盛和塾 読後感想文 第八十九号

道を誤らぬための羅針盤を持つ

世間には高い能力を備えながら、心が伴わないために道を誤る人が少なくありません。経営の世界の中にあっても、自分さえ儲かればいいという自己中心の考えから不祥事を起こし、没落を遂げていく人がいます。 

“才子才に溺(おぼ)れる”と言われるとおり、才覚にあふれる人はつい過信して、あらぬ方向へと進みがちなものです。そういう人は、たとえその才を活かし、一度は成功しても、才覚だけに頼ることで、失敗への道を歩むことになります。成功は、こうした意味で大変危険をはらんでいると言えます。 

才覚が人並み外れたものであればあるほど、それを正しい方向に導く羅針盤が必要となります。その指針となるものが理念(理性によって到達する最高の考え、例えば利他の心)、思想(哲学、世界、人生の究極の根本原理を追求する学問、例えば人間として正しい考え)であり、また哲学なのです。 

そういった哲学が不足し、人格が未熟であれば、いくら才覚に恵まれていても、せっかくの高い能力を正しい方向に生かしていくことができず、道を誤ってしまいます。これは企業リーダーに限ったことではなく、私達の人生にも共通して言えることです。 

人格というのは、性格+哲学という式で表せると、稲盛塾長は考えておられます。人間が生まれながらに持っている性格と、その後の人生を歩む過程で学び身につけていく哲学の両方から、人格は成り立っている。性格という先天的なものに哲学という後天的なものをつけ加えることにより、私達の人格は陶冶(とうや)されていくのです。言い換えれば、哲学という根っこをしっかりと張らなければ、人格という木の幹を太く、まっすぐに成長させることはできないのです。 

人類を導く新しい哲学の構築-人格と才覚

稲盛塾長は、現在の人類が作り上げた近代科学文明は、そう長くは続かないのではないかと危惧していると述べられています。環境問題ひとつとしても、今の人類では解決できそうもないですし、世界的な人口の膨張にしても、それを制約する方法も発見されておりません。資源エネルギー問題、食糧問題も、需要は増加の一途をたどるばかりです。これを抑制する方法も考えついていません。 

過去には宗教が人類の方向を決めてきました。もう宗教が導く道徳、哲学というものでは、現代人を納得させることはできないのかも知れません。 

稲盛塾長のこうした想いが込められたものとして、アメリカのオハイオ州のクリーブランドにある、ケース・ウェスターン・リザーブ大学にある“稲盛倫理賞”の授与があります。 

稲盛塾長は、同大学の” Keith Glennan Lecturer” という賞があるのですが、その講演の依頼を受けました。そこで“リーダーのあるべき姿”として講演をされました。この講演がきっかけとなり、“倫理と叡智のための稲盛国際センター”が稲盛財団の寄付で設立され、その第一回の授賞式が2008年9月4日にありました。 

第1回目の授与式は、アメリカ国立衛生研究所(NIH)国立ヒトゲノム研究所の所長で、ヒトゲノム解析チームを指揮したリーダーのDr.  Francis Collinsです。すばらしい宗教心も持っておられる生物学者です。その著書、“The Language of God: A Scientist Presents Evidence for Belief”(“ゲノムと聖書:科学者、神について考える”)。NTT出版:2008年)があります。その中で、科学と信仰とは矛盾するものではなく、よりよい社会を築くために両者を調和させることが必要であると説いています。 

企業統治とリーダーの資質

歴史をひもとけば、どのような国家であれ、その盛衰はリーダーによって決まってきました。中国の古典に“一国は一人をもって興(おこ)り、一人をもって亡ぶ”とあります。リーダーによって人類の歴史は作られてきたと言えると思います。 

企業においても同様です。経営者の行動の成否によって、企業の繁栄や従業員の運命が決します。特に企業のリーダーが関与した企業不祥事が日米を問わず頻発し、それによって著名な企業といえども淘汰されている現在、企業リーダーのあり方が厳しく問われているのではないかと稲盛塾長は語っています。 

エネルギー会社エンロン社は2001年に倒産しました。八大会計事務所の一つ、アーサーアンダーソンもその長い歴史に終止符を打ちました。通信電話会社ワールドコムも2002年に経営破綻しました。日本でも経営トップが関与した不正行為などにより、歴史ある多くの企業が淘汰され、日本経済の低調を招いています。 

  1. リーダーを堕落させる高額な報酬

このような企業統治の危機、経済社会への不信感をもたらせた原因のひとつとして、経営者をそのような不正に走らせる、現在の経営システムの問題が最初に指摘できると思われます。 

米国企業においては、経営者は高額な報酬や膨大なストックオプションを持っています。これは経営者のモチベーションとなる反面、企業内のモラルを低下させ、さらには経営者を堕落させる一面もあるのではないかと危惧していますと、稲盛塾長は述べています。 

経営者と従業員の給与格差の問題があります。過去二十年で米国のCEOの報酬は40倍以上に増えました。他方、一般労働者の報酬は二倍にしかなっていないのです。給与格差のあまりの拡大は企業内のモラルを維持するための大きな障害になるのではないでしょうか。経営者は労働者の賃金をなるべく低くしようとします。労働者にしてみれば、一生懸命働いて、経営者が高額な報酬を得る道具に使われていると考えるかもしれません。 

現在のような膨大な報酬やストックオプションの権利が与えられると、たとえ経営者が立派な人格者であったとしても、いつの間にか、自分の利益を最大化することに関心が向く様になってしまいます。次第に会社や従業員のことよりも株価をいかに高く維持し、自分の利益を増やすかということに最大の関心が向いてしまいます。 

現在のようなあまりに高額なインセンティブは麻薬のようにリーダーの精神をむしばみ、倫理観を麻痺させてしまいます。 

  1. リーダーの資質は“才覚”ではなく“人格”

先進国が直面している企業統治の危惧を未然に防ぐには、上記のような経営システムやリーダーの処遇の問題ではなく、より根本的なリーダーの資質が大事であると考えます。 

およそ130年前、日本で明治維新という革命を成し遂げた、日本に近代国家への道を切り開いた西郷隆盛というリーダーがいました。彼はリーダーの選任にあたって、最も大切なことを述べています。 

“徳の高い者には高い地位を、功績の多いものには報酬を”

つまり、高い地位に昇格させるのは、あくまでも人格を伴った者であり、素晴しい業績をあげた者には、その苦労を金銭などで報いるべきだということです。 

ところが、現在の企業では、リーダーの選任に当たって、徳、つまり人格はあまり顧(かえり)みられず、その能力や功績だけをもってCEOなどの幹部が任命されます。人格よりも業績に直結する才覚の持ち主のほうがリーダーに相応(ふさわ)しいとビジネスの世界では考えられています。 

本来、多くの人々を率いるリーダーとは、報酬のためではなく、その使命感を持って集団のために自己犠牲を払うことも厭(いと)わない、高潔(こうけつ)な人格を持っていなければならないはずです。事業が成功し、地位と名声、財産を勝ち得たとしても、それが集団にとってよきことかどうかを考え、必要に応じて自分の欲望を抑制することができるような強い克己心(こっきしん)や、その成果を社会に還元することに心からの喜びを覚える“利他の心”を備えた、すばらしい人格者でなければならないのです。 

資本主義はキリスト教の社会、特に倫理的な教えに厳しいプロテスタント社会から生まれました。初期の資本主義の担(にな)い手は、敬虔(けいけん)なプロテスタントの人々でした。 

著名なドイツの社会学者マックス・ウェーバーによれば、彼等はキリストが教える隣人愛を貫くために労働を喜び、生活は質素にして、産業活動で得た利益は社会のために活かすことをモットーとしていました。つまり“世のため人のため”ということが初期の資本主義を担(にな)った彼等プロテスタントの倫理規範であったのです。その他かい倫理規範のゆえに資本主義経済が急速に発展したと言えます。 

資本主義発展のこのすばらしい倫理観は、皮肉なことに経済発展と共に希薄(きはく)になり、いつのまにか、企業経営の目的や経営者の目的が“自分だけよければいい”という利己的なものに堕落していきました。 

中国、明時代の著名な思想家呂新吾はリーダーの資質についてその“呻吟語(しんぎんご)”の中で次のように述べています。 

“深沈重厚なるは、これ第一等の資質”。つまりリーダーとして一番重要なことは、常に深く物事を考える重厚な性格を持っていることであり、リーダーとはそのような人格者でなければならないということです。 

さらに呂新吾は“呻吟語”の中で、“聡明弁才なるは第三の資質”とも述べています。つまり頭がよくて才覚があり、弁舌が立つことなどは優先順位の低い資質でしかないというのです。 

現在の企業の荒廃の原因は、洋の東西を問わず、つまり“才覚”だけを持ち合わせた人がリーダーに選ばれていることにあるのではないでしょうか。 

ベンチャー企業を起こし、大成功を収める創業型の経営者も、大企業のCEOに就任し、それをさらに飛躍させる中興の祖となる経営者も、いずれにしても成功した経営者は、まさに才気煥発(さいきかんぱつ)、才覚に溢れた人々です。アナリストやベンチャーキャピタリストたちも、そのような才覚に溢れた経営者が率いる企業を高く評価し、結果として高い株価を示すようになります。 

ITバブルの頃に彗星のように登場しながらも、その後我々の前から去っていった多くの新進気鋭の経営者やきぎょうを見る時、西郷隆盛や呂新吾が唱えているように、企業のリーダーは“人格”で選んだのではなく“才覚”だけで評価した結果だと思われます。 

  1. “才覚”は“人格”によってコントロールしなければならない

ワールドコムは1983年創業の会社です。積極的な企業買収により、当時、優良企業と言われていたMCIも買収しました。50件以上の買収を繰り返し、アメリカ最大の電話会社AT&Tに対抗するほどの巨大な通信電話会社に成長させました。そのビジネスモデルは自社の株価を高く維持し、その株高を生かして株式交換によるライバル企業の買収という手法でした。 

株価維持のために、ワールドコムは利益を出さなければなりません。その為に不正会計処理をしました。70憶ドル(70 billion dollars)の巨額粉飾決算をしました。一般管理費を設備投資として計上するなど、不正会計処理に努めたと言われています。株価を高く維持することによって、ストックオプションを通じ、バーナード・エバンス氏は高額な報酬を得ようとしましたし、側近のCEOも利己的な欲望に駆られたのでした。 

ワールドコムの問題は、リーダーたる経営者の人格に問題があったために起こったと言えますが、経営者の才覚のみに着目し、それを見抜けなかったアナリストやベンチャーキャピタリストにも責任の一端があったと思われます、と稲盛塾長は語っておられます。 

“才子 才に溺れる”という格言があります。際に恵まれた人は、その並外れた才覚によって大きな成功を収めるけれども、その才覚を過信し、あるいはその使い方を誤り、やがて破綻(はたん)するということを、日本の先人は説き、人々の戒(いまし)めとしてきました。 

人並み外れた才覚の持ち主であればあるほど、それらの力をコントロールするものが必要となります。それが“人格”なのです。“人格”を高めるためには、哲学や宗教などを通じて、人間として正しい生き方を繰り返し学ばなければならないのです。 

  1. 繰り返し学ぶことによってつくられる“第二の人格”

人格とはどういうものかと考えてみます。人格とは、人間が生まれながらに持っている先天的なもの、その後人生を歩む過程で後天的に築き上げられるものと考えてよいのではないかと思います。 

人生の途中で何も学ばず、何も身につけることができないとすれば、その生まれたままの性格がその人の人格になります。その人格がその人の才覚の進む道を決めてしまうことになります。 

生まれながらの性格が利己的なリーダーが、すばらしい才覚を発揮して、一旦は成功することは可能です。しかし人格に問題があるため、いつしか私利私欲のために不正を働くということになるかも知れません。生まれつきの性格に問題があったとしても、人生ですばらしい聖賢の教えに触れ、人間としての正しい生き方を学んでいくなら、後天的にすばらしい人格者になることが可能です。 

とくに多くの社員を雇用し、社会的な責任も大きな経営者には、率先垂範(そっせんすいはん)して自らの人格を高め、それを維持しようと努力することが不可欠です。 

才覚のある経営者も、この人格が大切であるという認識や、人間として正しい生き方を示してくれる哲学や宗教についての知識を持っています。しかし、知っていることと実践できることは違うのです。 

多くの経営者は、人間として正しい生き方などは一度学べば十分だと思い、繰り返し学ぼうとはしません。そのため、才に溺れる経営者があとを絶(た)たないのです。スポーツマンが毎日肉体を鍛錬しなければ、その素晴らしい肉体を維持できないように、心の手入れを少しでも怠ると、人間はあっという間に堕落してしまいます。

人格を磨き、人格を維持しようと思えば、自分の心の手入れを怠ってはなりません。 

リーダーにとって必要なことは、人間として正しい生き方を繰り返し学び、それを自分の理性の中に押しとどめておくように努力することです。その為には、毎日、りっぱな哲学や宗教の教えを学ぶ時間を優先して執るようにすべきなのです。また、自分の言動を日々振り返り、反省することも大切です。学んできた人間としての正しい生き方に反したことを行っていないかどうか、厳しく自分に問い、反省をしていくことが大切なのです。 

このように、絶え間なく努力を重ねていくことで、自分が元々持っていた性格の歪みや欠点を修正し、新しい人格、“第二の人格”をつくりあげることができるはずです。 

  1. プリミティブな教えを守り通すことが企業統治の最善の方法

“人間として正しい生き方”とは、高邁(こうまい)な哲学や宗教にだけ示されているものではないように思います。子供の頃から両親や教師から“欲張るな”“騙してはいけない”“嘘を言うな”“正直であれ”“人様に迷惑をかけるな”というような人間として最も基本的な規範を教えられています。その中に“人間としての正しい生き方”はすでに示されていると思います。 

こういうことを問えば、一流大学や有名なビジネススクールを優秀な成績で卒業し、企業内でトップに登りつめた経営者達には、“失礼なことを言うな”と一蹴されるかもしれません。しかし実際には、そのような大企業のリーダーが、簡単な教えを守ることができなかったばかりに、あるいは社員に守らせることができなかったばかりに、企業不祥事が続発しているのです。 

