盛和塾 読後感想文 第三十一号

原点を見失わない 

山登りをする時、突然霧に包まれて視界ゼロという状況に見舞われ、大変な危険にさらされることが良くあります。その時は登攀(とうはん)ルートを見失って遭難してしまわない様に、再度ベースキャンプに戻り、再スタートをします。

新しくチャレンジするプロジェクトの場合も同様、何度も壁に当たり、行き詰まることがあります。そのような場合、当面の問題点だけを克服して、終らせてしまいがちです。しかし、一時的な解決をしているだけですと、次第にいつの間にか当初目標とした本質的な問題解決の道から逸脱してしまうことがあります。 

例えば、コレストロール値が500という高い数値の患者さんに対してお医者さんが、タイラノール又はリプトーという薬を処方して、患者さんのコレステロール値を200まで下げたとします。当面患者さんにすすめ、コレステロール値は下がりました。しかし、この処方は対処療法であり、根本的にコレステロール値を正常値まで下げることにはなっていないのです。

場当たり的な問題解決を根本的な解決であると誤解してしまう事は避けなければなりません。原点を見据え、物事の本質に立脚した判断こそが新領域での成功につながります。或いは、重大な問題の解決方法を示してくれます。

京セラフィロソフィー 

自分を追い込んで努力を続ければ神の啓示が訪れる

自らを追い込む

困難な状況に遭遇しても、決してそこから逃げてはいけません。追い込まれ、もがき苦しんでいる中で、“何としてもやり抜くのだ”  という切迫感があると、普段見逃していた現象にもハッと気が付き、解決の糸口が見つけられるものです。

切羽詰まった状況の中で、真摯な態度で物事にぶつかっていくことによって人は普段からは考えられないような力を発揮することができると塾長は自らの経験を語っています。

問題を解決していくにあたり、常に自らを追い込むように心がける。厳しい現実から逃避するのではなく、易(やす)きに流れてしまうのではなく、自ら問題に対して、真正面からぶつかっていくような気持ちで、自分自身を追い込んでいくようにするのです。

切羽詰まった状況の中で、自らを限界にまで追い込んで必死にやっていると、あたかも “神の啓示” があったかのようにパッと問題解決のヒントが閃き、その閃きが本来の解決方法につながっていくのです。

余裕の中で生まれるアイデアは単なる思いつき

素晴らしいアイデア・閃きは、追い込まれてギリギリのところで研究している時にしか出てこないのです。よく余裕がないと良いアイデアは生まれないと言いますが、そういうアイデアは  “思いつき”  であって、そんな  “思いつき”  程度では、仕事はうまくいきません。ましてや最先端の研究などできるわけがないのです。

余裕がないと良いアイデアが生まれないと信じている人は、良いアイデアを生み出した経験はなく、自分の頭の中でそうだろうと想像しているだけなのです。

自分を追い込めば不可能と思われることも可能となる

追い込むとは、熱中し、他の全てが見えなくなって、ただ一つの事に没頭する。意識が集中している状態です。

火事場の馬鹿力といいますが、精神を集中しますと肉体的・物理的な領域において大きなエネルギーを生み出すという事です。

“もうこれ以上はやれない”  と思うところまで行くと、“自分は精一杯やった”  “あとは天命を待とう” という心境になります。精一杯やったという満足感は “安心” を生みます。“あとは天命を待つ” と思うレベルまで、必死に問題解決に打ち込むことが大切なのです。

余裕のあるうちに全力を出し切れ

土俵の真ん中で相撲をとる

“土俵の真ん中で相撲をとる” - 常に土俵の真ん中を土俵際だと思って一歩も引けないという気持ちで仕事にあたる。

お客様への納期についてですが、お客様の納期に合わせて部品・製品を作る、完成させるのではなく、納期の何日も前に完成日を設定し、これを土俵際と考えて、その期日を守るようにします。そうすれば、万一予期せぬことが起きたとしても、土俵際までには余裕がありますから、十分な対応が可能となり、お客様に迷惑をかけることはありません。

土俵の真ん中で相撲をとるということは、余裕のある時に全力で事にあたるという事です。他の事業に手を出すのなら体力のある時にやる、ということです。

ガリ勉に人間性の一端を教えてくれた友

学生時代、落第生の友人が塾長をパチンコ屋に連れて行ったそうです。落第生は塾長にパチンコ代を手渡してくれ、パチンコをするように勧めました。何回か誘ってくれたのですが、塾長はいつも負けていました。

ある日、もう一人の友人も含め3人でパチンコ屋に行った時、落第生がパチンコに勝ち、換金すると2人を食堂に連れて行きました。そこで彼は“ビックリうどん”という、うどん玉が2つ入った名物メニューを2人の分も注文してくれたそうです。

この落第生の行為、自分で勝ち取ったものを独占するのではなく、その分け前を他人にもおすそ分けするという彼の行為に塾長は衝撃を受けたそうです。実は落第生で、だらしないと思っていた友人が心の広い大きな人物だったことに気が付き、心の広さというものを学んだそうです。自分が思ってもみなかった他人を思いやることの大切さを学んだと塾長は謙虚に述べています。

建前や常識ではいい仕事は出来ない

本音でぶつかれ

責任を持って仕事をやり遂げていく為には、仕事に関係している人々がお互いに気付いた欠点や問題

点を遠慮なく語り合うことが必要です。物事をなあなあで済まさずに、絶えず何が正しいかに基づいて本音で真剣に議論していくことが大切です。

本音で話すと角が立つと考え、建前で話をしてしまうことがあります。上司や同僚に対して、ストレートに話さないことが良くあります。穏便に物事を進めるやり方を処世術と考える人がいます。

また、他の企業や他の部内でもやっているからという常識でよく議論をせずに、物事を進めようとすることがあります。

企業においては、建前や常識論で本当の良い仕事は出来ません。本音でぶつかり、本音で指摘し合うことが必要なのです。問題点を指摘された人は指摘してくれる人の時間、エネルギー、アイデアに感謝して熱心に相手の話に耳を傾けることが大事なのです。反発してはいけません。

社内で不正が発生していることや、少しおかしい事が横行している時には、そのことを指摘し、議論して、“人間として何が正しいか” を基準にお互いに話し合わなければなりません。

本音で議論をする中にも、ルールがあります。相手の人格を傷つけるような発言をしてはいけません。相手の欠点をあげつらったり、足を引っ張り合うという行為・言動が起きている時は、問題解決の方法が話し合いの中で充分議論されず、相手を非難することになってしまっているからです。“みんなの為に善かれ” という考えに立脚した本音でなければ建設的でポジティブな議論にはなりません。

私心のない判断が最良の解を生む

何かを決めようとする時に、少しでも私心が入れば判断はくもり、その結果は間違った方向へ行ってしまいます、と塾長は述べています。

みんなが相手への思いやりを考え、“私” というものをなくしていきますと、周囲からの協力が得られ、仕事はスムーズに進みます。私心のない言動は、集団のモラルを高め、活動能力を高めます。

人間は誰でも、ものを考えるときには必ずといってもいいくらい私心、自分に都合の良いように考えてしまいます。人間には自分を守ろうとする本能があるからです。本能は自分の事だけを考えていますから、どうしても自分に都合の良い判断をせざるを得ないわけです。

物事を判断する時は、私心=本能をコントロールすることが必要なのです。理性が必要なのです。その理性とは、自分は “仲間の為に仕事をするのだ”  “人間として正しい事をするのだ” という原点を絶えず確認するという事です。

理性で私心=本能をコントロールするには、結論を出す時に、“ちょっと待って” と一度深呼吸をしてみるのです。自分は今、何を目的にこの結論を出そうとしているのか、5分間考えてみるのです。

トップに立つ者が私心を離れて、仲間のため、世のため人のためと正しい判断をしますと、会社は進歩発展していくものです。

科学的な合理性と豊かな人間性を併せ持つ

バランスのとれた人間性を備える

バランスの取れた人とは、何事に対しても何故という疑問を持ち、これを論理的に徹底的に追及し、解明していく合理的な姿勢と、誰からも親しまれる円満な人間性を合わせ持った人だと塾長は述べています。

リーダーとして立派な仕事をしていく為には、科学者としての合理性と “この人のためなら” と思わせるような人徳を兼ね備えている必要があります。

科学者としての合理性を会社経営の場合に適用しますと、会社経営、営業活動または研究開発においても、理論の通らない不可思議な発言は許されません。企業活動のあらゆる問題は全て理屈で証明できるのです。

