盛和塾 読後感想文 第137号

利他行としての経営 

経営者の生き様を見せる場に

第一回全国大会での稲盛塾長の講話をまとめたものです。利他の心が人生や会社(社風)にどうして良い影響を与えるのかということを説いておられます。“利他の心とは、それを持つことにより周囲の尊敬を得て会社を発展に導く、国や業種を問わない普遍的な真理である”と述べられています。“経営とは利他行である“=盛和塾の原点です。 

今回の大会には、奥さん同伴の方もいますが、来年もぜひ奥さんと一緒に来ていただきたいと稲盛塾長は述べておられました。奥さんを教育するのが一番難しいのです。奥さんを盛和塾大会にお連れして、男の生き様というものを見ていただき、理解を深めていただく、良い機会なのです。 

日本の経営が大切にしてきた利他の心

トップマネジメントに必要なのは強烈なリーダーシップと優れた人間性と言われています。その人間性の中身を決めるのは、心の中にある“利己”と“利他”です。 

我々は日常、“利己”をベースにして生きています。損得勘定で生きています。多くの人が、その対極にある“利他”という心に気づきません。心がエゴで満たされて、欲望のままに生きているために、何らかの努力をしない限りは、利他の心の存在すら意識できないのです。 

利己、つまりエゴは、肉体を維持するために神様から与えられたものです。“自分だけが良ければいい”というエゴは、我々が肉体を維持するために必要なのです。しかし“自分だけが良ければいい”というエゴが過剰になり、相手の人、周囲の人の犠牲を伴うようになりますと、必ず他人と摩擦を起こしてしまいます。 

利他を見つけるには心の奥底にある本当の自分というものを追求しなければなりません。利他の心は、世のため、人のために尽くす心です。周囲から感謝され、我々を生き生きとさせてくれるものです。本当の自分とは何か。仏教の世界では、どのような人にも“仏の心”仏性が備わっていると言われています。天然自然あらゆるものに仏が宿ると言われています。 

仏の心、利他の心は、利己を抑えることによって、我々の心に湧き出てきます。この利他が企業経営に最も大事です。企業経営は、自分の企業が儲からなくてはいけませんから、利己的な人でなければできないように見えます。ですが本当は、利他が必要なのです。自分の企業が儲かるためには、仕入れ先も、得意先も、従業員も、皆が、自分の企業の製品、サービスによって助けられ、彼等も生き延びていくことが必要です。彼らからの協力がなければ、自分の企業も生き延び続けることができないのです。 

哲学者梅原猛先生は“儲けたいと言う人で企業人は頑張っている、と思われがちです。しかし日本の企業人は社員の雇用など会社全体のことを考え“利他行”をしています。” 

と言っています。日本の企業経営者は社員の為を思い経営しています。例えば業績を伸ばし、利益を上げようとするとき、その目的は経営者である自分の金儲けよりも、社員の幸福のためであると企業経営者は言います。不況の時でも、各社社内に潜在的な失業者がいるにもかかわらず、首を切ることもせず、雇用を守っています。これが経営において利他行していることなのです。 

経営においては“ヒト・モノ・カネが大事だ”と言われます。不景気になれば、レイオフ、逆に好況で忙しくなれば人を採用すると、人をモノのように扱うことがあります。 

日本では社員をモノのように扱う事は少ないと思います。これも“他人のために良かれかし”という利他的な考え方が、いくらか含まれています。 

たとえ一人でも二人でも、社員を養うのは大変立派なことであり、立派な利他行です。企業経営者は我利我利亡者だと思っている人がいますが、経営者は口舌の徒である学者よりはるかに尊いことをしているのです。企業経営者は社員を養っており、その社員には必ず家族がいます。そのように多くの人たちを養うのは、大変立派なことです。 

社員の考え方次第で社風が大きく変わる

人生・仕事の結果=考え方x熱意x能力ということを述べてこられました。利他の心は+100まで、利己の心は−100まであります。考え方が人生を決めていくものなのです。 

一個人の場合は考え方が人生を決めるわけです。会社の場合は、社員の考え方が社風を、会社の成長発展を決めます。良い考え方をする社員がいる場合には、素晴らしい社風になっていき、逆に悪い考え方をする社員がいる場合は、すさんだ社風になっています。 

経営者は、待遇や福利厚生施設が充実しているかといった条件で、社風が決まると考えがちです。そういう物理的条件によって確かに社員の気持ちや生活の安定は左右されるでしょうから、それで社風が決まるようにも考えられます。しかし大半は、社員の“心の持ち方”によって決まるのです。もちろん社員の待遇が極端に悪く、生活ができないような状況では“心の持ち方”に大きな悪い影響及ぼします。 