現在、このような企業統治の危機を回避するために、高度な管理システムの構築が急務だと叫ばれています。しかし“人間として正しいこと”という非常にプリミティブな原始的な教えをまず企業のリーダーである経営者や幹部が徹底して守り、また社員に守らせることのほうが先決だと思います。企業のコンプライアンスなどについても、仕組みやシステムを考える前に、この原始的な道徳観をリーダーや幹部が身につけることが大切だと思われます。 

企業統治の確立に近道はありません。“人間として正しい生き方”という原始的な教えに基づき、企業のリーダーが率先して人格の向上に努める、その高潔な人格を維持する為に、普段の努力を続ける。これは迂遠(うえん)に思えるものですが、リーダーを、また企業を転落から未然に防ぐ最善の方法であると思うのです。 

才覚だけを備え、人格を伴わないリーダーが大きな権限を握り、企業内を跋扈(ばっこ)するようになれば、いくら高度な企業統治のシステムを築こうとも、それは有名無実と化すに違いありません。それは企業統治のシステムをコントロールするのは企業のリーダーだからです。 

  1. 福沢諭吉の説いた理想の経済人

十九世紀の後半、慶応大学の創設にかかわった福沢諭吉、実践的な教育、実学の大切さを唱えた啓蒙思想家は、星雲の志を抱く学生たちに、次のように理想の経済人の姿を語りました。 

“思想の深遠なるは哲学者のごとく  心術の高尚正直なるは元禄武士のごとくにして  これに加うるに小俗吏の才をもってし  さらにこれに加うるに土百姓の体をもってして  はじめて実業社会の大人(たいじん)たるべし  ” 

ビジネスリーダーは哲学者が持つような高遠な思想、武士が持つ清廉潔白(せいれんけっぱく)な心根、能吏(のうり)が持つような小賢(こざか)しいくらいの才覚をもち、さらに朝は朝星、夕は夕星を見るまで労働に勤(いそ)しむ農民のような、誰にも負けない努力を重ねる人物である。これらを揃えて、はじめて実業社会の大人(たいじん)となるのです。 

才能を私物化せず、世のため人のために使う 

  1. 経営者の傲慢が企業の没落を招く

日本を代表する経営者、ソニーの盛田昭夫、本田技研の本田宗一郎、パナソニックの松下幸之助は創業者経営者としては成功し、その後もりっぱな企業として存続しています。このような名経営者と呼ばれる方々を除けば、立派な会社を作り、立派な業績をあげられたにも関わらず、晩年をまっとうした方は、ほとんどおられないのです。稲盛塾長は京セラ創業以来、波瀾万丈の人生を生きて、人格を守り通していくことがいかに多難であるかを経験されました。経営者が傲慢になれば没落を招くのは間違いないのです。 

  1. 自然界にあるものは宇宙の本質(仏)が姿を変えたもの

山にも川にも、草にも木にも、あらゆるものに仏が宿っています。それは宇宙の本質が姿、形を変えてこの現象界に様々な現象をあらわしているからです。 

井筒俊彦という哲学者は人間の本質を解き明かそうとしてよく瞑想(めいそう)をしました。静かに瞑想をしていますと、次第に心が静かになっていき、精妙で絶妙な、限りなく透明感のある意識に近づいていきます。瞑想が進んで行きますと、五感もすべて消えてしまい、自分がそこにいるという意識だけが残ります。自分自身が存在しているとしかいいようのない意識状態になります。 

自分も含めて森羅万象すべてのものが、存在としかいいようもないものから成り立っている。机も何もかも、すべてのものが存在としかいいようのないものになってくる。宇宙の本質が、存在が姿を変えて、花をしている。グラスをしている。 

  1. 天から預かった才能を自分のためだけに使ってはならない

地球上には何十億の人が住んでいますが、ひとりとして同じ人はいません。生まれてみて、偶然そういう性格をもらい、そういう容姿をもらっていたことに気がつきます。人間はたまたま現在の才能と容姿をもってこの世に生まれてきただけであって、自分の意思で生まれてきたわけではありません。自分の才能や容姿は、神様から偶然いただいたものであり、それぞれ人間は才能や容姿に違いがあっても、みな本質的には存在としかいいようのないもので成り立っているのです。 

宇宙の本質、仏から姿が変わって、自然界のあらゆるもの、人間も含めて生まれてきたとしますと、あるいは神様が授けてくれた人間の才覚はその人個人のものではないのです。宇宙のもの、みんなのものなのです。 

そうであるならば、いかに才能に恵まれていようとも、その才能を自分だけのために使うことは決して許されないのです。すばらしい才能を持ち、ビジネスで成功をもたらした自分の才能が自分のものでないとしたら、決して驕(おご)ってはなりません。常に謙虚でなければなりません。あなたがすばらしい才能を持っているとしても、宇宙の本質、仏は何もその才能をあなただけに与える必要はなかったのです。他の人に与えてもよかったのです。だから、あなたの持った才能を当然のごとく自分のものとして、自分のためだけに使ってはならないのです。秀才も凡才もみんなが平等に、“宇宙の本質である存在としかいいようのないもの”から成り立っているのです。 

しかし、ほとんどの人間は、一生懸命努力をしてある程度の成功をしますと、知らず知らずのうちに驕りが生まれ、その才能を自分のものと思い、謙虚さを失い、怠惰になり、結局は没落してしまうのです。成功というものは自らが気づかないうちに驕り高ぶらせてしまうのです。 

  1. “人格”によって“才覚”を使いこなす

才覚を使うのは人間であり、その人格なのです。あまりにも才覚がありすぎて、才覚が人を動かすことがあってはなりません。才覚はその人の僕(しもべ)でなければならないにも関わらず、頭の良い人はほとんど才覚が主人となってその人を動かしています。使ってはいけないところでは才覚を制御しなければなりません。

盛和塾 読後感想文 第八十八号

夢を持ち続ける

私達は誰でもこういうことができたらいいなと夢を持っています。経営者の場合では、その夢を見続けて、その夢の中で事業を展開していくのです。 

その夢は直ちに実現しようとするわけではありません。ただ頭の中で一生懸命夢を描き続け、創造し続けるのです。頭の中でシュミレーションを、来る日も来る日も続けるのです。そうしますと、夢は願望となり、現実に一歩近づくようになります。 

仕事の中でも、私生活の中でも、町へショッピングにでかけた時、子供たちと公園で遊んでいる時、この願望を常に心に抱いていきます。そうしますと、頭の中の願望が、願望(夢)に関係があるものをキャッチして、目に飛び込ませてくれるのです。 

もし強烈な願望をいつも抱いていないと、夢に関係するものが、ただ通り過ぎて行ってしまうかもしれません。すばらしいチャンスは、ごく平凡な情景の中に隠れています。それは持続した強烈な目標意識を持った人の目にしか映らないのです。 

“ひらめき”を大事にする

人生を一生懸命に生きているとき、また、今やっている仕事に打ち込み、我を忘れて必死に努力をしていますと、“思いつき”がふっと湧いてきます。“思いつき”にも、軽い思いつき、発明発見に連なる思いつきまで幅があります。“思いつき”は“ひらめき”となることがあります。そうしますと、実行に移す段階に一歩近づくこととなります。 

多くの人たちは“ひらめき”を軽く考えていますが、ひらめきを大事にしますと、人生を実り豊かなものにすることになりますし、企業にもすばらしい発展をもたらしてくれる糸口になります。 

ファインセラミックスの開発 

  1. 最適のバインダーを求めて悪戦苦闘する-金属酸化物を焼き固める

稲盛塾長の勤務していた松風工業は、碍子(がいし)という焼き物を作る送電用碍子メーカーの老舗(しにせ)でした。塾長は石油化学の有機化学を勉強したものですから、彼は畑違いの会社に入社したのでした。塾長は碍子という無機化学の分野の製品を扱うことになったことや、しょっちゅう給与遅配がおこるものですから、初めから仕事がいやでいやでしようがなかったそうです。就職難の時代ですから、転職もままならなかったそうです。 

その当時は、テレビの普及が始まる頃でした。“従来からの焼き物である碍子ばかりを作っていたのでは将来性がない。今後はエレクトロニクスに対応した絶縁材料をつくる研究をしてくれ”と言われました。従来の碍子用材料では、高周波領域での絶縁性がよくありませんから、高周波に耐えられるような新しいセラミックスの研究をしてと言われたそうです。 

従来の碍子は長石(ちょうせき)と呼ばれる天然鉱物を砕いた粉末に粘土を混ぜて成形していました。それに対して、高周波絶縁用の新しいセラミックス材料は金属酸化物の微粉末を焼き固めます。粘土などを使用した陶磁器よりも高温で焼結させて作ったセラミックス、いわゆるファインセラミックスという分野です。 

アルミニウム、マグネシウム、シリコンなどの金属酸化物なのですが、微粉末にしますとパサパサの状態になり、圧力をかけても固まらないのです。従来の焼き物のように、粉末のつなぎ用として粘土と水を入れて混ぜてもパサパサのままで、固まりません。 

先輩は従来の方法、粘土と水を加えて成形していたのですが、不純物を含んだ粘土などを使わずに、金属酸化物だけを焼結させる(固める)ことによってその電気性能を調べて、高周波の絶縁が可能かどうかを調べたいと、塾長は考えていたのでした。成形する(固める)ために必要だからと言って、粘土を混ぜていたのでは、目指す性能のものができるはずがない、なんとか金属酸化物だけで焼結(焼き固める)させて、その物性を探りたい。 

粘土や水ではない何かで金属酸化物を固めようと思い、毎日乳鉢で粉末を混ぜて実験するのですが、なかなか思い通りの形状が作れません。 

  1. パラフィンワックスから“チャーハン方式”をひらめく

ある夜、実験台の下にあったある物に蹴(け)つまづいたのです。“こんなところに置きっぱなしにしてけしからん”と蹴とばそうとしたら、それが靴にヌルリとくっつく。それは石油精製したときにできるパラフィンワックスの大きなかたまりです。常温では固形をしていて、温めたら溶けるろうそくみたいな性質のものでした。これは研究課にいた先輩の人が、他の実験用に使っていたものだったのですが、大きなかたまりを落としていったものでした。そこで私は“ハット”気がついたのです“これは面白いぞ。パサパサで固まらない金属酸化物の微粉末とこれを混ぜればひょっとすれば、固まるかも”とひらめいたのです。 

混ぜる方法としてはチャーハン方式で、パラフィンワックスを鍋に入れて温めれば、溶けて水のようになります。そこに金属酸化物の微粉末を入れて、チャーハンみたいに混ぜる。固まらない金属酸化物の表面にパラフィンワックスの薄い膜を作ることによって、微粉末を固められるのではないかと考えたのです。 

鍋がありません。鍛冶屋さんから鉄板をもらってきて、自分でトンカチで中華鍋のようなものを作りました。その表面を磨きました。金属をコンロに乗せて、パラフィンワックスを溶かし、微粉末を入れてみました。微粉末の表面にパラフィンワックスの薄くコーティングされたものができました。実験を繰り返して、一番よいパラフィンワックスの添加量がわかりました。こうしてとうとう金属酸化物の微粉末を成形することができました。 

金型に微粉末を入れる時、大体の容量で充填する量を決めていました。升のようなものに入れて、微粉末をプレス成形するようにして、成形が終われば成形品が自動的に押し出されてくると考え、そういう自動機があればよいと思ったのです。しかし、貧乏な会社ですから、そういう装置を買うことはできませんでした。そこで手動の装置を作り、製品の量産を開始しました。 

稲盛塾長が完成されたプレス成形方法は、ドライプレス方式と呼ばれるものでした。その後、この方式は世界の潮流となり、エレクトロニクス向けのセラミックスの製造方法はすべてドライプレス方式になっていきました。この方式は、誰に教わったものではなく、稲盛塾長が自分で創造したものでした。 

従来、焼き物は高度な精度を求められる工業用材料には適さないと言われてきました。制度の高いものを作ろうと思えば、焼き上げた後にダイヤモンドで研磨しなければなりません。とてつもないほど高くつくわけです。プラスマイナス0.1ミリまたは0.01ミリの精度で成形し、焼き上げるというところまで技術を高めていったのでした。こうしてセラミックスがエレクトロニクスの分野で使われるようになったのでした。 

普通のサイズで七、八ミリ角、一辺の誤差がプラスマイナス0.1ミリのファインセラミックスを十万個作ってくれと言われた場合、それだけの精度で量産することはできません。プラスマイナス0.1ミリの精度の焼き物を数円で一万個作っていくには、ダイヤモンド研磨では追いつかないのです。その為には、精密な成形技術や焼成技術が必要だったのです。その技術開発の端緒(たんしょ)となったヒラメキは、“チャーハンの原理”なのです。“チャーハンの原理”を発見したことで、ファインセラミックスの量産化が可能になったのです。 

すばらしい高周波絶縁特性を持つセラミックス材料(フォルステライト)を開発すると同時に、その製品の量産化にまで成功しましたから、当時の大手電機メーカーから注文がくるようになったのでした。 

  1. 無限の能力を信じ、誰にも負けない努力を続けることが“ひらめき”を実現させる

なんとしても、目的としていることを達成したいと思い続け、いろいろな努力を続けていく時、たまたま研究室の廊下に落ちていたものにつまづいた。そこで“ひらめき”があり、その“ひらめき”を実現させていったのです。 

“なんだそれはお前の思いつきやないか”と我々は軽く扱いがちですが、その“ひらめき”がたいへん大事で、その“ひらめき”こそが、創造の原点になるのです。 

“ひらめき”だけで創造が生まれるわけではありません。ひらめいた後、すさまじい努力が必要なのです。ひらめきをなんとしても形にしていくという努力が要るのです。すさまじい努力が創造をもたらすのです。 

人の成功を見て“クリエイティブな技術開発をした人はすばらしい”と称賛しても、自分にはそうしたことはできないと思いがちです。そうではなく、最初は誰もしもが思いつき、ひらめきなのです。それをすさまじいばかりの努力によって、形あるものに変えていく作業が要るのです。 

