盛和塾 読後感想文 第八十九号

道を誤らぬための羅針盤を持つ

世間には高い能力を備えながら、心が伴わないために道を誤る人が少なくありません。経営の世界の中にあっても、自分さえ儲かればいいという自己中心の考えから不祥事を起こし、没落を遂げていく人がいます。 

“才子才に溺(おぼ)れる”と言われるとおり、才覚にあふれる人はつい過信して、あらぬ方向へと進みがちなものです。そういう人は、たとえその才を活かし、一度は成功しても、才覚だけに頼ることで、失敗への道を歩むことになります。成功は、こうした意味で大変危険をはらんでいると言えます。 

才覚が人並み外れたものであればあるほど、それを正しい方向に導く羅針盤が必要となります。その指針となるものが理念(理性によって到達する最高の考え、例えば利他の心)、思想(哲学、世界、人生の究極の根本原理を追求する学問、例えば人間として正しい考え)であり、また哲学なのです。 

そういった哲学が不足し、人格が未熟であれば、いくら才覚に恵まれていても、せっかくの高い能力を正しい方向に生かしていくことができず、道を誤ってしまいます。これは企業リーダーに限ったことではなく、私達の人生にも共通して言えることです。 

人格というのは、性格+哲学という式で表せると、稲盛塾長は考えておられます。人間が生まれながらに持っている性格と、その後の人生を歩む過程で学び身につけていく哲学の両方から、人格は成り立っている。性格という先天的なものに哲学という後天的なものをつけ加えることにより、私達の人格は陶冶(とうや)されていくのです。言い換えれば、哲学という根っこをしっかりと張らなければ、人格という木の幹を太く、まっすぐに成長させることはできないのです。 

人類を導く新しい哲学の構築-人格と才覚

稲盛塾長は、現在の人類が作り上げた近代科学文明は、そう長くは続かないのではないかと危惧していると述べられています。環境問題ひとつとしても、今の人類では解決できそうもないですし、世界的な人口の膨張にしても、それを制約する方法も発見されておりません。資源エネルギー問題、食糧問題も、需要は増加の一途をたどるばかりです。これを抑制する方法も考えついていません。 

過去には宗教が人類の方向を決めてきました。もう宗教が導く道徳、哲学というものでは、現代人を納得させることはできないのかも知れません。 

稲盛塾長のこうした想いが込められたものとして、アメリカのオハイオ州のクリーブランドにある、ケース・ウェスターン・リザーブ大学にある“稲盛倫理賞”の授与があります。 

稲盛塾長は、同大学の” Keith Glennan Lecturer” という賞があるのですが、その講演の依頼を受けました。そこで“リーダーのあるべき姿”として講演をされました。この講演がきっかけとなり、“倫理と叡智のための稲盛国際センター”が稲盛財団の寄付で設立され、その第一回の授賞式が2008年9月4日にありました。 

第1回目の授与式は、アメリカ国立衛生研究所(NIH)国立ヒトゲノム研究所の所長で、ヒトゲノム解析チームを指揮したリーダーのDr.  Francis Collinsです。すばらしい宗教心も持っておられる生物学者です。その著書、“The Language of God: A Scientist Presents Evidence for Belief”(“ゲノムと聖書:科学者、神について考える”)。NTT出版:2008年)があります。その中で、科学と信仰とは矛盾するものではなく、よりよい社会を築くために両者を調和させることが必要であると説いています。 

企業統治とリーダーの資質

歴史をひもとけば、どのような国家であれ、その盛衰はリーダーによって決まってきました。中国の古典に“一国は一人をもって興(おこ)り、一人をもって亡ぶ”とあります。リーダーによって人類の歴史は作られてきたと言えると思います。 

企業においても同様です。経営者の行動の成否によって、企業の繁栄や従業員の運命が決します。特に企業のリーダーが関与した企業不祥事が日米を問わず頻発し、それによって著名な企業といえども淘汰されている現在、企業リーダーのあり方が厳しく問われているのではないかと稲盛塾長は語っています。 

