人は先も立ち、われも立つことを思うなり”と述べています。本当の商人とは相手も立ち、自分も立つことを思うものである。近江商人の間では“三方よし”ということが商人道の真髄として言い伝えられています。“買い手よし、売り手よし、世間よし”というもので、買う人も売る人も、さらにはその両者を取り巻く社会さえもよいというものでなければならないというものです。

 

2.    適者生存の理と利他の心は矛盾しない

人によっては利他の心では商売はやっていけないと思っている人がほとんどだと思います。“弱肉強食の経済社会のなかで営利を追求していかなければならない経営者がそのような利他の心でもって本当に経営はできますか。手練手管(しゅれんてくだ)を尽くし、貪欲なまでに利益を追求することが企業経営の実像です。”

 

“私の会社には利益はいりません。相手の会社にどうぞ利益を取ってくださいということですよね”と誤って解釈している人がいます。

 

この経済社会の中では、会社は自分達が生き抜き、従業員を守っていくために必死になって働いています。熾烈(しれつ)な企業間競争もあります。しかしそれは競争社会を潰そうと思って努力しているのではありません。自分の会社がお客様の役に立つように、社会から存在意義を認められる為に、よりよい製造技術を研究し、コスト削減に努め、一生懸命努力し、世のため人のために役に立つ会社でありたいと願っているのです。

 

努力を怠った競争会社が、不幸にして潰れてしまうこともあります。それは仕方のないことです。厳しい自然界を生き抜いていく為には、一生懸命に努力を重ねることが絶対条件なのです。努力を怠るならば生存すらもかなわないのです。これが自然界の掟なのです。“適者生存”こそが自然界の根本原理なのです。

 

経済社会の中でも同様です。果てしない努力を重ね、経済社会に適応できる企業だけが生き残り繁栄を遂げ、努力を怠り、経済社会に適応できなかった企業は淘汰され、潰れていくのです。

 

3.    利己に満ちた心による成功は長続きしない

経営者の中では、利己のかたまりの人も成功します。たしかに利己によって成功した経営者はいます。利己、エゴで経営をしている人は、その思いが強ければ強いほど、努力もします。しかしその成功は長続きしません。利己的な欲望を際限なく重ねていくことで大きな失敗をしでかしたり、周囲との摩擦を起こしたり、社会との軋轢(あつれき)が生じたりします。やがて社会からの支持も得られなくなり、没落を遂げていきます。

 

一方相手によかれかしと願う利他の心に基づく経営は、周囲の協力を得て長く繁栄を続けていくことができます。

 

足るを知る

 

1.    “足るを知る”心が真の豊かさをもたらす

人間の欲望、とくに物質的な欲望は、放っておけば際限なく肥大化していきます。すでに手に入れた豊かさに満足せず、さらなる豊かさを求めようとします。際限のない欲望にとらわれていては、物質的にどれほど豊かになっていようとも、心の豊かさを感ずることはできないはずです。ものに満たされれば、さらに“もっともっと”と肥大化していくのが欲望というものです。

 

人間にとっての豊かさとは“足るを知る”心があってはじめて感じられるものです。足るを知り、日々感謝をする心を持って生きることによって人生は豊かで幸せなものになると思います。

 

2.    従業員を守るためにこそ会社の業績を伸ばさなければならない

“足るを知る”をともすれば“ほどほどでよいではないか”“これだけの利益が出るようになった会社になったのだから、これだけ大きな会社になったのだから、もうそろそろいいのではないか”という考え方になってしまうことがあります。しかし“足るを知る”とはそのような短絡的なものではないのです。

 

これは長期的な視野をもって、今手にしているものをよく理解し、そのもっているものを充分活用して、生かしていくこと、これが“足るを知る”ことの意味だと思います。自分の持っているもの、物質的なこと、また精神的なこと、自分の持っている人間関係に感謝して、それを生かしていこうとする考え方だと思います。自分の持っているものに日々感謝する心が“足るを知る”ことだと思います。

 

会社経営であれば、従業員の物心両面の幸福を守る為に、今手にしている人材、技術、資金、お客様、仕入先等に感謝して、これを充分生かそうとする努力が大切なのです。

 