“ひらめき”を何としても形にしたいとバカみたいに一生懸命努力をする中で、道が開けてくるのです。必死になって続けなければ、できないのです。 

普通はある程度、余裕があります。余裕があるものですから、ひらめきを実現しようと思っても、ちょっと困難に遭遇すると“これはやっぱり無理かな”と手を引いてしまう。だから成功しないのです。余裕がなければ、これを成功させないと明日の食べ物が買えない、従業員に給料を払ってやれない、お金はないが、何としても成功しなければならないと、後に下がることができない状態に追い込んで努力をした方が、余裕のある場合よりも成功する確率は高いのです。 

“自分には無限の可能性/能力がある。神様は誰にでも無限の能力を与えてくれているはずだ。”ということを信じることが大事です。自分で自分の可能性を信じていなければ、無駄とも思えるような努力を続けることはできません。 

人生には誰しも思いつき、ひらめきがあります。それは神様が与えてくれた啓示ではないでしょうか。神様から多くの気づきを与えてもらっているのに、それに気がついていないばかりか、気がついても“なんや、こんなバカなこと”と言って見過ごしてしまう人が大半ではないかと思います。 

神の啓示は誰に対しても平等に与えられている

神様は、幸せに歩けるようなヒントを我々に与えてくれています。ところが、それを真面目に考えず、見過ごしている人が多いのではないでしょうか。 

努力すれば人間には無限の能力があります。能力がないのは努力をしないからだと思います。“潜在意識に透徹するほどの強く持続した願望を心に抱け”と稲盛塾長は繰り返し私達に説いています。 

ひらめきだけが発展要因ではありません。他にも成長の理由はあるのですが、“ひらめき”が創造に結びつき、発見・成長の基になっているのだと思います。

盛和塾 読後感想文 第八十七号

六つの精進

六つの精進は企業経営をしていく上での必要最低限の条件であると同時に、人間としてすばらしい人生を生きていくために守るべき必要最低限の条件なのです。六つの精進を毎日実践し続けていけば、やがて自分の能力以上のすばらしい人生が開けていきます。 

すばらしい人生、幸福な人生、平和な人生を得たいと思うならば、またりっぱな企業経営をしたい、社員に喜んでもらえるようなすばらしい経営をしたいと思うならば、六つの精進を忠実に守ることですと稲盛塾長は述べています。 

一.  誰にも負けない努力をする

  1. 一生懸命働くことがすばらしい結果を生む

企業経営の中でいちばん大事なのは“誰にも負けない努力をする”ことです。“毎日一生懸命に働く”ことが企業経営で最も大事なことだということです。

すばらしい企業経営をするにしても、すばらしい人生を生きるにしても、誰にも負けない努力をすること、一生懸命に働くことが必要です。このことを除いては、企業経営の成功も人生の成功もありえないと、稲盛塾長は伝えています。 

極端に言えば、一生懸命に働きさえすれば、経営は順調にいくのです。どんな不況が襲ってくるかも知れませんが、どんな時代になろうとも、一生懸命に働きさえすれば、十分にそれらの苦難を乗り越えていけるのです。一般に、経営をするには経営戦略、経営戦術が大事と言われていますが、一生懸命働くということ以外に成功する道はないのです。 

京セラの場合、会社を作っていただいた方々に迷惑をかけてはならないと、必死になって、塾長は働きました。毎日朝早くから、夜は十二時過ぎ、たいていは一時、二時まで働かれたそうです。それを毎日のように繰り返し、努力を重ね続けてこられました。一生懸命に働くことが成功につながる、ということは間違いのないことです。一生懸命に働くということ以上の経営ノウハウはないのです。 

  1. 一生懸命に働くことは、生きるものすべてに課せられた義務

自然界ではすべて一生懸命に生きるということが前提になっています。自然界に生きているすべての動植物は必死に、一生懸命に生きています。少しお金ができたり、会社がうまくいくようになると、楽をしようという不埒な考えをする、それは我々人間だけです。ですから、我々人間にとっても、毎日毎日をど真剣に一生懸命に働くことが、最低限必要なことだと思います。 

自然界では、アスファルトの割れ目から雑草が芽を出しています。あまり水分も土もないところで、雑草が芽を出しています。自然界では、そういう大変過酷な環境の中でも、種が舞い落ちれば芽を出し、葉を広げ、炭酸同化作用を精いっぱい行い、そして花を咲かせ、実を結び、短い一生を終えます。植物も動物もみんな過酷な条件の中で、ひたむきに必死で生きています。いい加減に、怠けて生きている動植物はありません。その自然界の常識に従うならば、地球上に住んでいる我々人間も、真面目に一生懸命に生きることを要求されていると思われます。 

“一生懸命に働いていますか”と一般に質問しますと、“はい、働いています”と返事が返ってきます。塾長は“誰にも負けない努力をしていますか”“誰にも負けないような働き方をしていますか”と聞くようになりました。あなたは自分では一生懸命働いていると言っているけれども、そんな働き方では不十分です。もっと真面目に、もっと一生懸命に働かなければ、会社経営でも人生でもうまくいきません。 

  1. 仕事が好きになることで一生懸命働くことが苦でなくなる

一生懸命働くことは苦しいことです。その苦しい仕事を続けていくのには、自分が今やっている仕事に惚れ込んで、好きになることが必要です。好きなことであればいくらでもがんばることができます。はたからは“あんなに苦労して、あんなに頑張って大変だろう”と見えることも、本人は好きでやっているのですから、平気です。 

“惚れて通えば千里も一里”惚れた人に会いに行こうと思えば、千里の道も一里にしか思えない。どんなに疲れていても、好きなあの人に会いに行こうと思えば、千里の道のりであっても、なんとも思わずに歩いて行けるのです。 

ところで、好きな仕事を最初から見つける、あるいは好きな仕事につけるという幸運な人は、そうはいないはずです。生活のためにその仕事をしているというのが普通です。仕事に打ち込んでいますと、自然と仕事が面白くなり、その仕事が好きになります。 

  1. 仕事に打ち込むことで創意工夫が生まれる

毎日、自分の仕事に打ち込み、一生懸命に仕事をしていけば、無駄に漫然と仕事をするということはなくなります。自分の仕事が好きになり、一生懸命に仕事をすれば少しでもよい方向に仕事を進めていこうと思い、もっとよい方法がないだろうか、もっと能率が上がる方法がないかと誰でも考えるようになります。 

一生懸命に働きながら、もっとよい方法がないかと仕事を進めていきますと、創意工夫の毎日になっていきます。今日よりは明日、明日よりは明後日と、自分で工夫して仕事をしていくようになるのです。 

一生懸命に働くということをしなければ、本当の創意工夫は生まれてきません。生半可な、ダラダラした仕事をしながら、何かよい方法はないだろうかと思っても、すばらしい着想は生まれて来ないのです。思いつきと創意工夫は、全く違うのです。 

真摯に、真面目に、一途な努力を続け、行き詰ってもあきらめずに一生懸命に考えている、ひたむきな姿を見て、神様はボンクラな人に対しても新しい知恵、ひらめき、啓示を与えてくれると稲盛塾長は考えています。 

二.  謙虚にして驕らず

謙虚であるということは、人間の人格を形成する資質の中で最も大切なものではないかと思いますと、稲盛塾長は語っています。“あの人は立派な人格者だ”と言われる人は、人間性の中に謙虚さを備えている人なのです。 

中国の古典の中に“謙のみ福を受く”とあります。謙虚でなければ幸福を受けることはできない。幸福を得られる人はみな謙虚でなければならない。会社が立派になり、大きくなっていけば、自然と人はみな傲慢になり、有頂天になってきます。そういうときにこそ、謙虚さを決して忘れてはいけないのです。 

世の中では他人を押しのけてでも、という強引な人が成功するように見えますが、決してそうはならないのです。成功する人というのは、内に燃えるような情熱を持ち、闘争心、闘魂を持っていても実は謙虚で控えめな人なのです。 

三.  反省のある毎日を送る

一日が終わった時、その日を振り返り、反省をするということは、大変大切なことです。例えば今日は人に不愉快な思いをさせなかっただろうか。不親切ではなかっただろうか。傲慢ではなかっただろうか。卑怯な振る舞いはなかったか。利己的な言動はなかっただろうか。一日を振り返り、人間として正しいことを行ったかどうか確認する作業が必要です。 

反省のある毎日を送ることで、人格、魂も磨かれていきます。すばらしい人生を送る為にも、日々反省し、自分の心、自分の魂を磨くことがたいへん大事なのです。 

  1. 反省とは心の庭を耕し、整理すること

イギリスの哲学者James Allenの“原因と結果の法則”という本の中に次のような一節があります。 

“人間の心は庭のようなものです。それは知的に耕されることもあれば、野放しにされることもありますが、そこからはどちらの場合にも必ず何かが生えてきます。もしあなたが自分の庭に美しい草花の種を蒔かなかったら、そこにはやがて雑草の種が無数に舞い落ち、雑草のみが生い茂ることになります。” 

もしあなたが自分の心の庭に美しい草花の種を蒔かなかったならば、雑草が生い茂る荒れた庭になってしまう。つまり反省をしないと、心は雑草のみが生える荒れた庭になってしまいます。 

“すぐれた園芸家は庭を耕し、雑草を取り除き、美しい草花の種を蒔き、それを育みつづけます。同様に私達も、もしすばらしい人生を生きたいのなら、自分の心の庭を掘り起こし、そこから不純な誤った思いを一掃し、その後に清らかな正しい思いを植え付け、それを育みつづけなくてはなりません。” 

私達は自分の心の庭を耕し、毎日の反省をすることによって雑草、つまり自分の邪(よこしま)な思いを取り除き、そこに新しくすばらしい思いを植えるようにしていかなければなりません。邪な心を反省し、善き思いを心の庭に育てていくのです、と稲盛塾長は私たちに話してくれています。 

“正しい思いを選んでめぐらし続けることで、私たちは気高い、崇高な人間へと上昇することができます。と同時に、誤った思いを選んでめぐらし続けることで、獣のような人間へと落下することもできるのです。 

心の中に蒔かれた思いという種のすべてがそれ自身と同種類のものを生み出します。それは遅かれ早かれ、行いとして花開き、やがては環境という実を結ぶことになります。良い思いは良い実を結び、悪い思いは悪い実を結びます。”

James Allen: “As a Man Thinketh” Martino Fine Books 

自分の心という庭の雑草を抜き、自分が望む美しい草花の種を蒔き、丹念に水をやり、肥料をやって管理をしていかなければならない。まさにそれが反省なのです。反省することによって、自分の心を磨いていくことができますし、そのことは私達に素晴らしい人生をもたらしてくれることになるのです。 

  1. 悪しき自分を抑え、よき自分を伸ばす

この自分の悪い心、自我を抑え、自分がもっている良い心を心の中に芽生えさせていく作業が“反省をする”ということだと稲盛塾長は語っています。 

よい心とは、心の中心にある真我、つまり利他の心です。他を慈しみ、他によかりけりと思う、やさしい思いやりの心です。それに対して自我とは、自分だけがよければよいという利己的な心、厚かましい強欲な心のことです。 

今日一日を振り返り、今日はどのくらい自我が顔を出したのかを考えてそれを抑え、真我つまり利他の心がでるようにする作業が“反省”だと稲盛塾長は伝えておられます。 

インドの詩人、哲学者タゴール Rabindranath Tagoreの詩です。

(”I won’t let you go” Ketaki Kushari Dyson English Version)

人間の心の中には邪(よこしま)で貪欲(どんよく)な利己的な自分と、素晴しい利他の心、美しい慈しみの心、やさしい思いやりの心を持つ自分、つまり卑しい自分と美しい自分とが同居しているということをタゴールは詩の中で唱えています。 

“私はただひとり、神の下にやってきました。

しかし、そこにはもう一人の私がいました。

この暗闇(くらやみ)にいる私は誰なのでしょう。

この人を避けようとして、私は脇道にそれるのですが、彼から逃れることはできません。

彼は大道を歩きながら

地面から砂塵(さじん)を巻き上げ

私が慎ましやかにささやいたことを

大声で復唱します

彼は私の中にいる卑しい小さな我

つまりエゴなのです。

主よ、彼は恥を知りません。

しかし私自身は恥じ入ります。

このような卑しく、小さな我を伴(ともな)って、

あなたの扉の前にくることを。” 

卑しく貪欲な、利己的な私、彼は恥を知りません。私は慎(つつ)ましやかに生きようと思って“あれがちょっと欲しいな”とささやいたことを彼は"オレはあれが欲しい、あれをよこせ“と大声で怒鳴るのです。恥を知らず、貪欲で利己的な“もう一人の私”というものを私は伴なっているのです。彼から逃れようとしても、彼は私から離れないのです。なぜなら、私という心の中にその卑しい彼も同居しているからです。 

恥を知らない彼も美しい心を持とうとする私も、両方とも人間には必要なのです。卑しい彼を完全に除くということは、私の肉体が亡びることだからです。人間が生きていく為には、衣、食、住が必要です。その為には、自分を生かす為に利己の心がどうしても必要なのです。特に食べるものがなければ、人間は生きられません。食べ物を手に入れる為には、他人を押し除けても、自分の手に食べ物を得なければならないのです。ですから自我が悪いのではなく、自我をコントロールする術を絶えず考える、すなわち反省が必要なのです。 

心を高めることと経営を伸ばすというのは車の両輪なのです/パラレルなのですと稲盛塾長は述べています。 

四.  生きていることに感謝する

人は決して自分一人で生きてはいけません。空気、水、食料、住宅、また家族や職場の従業員達、さらには社会など、人は自分を取り巻くあらゆるものに支えられて生きています。生かされています。 

健康で生きていること、そこには自然と感謝の心が出てこなければなりません。 

生きていること、生かされていることに感謝し、幸せを感じる心によって人生を豊かで潤いのあるすばらしいものに変えていくことができるのだと、稲盛塾長は考えておられます。 