こうした科学者としての合理的な判断を仲間と共に実行していく為には、人間の問題に直面するのです。合理的な判断は正しいのですが、これを実施していく為には仲間からの協力がどうしても必要です。この協力を得る為には、トップが人徳を備え、人間性豊かな人物であり、仲間が安心してついてきてくれるようにならなければならないのです。

知っていること できることとを、同一視してはいけない

知識より体得を重視する”とは、人から教わったり、本から得た知識よりも、自らの身体で得たものを重視するということです。

知識より体得を重視する

“知っていること” と “できること” は全く別の事です。

経験に裏打ちされた、体得したことによってしか、本物を得る事は無いのです。そして、知識や理論とはこうした体得を通して生きてくるのです。

専門家を雇ったりする時、その専門家の言うことも知識として言っている場合と、実体験を通じて言っている場合とを分けて聞かなければなりません。

研究開発、製造、営業、マーケティング、ITシステム等、どの分野においても体得を重視することは同じなのです。人間には実践を通じて、理論を裏打ちさせることが必要です。

実績のある人の話を聞くのが大切です。きれい事ばかり口にする人ではなく、実際にやったことのある人、自分の身体で分かっている人の話を聞くのはいい事です。

体得した人であるかどうかは、その人の話が細かく具体的かどうかという事ですぐに分かるのです。体得した人の話は具体的で判り易く、面白いものなのです。

磨けば能力は進歩する

人間の無限の可能性を追求する

仕事において、新しい事を成し遂げられる人は、自分の可能性を信じることの出来る人です。現在の能力をもって “できる”  “できない” を判断してしまっては、新しい事や困難なことなど出来るはずがないのです。人間の能力は、努力し続けることによって無限に拡がるのです。

その為には、 “何としても成し遂げたい” という強い思いをもって努力を続ける事です。自分自身の持つ無限の可能性を信じ、強い思いをもって、常に挑戦するのです。

自分には能力がないと思っていても、 “やればできるのではないか。イッチョやってみるか” という人間、 “いい加減な人間” になってもよいと思うのです。能力というものは、頭の良し悪しだけではないのです。社交性、体力等、色々なものからなっているのです。頭が良く教育があり、知識があるに越したことはないのですが、かえってそういうものが自分の考え方を狭くしてしまい、新しい可能性を逃してしまう事もあるのです。

能力は無限であり、進歩します。人間の身体も同じです。毎日速歩(そくほ)をすれば、お腹の脂肪が減り、中年太りも治り、コレステロール値も下がります。そして、体力も向上します。能力が進歩しないのは、磨かないからなのです。

不況の最中、経営者が “注文が少ない。もっと頑張って注文を取ってこい” と発破をかけます。そうすると営業からは、注文を取ることがいかに難しいか、不況の説明から始まり、色々な言い訳が返ってきます。 “ウチだけではなく、同業他社も苦しんでいる。お客様も売上に手こずっています。この不況は構造的なもので、先が読めません” と理由を並べ立てるのです。それを聞いた経営者は “みんなも頑張ってくれている。こんなに厳しい経済環境にあっては、注文を取るのはやはり無理だろうか。自分は営業に無理を言っているのかな” と、つい元気をなくすようなことがあります。

ウチの会社は古い、長く同じ業界にあり、先行きが見えない。ジリ貧で、会社は行き詰ってしまう。革新的な事業に取り組みたい。しかしそうはいっても、ウチには能力のある従業員もいない、技術もない、資金もない、所詮無理な話だ。

こういった話は、枚挙にいとまがないと思います。

出来ない条件を挙げて諦めてしまってはいけません。人間には無限の可能性があるのだから “何とかすれば何とかなるさ” と自分に言い聞かせる事から始めるのです。確かに簡単に出来るものではありません。 “やってみよう” と、まず地味な努力を始めるのです。それも “やれるのだ” と鏡の自分に向かって毎日言い聞かせ、それを継続するのです。尺取り虫になるのです。進歩はこうして始まるのです。

京セラフィロソフィが成功の源泉

稲盛和夫は、セラミックスについてはほとんど知識もありませんでした。セラミックスは、塾長の専門外の分野だったのです。お客様の要望に応える為、自分の過去の経験や現在の技術力や能力に拘らず、 “何とかしよう”  “何とかなるさ” と思い、ひたむきに努力を続けたのでした。

何年も経って “世界のどの専門家にも引けを取らない” 自信が生まれ、さらに研究を続けたそうです。

通信分野でも、明治以来NTTという巨大企業が通信事業市場を独占してきましたが、あえて京セラは挑戦したのでした。

京セラフィロソフィーの大義名分 “世のため人のため” 通信サービスを安く提供することを拠り所として、努力をすれば必ず道が開かれる” と信じてやったのでした。

京セラの通信事業(第二電電)は、決して思いつきや無謀な気持ちで始めた事業ではなかったのです。第二電電を始めた時は、京セラは一介のセラミックスメーカーにしか過ぎなかったのです。しかし、京セラフィロソフィーにもある “人間の無限の可能性を信ずる” を精神的な糧として努力したのでした。

評論家やジャーナリストは、 “京セラが立派になったのは、たまたま時の流れに乗ったからだ” “ファインセラミックス時代の到来に合わせて、京セラがそれを取り扱っただけの事だ”  “京セラはうまく時代の流れに乗ったから成功した” と言いました。

しかしそうではなく、京セラがファインセラミックスを活用する、ファインセラミックスを必要とする業界を創っていったのです。市場を創り出したのです。ファインセラミックスの時代をつくったのです。

自動車のエンジンにセラミックス部品を使う等、誰もが考えなかったことをやり遂げました。

セラミックスについて、京セラに立派な技術が最初からあったわけではありません。あったのは、フィロソフィーだけなのです。全従業員の物心両面の幸せを追求し、お互いにお互いをかばい合う、大家族主義、人と人とを結ぶ強い絆というフィロソフィーしか、京セラにはなかったのです。

心がすべての根源であり、種子であり、そこから気が育っていくように、京セラは発展してきたのです。

常に創造的な仕事をし、少しずつでも地味な努力を積み重ねていく事が、自分の能力を磨き、向上させるのです。 “うまくいかないかもしれない” と悲観的になったりするのではなく、自分から進んで明るく物事を考えていくのです。常に好奇心を持ち、新しい事を考え、楽しみながら実行する意欲的な人であるべきなのです。

よく日本では、悲壮感を募らせる人が多く、悲壮感をもって努力することが、真面目なことだと考えられるのですが、 “自分には断固としてフィロソフィーがある。このフィロソフィーに従って努力を続ければ、必ず道は開ける” と楽天的に考えるのです。悲壮感だけではくじけてしまいます。明るく楽天的な部分がなくてはなりません。

勇気、忍耐、努力の人にのみ許されるチャレンジ精神

チャレンジ精神を持つ

人は通常、変化を好まず、現状を守ろうとしがちです。新しい事や困難な事にチャレンジせず、現状に甘んずることは、既に退歩が始まっているということなのです。

チャレンジというのは、高い目標を設定し、現状を否定しながら常に新しいものを作り出していく事なのです。しかしチャレンジには、困難に立ち向かう勇気と、どんな苦労でもする忍耐、そして努力が必要なのです。経営者は、勇気を持っていなければならないし、人一倍の忍耐も要りますし、誰にも負けない努力もしなければなりません。

例えば、自動車産業の歴史を見てみましょう。

最初はガソリン車でより良いもの、故障が少なく、良いスタイルのもの、走行マイルの改善等と、新しい自動車を作り出してきました。そして現在の技術で作った自動車は、新しい技術で作られた自動車に食い潰されていったのです。

ガソリン車は次第に電気自動車に取って代わられ始めています。これらの電気自動車開発には、経営者の大胆な勇気、努力(多くの技術者集団の技術開発努力)、膨大な投資(資金回収に時間がかかる)、そしてどうしてもやり遂げようとする忍耐が必要なのです。

人の歩まぬ道を歩み続ける

京セラは人のやらないことをしてきました。人の通らない道を自ら進んで切り開いてきた歴史です。誰も手掛けた事のない分野を開拓するのは容易ではなく、地図もない荒野を、道を造りながら歩くようなものです。頼れるのは自分自身しかいないのです。

自分が知らない事、未知の世界に足を踏み入れる時、よくその道の専門家にコンサルティングをしてもらうことがあります。この方法は専門家が “誰かほかの人が通ってきた道を説明すること” なのです。

