盛和塾 読後感想文 第六十七号

西郷南洲が教える経営者のあり方           

判断基準を 人として持つべき基本的な倫理観に置く

経営のトップに立つ我々は、我々の周辺にいる従業員やお客様から信頼と尊敬を得られるだけの人間性・人格をもっていなければなりません。 

“商売人は信用が第一だ” と言われます。たしかに信用がなければお客様は相手にしてくれないし、取引もしてもらえません。もし、その人が客先から尊敬されるような素晴らしい人間性、人格を持っていれば、ただ信用がある以上にビジネスがしやすくなります。同時に我々経営者は、社員からも信頼と尊敬を得るような人間性を身につけていなければなりません。 

西郷南洲の哲学・思想は経営にも通用する、判断基準となるべき哲学・思想であり、また、周囲の人たちから信頼と尊敬を得るような人間性をつくるための哲学・思想なのです。 

それは難しい哲学・思想と考えるのではなく、原点に立ち返って“誠実な人間であるか” “正直な人間であるか” “公平無私な人間であるか”という、誰にでもわかる倫理観と考えてよいと思います。 

ウソを言わない、人を騙さない、人を妬んだり恨んだりしない、愚痴を言わない、常に勇気をもって仕事にあたる、優しい思いやりの心を常に持つ、謙虚にして驕らず、誰にも負けない努力をする、正義を重んじて仕事をする、足るを知り、決して欲張らない、勢いにまかせて怒ることを抑える。 

このようなことを身につけ、行動に移していくことができれば、自然と社員から、そしてお客様からの信頼と尊敬も得られることになります。 

立派な見識も実行できなければ意味はない

先述した、誰にでもわかるプリミティブな倫理観は身についていなければ使えません。口では容易に言えます。しかし日常生活の中でそれが常に行動として表われていなければ何にもならない。その実践がたいへん難しいことなのです。 

こうした倫理観を本当に身につけて、日常で実行できるとすれば、それは聖人君子です。我々は決して聖人君子にはなれません。完璧な人間性を身につけることは不可能です。欲深く、煩悩にまみれ、りっぱな人間性を持っていないのが我々です。 

塾長は次のように述ベています。私も “そうなりたい” と思っているのは、皆さん同じだろうと思います。しかし、そうなれない自分を厳しく問い詰め、常に反省し、少しでもそうありたいと思う自分に近づく努力をすることはできます。“そうありたい” と思い、反省をして、常日頃あたりまえの、しかし素晴らしい倫理観に基づいた行動ができるような人間に一歩でも近づいていく努力をする。そのような経営者が立派な経営者だと言えます。 

哲学者、安岡正篤先生が言われたことがあります。経営者は “知識” を身につけるために多くの書物を読んで勉強しなければなりませんが、その “知識” を “見識” にまで高めなければなりません。“見識” とは信念、こうありたいと思う確固とした考え、です。しかしいくらりっぱな “見識” を持っていようとも、それが実行できなければまったく意味はありません。 “見識” を実行できるまで高めたものを “胆識” といい、そこまで至らなければ、意味がありません。 

立派な見識を持ち、それを随所で話すことはできても、それが実行できないようでは、絵に書いた餅にしか過ぎません。見識を胆識として実行することのできる人は少ないと思いますが、しかし実行したいと自分でかたく思い、常に反省しながらそれに近づこうとすることが大事です。 

知っていることとできることは別だ、いくら素晴らしい哲学、思想を持とうとも、それを人格に反映させて、日常の生活を生きているかどうかは別だということを我々は知っておく必要があります。 

西郷南洲が教える人の生き方、リーダーのあり方

 “西郷南洲翁遺訓” は、当時の庄内藩(山形県)の方々が西郷を偲んでまとめたものです。明治維新の時、無血開場を指揮した西郷に感服した庄内藩の若者が薩摩を訪ね西郷の教えを受けたのです。西南の役で西郷が無くなったあとに、西郷に教えてもらったことをそれぞれ書記し、編集したものです。 

遺訓一. 功労ある社員の遇し方

政府にあって国の政( まつりごと)をするということは、天地自然の道を行うことであるから、たとえわずかであっても私心をさしはさんではならない。 

心を公平に堅く持ち、正しい道を踏み、広く賢明な人を選んで、その職務に忠実にたえることのできる人に政権を取らせることこそ天意、すなわち神の心にかなうものである。 

だから本当に賢明で適任だと認める人がいたら、すぐにでも自分の職を譲るくらいでなければならない。従って、どんなに国に功績があっても、その職務に不適切な人に官職を与えてほめるのはよくないことの第一である。官職というものは、その人をよく選んで授けるべきで、功績のある人には俸給を与えて遇し、これを愛しおくのがよい、と翁が申される。 