不平、不満を持って生きるのではなく、現状あるがままを受け入れ、感謝する。そしてさらなる向上を目指し、一生懸命努力をする。そのためにも、神様、仏様に感謝し、自分を取り巻くすべてのものに“毎日ありがとうございます”と感謝の念を送るべきだと思います。 

“ありがとうございます”の実践は、家族から始めることができます。妻や子供や孫に“ありがとう”と言えることが毎日あります。ある時は自分の兄弟や甥や姪の助けに心から感謝する。従業員の頑張りに“ありがとう”と言葉をかける。自分の心を素直に表し、“ありがとうございます”と感謝の念を口に出せば、それを聞いた周囲の人々はよい気持ちになってくれて、和やかで楽しい雰囲気がみなぎります。 

どんな些細な事に対しても、感謝をする心はすべてに優先する大切なものです。

“ありがとうございます”

“もったいのうございます”

“かたじけのうございます”

という言葉は、大きな力を持っています。 

五.  善行、利他行を積む

  1. 積善の家に余慶(よけい)あり

中国の古典に“積善の家に余慶あり”という言葉があります。善行、利他行を積んだ家にはよき報いがある。善行を積んだ本人だけではなく、家全体、一族にまでよいことが起きます。 

また、世の中には因果応報の法則があります。良い行いを重ねていけば、その人の人生にはよい報いがあると言われています。そのように利他行、つまり親切な思いやりの心、慈悲の心で人にやさしく接することは、必ず私達にすばらしい幸運をもたらしてくれるからです。 

善き事を実行すれば、運命をよい方向へ変えることができるし、仕事もよい方向へと変化させていくことができる。バカ正直に善行を積むこと、世のため人のために一生懸命利他行に努めること、それが人生をまた経営をさらによい方向へと変えていく唯一の方法だと稲盛塾長は述べています。 

  1. 情けは人の為ならず

他人の為に行った善き行いは必ずその当人に返ってくるという意味です。 

一方、他人に親切にしてあげた、面倒を見てあげたために、ひどい目にあったという話がよくあります。例えば友人の苦しい状況を救うために、借金の連帯保証人になって助けてあげて善いことをしたと思ったけれども、その結果、自分は大変な目にあってしまい、財産を全て失ってしまったという人がいます。私の友人のお父さんはある高校の校長をされておられましたが、友人の債務保証人になり全財産を失いました。その為、私の友人は、学費の仕送りがなくなり、バイトで生活費を稼ぐこととなりました。 

“情けは人の為ならず”かけた情けはきっと返ってくるのだと言われているが、親切に他人の面倒をみてあげることで逆に自分に不幸が降りかかってくることもあると言われる人もいます。 

しかし、お金に困っている友人を、債務保証人となり助けることは、本当に友人を助けることかどうか、良く考えることが大切です。単に情けをかけて一時的に友人は助かったかも知りませんが、その情けは本当にその友人の役に立っているのか考える必要があります。その情けはさらに友人をだらしなくすることになってしまうのです。その友人のいい加減なだらしなさを助長することになってしまうのです。これが“小善”なのです。 

友人が助けを求めた時には、しっかりと経緯を聞き、何が原因なのか理解した上で、もし友人のしでかした不始末、いい加減さの結果である場合は毅然(きぜん)として断(ことわ)り、友人に自分でその苦難を乗り越えるように導いていくことが大事です。これが“大善”なのです。 

立派な人生を送るためにも、また立派な経営を続けていくためにも、真の善行、利他行を積むようにと稲盛塾長は述べています。 

六.  感性的な悩みはしない

  1. 過去の失敗は、反省した後はキッパリ忘れて新しい仕事に打ち込む

人生では心配事や失敗など、心を煩わせるようなことがしょっちゅう起こります。しかし、一度こぼれた水は元へと戻ることはないように、起こした失敗をいつまでも悔やみ、思い悩んでも意味はありません。既に起こってしまったことはいたずらに悩まず、改めて新しい思いを胸に抱き、新しい行動に移っていくことが大切です。 

起きてしまったことは、しようがありません。キッパリとあきらめて、新しい仕事に打ち込んでいく。 

しかし、大失敗をしたとしても、なぜそういうことになったのか十分に反省し、今後一切そういうことはすまい、今後は心を入れ替えて努力していこうと心に誓うことはよいことです。 

失敗や不祥事に遭遇した場合に、いつまでもクヨクヨと失敗に心を悩ませ、心を暗くしていくことは止めるべきです。そのような不祥事を招いたのは、過去の自分自身が犯した罪、つまり業があったからなのです。その業が今結果として非難として出て来たのです。 

どんな不名誉なことでも、勇気を持って真正面から受け止め、立ち直っていかなければなりません。たいへんな不祥事を起こし、家族、親戚、友人、会社や世間に対して顔向けできないような事態が起ころうとも、悩まず、反省をしたら勇気を奮い起こして新しいことに打ち込むことが大切です。 

災難にあった時、それは自分が過去において犯した罪、穢(けが)れ、業、つまりカルマが結果となって出て来たのだと考えるべきです。すっきりとそのことを忘れ、新しい人生に向って力強く、希望を燃やして生きていくことが大切です。 

“六つの精進”の実践は必ず、人生や経営を成功に導く道を開いてくれます。

盛和塾 読後感想文 第八十六号

部下をモチベートし続ける

リーダーは部下の人たちを常にモチベートし、やる気を起こすように努めなければなりません。目標に向かって燃える集団をつくるには、部下が常にやる気をもって仕事ができるようにすることが不可欠です。 

職場の環境に気を配り、働きやすい様にする。部下が困っているようであれば、親身になって相談に乗り、アドバイスを与える。予定を達成した時や立派な仕事をした時には、ねぎらいの言葉を忘れない、長所を見つけて褒めるなど、部下がやる気をもって仕事に取り組めるような雰囲気をつくることが必要なのです。 

集団をまとめていくためには、人間の心理がわからなくてはならないのです。部下の心に響くような細やかな配慮が常にできるようにならなければ、すばらしいリーダーにはなれないのです。 

これは従業員に迎合せよと言っているのではありません。会社の原理原則に基づいてその考え方に照らして、伝えるべきことは伝え、褒めることは褒めることでなければなりません。この時、各従業員に話す場合、会社の原理原則を外れることを受け入れてはなりません。厳しさの中にも温かい言葉、態度で接することが必要と思います。 

不況を次の発展の飛躍台に 一つの予防策と五つの対策 

不況は成長のチャンス

不況は成長のチャンスです。企業は不況というものを境に体制を強化し、次の飛躍に備えることで、発展していくのです。 

不況は大変苦しいのですが、次の飛躍へのステップとする絶好の機会としなければなりません。そして不況が厳しければ厳しいほど、明るくポジティブな態度で全員一丸となって創意工夫を重ね、努力を傾けて難局を乗り切っていくことが大切です。 

経営者は不況に遭遇しますと、心配で夜も眠れないくらいになります。しかし何回も遭遇していきますと、従業員の結束が強固となり、それが竹の“節”のようになります。“節”がいくつかできますと、その都度、会社が大きく飛躍したことになるのです。 

不況のたびに全従業員が結束し、ひとつになって頑張ることによって、次の飛躍の足がかりとなる“節”が作られていきます。 

不況に備えての予防策-高収益であれ

高収益であるということは、不況になって売上が減少しても、赤字に転落しないで踏みとどまれる抵抗力があるということです。つまり高収益は不況への最大の予防策となるのです。 

また高収益企業では内部結束が増加しているので、不況が長引き、利益が上がらない状況が続いても、耐えることができます。さらに余裕資金を使って不況でさらに安くなっている設備を購入するなど、思い切った設備投資もできるのです。経営とは、不況で追いつめられて頑張るのではなく、かねてから高収益になるように、全力を尽くしておくべきものなのです。 

  1. 高収益であれば売上が激減しても利益を確保できる

いつなんどき不況に陥るのかはわかりません。その不況に対する予防策をかねてから考えていたかどうかということが大事なのです。 

製造会社の場合ですと、売上総利益率は最低30%を確保し、一般管理販売費を20%に抑え、10%の税引前利益を確保する。その為には付加価値生産性の目標を3と設定します。すなわち一時間当りの付加価値が一時間当りの人件費(給与、社会保険料、健康保険料、労災保険)の3倍になるように努めるのです。 

このように、普段から高収益の企業体質をつくりあげておくということが、不況に備えての最良の予防策となるのです。 

普段から利益率が高いということは、固定費も少ないわけですから、10%ぐらいの利益率を出していれば、売上が減っても利益は5%、3%と減少するだけで済むのです。売上が40%ぐらい減らなければ、赤字には転落しないのです。 

過去にはオイルショック、円高ショックが日本経済を直撃しました。しかし京セラの税引前利益率は30%ほどありました。独創的な技術で誰にも作れないようなファインセラミックス製品を作っていましたから、たいへん高い利益率を維持していました。そのために売上が大きく下がっても赤字には転落しなかったのです。 

オイルショックが日本経済を直撃した1973年、1974年、大手企業も次々に操業停止に追い込まれ、従業員を解雇し、レイオフするか、あるいは自宅待機させていました。そうした中で、京セラは解雇もレイオフも、自宅待機もさせていないのです。 

不況が来た時に慌てても、利益率の向上は望めません。かねてより利益率が高いということが、不況に対する第一の備えになるのです。 

  1. 豊富な内部留保が従業員の生活を守る

高収益の体質を続けている企業の場合、内部留保も相当あります。そのため、不況となって赤字転落をしたとしても、一年や二年なら、銀行からお金を借りなくても、従業員をクビにしなくても、十分に持ちこたえることができるわけです。 

高収益だからこそ、内部留保を蓄積していくことができるのです。不況になれば、従業員は動揺します。その時、“心配しなくてもよい、立派な会社が次々に倒産していくような不景気になっても、我社は生きのびていくことができる。売上がゼロになっても、従業員に飯を食わせていけるだけの内部留保がある。みんな心配しないでくれ。みんな落ち着いて頑張ろう”と京セラでは言っていたそうです。人心の動揺を抑えることができたそうです。 

松下電機の松下幸之助さんが言われた“ダム式経営”こそ、内部留保の蓄積なのです。不況に対して備えをしてきたことは、従業員の心の安定にもつながります。不況になって、みんなが心配し、慌てふためくのではなく、落ち着いて不況克服に努めることができるのです。 

しかし、アメリカを中心とした海外のファンドや投資家たちは、巨額の資金を動かして企業の株式を購入し、それに伴う利益によってビジネスをしています。そういう人たちは株主資本利益率(ROE) Return On Equity を重視します。何故なら、投下資本の価値が短期間に得られることを目的にしているからです。ROEが上昇すれば、株価の上昇に繋がります。 

例えば投資ファンドがある会社の株式を十億円で購入しました。その時、ROEは20%でした。ところがROEが40%に上昇しますと、株価に対する利益が二倍に上昇しますから、株価は二倍近くになると考えているわけです。ですから、自己資本が少なければ、OREは当然上昇します。ROEが上昇しますと株価が上がるというわです。こうした投資家の人たちは自己資本に対していくらの利益が出たのかということをみていきます。 

こうした投資家の目からみますと、自己資本が大きければ大きいほど、それだけの自己資本を使ってたったこれだけの利益しか出なかったのか、つまり投資効率が悪いという判断をします。そのために、経営者までが、ROEを上げなければならないのだから、内部留保したお金を使って次から次へと企業を買収したり、設備投資をしたりするなどをして、短期的にでも利益を出そうとします。 

ROEが高い企業がよい企業だということが経営の常識になっているのは、短期的に企業を見た時の尺度でしかないのです。何十年も会社経営をしようとする企業にとって安定が何より大事です。大変な不況が押し寄せてきたときに、十分に耐えていくことができるだけの累積が必要なのです。 

不況対策1.全員で営業する

不況時には全従業員がセールスマンでなければなりません。営業や製造、開発はもちろん、間接部門にいたるまで全員が一丸となって、アイデアをお客様に提案し、受注へと結び付け、納入まで行う。そのようなことを通して、自分自身も部内だけではなく、会社全体の仕事が見えてきます。営業の手伝いで単に走り回るというのではなく、自分達の日頃のアイデアを商品にして売るということを考えるのです。 

  1. 製造と営業の融和を図る

京セラでは、研究する者は研究し、技術開発する者は技術開発し、モノを作る者はモノを作り、営業をする者は営業をするといったように、すべて分業になっていました。ところがオイルショックの不況で受注残が二億円から三億円にまで減少しました。つくるモノがなくなってしまい、すべての製造現場で閑古鳥が鳴くというすさまじい不況に面したことがありました。 

この時、京セラでは“全員で営業しよう”と営業の経験のない現場の人たちも含めて全員で製品を売りに行こうと言ったのでした。挨拶(あいさつ)もろくにできないような田舎の工場のおじさんまでが営業に出かけ、客先を訪ね、“何か仕事はありませんか、何かやらせていただけませんか、何でもやります”と注文を取りに向かいました。 

モノをつくる製造と、それを売る営業は対立関係になることがあります。製造は“営業が注文を取ってこないから、つくるモノがない”という思いがあります。ところが自分で売るということをしてみますと、営業の苦労もわかるのです。製造の者が、営業の苦労を体験することによって、製造と営業の融和が図られ、互いに気持ちを理解し合い、共に協力するようになっていくのです。 

  1. モノを売る苦労を共有する

製造業であっても、ハイテク産業であっても、モノを売るということが事業経営のベースだということです。それはみんなが営業にまわって苦労したことから学んだことでした。 

一流大学を出た、頭がよい優秀なサラリーマンの場合、お客様のところへ行っても頭を下げることを知りません。“注文をいただけませんか。お客様のためなら何でもします”とまるで召使(めしつかい)のような精神を持っていなければ、注文は取れません。惨めなのが、注文取りというものです。そういう経験のないような人が、会社の幹部をしていたのでは経営は成り立ちません。製造にいようが、経理にいようが、他人様に頭を下げて注文を取る苦労をさせる、不況のときにこそ、社員みんなにその苦労を味わってもらい、経営の厳しさ、注文を取ることの厳しさを実感してもらうのです。 