従って、こうした “舗装された良い道” は既に誰かが先んじている道ですし、既に競合他社が参入している分野なのです。

そうではなく経営者は、自ら未知の世界の中で新しい考えを身に付け、経営に結びつけなければなりません。

どんなに会社が大きくなっても、私達は未来に夢を描き、強烈な思いをもって、開拓者としての生き方をとり続けるのです。

京セラフィロソフィーを唯一無二の羅針盤として歩む

住宅産業で儲けることが出来そうで、パートナーも長年住宅建設にかかわってきており、経験も充分あるので、投資を決意したとします。2年経ち、3年経ち、住宅金利が上昇し、住宅原材料、材木、セメント、アルミ、鉄等、建設資材が値上がりし、建設コストが当初と比べて大幅に上昇した結果、住宅販売価格を大幅に上げざるを得なくなりました。そうしますと、住宅販売数量が減少してきます。このような時に、前に進むべきか或いは、住宅産業から撤退するべきかの判断に迫られます。そしてそこで、重要な決定をしなければならないのです。

住宅事業の目的は正しいものだったのか。自分に経験がない事業に、囲碁でいう飛び石を打ってしまったのではないか。事業目標計画は充分検討し、見込みのある事業だったのか等を考え、判断しなければなりません。

こうした場合、自分には経験がありません。しかし自分で考え、自分で解決方法を見出していかなければなりません。一度誰かが同じ経験をしている場合は、その人の経験から学ぶこともできるでしょう。コンサルタントに意見を聞くこともできます。しかし、自分のケースと誰かの経験は、必ずしも同じものではないのです。こうした場合は、必ず原点に戻り、当社の目的に照らして3年前にした意思決定 -住宅産業への参入- は正しかったのかと、振出しに戻って考えてみることが必要です。この住宅事業は社会や皆のためになる為にやった事なのか。或いは、自分で金儲けをしようとしただけだったのではないかと自問してみるのです。この時は、会社のフィロソフィーを基準として、前に進むか撤退するか決める必要があるのです。

京セラは “この研究は社会や皆の為になる” と考える場合は、いかに難しいテーマであっても、毅然とした態度で挑戦してきました。その判断基準は、善か悪か、利己か利他かという基準で、経営においても研究においても判断してきたそうです。

こうした確固としたフィロソフィーに基づく判断をし続けると、どんな困難にぶつかっても、日頃からフィロソフィーに基づく判断をしていますから、正しい判断が瞬時にできるのです。

京セラは成功するまでやる

もうダメだという時が仕事の始まり

物事を成し遂げていくかどうかは、才能や能力というより、その人が持っている熱意や情熱、執念です。もうダメだと思った時が、本当の仕事の始まりなのです。

強い思い、強い熱意や情熱があれば、寝ても覚めても四六時中達成する目標を考え続けることが出来ます。こうした熱意や情熱はやがて、潜在意識にまで浸透していき、自分でも気が付かない内に、その願望を実現する方向に身体が、思考が自然と働き、成功へと導いてくれるのです。

素晴らしい仕事を成し遂げるには、燃えるような熱意と情熱をもって最後まで諦めずに粘り強く努力するのです。

京セラでは、研究したものは全て成功しています。それは “もうダメだという時が仕事の始まり” という考え方に徹しているからです。研究を始めたら、成功するまで頑張るのです。成功するまで頑張るには、熱意、情熱と共に、余裕が必要なのです。

経営に余裕があるからこそ粘ることが出来る

経営においては、普通なら諦めてしまうものを粘って成功させるという方法が必要になるのです。ところが、大半の企業が粘ることが出来ないのです。それは、資金が続かないからです。成功するまで続けられるのには、それだけ資金に余裕があるからです。 “もうダメだという時が仕事の始まり” と言えるのは、余裕のある経営、ダム式経営をやっていなければ言えない事なのです。

京セラフィロソフィーの中に、 “常に土俵の真ん中で相撲をとる” という言葉があります。土俵の真ん中で相撲をとれば、土俵際まで下り、俵に足がかかるまでには余裕があります。

例えば、新しい事業を始めた時、2年も3年も赤字を出しているが、本業で利益を出しているから、新事業を継続していくことが出来るということなのです。

上手くいかない人は、自ら限界をつくる

会社創業時は、物もお金も人材も不足しています。事業が上手くいかないと、従業員が一人欠け、二人欠け、資本も尽き、 “もうダメ” と諦めてしまうのが普通です。

車はもうないという事態に直面して、いや、まだ自転車がある。電車もバスもある。頑健な身体もある。嫁も後押ししてくれている。 “やるぞ” と力を振り絞ることが大事なのです。

つまり、うまくいかない人は、大した困難でもないのに簡単に諦めてしまって、車がなければ商売は出来ない。100,000ドルの金がないとダメだという風に、自ら限界をつくってしまっているのです。たとえ裸一貫でも熱意と情熱を持ち、努力を続ける根性が必要なのです。

信念は人に最大の勇気を与える

仕事をやり遂げる最中では、色々な障害に遭遇します。反対意見にあう事もあります。これらの壁を高い理想に裏打ちされた信念でもって突き崩してきた人達が、素晴らしい仕事をしてきたのです。

素晴らしい仕事をした人は、これらの障害を真正面から受け止め、自らの信念を高く掲げて進んでいったのです。

高い信念を持っていない経営者、例えば金儲けをしたい、贅沢をしたいというような利己の人の場合は、ちょっと問題に突き当たれば “これを乗り越えればもっと利益が出るかもしれないが、失敗するかもしれない。それくらいなら、利益はそんなにないかもしれないが、この問題は避けて通ろう” と考えてしまいます。自分にとって得か損か、損得勘定で判断しているのです。

こうした人は、周囲から尊敬されません。ましては世間の人から、ああいう損得ばかり考えているのが経営者なのだと思われてしまうのです。

利他の心を持った経営者は “人間として正しいか。事業を成功させて従業員を幸せにすると同時に、社会にも貢献する” という理念を持ち、その理念が信念にまで高まっています。信念は人々に勇気を与えて、物事を成就させてくれるのです。易きに流れて判断したり、行動したりはしなくなるのです。

人間は、どんな困難に遭遇しても信念さえあれば、勇気が出てきて自分を励まし、くじけずにやっていくことが出来るのです。

リーダーほど真の勇気が必要な仕事はない

リーダーは、従業員の生活を守っていかなければなりません。経営者一人で会社を守っていくわけではないのですが、従業員と共に努力を重ねて、従業員を束ねていく人なのです。その責任は重大です。厳しい経済、雇用不安が続く時代に従業員の生活を守っていく事で、経営者は社会的に大変貢献しているのです。

経営者はリーダーとしてその重圧から逃げることが出来ません。

真の勇気は、立派な大義名分や信念を持った人間でなければ出せないのです。自分の損得勘定で生きている人には到底出せるものではありません。

京セラが通信事業に参入し、第二電電をつくり、新しい全く未知の分野に進出したのは立派な大義名分があったからです。日本の高い通信料金を下げ、国民の為に貢献しようという大義名分があったのです。この大義名分が京セラにリーダーとしての勇気を与えてくれたのです。

通信事業に参画してきた3社の中で一番不利な京セラでしたが、NTTや財界から横やりが入っても、“日本の通信事業を安くしたい。国民の為に自分はこの事業をやるのだ” という、大義名分が京セラのリーダーに勇気を与えたのでした。

サミュエル・ウルマンの詩  “青春

青春とは、人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。

優れた創造力、逞しき意志、燃ゆる情熱、怯懦(きょうだ)* を却ける(しりぞける)勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こういう様相を青春というのだ。

*怯懦: 憶病で意志が弱いこと

年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。歳月は皺を増すが、情熱を失う時精神は萎む。

苦悩や狐疑(こぎ)や、不安、恐怖、失望、こういうものこそ恰も(あたかも)長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂を芥(あくた)*に帰せしめてしまう。

*芥:ごみ、くず、ちり

年は70であろうと16であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。

曰く、驚異への “愛慕心(あいぼしん)” 空にひらめく星辰(せいしん)-星座-、その輝きに似たる事物や思想に対する欽仰(きんぎょう)*、事に対する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探究心、人生への歓喜と興味。

*欽仰: 尊び敬うこと、仰ぎ慕うこと

人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる

人は自身と共に若く、恐怖と共に老ゆる

希望ある限り若く、失望と共に老い朽ゆる

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、偉力と霊感を受け取る限り、人の若さは失われない。

これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽い(おおい)つくし、皮肉の厚氷が固く閉ざすに至れば、この時にこそ人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。

原作:サミュエル・ウルマン

訳:岡田義夫

青春というのは、年令で決まるものではない、心の様相で決まるのだ。

 