天下国家を治めていくのでも、わずかな従業員しかいない中小零細企業の経営を行っていくのでも、それは天道、正しい道を実行することなのだから、少しの私心も挟んではなりません。 

私心とは、オレがオレがという利己的な心のことです。自分に都合がよく、自分だけがもうければよい、というものです。その私というものを挟んではならないのです。どんな小さな零細企業であろうともリーダーであれば、自分というものを少しも入れずに会社のため従業員のため、世のため、人のためという視点で経営を行っていかなければなりません。 

自分というものを入れなければ、正道を歩むことができると西郷南洲は悟しているのです。 

明治維新後、明治政府は多くの人を、大臣をはじめ様々な政府の役職につけていかなければなりませんでした。誰を役職に任命しようかと考えたときに、明治維新で功労のあった人、活躍した人、頑張った人が大臣に選ばれたり、要職につきました。西郷は“そうではないと思う”、と言うわけです。その官職に耐え得る能力と人格、識見をもった人を選ぶべきであり、功労があったからという理由で官職につけたのでは、政治はうまくいかない。 

功労のあった人には、それは官職を与えるのではなく、その人には俸禄というごほうび、つまり給料やボーナスをあげて大事にしていくようにしなければならない。 

創業当時の小さな零細企業には、似た者同士、つまり会社規模に応じた人材しか集まってこないのです。社長だっていい加減な人です。そしてそれに見合うようないい加減な社員しか集まってこないわけです。ですから最初から、立派な人格を備えた社員を望んでも、しょせん無理なのです。 

会社が大きく成長・発展していきますと、功労のあった人を大事にしなければ、人の道にもとります。株式を上場するときに一緒に苦労をしてくれた人を役職につけることがよくあります。たしかにそういう人たちは会社にとって大変功績があった人たちですが、会社の規模が大きくなり、従業員も数百人となってきた時、その功績があった人がはたしてその役職にたえることができるか、ということを考えてみることが必要です。その役職についた人がりっぱな見識を持っていないために、会社が伸びていかないこともあります。 

功労はあるけれども、能力の足りない人を現在の当社の専務には相応しないからと、追いやり、冷遇し、例えば大手商社出身の人を専務に据えてしまうことがあります。創業当時の功労者はやがて辞めていきます。 

後に来た優秀な人が、会社に対して高いロイヤルティーを持ち忠節を尽くしてくれる保証もありません。また、リーダーとしての見識も持っていないかも知れません。創業の功労者が辞めていくことで、会社を成長・発展へと導いて来た考え方や風土がたちまち希薄化し、社内の従業員のモラル低下につながりかねません。 

遺訓四. 率先垂範で経営にあたる

多くの国民の上に立つ者(施政の任にある者)はいつも自分の心をつつしみ、身の行いを正しくし、おごりや贅沢を戒め、むだを省き、仕事に励んで人々の手本となり、一般国民がその仕事ぶりや生活ぶりを気の毒に思うくらいにならなければ政府の命令は行われにくいものである。 

万民の上に位する者とは政治のトップという意味ですが、経営に当てはめて考えるなら“社長として社員たちの上にたち、人を治めていく”という風に考えられます。 

社長として社員たちの上に立つ者は、いつも自分の心を慎み、身の行いを正しくし、驕りや贅沢を戒め、無駄を省き、慎ましくすることに努め、仕事に励んで人々の手本となり、一般社員がその仕事ぶりや生活を気の毒に思うくらいにならなければ、社長の命令は行われにくいものである、と西郷南洲は説いているのです。 

 “上に立つ者は率先垂範せよ” と西郷南洲は語っています。経営者の後ろ姿で社員を教育するのが “率先垂範” なのです。上に立つ者はいつも自分の心を慎むことが求められています。みだりに心を乱したり、卑しくなったり、粗野になってはいけません。 

自分の心を慎み、行いを正しくして、贅沢を戒め、節約倹約に努め、一生懸命に努力する。そして社員達の手本になり、社員たちがその働きぶりをみて気の毒に思うようでなければ、トップの指示は徹底されず、会社の仕事もうまくいかないのです。 

リーダーのあり方には2通りあります。一つはみんなの後に陣取り、前線の状況を眺めながら、後方から指揮をとるリーダーです。前線の将兵達に伝令を次から次へと飛ばして支持を与え、戦いを進めていきます。 

もう一つは “我に続け” と最前線に出て行くリーダーです。自らが敵陣に切り込んでいくタイプです。 

大企業ではリーダーは後方に陣取り、戦略・戦術、経営計画を練って経営をしていきます。中小零細企業の場合は、リーダーが最前線に飛び出し、部下といっしょに苦楽を共にして戦っていく。その姿を見せることにより部下を指導し、引っ張っていきます。 