あるメーカーでは“在庫がこれだけある。だから全員でこの在庫を売ってくれ。田舎の親戚、その他を含めて社員割引の値段で売ってくれ”と在庫を一掃したことがありました。在庫で寝ている冷蔵庫、洗濯機、炊飯器などを親戚その他に買ってもらってくれと全員営業で在庫を捌いたのでした。 

全員で営業をして在庫を捌くような経験をしますと、頭を下げて売る営業の厳しさ、苦労というものを全社員にわかってもらえると思われます。 

しかも、ここで忘れてはならない大事なことがあります。私達は売上を最大にしようと努力するのですが、それは、あくまで、お客様も成功すること、またお客様が喜ぶこと、その為にどうしたら私達が役に立てるかと考えて、売上を最大にしようと努力するのです。押し込み販売をするのではないのです。

不況対策2.新製品開発に全力を尽くす

不況のときには、新製品開発に全力を尽くすのです。忙しさに紛れて着手できなかった製品やお客様のニーズを十分に聞けていなかった製品を積極的に開発しなくてはなりません。それを技術開発部門だけでなく、営業、製造、マーケティングも協力して全社一丸となって新製品の開発を進めていくべきです。 

不況時には、お客様も時間の余裕があり、また何か新しいものがないかと考えているはずです。そのときに、お客様をまわり、新製品のアイデア、ヒント、あるいは今までの製品の改良点、要望やクレームなどをよく聞いて、それを持ち帰り、新製品開発や新市場創造に役立てるのです。 

  1. 仕事が減る不況時こそ新製品開発の好機

不況でヒマになったことを逆手(さかて)にとって“こういうものを作ってみたらどうか。こういうものを売ってみたらどうか。こういうものをお客様に勧めてみたらどうか”かねてから思っていたことを実行する、不況のときこそ、そのような新しい試(こころ)みができるのです。 

不況時に、そういうアイデアを持ってお客様回りをしていますと、当然お客様も仕事がなくて手持ちぶさたになっておられますから、“実はウチもこういうものをつくってもらいたいと思っていた”という話を頂けることになります。忙しいときに相手にしてもらえなかったけれども、不況になってくると手が空いているものですから、お客様のほうから興味を示して“こんなものをつくってくれないか”というアイデアを持ち出してこられることもあります。 

不況対策3.原価を徹底的に引き下げる

不況になると、競争が激化し、受注単価も受注数量も、みるみる下がってきます。その中で採算を合わせていく為には、受注単価の下落以上に原価を下げなければいけません。 

現行の方法で本当によいのか、もっと経費を削減できる方法はないか、と改めて従来のやり方を見直し、思い切って変革することが必要です。旧態依然とした製造方法の見直しや、不要な組織の統合や、代替材料の検討、徹底的な合理化、原価削減を断行するのです。 

不況時に抵抗力をつけていけば、景気回復時にはたちまち利益が出始め、素晴しい高収益企業となれるのです。 

不況時には従来通りの経費を使っていたのでは会社は成り立ちません。従業員、経営者全員が必死になって経費を減らそうと努力します。不況のときが、原価を低減していく唯一のチャンスなのです。そして不況時に原価をどこまで下げることが出来るかが企業の成長と経営に大きな影響を及ぼします。不況が終わって生産、販売が三割増し、五割り増しと回復していけば、利益率は極端によくなるわけです。不況のときこそ、原価低減の努力を通じて、企業体質を強化し、高収益体質をつくっていく格好の機会なのです。 

不況のときこそ心血を注いで、従業員と一緒になって原価を徹底的に下げることが必要です。 

不況対策4.高い生産性を維持する

不況であっても高い生産性を維持し続けることが必要です。不況で、作るものが減った時、少ない仕事を従来の製造現場で余っている人員を生産ラインから切り離し、工場の整備や勉強会など、景気が戻った時の準備をしてもらう。製造現場では、常に一番忙しいときと同じように、必要最小限の人員で緊張感を持った仕事をしてもらう。それまで苦労して向上させてきた生産性を維持していくことが非常に大切です。 

不況で生産が三分の一に減ったなら、人員も三分の一にして、一番忙しかったときと同じ効率でモノをつくり続けることによって、生産性を維持し続けるわけです。 

生産ラインから離れた人達は、工場の清掃やメンテナンスをしっかりしてもらいます。今まで汚かった職場がきれいになり、工場の美化の点で大きなプラスになります。 

不況対策5.良好な人間関係を築く

経営者は従業員のことを思いやり、従業員は経営者の苦労を慮(おもんばか)り、お互いに助け合っていけるような関係を作っていく。資本家と労働者という区別ではなく、両者が一体となって共に経営していくということができるかどうかが優秀な企業の条件と言えます。 

不況になれば、よいことばかりは言えなくなってきます。“もっと頑張ってくれ。もっと経費を減らしてくれ”“今回はボーナスなし。ボーナスが出せなくなったから辛抱してくれ”と厳しいことも言わざるを得ません。その時、一体感があれば、従業員も経営者からのかなり無理な言い分も聞いてくれます。ところが反発したりされることもあります。つまり不況は“労使関係のリトマス試験紙”なのです。 

従業員から反発があった時は“今までの自分の経営ではダメだったのだ。”従業員は心から私を信頼してくれていなかった。不況の時こそ、苦労を共にしてくれると思ったら、そうではなかった。”と素直に反省し、今後の労使関係を再構築するためには何をなすべきか、自分で、またみんなで、懸命に考えるのです。

盛和塾 読後感想文 第八十五号

人生の目的を求める 

人生の目的を見失っている若者が増えています。会社に入っても、生活の手段として給料をもらうだけで、趣味やレジャーに生きがいを求める人が多くなっています。自分の生活や家庭を守ることに生きがいを見つけ、現状維持を計り、保守的な生活をする人が増えています。日本国内にばかり目が移り、海外から遠ざかるような風潮が見られます。これでは個人も国も孤立してしまいます。

人生経験を積んだはずの三十代後半から上の人たちが自信を失い、世の中が変わったとか、古い話は通じないなどと思い込み、自分の歩むべき道を失うことも多いようです。 

しかし、周囲が急速に変化していきますから、これではダメだと皆がもっと高いレベルの目的を求めるようになると思います。 

仕事に打ち込み、世の中、人のために役に立ち、自分が他人から頼りにされる存在でありたいと皆が考えるようになるだろうと思います。時代がどう変わろうと、自分の存在意義を真剣に考える人も多くおられます。 

こうした人生の意義や目的を若い人たちに語り掛けますと、若い人たちも共鳴してくれるはずだと思います。 

いかに生きるべきか -ベトナム社会科学院シンポジウム基調講演― 

ベトナムの未来を担う人たちへ 

鹿児島大学に留学されておられた日本文化学院副学長のフアム・フー・ロイさんが、塾長の著書 “君の思いは必ず実現する” に心を動かされ、ベトナム語に翻訳出版されました。 

このことがきっかけとなり、この講演が開催されることとなりました。ベトナムの未来を担う人たちが、この講演から何かしら得られるものがあればと願って、講演させていただきますと塾長は述べておられます。 

全身全霊で仕事に打ち込むことで、人生に好循環が生まれる 

日本敗戦の後、ほかの日本人の家庭と同様、稲盛家も困窮したのでした。大学を卒業した後、就職難の中やっとの思いで京都にある、送電線用の碍子 (がいし) を生産する会社に就職しました。しかし、この会社は給料の遅配が続くような赤字会社でした。同時入社した人たちは口を揃えて不平不満を述べていました。

一人辞め、また一人辞め、同時入社した人たちは誰もいなくなりました。そして、稲盛和夫だけが取り残されてしまいました。しかし、他に行くところのなかった塾長は、このオンボロ会社から与えられたファインセラミックスの研究に力を注ぐようになったのでした。

実験室に泊まり込み、一心不乱に仕事をするようになりました。そのように全身全霊で研究に打ち込み始めると、次から次へと素晴らしい研究成果が現れてきたのです。 

すると、上司から褒められ、さらに役員からも声を掛けられるようになり、仕事が面白くなってきました。今まで挫折続きであった塾長の人生に好循環が生まれ出したのです。

そして、研究を始めて一年半ほど経った頃、塾長はフォルステライトという新しい高周波絶縁材料の合成に成功しました。劣悪な研究環境の中にあっても、アメリカのGE社に次ぐ、世界で二番目の合成の成功でした。 

さらに、この新しいファンセラミックス材料を、日本の大手電機メーカーが、当時急速に普及していったテレビの重要部品として採用したいと申し入れてきました。技術者としての苦労が報われただけでなく、赤字を続けていた会社にとっても起死回生となるような受注となりました。 

塾長はファインセラミックスの開発のみならず、量産までも担当するようになりました。

さらに今度は新たにセラミックス真空管部品の開発依頼を受け、塾長が開発したフォルステライトを使って取り組んだものの、開発は難航しました。 

しかし、新生の技術部長はセラミックスについては門外漢で、見当違いの指示を出すだけではなく、技術者の苦労を理解しようとしませんでした。そして、塾長は退社を決意したのでした。ところが、私の退社に私の部下も上司もついていきたいと言ってくれ、さらには新会社の設立を支援してくださる方々もあり、1959年に塾長は京セラを創業していただいたのでした。 

こうして、全身全霊で仕事に打ち込んでいくことで、塾長の人生に好循環が生まれることとなったのです。 

一つのことを継続して努力し続けることが、成功への唯一確実な道 

京セラは半世紀にわたってファインセラミックスの研究開発と応用、その事業化に携わってきました。耐摩耗性、耐熱性、耐熱衝撃性、さらには耐食性など様々な優れた特性を持つセラミックス材料を開発し、各種産業用部品として、その製品化を図ってきました。 

セラミックスの電気特性を活かしたコンデンサなど、各種電子部品の開発量産を幅広く進め、携帯電話、プリンタなどの開発量産を行ってきました。今日の京セラの発展や自分の人生があるのは社会人になって以来、ファインセラミックスの開発や会社経営に一筋に打ち込んできたからにほかなりません。一意専心、ただ一つのことを誰よりも懸命かつ誠実に実践してきたことが、その要因であると塾長は語っておられます。 

最初からファインセラミックスの開発に打ち込むことができたわけではありません。気持ちを切り替えて、ファインセラミックスの研究に打ち込もうとしてからも、実際には毎日地味な作業の連続で、決心が揺らぐこともありました。 

ファインセラミックスの材料開発は原料を乳鉢に入れ、日がな一日捏ね続けたり、ホットミルという器具に原料を入れ、一日中回して粉砕調合を繰り返すことから始まります。これらの作業は他の原料が混じると正確な実験結果が出ないものですから、実験が終わるたびに器具をきれいに洗浄しておかなければなりません。 

来る日も来る日もそのような実験を繰り返していますと、毎日こんな地味なことばかりしていていいのだろうかと考え込んでしまうのでした。しかし塾長は、この尺取虫のような地味な一歩一歩の積み重ねが、やがては成功という道に通じていることを信じ、ただひたすらにファインセラミックスの研究開発に邁進したのでした。 

ただ一つのことを継続して努力を重ねるということが、人生において偉大なことを成し遂げる唯一の方法であるということを確信したのでした。 

継続を可能にする五つの実践項目 

一つのことを継続していくということは、大変難しい事です。年月が経過して、周りの状況が変わりますと、人の心自体が変節してしまい、志半ばで断念してしまうことが多いようです。 

そうならない為に、次の五つの実践項目が重要だと考えました。 

  1. 仕事を好きになる

最初から自分の好きな仕事に就けるような人は稀です。大半の人はたまたまその仕事に携わることになったに過ぎないのです。嫌々ながら仕事に取り組むといった姿勢で時間を過ごすことは、人生を無為に過ごすことになってしまいます。 

自分の仕事が好きだという人々のほとんどは、好きではなかった仕事を、気持ちを切り替えることにより、懸命に努力をして好きになっていった人たちなのです。

人生や仕事において偉大な業績を成し遂げた人はやはり心から仕事を愛しています。 

  1. 仕事に打ち込む

仕事に打ち込むとは、だれにも負けない努力をするということです。

京セラの場合、京セラはマラソンでいうならば、素人集団のようなものでした。それも後発の参入だけに、遅れてスタートを切ったのです。

つまり、先頭集団はコース半ばに差し掛かろうとしているのです。ならば京セラは百メートルダッシュで追いかけなければ、勝負にはなりません。それで42.195キロメートル走り切れるわけがないと人は言います。しかし、素人ランナーが自分のペースで走っても勝負にはならないではないか。倒れるまで全力で走ろう。と塾長は社員に呼び掛けました。 

百メートル走のスピードでマラソンを走ったのでは、途中で落伍すると誰しもが思ったのでしたが、それが習い性になってスピードを持続しながら今日まで走り続けることができました。すると、先行ランナーが意外と速くない事に気がついたのです。そうしますと、さらにスピードが増し、第二集団を抜き去り、先頭集団が視野に見えてきました。

こうして京セラは株式上場を果たしたのでした。 

百メートル走のスピードとは “誰にも負けない努力” のことです。強い意志を持って、誰にも負けない努力を続けることで、どんな障害も乗り越えることができ、想像もできないほど素晴らしい実り豊かな人生を歩むことができるのです。 

  1. 喜びや楽しみを見出す

苦しい局面ばかりでは長続きしません。仕事の要所要所で一歩ずつ前進する、積極的に働き甲斐を見つけていく工夫が大切です。 

ささやかなこと、前進を素直に喜ぶことができる、同僚とその喜びを共有することが必要です。そのような心の素直さや純粋さこそが地味な仕事を生涯継続し、成功する為の最大の活力源なのです。 

  1. 日々創意工夫をする

今日よりは明日、明日よりは明後日と創意工夫をする。同じ研究、同じ仕事をするにしても、今日より明日、明日より明後日と京セラは創意工夫をしてきました。実験の場合でも、昨日はこういう実験をしたけれども、今日の実験では工夫をしてもっと結果を出そうと、創意工夫を怠らないように京セラではやってきました。 

