盛和塾 読後感想文 第七十一号

エネルギーを部下に注入する 

リーダーが自分ひとりで達成することが難しいような仕事には、部下の協力が必要です。たとえリーダーが情熱に燃えていても、部下が同じような熱意を持たないことにはそのプロジェクトを成功させることは難しいことです。 

最高の経営資源 - 資金、技術、資産を与えられたとしても、部下が情熱をもっていなければ、プロジェクトは成功しません。 

しかし、物的資源が不充分でも、リーダーが情熱を込めて部下にプロジェクトの意味や目標について話し、彼らの士気を自分と同じレベルにまで高めることができれば、成功させることは可能になります。自分のエネルギーを部下に注ぎ込むのです、と塾長は述べています。 

いずれにしても、部下がどのくらいプロジェクトに対し情熱を持っているかを知り、部下が情熱で燃え上がるまで自分のエネルギーを注ぎ込むことがリーダーの最も重要な任務です。 

リーダーの持つエネルギーの源泉が大事です。事業の目的・意義を明確にし、事業計画をしっかりと立て、目標を部下に明示できることが重要です。リーダーが明確な目標について確信を持ち、部下にそのエネルギーを注ぎ込むことが大切です。リーダーがその目標について、確信を持って従業員に話すことが出来なければならない。 

正道を踏み、勇気をもって行う 

西郷南洲の財政論と企業経営 遺訓十三、十四、十五

遺訓十三. 税金は正しく堂々と払うべき

税金を少なくして、国民生活を豊かにすることこそ国力を養うことになる。だから、国にいろいろと事柄が多く、財政の不足で苦しむようなことがあっても、税金の定まった制度をしっかり守り、上流階級が損を我慢して下層階級の人たちに負担をしいたりしてはならない。昔からの歴史をよく考えてみるがよい。道理の明らに行われない世の中にあって、財政の不足で苦しいときは、必ず片寄ったこざかしい考えの小役人を用いて、悪どい手段で税金を取り立て、一時の不足を逃れることを財政に長じた、りっぱな官吏とほめそやす。そういう小役人は手段を択ばず、むごく国民を虐待するから、人々は苦しみに耐えかねて税の不当な取り立てからのがれようと、自然にうそいつわりを申し立て、また人間が悪賢くなって上層下層の者がお互いにだましあい、官吏と一般国民が敵対して、しまいには国が分裂、崩壊するようになっているではないか。 

日本の財政が破たんしかけている現在、西郷南洲の遺訓十三は大切なことです。財政の不足を補うために、消費税を引き上げる、増収を図ることが検討されています。 

財政が逼迫(ひっぱく)した時、増税によって立て直しをしようとする。西郷南洲は“租税の定制を確守し”と言って、国と地方自治体を維持するために必要な費用から算出して定めた租税制度を、財政不足で苦しむようなことがあったとしても、変えたりするものではないと説いています。財政不足となり小賢い小役人が取り立てをすれば、国民はまともに税金を払うまいという気持ちになり、国民と国との間に不信感が増します。 

財政不足の場合は増税ではなく、国や地方自治体の経費を削減すべきなのです。無駄遣いを減らし、公務員給与のカット等、経費削減を公務員が力をあわせ、実行することです。 

公認会計士や税理士が“税務署員が調べに来た時は、手ぶらで帰らせるわけにはいきません。何かお土産がいります”などということがあります。税務調査に来た役人に功績を作ってやるという、浅はかなことをすることが良くあります。 

国家公務員試験を受けて、財務省に入った30才前後のキャリア組が税務署長として赴任します。実際の税務調査の仕事はノンキャリアの職員が担当します。とくにキャリア組の役人は、民間がどれだけの辛酸をなめて利益を出してきたのか知ろうともしません。 

こうしたことを目にしますと、税金を真面目に払うことがばかばかしくなってしまうと思います。にもかかわらず、塾長は “税金から逃れようという根性では会社はよくならない。堂々と税金を払いなさい” と言っています。 

しかし正確な税金を払う、その資料もよく整理整頓されており、税務調査にいつ来られても対応できるようにすると、いろいろな意味で会社の役に立つのです。 

・社会の為、国の為に税金を支払うことによって、会社は社会貢献をしています。

・社内の内部統制システムが良くなります。効率のよい経営、不正が発生しにくい会社

 の組織が構築されます。

・税務調査に対応する職員の時間が節約される

・銀行融資申請の際、銀行からの信頼が得られ、融資を受けやすくなります。 

ブラジルの盛和塾生の話があります。

塾長が正しい経営をせよと言われるので、私も正しい決算、正しい申告をして、税金を払うようにしました。ブラジルでは、そのようなことをすれば、もっとあるのではないかと税務署員がたかりに来ます。ですから、バカ正直では経営はできないと言われています。正しく税金を払い始め、銀行にも正しい決算書を持って行くうちに、銀行が“あなたの会社は大変すばらしい。事業拡大するときは、喜んでお金をお貸しします”といってくれるようになりました。借入をする計画はありませんが。 

  1. 切羽詰まる前に手を打て

景気が悪くなると、リストラを行う企業が増えます。リストラは希望退職者を募集するとか、賃金カットをするとか、人件費削減を中心に行われます。リストラによりその場をしのぐのです。これは小役人が、税金を取り立てて、民衆を苦しめるのと同じと思います。 

リストラの段階まで、手を打たないのではなく、何とかリストラをしない方法を考えるべきなのです。事前に手を打って経営を安定させていくことが必要なのです。経営不振の時に、急にリストラを実行すれば、従業員と経営者を離反させてしまいます。民衆と国の関係と同じく、企業の場合でも従業員と経営者の間に不信感が募ってくれば、会社はうまくいかなくなります。 

  1. 危機的状況の日本の国家財政

日銀が、量的金融緩和を解除すると発表しましたが、そうしますと、市場のカネが詰まり、金利上昇が起きます。金利が1%でも上昇すれば、借金が1千兆円としますと、国の金利負担は、年間10兆円も増えます。この負担を国債発行でしのごうとします。ますます借入が増えていきます。 

こうして国債費が上昇して来ますと、歳入不足に落ち入り、政府は増税に走ります。増税をすれば、国民の負担が増えて、景気が後退します。増税は卵ですが、国民であるニワトリは卵を産む力が弱まるのです。国の景気が下降しますと、国民の所得(個人も企業も)が減ります。そうしますと、税収も減るのです。 

国民の持っている、富を増やすことになり、そこから得られる税金が国の財政を潤すのです。国民を虐げ、そこから富を搾取し、国を運営していくことは自殺行為だと塾長は述べています。 

  1. インフレ率を上げることに危惧

インフレ率は年2%が必要だと日銀は目標数値を掲げています。インフレが2倍に進行しますと、名目所得は2倍に増え、税収も2倍に増えます。そうしますと以前に発行した国債 - 借入金は目減りして、半分になるわけです。そうしますと、国債を買った人の投資価値は半減してしまうのです。インフレの進行は投資した国民の富を減少させてしまうことにもなりかねません。 

国民の預貯金も金融緩和でほとんど利息収入はありません。インフレが進みますと、預貯金の実質価値は、名目的には変わらないですが、確実に目減りするのです。 

遺訓十四. 会計を総理する者が行うべきこと

国の会計出納(金の出し入れ)の仕事はすべての制度の基本であり、あらゆる事業はこれによって成り立ち、国を治める上でもっともかなめになることであるから、慎重にしなければならない。そのおおよその方法を申し述べるならば、収入をはかって支出をおさえるという以外に手段はない。一年の収入でもってすべての事業の制限を定めるものであって、会計を管理する者が、一身をかけて決まりを守り、定められた予算を超過させてはならない。制限を緩慢にし、支出を優先して考え、それに合わせて収入をはかるようなことをすれば、結局、国民に重税を課するほか方法はなくなるであろう。もしそうなれば、たとえ事業は一時的に進むように見えても、国が衰え傾いて、ついには救い難いことになるであろう。 

経営哲学・思想は、頭の中でそらんじているだけでは意味がありません。現場の経営に落とし込んでいかなければなりません。すなわち数値にまで落とし込んでいくことが必要なのです。 

経営というものは、会計、経理がわかっていなければ、できません。売上については売上明細(顧客別、製品別、事業所別等)が必要です。経費も細分化して具体的に節減していく方法が見つかるようにしなければなりません。 

経理を担当者たちにすべて任せていてはいけません。どのように記帳されているのかということまで経営者がみるべきなのです。 

西郷南洲は “入るを量りて出ずるを制するの外更に他の術なし” と言っています。“経営とは売上を最大に経費を最小にすることに尽きる” と塾長も同じことを述べています。 

売上最大、経費最小を目指す為には、細分化した資料が必要です。それから、具体的な行動に結びつけることが必要です。どうすれば売上が増えるのか、顧客のベース、製品、サービスの内容・種類等、経費であれば、どこを減らしていくのか検討できるような会計経理資料が必要なのです。 

西郷は “会計を総理する者” と述べています。総理する者は社長のことです。社長が身をもって会計制度(ルール、規則、予算)を守り、これを超えてはならない。われわれの会社では今月これだけの経費予算があったとしますと、社長もこれを守らなければなりません。 

西郷は “否(しか)らずして時勢に制せられ、制限を慢(みだり)にし、出ずるを見て、入るを計るなば、民の膏血(こうけつ)を絞るの外ある間敷(まじ)く也(なり)” と述べ、“支出が多くなったために、それに合わせて収入を増やさなければならないと考えるならば、税金を国民から取り立てることになり、国が傾くことになる” と説いています。 

企業経営でも同じことがあります。“新規事業をやれば、出費が増えてしまうだろうけれど、この新規事業が立ち上がれば、必ず来年、収入が大きく増えるはずだ” と考えてしまいがちです。売上よりも経費が先行して出費が大きくなっていきます、と塾長は述べられています。京セラでは来期の収入を見込んで、今期の赤字を許容したことはありません。設備投資や、新規事業展開の鉄則は、赤字にならないように体力に応じて経営することです。一時的に赤字になっても来期に取り戻せばよいと考えてはなりません。 

例えば、不要不急の本社建設にも言えます。会社が立派になるにつれて、新しい本社ビルを建てるようなことがあります。しかし、本社は多少でもビクともしないくらいの余裕ができてから建設を考えるべきなのです。 

遺訓十五. 身の丈にあった設備投資を行う

常備する兵数、すなわち国防の戦力ということであっても、また会計の制限の中で処理すべきで、決して軍備を拡張して、からいばりしてはならない。兵士の気力を奮い立たせて優れた軍隊をつくりあげるならば、たとえ兵の数は少なくとも、外国との折衝にあたっても、また、あなどりを防ぐにも事欠くことはないであろう。 

明治維新の時、政府は新しい近代国家を造ったのですが、大変な財政難でした。周辺には、ロシアが南下、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、欧米列強も近代的な軍艦を引き連れ、協力な武力をもって日本に開国、通称を迫っていました。こうした中で、国内では軍備増強を、国防をはかるべきという意見が噴出(ふんしゅつ)したのでした。しかし西郷は財政の許す範囲でしか、軍備を拡張してはならないと言っています。 

たとえ少い戦力でも、精鋭に育て上げれば、世界の強国から悔りを受けることは決してないはずだ。だから虚勢を張って軍備を拡張し、国家を財政破綻させてはならないと西郷は戒めています。 

塾長三十歳の際、ファインセラミックの視察でニュージャージーにあるセラミックの会社を訪問しました。その会社は最新のドイツ製の機械を何十台も備えて生産していました。ドイツ製の機械は値段は中古の京セラの機械5台分合計よりも高いものでした。その機械は人手もかからなく、京セラの機械生産能力の5倍でした。しかし設備費用としては、はるかに高価なものでした。そうしますと、京セラの機械で生産した方が一個当たりの原価は低いことに気がつかれました。塾長は、京セラはこのドイツ製の機械は買えないが、京セラ中古機械のほうが安く生産できますから、設備投資はしませんでした。京セラでは1人が2~3台の中古機械を見るようにしたのでした。その後、そのセラミック会社は倒産し、その当時の社長は京セラグループの会社に勤めることになったそうです。 

設備投資も自分たちができる範囲内でしなければならない。身の丈に合った設備投資をしていくことが大事なのです。 

西郷南洲の外交論と企業経営 遺訓十七、十八 

遺訓十七. 交渉の要諦は正道を踏むこと

正しい道を踏み、国を賭して倒れてもやるという精神がないと外国との交際はこれを全うすることはできない。外国の強大なことに恐れちぢこまり、ただ円滑にことを収めることを主眼にして自国の真意をまげてまで、外国の言うままに従うことはあなどりを受け、親しい交わりがかえって破れ、しまいにはがいこくに制圧されるに至るであろう。 

“国を以て、斃(たお)るるの精神” とは、国が敗れてもよいというほどの勇気を持つこと、つまり外交交渉は正道を踏んで、勇気をもって行わなければならないと西郷は説いています。 

筋を通していこうとすれば、場合によっては戦争となり、国が倒れるかも知れない、それでも構わないから正道を踏み、勇気をもってやっていかなければならない。 

京セラはフェアチャイルド社、半導体メーカーにセラミックスを納入していました。フェアチャイルド社は他のアメリカの会社から低融点(ていゆうてん)の特殊ガラスを買い、セラミックスの板2枚に半導体を挟み、半導体にコーティングしていました。2~3年後、フェアチャイルド社は京セラにコーティングの仕事を依頼して来ました。京セラは低融点の特殊ガラスをアメリカの会社から購入しようとしたのですが、反対にその会社は京セラからセラミックスを購入し、自分達でコーティングしてフェアチャイルド社に売却すると言ってきたのです。つまり、この特殊ガラスのメーカーは京セラのビジネスを自分のものにしようとしたのでした。 

京セラにとってフェアチャイルド社は最大のお客様で、売上の50%を閉める大顧客でした。

塾長はフェアチャイルド社に “ビジネスの道理にもとるような仕打ちを受け、私は大変憤っている” と伝えました。フェアチャイルド社の幹部にお願いしました。“フェアチャイルド社は従来通り特殊ガラスを買って頂き、それを京セラに売却してください” と依頼しました。フェアチャイルド社は京セラの依頼を受け入れてくれました。 

特殊ガラスの製造メーカーは、セラミックスの工場を立ち上げたそうです。しかし数年後、京セラに工場を買ってくれないかと連絡があったそうです。過剰投資をしたため、売却せざるを得なかったそうです。答えは “要らない” でした。 

自分が正道を踏んでいる、正しいと思っているならば、相手に気圧されることなく国が斃(たお)るるともいう気概でもって交渉に臨むことが必要なのです。 

遺訓十八 正道を踏む勇気を持て

我が国の事に及んだとき、たいへん嘆いて言われるには、国が外国からはずかしめを受けるようなことがあったら、たとえ国全体がかかってたおれようとも正しい道を踏んで、道義を尽くすのは政府のつとめである。しかるにかねて金銭や穀物や財政のことを議論するのを聞いていると、なんという英雄豪傑かと思われるようであるが、血の出ることに臨むと頭を一ところに集め、ただ目の前の気休めだけをはかるばかりである。戦の一字を恐れ、政府本来の任務をおとすようなことがあったら、商法支配所、すなわち商いのもとじめというようなもので、一国の政府ではないというべきである。 

西郷は朝鮮政府と国交を求めた機、他の政府官僚が “軍隊を派遣して開国させる” と主張した時、“それはだめだ。普通の小さな船で、私ひとりが丸腰で行き、正道を踏んで、朝鮮に自らの非をわからしめるように諭す。そうすれば開国してくれるはずだ” と述べました。しかし、“あんな無礼な朝鮮だから、いくらあなたが正論を言っても殺されるに決まっています。やはり軍隊を率いて堂々と外交交渉に行くべきです” と他の官僚が言っていたそうです。西郷は答えました。“殺されても本望だ。もし、私を殺すような非礼なことをするならば、そのときこそ戦えばよい。最初から喧嘩腰では戦争になるに決まっている” 