物事はできることを無邪気に信じる超楽観的な姿勢から始まる

楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する

新しいことを成し遂げるには、 “こうしたい” という夢と希望を持って超楽観的に目標を設定することが何よりも大切です。

計画の段階では、 “何としてもやり遂げたい” と強い意志を持ち、あらゆることを想定して、悲観的に構想を見つめ直し、慎重に考え尽くさなければなりません。

実行段階では “必ずできる” という自信を持って、楽観的に明るく、堂々として実行していくのです。

京セラは昨日よりは今日、今日よりは明日と次から次へと新しいことを考え、新しい技術を次々と生み出してきました。今までやったことのない斬新なアイデアが生まれてきますと、周囲の優秀な社員に声をかけます。得てして学問を修めた社員は、そのアイデアがいかに難しいものかという事を知っており、冷ややかな態度で話を聞いているだけなのです。つまり、燃えないのです。

ところが、知識も学問もそれほど高くない従業員は “それは面白い。やりましょう” とすぐに燃えることが多いのです。

物事を考え、成就させる為には、燃える人を出来るだけ多くつくり、達観的に考えるのです。どんなことでもやってみないことには、そもそも成功などあり得ないのです。成功するにしても失敗するにしてもまず、着手しなければ何も始まりません。

新しいことを成し遂げる為には、さまざまな困難に遭遇します。その時 “やれるんだ” と自分を奮い立たせるのです。難しいことは考えず、超楽観的に捉えることが大事なのです。

計画を立てるときは、緻密に且つネガティブに

お客様から注文をとってくる時は、 “やれます。任せてください” と答えて注文をとります。ところがウチには経験もなければ、技術もないということがよくあります。まずは “できるだろう” と思うことです。

 “やりましょう。やりましょう” と学問も経験もないのにも関わらず、燃える従業員が必要なのです。

しかし、これだけでは実行していくことはできません。

本当に成功させる為には、計画を緻密にニヒルに検討することが必要なのです。ここで、なかなか燃えない人物の登場が必要になってきます。 “社長、それは無謀です。ウチには技術がありません。設備がありません” と、社長に反論してくるのです。そして彼等から次々と出てくる出来ない理由(マイナス要因)を集めて、一つ一つ検討するのです。不安材料を一つ一つ洗い出すのです。

決めたら最後、楽観的に実行する

不安材料は全て洗い出してありますから、 “賽(さい)は投げられた” とどんな困難が待ち受けていようとも、明るく楽観的に実行していくのです。楽観的な人、燃える人は、困難に遭遇しますと怯みます。それでも一度やると決めたら、どんなに苦しい目に遭っても、自分の逃げ場を閉ざし、前向きに仕事を進めるのです。

楽観的な構想から始まったセルラー電話事業

第二電電が創業して、まだ事業が始められていない時に、携帯電話の前進である自動車電話事業について、新規参入を認めるという話が郵政省から上がってきたそうです。

当時の自動車電話は、大きな送信機がトランクに積んでありました。通信料金も非常に高く、庶民には手の届かないものでした。

京セラはIC用パッケージを世界に供給しており、ICの進歩をこの目で見ていましたから、 “通信機も受話器に内蔵され、小型化すれば普及が進み、何年か先には携帯電話の時代が来るはずだ” と確信したそうです。そして第二電電が名乗りを上げました。その時トヨタも手を挙げ、2社が参入を希望しました。

第二電電(KDDI)の役員会で “必ず携帯電話の時代が来る。今この分野に参入するべきだ” と主張しました。ところが役員全員が反対するのです。 “あのNTTでさえも、またアメリカの通信会社であってもまだ赤字を出し続けているのですよ”  “第二電電はスタートを切ったばかりです。長距離電話用の回線を敷く為に、大阪―東京間にパラボラアンテナを設置する作業だってまだ半分も終わっていないのですよ。まだ営業も始まっていないのに、また新たに自動車電話をやろうなんて無謀もいいところです”

こうして、役員全員が反対するのでした。しかし唯1人、 “やりましょう” と言った役員がおりました。そして “それでは、2人でやるか” となったのです。

こうして第二電電の携帯電話事業は始まったのでした。不安のなか反対した役員にも、手伝ってもらうことになりました。

このプロジェクトには、次の重要な前提があるのです。

  1. 将来を見通す能力を塾長は持っていました。
  2. 飛石を打たない原則 - 京セラは既に通信事業に参入しており、通信事業の経験者がいた事と、京セラはICの経験を積んできたのですから、決して飛石を打ったわけではなかったのです。
  3. 土俵の真ん中で相撲をとる - 資金の目処があったのです。

こうした条件のもとに、楽観的に携帯事業に参入したのです。

経営者には勇気が必要

真の勇気を持つ

経営者は多くの問題・課題に対して決断を要求されます。

その時、良く安易な道を選んでしまうことがあります。正しい判断をするには難しい道を通らなければならないことがあります。こうした場合、難しい道をとるには、経営者として勇気が必要です。

真の勇気とは、自らの信念を貫き、節度があり、怖さを知った人、場数を踏むことによって身につけられたものでなければなりません。

例えば、周囲の人から嫌われまいとして、言うべきことをハッキリと言わなかったり、正しいことを正しく貫けなかったりします。

銀行借り入れには銀行での審査があり、書類作成が大変だ。それより金利は高いけど、闇金融から借りよう。

そして結局、安易な道を選んでしまうのです。

場数を踏むことで真の勇気を持つ

経営者には、場数を踏んで失敗した “怖がり”  の経験が必要です。お金を借りる時、投資の決断をする時、何をするにしても小心で、最初は憶病な人が経験を積んでいくことにより、場数を踏むことにより、度胸をつけていくのです。こうした人が真の勇気を持った人なのです。

小心者の従業員であっても場数を踏ませることにより、立派な勇気のある経営者になるのです。

使命感、責任感が度胸と勇気を奮い起こさせる

京セラのフィロソフィー手帳の中には、 “従業員のため、また自分を支えてくれる家族のために、命に代えてでもこの会社を守っていくのだ” とあります。こうした凄まじい信念ほど、経営者を強くするものはありません。

困難に面した時、経営者は正しいと思う自分の信念に基づき、決して従業員を路頭に迷わせてはいけないと考え、勇気を持って決断していきます。

ある製造メーカーのトラック運転手が、居眠り運転で歩行者を死なせた事件がありました。その時社長は、夜中にその運転手を連れて、被害者の自宅へ謝りに行きました。社長は、従業員(その運転手)の行動は社長の行動と同じことなのだと、運転手と被害者家族に言ったそうです。これは勇気のいることです。

適者生存が自然界の掟

仕事とは真剣勝負の世界であり、その勝負に常に勝つという姿勢で臨まなければなりません。勝利を勝ち取ろうとすればするほど、さまざまな困難や圧力が襲いかかってきます。こうした困難や圧力を跳ね返していくエネルギーのもとは、その人の持つ不屈の闘争心です。格闘技にも似た闘争心が、あらゆる壁を突き崩し、勝利へと導くのです。どんなに辛く、苦しくても “絶対に負けない。必ずやり遂げてみせる” という激しい闘志を燃やさなければなりません。

闘争心は、生きていく為に必要なことであり、決して他を打ち負かす為のものではないのです。自分の会社が社会に認められ、生かされていくように、お客様の要望に必死に応じる為のものなのです。

こうした闘争心のある会社は生き伸びるのです。何故なら、こうした必死に生き延びようと努力する会社を社会が必要としているからなのです。実際は一生懸命に努力した者、誰にも負けない努力をした者が世の中にその存在価値を認められ、世の中に適応して生き残り、努力をしなかった者は絶えていく。この適正生存こそが、自然界の掟なのです。

自分の食い扶持は自分で稼ぐ

自らの道は自ら切り開く

自分達の将来は誰が保証してくれるものでもありません。今会社の業績が素晴らしいものであっても、それは過去の努力の結果であって、将来どうなるかは誰にも予測できないのです。将来に渡って素晴らしい会社にしていくためには、私達一人一人がそれぞれの持ち場、立場で自分達の課すべき役割を精一杯やり遂げていくしかありません。

誰かがやってくれるだろうという考え方で人に頼ったり、人にしてもらうことを期待するのではなく、まず自分自身の課すべき役割を認識し、自ら努力してやり遂げるという姿勢を持たなければなりません。

創業者、オーナーは元々 “独立自尊の精神” を持っています。しかし、副社長、専務、常務、部長、課長などはそうではありません。 “社長が何とかしてくれるだろう” と考えているのです。

