盛和塾 読後感想文 第九十四号

人類が目覚めたとき“利他”の文明が開く

私達が地球という船もろともに沈んでおぼれないためには、もう一度、必要以上に求めないという自然の節度を取り戻すほかはありません。私達は、自らの欲望をコントロールする術を身につけなくてはならないのです。 

すなわち“足るを知る”心、その生き方の実践が必要になっています。これ以上、経済的な富のみを追い求めるのはやめるべきです。国や個人の目標を物質的な豊かさだけに求めるのではなく、今後はどうすればみんなが心豊かに暮らしていけるかという方向を模索すべきです、と稲盛塾長は語っています。 

老子が言う“足るを知る者は富あり”という“知足”の生き方にみんなが賛同し、いろいろな場面で広めていくことが大切です。国も、会社も、学校も、家庭でも、小さい時から“知足”を実践していくように指導すべきだと思います。“満足こそ賢者の石”。知足にこそ人間の安定があるという考え方や生き方を、私たちは実践していく必要があるのです。 

私欲はほどほどに、少し不足くらいのところで満ち足りて、残りは他と共有するやさしい気持ち。他とは人間に対してだけではなく、この地球の自然をも含めています。他と共に人間は、生きていかなければ、自分の生命を維持することはできないことを知るべきです。他人が生きていてくれるからこそ、自分が生かされていることをみんなが知る必要があります。 

地球にやさしくするのは、人間が生きていく為には、欠かせないことと知るべきだと思います。 

共生の思想と経営

稲盛塾長は“共生”の概念について、国際日本文化研究センターの梅原猛さんとVOICE(1992年9月号“利他を忘れた資本主義”)で対談されました。ここでは“共生の思想”と“経営”の関係について述べておられます。 

判断基準としての“利己”と“利他”

企業経営者は毎日のように大小様々な物事を決めていかなければなりません。その決めたこと、デシジョン(決断)の集積が会社の業績として反映されます。今まで順調に経営してきたにも関わらず、一朝にして会社が潰(つい)え去るような愚かな決定をする場合もありますから、決断というのは大変重要なことです。経営者の場合、また組織のリーダーの場合でも、上に立つ人間は正しい判断、決断をしなければなりません。 

決断は頭を含む心でしているわけです。頭を含めた心による判断の一番最初に来るのは、利己的な、エゴイスティックな、つまり自分に都合のよい、損得勘定を判断基準として物事を決めていきます。“本能的なデシジョン”。我々は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という五感で判断しているケースもあります。 

人にとってはこのように言う人もおります。“俺は頭もいいし、理性的な男なので、常に理知的に理性で物事を判断しようとしている”。この理性による判断とは、物事をロジカルに推理推論することです。頭のいいスタッフは問題の解決にはAのコース、Bのコース、Cのコースをとる方法があり、 Aのコースの場合はこうなります、Bのコースではこうなります、Cのコースではこうなります、と見事に推理推論してくれます。しかし、“どうすればよいのか”と聞きますと、“いや、それは私ではできません。社長に決断をお願いします”と返事が返ってくるのです。理性というのは推理推論はできても、物事を判断することはできないのです、と稲盛塾長は語っています。 

物事を決めていくには、本能のエゴか五感で、損得勘定を判断基準としてなされていることが多いのです。 

しかし人間には、人間の理性を超えた“霊性心(れいせいしん)”というものがあると言われています。 

普通、私達は、自分の家族にとって、会社にとっていいか悪いか、儲かるか儲からないかという利害損得で物事を決めて、言わば“利己”という判断基準を使います。五感を使うこともあります。しかし、それ以外に“霊性心”というものがあります。 

“霊性心”というのは人間の魂から直に出てくる、“利他の心”です。それは自分ではなく、他の人によかれかし、という心です。人の喜びを自分の喜びに感じられる、人の悲しみを自分の悲しみに感じられる、思いやりの心なのです。キリスト教の“愛”、仏教でいう“慈悲”のことです。 

この利他の心と利己の心が人間の心なのです。 

すべてのことを利己で決めてしまうと、人生でも経営でも、はじめのうちは成功を遂げることができても、それを維持させることはできないのです。 

損得勘定で、自分が儲けよう、儲けようと思い、次から次へとうまい話に乗っていくと、足元をすくわれて、つまずくことになります。自分だけよければよい、というものの考え方ではなく、自分の周囲の人たちがみんな、共に生きていけるようにしてあげたいという気持ちがあったならば、バブル崩壊に遭遇していなかったと思われます。財界の実力者で、人間的にもすばらしかった方が、バブル景気の中で不祥事を起こし、没落していかれました。それは利己的な視野で物事を見ていきますと、周りが見えなくなり、視野が狭くなります。そして判断を大きく間違ってしまったのです。 