3.    利己的欲望を抑え、利他的欲望を追求する

人間の利己的な欲望は放っておけば際限なく肥大化します。しかし、企業という集団のなかに住む従業員を守っていくために業績を伸ばしていきたいという欲望は、それとは違います。それは利他的な欲望なのです。従業員を守るために、どんな経済変動があろうとも自分の企業を倒産から守る、そうしていくために、この会社をもっと立派にしたいのだという思いは、利己的な欲望ではなく利他的な欲望です。

 

利他的な欲望は世のため人のため、従業員のためのものですから、欲望とはいえない面があります。おそらく、人間はいくつになっても、子供の頃、父や母からほめられたこと、“ありがとう”といわれたことを忘れてはいません。その言葉は子供を本当に幸せな気持ちにします。と同時に、経営者も人の子です。周囲の人々、従業員、社会から“ありがとうございます”“心から感謝します”と言われたい気持ちがあるのです。その時、経営者は自分の存在、意義を自ら確認し、自分の人生に誇りを持つのです。その為、リーダーは一生懸命努力をし、自分の命を投げ出しても惜しくないぐらい、頑張るのだろうと思います。利他的欲望は“認められたい欲望”、“感謝されたい欲望”でもあるのです。

 

4.    自然界にある“足るを知る”という本能

我々人間は“足るを知る”という考え方を知識、または知恵として後天的に学ばなければならないのです。しかし自然界では、すべての生物がこれを知識ではなく本能として知っています。“足るを知る”ということを知識、知恵として学ばなければならいのは、利己的な欲望が強い人間だけなのです。

 

アフリカの大草原に住んでいるライオンは、草食動物を殺して食べています。しかし彼らはお腹が満たされている時、か弱い草食動物が近くにいてもそれを決して襲おうとはしません。一週間程して、お腹が空いた時、周囲にいる草食動物を捕えて食べる。つまり“足るを知る”ということを本能として知っているのです。

 

チンパンジーは雑食動物で、大型の哺乳動物を襲うこともあるそうです。頑健な大きなオスのチンパンジーは、倒した動物をチンパンジーの群れの真中に置くと、子供やメスが寄ってきます。するとそのオスは20頭~30頭のチンパンジー達にその肉を平等に分け与えるのです。チンパンジー達は肉が好きらしく、キャッキャッと言って食べます。

 

京都大学の教授で霊長類学者として有名な伊谷純一郎教授が現地調査に行かれた時のことでした。教授はアフリカの村の村長に、チンパンジーは“しょっちゅう動物を襲うのですね”と言いましたところ、村長は“そういうことはしません。ひと月に一度か、ふた月に一度くらいだと思います。彼らはそれ以上は捕えようとしないのです”

 

チンパンジーは、生きていくのに必要な栄養分を捕食し、それ以上のものは取ろうとしないのです。

 

5.    原始民族に学ぶ“足るを知る”叡智(えいち)

伊谷教授一行がアフリカ・コンゴの山奥にまでチンパンジーの観察調査に行った時のことです。その道中、焼畑農業でわずかばかりの作物をつくって生活している、原始的な人達の部落があり、先生の調査隊はいつもそこに立ち寄っていたそうです。毎年そこを通過するとき先生が日本から持って来たお土産などをあげると、彼らはお礼として、部落でつくった簡単な食事でもてなしてくれます。

 

ある年、その部落の長老が“皆さんにおもてなしをしたいのだが、今年は食べるものが一切ないのです”と先生たちに言ったそうです。伊谷先生は“我々は充分な食糧を持ってきています。おもてなしは結構ですよ”と応じながら事情を聞きました。

 

その年は各国の探検隊が幾度も部落を訪れ、そのたびにみんなにごちそうをした。そうしているうちに自分たちが食べるものがなくなった、と長老は話してくれました。そこで伊谷先生は、食料を少し置いて来たそうです。

 

アフリカの原住民の方々は焼畑農業をしています。彼らは部落周辺の山を、10等分ぐらいに分け、順番に伐採して火をつけて焼き払います。そして焼けたところを畑として、種をまきます。数ヶ月後にはタロイモなどが実ります。

 