経営者も、小さな会社であっても、自分で引っ張っていこうと思うならば、燃える闘魂が必要です。中小企業の場合はとくに闘魂、勇気がどうしても必要なのです。 

心の学びと会計 

  1. 決算書が読めなければ経営にはならない

稲盛経営哲学は、経営哲学そのものを学ぶだけではなく、経営には経理、会計があり、決算書があり、決算書が読めなければ、経営にはなりません。 

決算書は経営者の考え、意思決定が反映されたものなのです。ですから決算書は経営者の成績表であり、反省し、改善する為の道具だと思います。 

  1. 会計への理解があってフィロソフィーが生きる

盛和塾で学ぶ経営の原点12ヶ条にしても、すべて会計に直結しているのです。こういう哲学で会計処理をしなければならない、会社経営をしなければならないというのが経営哲学なのです。 

経営哲学を学んだら、それを具体的に経営の現場に落とし込んでいく作業が必要です。経営哲学を憶えるだけではなく、それを具体的に現場に落とし込んでいく。それは経理の部門にも落とし込んでいくということです。 

“売上を最大に経費を最小に” は、経営の原点12ヶ条の一つです。この原点は直接経理に反映されるのです。このように経営哲学は観念論ではなく、経営の具体的なことを述べているのです。決算書を見ることにより、過去にどういう経営をしたのかがわかり、それを反省することにより、将来の経営に役立てることができるのです。 

  1. 盛和塾で学ぶ意義

盛和塾のメンバーの中には、どうしても会社を大きくするということを目標にしている経営者が多いと思います。ただし、業種も異なりますから、必ずしも企業規模を大きくすることが目的ではないのです。成長させることだけが目的ではなく、素晴しい高収益の会社にするのを目指すのです。高収益の会社とは、安定経営を行う企業です。財政的にも安定した経営をし、不況時にもびくともしない会社にするのです。従業員の雇用を守り、安心して勤めてもらうようにする為に、高収益で強い財務体質の会社をつくるのです。 

フィロソフィーと会計 

  1. 哲学が真に身につけば性格・人格が変わる

哲学や思想は、毎日自分の頭の中で繰り返し学び、日常の判断や行動になって表れるまで身についていなければ使えないものです。身につくとは、人格が変わるということです。思想や哲学が見識となり、身についてくれば、当然それは自分の人となりになってきますから、性格も、それに見合ってくると思われます。 

親戚、妻から、“お父さんは最近変わったね” と言われることがあります。それは性格が変わったからなのです。 

お坊さんは皆、お釈迦様の教えを学んでいます。若い頃から修業をしていますから、お坊さんは皆、徐々に性格や人格が似かよった風になるはずです。ところが、全然そうなっていないお坊さんが多いわけです。 

“哲学” が一人歩きしていて、勉強だけしているだけで、実際に使っていない人が多いと思います。“わかっている”  “知っている” ということだけになる。同じ本を読んでも、話を聞いても、“前に読んだ”  “前に聞いた” としてすませてしまうのです。そうではなく、その同じ話を繰り返し学び、血肉として自分の中に落とし込んで、身につけてしまうのです。“欲張り” になるのです。立派な素晴らしい本を良く選び、何度も繰り返し空んじてしまうぐらい読み込みますと、また自分の手に要点を書き留めることにより、頭の中に叩き込み、身につく様にするのも良い方法と思います。そうするうちに、哲学や思想が習い性になって、実際に自分の口で言えるようになってきます。そうすることによって、経営の現場に使えるようになります。 

  1. 運命はその人の人格に宿る

我々はそれぞれ運命を持っています。しかし運命というものは変わらないものではないのです。善きことを思えば、よい結果に運命が変わる、悪い事を思い悪い事をすれば、悪い運命に変わっていきます。塾長は述べています。善いことを思い善いことをする。悪いことを思い悪いことをする。日常、それをしているわけですから、性格そのものが変わっていくのです。善いことをしなければならないと、よいほうに運命を変えなければならないと思い。そういうように実行し始めれば、今までの卑劣な人間の性格が優しく良い方向に変わっていくはずだと塾長は述べています。 

正しい思想哲学を身につけて、日常の経営で実践すれば、その人の性格が変わると同時に、その人の経営している会社全体も変わっていくのです。正しい思想、哲学に基づいて、善きことを思う、善き会計処理をしていきますと、会計システムや処理の方法の中に、正しいフィロソフィーが取り込まれていくのです。 

  1. 孤独な経営者と経営者同士の真の語らい

どなたも経営者は悩みがあります。悩んでいることを自分の妻に話してもわかってくれませんし、解決にもならないでしょう。会社に相談しても “それは経営者が決めることでしょう” と答えが返ってきます。ところが、盛和塾では経営を同時に学ぶのと同時に、真の友人と語らう場がつくれます。 

孤独に耐えられず、自分の部下である副社長、専務、常務、部長に愚痴をこぼす、悩みを相談する経営者もいます。軽々しく “アイツを首にしたい” というようなことを言いますと、社内に広がってしまい、もうそれだけで人心がうわつき、会社の中に不協和音が発生します。よしんば、心の中で思っていても、部下にしゃべるわけにはいきません。 

  1. フィロソフィーを語る二つの目的

孤独な経営者は、自分と同じように考えてくれる部下はいないものかと考えます。そして一緒に協力していけば、会社はどんどん成長発展していくに相異ない。経営者の夢です。そんなものは、この世には望めないのが現実です。 

京セラでは、塾長と苦労を共にし、会社の将来の心配をしてくれる人というのは、稲盛哲学を理解し、それを身につけた人であってほしいと思いました。その為に、塾長は膨大な時間とお金を使い続けたのでした。京セラフィロソフィー、経営哲学を絶えずコンパなどを通じて話していて、それが本当にわかる、実行できる人を幹部に昇進させたと塾長は語っています。 

人材を育成するのは、大変な仕事です。立派な経営者を育てていくには、部下の育成に努力を重ねなければいけません。どうせ理解されないから育てられないからといって、諦めるわけにはいかないのです。 

死んだ父母の供養の為に、子供が石を積み上げ塔を作ると鬼がそれを壊すが、地蔵様に救われて墓石を積む、“賽の河原” といいますが、石を積み重ねる作業は、従業員の一人ひとり立派に育てていく作業と同じだと塾長は述べています。 

社内の同僚の気持ちをわかってくれ、本当に気持ちを一つにしてやってくれる人を育てていくために、社内でフィロソフィーを話していきます。自分と同じレベルの幹部社員を育てるのです。 

我々経営者は “あせらず”  “あわてず”  “あてにせず”  “あきらめず”  “あたまにこず” と、辛抱強く部下を育てなければならないのです。これがリーダーの大きな大切な仕事なのです。

フィロソフィーの勉強は結論として、以下の2つの目的があるのです。

・自分と同じような幹部を育てていく。

・従業員全員に、うちの会社はこういう思想、哲学で経営することを浸透させること。

  1. アメーバ経営のルート

協働経営者育成がほしいと考えた、又、全員経営参加を考えた塾長は、その為にフィロソフィーを説いていくと同時に、アメーバ経営というものを始めました。 

アメーバ経営では、幹部社員にフィロソフィーを注入していき、一部門を一幹部社員に任せ、責任を持って採算を全部見て、黒字経営をしなさいと任命します。特定の幹部社員を集めてコンパをし、フィロソフィーを教えていきます。考え方が浸透した時点で、部門の責任者に幹部社員を任命するようにするのです。 

これが部門別の小集団における管理会計(アメーバ経営)の始まりです。 

フィロソフィーと人材育成 組織論・会計学で高収益体制へ 

一般の製造メーカーでは、製造部は標準原価(予定に基づいた材料費、労務費、製造間接費の合計)で目標原価を決めています。営業部はその標準原価に目標売上総利益率(例えば45%)と加えて販売価格を決定しています。 

しかし売る方は、目標価格(標準原価+売上総利益)で売るわけではなく、市場価格でしか売ることができません。製造部門は標準原価で製品を製造しておれば、責任は果たしていることになります。

 製造部長に、会社はどれくらい利益がありましたかと質問しても、知らないのです。いくら儲かっているかには責任はないのです。 

営業は、お客様にはいくら目標価格で売ろうとしても、市場価格がありますから、お客様は目標価格は高すぎると言って、実際の売値は目標価格よりも低くなってしまいます。ひどい時は売価は標準原価以下になることもあります。 

こうして会社全体で赤字になってしまうのです。誰の責任でもないのです。経営者は言い訳をします。市況が悪く、値下がりが続き、赤字になったのです、と。 

こうした標準原価方式ではなく、営業部は営業部収益として10%のコミッションを取る。市場価格が下がる時には(市場価格 – 10%コミッション - 売上総利益)で、目標製造原価を考えてくれる様に要請します。製造部は、原材料仕入価格、効率的な作業、光熱費・経費削減等、製造原価削減の努力をするのです。そして、製造部門も市場の情報に適応していくように、会社をあげて経費削減に努力するのです。 

毎月、月次決算、損益計算書、製造原価計算書等を公表して、検討会をやります。 

このようにして、フィロソフィーの浸透を図り、人材の育成を図り、全員参加を促し、組織論・会計システムに落とし込んで行って、アメーバ経営が成り立つのです。 

経営哲学フィロソフィーは経営者の分身を作るツール 

経営哲学のフィロソフィーを社員に解ってもらうとは、経営者意識をもった人材を育てる、その人達に組織の経営者組織を任せたいという目的があるのです。 

  1. ともに経営して欲しい人にフィロソフィーを伝授

中小企業の場合、いっしょに仕事をして、フィロソフィーの勉強をして、人を育てていこうとするのですが、ちょっとわかって来てくれたなと思ったら、ポッとやめていってしまいます。 

どうしても頼りになる部下が欲しいと思ったら、フィロソフィーを教えなければならないのです。ですから、その人がどのくらいフィロソフィーを理解しているかが大切です。 

フィロソフィーを社員に話して会社全体に浸透させていけば、会社の雰囲気がよくなって来ます。会社全体のベクトルも揃っていきます。いちばん大事なことは、自分と同じレベルの経営者を育てることが目的だということです。 

  1. 部門長が採算を見られるようにする

経営者はあなたです、責任者はあなたです、独立採算であなたが社長として、この部門の採算を見てほしいのです。 

部門長は原材料、労務費、製造間接費についても精通して、自部門の人をまとめて、利益を出していくという責任があるのです。 

経理、会計の知識がない場合は、経理部から部門別の損益計算書を入手し、指導を受けることが必要です。そして、部門別採算というものを自分でつくらせるようにするのです。 

会社の組織をどのように部門を分けていくか。これは一般に独立採算で、採算が見られる最小の組織に分けるのです。 

  1. 任せるのではなく責任を持たせること

責任を持たせれば、思い切って任せなければならないので、任せきらないで部下を叱ったり、口を出すことは考えなければならないと考える経営者がいるかと思います。権限の委譲ということで、任せっぱなしにしておくのは下の下なのです。任すのではなく、部門の採算について責任を持ってもらうということです。 

責任を持ってもらうとすれば、自分自身、社長はその上の責任者ですから、うまくいかなければ、手助けをし、ああしろ、こうしろとするのは当り前です。それを一度任せたのですから、いっさい何も言わないというのではいけません。 

若手の登用も含めて、思い切って任せることにしたとしても、任せるのではなく、責任を持ってもらうのです。責任を持ってもらうのにはどうするかを考えることが、社長の仕事です。フィロソフィーの浸透と独立採算制度、アメーバ経営管理の導入を考え実行していく組織作りが、社長の役割です。 

 

盛和塾 読後感想文 第七十号

愛こそはすべて 

広中平祐京都大学教授は語ります。京都の清水寺で発表された恒例の今年の漢字に “愛” ということばが選ばれました。広中先生はその時、以前に読んだバイブル “キリストの教え” を思い出された。それまではコリント第13章はキリスト教形式の結婚式に招待される度に “愛の賛歌” として聞かされ、祝宴の喜びを分かち合うという認識でした。ところが、コリント第13章を呼んだ時、その内容の厳しさに愕然とされました。 

“もし愛がなかったら、知恵者の言葉も天使のささやきも、ドラやシンバルの喧しい騒音でしかない” “仮に私が預言者の知力をもち、全ての神秘を解明でき、全ての知識を会得していたとしても、もし愛のない人間であれば私は無に等しい” “仮に私が、自分の資財を全部与え、自分の肉体まで犠牲に捧げたとしても、もし愛がなければ何の酬いも得られない” とありました。  

ハーバード大学に勤務していた時、主だった同僚と話をしたことが思い出された。“組織の長たるものに必要な資質とは何だろう” と話した時、その時の結論は、“第一番は組織とその職員に対する愛情” と決まりました。 

稲盛塾長の “敬天愛人” の人を愛する精神が名誉会長自身の心の中でいかに強いものか、盛和塾の若者たちも肝に銘じておくべきだと広中教授は結んでいます。 

己をつくる 

成功した中小企業の経営者の方々は、勝気で闘志むき出しの方が多いようですが、そのような方は商機を見る目があり、気が利き、非凡な才覚を持つ、商才に溢れています。才覚と商才があれば、事業はうまくいきます。ただしそれだけでは破滅する可能性があります。 

才覚と商才にまかせて、次から次へと新しいことに手を打っていくからです。“才に溺れてしまう”のです。自分の魂がなく才覚や商才に使われてしまうのです。自分の才覚や商才に溺れてしまい、自分の本来の事業から大きく逸脱してしまうのです。 

高潔な人格を備え、徳を身につけた“己”が才覚や商才をコントロールすることが必要なのです。事業が一生涯の業であるならば、“徳”を高めて“己れ”をつくっていくことが必要です、と塾長は述べています。 

リーダーのあるべき姿 正道を貫く生き方 

リーダーにとって大切なものは人格

ワシントンにある戦略国際問題研究所(CSIS)の副理事長であるデイビッド・アブシャイア氏が塾長に協力を求めて来ました。リーダーのあり方がいまほど問われていない時はないという認識をされておられました。 

  1. ワシントンが人格者だからアメリカは発展した

デイビッド・アブシャイア氏のスピーチは、アメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンについてでした。世界各地でアメリカがイギリスから独立した時代、独立運動が各地で興りました。しかし、世界各地にあった植民地のなかで、独立後、アメリカのように順調な発展を遂げていった例はあまりありません。アフリカ諸国の例を見ますと、独立を果たしたものの、独裁政権に陥り、内乱に明け暮れ、国民が四分五裂してしまいました。アメリカ合衆国だけが独立後も素晴らしい発展を遂げて来ました。 

それは初代大統領、ジョージ・ワシントンが素晴らしい人格者だったからです。 

アメリカが独立した時、合衆国議会は大統領に強大な権限を与えたのでした。アブシャイア氏は、リーダーとして一番大切なことは、その人が持つ人格なのだということをジョージ・ワシントンを例に挙げて話されたのです。 

  1. 深沈厚重(しんちんこうじゅう)なるは、これ第一等の資質

塾長は、アブシャイア氏の後をうけて “一国はひとりをもって興り、ひとりをもって亡ぶ”という中国の古典の一節を引用して、スピーチをされました。この中で呂新吾(中国・明代の官僚、政治家)の著した “呻吟語” の中で、リーダーの資質を三つ挙げ、その序列をつけて表現しています。 

“深沈厚重なるは、これ第一等の資質。磊落豪雄(らいらくこうゆう)なるは、これ第二等の資質。聡明才弁なるは、これ第三等の資質。” 

私共は、ともすれば、才能のある、戦略的な思考ができ、専門知識にも長け、弁もたつ人、聡明弁才なる者をリーダーに登用しがちです。例えば、官界においては、難関の上級国家公務員試験を受け、狭き門を突破する、いわゆる秀才型の人を行政のリーダーにしています。 

呂新吾がいいますのは、聡明で弁がたつという能力は第三等の資質だと言うわけです。そのような資質は一介の官吏としては必要にして充分です。集団を導いていくリーダーとしては、それだけでは足りません。困難な局面にあたっても集団を正しく導いていけるだけの勇気が必要です。 