うまくいっている会社は、自分の食い扶持は自分で稼ぐ、それどころか上納金を納めてくれるというような社員が大勢いる会社です。うまくいっていない会社は “独立自尊の精神” を持たず、自分の食い扶持も稼げないような、会社に依存した社員が大勢いるのです。

 “自分の食い扶持は自分で稼ぐのだ” と社員が考えてくれるようにする為には、誰にでも解かる経営管理システムの構築と、絶えず “独立自尊の精神” の重要性を訴えていくことが必要なのです。

京セラでは “アメーバ経営” システムを構築したのでした。独立採算制で運用される事業部(アメーバ)毎に、1時間当たりどのくらいの付加価値(売上-材料費―経費)を生んだのかということを示す “時間当たり採算制度” を導入したのです。1時間当たりの人件費を$30とした時に付加価値が$100であったとしますと、差し引き$70を会社に上納していることになります。

こうした情報は各事業部(アメーバ)毎に、検討すると同時に公表されています。会社に貢献したアメーバは、皆から賞賛され、会社から表彰されます。

アメーバの経営成績が良かったからといって、ボーナスや昇給に反映されることはありません。業績をボーナスや昇給に反映しますと、各アメーバ間、または従業員間でギクシャクする事態が起きるからです。

自分の食い扶持は自分で稼ぐ “独立自尊の精神” を従業員に持ってもらうようにする為には、経営者が “自分の食い扶持は自分で稼ぐ” とはどういうことなのか。同僚を助け、共に明るく働ける職場を作り、全従業員の生活を守る為のものであり、自分自身が人の役に立つ人間になることなのだと、機会のあるごとに話しかけていくことが大事なのです。

言霊は実行へのエネルギーとなる

有限実行で事に当たる

京セラでは “有限実行” を大切にしています。自ら手を挙げて “私がやります” と名乗りを上げ、自分が中心となってやることを周囲に宣言してしまうのです。

こうすることにより、周りと自分に約束をするのです。自分の考えを皆の前で明らかにすることにより、その宣言によって自分を励まし、実行のエネルギーとするのです。

公言しますと、自分の言った言葉が言霊となって自分に返ってきて、エネルギーを生み出すのです。

 “私がやります” と宣言しますと、それは周りの人や自分に対しての約束事になります。約束は全うしなければなりません。そういった責任感で自分を縛り、物事を完遂させていくのです。

幹部も社員も自ら進んで目標を公言しているような会社は、雰囲気も明るく前向きで、業績も素晴らしいはずです。

カラーで見えてくるまで考え抜き、手の切れるような製品を作る

私達が仕事をしていく上では、その結果が見えてくるような心理状態にまで達していなければなりません。最初は夢であったものが、何度も何度も頭の中でシュミレーションを繰り返していると、現実にできたように感じられ、次第に出来るという自信が生まれてきます。

これが “見える” という状態です。

 “見える” 状態まで考え抜いていかなければ、前例のない仕事や、創造的な仕事、いくつもの壁が立ちはだかっているような困難な仕事はやり遂げることはできないのです。

研究を開始するにはまず、開発過程を考えます。原料は何を使用し、薬品は何を使用して、こういう製品を作りたい等と、あらゆるプロセスを考えていきます。頭の中で起こりうる問題を全て考え尽くすのです。

来る日も来る日も自分の頭の中でシュミレーションを繰り返していますと、あたかも実験が成功したかのように思えて、完成した製品までもが頭の中に明確に浮かび上がってきます。

一方で、研究開発者が完成した製品を提示しますが、それは私が頭で描いた製品とは似ても似つかぬものなのです。するとその時、研究者は、 “私達が作った製品は、お客様の仕様を全て満たしております。何がダメなのでしょうか” と反発します。

 “仕様の最低条件は満たしているのだろうが、私は最高条件を満たすものを考えていたのだ” 研究員が作った “まあ、これでいいだろう” という無難な製品では市場に広く受け入れられないのです。

 “開発者は手の切れるような製品を作らなければならない。あまりに完璧で、あまりに素晴らしく、まるで触れば手が切れてしまいそうな、そんな製品を作るべきだ” と私は伝えました。

 “それはお客様が要求する基準以上の品質を持った製品です。オーバースペックでもいい手の切れるようなものを、努力を惜しまず作るというのが開発者にとって大切なことだ”

自分で研究開発を手がけているわけでもないのに、頭の中で何度も繰り返しシュミレーションを行うことによって、完成品の姿が克明に見えてくるのです。その結果が “白黒” では不十分で、 “カラー” でありありと見えてこなければ考え抜いたことにはなりません。

フィロソフィーは経営における宝の中の宝

京セラは、人がやったことのない、新しいことに挑戦してきました。一度通った道、通い慣れた道は、歩いたことがありません。その為、用心深くあらゆる可能性を考えて、誰も通ったことのない道を歩み続けています。少し行けば、崖が待ち受けているのではないだろうか、土手に突き当たるのではないだろうか、行く手を阻まれているのではないだろうか等と、考えながら歩いていきます。

つまり、シュミレーションを繰り返しながら歩いていくという、経営をしてきました。

 “京セラフィロソフィー” の項目の一つ一つは、京セラ経営哲学のエッセンスです。第二電電の成功も、こうした経営フィロソフィーに基づいた経営の結果なのです。

毎日の創意工夫が創造を生む

常に創造的な仕事をする

与えられた仕事を一生懸命行うことは大切ですが、それだけで良いとはいえません。一生懸命取り組みながらも、常にこれでよいのかと毎日考え、今日の自分の仕事を振り返り、そして改善、改良していくことが大切です。

昨日よりは今日、今日よりは明日と、与えられた仕事に対し、改善、改良を考え続けることが創造的な仕事へと繋がっていきます。

こうした繰返しによって、素晴らしい進歩が遂げられるのです。

資金不足、人材不足、経験不足、技術不足だから大企業に発展できない?

大企業を目の当たりにして、 “ウチもあのようになりたいものだ。これから伸びるグリーンテクノロジー分野に進出したい。しかし、自分の足許を見ると、資金もないし、人材もいないし、経験もないし、技術力もあまりないから無理だなあ” と思うことが良くあります。新しいことに取り組みたいが、条件がそろわない為に、いつまでも大企業の下請けに留まっているしかないと考えてしまいがちです。

京セラは、セラミックスの技術はありましたが、創業当時は技術力も低い中小企業でした。現在の規模にまで大きく発展できたのは、ほとんど社員の技術力、努力の結果だそうです。

昨日よりは今日、今日よりは明日、明日よりは明後日と、毎日工夫を積み重ねていく努力を怠らないように常に心掛けてきたことが、今日の京セラを作ったそうです。

京セラは創意工夫を続け、今振り返ってみると “通いなれた道” を歩いてはきませんでした。一度も振り返らず、ずっと前向きに歩き続けたそうです。

松下幸之助さんは、 “私は学がありません” といつも謙虚に周りの人から知恵をもらい、それをベースにして創造的なことを考えられました。こうした謙虚な態度から創造性が生まれ、パナソニックグループができたのです。

創意工夫による一日一日の変化はわずかですが、三年もすれば掃除担当が立派なビル清掃会社を経営できるようになるのです。こんなことで本当に会社を大きく出来るのだろうか。と思えるほどの小さな努力を、時間をかけて続けていくことにより、数年後には企業の中に素晴らしい技術が蓄積されているのです。

ボタ山を宝の山へと変えていった3M創業者の創意工夫

Minnesota Mining and Manufacturing Company(3M)という優良企業がアメリカにあります。創業者はある友人から勧められ、鉱山を買収しました。質の良い鉱山石が出るということでした。しかし実際は、採掘後のくず石でできたボタ山だったのです。

ボタ山は石英を主成分としたクズ石の山だったのです。すると創業者はこの石英に注目し、石英を細かい粒と粗い粒に分けて接着剤の付いた紙の上に載せ、乾燥させてみました。その石英のついた接着紙でなべの底を研くと、綺麗になることが判ったのです。これが今使われている “サンドペーパー” の誕生でした。

改良に改良を重ねて、耐久性のある紙を使い商品化していったそうです。接着剤も研究を続け改良していきました。接着力の弱いもの、強いものとテストを繰り返して研究に研究を重ねた結果、研きながら石英の粒が少しずつ剥がれていく “サンドペーパー” が誕生したのでした。

そしてこの接着剤の研究が、 “セロハンテープ” の開発に結びついたのです。その後、接着テープは絶縁テープへと発展していきました。

創業者は、だまされて買ったボタ山を見て、何とか役に立つことがないかと、創意工夫を重ねていったのです。こうした創意工夫が3Mを発展させてのです。3Mは経営理念の一つとして、製品の25%は毎年新しくするということを内外にうたっている会社としてアメリカでは有名です。