塾長は語っています “次にやりたいことは私たちには決してできないと他人から言われたものだ” いかなる世の偉業も実はこのような地味な創意工夫の積み重ねなのです。 

  1. 今日一日を一生懸命生きる

経営をする場合、長期プランを立て、それを忠実に守ることが大切だと言われています。しかしほとんどの場合、長期の経営計画を立案しても、なかなか達成できるものではありません。予想を超えた市場の変動や不測の事態が発生し、下方修正が必要になったり、ついには計画を放棄せざるを得ないような事態が起こったりします。 

また、長期経営計画の多くが、売上や生産の目標が達成できていないにも関わらず、経費や人件費は計画通りに消化され、それが売上の減少や経費の増大を招き、長期経営計画が達成できないことが多いのです。 

今日一日を一生懸命に働くことにより、明日が見えてくる。今月を一生懸命に働くことによって、来月が見えてくる。今年一年を一生懸命働くことによって、来年が見えてくるという考えのもと、京セラは運営されてきました。 

人生の目的は、世のため人のために善きことを実践し、心を高めること 

人間は何のために生まれてきたのか。

人間は自らの意志で誕生するわけではありません。両親から生を授かり、気が付けばこの世に存在しているだけの事です。この世に生を受けたことは偶然であり、人生には目的などなく、存在意義がないと考える方もおられるかもしれません。

人間の存在は必然であり、人生には明確な目的と意義が存在すると塾長は考えておられます。 

生物の世界では、食物連鎖があります。炭酸同化作用で成長した植物を草食動物が食べ、その草食動物を肉食動物が食べ、さらに肉食動物は土に返ります。そして、土は植物の成長を促すという一連の食物連鎖があります。このように、自然の世界とは絶妙なバランスのもとにあり、不必要なものは何一つとしてありません。 

この宇宙にあるものには全て必然性があり、存在することに意義が、価値があると考えられるのです。路傍の方にさえ存在意義があるとするならば、人間には高次元の存在意義があると考えてよいと思います。 

人間は他の宇宙にある全てのものと協働していかなければ、生き抜くことは出来ません。他のものが生き延びられるように協働することが、自分自身を生き延びさせることだと人間は学んできたのです。例えば、自己犠牲を払ってでも家族や友人の為に尽くす。身寄りのない老人や、恵まれない子どもたちの為に何かをあげる。または企業経営を通し、多くの従業員の物心両面の幸福に努め、さらに雇用や納税、科学技術の進歩に寄与することで、国や社会の発展に貢献するというようなことです。 

しかし、ともすれば人間は、目先の自分の欲望を達成する為に周囲の人達のことを忘れ、利己的になり、自分の欲望を優先してしまうことが多いのです。一流大学を出て出世して、高級官僚や政治家になり、または経営者として成功し、 “功成り名遂げる” ことを人生の目的としてしまうことがあります。 

しかし、いくら立身出世を遂げ、高い地位と豊かな財産、社会的な名誉を獲得したとしても、やがて死を迎える時にそれらを死出の旅路に携行することは出来ないのです。唯一残るのは魂だけなのです。

魂しか残せないのなら、豊かな魂を残したいと考えてはどうだろうと思います。財産を増やしたとか、名誉を勝ち得たなどということも大切なことです。しかしそれが人生の目的ではないはずです。 

年を重ね、人生の最期を迎える時に “あの人は若い頃に比べると人格が善くなり、大変立派な人になられた” と言われることが人生における真の功績だと塾長は語っておられます。 

人生を生きる中では “心を高める” “心を浄化する” “心を純化する” “心を磨く” ということに努め、魂を美しく気高いものに昇華させていくべきです。それは、もともと原石 (赤ん坊) のような魂を、その生涯をかけて磨き上げていくことで、素晴らしい人格者になることこそが人生の意義だと塾長は述べておられます。 

苦難のみならず成功という試練を通じて人格が磨かれる 

自分を磨いていくのには試練が必要なのです。偉大なことを成し遂げた人で、試練に遭遇したことがないという人はいないようです。 

西郷南洲は若い時に、志を同じくした友人が身を海に投じた時、自分も同じく身を海に投じたのですが、自分だけが蘇生してしまったのでした。

また、二度にわたり南海の孤島に流され、長く幽閉されました。しかし、こうした逆境の中で西郷は古典を紐解き、自分を高める努力を怠ることはなかったのです。苦難に耐え、苦難を糧として人格を磨く努力をひたむきに続けました。 

遠島の刑を終え、高潔な人格と見識を備えた人物として、人々の人望を集めて明治維新革命の立役者となっていったのです。

西郷は遺訓として、 “幾たびか辛酸を歴 (へ) て志始めて堅し” と述べています。人間はいくつかの試練を経て、ようやく人格が磨かれていくということを西郷は身をもって経験したのでした。 

しかしその一方で、輝かしい成功も試練なのです。

仕事で成功を収め、地位も名誉も財産も獲得したとします。人は尊敬もし、羨望の眼差しで見上げることでしょう。しかし、それさえも厳しい試練なのです。 

成功した結果、地位に驕り (おごり) 、名声に酔い、財産に溺れ、精進を怠るようになれば、人間は瞬く間に堕落し、没落を遂げ、その人生を台無しにしてしまいます。しかし、成功を糧に更なる高い目標に向け、謙虚に努力を重ねていくなら、人生はさらに輝きを増していくのです。 

つまり人生とは、大小様々な苦難や成功の連続で成り立っていますが、そのいずれもが人を試す、心を磨く試練なのです。人間にとっては試練がある意味で、人生を豊かにする為に自然が与えてくれた機会ではないかと思われるのです。人生とは “魂の修業の場” なのです。

盛和塾 読後感想文 第八十四号

心は心を呼ぶ

稲盛塾長は“人の心をベースとした経営を行うよう努めてきました。強固で信頼のできる心の結びつきを社員と作り、それを保ち続けることに焦点を絞り、経営をしてきたのです”と語っています。 

愛されるためには愛さなければならないように、心をベースにした強い人間関係を築くためには、経営者自らが純粋な心を持ち、純粋な心の持ち主に集まってもらわなければならない。 

純粋な心とは、自己的な本能を極力抑えていくことが重要です。社員が心を寄せてくれる為には、強い意志でもって、私利私欲を捨てるように努めていく。それを社員が理解し、受け入れてくれるように努力します。 

一生懸命努力をし、思いやりに満ちた利他的な心がもたらした立派な企業は、枚挙にいとまがありません。しかし、人心の荒廃が、立派な企業を虫ばみ、集団の崩壊をもたらし、多くの社員を不幸に陥れた例も数多くあります。 

人心の荒廃は、トップの心に謙虚さがなくなり、利己の心が虫ばむことから始まるのです。心が心を呼ぶのです。 

西郷南洲に学ぶリーダーのあるべき姿 

成功を持続させるためには、リーダーが欲望を抑えなければならない 

  1. 創業より守成のほうが難しい

戦後六十年以上が経ちました。敗戦により、日本は焦土(しょうど)と化しましたが、国民一人ひとりが日本の経済を立ち直そうと必死の努力を重ね、日本を世界有数の経済大国に蘇(よみがえ)させることができました。ところがその中で、多くの企業の盛衰が発生しています。最近の企業の不祥事を見ていますと、立派な会社を作るよりも、立派になった会社を守っていくことのほうがはるかに難しいのだと思います。 

  1. 欲望が成功を没落に導く

立派な経営者として人々から尊敬され、賞賛されていた方が、晩年には没落をしていかれます。なかには会社が倒産し、自らも悲惨な状態に陥られる方もおられます。多くの場合、成功が転落のきっかけになっていきます。 

会社を作り上げ、社内で絶大な権力を持ってしまいますと、社長に反対するような社員はいなくなってしまいます。反対する人がいなくなりますと、ついつい正しいことを行うことを忘れてしまい、私ごとに流れていくようになり、公私混同が起きてしまいます。そうした人でももちろん、公私混同をしてはならない、または経営に私情をはさんではいけないということは知識としては知っています。“知っている”ということは“実行する”と同意ではありません。“実行する”ことが難しいのです。実行する努力をし、“全うする”実際に行い、その結果まで確認することが難しいのです。 

会社設立した頃は、苦労しながらも会社を立派にしようと思って一生懸命に頑張ります。しかし会社が立派になりますと、成功から没落への引き金になることが多いのです。そうならない為に、欲望を抑え、節度を保つということを全うすることが、トップの人間としての責任です。 

会社が成功してもなお謙虚に地道に経営を続けていかなければなりません。倹約に努めつつ、ひた向きに努力するような地味な生き方をすることでしか、成功した企業を守り続けていくことはできないのです。 

中国の古典の中に“一国は一人を以って興り、一人を以って亡ぶ”(北宋の文人、蘇洵(そじゅん)の言葉)というのがあります。組織・集団の成否はリーダーによって決まるということが言われています。 

敬天愛人の精神に基づいて京セラを経営 

  1. 人間として正しいことを貫く

稲盛塾長は京都の硝子メーカーに大学卒業後就職しました。赤字が続く会社で、給料遅配がよくある会社でした。同期入社の仲間が次々とやめていき、塾長ひとりが取り残されました。そうした中で、愚痴を言っているのでは何もならないと考え、ファインセラミックスの研究に没頭しました。その結果、日本で初めてファインセラミックスの新材料の合成に成功するなど、多くの成果を上げることができました。 

27歳で周囲の方々の支援によって京セラを作っていただき、研究開発が始まりました。経営者としての道が始まりました。仕事の中で、従業員からいろいろな提案があり、その都度意志決定をする必要に迫られたのでした。 

そうした中で会社を作って頂いた方が“敬天愛人”という一幅の書を持って来て下さいました。西郷南洲は、稲盛塾長の郷土の大先輩でした。 

会社を始めて以来、様々な経営判断を迫られ、一つひとつ、“それをやってもいい、それはダメです”という判断を下すことが、トップの責務なのだということがわかったのでした。 

経営の経験もなく、基準をもたない塾長は困り果て、子供の頃に両親や先生から教わった“やっていいことと悪いこと”を判断の基準にしようと決めたのでした。会社経営の判断基準として“人間として何が正しいのか”という一点に絞ることになりました。 

西郷南洲の“敬天”、つまり天を敬うということは、“人間として正しいこと”と同じ意味であると理解したのです。“人間として正しいこと”とは、天が指し示す正しい道を実践していくこと、と理解したのでした。 

しかし、昨今の産業界における不祥事の続発を見るにつけ、“人間として正しいことを貫く”という原理原則の大切さは、言葉で言い尽くせるものではありません。 

アメリカの証券取引委員会(SEC)では企業統治、コーポレートガバナンスはいかにあるべきかという観点から、不祥事が起きないようにする為に膨大なルールを定めたSOX法をつくり、ニューヨーク証券取引所に上場しているすべての企業に適用しています。現在は、法や制度の整備を進めることによって、不祥事を防止しようという方策がとられています。しかし、リーダーが自分の利益を増大させるためには、何をしても構わないという思いを少しでも持っている限り、不祥事は根絶することはできないと思います。 

“敬天”、天に恥じない経営をするという考えが実践されることによってしか、不祥事を未然に防ぐことはできないのではないでしょうか。 

  1. 従業員の物心両面の幸福を追求する

敬天愛人の愛人についてですが、下記のような従業員との話し合いの中で、人々を愛することの大切さを理解するきっかけとなりました。 

京セラ設立三年目の時でした。前年採用した高卒の社員たちが、“将来が不安だから、昇給や賞与など、将来にわたる待遇を保証してくれ”と要求してきました。京セラはできたばかりで、みんなで力を合わせて立派な会社にしていこうと思っています。しかし“将来を保証してくれなければ、今日限りで辞める”とゆずりませんでした。この話し合いは、市営住宅の塾長の家で、三日三晩続いたそうです。“ボーナスはこうする、昇給はこうするという約束はできない。私にも会社の将来はわからない。約束することは嘘をつくことになる。しかし私は誰よりも必死になって会社を守っていこうと思う。そして君たちの生活がうまくいくようにしてあげたいと強く願っている。私の誠意を信じてほしい” 

三日三晩の話し合いで、全員が納得しました。京セラはもともと“稲盛和夫の技術を世に問う”ために作っていただいた会社だったのです。以前に勤めていた会社では、稲盛塾長の研究や技術を認めてくれなかったが、京セラでは誰に遠慮することなく、自分の技術を世に問うことができる。技術者として私的な願望が京セラ設立の目的だったのでした。

ところが社員の反乱で、私的な技術を世に問う場としての京セラは、吹っ飛んでしまいました。技術者としての理想を追求する会社から、社員達の生活を守るという目的に変貌してしまったのでした。 

会社というものはその中に住む従業員に喜んでもらうことこそが目的であり、最も大切なことだと理解することができました。“全従業員の物心両面の幸福を追求する。そして人類・社会の進歩・発展に貢献する”という経営理念が生まれたのでした。 

これは“敬天愛人”の愛人、人々を愛するということなのだと、改めて西郷南洲の思想の真髄(しんずい)を理解した気がしたと塾長は謙虚に語っています。

“南洲翁遺訓”に出会い“無私”の大切さを知る 

山形県の庄内にお住いの方がある日訪ねてこられ、“南洲翁遺訓”をくださいました。この遺訓は鹿児島県ではなく山形県庄内で西郷南洲の思想をまとめたものでした。そして西郷南洲の思想哲学のすばらしさに感動しました。それが企業経営上、リーダーとしてあるべき姿を描いており、リーダーとしての重要な要諦だと気付いたのでした。 

“政府の中心となり、国の政(まつりごと)をするということは、天道を踏み行うということだ。だから少しでも私心を差しはさんではならない。徹底的に心を公平にして正しい道を踏み、広く賢明な人を選び、その職務をちゃんと果たして行ける人をあげて政治を執り行わせる。これが天の意である。だから賢明で適任だと認める人がいたのなら、すぐにその人に自分の職を譲るべきなのである。官職というものは、その人を選び、それに適任の人に授けるもの。功績のあった人にはお金をあげて大切にすればよいのだ。” 