しかし給料が高くないにもかかわらず、素晴らしい社風を誇る企業もあります。給料以外にも決して条件が良くないのに、素晴らしい社風を保っている企業もあります。常識外れに条件が悪いのでは、そういう社風は作れません。高給を出しているから立派な社風ができるというわけではありません。 

つまり社風は、社員の考え方で決まるのです。社員が持っている思い、考え方によって企業の状態が決まります。“なんと素晴らしい社風なのだろう”と感銘を受ける企業があり、また一方では“なんとも凄まじい荒れた社風”と驚嘆させられる企業があると言うように、大きな違いが出てきます。 

禅宗が教える考え方の大切さ

禅宗では地獄と極楽は物理的に全く違いがなく、中に住む人の心、考え方が違うだけだと説いています。 

禅宗では、食べ物が粗食なので、うどんがご馳走だそうです。囲炉裏に大きな釜を置いてゆがき、つけ汁で食べる釜揚げうどんは、大変なご馳走です。地獄でも極楽でも釜揚げうどんを、1メートル以上もあるような長い箸で食べます。地獄では釜が湯気を立て、うどんが茹で上がっています。餓鬼道に落ちた地獄の住人たちは、その箸で、我先にとうどんを食べようとします。うどんを挟んでも口までもっていくことができません。お腹が空いているので、気持ちは焦ります。しかし口に持っていこうとしても、うどんはつるつると滑り落ち、釜の周囲に飛び散るばかりです。そこでふと向かい側を見ますと、人の箸先にはまだうどんがある。その人も食べようとしてもがいているのです。それを横取りしようと住人同士で取り合いになっています。その結果、結局誰もうどんを食べられなくなってしまいます。これが地獄なのです。 

一方極楽でも、釜茹でうどんを茹でています。うどんが茹で上がりますと“ありがたいことです。今からいただきましょう”と言って向かい側にあるつけ汁につけ、向かい側の人の口に入れてあげます。向かい側の人も“美味しゅうございました。先にいただいて申し訳ありません”と言ってやはり長箸で人に食べさせています。こうして皆満足し、互いに感謝しあうことになります。 

極楽の住人たちは、互いに利他行をしており、それが利己に通じています。相手を先に立てることで、自分も潤うことができるのです。 

地獄では互いに競い合う、凄まじい阿鼻叫喚で、誰もうどんを食べられず満たされる事はありません。ところが極楽では、みんなでおいしいうどんを食べることができ、感謝の念に満たされています。物理的には全く同じであっても、中に住む人の心によって、状態が変わるのは、このようなことなのです。 

人の心を大事にすることが経営の始まり

中小零細企業の時、潤沢な資金があるわけではなく、技術力もありません。優秀な人材もいません。中小企業では、望むような人材が来ません。来てくれた人が宝です。経営者自身に見合う人しか来ません。ですから、会社に今いる人、また来てくれた人を大事にするしかないのです。 

決して最初から資金力、技術力、人材が揃っている事はありません。あるのは“人の心”だけです。経営とは、人の心を素晴らしい状態に導くことから始まります。 

すでに百億円、五百億円というように、会社が大変で立派になっている企業もあります。ぜひ素晴らしい心の持ち主が集まるような会社にしていて下さい。立派な心の人たちが集まりさえすれば、必ず会社は伸びていきます。 

資金もなければ技術もなく、人材も決して豊富でもなくとも、素晴らしい心の持ち主が集まる会社にするのが、リーダーの大事な役割です。 

小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり

“利他”は単に人に優しくするということではありません。人に対して思いやりの心がある社風でなければなりません。ですが、厳しさも伴っての“思いやりの心”が大切です。 

子供を大事にするあまり溺愛し、甘やかす事は決して本人のためになりません。それは“小善”でしかありません。子供を立派に育てようと思えば、より大きな本当の意味での愛がなければなりません。“可愛い子には旅をさせよ”という言葉があるように、一見厳しいものに見えるかもしれません。厳しく、非情に見える本当の愛、それが“大善”なのです。 

例えば仕入れ先があったとします。仕入れ価格は一個千円ですが、市場の価格は九百円だったとします。

経営者としては仕入先に一個千円を支払うことができません。その時、仕入業者の方々にも厳しくコスト削減の努力を求めることが必要です。そうすることによって仕入れ業者は一層の努力をする、経営改善に努力をする機会を与えられたことになり、その経験は仕入業者の成長発展のために役立つはずです。可能であれば自社の技術者を仕入業者に派遣し、指導することも考えるべきです。こうした両者の協力は両社にとってもメリットのあることです。これが“大善”であり“利他の心”なのです。