エネルギー会社エンロン社は2001年に倒産しました。八大会計事務所の一つ、アーサーアンダーソンもその長い歴史に終止符を打ちました。通信電話会社ワールドコムも2002年に経営破綻しました。日本でも経営トップが関与した不正行為などにより、歴史ある多くの企業が淘汰され、日本経済の低調を招いています。 

  1. リーダーを堕落させる高額な報酬

このような企業統治の危機、経済社会への不信感をもたらせた原因のひとつとして、経営者をそのような不正に走らせる、現在の経営システムの問題が最初に指摘できると思われます。 

米国企業においては、経営者は高額な報酬や膨大なストックオプションを持っています。これは経営者のモチベーションとなる反面、企業内のモラルを低下させ、さらには経営者を堕落させる一面もあるのではないかと危惧していますと、稲盛塾長は述べています。 

経営者と従業員の給与格差の問題があります。過去二十年で米国のCEOの報酬は40倍以上に増えました。他方、一般労働者の報酬は二倍にしかなっていないのです。給与格差のあまりの拡大は企業内のモラルを維持するための大きな障害になるのではないでしょうか。経営者は労働者の賃金をなるべく低くしようとします。労働者にしてみれば、一生懸命働いて、経営者が高額な報酬を得る道具に使われていると考えるかもしれません。 

現在のような膨大な報酬やストックオプションの権利が与えられると、たとえ経営者が立派な人格者であったとしても、いつの間にか、自分の利益を最大化することに関心が向く様になってしまいます。次第に会社や従業員のことよりも株価をいかに高く維持し、自分の利益を増やすかということに最大の関心が向いてしまいます。 

現在のようなあまりに高額なインセンティブは麻薬のようにリーダーの精神をむしばみ、倫理観を麻痺させてしまいます。 

  1. リーダーの資質は“才覚”ではなく“人格”

先進国が直面している企業統治の危惧を未然に防ぐには、上記のような経営システムやリーダーの処遇の問題ではなく、より根本的なリーダーの資質が大事であると考えます。 

およそ130年前、日本で明治維新という革命を成し遂げた、日本に近代国家への道を切り開いた西郷隆盛というリーダーがいました。彼はリーダーの選任にあたって、最も大切なことを述べています。 

“徳の高い者には高い地位を、功績の多いものには報酬を”

つまり、高い地位に昇格させるのは、あくまでも人格を伴った者であり、素晴しい業績をあげた者には、その苦労を金銭などで報いるべきだということです。 

ところが、現在の企業では、リーダーの選任に当たって、徳、つまり人格はあまり顧(かえり)みられず、その能力や功績だけをもってCEOなどの幹部が任命されます。人格よりも業績に直結する才覚の持ち主のほうがリーダーに相応(ふさわ)しいとビジネスの世界では考えられています。 

本来、多くの人々を率いるリーダーとは、報酬のためではなく、その使命感を持って集団のために自己犠牲を払うことも厭(いと)わない、高潔(こうけつ)な人格を持っていなければならないはずです。事業が成功し、地位と名声、財産を勝ち得たとしても、それが集団にとってよきことかどうかを考え、必要に応じて自分の欲望を抑制することができるような強い克己心(こっきしん)や、その成果を社会に還元することに心からの喜びを覚える“利他の心”を備えた、すばらしい人格者でなければならないのです。 

資本主義はキリスト教の社会、特に倫理的な教えに厳しいプロテスタント社会から生まれました。初期の資本主義の担(にな)い手は、敬虔(けいけん)なプロテスタントの人々でした。 

著名なドイツの社会学者マックス・ウェーバーによれば、彼等はキリストが教える隣人愛を貫くために労働を喜び、生活は質素にして、産業活動で得た利益は社会のために活かすことをモットーとしていました。つまり“世のため人のため”ということが初期の資本主義を担(にな)った彼等プロテスタントの倫理規範であったのです。その他かい倫理規範のゆえに資本主義経済が急速に発展したと言えます。 

資本主義発展のこのすばらしい倫理観は、皮肉なことに経済発展と共に希薄(きはく)になり、いつのまにか、企業経営の目的や経営者の目的が“自分だけよければいい”という利己的なものに堕落していきました。 