経営者として、事業家として大成する人、大きく伸びていく人は、自分だけが儲かればよいという利己的な考えで生きている人ではありません。競争に負けていくわけにはいきませんが、それ以上に他者との関係というものも大変大事なのです。判断基準として利己と利他を考えていきますと、“共生”というものが見えてくるのです。他の者が生きなければ、彼等に依存している自分も生きられない、ということが見えてきます。 

アフリカ原住民に見る共生と循環の知恵 

  1. 自分が生きるためには、相手を生かさなければならない

稲盛財団では京都大学の総長、岡本道雄氏を中心に、多くの方々に、また京大の教授陣に評議員をお願いしています。日本の霊長類研究の創始者としてたいへん有名な今西錦治先生の愛弟子でもある、伊谷純一郎先生のお話を聞く機会がありました。 

1990年の京都賞受賞者に、イギリス人の女性研究者、ジェーン・クドール博士がおられます。彼女は26才の時からアフリカのコンゴの山中でチンパンジーと生活を共にしながら研究を始め、その生態を30年間にわたって調査し、その詳細な研究報告を世に発表してこられた方です。このジェーン・クドール博士を京都賞に推奨したのが伊谷純一郎先生でした。 

伊谷先生もコンゴの山中に棲(す)む野生のチンパンジー社会の研究をしてこられ、よくアフリカに調査に行っておられます。伊谷先生等がチンパンジーの生息する場所に行くには、何ヶ月もキャラバンを組んで、ジャングルの中を移動しなければなりません。そのチンパンジーの棲む山中へ行く途中に、農耕をせずに狩猟で生活をしている原住民の部落を通って行かれるそうです。そこで見、聞きしたことを伊谷先生がお話になりました。 

その部落では、男たちがそれぞれ弓矢を持って総出で狩りに行きます。そのうちの誰かが1人、シカでもシマウマでも一頭倒すと、その日の狩りは終わりで、みんな狩りをやめて部落へ引き上げていきます。獲物を仕留めた勇者は、荷物を担(かつ)ぎ、部落へ帰ってきて、それを解体してみんなにお裾分(すそわ)けする。 

獲物の一番おいしいところは、自分の家族に分ける。後は自分と血縁が濃い順番に、兄弟、親戚へと決まった量をお裾分けしていく。その部落は共同生活をしていますから、食べ物が入ると、必ずもらったものを自分だけで独り占めするのではなく、必ずもらったものを自分の親戚へと余すことなく配ります。 

つまり、ある男が獲物を捕ったとすると、まず親兄弟に大きい切身を分ける。それをもらった親兄弟も、自分の妻の里もありますから、そこにも少し分けなければならないというので分ける。だから末端に行くほど肉は小さくなるのですが、あっちからもこっちからも貰(もら)えますから、結局は部落全体が平均したように分配に与(あず)かる。どの家でも小さな肉切れと野菜やら芋やらを鍋に入れて煮込んで、その日の食事をする。 

それを見た伊谷先生が“量が少ないではないですか。もう少し食べたいのではないですか。なにも誰か一人が獲物を仕留めたからといって、狩りを止めてその獲物を分けてもらわなくても、あなたも勇敢な狩人なのだから、自分でもう一頭倒して食べたらどうなんですか。”と聞きました。

“いや、そういうことはしないんだ。誰かが一頭倒せば、その日の狩りはおしまいということになっている。確かにおまえが言うように、欲しいことは欲しいのだけれども、そういうことはしてはならないということになっているのだ。”と言う。村の掟としてそういうことはしてはならないと諦(あきら)めているというのです。 

伊谷先生は次のような説明をされました。

“その部落の周辺には野生のシカやウマが生存しています。そのシカやウマは赤ちゃんを産み育て、やがて死んでいき、生まれた子供はまた次の世代を生むというように、再生産と循環を繰り返しています。それを間引きして食べる分には絶えませんけれども、次から次へと俺も俺もと言って食べてしまったら、シカやウマは根絶(ねだ)やしになり、今度は自分たち人間が食糧難に陥(おちい)らなければなりません。だれかが一日一頭倒せば、その日の狩りはおしまいということが村の掟になっているけれども、それは自然の摂理を知っているからではないか。” 

自分達が生きていくためには必要な分として、一日一頭しか捕らない。それはシカやウマが再生可能な範囲、循環できる範囲でしか捕らないということなのです。人間も生きていかなければならないけれども、自分たちが生きていくためには、獲物であるシカもウマも生きなければならない。これが共生なのです。 

伊谷先生は次のようなチンパンジー社会のルールを何回も見られたそうです。チンパンジーの社会でも共生の原理が働いているのです。チンパンジーは雑食で、普段は木の上に登って生活しています。木の実を食べて生活しています。しかしたまには狩猟をして獲物を捕ります。チンパンジーは腕力もありますし、棒きれも使います。シカなどを倒しますと、他のチンパンジーが寄ってきて、みんなで分配します。ここにも共生の原理が働いているのです。 