創造的な仕事を通じて大企業へと発展していく

京セラの歴史を見ますと、テレビのブラウン管の絶縁材料から始まり、陰極板の加熱されたものの絶縁材料 “カソードチューブ” の製品化に成功し、ブラウン管製作のキーパーツを開発するというように、次から次へと新しい製品を開発してきました。松下電器工業に納めていた絶縁材料も、東芝や日立へも売ってきました。特殊絶縁材料は、ラジオの真空管にも使えるはずと考えました。その後、特殊絶縁材料を使うよりも直接、絶縁材料をコーティングするという、簡単でコストも安くする方法を考え出しました。

セラミックスはダイヤモンドに次ぐ硬度を持ち、また磨耗しにくいという特性があります。そこで、磨耗の激しいところにセラミックスを使えば良いのではないかとナイロン工場のナイロン糸がもの凄い速さで走る部分に、金属の変わりにセラミックスを使用することを思いつきました。

トランジスタのヘッダーにセラミックスを使うことも考えました。そして京セラは、全世界のトランジスタのヘッダーを生産することになりました。

京セラはもともと専門の知識があったわけではありません。ただ、現状に満足することなくあらゆることに工夫を重ね、新しい分野へ果敢に挑戦していったという姿勢が、今日の京セラを作ってきたと塾長は述べています。常に創造的な仕事をすることが中小企業から中堅企業へ、中堅企業から大企業へと発展していく為に必要なことなのです。

正しい判断ができるかどうかで経営は左右される

利他の心を判断基準にする

私たちの心には、 “ 自分だけがよければいい” と考える利己の心と “世のため、人のため” と考える利他の心とがあります。

利己の心で判断し、自分がよければいいと考えますと、誰の協力も得られません。自分中心に考えますと、周りの人の意見にも耳を傾けず、視野も狭くなり、間違った判断をしてしまうのです。

利他の心で判断し、世のため、人のためと考えますと、周りの人からも協力を得られ、周りの人の意見にも耳を傾け、視野が広くなり、正しい判断ができるようになるのです。

経営者は、お客様との商談、従業員への指示、仕入先との交渉等、毎日判断を求められます。そして我々は話を聞いた時、直感的に判断しがちです。こうした直感的な判断は、よほど訓練のされた立派な人でない限り、大抵 “本能” で物事を考えてしまっています。

 “本能” とは、自らの肉体を守ることを優先することから出てきます。これは “本能” が悪いということではないのです。自分自身に有利になるように行動する、或いは考えようとする心で、自分の生存を計る術なのです。それは “世のため、人のため” と考える “利他の心” の対極に来るものです。人間というものは、物事に判断を求められた時、自分にとってそれが都合の良いことなのか悪いことなのか、又、自分の会社がそれで儲かるのか儲からないのかという事を、自分を中心に据えて判断しがちであるという動物的な側面があるのです。

ところが、自分にとっては都合がよいが、周囲の人々にとっては迷惑ということもあります。相手が何も知らないことをいい事に、相場より高い値段で売りつけようとする人がいます。本人が買うといったのだから良いではないかと考えてしまいます。本能だけで物事を考えた場合、このように周囲の人に損をさせたり、後々大きな問題を引き起こしてしまう恐れがあります。

こうした場合、自分には都合が良いが、後日相手が困るようではいけないと考え、合理的な相場に見合った価格を提示し、買っていただく。こうしたことは一見、大きな利益を手にする機会をなくすと考えるかもしれませんが、逆に相手から信頼され、将来のビジネスに発展していく機会を作るということにもなります。

 “相手のためになるかどうかを考えて判断をくだす

“自分自身を犠牲にしてでも、相手のためになることをしようと思う心” これが “利他の心” です。 “利他の心” は、人間社会のどの分野でも必要であり、適用することができるのです。家族、近所の人、会社、地域社会、教育、国の政治等、あらゆる分野で “利他の心” が必要なのです。

しかし、 “利他の心” で判断するのは簡単ではなく、悟りを拓いた人、成人にしかできないのです。我々は “利他の心” で判断なさいと教えられていますが、それは中途半端なのです。

聖人は我々の判断や行動を一段高いところから見ることが出来るのです。従って、我々のいう “利他の心” を見抜く力があるのです。

あるレベルの “利他の心” を持った人が、正しいと思った道を歩いています。しかし、その先に溝があるから、その道を進んではいけないのです。ですが、自分は正しい道を歩いていると信じきっていますから、溝に気がつかないということがあります。特に欲だらけの心には見えるものも見えないことがあるのです。

では、修行も充分出来ていない我々凡人は、どのようにして “利他の心” を理解し、 “利他の心”で判断すればよいのかという問題があります。

  1. ひと呼吸おく

人から頼まれた仕事を引き受けるかどうかの判断を迫られました。その時、瞬間的に答えを出してはいけません。ひと呼吸おくのです。瞬間的に出た判断を一時的に横に置くのです。一呼吸入れてから判断するのです。 “ちょっと待て” ワンクッション入れるのです。

  1. 有意注意

判断を迫られる件が発生した時には、他の事は一旦脇に置き、有意注意を持って聞くのです。その有意注意で得た情報を、ひと呼吸入れた時に反芻するのです。二度三度考えることです。(有意注意とは、意を持って意を注ぐこと。目的を持って真剣に意識や神経を対象に集中させるのです)

 “利他の心” について、次のような反論があります。何をきれい事を言っているのだ。売上を最大に、経費は最小に。10%以上の利益率を出さなければ事業ではないと言いながら、一方では人助けをしろとは矛盾も甚だしい。人を助けながら経営をやっていたら、10%もの利益率が出るわけがない!!

 “利他の心” の本当の目的は、自分を犠牲にしなさいということではありません。この世では、森羅万象あらゆるものが一緒に共生し、共存していかなければなりません。自分も生き、相手も生かす。つまり、地球にある生きとし生けるもの全てが一緒に仲良く生きていくということが “利他の心” の目的なのです。

西郷隆盛が村の子供に聞きました。 “親孝行とは何ぞや?” 子供が答えました。 “親に仕え、大事にし、尊ぶこと” 、それに対し、西郷隆盛は “それも立派な答えだ。しかし、毎日の生活の中で家族が食物をお互いに仲良く分け合っていくこと、お互いに助け合っていくこと” と判り易く説いたそうです。それは、 “足るも知る” という生き方=利他の心/行いでした。聖人とは “利他の心” を日常生活の中で実践できる人だと思います。

大善の功徳と小善の罪

事業経営の中で大切なことは、相手(お客様、従業員、仕入先、社会、国)にとって何が本当にいい事なのかということを考えることです。

倒産寸前の会社で売掛金が滞っている会社から、掛売りをしてほしいと依頼がありました。相手は “何とか売ってくれ” と頼んでいる。単純に “利他の心” を考えると、売ってやることになりますが、それでは後日、売掛金の回収に困るかもしれません。

子供が欲しがるものを何でも買い与える親がおります。子供を甘やかすわけです。結果として、わがまま勝手に育ち、とんでもない人間になり、不幸な運命を辿るのです。

これらは、目先のことしか考えずに相手に施そうとする善行ですが、 “小善” と呼びます。その時は良いように見えますが、後々悪い結果を招くこととなります。

体不満足で、手足のない子供がいます。親にとっては子供はかわいいものです。だからといって甘やかすだけではいけません。子供に両手両足がなくても、自活できるように全てのことを一人でやらせました。それは残酷な仕打ちに映ったかもしれませんが、子供は明るく、一人前の大人として成長しました。親が心を鬼にして、子供に一人でやらせたのは、本当の愛 “大善” なのです。

貧しい国の人達を助けようとするNPOが活躍しています。お金を送金したり、衣類を贈ったり、建物の建設費を用立てたりしています。

しかし、あるNPOは、 “貧しい国の人達に魚を与えるということはしません。ただし、魚を捕る方法を教えます” と言っています。

このNPOは “貧しい人々が自立していくことが本当の幸せだ。貧しい人でも “人のため” に役立つようになり、自活できるように支援する” これが大善なのです。魚を恵む、お金を恵むというのは小善でしかなく、結局は自活できない人達を育てることになります。慈善事業も、本当に相手を助けるということはどういうことかを考える必要があります。

利他の心で見れば儲け話の裏側まで見通せる

バブル経済の時代には、儲け話にのった人が沢山ありました。特に大手都市銀行がよく儲け話を経営者に持ち込んだのです。大手都市銀行も経営者も我利我利亡者になっていたのです。 “そんなうまい話があるはずがない。額に汗しなくてお金が手に入るくらいなら、皆働くのが馬鹿らしくなり、世の中がおかしくなります” 一時的に儲かっても、その後の経営、人生が失敗に陥ることになるのです。