中国、明時代の著名な思想家呂新吾はリーダーの資質についてその“呻吟語(しんぎんご)”の中で次のように述べています。 

“深沈重厚なるは、これ第一等の資質”。つまりリーダーとして一番重要なことは、常に深く物事を考える重厚な性格を持っていることであり、リーダーとはそのような人格者でなければならないということです。 

さらに呂新吾は“呻吟語”の中で、“聡明弁才なるは第三の資質”とも述べています。つまり頭がよくて才覚があり、弁舌が立つことなどは優先順位の低い資質でしかないというのです。 

現在の企業の荒廃の原因は、洋の東西を問わず、つまり“才覚”だけを持ち合わせた人がリーダーに選ばれていることにあるのではないでしょうか。 

ベンチャー企業を起こし、大成功を収める創業型の経営者も、大企業のCEOに就任し、それをさらに飛躍させる中興の祖となる経営者も、いずれにしても成功した経営者は、まさに才気煥発(さいきかんぱつ)、才覚に溢れた人々です。アナリストやベンチャーキャピタリストたちも、そのような才覚に溢れた経営者が率いる企業を高く評価し、結果として高い株価を示すようになります。 

ITバブルの頃に彗星のように登場しながらも、その後我々の前から去っていった多くの新進気鋭の経営者やきぎょうを見る時、西郷隆盛や呂新吾が唱えているように、企業のリーダーは“人格”で選んだのではなく“才覚”だけで評価した結果だと思われます。 

  1. “才覚”は“人格”によってコントロールしなければならない

ワールドコムは1983年創業の会社です。積極的な企業買収により、当時、優良企業と言われていたMCIも買収しました。50件以上の買収を繰り返し、アメリカ最大の電話会社AT&Tに対抗するほどの巨大な通信電話会社に成長させました。そのビジネスモデルは自社の株価を高く維持し、その株高を生かして株式交換によるライバル企業の買収という手法でした。 

株価維持のために、ワールドコムは利益を出さなければなりません。その為に不正会計処理をしました。70憶ドル(70 billion dollars)の巨額粉飾決算をしました。一般管理費を設備投資として計上するなど、不正会計処理に努めたと言われています。株価を高く維持することによって、ストックオプションを通じ、バーナード・エバンス氏は高額な報酬を得ようとしましたし、側近のCEOも利己的な欲望に駆られたのでした。 

ワールドコムの問題は、リーダーたる経営者の人格に問題があったために起こったと言えますが、経営者の才覚のみに着目し、それを見抜けなかったアナリストやベンチャーキャピタリストにも責任の一端があったと思われます、と稲盛塾長は語っておられます。 

“才子 才に溺れる”という格言があります。際に恵まれた人は、その並外れた才覚によって大きな成功を収めるけれども、その才覚を過信し、あるいはその使い方を誤り、やがて破綻(はたん)するということを、日本の先人は説き、人々の戒(いまし)めとしてきました。 

人並み外れた才覚の持ち主であればあるほど、それらの力をコントロールするものが必要となります。それが“人格”なのです。“人格”を高めるためには、哲学や宗教などを通じて、人間として正しい生き方を繰り返し学ばなければならないのです。 

  1. 繰り返し学ぶことによってつくられる“第二の人格”

人格とはどういうものかと考えてみます。人格とは、人間が生まれながらに持っている先天的なもの、その後人生を歩む過程で後天的に築き上げられるものと考えてよいのではないかと思います。 

人生の途中で何も学ばず、何も身につけることができないとすれば、その生まれたままの性格がその人の人格になります。その人格がその人の才覚の進む道を決めてしまうことになります。 

生まれながらの性格が利己的なリーダーが、すばらしい才覚を発揮して、一旦は成功することは可能です。しかし人格に問題があるため、いつしか私利私欲のために不正を働くということになるかも知れません。生まれつきの性格に問題があったとしても、人生ですばらしい聖賢の教えに触れ、人間としての正しい生き方を学んでいくなら、後天的にすばらしい人格者になることが可能です。 