呂新吾は勇気をもっているリーダーだけでは、“磊落豪雄なるはこれ第二等の資質”といっているように、不充分であると述べています。 

リーダーとして最も重要なことは“深沈厚重なるは、これ第一等の資質”と呂新吾が説いているように、浮わついたところがなく、考えが深く、信頼するに足る重厚な性格を持っていることです。人格者であるということです。能力、勇気、人格の三つを兼ね備えているのは最も理想的なリーダーです。その中で一番大切なのは、人格だと呂新吾は言っているのです。 

  1. 国に求められる品格

国にも同じように品格というものが求められます。塾長は2004年に中国の共産党中央党校で講演しました。 

中国は、素晴しい経済発展を遂げておられます。今後もおそらく成長・発展して、近い将来、世界有数の経済大国になることは確実だろうと思います。同時に軍事大国にもなっていかれるだろうと思います。強大な国となった将来の中国がとるべき道はどういう道でしょうか。 

孫文の演説を引用しました。辛亥革命(しんがいかくめい)によって清朝が倒れたあと、新しい中華民国の臨時大総統となりました。1924年、神戸に立ち寄った時、神戸市民の求めに応じて、五千人を前に演説をしました。 

“あなた方日本民族は、欧米の覇道(はどう)の文化を取り込むと同時に、アジアの王道の文化の本質も持っておられる。その日本が今後、西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城(かんじょう)(盾と城)となるのか、あなた方日本国民はよく考え、慎重に選んでほしい” 

残念ながら、日本はこの孫文の忠告に耳を貸さず、覇道をまっしぐらに突き進み、1945年の敗戦という破局を迎えました。中国にはぜひ王道による国家運営を行ってほしいのです。1924年に孫文が日本国民に忠告してくれた言葉を、中国共産党のリーダーであるみなさんにお返しします” 

リーダーにとって最も大切なことは人格だと思いますが、国にとっても最も大切なことは品格だと思っています。国家も品格を備え、王道を歩むべきなのです。 

を備えよ 

  1. 徳とは何か

人格や品格をつくる中核は、徳だと言われています。徳を備えた人が人格者であり、徳を備えた国が品格のある国だと思います。 

徳とは “仁” “義” と中国の古典では言われています。それでは解かりません。一体、具体的にどうすれば素晴らしい人格を手にすることが出来るのか、どうしたら身につけることができるのか、ということが大事です。 

  1. 徳を備えた人とは人間として正しいことを実践できる人

塾長は27才で会社を作っていただいたのですが、年輩の従業員の方にも仕事をお願いすることもありましたし、また、毎日、経営判断をしなければなりませんでした。その時、判断基準をどこにおくのか、悩みました。 

そして、昔教わった善悪の基準、“人間としてやってよいこと、人間としてやってはいけないこと”をもとに判断しました。“会社にとって正しいか正しくないか”ではなく、また “私にとって正しいか正しくないか” でもなく、“人間として正しいか正しくないか” その一点で判断し、経営していくことにしました。 

このように子どもの頃に教わったプリミティブな倫理観、道徳観を経営企業の根幹に置いたわけです。人間として正しくないことを言った時には、その誤りを指摘してほしいと塾長は従業員に頼みました。 

徳を備えるためには、人間として正しいことをして、やってはいけないことをしないという単純なことなのです。徳をさらに簡単に言えば、正直である、誠実である、努力家である、常に感謝の心を忘れない、他を思いやる、やさしさを持っている、勇気を持っている、ウソを言わない、騙(だま)さない、欲張らない、威張らない、人の悪口を言わない、不平不満を言わない、欲張らない、足るを知る、むやみに怒らない、日々反省する、という単純ですが、これを身につけるように努力する、日常生活のなかで実践している人、そういう人が “徳を備えた人” なのです。 

  1. 徳のない人をリーダーに据えることが不祥事を招く

呂新吾は “聡明弁才なるは第三等の資質” と申しましたが、その才能を使うのは人格なのです。人格が歪(ゆがみ)である場合には、その人に才能があればあるほど、それは凶器となってしまいます。才能を正しくコントロールするためにも人格を高め、徳を持った人間性を身につける必要があるのです。 

素晴らしい包丁があったとします。しかし、その素晴らしい包丁を使うのは料理人です。素晴しい料理人でなければ、その素晴らしい包丁を使いこなすことはできないのです。 

日本では、経済界でも政界官界でも、才能・弁才のある者を登用し、その人をリーダーに据えてきました。才能だけを優先して、その人の人格を厳しく問うたことはないように思われます。 

米国での不祥事、エンロン、ワールドコム、巨大企業が一瞬にして崩壊してしまいました。二度と不祥事が起こらないようにと、コーポレートガバナンスは、コンプライアンスはどうすべきかを検討し、その結果、膨大なルールが作られ、それで企業を管理しようとしています。 

しかし、いかに精微なルールがあってもリーダーが人格者でなければその裏をかいたような問題が必ず発生するのです。 

  1. 西郷にみるプリミティブな教えの大切さ

西郷南洲は明治維新を起こす前、薩摩藩主島津久光公の逆鱗(げきりん)に触れ、2度島流しの刑に処せられました。沖永良部島という離れ小島へ流され、広さ二畳ほどの吹きさらしの牢に数ヶ月入れられたそうです。西郷は沢山の書物を持ち込み、勉強しました。と同時に、島の子供達にも学問を教えました。 

“おまえたち、一家が仲睦まじくしていくためには、どうすればよいと思うか”と問いました。西郷から陽明学を学んでいましたから、利発な子が答えました。“はい、君には忠義を、親には孝行を、兄弟は仲良く、夫婦はむつまじくしていくことです” 

“うむ、それは正しい。しかし、そうは言っても実行するにはどうしたらよいか。それは簡単なことだよ。家族のみんながそれぞれ少しずつ自分の欲を抑えればよい。そうすれば仲睦まじくしていける” 

美味しいものがあれば、家族のみんなで分けて食べる。楽しいことがあれば、みんなで楽しむ。悲しいことがあればみんなで悲しむ。これは近所の人達とでも同じです。自分の欲を少し抑えるだけで、仲睦まじくしていくことができるのです。 

学校の先生、両親から教わったプリミティブな教えの中に、すばらしい考えがあり、それを身につけることによって人格を高める、徳を備えることができるのだと塾長は説いています。そして身につけるため、その努力を続けることが大事なのです。 

働くことで魂を磨く 

自分を徳の高い人間にしていく、自分の魂を磨き続けることが人生だと思います。

人生の中では、誰もが苦労に面し、辛酸(しんさん)をなめることがあります。魂を磨くために一番大事なことは、苦労を重ね、辛酸をなめることです。苦労することは魂を磨くために必要不可欠なことです。それは、自分の魂を磨くために自然が与えてくれた試練、磨き砂だと受けとめるべきです。働くことは魂を磨くことができるからです。働くことは、辛苦が伴なうことであり、そのつらさに耐え、克服していくことは、魂を磨くことになるのです。 

無私の人、西郷南洲の教え 

遺訓一.無私こそリーダーの資格

政府にあって国の政をするということは、天地自然の道を行うことであるから、たとえわずかであっても私心をさしはさんではならない。

だから、どんなことがあっても心を公平に堅く持ち、正しい道を踏み、広く賢明な人を選んで、その職務に忠実にたえることのできる人に政権をとらせることこそ天意、すなわち神の心にかなうものである。

だから本当に賢明で適任だと認める人がいたら、すぐにでも自分の職を譲るくらいでなくてはいけない。従ってどんなに国に功績があっても、その職務に不適切な人に官職を与えてほめるのはよくないことの第一である。官職というものは、その人をよく選んで授けるべきで、功績のある人には俸給を与えて賞し、これを愛しおくのがよいと翁が申される。

西郷南洲は辛酸をなめつくした素晴らしい人間性をもった無私の人です。少なくともリーダーとなる人は無私でありたいと思っている人でなければなりません。自分を犠牲にしてでも集団のために尽すという無私の心がある人こそリーダーの資格があるのです。 

遺訓五. 辛酸の日々が堅い志をつくる

ある時、“人の志というものは、幾度も幾度もつらいことや苦しい目に遭ってのち、はじめて固く定まるものである。真の男子たる者、玉となって砕けることを本懐とし、志をまげて瓦となっていたずらに生き長らえることを恥じとする。それについて自分が我が家に残しおくべき訓としていることがあるが、世間の人はそれを知っているであろうか。それは子孫のために良い田を買わない。すなわち財産をのこさないということだ” という七言絶句の漢詩を示されて、もしこの言葉に違うようなことがあったら、西郷は言うことと実行することと反していると言って見限りたまえと言われた。 

“自分は幾度も辛酸をなめてきた。そのために私ははじめて堅い志を持つに至った。また私は子孫の為に美田を買わない、つまり子孫たちへの遺産を増やすようなことはしない”

自分の子孫に美田を買ってやりたいという人間として当然の欲を抑えるほど無私で潔白だったのです。 

遺訓七、遺訓三十四. 策略、策謀を使わず正道を踏んで物事を進める

遺訓七. どんなに大きい事でも、またどんなに小さいことでも、いつも正しい道を踏み、真心を尽くし、決していつわりのはかりごとを用いてはならない。人は多くの場合、あることにさしつかえができると、何か計略を使って一度そのさしつかえを押し通せば、あとは時に応じて何とかいい工夫ができるかのように思うが、計略したために心配事がきっと出てきて、その事は必ず失敗するにきまっている。正しい道を踏んで行うことは、目の前では回り道をしているようだが、先に行けばかえって成功は早いものである。 

遺訓三十四. はかりごと(かけひき)はかねては用いない方がよい。はかりごとをもってやったことは、その結果を見ればよくないことがはっきりしていて、必ず後悔するものである。 

西郷は策略や策謀を戒め、正道を踏んで物事を進めていくようにと説いています。 

企業経営者は利益を生み出していかなければならない。ですから、利益を得るためにいろいろな策略を使って事業をしてもかまわないと考えます。しかし策を弄したビジネスは、一旦は成功したかに見えますが、必ず破れることがはっきりしています。どんなことであろうとも、正々堂々と、人間として正しい道を踏んでいくべきです。それが一番の近道なのです。一番確実な道なのです。

盛和塾 読後感想文 第六十九号

謙虚なリーダーになる 

リーダーは、常に謙虚でなければなりません。権力や支配力を持つと、一時的に成功しますと、往々にして人間のモラルは低下し、傲岸不遜になってしまいます。このようなリーダーの下では、集団はたとえ一時的に成功したとしても、長い間にわたって成長・発展していくことは困難となり、集団の団結もなくなり、相互の協力も得られなくなってしまいます。 

リーダーは部下がいてはじめて自分がリーダーとして存在するという謙虚な姿勢が大事です。謙虚なリーダーだけが協調性のある集団を築き、その集団を調和のとれた永続する成功に導くことができると塾長は述べています。 

西郷南洲に学ぶ克己心 

この項は西郷南洲翁遺訓の中から、自分を治める克己心について学びます。 

人材の登用と使い方

遺訓六。人材を採用するにあたって、君子(徳行の備わった人)と小人(人格の低いつまらない人)との区別を厳しくし過ぎるときはかえって災いを引き起こすものである。その理由は天地がはじまって以来、世の中で10人のうち7,8人までは小人であるから、よくこのような小人の心情、思いをはかってその長所をとり、これを下役に使い、その才能や技芸を十分発揮させるのが良い。 

藤田東湖先生はこう申されている。“小人は才能や技芸があって用いるに便利なものであるからぜひ用いて仕事をさせなければならないものである。だからといってこれを上役にすえ、重要な職務につかせると、必ず国をくつがえすような事にもなりかねないから、決して上役に立ててはならないものだ” と。 

人を登用する場合、才能よりもその人物を見て登用すべきです。この遺訓六の中に、“君子小人の弁酷に過ぐる時は害を引き起こすもの也” と述べられています。君子とはすばらしい徳を持ち、人から信望を受けられる人のことをいいます。“あの人は人間が出来ている” “あの人は徳をもっている” “あの人は信頼できる” というように、人柄もよく、人から信頼されるに値する人間性を持っているという意味で、君子と西郷南洲は表現していると塾長は述べています。 

  1. 小人を活用しなければ、大きな仕事はできない

小人とは才能の面では大変優れているが、人間的な修練の未熟な人、人間が未だにできていない人です。よく会社ではこうした小人がトップに選ばれたり、また勤続年数によって地位が上がる年功序列により、トップが決められたりすることがよくあります。人物本位では抜擢されないことがあります。 

本当は小人が人格を高めて地位があがっていくのが望ましいわけです。小人も人間性を磨いていく努力をすることができます。

素晴らしい徳を備え、人望のある人を重要視しなければならない。これは経営の要諦です。しかしそればかりを求めたのでは経営は成り立ちません。“そういう君子は非常に少なく、人間の出来ていない小人が大半なのです” と西郷南洲は述べているのです。小人を使わなければ、仕事はできません。人間的にはあまりよくないが、才能のある、能力のある人は沢山おります。そういう人には、そういう人なりに、組織の中で充分その才能、能力を発揮できる場を与えて、働いてもらうようにするのです。 

人物が出来ていない人の欠点を見抜いた上で、その人が持っている長所、才能、能力を組織内でどう活用するのかを考えることも、トップの人の大切な仕事だと思います。 

人間は、短期間で評価できない様に思います。採用して一年くらい一緒に仕事をして、少しその人物の人柄、人格がわかるぐらいだと思います。たとえ小人だったとしても人間性向上の為の機会を組織の中で経営者はつくることが肝要と思います。 

  1. 第二電電成功の要因

塾長は電気通信事業の経験はもっていませんでしたが、第二電電(現KDDI)を創業しました。 

当時は電電公社(現NTT)の一社独占の状態であった為、日本の電話料金は世界の相場、特に欧米に比べてたいへん高いものでした。塾長は国民の為に安い電信電話サービスを提供したいと考えました。 

お金は京セラで蓄積した預金一千億円を用意しました。しかし電気通信事業の経営経験もなく、技術もなく、人材もなく、電電公社の若い技術陣数十名にお願いし、第二電電に来ていただきました。十数名の技術者は、どの人も素晴らしい技術、能力をお持ちでした。その能力を重視し、その人たちを中心にして、たいへん不利な状況、厳しい環境の中で、第二電電がスタートしました。 

その時、日本テレコム(国鉄)、日本高速通信(トヨタ/建設省)と強大な競争相手が出現しました。こうした中で、素晴しい才能をもった人達で構成した第二電電は、競争に負けず、大きく成長しました。 

塾長が第二電電の社長に選んだのは、電電公社から集まった才能のある技術者の中で、あまり目立たない人を任命しました。一部の人は、第二電電を辞めていきました。トップとして、徳を備えているかいないか、社内の人々から信頼、信望を得られるかどうかが大事と考えた塾長は、素晴しい才能があり、第二電電の発展に貢献してくれた人であっても、後継者には選ばなかったのです。しかし、第二電電(KDDI)を辞めた人たちも、KDDI株式上場により、大株主となって、たいへんな資産家となったのです。 

世の中には、能力もあり、才能もある小人がたくさんいます。君子ばかりを選ぶのではなく、その人たちの能力、才能を使わなければ、企業経営はできないのです。しかし、能力があり、仕事ができるからといって小人をトップに据えたのでは、その会社は潰れてしまいます。 

能力のある人は、人物で若干できていなくても、十分に役立ちます。その役立ちに報いるのには報酬しかありません。俸禄、つまりお金でもって報いるべきであって、役職で報いることはしてはならないのです。 

人はそれぞれ特徴を持って生まれ育って、世の中に出て来ます。人は同じではありません。人間すべて君子である必要はないですし、すべて小人である必要はありません。君子、小人があり、それぞれ異なった分野で才能や能力を発揮し、協力し合い、助け合うことが大切だと思います。 