事業経営に共生の働きを考えて見ます。商売をする場合、製造業であれば、最初に相手にするのは、競争相手ではなく、自社製品を売ってくれる代理店、卸屋さんの場合は小売店です。そういう代理店、小売店へのマージン支払いは、なるべく低くしてほしいと思うのは当然です。しかし彼らは彼らで生きていかなければなりません。彼らもしっかり利益を上げ、元気に生きてくれてこそ我々自身の商売も成り立ちます。ですから、リーズナブルな、正当なマージンを与えて自分が生きていくためには、あなたも生きてもらわなければ困る、というように考えなければなりません。これが共生です。 

  1. 将来世代のために自らの欲望を抑える

伊谷先生から、次のようなお話もありました。

アフリカの中で焼畑農業をしている原始的な農耕民族がいるそうです。人懐(ひとなつ)っこい人達で、いつもそこに立ち寄ってからチンパンジーの山に行かれるそうです。 

そこの酋長が言うには、去年伊谷先生らが立ち寄った後、フランスの調査団も何日間か逗留したので、その後大変な食糧難に陥ったということでした。

“あなたは人がよくて、我々が来てもよくごちそうしてくれるのだけれども、その食料をどれくらい作っているのですか”。酋長は“百人くらいの部落の人が一年間食べる分だけしかつくりません。”と言うのです。“それでは人に食わせれば足りなくなってしまうではないか。他の人たちが来て食べるのですから、その分だけ余計につくらなければいけないのではないか”。酋長は、“それはできないのだ”と言います。“部落の四隅に神様が祀(まつ)ってありますが、その神様が許してくれないのだ。”と答えたそうです。 

焼畑農業の場合、原生林に火を放って焼くわけですから、葉が落ちて地面に堆肥(たいひ)がいっぱい出来上がっている腐葉土(ふようど)のところに、さらに火を放って、灰になるまで森を焼く、それを耕(たがや)して芋や穀類(こくるい)などを栽培するわけです。農業技術が発達していませんから、毎年、同じものを栽培します。連作しますと、畑はたちまち収穫量が減ってしまいます。十年も同じ畑で栽培を続けますと、ついには収穫ができなくなってしまいます。彼らは連作しか知りませんから、今の畑が収穫できなくなれば、今度は隣の森に火を放って焼くわけです。そしてまた新たに畑をつくるという繰り返しです。 

そうしますと、百人いる部落を中心に、周囲を10等分して10年ずつ焼畑をしていきますと、元へ戻って来た時は100年前と同じように堆肥ができ、腐葉土がいっぱいできている。森を焼けばさらに地味の肥えたいい畑になってまた作物が収穫できる。 

去年は外国からキャラバン隊がたくさん来て、食べ物が減って、子供が餓死寸前になったというので、畑を五割広げたら、100年という長い周期で回っていた焼畑農業のサイクルはもっと短くなってしまい、畑は回復することなく、次第に地味が衰え、さらに次々と森を焼いていかなくてはならないことになります。 

百年周期というのは三世代、四世代先の話になります。つまり彼らは三世代、四世代後の中でも子孫が今と変わらず生活していけるようにしているわけです。“神様が許してくれないのだ”という欲望を抑えるルールを確立し、自然と共生しているのです。 

理屈は何もわかってはいません。しかし“畑を広げてはならない”ということが遺伝子レベルで彼らの中にインプットされているのです。一見素朴な考えですが、実は三世代、四世代先の時代まで見据(みす)えているのです。 

自分だけがよければよいというのではなく、森と共生しなければならないことを彼らは知っています。我々に置き換えれば、社会と共生しなければならないということを知っているが故に、自分だけがよければよいという行動はとれなくなるのです。 

足るを知ることが共生の原点

先ほどの狩猟民族を考えた場合、もっと食べたいというので、さらに一頭倒し、それを見た別の者が“俺も欲しい”といって獲物を捕ることになります。焼畑農業を営む農耕民族の場合ですと、“穀物がもっと欲しい”からといって、森を切り開き、畑を際限なく広げる。そうすれば周囲にある動植物も全部根絶やしになってしまい、結局自分の何世代か後にはみんなが飢え死にをし、滅びることになってしまう。つまり自分だけがよければいいという利己だけでいくと、結局は周囲の環境全体を破壊してしまい、自分も滅亡しなければならなくなるのです。稲盛塾長は警告を発しておられます。 

森と共に生きよう、共生しようという考えをもてば、森も存続しますし、自分も生きられる。わずかな肉切れしかもらえなくても、それで満足し、あとは芋や穀類を食べて空腹を満たしている。伊谷先生が“そんな量では腹が空くでしょう。もっとあなたも獲物を倒したらどうですか”と言いますが、“いや捕ってはいけないことになっている”と原住民は答えるのです。原住民は“足るを知る”ということを知っているのです。 