とくに多くの社員を雇用し、社会的な責任も大きな経営者には、率先垂範(そっせんすいはん)して自らの人格を高め、それを維持しようと努力することが不可欠です。 

才覚のある経営者も、この人格が大切であるという認識や、人間として正しい生き方を示してくれる哲学や宗教についての知識を持っています。しかし、知っていることと実践できることは違うのです。 

多くの経営者は、人間として正しい生き方などは一度学べば十分だと思い、繰り返し学ぼうとはしません。そのため、才に溺れる経営者があとを絶(た)たないのです。スポーツマンが毎日肉体を鍛錬しなければ、その素晴らしい肉体を維持できないように、心の手入れを少しでも怠ると、人間はあっという間に堕落してしまいます。

人格を磨き、人格を維持しようと思えば、自分の心の手入れを怠ってはなりません。 

リーダーにとって必要なことは、人間として正しい生き方を繰り返し学び、それを自分の理性の中に押しとどめておくように努力することです。その為には、毎日、りっぱな哲学や宗教の教えを学ぶ時間を優先して執るようにすべきなのです。また、自分の言動を日々振り返り、反省することも大切です。学んできた人間としての正しい生き方に反したことを行っていないかどうか、厳しく自分に問い、反省をしていくことが大切なのです。 

このように、絶え間なく努力を重ねていくことで、自分が元々持っていた性格の歪みや欠点を修正し、新しい人格、“第二の人格”をつくりあげることができるはずです。 

  1. プリミティブな教えを守り通すことが企業統治の最善の方法

“人間として正しい生き方”とは、高邁(こうまい)な哲学や宗教にだけ示されているものではないように思います。子供の頃から両親や教師から“欲張るな”“騙してはいけない”“嘘を言うな”“正直であれ”“人様に迷惑をかけるな”というような人間として最も基本的な規範を教えられています。その中に“人間としての正しい生き方”はすでに示されていると思います。 

こういうことを問えば、一流大学や有名なビジネススクールを優秀な成績で卒業し、企業内でトップに登りつめた経営者達には、“失礼なことを言うな”と一蹴されるかもしれません。しかし実際には、そのような大企業のリーダーが、簡単な教えを守ることができなかったばかりに、あるいは社員に守らせることができなかったばかりに、企業不祥事が続発しているのです。 

現在、このような企業統治の危機を回避するために、高度な管理システムの構築が急務だと叫ばれています。しかし“人間として正しいこと”という非常にプリミティブな原始的な教えをまず企業のリーダーである経営者や幹部が徹底して守り、また社員に守らせることのほうが先決だと思います。企業のコンプライアンスなどについても、仕組みやシステムを考える前に、この原始的な道徳観をリーダーや幹部が身につけることが大切だと思われます。 

企業統治の確立に近道はありません。“人間として正しい生き方”という原始的な教えに基づき、企業のリーダーが率先して人格の向上に努める、その高潔な人格を維持する為に、普段の努力を続ける。これは迂遠(うえん)に思えるものですが、リーダーを、また企業を転落から未然に防ぐ最善の方法であると思うのです。 

才覚だけを備え、人格を伴わないリーダーが大きな権限を握り、企業内を跋扈(ばっこ)するようになれば、いくら高度な企業統治のシステムを築こうとも、それは有名無実と化すに違いありません。それは企業統治のシステムをコントロールするのは企業のリーダーだからです。 

  1. 福沢諭吉の説いた理想の経済人

十九世紀の後半、慶応大学の創設にかかわった福沢諭吉、実践的な教育、実学の大切さを唱えた啓蒙思想家は、星雲の志を抱く学生たちに、次のように理想の経済人の姿を語りました。 

“思想の深遠なるは哲学者のごとく  心術の高尚正直なるは元禄武士のごとくにして  これに加うるに小俗吏の才をもってし  さらにこれに加うるに土百姓の体をもってして  はじめて実業社会の大人(たいじん)たるべし  ” 