トップに立つ者は天道を踏み行うものであって、少しでも自分を大切にする思いを差しはさんではならないと西郷は述べているのです。 

企業はいつ何時、危機に遭遇するかも知れません。従業員を路頭に迷わせることがあってはなりません。その為、トップは必死に仕事に励んでいくことが必要です。“個人の時間などは一切ない”と思います。 

素子飯野ドアに立つ人はその組織に自分の意思、いわば生命を注ぎ込むことにより、組織は生物のように活動し始めるのです。すなわち、社長が四六時中会社のことを考えている間は、会社は活動しています。しかし、一旦会社のことを考えない時は、会社は生きていないのです。経営者たる者、四六時中会社のことを考えていかなければ、会社が機能しなくなるとすると、個人というものは一切あり得ないのです。 

なるべく私人としての自分が個人にかかる時間を少なくし、社長としての公人としての意識を働かせている時間を多く取るようにする。自分自身のことは犠牲にしてでも会社のことに集中する。これがトップの責任なのです。いわば自己犠牲を厭(いと)わないでできるような人でなければトップになってはならない。更に一歩進んで、自己犠牲よりは、むしろトップとしての仕事に楽しみを見出すぐらいでなければトップとなってはいけないのです。 

リーダーは苦楽を共にしてきた人を大切にしなければならない 

西郷南洲の遺訓集の最初には以下のことが語られています。

“国に対してどれほどの手柄のあった人でも、その職をうまく勤めることのできない人に官職を与えて賞するのは一番よくないことだ。官職というものはその人を選び、それに適任の人に授けるもの。功績のあった人にはお金をあげて大切にすればよいのだ。” 

これは人の処遇にあたっての要諦であります。中小零細企業のときには、その企業規模に合ったような人材しか集まりません。しかし会社が大きくなれば、もっと頭のいい、優秀な人が欲しいと思います。しかし会社が大きくなってきたにもかかわらず、自分と一緒に苦楽を共にしてきた創業時からの功労者を、そのことだけで役員にしてしまうことが多くあります。 

たしかに過去には功績はあった。共に苦労して会社を作るのに役立ってくれた。しかし売上が一千億円となった今、大企業を守っていくのに能力の乏しい人を役員につけてしまったばかりに、会社が傾いてしまうことがあります。 

もう一方では、会社が大きくなるにつれ、新しい人を求めることもあります。古くからの部下の能力がないことが見えて、一緒に苦労したけれども、こういう人たちでは会社をこれ以上立派にできないと思い、次から次へと新しい人を迎え入れるのです。例えば一流大学MBA卒業の社員を迎えたり、高度な技術を身につけた人を投入し、要職につけ、会社発展を図ろうとすることがあります。しかし一方では、創業時から苦楽を共にしてきた番頭さん達が寂しく去って行くこともあり得ます。会社の精神的な支柱であった番頭さん達が去ることで、会社は大きく変質し、やがて没落してしまうこともあります。 

優秀な人を採用していくことは必要ですが、苦楽を共にしてきた人たちも大事にしなければならないのです。苦楽を共にして、今もなおあなたについていこうという古い人たちがたくさん社内にいます。そのような人たちを大事にしてあげなければなりません。二十年、三十年と不平不満も漏らさず、努力を重ねた人ならば、きっと素晴らしい人間に成長しているはずです。堂々と努力を継続していくことを通じて、凡人が非凡人に変わっていくのです。元々才能のなかった人が、三十年、ひとつのことに没頭することで非凡な人へと生まれ変わるのです。こうした人たちが、会社の基礎をつくるのです。基礎を蔑(ないがし)ろにして立派な会社をつくることは出来ないのです。 

大家族主義をベースにした経営/社員の物心両面の幸福を目指すとすれば、苦楽を共にした人たち、新しい才能のある人たちも楽しく働け、しかも拡大発展するように会社を導くことがトップの責任です。 

謙虚にして驕らず 

京セラでは、どんな弾(はず)みで会社が潰れてしまうかもわからないと心配だったそうです。危機感がむしろエンジンとなって一生懸命に仕事をさせるようになっていきます。危機感を失ってしまった時に、経営者は会社をダメにしてしまいます。 

京セラが株式を上場した時のことです。塾長は株主でしたので、自分の保有する株式を放出すれば、キャピタルゲインを得ることができました。資金は自分個人のものとなります。しかし塾長は一株も売却しませんでした。京セラはすべて新株発行により資金を得ました。その資金をもとに新たな投資を行い、事業を拡大発展させてきました。 

会社がうまくいきますと、多くの経営者がすぐに有頂天になり、自分の力で成功したのだと驕(おご)り、やがて没落していきます。成功は没落への道に通じているのです。成功した時こそ、“謙虚にして驕らず”ということが大切になるのです。 

西郷南洲遺訓二十六に、次のように述べられています。

“自分を愛することは、よくないことの筆頭だ。修行ができないのも、事業が成功しないのも、間違いを改めることができないのも、自分の手柄を誇(ほこ)って生意気になるのも、すべて自分を愛するがためである。だから決して自分を愛してはならない。” 

“自分が一生懸命に働いた、自分の才覚によって会社を発展させた、上場させた。全ては自分の才覚のたまものだ。報酬は自分が受けてすべて当然だ。”と経営者が自分を誇りに思ってしまうから、会社がだめになっていくのです。 

企業経営者、政治家、官僚でも、偉くなればなるほど、率先して自己犠牲を払うべきです。自分のことはさておき、自分が最も損を引き受けるという勇気がなければ、上に立ってはなりません。上に立つ資格はないのです。この“私心”をなくすることがリーダにとって最も重要な要諦だと西郷南洲は述べています。 

西郷南洲遺訓三十.

“命もいらず名もいらず、官位も金も要らないという人は始末に困る。しかしその始末に困るような人でなければ、苦労を共にして大きな仕事はなしえない” 

これが現在の混迷する世相を救う、究極のリーダーの姿です。西郷南洲の言っているような“無私”の精神を心に秘め、さらに世のため、人のために尽すということを自ら実践している人がいないことが不祥事の原因となっているのではないでしょうか。 

立派な人格、立派な人間性を持った人、自分というものを捨ててでも、世のため、人のために尽せるような人がリーダーとして求められています。 

策略を用いてはならない 

西郷南洲遺訓七.

“どんな大きなことでも、またどんな小さなことでも、いつも正道を踏んで誠を尽し、決していつわりの策略や策謀を用いてはならない。人は多くの場合、ある事柄に問題が起きたときに策略を用いる。そしてその策略を通しておけば、あとは何とかなるだろう。何とか工夫ができるだろうとつい思いがちになる。しかし策略というものは、必ずそのツケが生じて失敗をするものである。一方正道を踏んでいけば、一見回り道をしているような感じがするけれども、かえって成功は早くなるものだ。” 

京セラが第二電電を設立し、通信事業に参入したときのことでした。明治以来、電電公社(NTT)が独占して来た通信料金は世界各国に比べてたいへん高いものでした。日本政府が通信事業の民営化をはかることとなったのです。新規参入が可能となりました。ところが、誰一人として参入に名乗りをあげませんでした。それは膨大な投資を要し、高度な技術が必要であり、通信事業に経験のある人材が簡単に確保できそうになかったからでした。NTTは巨大で、どの企業も一向に名乗りをあげませんでした。 

京セラは電気通信事業については全くの素人であるにもかかわらず、第二電電を立ち上げることを決めました。これは世のためひとのために絶対に必要なことだという思いで、名乗りをあげたのです。 

塾長は自問しました。第二電電という会社を起こし、通信事業に参入しようとしているが、その考え、動機は善なのか、私心はないのか。金儲けの為ではないのか。“動機善なりや、私心なかりしか”と半年考えた後の決断でした。日本が情報化時代を迎えるに当たり、通信料金を安くしてあげたい、ただその一心だけだったわけです。 

その後、国鉄を中心とした日本テレコム、建設省と道路公団を中心とした日本高速通信という2社が参入してきました。どちらも既にインフラが出来ていました。しかし京セラの第二電電は、インフラを持っておりません。第二電電はやむなく無線でのネットワーク構築に取り掛かったのでした。“世のため人のため”を旗印に一生懸命努力した第二電電は、売上でNTTに次いで第二位の企業に成長しています。 

みんなが逡巡(しゅんじゅん)しているときに“世のため人のため”という思いで懸命に努力を続けた企業だけが成功したのです。策をめぐらして戦略戦術を練って成功したというより、純粋で気高い思いによって、成功したのだと言えます。 

イギリスの哲学者ジェームス・アレンがその著書“原因と結果の法則”の中で述べています。

“汚れた人間が敗北を恐れて踏み込もうとしない場所にも、清らかな人間は平気で足を踏み入れ、いとも簡単に勝利を手にしてしまうことが少なくありません。なぜならば、清らかな人間は、いつも自分のエネルギーをより穏やかな心と、より明確で、より強力な目的意識によって、導いているからです。” 

西郷南洲は“策を弄(ろう)してはならない、正道を踏んでいくことは一見、迂遠(うえん)であるかのようにみえるけれども、それが成功するための近道なのだ”と説いています。

 第二電電が株式を公開した時、創業時から塾長と一緒に歩んできた人たちは、みな第二電電の株式を持ってもらいました。しかし塾長は一株も第二電電の株式を持ちませんでした。 

成功することは間違いがないと言われた企業が消え去る中で、第二電電だけが生き残り、さらなる成長・発展を目指しているのです。 

試練を通じて志を揺るぎないものに高める 

“知っている”ことと“実行できる”ことはまったく違います。知っていること、知識として得たものは、それが見識となり、それが魂の叫び、胆識、にまで高まっていなければ決して使えないのです。 

人間には欲望がありますが、それをできるだけ抑えて、公平無私な人でありたいと思うのです。理屈では知っています。聞いたこともあります。けれども実行することはできないということが多いのです。それは知識を魂にまで落とし込み、使命として刻み込んでいないからです。 

人は、一旦成功しますと、今までの使命を忘れ、傲慢(ごうまん)になり、驕(おご)ることになりやすいのです。自分自身を日頃から、戒める、謙虚に日々反省する習慣が必要だと思います。 

西郷南洲は遺訓集第五で“幾たびか辛酸を歴(へ)て志はじめて堅し”と述べています。試練や辛酸を幾度もなめ、そのたびに克服していくというプロセスを経験しなければ、その人の持つ哲学や思想、また志というものは、決して堅いものとはならないとも語っています。 

我々は西郷南洲のような辛酸をなめる経験を持つことはできません。しかし、その志を固く魂にまで落とし込む毎日の努力はできます。

盛和塾 読後感想文 第八十三号

エネルギーを注入する 

いいテーマを部下に与えても、当人が燃えてくれなければ仕事が成功しないのは言うまでもありません。お金や時間を与えられても、部下がヤル気を持ってくれなければ、プロジェクトは成功しません。私共経営者は、これだけ経営者として部下に話をしているのに、部下が燃えないとついつい間違った結果を出し、“アイツはどうしようもないヤツだ”と思いがちです。もしそうであるならば、部下に話しかける内容もよく考える。それだけではなく、部下が現在与えられている仕事、また、部下の私生活もある程度理解して、何度も機会ある毎に話していく。継続して繰り返し話をしていくようにすべきです。物的な条件が不十分でも、リーダーの夢を部下に一生懸命話し、自分と同じレベルまで部下の士気を高めることができれば、仕事は成功します。 

部下の返事が、

  1. “分かりました”では三割ぐらい成功する確率
  2. “頑張ります”と言ってくれれば成功する確率は五割
  3. “私がリーダーとしてやります”と言ってくれれば成功する確率は九割

ということではないかと思います。 

経営者は部下に対してどれくらいの情熱をもってもらえるか判断し、もっていないとすれば、それを注入することがリーダーの仕事なのです。経営者がうちの会社の従業員は仕事に情熱がないと感じた時、それは経営者自身の情熱が充分でない為にそうなのだと考えるべきです。 

信念と意志 利他と利己が同居するこころの構図 

不祥事が相次ぐ中、こころのありようが問われている

企業不祥事が相次いでおります。親が子を殺す、子が親を殺すという凄惨(せいさん)極まりない事件が多発しています。政治家の世界でも、公約した公約していないという人間を信用できなくなってしまいそうなやり取りが、日常的に発生しております。 

どの経営者も経営が軌道に乗るまでは、頑張って成功に導いて行きます。従業員が安心して働けるような企業にしていきたいと必死に頑張ります。そして上場を果すほどになります。ところが会社がうまく行き始めますと、周囲にチヤホヤされるために心が緩んでいき、傲岸不遜(ごうがんふそん)になっていき、不祥事を起こしてしまう。そして会社を潰してしまい、従業員を路頭に迷わせてしまうわけです。 

会社経営を一生懸命に頑張ったにも関わらず、せっかく築き上げた自分の会社を没落させるようなことをしてしまうのです。人間のこころはコントロールすることが難しいものです。 

心の中心-真我

こころというものを考えるとき、我々人間のこころは、どのように出来ているのだろうと考えます。こころの構造は、真我という(仏様が、すべてのものに宿っています)心の中心があり、それを取り巻くようにして、利他/利己、感情、感性、知性が取り囲んでいます。

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  1. 真我 / 仏
  2. 利他(良心、理性)と利己(本能、煩悩)
  3. 感情-利他の心、利己の心から感情が生ずる
  4. 感性-目、耳、鼻、舌、皮膚、接触(感覚)
  5. 知性-考える 

仏様は “宇宙に存在する森羅万象すべてのものに仏が宿る。あらゆるものは仏の化身である” とおっしゃっておられます。 

哲学者、中村天風さんは “研心抄” (天風会刊)の中で、次のように表現しておられます。

“およそ人間の生命の中には、心及び肉体よりも一段超越した、然も巌として存在する実在のものが一つある筈である。それがすなわち“真我”なのである”  