  1. リーダーには心が伴なっていなければならない

徳や信望がある立派な人間性を身につけた人を官職に、つまり重要な役職につけなければなりませんが、しかし、同時に大切なことがあります。 

経営を伸ばすための経営の原点12ヶ条の中に、4.誰にも負けない努力をする、5.売上を最大に経費を最小に、8.燃える闘魂、と厳しいことが述べられています。“10%の経常利益が出ないようでは、企業経営をやっている意味がない” と塾長は盛和塾塾生に厳しい注文をつけています。しかしこれらの厳しい注文には前提があります。1.事業の目的・意義を明確にする。何の為に事業をするのかをはっきりとしなければならないと塾長は述べています。また利益を追求するにあたっては人間としての何が正しいかを基準にすべきだと述べています。利他の心の必要性を説いているのです。 

経費を削減する為に偽装する、検査データをねつ造する、経営トップは知っていながら従業員にコストダウンを強要し、建築基準法を守らなかったということではなかったのです。そういうことを遂行するリーダーには、人間としての何が正しいかという判断基準、根本的な経営者としての心が伴なっていなかったのです。 

会計事務所のお客様への請求は、費やした時間をベースに計算されることがあります。事務所長はスタッフに言いました。“できるだけ長くお客様と電話で話しなさい”。とんでもないことです。自利をむき出しにした、心のない指示です。 

策課策略をめぐらせたものは必ず失敗する

遺訓七。どんな大きい事でも、またどんなに小さい事でも、いつも正しい道をふみ、真心を尽くし、決していつわりのはかりごとを用いてはならない。人は多くの場合、あることにさしつかえができると、何か計略を使って一度そのさしつかえをおし潰せば、あとは時に応じて何とかいい工夫ができるかのように思うが、計略したための心配事がきっと出てきて、その事は失敗するに決まっている。正しい道を踏んで行うことは、目の前では回り道をしているようだが、先に行けばかえって成功は早いものである。 

  1. 正しい道を踏み、誠を尽くして仕事をする

“策謀を用うべからず” と西郷南洲は述べています。策謀、策略、謀(はかりごと)を用いたのでは、一時はうまくいくかも知れないが、それは、決して長続きはしませんし、必ず失敗します。物事は必ず正しい道を踏み、誠を尽くして進めなければならないと言っています。 

目的達成のためには手段は選ばす、ということがあります。西郷南洲は “策謀を巡らせて目的を達成してはならない。手段は選ばなければならない。真正直に誠を尽くしてやっていかなければならない” と言っています。 

塾長は述べています。我々人間というものは仕事でも何でも行き詰った時に、良心では決して良いとは思ってはいないことでであっても、このくらいはいいだろうと考えてついつい悪いことをしてしまいます。極端な場合 “結果良ければすべてよし” と自分を納得させようとします。行き詰った時、内心ではよくないと思っているのに屁理屈をつけて実行してしまうことは決してよくありません。 

行き詰ったからとか、事の大小で判断するのではなく、正しい道を踏み、誠を尽くして仕事をしていかなければなりません。 

  1. わずかな策略の始まりが企業の崩壊を招く

名門企業のカネボウは、繊維事業、医薬品、化粧品、食品、住宅環境の事業にも進出していました。 

しかし、やがて行き詰った時に、業績悪化を表面化させない為、ちょっとではないかと、公認会計士にも無理矢理に認めさせ、粉飾決算に走り始めました。そして、カネボウは企業再生機構に経営を委ねることになってしまいました。 

当時の社長以下、幹部の人たちの関与も確認されました。名門企業としての体面を取り繕うために、ほんの少しの策略を用いた。次第にエスカレートして、監査法人をも巻き込んだ大不祥事になってしまったのです。 

誰も最初から大きな策略は行いません。小さな、わずかなものがスタートです。ところが、それがだんだんと大きくなってしまうのです。 

至誠の人を要所に配して、はじめて制度は機能する

遺訓二十. どんなに制度や方法を論議しても、それを説く人が立派な人でなければうまく行かないだろう。立派な人があってはじめて色々な方法は行われるものだから。人こそ第一の宝であって、自分がそういう立派な人物になるように心がけるのが、何よりも大事なことである。 

  1. 理念や制度をつくっただけでは実行されない

西郷南洲は、次のように言っています。  “何程、制度方法を論ずる共、其人に非ざれば行われ難し”

いろいろな機会を把えて、理念や制度について従業員に話していますが、もし企業の幹部社員が立派な人物でなかったら、意味がありません。部長や課長、指導する人が、立派な人物ではなく、理念、制度、ルールを少しも実践できていない人であった場合には、いくら経営者が会社の理念、制度、ルールを守ろうと従業員に説明しても、社員が守るわけがないのです。つまり、中堅幹部の人たちが立派な人物でなければ、その理念、制度、ルールは実行されないのです。 

従って中堅幹部の人たちに経営者は充分に説明し、社員の模範となってもらう必要があるのです。こうした中堅幹部は誠を持っている人、至誠の人、裏表がなく誠実な人となり、要所要所に配置されれば、理念、制度、ルールであれ、社員一人ひとりが実行し、組織全体に浸透していくと塾長は述べています。 

  1. ルールではなく、人の心に焦点を当てる

アメリカのエンロンというエネルギー会社やアメリカ通信業の大手ワールドコムは、不正経理、粉飾決算で一瞬にして倒産しました。アメリカの証券取引委員会を中心に、法律家達がいくつものルールを作りました。アメリカ証券取引委員会は、上場企業をがんじがらめに縛るようなルールを課したのでした。各社は企業内にルールを作り、又、それが実行されているかをチェックすることを迫られています。これには膨大な時間とお金がかかるのです。 

物、制度、ルールしか信じないアメリカ資本主義社会では、企業が不正を出来ないようにしようとしています。しかし、これでは根本的な解決にはならないのです。一番大切なことは、西郷南洲の述べているように、“何程、制度方法を論ずる共、其人に非ざれば行われ難し” なのです。 

塾長は語っています。ルールをつくり、いくらそれを守らせようとしても、決して不正行為はなくならないと思います。ルールではなく、人の心に焦点を当て、立派な人物像を要所要所に配置、経営トップにも徳のある立派な人格者を選ぶべきなのです。 

本来ならば、法律から免れること自体が人の道からいえば恥ずかしいことだと考えなければならないにも関わらず、“オレは賢いから法律の逃げ道を考えることができるのだ” と恥じるところがない。 

論語: 道之以政 齊之以刑、民免而無恥

         これを導くに政をもってし、これをととのふるに刑をもってすれば、民免れて恥なし。

法律を作り、もしその法律を犯せば厳罰に処するという罰則規定を設ければ、事は済むと思っているが、国民は恥じることなく、その法律、刑罰から逃れることを考え、行うようになる。 

経営者は自分に打ち克たなければならない 

遺訓二十一. 道というものは、この天地のおのずからなる道理であるから、学問を究めるには敬天愛人(道理をつつしみ、守るのが敬天である)を目的とし、自分の修養には己に克つということをいつも心がけねばならない。己に克つということの真の目標は論語にある「意なし、必なし、固なし、我なし(当て推量をしない。無理押しをしない。固執しない。我を通さない)ということだ。 

すべて人間は己に克つことによって成功し、己を愛することにより失敗するものだ。よく昔からの歴史上の人物を見るがよい。事業を始める人は、その事業の七、八割まではたいていよくできるが、残りの二、三割を終わりまで成し遂げる人が少ないのは、はじめはよく己を慎んでことを慎重にするから成功もし、名も現われてくる。ところが、成功して有名になるにしたがって、いつの間にか自分を愛する心が起こり、畏れつつしむという精神がゆるんでおごりたかぶる気分が多くなり、その仕事をなしえたのでなんでもできるという過信のもとに、まずい仕事をするようになり、ついに失敗するものである。これらはすべて自分が招いた結果である。だから常に自分にうち克って、人が見ていない時も聞いていない時も、自分を慎み戒めることが大事なことだ。 

  1. 成功すればするほど難しくなる自分の律し方

会社がうまくいき、成功していれば、経営者は油断します。最初は一生懸命に慎んで仕事に取り組んでいるのでうまくいきます。だんだんと成功していき、有名になり、他人から褒められるようになると、ついつい過信して自分を見失ってしまうことがあります。 

戦後、焦土と化した日本、その荒廃した日本経済の発展の立役者となった、成功した人で、その栄誉を保ったまま亡くなった方は数名しかいないそうです。多くの成功した経営者は、周囲からおだてられ、自分を失い、没落していきました。 

人間というものは、いくら自分自身を戒めて、自分を見失わないようにしていても、周囲が、環境がそれを許さないのです。成功すれば成功するほど自分を律するのは難しく、大変な努力が必要ですと、塾長は警告しています。 

  1. 自らの意思力で煩悩を抑える

中国の古典の “中庸” の中に “誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり” とあります。誠実、誠を尽くすことが、天の道です。天の道を誠にするのが人の道ということです。 誠とは “中庸” では “善を択んでこれを固く執る者なり” といっています。人間として善きことを選び、固くこれを自分のものにしていくことを誠だと言っています。 

西郷南洲の言う “道は天地自然の道” というのは、人が生きていく正しいあり方のことです。

講学とは学問に努めるということです。学問に努める目的は “敬天愛人” を学ぶことです。敬天とは天を敬うこと、愛人とは天が分け隔てなく人を愛し育んでくれているように人を愛することを言います。 

敬天愛人を実践する為には、自分自身の心を修養しなければならない。自分の身を修めるには、克己-自分に克つ-自分自身の煩悩を抑えつける-をもって終止する。 

人間は自分を律しなければ、心の中に欲望や邪念が沸き起こってきます。肉体を持っている人間が生きていく為には、欲望や邪念(煩悩)が必要なのです。欲望、怒り、愚痴の三つは煩悩の中で一番強いもので、三毒と言われています。放っておけば、我々人間の心の中には煩悩が湧き上がって来ます。 

この煩悩を自分の意思で抑えることが克己なのです。 

  1. 自らを愛する心の芽生えが成功を失敗へと変える

西郷南洲は言います。“総じて人は己に克つを以って成り” 己とは欲望や邪念のことです。それに克つことにより、仕事でもなんでもうまくいく。すべて自分自身と葛藤し、自分自身に克つことができるかが、その仕事ができるかできないかの決めてになると、西郷南洲は語っています。  

人は事業を始め、十の内七、八まで一生懸命に頑張り、成功させることができます。しかしあとの二つ三つを仕上げることのできる人は少ないのです。はじめの頃は慎み深いし、謙虚さも失ってはいませんし、誠の道を歩こうと努力をします。しかし成功し、有名になりますと、だんだんと謙虚さを失い、虚飾に走ってしまうのです。 

いつしか自らを愛する心が起こり、恐れ慎む心、恐櫂戒慎の心が緩み、驕りたかぶる驕矜の気持ちが長じてきて、自分の成功した事業を自慢するようになり、さらには自分のことしか考えられなくなってしまいます。いままでは “会社は従業員の為、世のため、人のため” と言っていたのが “会社は自分のため、自分の家族のためにあるのだ” と考えはじめてしまうのです。それが仕事に影響を与え、失敗していくこととなります。 

克己心をもつ、つまり自分を甘やかしてはなりません。 

常日頃からの心構えがなければ己に克つことはできない 

遺訓二十二. 己に打ち克つにすべてのことをその時その場あたりに克とうとするから、なかなかうまくいかないのである。かねて精神を奮いおこして、自分に克つ修行をしなくてはいけない。 

“身を治めるためには、自分の欲望や邪念を克服することから始めなければならない” と言われると、ほとんどの人は “よし、わかった。そのような問題が起こった場合は、そういうことを心がけるようにしていこう” と言います。しかし、そう簡単に自分を抑えることは出来ないのです。身を治めるためにはかねてからそういうことを心がけていなければなりません。急にその状況になって自分自身の欲望を抑えることなどできません、と塾長は語っています。 

西郷南洲は “己に克つにはかねて気象をもって克ちおれ” と言っています。自分を抑えるということは、頭でわかっているだけではなく、常日頃どんなことに対しても己の欲望や邪念を抑える訓練、心構えをしておかなければならないのです。“気象” とは性格のことです。自分の意思で欲望や邪念を抑えることが自分の性格にまでなっていなければならないのです。あの人は克己心の強い気象(性格)の人だと言われるぐらいでなければならないのです。 

  1. 真理を学び続けることの大切さ

塾長の話の中では、何回も同じことが出て来ます。“ああ、これは前に聞いて知っている” と思う人が多いと思います。 

“自分に打ち克たなければ成功しても必ず敗れるのだな。そのような時は、オレならば欲望を抑えることができるはずだ” と思う人がほとんどだと思います。知識でわかっているから欲望を抑えることができると思ってしまうかも知れませんが、それが気象(性格)にまでなっていなければ、使うことはできないのです。克己心について、繰り返し繰り返し自分に言い聞かせ、学び、体得していかなければ、使えるものにはならないのです。 

塾長の述べられた内容で何回か同じ事があります。しかし読み方の深さ、自分の会社の状況変化、経済状況の悪化等により、その理解の度合いが違い、同じ内容ですが、新しく知ったということが多々あります。 

例えば、ちょっとした形容詞の言葉で、塾長のきめ細かい配慮が感じられることが山ほどあります。何度も何度もよい本は読んで、見る価値があります。沢山の本を読むのではなく、よい本を繰り返し読む方が、理解が深まると思います。 

克己心が気象にまでなっている人は、もう失敗はしないと思います。

盛和塾 読後感想文 第六十八号

自己犠牲を払う勇気を持つ 

すべてのリーダーは、喜んで自己犠牲を払う勇気をもっていなければなりません。集団として何か価値のあることを成し遂げようとするには、大変なエネルギーが必要です。エネルギーには、時には時間が必要です。集団の為に使う時間を作る為には、自分の家庭団らんの時間を削ることが必要かも知れません。会社経営の場合ですと、資金繰りの為に、銀行借り入れの為の個人保障もしなければなりません。あるいは、自分の給与をあきらめなければならないこともあるでしょう。部下が起こした事故の為に、お客様へ、おわびに行くこともあります。部下を守る為には、リーダーは全力を尽くして、自己犠牲をものともせず、立ち向かっていくことが必要なのです。 

職場環境を改善していこうとする場合、それはリーダーの都合のためではなく、そこに働く人々の大多数の為、またはお客様の要望に応えるためのものでなければならないのです。リーダーが自分の都合のよいことを考えて、職場を変えていこうとしますと、部下も部下に都合のよい職場にしようとしてしまうのです。部下も自分勝手になり、誰もリーダーについて行こうとはしません。リーダーは家庭の主人です。部下はその子供です。子供である部下は、家庭のリーダーである親の後ろ姿を見て、まねをします。 

リーダーの自己犠牲を見た部下たちはリーダーを信頼し、尊敬してすすんで職場の協調と規律、そして会社の発展のために貢献するようになるのです。それを見たリーダーは、自分自身の犠牲の大切さを痛感し、自分の人生に生きがいを見い出します。 

経営者として身につけるべき人間性 

企業は誰のものか

  1. 企業は株主だけのものではない

我々を企業経営に駆り立てているものは、一言でいえば “欲望” です。事業をもっと大きく立派にしたいし、もうかる企業にしていきたいという “欲望” が原動力なのです。 

アメリカ資本主義を見てみますと、人間は欲望のかたまりだと考えられ、“自分の欲望の赴くままに事業を拡大したい、金をもうけて立派な家をつくりたい、贅沢をしたい” というのが動機となり、経営者たちを駆り立てているのが、アメリカ資本主義の現状です。 

会社法上でも会計学上も、株主は企業の所有者であり、株主は会社の方向性、資産の処分、借入等について売却、買収等の最終権限を持っています。従って会社は株主のものであると主張されています。 

しかし、会社の決算書は、資産・負債・資本・損益を会計原則に基づいて表示されていますが、会社にあるものは単純に数字で表せないものが多いのです。例えば経験のある優秀な従業員、お客様。仕入先、経営者の個人的な対外との人間関係、会社に勤めて働いている従業員や役員の長年つちかってきた立派な哲学・思想等です。 