ビジネスリーダーは哲学者が持つような高遠な思想、武士が持つ清廉潔白(せいれんけっぱく)な心根、能吏(のうり)が持つような小賢(こざか)しいくらいの才覚をもち、さらに朝は朝星、夕は夕星を見るまで労働に勤(いそ)しむ農民のような、誰にも負けない努力を重ねる人物である。これらを揃えて、はじめて実業社会の大人(たいじん)となるのです。 

才能を私物化せず、世のため人のために使う 

  1. 経営者の傲慢が企業の没落を招く

日本を代表する経営者、ソニーの盛田昭夫、本田技研の本田宗一郎、パナソニックの松下幸之助は創業者経営者としては成功し、その後もりっぱな企業として存続しています。このような名経営者と呼ばれる方々を除けば、立派な会社を作り、立派な業績をあげられたにも関わらず、晩年をまっとうした方は、ほとんどおられないのです。稲盛塾長は京セラ創業以来、波瀾万丈の人生を生きて、人格を守り通していくことがいかに多難であるかを経験されました。経営者が傲慢になれば没落を招くのは間違いないのです。 

  1. 自然界にあるものは宇宙の本質(仏)が姿を変えたもの

山にも川にも、草にも木にも、あらゆるものに仏が宿っています。それは宇宙の本質が姿、形を変えてこの現象界に様々な現象をあらわしているからです。 

井筒俊彦という哲学者は人間の本質を解き明かそうとしてよく瞑想(めいそう)をしました。静かに瞑想をしていますと、次第に心が静かになっていき、精妙で絶妙な、限りなく透明感のある意識に近づいていきます。瞑想が進んで行きますと、五感もすべて消えてしまい、自分がそこにいるという意識だけが残ります。自分自身が存在しているとしかいいようのない意識状態になります。 

自分も含めて森羅万象すべてのものが、存在としかいいようもないものから成り立っている。机も何もかも、すべてのものが存在としかいいようのないものになってくる。宇宙の本質が、存在が姿を変えて、花をしている。グラスをしている。 

  1. 天から預かった才能を自分のためだけに使ってはならない

地球上には何十億の人が住んでいますが、ひとりとして同じ人はいません。生まれてみて、偶然そういう性格をもらい、そういう容姿をもらっていたことに気がつきます。人間はたまたま現在の才能と容姿をもってこの世に生まれてきただけであって、自分の意思で生まれてきたわけではありません。自分の才能や容姿は、神様から偶然いただいたものであり、それぞれ人間は才能や容姿に違いがあっても、みな本質的には存在としかいいようのないもので成り立っているのです。 

宇宙の本質、仏から姿が変わって、自然界のあらゆるもの、人間も含めて生まれてきたとしますと、あるいは神様が授けてくれた人間の才覚はその人個人のものではないのです。宇宙のもの、みんなのものなのです。 

そうであるならば、いかに才能に恵まれていようとも、その才能を自分だけのために使うことは決して許されないのです。すばらしい才能を持ち、ビジネスで成功をもたらした自分の才能が自分のものでないとしたら、決して驕(おご)ってはなりません。常に謙虚でなければなりません。あなたがすばらしい才能を持っているとしても、宇宙の本質、仏は何もその才能をあなただけに与える必要はなかったのです。他の人に与えてもよかったのです。だから、あなたの持った才能を当然のごとく自分のものとして、自分のためだけに使ってはならないのです。秀才も凡才もみんなが平等に、“宇宙の本質である存在としかいいようのないもの”から成り立っているのです。 

しかし、ほとんどの人間は、一生懸命努力をしてある程度の成功をしますと、知らず知らずのうちに驕りが生まれ、その才能を自分のものと思い、謙虚さを失い、怠惰になり、結局は没落してしまうのです。成功というものは自らが気づかないうちに驕り高ぶらせてしまうのです。 

  1. “人格”によって“才覚”を使いこなす

才覚を使うのは人間であり、その人格なのです。あまりにも才覚がありすぎて、才覚が人を動かすことがあってはなりません。才覚はその人の僕(しもべ)でなければならないにも関わらず、頭の良い人はほとんど才覚が主人となってその人を動かしています。使ってはいけないところでは才覚を制御しなければなりません。