利他の心で物事を考えるようになると、周りの人がうまい儲け話に引っかかっていく様子が良く見えるのです。我利我利亡者が自分だけ儲けようとしている様子が手に取るように判るのです。

我利我利亡者の人は、儲け話にのって失敗しますと “自分はちっとも悪くない。自分はこんなに努力しているのに、この世の中はどうなっているのか” と文句を言うのです。欲にかられた自分に責任があるとは考えないのです。

自分だけよければいいという考え方で商売をするのではなく、周囲の人達にとってそれはどうなのだろうかというところまで考えて、皆にとって良い事だという結論に達したときに商売を成功させるよう心掛けてくださいと、塾長は私たちに諭しています。

大胆さと細心さの両極端を合わせ持ち、それを常に機能させる

経営者が物事を判断するときには、時には大胆に決断しなければなりません。一方では細心に判断するということも必要なのです。

大胆さと細心さは相入れないものですが、この両極端な2つを持つことができて初めて、完全な仕事が出来ます。これは大胆さと繊細さを足して2で割るというのではありません。ちょうど布を織るときの縦糸(大胆さ)と横糸(細心さ)のような関係なのです。大胆さにより、仕事をダイナミックに進めることができると同時に、細心さにより、失敗を防ぐことができるのです。

大胆さと細心さ、合理性と人間性、温情と冷酷、それぞれ両極端の性質が一人の人間の中には綾を織り成すように存在しているのです。大胆でなければならないときは大胆に、細心でなければならない時には細心にという具合に、状況に応じていくことが必要なのです。

資本金以上の投資をする大胆さや、一台の機械の購入でも良く考え、いろいろな場合を想定してからでないと購入をしない細心さのように、経営者は慎重に判断をするべきでなのす。

日頃、従業員を大切にしていますが、怠け者でいい加減な仕事をする従業員をクビにすることもあります。泣いて馬謖(ばしょく)を斬ることが必要なのです。これは温情と冷酷という両極端の例です。

景気が悪く受注が減り、余剰人員が出てきた時、経営上/資金繰り上は、合理的に考えると解雇する必要があります。しかし、従業員の家族を思う時、解雇ではなく、社内での従業員の配置転換をすることにより、解雇しないという経営判断もあります。これは合理性と人間性の使い分けの例です。

米国の作家、F. S. フィッツジェラルドは、 “第1級の知性とは、両極端の考え方を同時に合わせ持ち、それらを正常に機能させることの出来る人間である” と語っているそうです。

経営者は大胆であるべきところでは大胆であり、細心であるべきときに細心でなければならないのです。つまり、両極端を正常に機能させなければならないのです。

両極端の能力を要求される中小企業経営者

大胆さと細心さ、温情と冷酷、合理性と人間性の両極端を合わせ持ち、場面に応じて使い分ける能力が必要です。それは大変難しいことです。

本田技研には、本田宗一郎というモノづくりの天才、計数に明るく金勘定の出来る藤沢武夫という名番頭、松下電器では、松下幸之助という経営思想とモノづくりに秀でた人と、名番頭の高橋荒太郎、ソニーの場合は、井深大という技術者と営業手腕に長けた盛田昭夫というように、いずれの会社も2人3脚で成功してきました。

しかし中小企業では、格好の補佐役を育てたり、採用することは至難の業です。ですから、中小企業の経営者はトップとしてこのような相矛盾した両極端の能力を兼ね備え、且つ、正常に機能させていかなければならないのです。中小企業の経営者は1人でこれをやらなければならないのです。誰も補佐役として助けてくれないのです。

中村天風さんは有意注意の大切さを述べています。

 “有意注意の人生でなければ意味がない” 、 “研ぎ澄まされた鋭い感覚で些細な事でも真剣に考える

有意注意で判断力を磨く

目的を持って真剣に意識を集中させることを有意注意といいます。日頃から、たとえ小さなことに対してでも、意識的に有意注意を続けていくと、習慣になります。そうしますと、あらゆる状況下でも気を込めて、物事を見つめる習慣が出来ていますから、何かの問題が発生しても、すぐに核心をつかむことが出来、正しい判断が出来、解決することが出来るのです。

物事を漫然とやるのではなく、日常のどんな些細な事にも真剣に注意を向ける習慣を身に着けることが必要です。

有意注意とは “意を持って意を注ぐ”  “意識して注意を向ける” ということです。その反対は無意注意です。反射的に体を動かすような場合のことです。

中小企業の経営者の場合、会社の命運を変えてしまうほどの重大な問題でもそれに気が付かず、 “これくらいなら大したことはない” と深く考えずに聞き流してしまうことが多いと聞きます。ましてや、小さな事象であれば尚更、あまり深く考えずに聞き流してしまう経営者が多いようです。

塾長は、京セラの取締役技術部長として経営に携わることになった時、 “リーダーは正しい判断を瞬時にできなければならない。どんなに簡単なことでも、真剣に考え正しい判断が出来るように努力しよう” と決めました。それ以来、どんなに些細な事でも真剣に考えるように心掛けてきたそうです。 “迅速な判断をする為には、どんなに些細だと思えるようなことでも常に真剣に考える習慣を身につけていかなければならない”

 “こんなものでいいだろう”  “君に任せるよ” と間単に済ませてはいけないのです。日頃からいい加減な判断をしたり、部下に判断を委ねたりする習慣になっていますと、大問題が発生した時に的確な判断が下せるわけがありません。

どんな些細な事でも、ど真剣に考えるような人は感覚が研ぎ澄まされていますから、いつでも迅速に、的確な判断をすることが出来るのです。これは過去に同じような経験があったので、特に考えなくても分かるというものではありません。有意注意の人は、もの凄い速さで思考が回り、瞬時に最良の策を考え付くことができるからなのです。

有意注意ができるのは、頭の良し悪し、能力とは関係がなく、経営者のどんな些細な事でも真剣に考えるという習慣によって可能になるのです。

時間がなくても意識を集中して考える

経営者の方々は大変忙しい日々を送っており、恐らく週末も仕事に明け暮れていると思います。そうした忙しい中で、多くの判断を迫られます。

過密スケジュールの場合、今話したことが頭に残っていますと、次の話に集中することが出来ません。頭の切り替えがよくできず、経営判断がいい加減になる可能性があります。

廊下ですれ違い立ち話をして、従業員の仕事についていい加減に聞き、後日自分が決断した事を忘れて “そんなバカな。私は聞いていない” と言う。しかし従業員にしてみれば “この前相談した時、よろしいと言われましたよ” ということになるのです。これは部下がかわいいものですから、すれ違いざまに話を聞いてあげた為に起こったことなのです。

このように、話を聞くときは、有意注意でなければなりません。とにかく集中できるところで、時間をつくって話をするようにすべきなのです。何かのついでにちょっと話を聞いて、軽く判断するということは決してしてはならないのです。

有意注意を心掛けますと、短時間で理解し、瞬時に正しい判断をすることが出来るのです。

人間として正しいことを正しいままに遂行する

フェアプレイ精神を貫く

京セラでは “フェアプレイ精神” に則って正々堂々とビジネスを行っています。従って、儲ける為には何をしてもよいとか、少しくらいのルール違反や数字のごまかしは許されるということは認めません。

私たちの職場が常にさわやかで活気あふれる状態である為には、一人ひとりフェアプレイであると同時に厳しい審判の目を持つことが必要なのです。

人間として何が正しいかを判断基準にしていますから、人間として正しいことを正しく遂行するという根本思想を京セラは守ってきたそうです。フェアプレイ精神を貫く公正さを尊ぶ、正しいことを正しく貫く、ということを全従業員がトップの社長から従業員まで徹底しなければならないのです。

大切なことは “フェアプレイ精神” を社内に深く定着させることです。 “正々堂々と正しいことを貫こう” と言いますと、全員が同意します。しかし、時間が少し経てばだんだんとその気持ちが薄らいできます。甘い儲け話がありますと、少しぐらいは良いだろうと思ってしまうのです。

証券業界が巻き起こした損失補填問題は、甘い儲け話をお客様に持ち込んだが、大損を引き起こした事件でした。

お客様が蒙った(こうむった)損失を他の取引で補填するという、二重の不正行為をしたのです。

これはルールを犯してはならないという基本的なことが守られていない証拠です。ルール違反は “少し” とか “わずか” 犯したくらいなら、罪が軽く済むというものではないのです。どんな小さなことでも不正はいけないのです。