ある時は前線に出て兵たちと苦楽を共にし、ある時は後方の陣地にとって返して作戦を練る。作戦を実行する時は、再び最前線にとって返して部下と一緒に苦労する。そういう指揮をとるのが素晴らしいリーダーではないでしょうか。 

遺訓五. 一切の私心を挟まない

ある時、 “人の志というものは、幾度も幾度もつらいことや苦しいめに遭ってのち、はじめて固く定まるものである。真の男子たる者は、玉となって砕けることを本懐とし、志をまげて瓦となっていたずらに生き長らえることを恥とする。それについて自分がわが家に残しおくべき訓としていることがあるが世間の人はそれを知っているだろうか。それは子孫のために良い田を買わない、すなわち財産をのこさないということだ” という七言絶句の漢詩を示されて、もしこの言葉に違うようなことがあったら、西郷は言うことと実行することと反していると言って見限りたまえと言われた。 

西郷は幾度も死線をさまよっています。勤王の志士であった月照上人が幕府に追われ、西郷を頼って薩摩に逃げてきました。当時の島津藩主は月照上人に薩摩から出て行ってくれといいました。薩摩と日向の境で殺されることが分かっていた西郷は、これ以上逃げることはできないと、錦江湾に身を投げます。月照上人は亡くなりましたが、西郷は奇跡的に助かって生き長らえることになりました。一緒に身投げをし、親友を死なせ、自分だけが生き延びるということほどの屈辱はなかったと思われます。 

更に薩摩の殿様に2回も島流しにあうなど、大変な辛酸をなめることになったのでした。

更に西郷は“児孫の為に美田を買わず”と言っています。子供達には財産を遺さないということです。 

我々凡人にはできることではありません。子供や孫はかわいいし、この世の中で少しでも子供や孫に財産を遺してあげたいと思うのは親心と思います。 

西郷は子孫に美田を買わずといい、それを実行した。人間の情としては耐えられないような厳しさを自分に課し、それを実行した西郷のすさまじい生き様でした。 

遺訓七. 策略を用いず、正しい道を貫く

どんなに大きい事でも、またどんなに小さい事でも、いつも正しい道をふみ、真心を尽くし、決していつわりのはかりごとを用いてはならない。人は、多くの場合、何か計略を使って一度そのさしつかえを押し通せばあとは時に応じて何とかいい工夫ができるかのように思うが、計略したための心配事がきっと出てきて、その事は必ず失敗するにきまっている。正しい道を踏んで行うことは、目の前では回り道をしているようだが、先に行けばかえって成功は早いものである。 

 “正道を踏み、至誠を尽くし” とは人間として正しい道を貫き、誠実な心を持って生きていくことです。それは事の大小には限らないのです。中小零細企業の経営にしても、正道を踏み至誠を尽くしてやらなければなりません。 

我々凡人は一時の策略を用いることがあります。事業で、うまくいかなければ、悪知恵をいろいろと働かせてなんとかそれを切り抜けたいと思って策略をめぐらせます。 

どのようにして競争相手から注文を奪おうとか、悪知恵を働かせてしまいます。そういう策略を用いれば、一時はうまくいったように見えます。しかしそういうことを続ければ、そのうち必ず失敗をしてしまうのです。 

正道を踏んで仕事をしていくと、それは回り道のように見えるかも知れませんが、それこそが成功への近道なのです。西郷南洲はこの “正道を踏む” ということを常に言い、最も嫌っていたのは策を弄することでした。 

遺訓十六. 厳しい倫理感と哲学を備える

節義(かたい道義)、廉恥(潔白で恥を知ること)の心を失うようなことがあれば、国家を維持することは決してできない。それは西洋各国であってもみな同じです。上に立つ者が下に対して、自分の利益のみを争い求め、正しい道を忘れる時、下の者もまたこれにならうようになって人はみな財欲に奔走し、卑しくケチな心が日に日に増幅し、節義、廉恥の操を失うようになり、親子兄弟の間も財産を争い、互いに敵視するに至るのである。 

西郷南洲は上に立つ者が節義廉恥、つまり義を守り、恥を知る心を失い、自分のことだけを考えるようになってしまえば、下の者もこれを見習って、国家全体がおかしくなっていくのだと言っているのです。 

我々経営者の場合も同じです。社長である我々の行動、思想を社員たちはよく見ています。 

遺訓二十六. 無私の心で判断する

自分を愛すること、即ち自分さえよければ人はどうでもいいというような心はもっともよくないことである。修行ができないのも事業の成功しないのも、過ちを改めることのできないのも、自分の功績を誇り高ぶるのも皆、自分を愛することから生ずることで、決してそういう利己的なことをしてはならない。 