そうしてみますと、会社は単純に株主のものだとは言えないのです。

従業員の協力を得なければ会社の価値はゼロと言っても過言ではありません。お客様も会社の価値観を高めてくれています。お客様あっての会社です。仕入先あっての会社です。ですから、会社は株主、従業員、お客様、仕入先のものなのです。会社は株主のものだけではないわけです。 

  1. 株主に踊らされる経営陣

アメリカの経営者の給与は非常に高くなっています。株主は経営者に伝えます。“会社の利益を上げれば、その10%は経営トップの数人に支給します。それからストックオプションを作ってあります。株価が上昇すれば、莫大なキャピタルゲインを入手することができますよ” 

会社の経営は、これら数人の経営陣の弁才で、利益を生み出すと考えられているのです。ですから、従業員の給与はなるべく低くおさえ、会社の利益を最大限にしようとするのです。 

アメリカの株主は、会社の利益はすべて株主に属し、自分達はオーナーだからどう処分するか、経営陣に指示をすればよい、できるだけ株主に配当を支払うようにすべきと考えているのが一般的です。従業員のことについてはそれほど重要性を置いていない株主が多いと思います。 

“あなたは株主である私のいう通り、必死に頑張ってくれ、頑張ってくれるのなら、もし10億円の利益が出た時には君たちに大金を出しましょう” このように経営者は株主に踊らされているのです。 

経営者として何を動機づけとすべきか

  1. 過ぎたる欲望は身を滅ぼす

株主も経営者も欲望のかたまりです。この人たちは欲望にかられて一生懸命に努力をします。何としても利益を上げなければならないとなった経営陣は、粉飾決算をしても、利益を表示しようとします。 

日本の場合では、会社の業績を以前のレベルに保つ為、自分の保身の為、粉飾決算に手を染めてしまうケースが後をたちません。自分の在任中、おそらく4~5年間は粉飾が開示されなければ問題はない、後は後任の責任だとすることが、通常となっていると思います。 

アメリカのテキサス州のエンロンというエネルギーの会社、電気通信事業会社MCIを買収したワールドコムは粉飾決算をし、一瞬にして倒産の憂き目にあいました。そして経営陣は厳しい刑に服することになりました。 

このような事件は欲望を満たそうとする、貪欲さが身を滅ぼしていったのです。 

我々が企業経営に駆り立てられるのは、欲望が原因です。しかし欲望を追求する、利益を追求するのには正しい考え方、正しい方法で達成されるべきものです。しかも過ぎたるは身を滅ぼしてしまうという矛盾が存在するのです。 

  1. 欲望をエンジンとしなかった京セラ

京セラの設立経過を見てみますと、稲盛和夫という人が京セラを設立しようとしたというよりは、彼の友人、同僚が京セラを作ろうと考えたそうです。稲盛和夫は、お金もないが、周囲の人が、こんなにすばらしい技術、セラミックの技術を開発し、一生懸命頑張っている稲盛和夫を生かさなければ、もったいないと思ったのだろうと思います。 

会社の資金集めの為に、新潟出身の方が自宅を担保に銀行借入をしてくださった。こんなことはめったにあるものではありません。しかも奥様までもが応援してくれたそうです。 

この出資者の人は事業経験もあり、製造業の難しさを知っておられたようです。“千にひとつ、万にひとつ成功すればいいほうだ。たぶん失敗するだろう” と言われたそうです。 

こうした周囲の人々の支援があるのは、若き青年、稲盛和夫に周囲の人々が惚れ込んでしまったからです。 

塾長の父親は印刷業を営んでおられました。実直であまりしゃべらず、黙々と働くような人だったそうです。ですから借金などは、決してしない人でした。 

しかし、他人である稲盛和夫の京セラの為に、“万にひとつも成功しない”といいながらも、家屋敷を担保に一千万円を借りてくださった人がいたのです。従って塾長はたいへんな責任を感じ、私は失敗はできない、京セラを支援してくださる周囲の人々に決して迷惑をかけてはいけないと塾長は考えたとあります。 

京セラは欲望をエンジンにして来なかったのです。欲望がエンジンではなかった為に、欲望がどん欲、過ぎたる欲望となり、身を破滅に追い込むことがなかったのです。 

  1. 欲望以外の目的で自らを駆り立てる

“欲望をもとにして企業経営を行っていけば、必ず欲望は過剰になっていきます。成功すればするほど欲望はさらに肥大化します。その肥大化した欲望のために、今度は会社が倒産に追い込まれていく、皮肉な現象が起きてしまうわけです” と塾長は述べています。 

京セラの場合は、最初は会社をつくった方々に迷惑はかけてはならないというのが最初の原動力だったそうです。その後、“自分の過ちで従業員・その家族を路頭に迷わせてはいけないということを原動力とした”と塾長は述べています。 

お金持ちになりたい、もっと楽な生活をしたい、という欲望もいいのですが、しかし欲望が過ぎれば必ず身の破滅につながることを忘れてはなりません。 

成功と失敗の岐路

  1. 不平不満からの脱却

経営者の方々の中には、お父さん、お祖父さんがつくられた会社を引き継がれた方が多いと思います。“会社を継いだけれど、または自分で事業を興したけれども、仕事が時代の流れの中で、どんどん縮小している。業種業態のため何とか新しいことをやらなければ、自分のやっている仕事は先細りになっていく、このままでは従業員を守っていくことが出来ない” と考えておられる方々がいます。 

しかし、あまり振るわない業種の仕事を親から引き継いだ経営者の中には、新しい仕事に挑戦し、大きく展開している方もいます。 

塾長は、日本の景気が悪い時期に大学を卒業しました。入社した会社は業績が悪く、入社した月から給与が遅配する、労働組合ともめ、労働組合運動の烈しい会社でした。同期入社5名のうち、4名が退社しました。塾長1人が残ったのです。やめるべきかとどまるべきか、随分と迷いました。辞めてうまくいく人もいる、辞めて駄目になる人もいます。正しい答えはなかなか得られません。つまり、どちらを選んでも成功するかどうかはわからないのであれば、どのような仕事であれ、それに打ち込むしか方法がないと、気づかれたそうです。 

1人残され、不平不満を言う相手もなく、又、再就職するにも簡単にはできないと考え、仕事に打ち込む以外なかったそうです。一生懸命仕事に打ち込むと、どんどん面白くなり、研究成果も出せるようになったと塾長は述べています。その結果、研究が実って日本で電子工業の絶縁材料をつくることになったのでした。大手の電機メーカーから注文が入り始めたそうです。このようにして新しいビジネスが展開し始めたと塾長は述べています。 

絶ゆまない努力を続けることで、新しい技術が生まれ、新しいビジネスが開花するようになります。親から引き継いだ技術でも、改善に改善を重ねていきますと、それが新しい技術に結びつき、新しいビジネスに連なると思います。 

  1. 成功には確固たる大義名分が必要

塾長は、技術部長と意見が合わなくて退社することになったのですが、支援してくれる人が周囲に集まり、あなたの技術はもったいない、ぜひ場を作ってあげるから会社を始めなさいと言って頂き、会社を始めたわけです。 

会社を辞める時、同時に、辞める目的 ―自分の開発した技術を支援してくださる人々の好意、はげまし ― があったのです。 

自分の会社がいる業界がこのままではうまくいかなくなる可能性があり、何か新しい事業をと考えている時、他の人が成功しているから、私もそれをやろうと思われる方が多くいます。このような安易な気持ちでは、新しい事業に成功することは難しいと思います。 

 なぜ新しい事業に進出するのかという明確な大義名分がなければ、成功は難しいと塾長は述べています。 

成功するケースは、あなたが一生懸命に働いているのを見て、あなたならこういう仕事をされたら成功しますよと言われたり、或るいは、あなたの頑張っている姿を見て、応援しますよというような場合です。 

自分が今までやってきた仕事のノウハウが使えるような新規事業があり、お客様からその事業を一緒にやりましょうと言われた場合も成功する確率は高いと思います。今まで営々と培ってきたノウハウ、技術を持っている、販売なら販売のノウハウを持っている、そういう技術やノウハウを請われて一緒にやりましょうと誘われ、乗り出した時にも間違いなく成功すると思います。 

新しい事業をする時には、事業に手を出す明確な理由がいるわけです。“天の時”、“人の和”、“地の利” がなければなりません。“天の時” などを得た時には、それに対応できるように、日頃から努力をしておく必要があります。自分の事業に心血を注ぎ、一生懸命にやっていれば、“天の時” も見えてくるのです。 

一生懸命に仕事をしていれば、怪しげな話をかぎ分ける力も身についてきます。それは、自分の経験を通して、生半可なことでは事業はうまくいくとは思っていないからです。心血を注ぎ、本当に一生懸命に経営にあたることで、やっと経営というものはうまくいくのです、と塾長は語っています。うまい話では成功しないことを肝に命ずるべきです。自分の事業がジリ貧になっていき、新しい事業に進出したいと思っている時に、甘いもうけ話が舞い込んできます。事業の根幹となるべき大義名分を確固たるものにしなければなりません、と塾長は述べています。 

経営者に求められるもの

  1. 誰にも負けない努力をする

盛和塾の塾生の中には、親から事業を引き継がれた方々が多くおられます。自分の代で会社をつぶすわけにはいかない、一生懸命に頑張るしかない、それしかないと思います。経営というものはトップがどのくらい仕事に打ち込んでいるかということにかかっています。 

会社や経営のことをいろいろと勉強するのも重要ですが、それよりも最初に必要なことは、社長が会社の中で誰よりも一番働くということです。従業員より遅く会社に来て、従業員よりも早く退社するという社長には、誰もついていきません。西郷南洲がいっています。“上に立つ者は、一生懸命に頑張って、下の者からかわいそうだと思われるほどでなければならない” 

生半可な努力ではなく、誰にも負けない努力が必要なのです。 

  1. 心を磨き、立派な人間性を身につける

誰にも負けない努力をすれば、会社はうまくいき始めます。

会社をつぶしてはならないということを動機づけにして、一生懸命にがんばってもよい、お金持ちになりたい、もっとぜいたくな生活をしたいという欲望を動機づけにして努力をしても構いません。ただし欲望が過ぎてはなりません。塾長は、中小企業が生き延びて行く、事業を開始する時の経営者は“誰にも負けない努力”の必要性を強調しています。 

従業員を引っ張っていくのに、第一番は待遇だと思います。給料を高くしてあげることは、従業員がついてくるための大きな要素です。しかし、小さな会社の場合、他社よりも高い給料をあげることはできないのです。 

そうした中で、従業員がついてきてくれる為には、社長が率先垂範して、遅くまで頑張り、会社が成長発展し、従業員が希望をもってくれるようにしなければなりません。そして従業員に“一緒に頑張ってくれよ”と呼びかけるのです。その時、社員に聞いてもらうためには、社長に立派な人格が必要なのです。“うちの社長はりっぱだ。あの社長についていこう”と言ってくれるような人格にすぐれた社長になることが必要なのです。 

“心を磨き、立派な人間性を身につける。これが先です” と塾長は述べています。あの人は人柄がよい、あの人は徳を備えた人、徳の高い人と人から言われるようにならなければならないのです。 

塾長は “身につける” と言われています。口ですらすらと、りっぱな哲学を述べるだけではなく、そのりっぱな哲学を実行していなければ、身についてはいないのです。 

人間性を高めるために

  1. 少しずつ欲を抑えていく

西郷南洲は藩主島津久光公の逆鱗に触れ、沖永良部島に流されたそうです。この南海の小島で、子供達に学問を教えます。西郷は子供たちに質問をしたそうです。“君たち、一家が仲むつまじくするためには、どういうことをすればいいと思うか” 

子供達は、“君(天皇)には忠義を、親には孝行を、兄弟・友達とは仲良く助け合う” と西郷から教わった、中国の古典から教えられたように答えました。 

“それは正しい、正しいけれども、その答えでは根本的にどうすればよいかわからない。一家仲むつまじくするための方法は、それぞれの人が少しずつ、欲を減らすことなんだ” と西郷は応えました。一家が仲むつまじくするためには、親孝行をしなければならない、兄弟、友達とは助け合いをしなければならない、とか口ではスラスラと出て来ます。実際にはみんながそれぞれ少しずつ欲を減らしていけばよいということなのです。 

“ケーキをいただいた時には、家族みんなで一緒に食べよう、喜びをみんなで分かち合いたいと思う。悲しみがあれば、その悲しみを分かち合い、ともに悲しんであげる” と塾長は述べています。“おれがおれがという欲が強くならないように、少しずつ欲を抑える、仲むつまじい一家をつくるためには、この西郷の一言がわかっていなければ、実現できないのです”と塾長は語っています。 

従業員から慕われ、尊敬されるようになる為には、社長自らが、具体的に言動で、従業員に示すことが出来なければならないと思います。難しい話、“徳を高めなければならない” “仁義が必要だ” をしても、実際にどうしたらよいかわからないのです。 

  1. 人間として何が正しいかを判断基準にする

塾長は京セラ創業時、経営の経験がないため、判断基準(はんだんきじゅん)がなく、たいへん悩んだそうです。 

子供の頃に両親や祖父母、または学校の先生から教わった “人間としてやってよいこと悪い事” を判断基準にして経営をしていこうと決めたのです。 

嘘(うそ)を言ってはならない、騙(だま)してはならない、欲張ってはならない、幼稚だと思われるような判断基準で経営をしていこうと決めたそうです。 

京セラでは、創業から今日まで、“人間として正しいことを貫く” を従業員の判断基準にしてきました。自分にとって正しいことではありません、会社にとって正しいことではありません、国にとって正しいことではありません。人間として正しいことです。塾長はこの考えを京セラで実践して来たのです。 

  1. プリミティブな言葉で自分に言い聞かせ続ける

人間はなかなか言動を変えることができません。ちょっと言われたぐらいでは、人間は変わりません。しかし、“人間として何が正しいか” という幼稚な考え判断基準にするよう努めることが大切です。 

経営判断をする時、この原理原則にのっとって判断し実行していきますと、周囲の従業員も少しずつ理解し、具体的にこうした経営判断ができるようになります。 

徳が高いというのは、“人間として何が正しいか” を判断基準にして実行できるということだと思います。これを徳のある人、徳を身につけた人というのです。 

具体的には、正直である、誠実である、努力をする、常に感謝する、他を思いやる。卑怯な振る舞いをしない、勇気を持つ、決して嘘を言わない。人を騙さない、欲張らない、悪口を言わない、不平不満を言わない。 

できないけれども、具体的に上に述べたことを、自分に何度も言い聞かせ努力をしていく、そうした人を人柄のよい、人間のできている人と、人は言います。知っているだけではなく、身についている、実行できるように、日頃から努力したいものです。 

  1. 無私・無欲の人、西郷南洲から学ぶ

西郷の思想は、一言で言えば “無私の精神” だと塾長は述べています。無私とは無欲のことです。 

遺訓五

ある時、“人の志というものは幾度も幾度もつらいことや苦しいめに遭ってのち、はじめて固く定まるものである。真の男子たる者は、玉となって砕けることを本懐とし、志をまげて、瓦となっていたずらに長らえることを恥とする。それについて我が家に残しおくべき訓( おしえ) としていることがあるが、世間の人はそれを知っているだろうか。それは子孫の為に良い田を買わない。すなわち財産をのこさないということだ” という七言絶句の漢詩を示されて、もしこの言葉に違うようなことがあったら西郷のいうことと実行することは反していると言って見限りたまえ、と言われた。 

これは庄内藩しょうないはん)の家老、菅実秀( かんさねひで)を前にして言った言葉だそうです。江戸城無血開城を実現した西郷と勝海舟、勝海舟は西郷の人柄、人間性に打たれたそうです。 

威張りもしない、決して動じることもない。西郷は本当に素晴らしい人間性を持っていた。無私です。西郷には、他の人のためによくしてあげようという一点しかなかった。そのような西郷にみんなの心が触れて、みんながついていったのです、と塾長は述べています。 