焼畑農業では、おなじところで二~三年連作します。しかしそれ以上連作をしても、作物は土地がやせている為、収穫が余りありません。そして次の区画を焼き払い、種をまき、収穫を得ます。十等分した区画を二~三年毎に焼き払い、二十年~三十年で一周することになります。焼き払った最初の区画は、三十年後にはりっぱな森となっており、土地も肥沃になっています。

 

伊谷先生が“みんなにもっとごちそうをして食べるものがなくなったら、もっとたくさんの焼畑をつくったらどうですか“と尋ねました。長老が言いました。“それは神様が許してくれない”

 

もっと多くの食糧がほしいからと焼畑を広げていけば、森の循環が途絶えてしまい、やがて自分達が飢えてしまうことになる。必要な分だけをつくっていけば森は再生し、部落全体が生き長らえていくことができる。

 

彼らは“足るを知る”を知っているのです。欲望の赴くままに畑をたくさん作れば、森の循環の輪が切れてしまい、やがてすべてを失ってしまうということを知っているのです。

 

人間は原始時代から生きる叡智として“足るを知る”ということを伝えてきたために、今日まで生き長らえてきたのです。

 

6.    利己的な物質文明から利他的な精神文明へ

利己的な欲望の追求が近代文明の原動力です。“もっとほしい”“もっとよこせ”という利己的な欲望が科学技術の発展を促し、経済の発展を導き、今日の物質文明をつくりあげてきました。

 

次に来る新しい時代は、現在の物質的文明社会が利己的欲望の追求とすれば、利他的な欲望-精神的文明の時代となるべきなのです。

 

世のため人のために尽すことを通して、リーダーも一般市民も、明るく、心豊かに人生を生きる-精神的文明社会の実現が望まれています。みんなを幸せにしたい、みんなをよくしてあげたいという利他の欲望(人や世から感謝されたい欲望)を追求することによって築き上げられた精神文明の社会が、次の時代に来なければならないのです。

 

自分以外の人々、社会が幸せにならない限り、自分自身が心豊かに生きていくことができないのです。自分の生存を望むなら、人類は今すぐに利己的な欲望を脱し、利他的な欲望が求める文明へと切り替えていく道しかありません。人類に与えられた時間的猶予はもうそう多くはありません。今が最後の機会ではないかと、稲盛塾長は語っています。

 

共に生きる

 

1.    共生の思想が地球の将来を救う

地球上に存在するあらゆる生物は、互いに依存し合って生きています。その中で“共に生きる”ということをしていないのは唯人類だけです。利己的で足ることを知らず、欲望のままに突き動かされている人類のために、毎年毎年地球上に存在する膨大な生物種が消えています。多様な生物種が存在することによって地球のバランスが保たれていたはずです。ある生物種が消えさってよいわけがありません。現在の地球はバランスが崩れかけているのです。

 

多様な生物種が共生し合い、はじめて地球上に存在する生物たちが生存できたのです。絶滅種が増えていく中で人類だけが地球上に生存しえるはずがないのです。

 

2.    小善ではなく、大善の関係で共に助け合いながら生きていく

“共に生きる”という考え方は経営の場でも必要です。

自分が利益を得たいならば、お客様、取引先、協力会社、その他会社を取り巻くすべての人たちが共に生きていけるような“共生の関係”を築いていかなければなりません。

 

その共生の関係は小善であってはなりません。互いになれ合い、甘え合って生きていくという関係であってはなりません。厳しい経済環境の中でしっかりしたフィロソフィーを自らに課し、それを相手にも求めながら根底では互いに助け合っていく。そんな大善の考え方に基づいた関係でなければなりません。

 

周囲の人たちと一緒に繁栄していこうと思えば、共に厳しい生き方をしていくことが求められるのです。一見非情に見えますが、厳しい中でも相手を真に生かしていく大善の考え方に基づく共生の関係が経営においては必要不可欠なのです。

 

世のため、人のために一生懸命努力する、自分の会社が世のため人のためになる存在であること、すなわち社会から受け入れられるように努力するというフィロソフィーを共有することが大善なのです。このような大善を受け入れてくれるお客様、取引先、協力会社と共に助け合い、生き延びていくことが大切です。