経済人でも成功して有名になり、驕り高ぶって失敗し、没落していく人は、足るを知らない人です。成功するとお金もどんどん増えるので、着る物から何から贅沢(ぜいたく)をし、いろいろなことをやりだす。もっと堅実で質素な人だったのに、成功すればするほど、理性が利かなくなり没落していく。 

どれほどお金持ちになったとしても、どれだけ贅沢ができるといっても、人が一杯しか食べない飯を何杯も食べられるものではない。人が一枚しか食べられないステーキを何枚も食べられるものではない。食べすぎて身体を壊したら元も子もなくなります。逆に人が一杯しか食べないのであれば、自分は八割しか食べない方がよいのです。 

アフリカの原住民と同じように、自分が住んでいる社会という森と共に生きていかなければならないのです。それしか自分が生きていることができないことを知るべきなのです。自分を取り巻く森羅万象あらゆるもの、生きとし生けるものすべてが生きている必要があるのです。そのためには利己を抑える、つまり足るを知るということが必要なのです。 

心を高めることで利己を抑える

利己的な経営者は自分の事だけしか考えていませんから、社会という森は見ていません。自分の家族を食べさせていくこと、お金を儲けること、自分の欲望を優先して考えます。利他の心がありませんから、周囲の人々からうとんじられ、疎外されていきます。すなわち社会という枠からはずれてしまうのです。そうならないように、利己を抑えなければなりません。利己を無くすのではなく、その程度が問題なのです。 

人間というものは、心を高める修行、修養をしないで放っておくと、心の中は利己だらけになってしまうのです。足るを知り、利己を抑えれば、人間というのは利他の心、思いやりの心が出るのです。 

利己だけであった場合は、社会全体という森を見ていないわけですから、視野が狭いのです。そこに利他の心が少しでも入って来ますと、自分だけでなく、周囲も見えるようになります。森に住んでいるみんなと共に生きなければならないのだと考えれば、視点、次元が高くなるのです。 

心を高め、人間のレベル、人格が上がってきますと、ちょうど山へ登るのと一緒で、高いところから物事が見えるわけです。心を高めるとは毎日、自己反省をして、自分を正しく直していく作業なのです。誰でも利他の心があるのです。それに気づくには毎日の反省が必要なのです。この反省は山登りに例えれば、坂道を一歩一歩頂上に上るようなものだと思います。頂上にはすばらしい景色=利他の心が待っているのだと思います。心のレベルが上がっていくと、高いところから見えるようになる。だから先見性、予見力というものが出て来るのです。 

会社の目的は、中に住む従業員の物心両面の幸福を追求すること

自分だけが儲かればいいと思っている間は、なかなか従業員との関係はよくなりません。経営者が利己的ですと、必ず従業員が反発します。 

親から譲ってもらった自分の会社を立派にし、守っていこうとするのは立派なことですが、しかし、そればかりに気を取られていると、視野が狭くなります。そうしますと、会社という森に住む従業員を生かすことができません。 

自分の会社を立派にするためには、会社に住んでいる従業員がまず栄えなくてはなりません。自分が栄えたい、儲かりたいのなら、まず従業員が喜んで働いてくれなければなりません。そのためには自分よりも従業員によくしてあげなくてはいけないのです。会社を立派にしていくためには、従業員を含めた周囲の人たちを幸せにしていくこと、会社という小さな森全体を立派にしていくことを目指さなければなりません。 

京セラでは、稲盛塾長の当初の経営目的、稲盛個人の技術を問う場から、従業員の生活を保証する場へと変わっていきました。それは当時、会社創立3年目頃に、10名の若い社員からの要求でした。毎年の昇給・ボーナスの保証書でした。とうてい受け入れられないことでしたが、稲盛塾長は三日三晩、市営住宅で若い従業員と話したのでした。多分すさまじいやり取りがあったはずです。稲盛塾長は経営者として、一生懸命みんなの期待に応えることができるように頑張る。もし経営者として不合理なこと、不正があったら殺してくれていいとまで言ったそうです。 

この団交は京セラの企業目的を“従業員の物心両面の幸せ”に変える出来事でした。 

企業という小さな森が繁栄するためには、経営者はお金持ちになりたいという自分の願望・欲望を少しでも抑えて、会社の中に住む従業員を大切にすることが大切です。それが会社をさらに立派にしていく元です。 

ここで忘れてはならないことがあります。それは誰もが利他の心を備えているということです。経営者の方々はやはり従業員を大事にしてあげなければならないと思っているはずです。従業員を大事に思っている人には、他によかれかし、と思い利他の心、優しく美しい心が備わっているのです。