追記:南洲神社

山形県酒田市に南洲神社が1976年に建立されました。庄内藩に攻め入った薩摩軍は、庄内藩の人たちに武士道の精神にのっとり、勝ちおごった態度もせず処遇したそうです。こうした薩摩藩の態度に庄内藩の人々はいたく感動したのでした。 

庄内藩の家老、管実秀はいたく感銘し、“薩摩に素晴らしい武士道を教え、我々にこのような処遇をせよといったのは誰か” と問いました。薩摩藩の指揮者、黒田清隆は  “西郷の言われた通りにしただけです”  と答えました。 

庄内藩の藩主 ( はんしゅ)) 以下若者は西郷から学んだものを後世に残そうと “西郷南洲翁遺訓”  を編纂しました。薩摩藩の若者たちは、西南戦争でなくなった西郷と共に死んでしまった。その為、庄内藩の人たちが、西郷の教えを口授の形で残したのだそうです。 

人格の優れた人には、多くの人が心を高めようと周囲に集まって来ます。自分の周囲に徳の高い人があれば、そうした人から学ぶことが大切だと思います。徳の高い人の友人になるのは、人間としての大変な財産だと思います。自分が徳のある人になるように努力しますと、徳のある人が周囲に集まってくると信じています。

盛和塾 読後感想文 第六十七号

西郷南洲が教える経営者のあり方           

判断基準を 人として持つべき基本的な倫理観に置く

経営のトップに立つ我々は、我々の周辺にいる従業員やお客様から信頼と尊敬を得られるだけの人間性・人格をもっていなければなりません。 

“商売人は信用が第一だ” と言われます。たしかに信用がなければお客様は相手にしてくれないし、取引もしてもらえません。もし、その人が客先から尊敬されるような素晴らしい人間性、人格を持っていれば、ただ信用がある以上にビジネスがしやすくなります。同時に我々経営者は、社員からも信頼と尊敬を得るような人間性を身につけていなければなりません。 

西郷南洲の哲学・思想は経営にも通用する、判断基準となるべき哲学・思想であり、また、周囲の人たちから信頼と尊敬を得るような人間性をつくるための哲学・思想なのです。 

それは難しい哲学・思想と考えるのではなく、原点に立ち返って“誠実な人間であるか” “正直な人間であるか” “公平無私な人間であるか”という、誰にでもわかる倫理観と考えてよいと思います。 

ウソを言わない、人を騙さない、人を妬んだり恨んだりしない、愚痴を言わない、常に勇気をもって仕事にあたる、優しい思いやりの心を常に持つ、謙虚にして驕らず、誰にも負けない努力をする、正義を重んじて仕事をする、足るを知り、決して欲張らない、勢いにまかせて怒ることを抑える。 

このようなことを身につけ、行動に移していくことができれば、自然と社員から、そしてお客様からの信頼と尊敬も得られることになります。 

立派な見識も実行できなければ意味はない

先述した、誰にでもわかるプリミティブな倫理観は身についていなければ使えません。口では容易に言えます。しかし日常生活の中でそれが常に行動として表われていなければ何にもならない。その実践がたいへん難しいことなのです。 

こうした倫理観を本当に身につけて、日常で実行できるとすれば、それは聖人君子です。我々は決して聖人君子にはなれません。完璧な人間性を身につけることは不可能です。欲深く、煩悩にまみれ、りっぱな人間性を持っていないのが我々です。 

塾長は次のように述ベています。私も “そうなりたい” と思っているのは、皆さん同じだろうと思います。しかし、そうなれない自分を厳しく問い詰め、常に反省し、少しでもそうありたいと思う自分に近づく努力をすることはできます。“そうありたい” と思い、反省をして、常日頃あたりまえの、しかし素晴らしい倫理観に基づいた行動ができるような人間に一歩でも近づいていく努力をする。そのような経営者が立派な経営者だと言えます。 

哲学者、安岡正篤先生が言われたことがあります。経営者は “知識” を身につけるために多くの書物を読んで勉強しなければなりませんが、その “知識” を “見識” にまで高めなければなりません。“見識” とは信念、こうありたいと思う確固とした考え、です。しかしいくらりっぱな “見識” を持っていようとも、それが実行できなければまったく意味はありません。 “見識” を実行できるまで高めたものを “胆識” といい、そこまで至らなければ、意味がありません。 

立派な見識を持ち、それを随所で話すことはできても、それが実行できないようでは、絵に書いた餅にしか過ぎません。見識を胆識として実行することのできる人は少ないと思いますが、しかし実行したいと自分でかたく思い、常に反省しながらそれに近づこうとすることが大事です。 

知っていることとできることは別だ、いくら素晴らしい哲学、思想を持とうとも、それを人格に反映させて、日常の生活を生きているかどうかは別だということを我々は知っておく必要があります。 

西郷南洲が教える人の生き方、リーダーのあり方

 “西郷南洲翁遺訓” は、当時の庄内藩(山形県)の方々が西郷を偲んでまとめたものです。明治維新の時、無血開場を指揮した西郷に感服した庄内藩の若者が薩摩を訪ね西郷の教えを受けたのです。西南の役で西郷が無くなったあとに、西郷に教えてもらったことをそれぞれ書記し、編集したものです。 

遺訓一. 功労ある社員の遇し方

政府にあって国の政( まつりごと)をするということは、天地自然の道を行うことであるから、たとえわずかであっても私心をさしはさんではならない。 

心を公平に堅く持ち、正しい道を踏み、広く賢明な人を選んで、その職務に忠実にたえることのできる人に政権を取らせることこそ天意、すなわち神の心にかなうものである。 

だから本当に賢明で適任だと認める人がいたら、すぐにでも自分の職を譲るくらいでなければならない。従って、どんなに国に功績があっても、その職務に不適切な人に官職を与えてほめるのはよくないことの第一である。官職というものは、その人をよく選んで授けるべきで、功績のある人には俸給を与えて遇し、これを愛しおくのがよい、と翁が申される。 

天下国家を治めていくのでも、わずかな従業員しかいない中小零細企業の経営を行っていくのでも、それは天道、正しい道を実行することなのだから、少しの私心も挟んではなりません。 

私心とは、オレがオレがという利己的な心のことです。自分に都合がよく、自分だけがもうければよい、というものです。その私というものを挟んではならないのです。どんな小さな零細企業であろうともリーダーであれば、自分というものを少しも入れずに会社のため従業員のため、世のため、人のためという視点で経営を行っていかなければなりません。 

自分というものを入れなければ、正道を歩むことができると西郷南洲は悟しているのです。 

明治維新後、明治政府は多くの人を、大臣をはじめ様々な政府の役職につけていかなければなりませんでした。誰を役職に任命しようかと考えたときに、明治維新で功労のあった人、活躍した人、頑張った人が大臣に選ばれたり、要職につきました。西郷は“そうではないと思う”、と言うわけです。その官職に耐え得る能力と人格、識見をもった人を選ぶべきであり、功労があったからという理由で官職につけたのでは、政治はうまくいかない。 

功労のあった人には、それは官職を与えるのではなく、その人には俸禄というごほうび、つまり給料やボーナスをあげて大事にしていくようにしなければならない。 

創業当時の小さな零細企業には、似た者同士、つまり会社規模に応じた人材しか集まってこないのです。社長だっていい加減な人です。そしてそれに見合うようないい加減な社員しか集まってこないわけです。ですから最初から、立派な人格を備えた社員を望んでも、しょせん無理なのです。 

会社が大きく成長・発展していきますと、功労のあった人を大事にしなければ、人の道にもとります。株式を上場するときに一緒に苦労をしてくれた人を役職につけることがよくあります。たしかにそういう人たちは会社にとって大変功績があった人たちですが、会社の規模が大きくなり、従業員も数百人となってきた時、その功績があった人がはたしてその役職にたえることができるか、ということを考えてみることが必要です。その役職についた人がりっぱな見識を持っていないために、会社が伸びていかないこともあります。 

功労はあるけれども、能力の足りない人を現在の当社の専務には相応しないからと、追いやり、冷遇し、例えば大手商社出身の人を専務に据えてしまうことがあります。創業当時の功労者はやがて辞めていきます。 

後に来た優秀な人が、会社に対して高いロイヤルティーを持ち忠節を尽くしてくれる保証もありません。また、リーダーとしての見識も持っていないかも知れません。創業の功労者が辞めていくことで、会社を成長・発展へと導いて来た考え方や風土がたちまち希薄化し、社内の従業員のモラル低下につながりかねません。 

遺訓四. 率先垂範で経営にあたる

多くの国民の上に立つ者(施政の任にある者)はいつも自分の心をつつしみ、身の行いを正しくし、おごりや贅沢を戒め、むだを省き、仕事に励んで人々の手本となり、一般国民がその仕事ぶりや生活ぶりを気の毒に思うくらいにならなければ政府の命令は行われにくいものである。 

万民の上に位する者とは政治のトップという意味ですが、経営に当てはめて考えるなら“社長として社員たちの上にたち、人を治めていく”という風に考えられます。 

社長として社員たちの上に立つ者は、いつも自分の心を慎み、身の行いを正しくし、驕りや贅沢を戒め、無駄を省き、慎ましくすることに努め、仕事に励んで人々の手本となり、一般社員がその仕事ぶりや生活を気の毒に思うくらいにならなければ、社長の命令は行われにくいものである、と西郷南洲は説いているのです。 

 “上に立つ者は率先垂範せよ” と西郷南洲は語っています。経営者の後ろ姿で社員を教育するのが “率先垂範” なのです。上に立つ者はいつも自分の心を慎むことが求められています。みだりに心を乱したり、卑しくなったり、粗野になってはいけません。 

自分の心を慎み、行いを正しくして、贅沢を戒め、節約倹約に努め、一生懸命に努力する。そして社員達の手本になり、社員たちがその働きぶりをみて気の毒に思うようでなければ、トップの指示は徹底されず、会社の仕事もうまくいかないのです。 

リーダーのあり方には2通りあります。一つはみんなの後に陣取り、前線の状況を眺めながら、後方から指揮をとるリーダーです。前線の将兵達に伝令を次から次へと飛ばして支持を与え、戦いを進めていきます。 

もう一つは “我に続け” と最前線に出て行くリーダーです。自らが敵陣に切り込んでいくタイプです。 

大企業ではリーダーは後方に陣取り、戦略・戦術、経営計画を練って経営をしていきます。中小零細企業の場合は、リーダーが最前線に飛び出し、部下といっしょに苦楽を共にして戦っていく。その姿を見せることにより部下を指導し、引っ張っていきます。 

ある時は前線に出て兵たちと苦楽を共にし、ある時は後方の陣地にとって返して作戦を練る。作戦を実行する時は、再び最前線にとって返して部下と一緒に苦労する。そういう指揮をとるのが素晴らしいリーダーではないでしょうか。 

遺訓五. 一切の私心を挟まない

ある時、 “人の志というものは、幾度も幾度もつらいことや苦しいめに遭ってのち、はじめて固く定まるものである。真の男子たる者は、玉となって砕けることを本懐とし、志をまげて瓦となっていたずらに生き長らえることを恥とする。それについて自分がわが家に残しおくべき訓としていることがあるが世間の人はそれを知っているだろうか。それは子孫のために良い田を買わない、すなわち財産をのこさないということだ” という七言絶句の漢詩を示されて、もしこの言葉に違うようなことがあったら、西郷は言うことと実行することと反していると言って見限りたまえと言われた。 

西郷は幾度も死線をさまよっています。勤王の志士であった月照上人が幕府に追われ、西郷を頼って薩摩に逃げてきました。当時の島津藩主は月照上人に薩摩から出て行ってくれといいました。薩摩と日向の境で殺されることが分かっていた西郷は、これ以上逃げることはできないと、錦江湾に身を投げます。月照上人は亡くなりましたが、西郷は奇跡的に助かって生き長らえることになりました。一緒に身投げをし、親友を死なせ、自分だけが生き延びるということほどの屈辱はなかったと思われます。 

更に薩摩の殿様に2回も島流しにあうなど、大変な辛酸をなめることになったのでした。

更に西郷は“児孫の為に美田を買わず”と言っています。子供達には財産を遺さないということです。 

我々凡人にはできることではありません。子供や孫はかわいいし、この世の中で少しでも子供や孫に財産を遺してあげたいと思うのは親心と思います。 

西郷は子孫に美田を買わずといい、それを実行した。人間の情としては耐えられないような厳しさを自分に課し、それを実行した西郷のすさまじい生き様でした。 

遺訓七. 策略を用いず、正しい道を貫く

どんなに大きい事でも、またどんなに小さい事でも、いつも正しい道をふみ、真心を尽くし、決していつわりのはかりごとを用いてはならない。人は、多くの場合、何か計略を使って一度そのさしつかえを押し通せばあとは時に応じて何とかいい工夫ができるかのように思うが、計略したための心配事がきっと出てきて、その事は必ず失敗するにきまっている。正しい道を踏んで行うことは、目の前では回り道をしているようだが、先に行けばかえって成功は早いものである。 

 “正道を踏み、至誠を尽くし” とは人間として正しい道を貫き、誠実な心を持って生きていくことです。それは事の大小には限らないのです。中小零細企業の経営にしても、正道を踏み至誠を尽くしてやらなければなりません。 

我々凡人は一時の策略を用いることがあります。事業で、うまくいかなければ、悪知恵をいろいろと働かせてなんとかそれを切り抜けたいと思って策略をめぐらせます。 

どのようにして競争相手から注文を奪おうとか、悪知恵を働かせてしまいます。そういう策略を用いれば、一時はうまくいったように見えます。しかしそういうことを続ければ、そのうち必ず失敗をしてしまうのです。 

正道を踏んで仕事をしていくと、それは回り道のように見えるかも知れませんが、それこそが成功への近道なのです。西郷南洲はこの “正道を踏む” ということを常に言い、最も嫌っていたのは策を弄することでした。 

遺訓十六. 厳しい倫理感と哲学を備える

節義(かたい道義)、廉恥(潔白で恥を知ること)の心を失うようなことがあれば、国家を維持することは決してできない。それは西洋各国であってもみな同じです。上に立つ者が下に対して、自分の利益のみを争い求め、正しい道を忘れる時、下の者もまたこれにならうようになって人はみな財欲に奔走し、卑しくケチな心が日に日に増幅し、節義、廉恥の操を失うようになり、親子兄弟の間も財産を争い、互いに敵視するに至るのである。 

西郷南洲は上に立つ者が節義廉恥、つまり義を守り、恥を知る心を失い、自分のことだけを考えるようになってしまえば、下の者もこれを見習って、国家全体がおかしくなっていくのだと言っているのです。 

我々経営者の場合も同じです。社長である我々の行動、思想を社員たちはよく見ています。 

遺訓二十六. 無私の心で判断する

自分を愛すること、即ち自分さえよければ人はどうでもいいというような心はもっともよくないことである。修行ができないのも事業の成功しないのも、過ちを改めることのできないのも、自分の功績を誇り高ぶるのも皆、自分を愛することから生ずることで、決してそういう利己的なことをしてはならない。 

これは“些(ちっ)とも挟みては済まぬもの也”と同じ考えです。自分だけがよければいいという自分の欲望だけを先行して考え、欲望のままに動くことはよくないことの第一なのです。 

西郷南洲は “無私” の人です。西郷は私というものを捨てなさいとよく言っているのです。ただ自分というものをなくして物事を考えようと思っても、我々凡人から自分自身というものが消えてなくなることは決してありません。煩悩、欲望にまみれているのが我々凡人です。 

しかし自分というものを外して物事を考えるように努めることで、必ず正しい判断ができるようになるのです。経営をするにしても、企業の利益だけで判断すれば、ものごとの本質がみえなくなってしまいますが、“世のため、人のため” に何が正しいかという視点で物事を考えれば、自ずから正しい判断ができるようになります。 

 “わが社が損をしてはいけない。わが社が儲からなければならない。自分が儲からなければならない” という欲望から判断しようとすれば、必ず曇った判断しかできないと思います。人の上に立って企業を経営する者は、経営判断をするときに必ず自分や自分の会社というものを横において判断する習慣をつけるべきです。 