ヨガや瞑想などに練達された人たちは “大我にいたる” と表現されます。悟りを開いた修行者はこころの一番奥底を “真の智慧(ちえ)” とも表現されています。 

イスラム学者でありヨガの達人である井筒俊彦さんは、こころの奥底にあるものについて“存在としかいいようのないもの”といっております。井筒俊彦先生によりますと、瞑想をしていくと、五感も感情も次第に精妙になり、ついには感覚、感情が失われたようになっていきます。周囲の音も光もあらゆるものが消えてなくなり、感情も働かなくなっている状態に到達します。しかし、自分の意識は巌としてある。より鮮明に自分の意識が存在する。そのとき、自分自身が“存在としかいいようのないもの”となっていると感じられる。 

河合隼雄先生(京都大学教授、文化庁長官)は井筒先生の本を読まれ、その著書の中で “あんた花してはりますの? わて河合隼雄してまんねん” 全く同じ存在のものが河合隼雄となり、花を演じ、また井筒俊彦を演じているということです。 

“存在としかいいようのないもの”はこころの中心にあります。こころの中心は、仏、真我、大我、真の智慧と呼ばれるものと言えます。こころの中心は真・善・美、あるいは愛と誠と調和に満ちたとてつもないほどに純粋で美しく、宇宙を宇宙たらしめているものなのです。 

この人生とは、あたかも芝居のようなものです。人生の舞台には裏方、脇役、主役、いろいろな役があります。会社の社長は主役かも知れません;あるいは工員さんが主役かも知れません。興行が延びれば、“君、主役を変わってくれ。他の人に主役を変わってもらうから” ということもあります。 

このように、すべては “存在としかいいようのないもの” が姿を変えてこの宇宙に現れたにすぎない、みんな同じなのだと考えれば、決して傲慢に振る舞うことはないはずです。いつでも謙虚に振る舞えるはずです。 

真我の外側には 利他 利己二つのこころが同居している 

  1. よいことを思い、よいことを行えば、運命はよい方向に行く

中国の明時代に袁了凡という官僚が書かれた本、“陰騭録(いんしつろく) ”  があります。 

袁了凡さんが袁学海という名前だった頃、白髪の老人が訪ねて来ました。老人はお母さんに語りました。“お母さんはこの子を医者にしようとお考えかも知れませんが、この子は医者にはなりません。高級官僚の道を歩いていきます” “高級官僚になるための難しい試験を順調に突破し、若くして高級官僚となり、長官となって地方に赴任していきます。結婚はしますが、残念ながら子供は生まれません。そして五十三歳で天寿をまっとうする運命になっています” 

学海少年は白髪の老人が言った通りの道を歩んでいきます。何段階にも分かれた高級官僚の試験を次から次へと受けて合格し、高級官僚となり、若くして地方長官に任ぜられました。赴任地にすばらしい禅寺があり、雲谷禅師という有名な老師がおられることを聞き、禅寺に雲谷禅師を訪ねます。雲谷禅師と共に座禅を組みます。学海長官はすばらしい座禅を組みます。 

雲谷禅師は尋ねました。“どこで修行したのですか” 学海長官は答えます。“私は修行はしていない。自分の運命は幼い頃に占ってもらった通りのものなので、雑念がないのです”  雲谷禅師はあきれて言いました。“たしかに運命は決まっているが、よいことを思い、よいことを行えば運命はよい方向に変わっていくという因果の法則というものがあるのですよ” 

学海長官は驚き、名を了凡(りょうぼん)と改め、よいことを思い、よいことを行いました。その結果、了凡は長生きし、生まれないと言われた子供を持つことが出来たのでした。 

人間には生まれながらにして、どういう人生をたどっていくかという運命が決まっています。しかし、それは買えられない宿命ではないのです。よいことを思い、よいことを実行すれば、運命はよい方向に変わっていくし、悪いことを思い、悪いことを実行すれば、運命は悪い方向へと変わっていくという因果の法則があるのです。“陰騭録(いんしつろく) ”  という本がこのことを述べています。 

  1. こころのなかで利他の占めるスペースを大きくするように努めなければなりません

こころの中心にある真我の外側には、よいことを思うこころ-利他のこころと、悪いことを思うこころ-利己のこころがあるようです。 

ノーベル賞を受賞したインドの詩人、タゴールが書いた詩があります。

“私がただひとり、神の下にやってきました。

しかし、そこにはもうひとりの私がいました。

この暗闇にいる私は誰なのでしょう。

その人を避けようとして私は脇道にそれるのですが、

彼から逃れることはできません。

彼は大道を歩きながら、地面から砂塵(さじん)を巻き上げ、

私が慎ましやかにささやいたことを大声で復唱します。

彼は私のなかにいる卑小なる我(われ)。

つまりエゴなのです。

主よ、彼は恥を知りません。

しかし私自身は恥じ入ります。

このような卑小なる我を伴って、あなたの扉の前にくることを。 

“私がただひとり神の下にやってきました” とは、よき私です。一方 “砂塵を巻き上げながら大道を練り歩く彼” “私が慎ましやかにささやいたことを大声で復唱する彼” は私のなかにあるエゴです。彼とは悪い私なのです。自分はよきこころと悪しきこころの二つの心を持っているとタゴールは表現しています。 

利他的、良心的、理性的なこころは卑しい自分から逃れようと “おまえあっちへ行ってくれ”というのだけれども、なかなか向こうに行ってくれません。よい自分も卑しい自分も同じ自分なのです。良心・理性に基づく利他の心と本能・煩悩にまみれた利己の心という二つの心が同居していると言えます。 

“よい人” とは明るく、親切な人です。感謝を忘れず、思いやりに満ち、愛に包まれ、謙虚で、努力家で、勇気があり、自己犠牲を厭(いと)わず正直で誠実な人です。

“悪い人” とは常に自分自身にとって都合がよいか、悪いかを考え、自己の欲望を満たすために、妬み、怒り、嘘をつき、隠し、苦労を嫌って、楽をしたがり、暗く、不親切な人です。 

よい心と悪い心が同居しているのは、しかたのないことです。我々人間は利己的な心なくしては生きていけないからです。生きていくためにある程度の利己的な心を持つように、自然、神が我々をつくっているのです。しかし、利己的な心はあくまでも生きていくために必要なだけにとどめるべきであって、よい心を押しのけてしまってはなりません。よい心は主人であるべきです。 

ブッダは “足るを知る” 知足という言葉を述べています。

利他・利己の外側には感情・感性、知性が存在している 

  1. 真我、利他・利己、感情から湧き上がる思いが知性の働く方向を決める

経営者が会社を発展させようとする時、経営戦略、経営戦術を練り、それを実行しています。経営戦略、経営戦術はこころの構造の図の中の一番外側にある知性で練ります。営業はどうすればうまくいくか、製造工場の運営は、安全に効率よくするのにはどうすればよいか、販売費・一般管理費は、どのように仕事を効率化して削減していくか等を知性で考えるのです。そのもとになっているのは経営者の“思い”です。“思い” が先に来ます。 

“思い”  は真我、利他・利己、感情から湧き上がってきます。その “思い” が我々の行動の方向を定め、それに従い知性を発揮して、創意工夫をして、その “思い” が実現できるようにしていきます。“思い” がその人の生きていく方向を決めているのです。 

“思い” が利己的であり、こころに占める比率が大きくなりますと、常に欲にまみれた思いを抱いてしまいます。“思い”が利他のこころを抱けるよう、こころの持ち方を、真剣に考える必要があるのです。 

知性にすぐれた頭の良い人が悪い “思い” を持った場合、すなわち欲にまみれた “思い” を持った場合は、とんでもない不祥事に発展してしまいます。 

  1. こころの構造、図で生まれてから死ぬまでのプロセスが理解できる

人間の感性はその内側の利他・利己の心から刺激を受けます。利己の心が優(まさ)り、欲にまみれ、欲が充足できない時は不愉快な悪い感情になり、顔が曇ります。利他の心が優(まさ)り、他によかれとするような行いをすれば、気持ちが明るくなり、よい感情に満たされ、明るい笑顔になります。 

感情は外側にある感性・五感からも刺激を受けます。怖いものを見れば、感情が怖さを感じます。明るく楽しい場面に遭遇しますと、感情が明るく、笑顔が芽生えます。 

人間が生まれた時は、真我、利他・利己の心を持って、この世に出て来ます。感情も感性も知性も未発達です。そのあと感情、感性、知性が序々(じょじょ)に発展して来ます。 

年をとって来ますと、外側の知性が失われ、感性だけが出て来ます。感性が無くなりますと、感情だけで生活するようになります。このようにして人間は死を迎えます。 

善因善果を検証した Steven Post 教授 

ケース ウエスターン リザーブ大学の Steven Post教授が善因善果の法則の検証をしました。“よいことを思いよいことをすれば、よいことが起こるのは本当だろうか” という研究をされました。全米の四十四の大学の教授たちにアンケート調査を実施しました。その成果を彼は5年かけて書籍にしました。”WHY GOOD THINGS HAPPEN TO GOOD PEOPLE” “UNLIMITED LOVE” “THE HIDDEN GIFTS OF HELPING: HOW THE POWER OF GIVING, COMPASSION, AND HOPE CAN GET US THROUGH HARD TIMES” 等の著書です。

“人に与えたはずが自分に与えられ、人の幸せが自分の幸せになった瞬間を私はまぶしいほど鮮やかに思い出すことができます” 日本でも “いい人” には “いいこと” が起こる(幸福の科学出版刊)という本として出版されています。 

このSteven Post 教授は述べています。

“幸せ、健康、満足、長続きする成功の本質や特徴を明らかにしました。科学者達は思いやりの行為が精神と肉体の健康にどれだけ関係しているかを今なお検証し続けています。 “よいことをしてあげれば、その人にはよいことが返ってくる。自分自身の幸せも健康も満足も、そして長続きする成功も相手にしてあげたことへのお返しとして返ってくるのだ” と、Steven Post 教授は、見事に検証しておられるのです。Steven Post 教授は次のようにも述べておられます。

“あなたの人生は優しい行為によって光り輝き、そして守られるでしょう”

“愛ある行為は病気のリスクを減らし、死亡率を下げ、うつ病の可能性を少なくする働きを持っているのです”

“愛は癒(いや)しです。愛はそれを与える人と受け取る人の双方を癒します” 

Steven Post 教授の愛とは、思いやりであり、利他の心であり、与える心であり、感謝する心です。常に感謝をする心を持ち、相手を思いやる利他の心を持って、それを優しい行為として実行できる人は、いつも健康で、幸せな人生を送ることができると、Steven Post 教授は語っておられます。そういう心を持ったときには “怒り、恨み、やっかみのようなストレスを誘発して心身の病の原因になる否定的な感情を脇に追いやることが可能になり、ストレスを受けることが少ない” とも教授は言っておられます。 

愛の心の対象は、まず自分の家族に向け、次に友人、地域社会、そして人類社会へと向けられる、とも教授は語っておられます。 

こころを手入れしなければならないという 知識 胆識にまで高めよ 

哲学者 James Allenは語る。

“人間の心は庭のようなものです。それを知的に耕されることもあれば、野放しにされることもありますが、そこからはどちらの場合にも必ず何かが生えてきます。

もしあなたが自分の庭に美しい草花の種を蒔かなかったなら、そこにはやがて雑草の種が無数に舞い落ち、雑草のみが生い茂ることになります。優れた園芸家は庭を耕し、雑草を取り除き、美しい草花の種を蒔き、それを育(いつく)しみ続けます。

同様に私達も、もし素晴らしい人生を生きたいのならば、自分の心の庭を掘り起こし、そこから不純な誤った思いを一掃し、その後に清らかな正しい思いを植え付け、それを育しみ続けなければなりません。 

雑草とは利己の心です。つまり自己を抑えて利他の心を大きくするようにしなければならないと、James Allenは言っています。 

重要なのは、これからです。どのようにすれば雑草を取り除き、美しい草花を咲かせることができるのか。抽象的には、こころという庭の手入れをし、雑草を取り除き、美しい草花を咲かせる、利他の花を咲かせようと思うならば、足るを知るということを知らなければなりません。同時に知性でもって利己を抑えなければなりません、と言うことができます。 

知性は、こころの庭の手入れが必要であることを知らせてくれるだけで、それを実行させる力は持っていません。知性には実行力はないのです。我々は知性でもって、様々な知識を身につけます。知識がいくらであっても知っているだけでは使えないのです。哲学者、安岡正篤(まさひろ)さんは、次のように言っています。

“知識を見識にまで高め、さらには見識を胆識にまで高めなければ、実行することはできない” 

知識を見識にまで高めるためには、“信念” が必要です。知識に信念が伴(ともな)った時、はじめて知識は見識になります。その見識を実行できる為には、強力な意思の力 “胆力” が必要なのです。 

自分のこころの中によい自分と悪い自分がいて、悪い自分を少し抑え、よい自分が多くを占めるようにしていこうと思えば、足るを知り、“いい加減にせんか” と自分を叱り付ける必要があります。悪い自分を抑えていく為には、その人の信念の力、意志の力が必要なのです。信念、意志は、真我が発現して出てくるものです。真我から出てくる信念、意志の力なしでは、こころの底を手入れすることはできません。 

昨今、多くの立派な有名企業が、経営者の怠慢、傲慢(ごうまん)、堕落(だらく)によって存続すら危(あや)うい状態に陥っています。それは経営者のこころの中に住む悪い自分がのさばってきた結果です。しかし、経営者自身、まさか自分のこころのなかで、悪い自分が引き金を引いた結果だとは思っていないのです。 

大企業の経営者に、足るを知る、知足のこころで、その傲慢な自分を抑えていきなさいと言いますと、“わかっています” と返事をしてきます。これは悪い自分を抑えなくてはならないと知識として知っているだけで、実行する力は何もないのです。 

自分の会社を立派にし、立派に守っていこうとするならば、足るを知り、利己的な自分を抑えて、邪(よこしま)な自分を協力な意思の力で抑えようとしていかなければなりません。 

毎日の生活の中に、少なくとも三十分、自分を反省する時間を配分する。一日の反省、立派な哲学者、経営者の著作を毎日読むこと、ただ読むだけではなく、何度も繰り返し読み、ノートに手書きでまとめていく方法も、悪い自分を抑える、足るを知るのに有効な方法だと思います。