こうしたルール違反の例をニュースで知り “なるほど” と思っても、いつの間にかそれぞれ自分の都合の良いように勝手に判断するようになり、不正を働いてしまうのです。こういうことにならない様に、全従業員に機会をつくって規律の説明をすること、仕事の点検の際にも、厳しくフェアプレイ精神が貫かれているかチェックすることが大切なのです。

誰であろうと会社の中で矛盾や不正に気付いたら、正々堂々と指摘するべきです。 “このようなことが行われていますが、これは間違いではないでしょうか” と堂々と素直に言えるような雰囲気を作ることが重要なのです。

上下の立場に関わらず、全社員が厳しい審判の目を持って、会社を見ているという会社風土が必要なのです。

建設的な提言が出来る企業風土をつくる

会社の中にはいろいろな人が働いています。自分の正当性を主張する為に、また出世したい為に、同僚や上司の悪口を言って足を引っ張る。不正がないのに、不正しているという噂をばら撒く。

こうした悪質な人も中にはいます。

一方では、人のことを悪く言って周りから “あいつは性格がよくない”  “人の足を引っ張りやがって” と言われるのを恐れて、不正を見てもなかなか指摘しないという人もいます。こうしますと、会社のあちらこちらで不正が行われていても、誰も指摘しないという風土が出てきてしまうのです。

不正というものは、同僚や部下からはよく見えるのです。不正は上司にバレないようにやりますから、トップにはなかなか不正は見えないのです。トップが社内の不正に気が付いた時は、時すでに遅しなのです。マスコミに叩かれてトップが辞任することもあります。

そうならない為に、下の人間が不正を指摘するということを許す矛盾や、不正に気が付いたら誰でも正々堂々と指摘できるというルールが社内に必要なのです。そのルールは全従業員に公表され、理解されている必要があります。従業員が矛盾や不正を届け出る組織(例えば、不正防止委員会)も必要かもしれません。

従業員の一人が上司の不正を見て、それを指摘した場合、それが単に個人的な中傷なのかどうか、あるいは一社員として建設的な意見を述べているのかどうかを判断する必要があります。

そして、その指摘したことが建設的な提言であるならば、受け入れるべきなのです。

会社の中に誰でも不正を指摘できる雰囲気を作ること。非難中傷に留まるような発言はさせないこと。建設的な観点からの意見であれば、上司もそれに対して聞く耳を持つこと。

(いや)しい人間を育てるようなことがあってはならない

公私のけじめを大切にする

プライベートなことを職場に持ち込んだり、仕事上の立場を利用して接待を受けることはしてはならない。勤務時間中の使用電話の受発信を禁止したり、仕入先からの贈り物を個人のものとしない。皆で分け合うようにすることが大事なのです。公私混同はモラルの低下を引き起こし、会社全体を従業員が勝手に食い物にしてしまうのです。

会社では、全従業員が有意注意で仕事に励んでいるのです。プライベートなことで、こうした有意注意の真剣な仕事を中座させたり、邪魔をしてはならないのです。仕事中に家族からの電話が入り、仕事を中断して電話に出るようなことがあってはなりません。

会社で大口の発注を担当する従業員が、注文欲しさの為何とか取り入ろうとする仕入先から盆暮れの贈り物を受け取るようなことが多々あります。千円の贈り物が段々とエスカレートして高価な贈り物になり、受け取る本人はそれを当たり前として習い性として身につけるようになります。こうして会社の中に卑しい人間が育ってしまうのです。

私共の会社では、贈り物をいただいた時は有難くいただくのですが、それを従業員全員に分けるようにしていると同時に、マネージャーがお礼状を送るようにしています。

どんな些細なことであっても、役職を通じて旨い汁を吸おうとする行為は何人たりとも許してはいけません。日頃から小さい不正を黙認していきますと、事はどんどん大きくなり、罪を深くしてしまい、卑しい人間を作ってしまいます。罪を作らせないように公私混同は厳しく取り締まる必要があるのです。

社用車の使用にもけじめが必要

社用車と言うものは、役員だから運転手付きの車を用意しているのではありません。この人はこの会社にとって重要な人で、出退時であろうと仕事のことを考えてもらう為に車を出しているのです。役員ともなれば、四六時中有意注意で真剣に物事を考えなければならない。その通勤時にも仕事のことを考えることができるようにする為、社用車はあります。

部下が自分の社用車を緊急に必要とするならば、喜んで自分の社用車を部下に使わせることの出来る役員でありたいものです。

中小企業のオーナーの場合、自分が100%会社を所有している為、仕事と個人の区別がつかなくなっていることがあります。会社と住居が同じ建物であったり、奥さんが従業員の食事を作る、一緒に働くような場合がそうです。こうした場合、社用車を個人の為に使ってしまうことがあります。

しかし、会社が大きくなってきますと、奥さんが社用車を個人で使用することは許されなくなります。こうしたことは公私のケジメをつけるという大切な考えを曖昧なものにしてしまいます。

潜在意識を活用する

潜在意識にまで透徹する強く持続した願望を持つ

高い目標を達成するには、目的に向かって強く持続した願望を持つことが必要です。

新製品を開発する、お客様から注文をいただく、生産の歩留まりや直行率を向上させるなど、どんな課題であっても “何としてもやり遂げたい” という思いを強烈に描くのです。

強い思いを繰返し繰返し考え抜くことによって、それは潜在意識にまで染み通っていきます。

例えば、 “自分は周囲の人から感謝される人間になりたい” という強い願望を持ち続けるとします。あるお客様からの要望を受け、その要望を満たすように考え抜き、潜在意識に透徹するまで思い続けます。その結果、要望を達成したときには、お客様から感謝されるのです。

製造現場でも、新しく配属した社員は一生懸命手順を憶えようとします。1から10までの作業工程を1つ1つ確認しながら作業工程を進めていきます。これは顕在意識で作業工程を憶えようとしているのです。ところが半年もしますと、新人工員は考えなくても手足が勝手に作業工程を進めていくことが出来るようになるのです。これは潜在意識によって作業工程がスムーズに進むことになっているからです。

私達の経験は知らず知らずのうちに、潜在意識に蓄積されていくのです。潜在意識の容量は、顕在意識の何十倍もの容量があると言われています。

このようにして私達は顕在意識を潜在意識にまで透徹させて、潜在意識が私達に閃きをもたらすように、絶えず寝ても醒めても自分の願望を考え抜き続けることが大切なのです。

潜在意識が閃きを呼び込む

自分の願望を強く意識して覚え込ませるようにする。繰返し繰返し行って潜在意識に浸透させていくのです。この潜在意識が閃きを呼び込み、素晴らしい成果を挙げることができるようになるのです。

発明王エジソンも、1%の閃きと99%の汗によって発明が可能になるといっているそうです。毎日毎日実験を繰り返し、考え続け、その思いが潜在意識に透徹し、ある瞬間ハッと閃きが生まれたそうです。

自分はコンピュータスピードを上げたいのだが、なかなかいい適材の人が見つからず、毎日どこかに適任者がいないかと考えていたとします。

ある日、同窓会が開かれ出席していましたところ、仕事の話になりました。その同窓生の友人がコンピュータの専門家で、現在の会社に不満があり、転職を考えていることが判りました。面接しましたところ、人物としても技術者としても申し分のない人材であると判明しました。

このようにして、潜在意識の中でコンピュータスピードアップを絶えず考えていますと、こうした偶然を生かすことができるのです。

潜在意識にまで透徹する強い願望を持つことは、私達が真剣に繰返し考え続けることさえ心掛ければ可能であり、誰でも強い願望を持つことが出来るのです。

強く持続した願望は実現する

仏教では、 “あなたの周辺に起こることは、全部あなたの心のままなのだ” と説いているそうです。もし、私の会社の経営がうまくいかない時は、私の思いがそうさせているのです。強く持続した思いが実現するということは普遍的な真理なのです。

たとえどんなに苦しい状況に合っても、自分の人生や会社の将来を悲観的に見てはならないのです。今は辛くて苦しいけれども、私の人生は明るく開けていくはずだと、私の会社はうまくいくのだと信じるべきなのです。

中村天風先生の言葉 “新しき計画の成就は、ただ不屈不撓(ふくつふとう)の一身にあり。さらばひたむきにただ想え、気高く、強く、一筋に” どんな艱難辛苦(かんなんしんく)が待ち受けようともくじけず、岩をも通すような一念でやり遂げてみせる。そのように力強く想い続けることが成功の鉤(かぎ)なのです。