物事を判断するときには “己を愛するは善からぬことの第一” ということを頭に入れて、自分の会社のことは横に置き、人間として正しいのかという視点で判断していくように努力することで、正しい判断ができるようになるのです。 

遺訓三十. 私心のない人物を仲間とする

命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、というような人は処理に困るものである。このような手に負えない大人物でなければ、国家の大きな仕事を大成することはできない。しかしながら、このような人は一般の人の眼では見抜くことができない。 

自分と一緒に新しい事業に取り組む人、本当に信頼できる仲間になってもらうべき人は、やはりこのくらいの人物であってほしいものです。しかし実際にはなかなかそのような人には会えません。 

遺訓三十八. 世のため人のためにという思いが、真のチャンスをもたらす

世の中の人の言う機会とは、多くはまぐれあたりに、たまたま得たしあわせのことを指している。しかし、本当の機会とは、道理をつくして行い、時の勢いを見極めて動くという場合のことだ。かねて、国や世の中のことを憂える真心が厚くなくて、ただ時のはずみにのっとって成功した事業は決して長続きはしないものだ。 

中小企業を経営していれば、チャンスをうまくとらえ、新規事業に展開し、会社をさらに立派にしていきたいと考えるものです。我々は常にチャンスをうかがっていると思います。

一般に言われているチャンスとは、たまたまうまくいったまぐれ当りのことであって、たまたまうまくいったものをチャンスと言っているだけのことです。 

西郷南洲は “真のチャンスとは、理を尽くして行い、時の勢いをよく見極めて動くことだ” と言っています。 

塾長がはじめられた第二電電は、国民の電気通信料金を安くしてあげたいという一心だったそうです。その時、自分の心の中は “動機は善なりや、私心なかりしか” と自分自身に厳しく問い正しました。 

電電公社が民営化され、電気通信事業の自由化による新規事業参入が可能となり、百年に一度のチャンスがあったのです。このとき私の心は “動機善なりや、私心なかりしか” と自分に問うていました。 “平日天下を憂うる誠心厚からずして、只時のはずみに乗じて成し得たる、決して永続せぬものぞ” と西郷南洲は説いています。 

百年に一度あるかないかのチャンス - 電気通信事業の自由化を慎重に考えて、第二電電が発足したのでした。大成功をおさめることになりました。やはり真のチャンスというものは単なる偶然の僥倖、つまり棚ぼたではないのです。真のチャンスとは、理、つまり道理を尽くして行い、時の勢いをよく見極めて動く場合にのみ当てはまるのです。 

世人はチャンス到来とばかりに、みな新しいビジネスに乗り出していきます。しかしチャンスをものにしていくためには、かねてから国家天下のことを誠心誠意、憂うような真心、つまり “世のため、人のため” という動機づけ、いわば大義名分がなければならないのです。ただよいチャンスだと、単に時の弾みで乗り出したのでは、一時的には成功するかも知れないが、決して長続きはしないのです。 

遺訓三十九. 才を動かす人間性を高める

今の世の中の人は、才能や知識だけがあればどんな事業でも心のままにできるように思っているが、才にまかせてすることは、あぶなっかしくて見てはおられないくらいだ。しっかりした内容があってこそ物事は立派に行われるものだ。 

才能は使わなければなりませんが、その才能を動かしている人間性、哲学、思想というものが必要であり、その人間性を立派なものにつくりあげていかなければならない。人間性あっての才能だということを忘れずに経営に取り組んでいくことが大切です。“西郷南洲翁遺訓”には、我々経営者が身につけなければならない素晴らしい哲学、思想が述べられています。

盛和塾 読後感想文 第六十六号

次代のリーダーに望む 

アメリカへ進出して来た日本企業や自分で事業を開始された経営者の方々は、異なった文化・人種の中で、頑張っています。経営者の方々の中には不安の中で、家族を養い、従業員へ給料を払い、アメリカの国に税金を払い、長年頑張ってこられています。 

盛和塾は経営の根幹を学ぶ場

盛和塾USAのメンバーの方々は、米国に出て何かをしようとされている方々で、大胆な方が多く、日本の規格に合わない規格はずれの人達だと思います。日本の社会よりも、オープンで、特別企画にとらわれない、チャンスが多いアメリカで夢を描いておられる方々が多いと思います。 

米国に来て、この国の産業界、社会の中で事業を行うということは、無理に海で泳ごうとしているようなものです。泳ぐことが出来ない、水の中で体を浮かすことも知らないという状態だったと思います。泳ぎたいのであれば、まずは水の中で浮かばなければなりません。クロールもあれば、平泳ぎもあります、犬かきもあります。どのように上手に海の中で泳ぐことが出来るのか、学ぶ必要があります。 

経営コンサルタントが書いた経営書は沢山ありますが、“実際に仕事をする場合にはこうするのです” ということを教わる機会は余りないと思います。その為に、わからないまま会社を作り、もがき苦しむことになります。 

アメリカの場合には、人種の違い、言葉の壁に加えて、法律も考え方も違います。人を使って事業をするには日本の何倍も難しいだろうと思います。こうした中で“経営とはこうしなければならない”“社員をまとめ、治めていくにはどうすればよいか”、リーダーとしてトップとして、どのような考え方で経営をすべきか、考えてみることが大事です。 

リーダーは人格者であれ

米国のシンクタンク、戦略国際問題研究所(CSIS)という組織の副理事長、デイビッド・アブシャイアさんが塾長の著書  “FOR PEOPLE AND FOR PROFIT” の中にある “リーダーのあり方” に感銘を受けられました。1999年ワシントンでシンポジウムが開催されました。その時、デイビッド・アブシャイアさんが講演されました。“ジョージ・ワシントンがアメリカの初代大統領として選ばれた最大の理由は、彼が素晴らしい人格者であったからです” と述べられました。“アメリカが独立をしたとき、合衆国議会は大統領に強大な権限を与えました。それは初代大統領が素晴らしい人格者であったからです。人間として問題があり、人格者でない者に強大な権限を与えてしまったのでは、アメリカの運命を危うくしてしまう。もしワシントンがそういう人間でなければ、おそらくアメリカ合衆国の議会は大統領というひとりの人間に強大な権限を与えることはなかったでしょう”リーダーとして一番大切なことは。その人が持つ人格であるということをデイビッド・アブシャイアさんは、ジョージ・ワシントンの例を引いて話されました。 

アメリカ合衆国の大統領は、議会で決めたことさえも拒否できるくらいの強大な権限を持っているのです。 

塾長はこのシンポジウムの中で、“人格は変わる”  というタイトルでスピーチをしています。 

“いくら素晴らしい人格をつくりあげたとしても、人格は時間と共に変化してしまいます。権限を持ち、環境が変わり、周囲が変われば、たとえりっぱな人格を持った人でも変わってしまう可能性があります。我々は、変節をしない、強固な人格を持った人をリーダーに選ばなければなりません。権力の座についた途端、傲慢に陥るようなリーダーを選出したのでは、その集団は不幸な目に遭ってしまいます” 

塾長は内村鑑三が著した “代表的日本人” という本の中から  “二宮尊徳”  を紹介しました。一介の農民でありながら誰にも負けない努力をし、田畑を耕し、荒廃した村々を次々に再建し、やがて幕府に召し抱えられることになった人物です。二宮尊徳は労働を通じて不動の人格をつくりあげ、それが立ち居振る舞いにも表われたそうです。 

素晴らしい人間性をもって、一生懸命に努力をしていけば、会社はどんどん立派になっていきます。しかし会社が良くなるにつれ、自分自身に自信を持つようになり、だんだんと傲慢になり、今までは素晴らしい人間性を持ち、謙虚で、努力家であったのに、次第に人間が変わって没落していく。 

リーダーに求められる資質

2001年に東京で、塾長は  “今問われるリーダーシップ”  というテーマで日米リーダーシップ会議を、デイビッド・アブシャイアさんと開催しました。塾長は冒頭のスピーチで、中国の古典の一節から  “一国は一人を以って興り、一人を以って滅ぶ”  からスピーチをはじめました。 

リーダーシップの大切さを述べられました。一人のリーダによって企業が発展し、一人のリーダーのために大成功をおさめた企業が無残にも崩壊していく様を近年、我々は数多く見聞きしています。なぜ、そのようなことが起こるのか。リーダーの資質を考えることによって、解明されます。 

リーダーの資質について哲学者の安岡正篤先生は、知識、見識、胆識という三識で表現しています。知識とは仕事の上で、物知りということです。これだけではリーダーには不足なのです。リーダーには見識が必要です。見識とは  “こうであらねばならない、こうあるべきだ” という信念にまで達した知識です。 

さらに、リーダーは組織の先頭に立ち、集団を導いていかなければなりませんから、統率力が求められます。つまり勇気、豪鬼、決断力、実行力が備わっていなければ、集団を率いていくことはできません。胆識が必要なのです。信念にまで高まった見識を持っていても、それを実行できる胆識がいるのです。信念を実行するには、見識に胆力を加えた、つまり実行力の伴なった胆識にまで高まったものを備えていなければならないと、哲学者安岡正篤先生は説かれています。 

このようなリーダーに必要な資質に加え、ジョージ・ワシントンのような人格者も必要と思います。中国、明時代の思想家、呂新吾先生が著した “呻吟語” の中に、リーダーに求められる資質が述べられています。 

“深沈厚重なるは是れ第一等の資質。磊落豪雄なるは是れ第二等の資質。聡明才弁なるは是れ第三等の資質” 

我々はともすると専門の知識にも長け、弁もたつ聡明才弁なる者をリーダーとして登用します。例えば、一流大学を卒業し、上級職試験に高得点で突破する、いわゆる秀才型の人たちが行政機関のリーダーになっています。呂新吾先生は、聡明才弁という能力は三番目の資質です。一介の役人としては必要で十分な資質です。しかし集団を率いていくリーダーとしては不十分です。 

集団を率いるリーダーは、あらゆる局面で集団を正しく導いていけるだけの勇気が必要です。豪胆で勇気のあるリーダーは磊落豪雄のリーダー、第二等の資質なのです。 

リーダーとして最も大切なことは、深沈厚重、考え深く、信頼に足る重厚な性格をもった人格者であることです。深というのは深山のごとき人間の深さ、沈は沈着毅然ということ、厚重は、重厚、重鎮と同じく、どっしりとして物事を治めるということです。 

リーダーとして必要なものは、一番目は人格であり、二番目は勇気であり、三番目は能力だと説いています。 

大義名分のある使命を明確にし、目標を掲げる

このような資質をもったリーダーが、集団を引っ張って行く為には、ビジョン、目標を掲げることが必要です。目標を達成することが、会社にとって、社会にとって、国家にとって、さらに人類にとってどういう意義があるのか、そのような根本的な問題にまで考えを進め、“誰もが共有できるような大義名分のある使命” を明確にします。 

目標を掲げるだけではなく、ミッション、使命を高々と掲げるべきです。 

中小企業の場合では、大そうなミッション、使命は必要でないかも知れません。簡単で、シンプルなものでもよいと思います。たとえば “従業員の皆さんを幸せにしてあげたいということが我社のミッションです。その為に、売上、利益をこういう風に伸ばしていきたいと思います。社長である自分がお金持ちになるために皆さんに働けと言っているのではありません。私も幸せになりたいし、私の家族も幸せにしてやりたいですが、そのためには、まず従業員の皆さんが幸せになってくれなければなりません。ですから、この会社を立派にして、皆さんを幸せにしてあげること、それがミッションなのです” 

“と同時に、従業員だけではなく、お客様、株主、仕入先、みんなを幸せにしてあげたいと思います。これは非常にレベルの高いミッションです” 

明確な判断基準を持つ

我々経営者はあらゆる面で、物事を決めていかなければなりません。従ってその都度、その都度の判断の時、経営者は明確な判断基準を持たなければならないのです。 

誰にも相談はできません。腹心の副社長、事務がおりますが、本当のところは、腹心であっても相談できない、それがトップの仕事なのです。 

自分の部下に、いろいろな悩みを打ち明け、迷っていることが、筒抜けにわかってしまったのでは、社長は務まりません。悩みを打ち明けることもできず、自分で物事を決めていかなければなりません。 

盛和塾の中では、苦労している経営者同士、食事をしたり、お酒を飲んだりして一晩話して過ごす、そして英気を養い、会社に帰って行く。これが盛和塾の例会だと思います。 

明確な判断基準として、“人間としてやってよいこと、悪いこと”  を判断基準として京セラはここまでやって来ました。嘘をつくな、正直であれ。欲張ってはならない。つまり、プリミティブな判断基準ですが、この原理原則を守って京セラは、こんにちまで企業として道を踏み外すことなく、発展し続けてきました。 

考え方が人生と仕事の結果を左右する

塾長は、大学受験にも落ち、就職でも苦労され、人生と仕事の結果 = 考え方 x 熱意 x 能力という人生方程式を考えられました。 

能力についてはなかなか変えることはむずかしい面があります。頭のいい人は能力も高いと言えます。 

しかし熱意は本人の努力次第で変えることができます。自分には能力がそれほどないが、熱意だけは誰にも負けないという人もいます。それこそ、経営者の中には、年中働きづめで、休みをとったことがない人もあります。 

“考え方” とは人間性、思想、哲学、あるいはその人の人格を投影したものです。考え方が悪い方に向いていますと、すぐれた能力もあり、誰にも負けない努力もしていたとしても、悪い結果になります。例えば、自分のコミッションを増やすため不正をしてしまう、不正を犯してでも一生懸命努力をする、それは自分のコミッションを増やす為であり、後日不法行為として処罰されます。 

道徳・倫理を軽視する今の日本

日本では、立派な考え方を持つようにしなければならないのにも関わらず、最近では、学校でも家庭でも教えていません。道徳や倫理を学校で教育するのがいいと考える先生もいないし、両親も自分自身が教えられていないので、子供に教えることができないのではないでしょうか。日常の生活の中で、食事の時、人間として生きていくための規範が必要なのだということを本当に子供の頃から教えていくことが大事です。子供の学校であったこと、いじめがあった時のことを子供に語らせる、あるいは会社であったことを食事の時に解り易く話すとか、日常の生活の中で、道徳、倫理を語る、人としての道を話し合うことが一番有効な方法だと思います。 

戦後、日本の教育において、“民主主義、自由主義の社会では、考え方や生き方は個々人の自由であるというのが原則である”とされてきました。 

たしかに、どんな考え方をしても自由です。しかしその自由な考え方の結果については、あなた個人が担わなければならないのです。結果に対して、あなたが責任を全てとらなければなりません。あなたの自由な考え方から派生した結果に対して、誰も支援をしてはくれないのです。 

会社には、その会社の使命、ミッションがあります。その使命、ミッションに基づき、目標が定められています。その目標を達成するのに多くの人の協力が必要です。その時、使命、ミッションを理解し、目標を共有し、同じ考え方で協働していくことが必要なのです。 

その為に、京セラでは機会を把えてはコンパをして、京セラフィロソフィーの話をしてきました。食事をし、お酒を共に飲んで考え方の浸透をはかってきました。教育のある能力のある従業員は“考え方は自由でしょう”と言い出します。賢い人は沢山勉強していますから、反論して来ます。こうした反論に対して、ねばり強く話し合っていくことが経営者の大事な仕事なのです。 

若い従業員にとっては考え方が重要だということがわからないのです。立派な考え方をすれば、個々人の生活・人生はたいへんうまくいくはずなのですが、今の日本では考え方が軽視されていると思います。 

経営者の考え方が会社の成長を決める

京都の祇園にメンバー制のサロンができ、塾長はその会合に出席していました。その時塾長は“会社経営とはこうでなければならないと思う” と一杯飲みながら話していました。

ある会社の社長は“私はそうは思わない。こうあるべきだと思います” と反論してきました。この社長は東大卒で、都銀勤めの後、二代目社長になった教育のある、頭の良い人物です。

“私は稲盛さんのようには思わない。京セラは厳しすぎるのじゃありませんか。私の会社は、部下に親しくしているから、従業員も私になついてくれています” 