これは“些(ちっ)とも挟みては済まぬもの也”と同じ考えです。自分だけがよければいいという自分の欲望だけを先行して考え、欲望のままに動くことはよくないことの第一なのです。 

西郷南洲は “無私” の人です。西郷は私というものを捨てなさいとよく言っているのです。ただ自分というものをなくして物事を考えようと思っても、我々凡人から自分自身というものが消えてなくなることは決してありません。煩悩、欲望にまみれているのが我々凡人です。 

しかし自分というものを外して物事を考えるように努めることで、必ず正しい判断ができるようになるのです。経営をするにしても、企業の利益だけで判断すれば、ものごとの本質がみえなくなってしまいますが、“世のため、人のため” に何が正しいかという視点で物事を考えれば、自ずから正しい判断ができるようになります。 

 “わが社が損をしてはいけない。わが社が儲からなければならない。自分が儲からなければならない” という欲望から判断しようとすれば、必ず曇った判断しかできないと思います。人の上に立って企業を経営する者は、経営判断をするときに必ず自分や自分の会社というものを横において判断する習慣をつけるべきです。 

物事を判断するときには “己を愛するは善からぬことの第一” ということを頭に入れて、自分の会社のことは横に置き、人間として正しいのかという視点で判断していくように努力することで、正しい判断ができるようになるのです。 

遺訓三十. 私心のない人物を仲間とする

命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、というような人は処理に困るものである。このような手に負えない大人物でなければ、国家の大きな仕事を大成することはできない。しかしながら、このような人は一般の人の眼では見抜くことができない。 

自分と一緒に新しい事業に取り組む人、本当に信頼できる仲間になってもらうべき人は、やはりこのくらいの人物であってほしいものです。しかし実際にはなかなかそのような人には会えません。 

遺訓三十八. 世のため人のためにという思いが、真のチャンスをもたらす

世の中の人の言う機会とは、多くはまぐれあたりに、たまたま得たしあわせのことを指している。しかし、本当の機会とは、道理をつくして行い、時の勢いを見極めて動くという場合のことだ。かねて、国や世の中のことを憂える真心が厚くなくて、ただ時のはずみにのっとって成功した事業は決して長続きはしないものだ。 

中小企業を経営していれば、チャンスをうまくとらえ、新規事業に展開し、会社をさらに立派にしていきたいと考えるものです。我々は常にチャンスをうかがっていると思います。

一般に言われているチャンスとは、たまたまうまくいったまぐれ当りのことであって、たまたまうまくいったものをチャンスと言っているだけのことです。 

西郷南洲は “真のチャンスとは、理を尽くして行い、時の勢いをよく見極めて動くことだ” と言っています。 

塾長がはじめられた第二電電は、国民の電気通信料金を安くしてあげたいという一心だったそうです。その時、自分の心の中は “動機は善なりや、私心なかりしか” と自分自身に厳しく問い正しました。 

電電公社が民営化され、電気通信事業の自由化による新規事業参入が可能となり、百年に一度のチャンスがあったのです。このとき私の心は “動機善なりや、私心なかりしか” と自分に問うていました。 “平日天下を憂うる誠心厚からずして、只時のはずみに乗じて成し得たる、決して永続せぬものぞ” と西郷南洲は説いています。 

百年に一度あるかないかのチャンス - 電気通信事業の自由化を慎重に考えて、第二電電が発足したのでした。大成功をおさめることになりました。やはり真のチャンスというものは単なる偶然の僥倖、つまり棚ぼたではないのです。真のチャンスとは、理、つまり道理を尽くして行い、時の勢いをよく見極めて動く場合にのみ当てはまるのです。 

世人はチャンス到来とばかりに、みな新しいビジネスに乗り出していきます。しかしチャンスをものにしていくためには、かねてから国家天下のことを誠心誠意、憂うような真心、つまり “世のため、人のため” という動機づけ、いわば大義名分がなければならないのです。ただよいチャンスだと、単に時の弾みで乗り出したのでは、一時的には成功するかも知れないが、決して長続きはしないのです。 

遺訓三十九. 才を動かす人間性を高める

今の世の中の人は、才能や知識だけがあればどんな事業でも心のままにできるように思っているが、才にまかせてすることは、あぶなっかしくて見てはおられないくらいだ。しっかりした内容があってこそ物事は立派に行われるものだ。 

才能は使わなければなりませんが、その才能を動かしている人間性、哲学、思想というものが必要であり、その人間性を立派なものにつくりあげていかなければならない。人間性あっての才能だということを忘れずに経営に取り組んでいくことが大切です。“西郷南洲翁遺訓”には、我々経営者が身につけなければならない素晴らしい哲学、思想が述べられています。