これを聞いていたワコールの塚本社長が烈火の如く怒られたのです。“おまえは何を言っているのだ。私はこう思うとか、会社経営はこうあるべきだと言っているが、おまえは、稲盛君と対等だと思っているんじゃないか。お前の会社と京セラとを比べてみろ。おまえの会社はお父さんが作ってくれたものではないか。京セラは稲盛君が27歳の時に、徒手空拳でつくった会社だ。京セラはお前の会社の何倍という大きな会社になっている。その立派な実績を持った男が、私はこう思うと言っているんだ。それを素直に黙って聞けよ” 

経営理論としては、たしかにいろいろな考え方があります。しかし、その考え方でやった結果がどうなったかという証明がなければ、議論にならないのです。“議論のための議論では何の結果ももたらされない。おまえのその考え方の会社の姿と、稲盛君の考え方の結果生まれた今の京セラでは、比べるまでもないような差がついている。そんな二つの考え方を比べても意味がない” とワコールの塚本社長は言いたかったのだと塾長は思われました。 

目ざす山によって 考え方のレベルが変わる

企業経営は山登りに例えられます。創業当時の京セラは厳しい経営を強いられてきました。一生懸命、一心不乱になって、経営という山を登っていました。ふと振り返って見ると、京セラの従業員は、アゴを出し、フラフラになって、だいぶ離れたところを歩いています。なかには、こんな厳しい社長にはついていけない、落伍していく人もいます。その部下たちの姿を見て、ゆっくりとした歩みに変えようか、もっとラクな生き方をしようかと思ったそうです。 

京セラをセラミック業界では世界一の企業にしようと目標を定めていました。山登りに例えるなら、何千メートルもあるような垂直に切り立った岸壁をよじ登って行くようなものです。垂直登攀をしているが社員も恐れて辞めていく人もいます。みんなが付いてこれるようにラクなルートで登ってみることも考えました。しかし裾野から緩やかなルートをとり頂上を目指そうとすれば、はるかに道のりは遠くなってしまう。それでは、何合目にも登りきらないうちに一生を終えてしまうのではないかと考えました。 

普通の人はそういう歩き方をして、人生を終えようとしたときに、“もっと高く登りたかったが、三合目しか登ることができなかった。オレはオレなりに頑張ったから、これでいいではないか”なかには迂回路をとっている途中で、頂上への道を失い、途中落伍してしまう人もいるだろう。塾長は、“真上にあるいただきを見据えながら、垂直に登っていこう” と思いました。 

唯、それでは誰もついてこなくなるような気がする。寂しい思いをしたそうです。その時、奥さんに悩みを打ち明けたそうです。“みんなはついてこないかもしれない。しかしオレは自分の決めた道を上っていきたいと思う。おまえだけは必至でオレの尻を押してくれよ” と塾長は言われたそうです。 

厳しい山を登るためには、準備、トレーニング、それに相応しい  “考え方” を自分で作っていかなければなりません。立派な会社をつくろうと思えば、面白おかしい、楽でいい加減な考え方では駄目なのです。

盛和塾 読後感想文 第六十五号

反省ある人生をおくる 

自分自身を高めようとするなら “日々の判断や行為が、はたして人生として正しいものかどうか、奢り驕ぶりがないかどうか” を常に謙虚に反省し、自らを戒めていかなければなりません。 

毎日自分の言ったこと、したことを反省しますと、自らを戒めることができます。毎日反省しないと、人間はいつのまにか油断して気がゆるみ、奢り驕るようになってしまいます。 

忙しい毎日をおくっている私達は、つい自分を見失いがちです。そうならないために、意識して反省する習慣をつけるようにしなければなりません。そして自分の欠点を直し、自らを高めることができるのです。 

 

人生と経営 -経営を大成させる4つの心得 

リーダーとして持つべき人間性を学ぶ

アメリカに来られて事業を展開されている日本人の会社が、大きく成長・発展していないのは何故なのか。アメリカの人たちから “なるほど日本人は素晴らしい人間性を、才能を持っている” と尊敬されるようにならなければならないのです。そうでなければ、アメリカで働いている人達、異なった文化・習慣をもっている人達を使って経営することは困難なのです。 

“リーダーとしてどのような人間性を持たなければならないか” ということを学ぶことが、会社を発展させていくための絶対条件です。外国人の従業員からの尊敬を勝ち取るには、まず、そこから始めていくことが経営者として最も大事なことなのです。 

これまでにアメリカで立派な事業をされておられる方々も、さらに大成していかれる為には、以下に述べる4つの考え方が必要なのです。 

謙虚にして驕らず 

  1. 成功が驕りを生みだしていく

だいたい事業がうまくいき始めますと、人は知らず知らずのうちに驕り高ぶっていきます。ほとんどの人は “いや私は決してそうではない” と言われます。自分自身が驕り高ぶっているかどうかわかるようであれば誰も驕り高ぶったりはしません。自分で驕り高ぶっているかどうかを判断することは難しいのです。成功したことが、知らず知らずのうちに。自分を驕り高ぶらせていくのです。 

“謙虚にして驕らずさらに努力を、現在は過去の結果、将来は今後の努力で” と考えるべきなのです。慢心を戒めることが大事です。謙虚にして驕らずと反省を繰り返していくうちに、自分の才能や能力を自分のものと勘違いして、自分はすばらしい才能を、能力を持っているのだと思いはじめますと、そこから驕り高ぶりが出てくるのです。自分の才能や能力は自分のもの、私物化してはならないのです。才能や能力は、神様からの授かり物なのです。 

  1. 存在という人間の本質

なぜ、自分が持っている才能や能力を私物化してはならないのかは、人間の本質を考えて見ると、明白なのです。 

哲学者の井筒先生はヨガの勉強をされ、瞑想もされておられ、人間や自然界の本質を極めようとされました。瞑想の中で、意識が精妙になり、五感のすべての感動がなくなり、“存在” としかいいようのない意識状態になられたそうです。しかし自分は厳然と存在しているという意識だけが残りました。そこで、自分だけではなく、周りのものもすべて、存在として認識できるのではないかと思われました。存在が花を演じている、存在が井筒という人間を演じていると考えられるのではないかと思ったそうです。 

森羅万象あらゆるものは、存在が演じているのではないか。存在としかいいようもないもので、この宇宙は成り立っている。 

  1. すべてのものに仏が宿る

比叡山の天台宗では人間の本質、ものの本質のことを “山川草木悉皆成仏”-山も川も草も木も森羅万象あらゆるものに仏が宿ると教えています。この “仏” とは井筒先生が言われる “存在といしかいいようのないもの” と同じものです。仏が化身をして、花になり、お米になり、人間にもなっている。生きとし生けるものはすべて等しく同じルーツからできあがっていると考えられるのです。 

  1. 才能は神様からの預かり物

我々はなぜこれほど多様な人間性を持ち、この世に生まれてきたのでしょうか。我々は自分の意思で生まれて来たのではありません。才能や容姿は偶然、皆さんが持ったものであり、神様がいるとしたら、神様から頂戴したものではないでしょうか。 

この世は多様な人間がいます。同じ均質な人間が集まったのでは社会が機能しないのです。それぞれ違った才能を持っているが故にお互いに足りない処を補い合って、協調して社会が成り立っているのです。その為、神様はバラエティに富んだ人々をこの世に送りだしたのです。 

  1. 才能の私物化が傲慢不遜を呼び起こす

神様はバラエティに富んだ人々をこの世に送り込みました。Aさんはある才能にめぐまれており、その才能を生かして成功されたとします。Aさんは、自分は才能があり、こうした成功を手に入れたのだ。従って自分は沢山の給与をもらって当然だと考えてしまうのが人間です。 

しかし先述しました様に、自分の持っている才能、才覚も神様から預かった現世における一時的な預り物なのです。神様、宇宙が自分に与えてくれた、素晴しい才能は、集団の為、社会の為、世のため人のために使えと与えてくれたものなのです。預り物なのです。預り物は自分のもの、私物ではないのです。 

従って、預り物で成功した果実は自分のものではないのです。みんなのものなのです。他の人はそれぞれ違った才能・才覚を神様から預り、その預り物を使って成功しているのです。自分自身の才能に溺れ、傲慢になっていこうとする自分に気づき、厳しく自分を戒めることが大事です。 

思いは実現する 

  1. 思念は業(原因)を作り、業は果(結果)となり現れる

我々人間は “思う” という行為をします。思念(思うこと)は物事がもたらされる原因を作るといわれています。 

すなわち、思いは原因を作り、原因は結実して実(実現)をむすぶということだと思います。思いが原因を作りますとそれが現象面に現れて実現するのです。何かを思ったことが、業(原因)が発芽し、自分の目の前に、現象面に現れてくるのです。善いことを思えば必ず良い結果が生まれ、悪いことを思えば必ず悪い結果を招いてしまうのです。 

  1. 災難、困難は業が消え去るとき

仕事をしていますと、いろいろな災難や困難なことに遭遇することがあります。職場で、上司や同僚や部下とおり合いが悪くなった、お客様からしょっちゅう苦情がくる、仕入先が納期を守ってくれない、様々なことに直面します。ときには人から避難中傷を受けることもあります。来る日も来る日も重苦しい空気に圧倒され、生きているのも嫌になるくらい苦しい日々もあります。 

災難があったとはどういうことなのか、それは我々が過去に心に思ったことが現象面に現れて来たからなのです。業(原因)が表面化したことなのです。災難に遭遇したのは、過去の思いが現れ、消えていくことなのです。ですから、災難にあったら、自分の思いが間違っておったと気づかされる機会なのです。 

自分がなぜ困難に遭わなければならないのかと考えた時、自分がその原因を作り、自分のまいた種が結果として困難を作ってしまった、自分にその原因があったことに気づくことが大事です。 

過去に悪いことを思い、悪い行いをして、たくさんの業(原因)を積み、たくさんの原因をつくったことが災難という形で現象面に現れた、そして、それ(災難に遭うこと)によって過去に積んだ悪い業が消えていった。 

それはちょうど川の中のゴミ(悪い思い、業、原因)が、洪水(災難)によって、洗い流されたとと考えるべきものです。 

  1. 因果応報の法則のままに

“我々の思いが災難や幸運として必ず実現する” と言ってもなかなか信用してもらえないことがほとんどだと思います。思ったことが結果として現われるまでには大変な時間がかかってしまうのです。 

人には生まれた時から運命があると言われています。運がよい時もあれば悪い時もあります。運が悪い時に直面します。仮に善き思いを持ち、善きことをしても、その時は、悪い運命と相殺され、多少悪い運を上向きに訂正する程度になることもあります。逆に、悪いことを思い、悪い行いをした時、良い運の波に乗っていますと、良い運が悪い思い、悪い行いから来る悪い結果を相殺してしまいます。こういったことがある為、人々は “因果応報の法則” を信じないのです。 

私達の周辺では、素晴しい行いをしているのに、それほど幸せな人生を送っていない人もいます。逆に、横着でわがままで悪い人なのに、幸せそうに暮している人もいます。短期間で見れば、そう見えるのですが、二十年、三十年と達して見てみますと、“因果応報の法則” が厳然と働いていることがわかります。善いことをした人には必ずよい結果が生まれていますし、悪いことを思い、悪い事をした人には必ず悪い結果が生まれています。 

先般のバブル経済時、りっぱな経済人、経営者が、バブル崩壊後、傷つき、消えていきました。 

独りよがりで、エゴの塊(かたまり)となった思念、思いは、いずれ必ず自分の身を滅ぼすという結果を招くことになります。 

宇宙はあらゆるものを成長発展させる 

宇宙は、素晴しい努力をしたすべてのものを必ず成長・発展させます。自然の力が、この宇宙には流れています。発展を促すと同時に、宇宙には調節をもたらす力も働くようになっています。“宇宙の法則” といえます。 

調節するとは、すべてがうまくいくように、利己から利他へという力が働いているということです。 

宇宙がはじまる時は、この宇宙は、ひと握りの素粒子でしかなかったものが、大爆発を起こし、今も膨張を続けているそうです。 

素粒子から陽子、、中性子、中間子、さらに原子核が構成された。原子核に電子がつかまり、水素原子が生まれた。こうした宇宙の働きが我々人類を生みだしました。 

この宇宙には森羅万象あらゆるものを進化発展させようとする力が働いています。仏教でいわれている慈悲、キリスト教でいわれている愛が、この宇宙には充満していると考えられます。 

利他の心が調和をもたらす 

  1. 愛が持つ二つの力

経営者は、他のものと調和を図ろうとする利他の心を持つことです。宇宙の “すべてのものを成長・発展させよう” という愛、その愛は調和をとる方向へも力を働かせています。 

地球には “引力” がありますが、“摩擦” があります。下道をころげる力(引力)に対して、それをとどめようとする力(摩擦))があるのです。 

巨大化した企業は独占企業となり、社会の発展の妨げになりますと、政府機関から独占禁止法が制定され、分割されていきました。分社化された企業は、異なる分野へと進出して成長・発展してきました。これは調和をはかる為に必要なことなのです。 

  1. 思いやりの心が他との調和をもたらしていく

巨大に成長・発展していくものが、宇宙、社会のバランスを崩して潰えていく、すなわち、自分だけが成長・発展するのではなく、他とも一緒に成長・発展し、共に生きていこうという思いやりの心が大切です。 

自然界に於ても、巨大化したものは分解され、消滅し、新しいものに変革されて来ました。 

宇宙には愛という力が存在し、その力はすべてのものを成長・発展・進化させるようとする方向に働きます。一生懸命生きようとする、努力をするものに対しては宇宙は無限の愛を注いでくれると思われます。私達が一生懸命に努力をすれば、必ず会社はうまくいきます。会社がうまくいかないのは、私達の周囲の責任ではなく、自分自身の努力不足だからです。 

うまくいっている人は、朝から晩まで本当に一生懸命に働いています。一生懸命に働き、一生懸命に努力すれば、宇宙が応援してくれるのです。 

宇宙は引力と摩擦、成長・発展と分解というように、調和も求めています。自分だけがよければよいという考え方、つまりエゴ、利己は宇宙が望まないのです。 

自分の会社をよくしていくなかで、自分の従業員を幸せにしようと思います。従業員を幸せにする為には、仕入先も幸せにする、あるいは地域社会の人達も幸せにしたいと考える、これが宇宙が求めている調和の世界なのです。 

努力して会社を成長・発展させながら、同時に心の奥底に利他の心、愛の心、思いやりの心を持ち、調和していこうという生き方が大切です。 

  1. 心がつくる四つのゾーン 

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Y軸は努力の程度を表します。上の方向は努力、下の方向は怠ける方向です。

X軸は、右への方向は家族、従業員、お客様、仕入先、社会のため、利他の心、左の方向は自分だけがよいという利己の心です。 

Ⓐの世界:一生懸命努力します。しかし自分だけがよければよいと考えています。成功は長続きしません。波乱万丈です。 

Ⓑの世界:一生懸命努力します。しかし利他の心が充満しています。現世における極楽です。 

Ⓒの世界:怠けもので、しかも、自分だけがよければよいと考えています。年中不満をいいます。俺はやっているのに、周りの連中がおかしいと、年中愚痴っています。地獄です。 

Ⓓの世界:一生懸命努力はしない。成長・発展する気がありません。植物界です。 

私達はⒷの世界を目指すのです。一生懸命に努力し、利他の心を持ち、美しい心根を持っていれば、限りなく成長・発展していく世界です。 

素晴らしい経営を目ざして 

  1. 四つの心得を守れば必ず大成する
  2. 謙虚にして驕らず:自分の才能を私物化してはならない
  3. 因果応報の法則:善き思いを一生持ち続けるように努力する
  4. 宇宙の法則:宇宙には努力をするものを進化発展させる力があり、調和を求める力がある。努力をした人には宇宙が応援してくれる。
  5. 宇宙や社会と調和をしながら発展していく 
  1. 経営の原点12ヶ条を血肉化し、尊敬を得る経営者に

盛和塾で学んだことを、繰り返し繰り返し、読み、実践していく努力、血肉化をすれば、尊敬される経営者になれます。